詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井貞和『美しい小弓を持って』(13)

2017-08-25 11:31:30 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(13)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「戦後の歴史」は、こう始まる。

私たちは 皆、(とアーサーが言う。)
第五福竜丸に乗っている、と。

 「第五福竜丸」はビキニ環礁の水爆実験で被爆した。いま、私たちは(地球は)、福竜丸に乗っている状況とかわりがない。世界に存在する核兵器の数を思うと、誰もが被爆する危険を生きていることになる。
 「アーサー」というのが誰のことなのかわからないが、私は最初の二行をそう読んだ。そして、これから「戦後」のことが書かれるのだ、と思った。
 ところが、一行空いて、二連目は、こうである。

そこにある花の村が季節に美しい瓣をひらく。

 福竜丸(水爆実験、被爆)との関係がわからなくなる。
 しかも、「花の村が」「美しい瓣をひらく」ということばの動きが、ふつうとは違う。「村の花が」「美しい瓣をひらく」ではない。一瞬、混乱する。けれどもすぐに村にある花が全部開いた。村中が花でおわれている「美しい」風景が目に浮かぶ。「村の花が」「美しい瓣をひらく」よりも、劇的である。「村が花になって」その花が「美しい瓣をひらく」。
 ここには全体と個別の混同というか、全体が個を支配するのではなく、個が逆に全体を支配する(代弁する)という不思議な力がある。全体と個の逆転がある。そしてそこには「なる」という動詞が省略されている。
 ここから最初の二行へもどってみる。
 福竜丸は地球に比べると小さな船である。皆が福竜丸に乗っているわけではない。人間は地球の各地に散らばっている。福竜丸が一輪の花だとすれば、村は地球。地球が村だとすれば、福竜丸は一輪の花。けれど、その花は地球全体を象徴する。その花の動きは、地球全体に広がる。
 小さな船で起きたこと。それは地球規模で起きることである。
 そういう風に読むことができるだろう。
 三連目。

標的の紫が隠される、普通の船の普通の声がする。
あじさいと言いましたね、咲いていたのは。
宗教学者が答える。 三月の季語と、
六月の季語とを向き合わせる。

 ここに書いてあるのは、どういうことだろう。何を「象徴」しているのだろうか。よくわからない。
 「標的の紫」とは、水爆実験の「標的」のことだろうか。「普通の船」は福竜丸を思わせる。「普通の声」とは福竜丸に乗っている普通の乗組員の声である。何も知らないで仕事をしている。
 「紫陽花」は標的の「紫」に通じる。「紫」と聞いて、さらに「花」と聞いて、普通の人なら「紫陽花」を想像するということだろうか。「紫」に隠されている「事実」を私は知らない。標的が紫だったのか、水爆実験のときの「光」が紫に見えたのか。
 水爆実験がおこなわれたのは三月。紫陽花は六月(雨の季節)に咲く。ここに微妙な「ずれ」があるのだが、その「ずれ」は、「そこにある花の村が季節に美しい瓣をひらく。」という行のかかえる主語の入れ替わりに似た「ずれ」かもしれない。何かが、いれかわる。いれかわることで、世界の姿が一変する。

 こういうことは、詩の世界の「事件」である。ことばが「文法」を超えて、奇妙に錯乱する。論理が破壊され、乱れる瞬間に、「文法」ではとらえられない何かが噴出してくる。
 ということと関係があるのかないのか、よくわからないが、ここから藤井は突然「文学」について語り始める。

光らせる俳人のおもて、一語の俳句で。
きみとともに生きている白いバリウム。 四千の霧をへだてて、
白い花園はのこっているか。

自然よ つく(=滅亡)すな。 定型の歌姫 かりそめに去りゆく。
古代の人の復活するその懐に永世の眠りを誘う詩人の習性、
としての命脈、さいごの祈り。

からく言語の語る時の間の安らぎに還る、
荒地のひとの普通の詩人。 荒地の墓の白いバライト。
氷島のひとの普通の詩人。 蒼い猫の首輪のチップ、江ノ島で。

 俳句、定型の歌(姫)を経て、古代の文学が戦後詩(「荒地」の詩)に引き継がれていく。「氷島」と「猫」の朔太郎もそのなかにまぎれ込む。
 そのことを思うと、タイトルの「戦後の歴史」は「戦後詩(現代詩)の歴史」と読むこともできる。「詩」が省略されているが、詩の歴史を藤井は書いている。「戦後詩(現代詩)」であっても、そこで動いていることばは「戦後」だけを舞台に動いているわけではない。ことばのいのちは古代の定型詩(和歌)とも俳句とも朔太郎の詩ともつながっている。(このあと、詩には西脇順三郎も登場する。) 
 で。
 ことばは、激しく時間と場所を飛び越えて動くので、「意味(ストーリー)」を追うことが私にはできないのだが、気になるのが「普通」ということばの繰り返しである。
 「普通」ということばで藤井は何を言いたいのか。
 一方に「特別」な何かがある。朔太郎は「特別な人」かもしれない。けれど、その「特別な人」にも「普通」はある。「普通」と「特別」が「花の村が季節に美しい瓣をひらく」というような乱れ方でつながっている(ひとつになっている)からこそ、人はそのことばを通ることで「普通」以外のことを体験する。あ、これこそが自分の体験したことと錯覚する。
 「読者」にとっての「戦後詩の歴史」というものも、「普通」ということばで象徴しようとしているのかもしれない。

 まあ、これは、私が勝手に「誤読」したことである。
 わけのわからないまま、瞬間瞬間に感じたことである。

 詩の最後は、こう閉じられる。

二千年が経過する、眠る龍の船名を刻印する、
先住するひとびとの記録、どこに。 しゅんこつ丸の、
ゆくえもまた知らない。

 「ことば」は何事かを記録する。詩もまた、その時代の「記録」だろう。その「記録」はどう読まれるか。わからない。わからないけれど、「書く」。
 この「書く」という動詞を、「なる」という動詞で言いなおすとどうなるか。ことばを「書く」ことは「詩人になる」ことである。
 そう読むとき、藤井がことばを書かずにいられない理由がわかる。「詩人になる」ために「ことばを書く」。「いま」と「過去」と「未来」を結びつけ、また切り離すために書く。「ことばの歴史」を書く。ことばの歴史に「なる」。

美しい小弓を持って
クリエーター情報なし
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする