ちんすこうりな『女の子のためのセックス』(2)(人間社、2017年07月30日発行)
昨日書いたちんすこうりな『女の子のためのセックス』の感想に対して、Tinsukou Rina さんから、こんなコメントがフェイスブックに寄せられた。
同じ文面のコメントを、ちんすこうから、ブログのコメント欄にいただいた。
気になることを書いておく。
私は詩を読むとき、その詩と「一対一」で向き合う。Tinsukou Rina さん、ちんすこうの「知人」が誰なのか知らないが、その「知人」の感想は、私と『女の子のためのセックス』という詩集とは何の関係もない。その「知人」がどう評価するか、そんなことに配慮するつもりは、私にはない。
感想はあくまでも詩集と(詩と)私との「一対一」の関係。私はしばしば詩の感想に「セックス」ということばをつかう。詩とセックスすることが、私の感想の目的。「一対一」のかんけいで、ことばをどこまで動かして行けるかにしか、私は関心がない。ほかのひとがその詩集(詩)とどういう関係を持とうが、それはその人の問題であって、私には無関係。
もし、その「知人」が私に対して何かコメントしてくるのであれば、そこから私と「知人」との関係がはじまる。それだけのこと。
「知人」の批評など引用せずに、Tinsukou Rina さんは自分自身の感想を書けばいい。ちんすこうは、自分自身のことばで、「こういうことを書いた」と語りなおせばいい。「知人」に寄りかかって、何の意味があるのだろう。
引用された文章なので、「知人」が具体的にどう発言しているのかわからないが、二人が書いている文章のなかに、私が批判しようとしたことの「核心」がある。
「知人」(既成のもの)への「よりかかり」を私は批判したのである。
女性性器を「穴」と呼ぶのは、ちんすこう自身のことばなのか。男性の性器は「男性器」と呼び、女性の性器を「穴」と呼ぶのという「表現」はちんすこう自身が「発見」したものなのか。それはちんすこうが会ってきた男からの借用ではないのか。そういう表現を借りてくるとき、ちんすこうは「穴」という表現の支えている精神というものをどう評価するのか、そういう問題がある。
男が女性の性器を「穴」と呼んだから、それをそのままつかっているのではないのか。そういうやり方は、自分の考えを自分のことばで語るというよりも、「穴」ということばをつかう男のことばで自分を語ること、それはちんすこうが語るというよりも男が語ることにならないか。
ことばを「自分のことば」「他人のことば」と明確に区別しているかどうか。
「知人のことば(評価)」と「自分自身の評価(ことば)」を区別していないのではないか。
また、「知人」の書いている
という対比の仕方にも、私はとても疑問を感じる。
こういう区別の仕方をほかの多くの人もするのかどうかわからないが、私は、そんなふうに対比はしない。
発言した「知人」が「世界観」と「精神」をどうとらえているのか、私にはわからない。「世界観」と「精神」は、私の「意味領域」では「同じもの」。そして、そこには「聖なる精神」と「そうではない精神」の区別はない。
ひとが向き合っているのは、その瞬間その瞬間の「真実」であり、それはいつでも「聖なる瞬間」(大事な瞬間、最優先にしている瞬間)である。人が生きているとき「聖なる精神」以外に存在しない。
女性器を「穴」とみる(穴と表現する)精神は、そういう表現をする人にとっては「聖なるもの」だと私は思っている。いちばん大事な「思想」と言い換えてもいい。そう呼ばないことには自分を維持できない。「穴」と呼ぶことで、女性を見下し、その反作用として自分自身を守っている。「男尊女卑」。それが「穴」ということばを平然とつかう男のもっとも「尊い精神(聖なる精神)」である。
逆に言えば、こうなる。男の性器を「棒」と呼ぶ言い方もある。「枯れた枝」とか「マッチ棒」「こん棒」という言い方もある。ちんすこうの詩をまねて書けば、その書き出しは、こうなる。
女性性器を「穴」と呼び、「男尊女卑」を「尊い精神/守るべき精神/聖なる精神」とぶ人間が、果たしてこう書くか。
