最果タヒ『愛の縫い目はここ』(リトルモア、2017年08月08日発行)
最果タヒ『愛の縫い目はここ』を読みながら「肉体」について考える。最果のことばから感じる「肉体」は、「肉体」という具体的な形よりも、「肉体」になる前の「いのち」のように感じられる。何にでも変わることのできる「いのち」、いま身近にあることばでいえば「iPS細胞」か。
たとえば「ビニール傘の詩」
「命のひとかけら」とは「細胞」と言い換えることができるだろう。その細胞をさらにどう言いなおすかというと、最果は「建物」「合戦(の気配)」「開拓(の気配)」「ニホンオオカミ」「緑」につながっているものととらえている。「生まれるまえ」とは、最果が最果になるまえのこと。他のものにもなる可能性はあったのだ。そういうものを感じている。他のものになりうる可能性--ここから私は「iPS細胞」を比喩として感じる。
「生まれるまえ」、何にでもなりうるなら。
「生まれたあと」、やはり何かのタイミング(突然変異?)で、何にでもなることがだできるだろう。
「何になるか」というのは重要な問題だろうけれど、最果は「何になるか」は書かない。「未来」というか、「目標」を書かない。逆に「過去」を書く。「私はこうであったかもしれない」と「生まれるまえ」の「いのち」を肯定する。そうすることで「未来」を全方向に解放する。「いのち」というもの、「生きるということ」そのものになる。
でも、こういうことは「論理」として語ってしまうと「論理的」になりすぎて、実はおもしろくない。
最果の詩は、私が要約したように「整合性」が取れていない。
と、私は感じる。
そこに、私の「つまずき」がある。読んでいて、つまずく部分がある。そのことをこれから書く。(ここから書き始めて、前に書いた部分につなげると、ふつうの批評のスタイルになると思うのだが、あえて逆の書き方をしてみる。)
雨のなかを歩いている二人。川が流れている。そういう「情景」の描写である。「恋とは呼べない(関係)」は「気配」と言いなおされる。「気配」とははっきりしないが、なんとなく感じられるものである。それは「遠く」とさらに言いなおされる。
「気配」は何かが(存在が)「隣(近く)」にあるとき感じるのではなく、直につかみとれないときに感じるものである。ただし、その「遠く」にあるものは、なぜか「直接」触れてくる感じもする。感じなければ「気配」は存在しない。そういう「矛盾」が「気配」である。
このあいまいな、しかし直接的な「予感」のようなものは、「恋」をより強く意識させる。
ここまでは、私は私のなじんできた「文学の文法」で読むことができる。
しかし、
この一行は、私の「文学文法」からは非常に遠い。「文学文法」を破壊する。否定する。言い換えると、ことばが「情景」ではなくなる。「描写」ではなくなる。
感情の説明、精神の説明、「むき出しの説明」と、私は感じてしまう。「主張」と言ってもいい。
詩に限らず、あらゆる芸術は感情や精神を語るものだが、むき出しのままさらけだしては「読者」とのあいだに「あつれき」を起こす、あるいは「拒絶されてしまう」ので、それを別の何かに置き換えてつたえるのが文学、芸術である。
恋になるのかならないのか、わからない不安な状態。それをたとえば雨のなかを歩くふたり、透明な(?)ビニール傘の「空間」で体を寄せる二人、という具合に。
私は最初の三行を、まあ、そう読んだわけである。
このとき「私(最果)」が何かを思う。感じる。その思い、感じは、やはり「情景」として説明されるのが、私の身につけいてる「文学文法」である。
という一行は、そういう私の「先入観」をたたき壊す。
そして、一気に「内面」を「情景描写」とは違った形で展開する。
「心地」と「命のひとかけら」と言いなおされていると思う。「こころ」というのは「命のひとかけら」。言い換えると「命の細胞」。「細胞」とは「肉体」のことでもある。「心」と「肉体」が入れ替わる。というか、混同する。あるいは融合すると言った方がいいのか。
つまり、「ここ数年でいちばん、心地いい時間。」とは「心」の状態というよりも、
ということになる。この「肉体の調子がいい」というのは、何でもできる、ということ。言い換えると何にでもなれるということ。
