詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小笠原真『父の配慮』

2017-08-15 11:37:33 | 詩集
小笠原真『父の配慮』(ふらんす堂、2017年04月07日発行)

 小笠原真『父の配慮』。
 たんたんと書かれている。エッセイのようにも読むことができる。こういう詩について感想を書くのはむずかしい。
 「哀しい眸」はガン患者を手術したときのことが書かれている。

何度目かの大出血の時
流石にもう助からないと直感したのか
いつもシャイで無口なAさんが
にっこりとほほ笑んで両手を拝むように合わせ
今生の別れを告げられたのであった
しかしぼくは
死は敗北だと思っていたぼくは
一分一秒でも命を長らえるのが仕事だと思っていたぼくは
無情にも苦しい処置を施しながら止血し助けてしまったのだ
その時のAさんの哀しい眸が忘れられない

 それから一週間後、患者は亡くなる。
 こういう話はときどき聞く。特に新しいことが書いてあるわけではない。と、感想は簡単に書くことができる。
 でも、書いた小笠原にとってはどうだったのだろう。
 たんたんと思い出すように書いているが、たんたんとは思い出せないだろう。何かを抑えるようにして書く。
 おさえても、おさえても、あふれだすものもある。

しかしぼくは
死は敗北だと思っていたぼくは
一分一秒でも命を長らえるのが仕事だと思っていたぼくは

 ここに三回「ぼくは」が出てくる。繰り返される「ぼくは」に「意味」がある。真剣に、向き合っている。患者に。医師という仕事に。いや、「ぼくに」だろうなあ。医師は「ぼく」を捨てて、患者に、仕事に(手術に)向き合わないといけない。でも、そこに「ぼく」が出てきてしまう。
 この「ぼく」は最後にも出てくる。

あれから三十年たった今
もう同じ状況にあったならば
ぼくは一体どんな行動をとっただろうか
鬼手仏心の心持ちで
同じように必死に闇雲に
救命しただろうか

恥ずかしいことに
ぼくは未だに
その回答を持っていない

 だれも、「答え」など持っていない。その時にならないと、どう動くかはわからない。それを正直に書いている。どこかに「答え」はあるかもしれない。けれど「ぼくは」持っていない。
 小笠原は「ぼく」から出て行かない。「ぼく」を出ていって、「客観的」になることはない。そこに小笠原の正直がある。
 それは「答え」に頼らない、と言いなおしてみると、小笠原の美しさがわかる。
 「答え」に頼ると、「ぼく」がいなくなる。何かあったとしても、責任を「答え」に押しつけることができる。小笠原は、そういうことはしない人間である。
 その瞬間、その瞬間、探し求めるしかないのか「答え」なのである。それを貫いて生きている。


父の配慮
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ふらんす堂
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藤井貞和『美しい小弓を持って』(3)

2017-08-15 10:25:28 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(3)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「口寄せ」はとても変な詩である。

駅 / ビルの柱に凭れて、口寄せしていたらば、と ぼくは書いた。
いなく / なってからのぼくは、荻の花咲く飲みのこしの水が、
真っ青な顔 / を映す大理石のまえで、ちいさな声になる。 聞こえる?

 何が書いてあるか、あいかわらずわからない。でも、はっきりわかることもある。
 ネット(ブログ)では横書き表示なのでつたわりにくいと思うが、各行にある「/」がだんだん下へ下がっていく。本で見ると、「/」が各行を斜めに切っている。分断している。そのことがはっきりわかる。詩は二ページにわたっているので、ページの変わり目は妙にずれるのだが、これが一ページにおさまっていたら、その分断線はもっとわかりやすい。
 でも、この「/」はいったい何か。何をあらわそうとしているのか、それがわからない。
 さらに、「読み方」もわからない。
 私は黙読派であって、音読はしない。けれど、「音」が聞こえない(声に出して読めない)部分は、何が書いてあるか理解のしようがない。私はことばを「理解する」ときは「音を聞いて」理解する。「音」がわからないと、「意味」もわからない。理解することができない。
 外国語を例にすると、私の言っていることがタンテキに通じるかもしれない。私は音が正確に聞き取れないと意味がわからない。逆に言うと、音が聞き取れることばは意味がわかる。日本語でも、同じ。
 私は「読む」よりも、「聞いて」ことばを覚えてきたのだろう。「声」をとおして、耳で聞いたことがないことばは、私は理解できない。さらにいえば、そのことばが「話される状況」を体験しないと、私にはことばがわからない。繰り返し聞いて、なんとなく「意味」がわかり始める。「状況」がことばの意味領域を限定するのを感じながら、「ああ、こういうときにこう言うのか」というのが私にとって「意味」なのである。「状況」と切り離せないのが「意味」。
 ここから逆に、何が書いてあるかわからないというのは「状況」がわからないということにもなる。そこにいる「ひと」がどんな風に動いているか、わからない、ということでもある。