さらには、その「棒」を「マッチ棒」かは「枯れた枝」とか書くか。書かないだろう。そう書かれたら、女性を「穴」と呼ぶ男は怒るだろう。「黒光りのするこん棒」が俺だ、と主張するかもしれない。「黒光りのするこん棒(他人を思いのままに支配する棒/暴力の象徴としての棒)」が「男の性器」であるという「思想」を生きている人間が、女性性器を「穴」と呼ぶのである。
女性性器を「穴」と呼ぶ。そのことが「定着」するまでには、さまざまな「歴史」がある。それを自分自身の「肉体」で確かめ、そのうえで「正しい」と判断して書いているのかどうか、それを私はちんすこうに問いたい。
「ちんちん」の最後の二行。
これもほんとうに女性のことばなのかどうか、私は疑問に感じている。「男が女を守る」という「思想」の延長にある。それをそのまま肯定している。男の視点に寄りかかっている。男がだらしないなら、女が男を守ったって問題はないだろう。だいたい、人間は誰かが誰かを一方的に守るという形で動いてはいないだろう。
「穴」という呼び方が気に食わない。それを別の言い方で書いてみよう。
「穴」ということばの借用は、私から見れば、何人かの詩人に見られる西洋哲学の「引用」と同じものである。「聖なる精神」を引用する方法とそっくりである。
自分の「肉体」でつかみとったことばというよりも、すでにあるもの、「一定の評価を受けていることば」を借りてきて、自分の向き合っている世界について代弁させている。そんなことをすれば、自分で考える代わりに「他人(有名思想家)」に自分の見ているものを語ってもらうということになる。そこからわかるのは、その人の考えではなく、そのひとは誰それを読んだことがある、ということだけだ。自分は誰それの思想を読んでいる、だから「正しい」といういっているようにしか聞こえない。そんなものは「情報」であって、「思想」とか「精神」というものではない。「聖なる精神」の対極にあるものだ。
ちんすこうのような表現をすれば、「男尊女卑」の「思想」を生きている男からは歓迎されるだろう。また「男尊女卑」の世界を生きた方が楽だという女性からも歓迎されるだろう。どんな悲しみも「既成の感情」のなかで居場所を見つけられる。
もし、この詩集に「穴」という表現がなかったら(あるいはそれに通じる「男尊女卑」の既成の考えに直接結びつくことばがなかったら)、たとえば「おしまいの日」の印象などもずいぶん違ったものにある。
からはじまり、
ここに書かれているのは
ということとは全く逆のことだと思う。女性性器を「穴」と見ることをやめることで、抑圧されていた精神が静かに動き始めている。
だが女性性器を「穴」と見る「世界観」のなかにこの詩を置くと、女はやっぱり男に守られて生きるのが幸せなんだよ、になってしまう。
この詩は、男に守られて生きるというよりも、一人で生きる、ということを描いているのだが、最初から「男に守られて生きていたら、つらい目に遭わずにすんだのに」という既成の「男尊女卑思想」の「同情」と結びついてしまうことになりかねない。
こういう「かわいそうな女性」というのか「女性のかなしさ」の「定型表現」が、私は好きではない。
こんな「定型」を破るために、ひとは生きているのではないのか。
飛躍になるかもしれないが。
私は20世紀最大の思想家は誰か、と問われたらボーボワールと答える。マルクスも毛沢東も、その「思想」は世界に広がらなかった。ボーボワールの「女はつくられたもの」(男女差別は社会制度が生み出したもの)という考えは世界中に広がった。「男女平等」世界で実現されつつある。ただひとつ国境を越えてひろがり、生き方の基礎になりつつある。
それを21世紀を生きる女性が(たぶん、ちんすこうりなは女性だろう)、「かなしさ」を前面に出して壊そうとしている。非常に違和感を覚える。
昨日書いたちんすこうりな『女の子のためのセックス』の感想に対して、Tinsukou Rina さんから、こんなコメントがフェイスブックに寄せられた。
ありふれた「流通言語」内における用語が使われてるからダメってんだろう?全く逆だね。女性器を「穴」とみるそういう世界観の中に、詩を、あるいは「聖なる精神」をひきづりおろしたところにこの詩の本当の意味はあるのだ。
谷内さんのブログを読んだ知人の言葉です。
同じ文面のコメントを、ちんすこうから、ブログのコメント欄にいただいた。
