藤井貞和『美しい小弓を持って』(8)(思潮社、2017年07月31日発行)
「spirited away (神隠す)--回文詩1」は、全文を引用しないと「姿」が見えない。
「回文」ということばがなければ、私は「回文」に気づかなかった。
しかし、ひとは、なぜ「回文」などつくるのだろうか。
(1)文というのは、たぶん「意味」を持っている。「ストーリー」と言い換えててもいいし、「要約」と言ってもいい。つまり、伝えたいことがあって、ひとは「ことば」を発し、ひとつづきの「文」にする。
(2)もし、その「文」が逆さまに読んでも同じ音になるということに何か「意味」はあるのか。
(1)と(2)でともに「意味」ということばをつかったが、これはもちろん微妙に違ったことを指している。(2)の方は「価値」と言い換えることができるかもしれない。けれど「価値」というのなら、(1)にも適用できる。その「意味」をつたえることで、どういうことが起きるのか、「効果」は何か。「効果」というのなら、(2)の「意味」を「効果」と言い換えることもできる。
というようなことを書いていると、何が何だか、わからない。
違う視点から考え直してみる。
私は「回文」というものに関心がない。言い換えると、そういう文を考えることが面倒くさくて、とてもできない。
こんな面倒くさいことをするのは、どうしてだろうか。
「意味」を伝えたいのか。あるいは「意味」を隠したいのか。つまり、ことばにふれて、それをあれこれ読み直すことで、隠している「意味」を伝えたいのか。ただ上っ面を読んでいるだけではわからない何かを隠す。その隠しているものを探しているひとにだけみせる。そのために、こういうことをしているのか。
もし、そうならば。
最初に出会う「意味」とは、何だろう。
一行目から順番に読んでいき、読むことによって動く「意識」がさぐっている「意味(ストーリー)」とは何なのだろうか。
たとえば書き出しのこの三行。何かしら「神話」めいたむき出しの感じがある。何が「来ず」なのか。「神」が来なかったのだろう。「神」が来なかったために、待っているひとは「むなしい」。「神」はなぜ来なかったのか。「いたましく」傷ついていたのかもしれない。そうであるなら、その「傷」は「神」を待っているひとが「神」から与えられた「試練」のようにひとを傷つけるだろう。ひとは「いたましい」という状態になる。そうなることで、「神」そのものにもなる。「神」を待つ(待つことのできる)ひとだけが「神」になる。これはあらゆる「宗教」に通じる考え方であるとおもう。「考え方」は「考え型(パターン)」であり、その「パターン」の凝縮したものが「神話」ということになる。
などと、私はテキトウに「意味」を「捏造」する。つまり「誤読」する。
この二行は「神話」として美しい。「この」が何を指し示すか、そんなことはわからない。わからないけれど「この」ということばで、そこにあるもの(身近にあるもの)をぐいと提示する。その「提示する力」が強いので、それは「新月」「雲」という空(宇宙)にあるものをも呼び寄せる。呼び寄せではなく、自己拡張であるとも言える。つまり「ひと」が「神」になったように、ここでは「この」という自明のこととして指し示す力(ことばの力)が、「ひと」を「新月」や「雲」にまでかえてしまうのだ。
「楚国」は「祖国」であり「ふるさと」でもある。そこでは何か「神」に頼るしかないような「大事件」が起きたのだ。ひとは「大事件」に「神」を感じ取った。「神」はあらわれるときだけ「神」なのではない。絶対にあらわれないときにも「神」なのだ。
「かず知れぬ」とは、そこでの「悲惨(悲劇/いたましさ)」が「かず知れぬ」であろう。「からき」は「辛き」であり、「つらき」であり、「いたましい」でもあるだろう。「音」のなかに、複数の「意味」が押し寄せてくるのを感じる。これも「神話」のなかのことばの宿命のようなものだ。
そういうことを、私は「ストーリー(意味)」として感じ取る。
で。
この一行が「回文」になっている。つまり、ここがこの詩の「ターニングポイント」である。そして、その中心点とでも言うべきものが「泪羅(べきら)」なのだが。
あ、私は、何のことがわからない。
「楚国」というのは中国の古い時代の、ある「国」を指していると思う。中国の歴史は私は全く知らないのでテキトウに書くのだが。「楚国」も「泪羅」も調べればわかることかもしれないが、調べてわかるのは「情報」であり、私の「肉体」とは無関係なので、そういうものに私は頼らない。むしろ「泪羅」という「文字」をとおして知っていることを頼りにする。覚えていることを頼りに、強引に「誤読」する。
「泪」は「涙」。「羅」は「あや」というか「薄い網」のようなもの「弱いもの」だね。それは「いたましい」とか「つらい」に通じる。
何かの「事件」の「象徴」だろうなあ。
そこまで「ストーリー」を展開してきて、後半はどうなるか。一種の「解説(意味づけ)」がおこなわれるのだろう。
何か「大事件」があった。それは「悲劇」であった。何かが「去った」(去ってほしくないものが去った)。けれど、その「大事件」はひとに強烈なものを残した。