建物になって、雨からひとを守る。合戦という「こと(事件)」になってしまう、「開拓」するという「こと」、誰かと合戦するときの強い肉体、未開の土地を開拓するときの頼もしい肉体、ニホンオオカミ、黒々と繁る巨大な森。
それは「人間」の枠を超える。「命」はいつでも「人間」だけにとらわれない。世界は「命」に満ちていて、そのどれにでもなりうる可能性がある、と感じるくらいに「肉体」に可能性が満ちてくる。そう感じる。
「命」の「過去(歴史)」が、そのまま「未来」として噴出する。そういう果てしないエネルギーを実感する。「心地いい」「肉体の調子がいい」。
それは、
ということである。
「何にでもなれる(可能性)」は「すべて」と言いなおされている。それは「私の知らないもの」のことである。「知っている」ものは「すべて」ではない。「知らないもの」を「知らないまま」、直に「見ている」。「肉眼」でとらえている。「知らないもの」が見えるくらいに「肉体の調子」がいい。「心(眼)」が生きている。
で。
ここでも、私は「論理」的に書きすぎているかもしれない。
そういうことを感じながらも、私は最果のことばの「文法」にどこかとまどっている。
「はずだった」は「過去形」。
うーん、どうして「過去形」なのかなあ。「現在形」として私は読みたい。
「私が生まれるまえ」からつづく行は「過去」の思い出ではなく、「いま」の可能性として書かれていると思った方が、私にはリアル。
もちろん最果文法にしたがって説明しなおすことはできる。「誤読」することができる。
「はずだった」と「過去形」で書くのは、最果が「いま/ここ」で生きているからだ。「ここにいた」は「いま/ここにいる」ということである。それを肉体で実感するからである。
「命の根源細胞」は何にでもなれる。過去から何でも噴出させることができる。それがわかっていて、なおかつ、過去を噴出させずに「いま」から手さぐりで生きる。その思いが「はずだった」にこめられている。
「命の根源細胞」が何に変わるか。何でにも変われる。それを承知で、
という「世界」へ飛び込む。
ここに出てくる「わからない」は、とても美しく、強い。「わからない」ということを「わかっている」。それは「肉体」の「命の根源細胞」が「覚えている」何かである。
最果は、「情景」へ戻ってくる。
最初の三行は「起承転結」の「起」、次の三行は「承」というよりも「転」、その次の三行は「転Ⅱ」というか、「転」を「起」ととらえなおした「承」になるだろう。そして一行の空白をはさむ三行
が「結」。
「命の根源細胞」は何にでもなれる。しかし最果は「人類(人間)」を選んで生きる。二人で生きる。それが「ここから」はじまる。
*
昨日、一昨日に読んだちんすこうりな『女の子のためのセックス』に登場する「肉体」と最果の詩の「肉体」はどう違うかということを書こうと思っていたのだが、書いている内に気分が変わってしまった。
ちんすこうの「肉体」はヒエラルキーを前提としている。最果はヒエラルキーなど知らないところで書いている。(熟知していて、それを拒絶しているのかもしれない。)彼女自身の「肉体」の真実をさぐろうとしている。そのため最果のことばを読む手がかり(参考書)はどこにもない。既成の概念に頼ると、そのたびに既成の方法が否定される。私は古い人間だから、どうしても既成の「文学」に寄りかかりながら、ただ最果のことばと向き合う。向き合いながらどきどきする。私が壊される瞬間、あ、何かが私の肉体のなかから生まれようとしていると感じる。生まれようとしているものを、私のことばは、まだどう書けばいいのかわからないのだが。
最果タヒ『愛の縫い目はここ』を読みながら「肉体」について考える。最果のことばから感じる「肉体」は、「肉体」という具体的な形よりも、「肉体」になる前の「いのち」のように感じられる。何にでも変わることのできる「いのち」、いま身近にあることばでいえば「iPS細胞」か。
たとえば「ビニール傘の詩」
恋とは呼べない関係が、川とともに流れている。
私たちの気配を潰していくように雨が降り、
まるであなたが遠くにいるように思える。
ここ数年でいちばん、心地いい時間。
私の命のひとかけらは、きっと未来にゆかずに、
ひたすら過去へと遡っているはずだった。
私が生まれるまえ、あの建物ができるまえ、合戦の気配、開拓の気配、
走り抜けるニホンオオカミと、黒くなるほど生い茂った緑。
私の瞳は私の知らないものを、すべて見て、ここにいた。
