詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

最果タヒ『愛の縫い目はここ』(2)

2017-08-06 13:06:50 | オフィーリア2016
最果タヒ『愛の縫い目はここ』(2)(リトルモア、2017年08月08日発行)

 最果タヒ『愛の縫い目はここ』を、私は理解しているか。たぶん理解していない。いや、きっと理解していない。私の感じていることは最果が書きたいと思っていること、あるいは最果の読者が感じていることとはまったく違っているだろう。「誤読」の典型といわれるだろう。
 私は「誤読」を承知でというか、「誤読」したいから読んでいる。昨日書いた「誤読」のつづきをもう少し書いてみる。
 「しろいろ」という作品。

レースは、空気にもすこしだけ縫いこまれているようで、光
がそれを避けながら届いたとき、誰にも気づかれずに炎症し
た空気の、傷口をさがしていた。ひとりでいることが、私の
体温を不安定にするのはほんとう。手を伸ばしていくとその
うち、ゆびさきから心臓まで流れているぬくもりが途切れる
気がしていた。だから、うつくしいものへと手を伸ばすんで
しょう。私がちぎれていくかわり、景色が私に混ざっていく。

 書き出しの

レースは、空気にもすこしだけ縫いこまれているようで、

が繊細で美しい。これは「情景」の描写として読むことができる。けれど、たぶん「情景」ではない。では、何か。最果の「肉体感覚」である。どういう「肉体」感覚かというと、最後の

私がちぎれていくかわり、景色が私に混ざっていく。

 である。たぶん、この最後の部分に最果の「特質」がある。「肉体」がちぎれていく。「肉体」が欠ける。そのかけた部分を「景色」が補う。「肉体」と「景色(情景)」が、そうやって「ひとつ」になる。
 これは最果独自の「一元論」である。世界に存在するのは「肉体」のみ、と最果が考えているかどうかわからないが、私は、実はそう考えているので、これは私の考えから見つめなおした最果ということになるかもしれないが。
 「肉体」と「景色(情景)」が「ひとつ」になる。これは「肉体」と「情景(もの)」を「ひとつ」と考えるということである。
 だから、書き出しの「レース」は実は「最果の肉体」そのものである。すでにこの段階で「私=最果の肉体」と「景色(レース)」は「まじっている」。つまり、最初のことばは、

「私の肉体」は、空気にもすこしだけ縫いこまれているようで、

 なのである。
 そして「縫い込む」という「動詞」は「傷口」という名詞(動詞の動いた部分)へとつながり、「ひとつ」であることを強める。自分の「肉体」のどこかに「傷口」と「縫い目」を探し当てたとき、最果は「レース」そのものになり、「光」を通過させる。「光」を通過させる「傷口」としての「肉体」。いま、最果が感じているのは、そういうものだろう。

うつくしいものへと手を伸ばす

 と最果は書くが、私にはむしろ、そうやって

うつくしいものに「なる」

 という具合に読める。読んでしまう。
 「ゆびさきから心臓まで流れているぬくもりが途切れる」、その「途切れ」が「傷口」かもしれない。自己というものの、一瞬の欠落。これは、もちろん最果の「誤読/誤った認識」だろう。「肉体」のなかで「肉体」が途切れる(ちぎれる)ということはない。けれど、そう錯覚する。
 たぶん、これは時系列としては逆なのだ。
 「景色/情景」が「肉体」のなかに入ってくる。「景色」が「肉体」のなかに入ってくるために、とまどい、自分の「肉体」が途切れた、傷が開いたと感じる。その傷を縫い閉じて「肉体」をもとに戻す。そうすると、「肉体」が「景色」にかわってしまっている。「肉体」の「内」と「外」が入れ替わっている。
 入れ替わるというよりも、それは「融合」である。あるいは「ひとつ」になることである。これを私は「最果の一元論」と名づけたいと思っている。
 この「最果の一元論」は、また、別の角度からも指摘できる。

私がちぎれていくかわり、景色が私に混ざっていく。

 この文章の「動詞」のつかい方は、ある意味ではとても奇妙である。私なら、この文章は

私がちぎれて「いく」かわり、景色が私に混ざって「くる」。

 と書いてしまうかもしれない。「行く」と「来る」を対にすることで「一元論」にしてしまうだろうと思う。
 しかし最果は「いく」と「いく」を重ねる。「動詞」がすでに「ひとつ」になってしまっている。最初から「肉体」と「景色」は「ひとつ」になって動いている。「動詞」の「いく」が共有されるところから、それを読み取ることができる。
 「一元論」と言われても、たぶん最果と、「えっ、それ何のこと?」と思うに違いない。完全に「無意識」になっている。「一元論」が「肉体(思想)」になってしまっているのである。
 だからこそ、たとえば、

体を、論理で機械化していくのは楽しいかもしれないけれど。
                         (グーグルストリートビュー)

 のような「論理」批判が書かれたりする。ここに書かれている「機械」とは「肉体」と「景色」に対抗する存在のことである。「肉体」と「景色(存在)」を分断し、機械的に「二元論」を展開することばを「論理」と呼んでいることがわかる。
 最果にとっては「景色」は「心象風景」ではない。心象を風景に託す、というような近代的な「手法」をとらない。「景色」はさいはてにとって自己拡張した「肉体」そのものだ。
 (と書いてしまうと、きのう書いた感想と整合性が取れない部分が出てくるのだが、私は気にしない。昨日書いた感想は感想で、そうやって書くしかなかったものなのである。だから、修正するというよりも、さらに「誤読」を重ねることで、ごちゃごちゃにごまかしてしまう、というのが私の読書の仕方であり、感想の書き方なのである。きのうにはきのうの「事実」があり、きょうにはきょうしか書けない「事実」がある。)

暗いところから見る、明るい場所が好きだ。
喫茶店が流れていく車両を無視して、
大きな窓から橙の光をこぼしていた。
体の奥にああした部分があるなら、
もうすこし体をいたわって生きることもできる、    (冬は日が落ちるのが早い)

美しく光っている体が、また、目覚めて私になる。
昼間、口のなかに夜がひろがり、甘い気がした。
体の構造が複雑すぎて、内臓のどれもがまぶしくて、
生きるとは星空の真似事をしているみたいだった。          (12歳の詩)

 ここに書かれている「景色」と「肉体」の「一体化」も「最果の一元論」を証明することばだと言える。(説明は省略。)


愛の縫い目はここ
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リトル・モア
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