気になることを書いておく。
私は詩を読むとき、その詩と「一対一」で向き合う。Tinsukou Rina さん、ちんすこうの「知人」が誰なのか知らないが、その「知人」の感想は、私と『女の子のためのセックス』という詩集とは何の関係もない。その「知人」がどう評価するか、そんなことに配慮するつもりは、私にはない。
感想はあくまでも詩集と(詩と)私との「一対一」の関係。私はしばしば詩の感想に「セックス」ということばをつかう。詩とセックスすることが、私の感想の目的。「一対一」のかんけいで、ことばをどこまで動かして行けるかにしか、私は関心がない。ほかのひとがその詩集(詩)とどういう関係を持とうが、それはその人の問題であって、私には無関係。
もし、その「知人」が私に対して何かコメントしてくるのであれば、そこから私と「知人」との関係がはじまる。それだけのこと。
「知人」の批評など引用せずに、Tinsukou Rina さんは自分自身の感想を書けばいい。ちんすこうは、自分自身のことばで、「こういうことを書いた」と語りなおせばいい。「知人」に寄りかかって、何の意味があるのだろう。
引用された文章なので、「知人」が具体的にどう発言しているのかわからないが、二人が書いている文章のなかに、私が批判しようとしたことの「核心」がある。
「知人」(既成のもの)への「よりかかり」を私は批判したのである。
女性性器を「穴」と呼ぶのは、ちんすこう自身のことばなのか。男性の性器は「男性器」と呼び、女性の性器を「穴」と呼ぶのという「表現」はちんすこう自身が「発見」したものなのか。それはちんすこうが会ってきた男からの借用ではないのか。そういう表現を借りてくるとき、ちんすこうは「穴」という表現の支えている精神というものをどう評価するのか、そういう問題がある。
男が女性の性器を「穴」と呼んだから、それをそのままつかっているのではないのか。そういうやり方は、自分の考えを自分のことばで語るというよりも、「穴」ということばをつかう男のことばで自分を語ること、それはちんすこうが語るというよりも男が語ることにならないか。
ことばを「自分のことば」「他人のことば」と明確に区別しているかどうか。
「知人のことば(評価)」と「自分自身の評価(ことば)」を区別していないのではないか。
また、「知人」の書いている
(1)女性器を「穴」とみるそういう世界観
(2)詩を、あるいは「聖なる精神」
という対比の仕方にも、私はとても疑問を感じる。
こういう区別の仕方をほかの多くの人もするのかどうかわからないが、私は、そんなふうに対比はしない。
発言した「知人」が「世界観」と「精神」をどうとらえているのか、私にはわからない。「世界観」と「精神」は、私の「意味領域」では「同じもの」。そして、そこには「聖なる精神」と「そうではない精神」の区別はない。
ひとが向き合っているのは、その瞬間その瞬間の「真実」であり、それはいつでも「聖なる瞬間」(大事な瞬間、最優先にしている瞬間)である。人が生きているとき「聖なる精神」以外に存在しない。
女性器を「穴」とみる(穴と表現する)精神は、そういう表現をする人にとっては「聖なるもの」だと私は思っている。いちばん大事な「思想」と言い換えてもいい。そう呼ばないことには自分を維持できない。「穴」と呼ぶことで、女性を見下し、その反作用として自分自身を守っている。「男尊女卑」。それが「穴」ということばを平然とつかう男のもっとも「尊い精神(聖なる精神)」である。
逆に言えば、こうなる。男の性器を「棒」と呼ぶ言い方もある。「枯れた枝」とか「マッチ棒」「こん棒」という言い方もある。ちんすこうの詩をまねて書けば、その書き出しは、こうなる。
棒を
女性性器に入れて
こすると気持ちがいい
ただそれだけのことだ
女性性器を「穴」と呼び、「男尊女卑」を「尊い精神/守るべき精神/聖なる精神」とぶ人間が、果たしてこう書くか。
さらには、その「棒」を「マッチ棒」かは「枯れた枝」とか書くか。書かないだろう。そう書かれたら、女性を「穴」と呼ぶ男は怒るだろう。「黒光りのするこん棒」が俺だ、と主張するかもしれない。「黒光りのするこん棒(他人を思いのままに支配する棒/暴力の象徴としての棒)」が「男の性器」であるという「思想」を生きている人間が、女性性器を「穴」と呼ぶのである。
