藤井貞和『美しい小弓を持って』(11)(思潮社、2017年07月31日発行)
「となか--黙示録」は、東日本大震災、東京電力福島第一原発のことを書いている、らしい。
の「炉心」というようなことばがら、そう感じるであって、間違っているかもしれない。そこにはまた、
と、清水昶を追悼した「針の精子」に出てくることばもある。
あるいは、清水なら東日本大震災をどう詩にしたかを考えているのかもしれない。
「母語」ということばがあるが、ことばはどこかでだれかとつながっている。だれとつながっているか、ふつうは考えないけれど、同じことばを使うひとはどこかでつながっているだろう。そうであれば、同じことばを使えば、ひとは見知らぬ人ともつながることができるということでもある。そのつながりは「時代」を超える。「いま」生きている人だけでなく、かつて生きていた人、これから生きる人にもつながる。
ことばは「遺伝子」である。
そんなことは、書いていないというかもしれないけれど、書かれていることばを私は「誤読」する。
そして、その「ことばのつながり」には、不思議なものがある。「意味(論理)」ではないものがいつでも忍び込んでくる。
これは、たぶん詩の書き出し「ことしの紅葉はさびしかったよ。地上では/うたったさ、そりゃあがんばったよ。 土偶も、空の神も、/みんなで、哲学の徒であろうとしたさ。」を言いなおしているのかもしれない。
震災後、紅葉を語ることばがない。「美しい」とは言えない。でも、どう言えばいいのか。「美しい」けれど「美しい」とは言えないので、たとえば「美しい」を逆に(さかさまに)言えば、紅葉を語ることができるか。「うつくしい」「いしくつう」。「意志・苦痛」になる。「回文」ではないのだが、「さかさま」にするだけで、違うものが忍び込んでくる。
これは「翻訳」不可能なものだね。日本語を「母国語」としている人間にはわかるが、そのことばを日常的に話していない人には、「美しい」を「さかさま」にすると「意志・苦痛」になるかなんて、わからない。
もちろん「いしくつう」をどう読むか。「音」にどんな漢字をわりふって「意味」にするかは人によって違うだろうが、藤井が「意志・苦痛」という「漢字のルビ」をふったとき、そこに日本人には「わかる」意味が出現する。それしか意味がないように思われる。
「意味」は単に「意味」ではなく、「ストーリー」をひきつれてくる。震災後を生きることは「苦痛」を伴う。しかし、その「苦痛」を引き受け、さらに生きていく「意志」を人間は持つことができる。そして、「意志・苦痛」ということばは、ある意味で、これからの生きる「指針」にもなる。
ことばのなかから、予想もしなかった何かがあらわれて、人間を引っぱっていく力になる。
昔、「若いという字は苦しい字ににてるわ」という歌謡曲があったが、「意味」が人間を引っぱる力になる。支えになる、ということがあるのだ。「苦しいけれど、それは若さの特権である」という具合に。
「意志・苦痛」にも、そういうものを感じる。それは「美しい」とは簡単に言えないけれど、「美しい」何かに触れている。ことばの中には、予想外のものが含まれている。そして、それは「母語」の「遺伝子」のように、意識されないまま生きている。
藤井は、「音」の中に、それを感じている。
「哀吾」をどう読むか。「あいご」と読めば、それは韓国語の「アイゴー」になるかもしれない。喜怒哀楽、特に強い悲しみを訴えるときのことばに。
「母語」のほかにも、「ことば」はまじってくる。それは「感情」がまじってくるということでもある。人間は、そうやって「つながる」ともいえる。
私の「要約」では、藤井が何を書いてあるかわからないと思うが……。
一篇の詩のなかで、何かがすり変わるように動いている。何と何がすり変わったのか、何のためにすり変わったのか。それを読み解けば、また、「意味」が強い形で生まれてくるのだろうけれど、それを書くことは私にはできない。
いいかえると、わからない。