雨音が何を言っているのかわからないのは、
私たちが愚かなのではなく、二人だからだ。
ここからは、人類の時代です。
「命のひとかけら」とは「細胞」と言い換えることができるだろう。その細胞をさらにどう言いなおすかというと、最果は「建物」「合戦(の気配)」「開拓(の気配)」「ニホンオオカミ」「緑」につながっているものととらえている。「生まれるまえ」とは、最果が最果になるまえのこと。他のものにもなる可能性はあったのだ。そういうものを感じている。他のものになりうる可能性--ここから私は「iPS細胞」を比喩として感じる。
「生まれるまえ」、何にでもなりうるなら。
「生まれたあと」、やはり何かのタイミング(突然変異?)で、何にでもなることがだできるだろう。
「何になるか」というのは重要な問題だろうけれど、最果は「何になるか」は書かない。「未来」というか、「目標」を書かない。逆に「過去」を書く。「私はこうであったかもしれない」と「生まれるまえ」の「いのち」を肯定する。そうすることで「未来」を全方向に解放する。「いのち」というもの、「生きるということ」そのものになる。
でも、こういうことは「論理」として語ってしまうと「論理的」になりすぎて、実はおもしろくない。
最果の詩は、私が要約したように「整合性」が取れていない。
と、私は感じる。
そこに、私の「つまずき」がある。読んでいて、つまずく部分がある。そのことをこれから書く。(ここから書き始めて、前に書いた部分につなげると、ふつうの批評のスタイルになると思うのだが、あえて逆の書き方をしてみる。)
恋とは呼べない関係が、川とともに流れている。
私たちの気配を潰していくように雨が降り、
まるであなたが遠くにいるように思える。
雨のなかを歩いている二人。川が流れている。そういう「情景」の描写である。「恋とは呼べない(関係)」は「気配」と言いなおされる。「気配」とははっきりしないが、なんとなく感じられるものである。それは「遠く」とさらに言いなおされる。
「気配」は何かが(存在が)「隣(近く)」にあるとき感じるのではなく、直につかみとれないときに感じるものである。ただし、その「遠く」にあるものは、なぜか「直接」触れてくる感じもする。感じなければ「気配」は存在しない。そういう「矛盾」が「気配」である。
このあいまいな、しかし直接的な「予感」のようなものは、「恋」をより強く意識させる。
ここまでは、私は私のなじんできた「文学の文法」で読むことができる。
しかし、
ここ数年でいちばん、心地いい時間。
この一行は、私の「文学文法」からは非常に遠い。「文学文法」を破壊する。否定する。言い換えると、ことばが「情景」ではなくなる。「描写」ではなくなる。
感情の説明、精神の説明、「むき出しの説明」と、私は感じてしまう。「主張」と言ってもいい。
詩に限らず、あらゆる芸術は感情や精神を語るものだが、むき出しのままさらけだしては「読者」とのあいだに「あつれき」を起こす、あるいは「拒絶されてしまう」ので、それを別の何かに置き換えてつたえるのが文学、芸術である。
恋になるのかならないのか、わからない不安な状態。それをたとえば雨のなかを歩くふたり、透明な(?)ビニール傘の「空間」で体を寄せる二人、という具合に。
私は最初の三行を、まあ、そう読んだわけである。
このとき「私(最果)」が何かを思う。感じる。その思い、感じは、やはり「情景」として説明されるのが、私の身につけいてる「文学文法」である。
ここ数年でいちばん、心地いい時間。
という一行は、そういう私の「先入観」をたたき壊す。
そして、一気に「内面」を「情景描写」とは違った形で展開する。
私の命のひとかけらは、きっと未来にゆかずに、
ひたすら過去へと遡っているはずだった。
「心地」と「命のひとかけら」と言いなおされていると思う。「こころ」というのは「命のひとかけら」。言い換えると「命の細胞」。「細胞」とは「肉体」のことでもある。「心」と「肉体」が入れ替わる。というか、混同する。あるいは融合すると言った方がいいのか。
つまり、「ここ数年でいちばん、心地いい時間。」とは「心」の状態というよりも、
ここ数年でいちばん、「肉体の調子」がいい時間。
ということになる。この「肉体の調子がいい」というのは、何でもできる、ということ。言い換えると何にでもなれるということ。