女性性器を「穴」と呼ぶ。そのことが「定着」するまでには、さまざまな「歴史」がある。それを自分自身の「肉体」で確かめ、そのうえで「正しい」と判断して書いているのかどうか、それを私はちんすこうに問いたい。
「ちんちん」の最後の二行。
本当に大切で守ってあげたい
たった一人の女の子になることはないんだって
これもほんとうに女性のことばなのかどうか、私は疑問に感じている。「男が女を守る」という「思想」の延長にある。それをそのまま肯定している。男の視点に寄りかかっている。男がだらしないなら、女が男を守ったって問題はないだろう。だいたい、人間は誰かが誰かを一方的に守るという形で動いてはいないだろう。
「穴」という呼び方が気に食わない。それを別の言い方で書いてみよう。
「穴」ということばの借用は、私から見れば、何人かの詩人に見られる西洋哲学の「引用」と同じものである。「聖なる精神」を引用する方法とそっくりである。
自分の「肉体」でつかみとったことばというよりも、すでにあるもの、「一定の評価を受けていることば」を借りてきて、自分の向き合っている世界について代弁させている。そんなことをすれば、自分で考える代わりに「他人(有名思想家)」に自分の見ているものを語ってもらうということになる。そこからわかるのは、その人の考えではなく、そのひとは誰それを読んだことがある、ということだけだ。自分は誰それの思想を読んでいる、だから「正しい」といういっているようにしか聞こえない。そんなものは「情報」であって、「思想」とか「精神」というものではない。「聖なる精神」の対極にあるものだ。
ちんすこうのような表現をすれば、「男尊女卑」の「思想」を生きている男からは歓迎されるだろう。また「男尊女卑」の世界を生きた方が楽だという女性からも歓迎されるだろう。どんな悲しみも「既成の感情」のなかで居場所を見つけられる。
もし、この詩集に「穴」という表現がなかったら(あるいはそれに通じる「男尊女卑」の既成の考えに直接結びつくことばがなかったら)、たとえば「おしまいの日」の印象などもずいぶん違ったものにある。
世界で
たった一本勃起して
私という存在を
はかない
望みのように
あたたかく照らしてくれていた
ちんこが
ゆっくりと頭を垂れるように
完全に
地を向いた日
からはじまり、
おばさん友達と蟹食べ放題にゆくだろう
食べて
無口になって
幸せねえと呟く
食べながら泣ける
夢中で
いっぱい
食べる
いっぱい食べて
幸せになる
幸せになる
ここに書かれているのは
女性器を「穴」とみるそういう世界観の中に、詩を、あるいは「聖なる精神」をひきづりおろした
ということとは全く逆のことだと思う。女性性器を「穴」と見ることをやめることで、抑圧されていた精神が静かに動き始めている。
だが女性性器を「穴」と見る「世界観」のなかにこの詩を置くと、女はやっぱり男に守られて生きるのが幸せなんだよ、になってしまう。
この詩は、男に守られて生きるというよりも、一人で生きる、ということを描いているのだが、最初から「男に守られて生きていたら、つらい目に遭わずにすんだのに」という既成の「男尊女卑思想」の「同情」と結びついてしまうことになりかねない。
こういう「かわいそうな女性」というのか「女性のかなしさ」の「定型表現」が、私は好きではない。
こんな「定型」を破るために、ひとは生きているのではないのか。
飛躍になるかもしれないが。
私は20世紀最大の思想家は誰か、と問われたらボーボワールと答える。マルクスも毛沢東も、その「思想」は世界に広がらなかった。ボーボワールの「女はつくられたもの」(男女差別は社会制度が生み出したもの)という考えは世界中に広がった。「男女平等」世界で実現されつつある。ただひとつ国境を越えてひろがり、生き方の基礎になりつつある。
それを21世紀を生きる女性が(たぶん、ちんすこうりなは女性だろう)、「かなしさ」を前面に出して壊そうとしている。非常に違和感を覚える。
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