詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

添田馨『非=戦(非族)』

2017-08-10 11:01:25 | 詩集
添田馨『非=戦(非族)』(響文社、2017年07月20日発行)

 添田馨『非=戦(非族)』の帯にこう書いてある。

「非族」とは誰か?
「非=戦」とはいかなる戦いなのか?
歴史の闇に葬られた幾多の〈声〉が、
いま言葉の殻をつき破り
一千行の奔流となって溢れ出る……。

 うーん、かっこいいなあ。
 昨日読んだ青木の詩が「母親になること(母親として生まれなおすこと)」の書き直しならば、添田の詩集は「戦争を企む為政者と戦争を拒む市民の戦い」を書き直したものだろう。
 で。
 「書き直し方」なのだが、青木は多くの母が語ってきたことを、ちょっと力みのあることばで語っていた。日常会話ではつかわないが(お母さん同士が語るときにはつかわないが)、かといってまったく知らないことばかというとそうではない。ちょっと「背伸び」したときに読む本や何かに書いてある。文章に「整えられた」ことば。そういうものがまじってきている。
 添田の場合は、詩集のタイトルからわかるように、誰もつかわないことばで語り直している。

「非族」とは誰か?
「非=戦」とはいかなる戦いなのか?

 これは辞書を引いてもわからない。詩集を読んではじめてわかることばである。添田のオリジナル語、「添田語」である。
 詩のことばは、それが「日本語」で書かれていても、「外国語」として読んだ方が読みやすい。自分の知っていることばを捨てて、そこに書かれていることばがどう動いているかからつかみ直した方がわかりやすい。自分の知っていることばを頼りに読むと、混乱するばかりである。「外国語」なら、あ、こういうときはこういうのか、と思える。
 とはいうものの、なかなか、簡単にはゆかない。
 私は「外国語」を読むときは「動詞」を基本にして(出発点にして)読む。人間が動くときの「肉体」を手がかりにして読む。そうすると、そこに書かれていることを、自分の「肉体」に重ね合わせてつかみ直すことができる。
 そのとき、「名詞」「形容詞」も「動詞」に言いなおすようにしている。「名詞」には「動詞」派生のことばがある。「形容詞」は日本語では「用言」。活用する。つまり「動き」を含んでいるから、その動き(変化)に注目するのである。

 ちょっと添田の詩について、そういうことをやってみる。
 『非=戦(非族)』の「非」は「否定」をあらわす。「非常」は「常ではない(常にあらず)」という具合。「名詞」の上につくことが多いと思う。「動詞」の上についたものをすぐに思い浮かべることはできないが、たぶん同じように「動詞」を否定することになると思う。
 「非=戦」という表記は、どう読んでいいのか、わからない。「=」は「=」なのか、外国人の名前を片仮名表記するときにときどきつかわれる記号のように、強い結びつきをあらわすもの(切り離せないもの)をあらわしているのか、わからない。
 「=」を省略して「非戦」と読むと、「戦い」を否定している。「戦い」は「戦う」という「動詞」に通じるから「戦うことを否定している」ということになる。「戦いにあらず」と読むこともできるかもしれないが、私は「戦いを否定する、拒否する」という具合に「動詞」化して理解した。
 詩集には英語の「ルビ」がふってあって、それは「Non-War(Non-Natives)」とある。「Non-War」に影響されて、そう思うのである。「War」は名詞なら「戦い」だが、動詞なら「戦う」である。「non」は英語では動詞にはつけないかもしれないけれど。動詞につけるなら「not」かもしれないけれど。
 厳密に考えるとむずかしいが、私は「だいたい」のところで考える。「意味領域」を広げながら「てきとう」に考える。
 「非族」の「非」も同じく「否定(ない、あらず)」だろう。「族」はなんだろう。「家族」ということばがいちばん身近だが、「家族」とは「血のつながり」。むりやり(?)動詞化してみると、「つながる」ということばになるかもしれない。何かがつながるとき「族」になる。「部族」「民族」というのも「血のつながり」の「集団」ということになる。「つながって」「あつまる」、「集団になる」を「族」というのかもしれない。
 英語の「Native」はネイティブスピーカーのネイティブだろう。「生まれてついの」くらいの意味か。(私は辞書で確かめたわけではないので、間違っているかもしれない。)「生まれついて」には「生まれる」という動詞があり、生まれるは「血のつながり」も意味するだろう。英語のルビを参照すると、「族」はますます「つながり」を意味領域としてもっていことが推測できる。
 そこから翻って、では、「非族」とはなにか。「つながりにあらず」「つながりの否定」「つながることを拒む」。

 うーん、なんだろう。うまく、ことばがつながらない。

 「非族」だけではなく「戦(非族)」という「説明」を含んだ表記を手がかりに考え直した方がいいのかもしれない。
 「戦い」は「戦争」。「戦争」というのは「つながり」をもった「集団(たとえば、ある国民)」が別の「集団(族)」と戦うこと。このとき「集団」は「一致団結」するのが望ましいが、現実は必ずしもそうではないだろう。「族(集団)」の行動(動詞)に叛く人間も出てくる。たとえば「戦争」のとき「戦争反対」と叫ぶ人。「非国民」と呼ばれたりする。
 「非国民」「非」と「非族」の「非」はつながっているのではないか。「戦争のとき、戦争を拒んでいるひと」、それを「非族」と添田は呼んでいるのかもしれない。
 そういうひとは「戦い」のなかに「含まれている」。添田が( )でくくっているのは、「戦」の「内部」のありかたとして表現するために、そうしたのかもしれない。

 戦争のとき「非国民」であること。戦わないこと、「非戦」の行動をすること。「非戦」を「動詞」として生きること。「戦い」と「つながらず」に生きること。
 「非族」と定義されたひとは、そのまま「非戦」を生きることになる。
 「戦争」をまんなかに挟んで、「戦争を否定する」ということが、戦争をする主体の内部においても動く。それが動くとき「戦争」はつまずく。「戦争」になりえない。あるいは「戦争をする主体」のなかから「戦うという動詞になることを拒んだ人」があらわれ、主体の外に溢れ出るとき、「戦争」は成り立たない。

 「非=戦(非族)」の冒頭の「非」は「非族(非国民)」と結びつき、「戦」を封じ込める力になる。「非戦」と明記せず「非=戦」と書き、そのあとで「戦」を「戦(非族)」と添田は書いているのだ。
 そう読むと「=」は「イコール」をあらわしているのではないことがわかる。「非戦」を強調するために、あえて書き加えたものだとわかる。「つながり」を強調している。これをあえて「イコール(=)」ととらえ、強引に因数分解(?)すれば、「非戦=非族」なのだ。戦争に反対するために、非国民であろうと勧めている。非国民の歴史を浮かび上がらせ、そこに可能性を見いだそうとしている。
 この複雑にねじれた書き方は「力業(ちからわざ)」としか言いようがないが、その「力」がこの詩集を動かしている。

 こんな抽象的なことは詩集の感想にならないかもしれない。もっと具体的に、そこに書かれていることば(行)を取り上げ、ことばの動きを追わないといけないのかもしれないのだが。
 私には知らないことばが多すぎて、感想を書けない。
 政治の歴史も、私はほとんど知らない。いくつも「註釈」がついているが、それは「情報」にはなりえても、私の「実感」にはならない。
 私のぼんやりした把握では、添田は「非国民」と「つながる」ことをとおして、「戦争」に対して「非」を訴えている。「非」を生きた「個人」と「つながる」ことで「非戦族」というものを明らかにしようとしている。


非=戦(非族) 詩集
クリエーター情報なし
響文社
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