この一行を、私は思わず、「ふとく、つよく」と読んでしまう。「屈原」の「屈」は「屈する」。屈しながらも「詩(神話)」を残した。そこには「神」が隠れている。「故国」は死なない。ひとの中で生きている。
という感じ。
書かれているのは「回文」、言い換えると「遊び歌」のようなもの。「意味」はない。けれど「意味」は探し出せる。「回文」は「誤読」できる。
で、「誤読」するとわかるのだが、「誤読」とは、「ことば」を自分で引き受け、そこに「意味」を付け加えていくということなのだ。
藤井(作者)の思いとは関係なしにね。
いわば「誤読」も遊び。
それを承知で、私はテキトウに遊ぶ。
「回文」の詩は、この詩集にもう一篇ある。「翡翠輝石」
同じような読み方を繰り返してもしようがないので、省略する。気づいたことを一つだけ書いておく。
「ターニングポイント」となっているのは
藤井は註釈で(**に知事の名をいれてください。)と書いている。「回文」なのだから「おなが」がそこに入る。
ここで問題なのは(大切なのは)、なぜ、藤井は「翁長」ということばを書かなかったかということ。書いてしまえば、「主張」になる。書かずに「翁長」を読者に探させる。そうして、詩の中に参加するよう誘っているのである。
「翁長」は読者がかってに読み込んだ「誤読」。
「論理(意味)」でことばの運動の中にひとを閉じこめるのではなく、遊びをとおして「ことば」そのものの中に入ってくること、ことばと一体になることを藤井は誘っている。
あ、こんなふうに「意味(結論)」を書くことが、してはいけないことなのだけれど、ついつい書いてしまう。
藤井は「ことば」の「音」のおもしろさ、不思議さと遊んでいるのだと思う、と付け加えてもしようがないかもしれないが、付け加えておこう。藤井の詩を読んで感じる「快感」は、「回文」でも同じである。意味を切断するような読点「、」とことばの飛躍。その短く切断された「音」は明るく、強い響きに満ちている。それが、藤井の詩では一番魅力的なところである。「音」はたぶん「肉体」の「好み」の問題なので、ひとによっては印象が違うだろうけれど。
「spirited away (神隠す)--回文詩1」は、全文を引用しないと「姿」が見えない。
むなしく、
ここに来ず、
いたましく 神か、
かつ、この
新月、雲に舞い、
楚国(そこく)よ、
つと、ふるさとに、
かず知れぬ、
からき泪羅(べきら)か、
濡れ、しずかにと去る、
ふと、つよくこそ、
いまにも屈原(くつげん)、
詩の国家、
神隠し また、
いずこに
故国死なむ。
「回文」ということばがなければ、私は「回文」に気づかなかった。
しかし、ひとは、なぜ「回文」などつくるのだろうか。
(1)文というのは、たぶん「意味」を持っている。「ストーリー」と言い換えててもいいし、「要約」と言ってもいい。つまり、伝えたいことがあって、ひとは「ことば」を発し、ひとつづきの「文」にする。
(2)もし、その「文」が逆さまに読んでも同じ音になるということに何か「意味」はあるのか。
(1)と(2)でともに「意味」ということばをつかったが、これはもちろん微妙に違ったことを指している。(2)の方は「価値」と言い換えることができるかもしれない。けれど「価値」というのなら、(1)にも適用できる。その「意味」をつたえることで、どういうことが起きるのか、「効果」は何か。「効果」というのなら、(2)の「意味」を「効果」と言い換えることもできる。
というようなことを書いていると、何が何だか、わからない。
違う視点から考え直してみる。
私は「回文」というものに関心がない。言い換えると、そういう文を考えることが面倒くさくて、とてもできない。
こんな面倒くさいことをするのは、どうしてだろうか。
「意味」を伝えたいのか。あるいは「意味」を隠したいのか。つまり、ことばにふれて、それをあれこれ読み直すことで、隠している「意味」を伝えたいのか。ただ上っ面を読んでいるだけではわからない何かを隠す。その隠しているものを探しているひとにだけみせる。そのために、こういうことをしているのか。
もし、そうならば。
最初に出会う「意味」とは、何だろう。
一行目から順番に読んでいき、読むことによって動く「意識」がさぐっている「意味(ストーリー)」とは何なのだろうか。
むなしく、
ここに来ず、
いたましく 神か、
たとえば書き出しのこの三行。何かしら「神話」めいたむき出しの感じがある。何が「来ず」なのか。「神」が来なかったのだろう。「神」が来なかったために、待っているひとは「むなしい」。「神」はなぜ来なかったのか。「いたましく」傷ついていたのかもしれない。そうであるなら、その「傷」は「神」を待っているひとが「神」から与えられた「試練」のようにひとを傷つけるだろう。ひとは「いたましい」という状態になる。そうなることで、「神」そのものにもなる。「神」を待つ(待つことのできる)ひとだけが「神」になる。これはあらゆる「宗教」に通じる考え方であるとおもう。「考え方」は「考え型(パターン)」であり、その「パターン」の凝縮したものが「神話」ということになる。
