青木由弥子『星を産んだ日』(土曜美術社出版販売、2017年06月30日発行)
青木由弥子『星を産んだ日』の表題作は出産体験を書いたもの。
すでに多くの女性が書いてきたことかもしれない。書かないまでも語ってきただろうと思う。似たような「声」は何度も聞いた気がする。あ、こういうことは聞いたことがない、という一行はない。
でも、それが悪いこととは思わない。
すでに語り尽くされていることだけれど、なんとか自分のことばで言いなおしたい、という強い願いを感じる。その「強い」という感じは、ことばの「力み」になっている。
全部を言わなければ、という「決意」のようなものがある。
ここでも「力み」はあるけれど、「吸い上げられて再びつながる」という「実感」が美しい。「つながる」ということばが甦ってくる感じが、とてもいい。「産む」という動詞が分離をあらわすのに対し、「流れ込んでいく」という動詞で一種の逆転がおき、それが「つながる」を強めている。
「ざわめいていた心が静まり」は、私の感じでは「力み」だが、どうしても書きたかったことばなのだろう。「力み」はあるけれど、「静か」ということばで青木自身の昂りを抑えようとしているように感じる。
三連目では「力み」は完全に消えている。赤ん坊を抱くのに力んでいたら、赤ん坊の方が困るだろう。自然に「力み」がとれているところに安心がひろがる。ことばがいきいきと動いている。
「その時」からあとの部分で、またことばが硬くなる。
けれど、こでは私は「力み」を感じなかった。
ここで語られていることは初めて聞いたことだったからだ。
こどもを産んで母親になる。母であることを初めて実感する、というのは何度も聞いた。その実感の奥には、「母の記憶」というものがあるのだろうとは想像はできる。「母たちの記憶」といってもいい。一種の「母性の遺伝子」のようなものだろう、と私は勝手に想像している。
それが「肉体」の奥から溢れ出てくる。「私の暗く深い場所」とは意識できなかった「遺伝子」ということだろう。「熱く渦巻くものがほとばしり」は「母という遺伝子」が目覚める、ということだろう。それが「押し寄せる黒い流れと一体となって/私を包み 通り過ぎていった」。ずーっと、「肉体」のなかに残っているのではない。覚醒し、青木を包み(母親の遺伝子が全身行き渡り、包み込み)、「通り過ぎていく」。
洗礼の儀式のようだ。「通過儀礼」に通じるものを感じる。
この「通り過ぎていく」は実際に母親になった人間が体験することなんだろうと思う。私は想像するだけなのだが、この「通り過ぎていった」に、何か震えるようなすごさを感じる。
もう、このあとは「母親の遺伝子」に頼るわけにはいかない。覚醒した自分の中にある遺伝子を、青木自身で生きなおさないといけない。「遺伝子」を生み出しながら生きなければならない、という覚悟が、この瞬間に生まれているといえばいいのか。
「包み 通り過ぎていった」は「包まれていたところを、通り過ぎて出てきた」と言えばいいのか。
青木は、「母の遺伝子」に包まれた瞬間「母親という胎児」になっている。そして、その「包み(子宮)」から「産道」を通り抜けて、「母親という赤ちゃん」になって生まれた。
出産したのは青木だが、産んだ赤ちゃんに触れることで、母親として生まれる。そういうことを体験しているのがわかる。一人の体験ではなく、それは全ての母親の体験かもしれないが……。
こういうことは全ての母親の体験であり、思いかもしれないが。
そうであってもかまわないというか、そうでありたいという思いが青木にあるのかもしれない。
「独自性(オリジナリティー)」はどうでもいいというと言い過ぎになるが、自分に正直に、真剣にことばをさがし、書いている。その真剣さが強く響いてくる。そこに美しさがある。
すでに誰かが語っていてもかまわない。自分で語りなおす、真剣に語ることが、青木を青木自身にしている。
青木由弥子『星を産んだ日』の表題作は出産体験を書いたもの。
火の塊が私の中を降りる
押し開く力に息をあわせ
覚悟という言葉を押し出す
引き裂かれる痛みが全身の骨を走り
あふれこぼれて皮膚の内に張り詰める
全ての緊張が一息に流れ出した瞬間
心臓をむき出したような赤い産声が響いた
すでに多くの女性が書いてきたことかもしれない。書かないまでも語ってきただろうと思う。似たような「声」は何度も聞いた気がする。あ、こういうことは聞いたことがない、という一行はない。