 藤井は朗読をすることがあるのかどうか知らないが、朗読をするときは、この部分をどう読むのだろう。それを聞けば「/」が納得できるかもしれないが、目で読んでいる限りでは、ぜんぜんわからない。聞けばわかるかもしれない、というのは、そのときの藤井の顔とか身振りとか、そういうものから何かを感じ取り、そこから「意味」へ近づいていくことができるかもしれないということ。
 でも印刷された活字だけでは、そういう「手がかり」は何もない。

 しようがないから、私は分断線を無視して読む。つまり、

駅ビルの柱に凭れて、口寄せしていたらば、と ぼくは書いた。
いなくなってからのぼくは、荻の花咲く飲みのこしの水が、
真っ青な顔を映す大理石のまえで、ちいさな声になる。 聞こえる?

 という感じ。
 で、そうやって読んで、そこに「ちいさな声」「聞こえる?」ということばを、あらためて見つけ出す。「/」があったときは、「/」に意識が引っぱられて、「声」も「聞く」も読み落としていた。
 ことばを「聞いて」覚えると言いながら、目は「文字」を見ているのだ。
 (ちょっと横道にそれると、私は左目の網膜剥離の手術をした。その関係で左目の視力が非常に弱い。キーボーを打つときは、基本的にブラインドタッチだが、やはり見ている部分があるのだろう。ミスタッチが非常に多くなった。)
 で。
 この「声」「聞く」ということばに出会った瞬間、ぱっと思い出したのが一行目の「書いた」である。「書く」という動詞。

 この詩では「書く」と「聞く」が、ことばの「本能」のようなものとして、向き合っている。

 直感として、そう思った。
 「口寄せ」というのは「聞く」と関連している。「聞いた」ことを「口」で「寄せる」のだろう。「読んだ」ことを(書かれたものを)、「口」で語るときは、きっと「口寄せ」とは言わないだろう。
 「聞く声」(聞こえる声)は「大声」ではないだろう。「小さな声」だろう。「口寄せ」することができる人にだけ聞こえるような「小さな声」。

 うーん。

 では、たとえば「書く」(書かれた文字)の場合、「小さい」というのは、ありうるだろうか。
 ないだろうなあ。
 「書く」には「大小」はない。
 これは、ことばにとってみれば、大問題かもしれない。
 「声」には「大小」がある。そして「小さい声」は聞こえない。「小さい声」は存在しないことになる。ほんとうは存在するのに。
 その、「存在しない声」を聞き取り、語りなおす。それが「口寄せ」という行為かもしれない。

 この詩では「聞こえる?」ということばが三回繰り返されている。「声」は「ちいさな声」「啜る泣き声」から、「メモの中から声がする」というもの、さらに「告げず(つげる)」「言う」という動詞、また「笑う」という動詞としても「姿」をみせている。
 最後に「舞うてはる」「のぼってゆかはる」という「口語」としてあらわれている。
 というか、いくつもの「声」が最終的に「舞うてはる」「のぼってゆかはる」という「口語」のなかで結晶するように感じられる。

 なんだろうなあ。

 論理的なことばにはできないけれど、直感として、藤井は「声」を「聞き取り」、人に聞こえるように「語りなおす」ということを「口寄せ」という行為の中につかみとり、それを実践しているのかもしれない。何か「意味」があるとすれば、それは「単語」というよりも「口語」の「言い回し(言い方、そのことばを発するときの肉体の微妙な動き)」にあるのかもしれない。
 「書く」は「語りなおす」ときのためのメモかなあ。

 でも、私がいま書いたことと「/」はどんな関係があるのかなあ。
 まあ、わからなくてもいいか。
 私は自分の考えを宙づりにしておくのが好きである。何かきっかけがあれば動き出すだろう。それまでは放置しておく。いま、書いたように。

 と、書いて、あ、ひとつ書き忘れていることがあるなあ、と思い出す。
 私は書き出しの三行の中では

荻の花咲く飲み残しの水が、

 この部分がとても気に入っている。「音」がとても美しく感じられる。その「荻の花咲く飲み残しの水が、」「ちいさな声になる」と私はつづけて読んでしまう。そうか、どんなものにも「声」がある。その「声」を正確に聞き取るひとは少ない。藤井には、それが「聞こえる」。だから、思わず誰かに「聞こえる?」と問うてしまう。
 聞き取ってしまった「ちいさな声」を「口寄せ」し、「拡大し」「語りなおせば」聞こえる? わかってもらえる?
 同じような「ちいさな声」を「舞うてはる」「のぼってゆかはる」という「口語」のなかにも聞き取っているんだろうなあ。聞き取ったから、「口語(声)」をそのまま「口寄せ」する、繰り返しているんだろうなあ、と思う。
 こうした思いは「結論」ではなく、やっぱり「宙づりのままのあれこれ」ということになる。

美しい小弓を持って
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