などと、私はテキトウに「意味」を「捏造」する。つまり「誤読」する。
かつ、この
新月、雲に舞い、
この二行は「神話」として美しい。「この」が何を指し示すか、そんなことはわからない。わからないけれど「この」ということばで、そこにあるもの(身近にあるもの)をぐいと提示する。その「提示する力」が強いので、それは「新月」「雲」という空(宇宙)にあるものをも呼び寄せる。呼び寄せではなく、自己拡張であるとも言える。つまり「ひと」が「神」になったように、ここでは「この」という自明のこととして指し示す力(ことばの力)が、「ひと」を「新月」や「雲」にまでかえてしまうのだ。
楚国(そこく)よ、
つと、ふるさとに、
かず知れぬ、
からき泪羅(べきら)か、
「楚国」は「祖国」であり「ふるさと」でもある。そこでは何か「神」に頼るしかないような「大事件」が起きたのだ。ひとは「大事件」に「神」を感じ取った。「神」はあらわれるときだけ「神」なのではない。絶対にあらわれないときにも「神」なのだ。
「かず知れぬ」とは、そこでの「悲惨(悲劇/いたましさ)」が「かず知れぬ」であろう。「からき」は「辛き」であり、「つらき」であり、「いたましい」でもあるだろう。「音」のなかに、複数の「意味」が押し寄せてくるのを感じる。これも「神話」のなかのことばの宿命のようなものだ。
そういうことを、私は「ストーリー(意味)」として感じ取る。
で。
からき泪羅(べきら)か、
この一行が「回文」になっている。つまり、ここがこの詩の「ターニングポイント」である。そして、その中心点とでも言うべきものが「泪羅(べきら)」なのだが。
あ、私は、何のことがわからない。
「楚国」というのは中国の古い時代の、ある「国」を指していると思う。中国の歴史は私は全く知らないのでテキトウに書くのだが。「楚国」も「泪羅」も調べればわかることかもしれないが、調べてわかるのは「情報」であり、私の「肉体」とは無関係なので、そういうものに私は頼らない。むしろ「泪羅」という「文字」をとおして知っていることを頼りにする。覚えていることを頼りに、強引に「誤読」する。
「泪」は「涙」。「羅」は「あや」というか「薄い網」のようなもの「弱いもの」だね。それは「いたましい」とか「つらい」に通じる。
何かの「事件」の「象徴」だろうなあ。
そこまで「ストーリー」を展開してきて、後半はどうなるか。一種の「解説(意味づけ)」がおこなわれるのだろう。
何か「大事件」があった。それは「悲劇」であった。何かが「去った」(去ってほしくないものが去った)。けれど、その「大事件」はひとに強烈なものを残した。
ふと、つよくこそ、
この一行を、私は思わず、「ふとく、つよく」と読んでしまう。「屈原」の「屈」は「屈する」。屈しながらも「詩(神話)」を残した。そこには「神」が隠れている。「故国」は死なない。ひとの中で生きている。
という感じ。
書かれているのは「回文」、言い換えると「遊び歌」のようなもの。「意味」はない。けれど「意味」は探し出せる。「回文」は「誤読」できる。
で、「誤読」するとわかるのだが、「誤読」とは、「ことば」を自分で引き受け、そこに「意味」を付け加えていくということなのだ。
藤井(作者)の思いとは関係なしにね。
いわば「誤読」も遊び。
それを承知で、私はテキトウに遊ぶ。
「回文」の詩は、この詩集にもう一篇ある。「翡翠輝石」
同じような読み方を繰り返してもしようがないので、省略する。気づいたことを一つだけ書いておく。
「ターニングポイント」となっているのは
**知事、自治がなお、
藤井は註釈で(**に知事の名をいれてください。)と書いている。「回文」なのだから「おなが」がそこに入る。
ここで問題なのは(大切なのは)、なぜ、藤井は「翁長」ということばを書かなかったかということ。書いてしまえば、「主張」になる。書かずに「翁長」を読者に探させる。そうして、詩の中に参加するよう誘っているのである。
「翁長」は読者がかってに読み込んだ「誤読」。
「論理(意味)」でことばの運動の中にひとを閉じこめるのではなく、遊びをとおして「ことば」そのものの中に入ってくること、ことばと一体になることを藤井は誘っている。
あ、こんなふうに「意味(結論)」を書くことが、してはいけないことなのだけれど、ついつい書いてしまう。
藤井は「ことば」の「音」のおもしろさ、不思議さと遊んでいるのだと思う、と付け加えてもしようがないかもしれないが、付け加えておこう。藤井の詩を読んで感じる「快感」は、「回文」でも同じである。意味を切断するような読点「、」とことばの飛躍。その短く切断された「音」は明るく、強い響きに満ちている。それが、藤井の詩では一番魅力的なところである。「音」はたぶん「肉体」の「好み」の問題なので、ひとによっては印象が違うだろうけれど。
続・藤井貞和詩集 (現代詩文庫) | |
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