建物になって、雨からひとを守る。合戦という「こと(事件)」になってしまう、「開拓」するという「こと」、誰かと合戦するときの強い肉体、未開の土地を開拓するときの頼もしい肉体、ニホンオオカミ、黒々と繁る巨大な森。
それは「人間」の枠を超える。「命」はいつでも「人間」だけにとらわれない。世界は「命」に満ちていて、そのどれにでもなりうる可能性がある、と感じるくらいに「肉体」に可能性が満ちてくる。そう感じる。
「命」の「過去(歴史)」が、そのまま「未来」として噴出する。そういう果てしないエネルギーを実感する。「心地いい」「肉体の調子がいい」。
それは、
私の瞳は私の知らないものを、すべて見て、ここにいた。
ということである。
「何にでもなれる(可能性)」は「すべて」と言いなおされている。それは「私の知らないもの」のことである。「知っている」ものは「すべて」ではない。「知らないもの」を「知らないまま」、直に「見ている」。「肉眼」でとらえている。「知らないもの」が見えるくらいに「肉体の調子」がいい。「心(眼)」が生きている。
で。
ここでも、私は「論理」的に書きすぎているかもしれない。
そういうことを感じながらも、私は最果のことばの「文法」にどこかとまどっている。
私の命のひとかけらは、きっと未来にゆかずに、
ひたすら過去へと遡っているはずだった。
「はずだった」は「過去形」。
うーん、どうして「過去形」なのかなあ。「現在形」として私は読みたい。
「私が生まれるまえ」からつづく行は「過去」の思い出ではなく、「いま」の可能性として書かれていると思った方が、私にはリアル。
もちろん最果文法にしたがって説明しなおすことはできる。「誤読」することができる。
私の瞳は私の知らないものを、すべて見て、ここにいた。
雨音が何を言っているのかわからないのは、
私たちが愚かなのではなく、二人だからだ。
「はずだった」と「過去形」で書くのは、最果が「いま/ここ」で生きているからだ。「ここにいた」は「いま/ここにいる」ということである。それを肉体で実感するからである。
「命の根源細胞」は何にでもなれる。過去から何でも噴出させることができる。それがわかっていて、なおかつ、過去を噴出させずに「いま」から手さぐりで生きる。その思いが「はずだった」にこめられている。
「命の根源細胞」が何に変わるか。何でにも変われる。それを承知で、
わからない
という「世界」へ飛び込む。
雨音が何を言っているのかわからないのは、
私たちが愚かなのではなく、二人だからだ。
ここに出てくる「わからない」は、とても美しく、強い。「わからない」ということを「わかっている」。それは「肉体」の「命の根源細胞」が「覚えている」何かである。
最果は、「情景」へ戻ってくる。
最初の三行は「起承転結」の「起」、次の三行は「承」というよりも「転」、その次の三行は「転Ⅱ」というか、「転」を「起」ととらえなおした「承」になるだろう。そして一行の空白をはさむ三行
雨音が何を言っているのかわからないのは、
私たちが愚かなのではなく、二人だからだ。
ここからは、人類の時代です。
が「結」。
「命の根源細胞」は何にでもなれる。しかし最果は「人類(人間)」を選んで生きる。二人で生きる。それが「ここから」はじまる。
*
昨日、一昨日に読んだちんすこうりな『女の子のためのセックス』に登場する「肉体」と最果の詩の「肉体」はどう違うかということを書こうと思っていたのだが、書いている内に気分が変わってしまった。
ちんすこうの「肉体」はヒエラルキーを前提としている。最果はヒエラルキーなど知らないところで書いている。(熟知していて、それを拒絶しているのかもしれない。)彼女自身の「肉体」の真実をさぐろうとしている。そのため最果のことばを読む手がかり(参考書)はどこにもない。既成の概念に頼ると、そのたびに既成の方法が否定される。私は古い人間だから、どうしても既成の「文学」に寄りかかりながら、ただ最果のことばと向き合う。向き合いながらどきどきする。私が壊される瞬間、あ、何かが私の肉体のなかから生まれようとしていると感じる。生まれようとしているものを、私のことばは、まだどう書けばいいのかわからないのだが。
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