でも、それが悪いこととは思わない。
すでに語り尽くされていることだけれど、なんとか自分のことばで言いなおしたい、という強い願いを感じる。その「強い」という感じは、ことばの「力み」になっている。
全部を言わなければ、という「決意」のようなものがある。
胎脂でべたべたの手足でもがき
小さな口を大きく開けて
乳首を求めて挑みかかる
吸い上げられて再びつながる
母と子の ふたつのからだ
ざわめいていた心が静まり
小さな口めがけて流れこんでいく
ここでも「力み」はあるけれど、「吸い上げられて再びつながる」という「実感」が美しい。「つながる」ということばが甦ってくる感じが、とてもいい。「産む」という動詞が分離をあらわすのに対し、「流れ込んでいく」という動詞で一種の逆転がおき、それが「つながる」を強めている。
「ざわめいていた心が静まり」は、私の感じでは「力み」だが、どうしても書きたかったことばなのだろう。「力み」はあるけれど、「静か」ということばで青木自身の昂りを抑えようとしているように感じる。
広げた両手にすっぽりおさまる
わずか2640グラムの重み
手足をそっと のばそうとしても
ばねのように力を弾いて
すぐに丸まってしまう
三連目では「力み」は完全に消えている。赤ん坊を抱くのに力んでいたら、赤ん坊の方が困るだろう。自然に「力み」がとれているところに安心がひろがる。ことばがいきいきと動いている。
私が思わず指で触れると
すばやく小さな手が動いて
ぎゅうっと熱く握りしめた
その時 私の暗く深い場所から
熱く渦巻くものがほとばしり
押し寄せる黒い流れと一体となって
私を包み 通り過ぎていった
「その時」からあとの部分で、またことばが硬くなる。
けれど、こでは私は「力み」を感じなかった。
ここで語られていることは初めて聞いたことだったからだ。
こどもを産んで母親になる。母であることを初めて実感する、というのは何度も聞いた。その実感の奥には、「母の記憶」というものがあるのだろうとは想像はできる。「母たちの記憶」といってもいい。一種の「母性の遺伝子」のようなものだろう、と私は勝手に想像している。
それが「肉体」の奥から溢れ出てくる。「私の暗く深い場所」とは意識できなかった「遺伝子」ということだろう。「熱く渦巻くものがほとばしり」は「母という遺伝子」が目覚める、ということだろう。それが「押し寄せる黒い流れと一体となって/私を包み 通り過ぎていった」。ずーっと、「肉体」のなかに残っているのではない。覚醒し、青木を包み(母親の遺伝子が全身行き渡り、包み込み)、「通り過ぎていく」。
洗礼の儀式のようだ。「通過儀礼」に通じるものを感じる。
この「通り過ぎていく」は実際に母親になった人間が体験することなんだろうと思う。私は想像するだけなのだが、この「通り過ぎていった」に、何か震えるようなすごさを感じる。
もう、このあとは「母親の遺伝子」に頼るわけにはいかない。覚醒した自分の中にある遺伝子を、青木自身で生きなおさないといけない。「遺伝子」を生み出しながら生きなければならない、という覚悟が、この瞬間に生まれているといえばいいのか。
「包み 通り過ぎていった」は「包まれていたところを、通り過ぎて出てきた」と言えばいいのか。
青木は、「母の遺伝子」に包まれた瞬間「母親という胎児」になっている。そして、その「包み(子宮)」から「産道」を通り抜けて、「母親という赤ちゃん」になって生まれた。
出産したのは青木だが、産んだ赤ちゃんに触れることで、母親として生まれる。そういうことを体験しているのがわかる。一人の体験ではなく、それは全ての母親の体験かもしれないが……。
こういうことは全ての母親の体験であり、思いかもしれないが。
そうであってもかまわないというか、そうでありたいという思いが青木にあるのかもしれない。
「独自性(オリジナリティー)」はどうでもいいというと言い過ぎになるが、自分に正直に、真剣にことばをさがし、書いている。その真剣さが強く響いてくる。そこに美しさがある。
すでに誰かが語っていてもかまわない。自分で語りなおす、真剣に語ることが、青木を青木自身にしている。
星を産んだ日 (詩と思想新人賞叢書11) | |
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