詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

エドガー・ライト監督「ベイビー・ドライバー」(★★)

2017-08-24 10:03:16 | 映画
監督 エドガー・ライト 出演 アンセル・エルゴート、リリー・ジェームズ、ケビン・スペイシー、ジェイミー・フォックス

 オープニングは非常におもしろい。音楽と映像が一体になっている。音楽はイヤホンでアンセル・エルゴートが聞いているものなので、現実には聞こえないはずなのだが、それを観客も聴く。そうすると、観客の「耳」というか、「頭」というか、「肉体」が、そのままアンセル・エルゴートになった感じ。「のり」に感染してしまう。車は、もう車ではなく、走るアンセル・エルゴートの「肉体」。
 音楽がアンセル・エルゴートの「肉体」そのものをかえてしまうのは、車を降りて街を歩くシーンでも再現される。コーヒーを買い、秘密のオフィスにもどるだけなんだけれど、なかなか楽しい。
 私は、この映画でつかわれている音楽にはなじみがないのだが、つかわれている曲を知っている人はもっと楽しいと思う。「のり」に酔ってしまうかもしれない。
 最初のエピソード部分は、★10個のすばらしさ。
 でも、
 まあ、映画の「お約束ごと」なんだろうけれど、ボーイ・ミーツ・ガールの部分から、面白みがなくなる。リリー・ジェームズの好んでいる歌は、車を暴走させる音楽にはふさわしくない。まあ、母親を思い出す、ということで、そういう音楽がつかわれている。「意味」はあるのだが、その「意味」がわざとらしく、重苦しい。
 それを無視してしまえば。
 アンセル・エルゴートと里親(?)の黒人との関係がおもしろい。「耳鳴り」で苦しんでいて、音楽で耳鳴りを消している。ことばは「唇」で読む、ということと里親が口が聞けない、手話で会話するというような部分が、不思議に、映画全体をしっかりと支えている。細部が生きている。「情報」が「情報」でおわらずに、ストーリーとなって動いているところがいい。
 アンセル・エルゴートが録音した「音(声)」をもとに音楽をつくっていくところもいいなあ。ケビン・スペイシーの声が、私はわりと好きである。一度ネットで歌っているのを見たことがあるが、話している声の方が音楽的。その声をミキシングして音楽にする。最後のタイトルバックでも、ケビン・スペイシーの声が聞こえたとも思うが。
 ケビン・スペイシーついでにいうと。
 「ユージュアル・サスペクツ」のころの初々しさ(?)は消えて、すっかり太って、でぶに拍車がかかっている。さらに禿がすすんだのか、カツラで懸命にごまかしている。前からだけではなく、頭の後ろ、カツラのつなぎめ(?)をどう処理しているかまで克明にみせているのが、なんともいえずおかしい。 
                 (t-joy 博多スクリーン4、2017年08月23日)

 *

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藤井貞和『美しい小弓を持って』(12)

2017-08-24 08:45:10 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(12)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「のたうつ白馬」「冷却の音」「「この国家よ」と三篇の「回文詩」がつづいている。テーマは東日本大震災、東京電力福島第一原発の事故である。
 「のたうつ白馬」の最初の連。

震源は
震源は
のたうつ白馬

 東日本大震災の「震源」は東京電力福島第一原発ではない。けれど事故が起きてしまうと、東京電力福島第一原発こそが「震源」ではないのか、と思えてくる。もちろん、原子力発電自体が地震を引き起こすわけではない。けれど、原子力発電の仕組みそのものが世界の原子に影響し、それが地殻にも影響する。こういうことは「非科学的」な発想だが、ひとは「非科学的」なことも発想できるし、それをことばにすることもできる。
 原子力発電の発電の仕組み、原子核の分裂というものが、地殻に影響する。発電所の下には「白馬」がいる。事故の起きた場所は「相馬」。その名前の中には「馬」がいる。その「馬」が「白馬」なのだ。白馬が原子力発電の影響で苦しみ、のたうつ。それが「震源」になって地震が起きる。
 いや、そうではなくて、いま東京電力福島第一原発が引き起こした事故が、新しい「震源」になって「白馬」をのたうたせている。その「白馬」は原発の地下にいるのではなく、地上を(地球を)走り回っている。のたうちながら。その「白馬」の苦悩にあわせて、地球規模で地震がおきている。その地震を「感知」しているひとにだけわかる形で。「環境破壊(健康破壊)」という「後遺症の大地震」が始まっている。
 こういう連想(誤読)は、無意味だろうか。
 「意味」の定義からはじめないと、考えたことにならないのだが、「考え」以前の「考え」というものがある。直感のようなものが。そして、直感は「非科学的(非論理的)」だからこそ、何かしら刺激的でもある。
 藤井がはっきりと書いていないことを、勝手に読み取る、「誤読」する。さらに「意味」を拡大して語る。「無意味」かもしれないが、「誤読」することが、ことばの魔力に触れることになるかもしれない。
 最初の連は、最後で、どう変化するか。「回文」にすると、ことばはどうなるか。

爆発 うたの
反原子
半減し

 あ、「のたうつ白馬」は、その苦悩のなかで、原子を「半減」させている。苦悩が「制御棒」のよう働くのかもしれない。ここには、何か、祈りのようなものがある。ことば、その「音」をあれこれ動かしながら(ここでは逆さまに読む)、ことばのなかに潜む別な「ちから(いのち)」を探してきていると読むことができる。
 途中に「うた」ということばが出てくるのは、藤井の、ことばにすることで、ことばが「反原子力」を引き寄せてほしいという祈りがこめられているのかもしれない。
 ことばを語る。読み直す。その繰り返しのなかで、ことばが隠しているものを探り当てる。探り当てたものに自分を懸ける。それが祈りということかもしれない。

 「冷却の音」の最初と最後は、こうなっている。

爆発、うたの発生か、
嘘か、

似れば仮装か、
異説は のたうつ白馬。

 「爆発」と「白馬」、「うた(う)」と「のたうつ」、「発生」と「異説」、「嘘」と「仮装」。部分部分を取り上げると回文にはならないのだが、「単語」のわくを超えて動き、連なる音の組み合わせのなかに(音の交錯のなかに)、ことばを超える「力(いのち)」を感じる。
 「意味」に固定される前の、「声」の力を感じる。そういうものを感じさせてくれる。

 「この国家よ」は、「意味」を探しすぎているかもしれない。最初の部分と最後の部分は、こうなっている。

暗い来歴に
かなしいよ
人災よ
この国家よ
炉の震源は
遠のくより
箴言せよ

原子力の音
反原子の
炉よ
かつ、この
今宵、惨事よ
石中に
きれい、磊落

 「人災」が「惨事」と言い換えられている。ここにポイントがあるのだが、「のたうつ白馬」のように、肉体に生々しく迫ってこない。「意味」が概念になっている。
 私は「のたうつ白馬」のような、むき出しの「いのち」が見えることばの方が「誤読」を突き動かすように感じる。そういうことばの方が好きだ。「人災」「惨事」では「意味」におさまってしまうが、「のたうつ白馬」は「意味」を生み出しながら動く。

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