わからないけれど、この詩のなかでは、ことばが「音」を中心にして、「越境」を繰り返していると感じる。「意味」の越境、「意味」の破壊。それでも生きることば。それを、「生まれる瞬間」にこだわって書いていると感じる。
「となか--黙示録」は、東日本大震災、東京電力福島第一原発のことを書いている、らしい。
海の炉心をだきしめよ
幼い神々
の「炉心」というようなことばがら、そう感じるであって、間違っているかもしれない。そこにはまた、
叙事詩にたいせつな遺伝子情報を載せて、
針の精子は斃れ、胎内で聴く母語のはて、やさしいな--
と、清水昶を追悼した「針の精子」に出てくることばもある。
あるいは、清水なら東日本大震災をどう詩にしたかを考えているのかもしれない。
「母語」ということばがあるが、ことばはどこかでだれかとつながっている。だれとつながっているか、ふつうは考えないけれど、同じことばを使うひとはどこかでつながっているだろう。そうであれば、同じことばを使えば、ひとは見知らぬ人ともつながることができるということでもある。そのつながりは「時代」を超える。「いま」生きている人だけでなく、かつて生きていた人、これから生きる人にもつながる。
ことばは「遺伝子」である。
そんなことは、書いていないというかもしれないけれど、書かれていることばを私は「誤読」する。
そして、その「ことばのつながり」には、不思議なものがある。「意味(論理)」ではないものがいつでも忍び込んでくる。
叙事詩の主人公たち。 言えなくなった、意志・苦痛、意志・苦痛。
「うつく・しい」とさかさまに言おうとしただけなのに、
虫のことばになりました、消える人称的世界!
これは、たぶん詩の書き出し「ことしの紅葉はさびしかったよ。地上では/うたったさ、そりゃあがんばったよ。 土偶も、空の神も、/みんなで、哲学の徒であろうとしたさ。」を言いなおしているのかもしれない。
震災後、紅葉を語ることばがない。「美しい」とは言えない。でも、どう言えばいいのか。「美しい」けれど「美しい」とは言えないので、たとえば「美しい」を逆に(さかさまに)言えば、紅葉を語ることができるか。「うつくしい」「いしくつう」。「意志・苦痛」になる。「回文」ではないのだが、「さかさま」にするだけで、違うものが忍び込んでくる。
これは「翻訳」不可能なものだね。日本語を「母国語」としている人間にはわかるが、そのことばを日常的に話していない人には、「美しい」を「さかさま」にすると「意志・苦痛」になるかなんて、わからない。
もちろん「いしくつう」をどう読むか。「音」にどんな漢字をわりふって「意味」にするかは人によって違うだろうが、藤井が「意志・苦痛」という「漢字のルビ」をふったとき、そこに日本人には「わかる」意味が出現する。それしか意味がないように思われる。
「意味」は単に「意味」ではなく、「ストーリー」をひきつれてくる。震災後を生きることは「苦痛」を伴う。しかし、その「苦痛」を引き受け、さらに生きていく「意志」を人間は持つことができる。そして、「意志・苦痛」ということばは、ある意味で、これからの生きる「指針」にもなる。
ことばのなかから、予想もしなかった何かがあらわれて、人間を引っぱっていく力になる。
昔、「若いという字は苦しい字ににてるわ」という歌謡曲があったが、「意味」が人間を引っぱる力になる。支えになる、ということがあるのだ。「苦しいけれど、それは若さの特権である」という具合に。
「意志・苦痛」にも、そういうものを感じる。それは「美しい」とは簡単に言えないけれど、「美しい」何かに触れている。ことばの中には、予想外のものが含まれている。そして、それは「母語」の「遺伝子」のように、意識されないまま生きている。
藤井は、「音」の中に、それを感じている。
哀吾、哀吾よ、きみの名は「哀吾」か
秋にもなれば、晩秋のあらしになれば、
紅葉にかわって、終わるらんぎくが栄えることでしょう、
叙事詩のなかに、一人また一人 名前は浮上する。
終わりの始まり、
「哀吾」をどう読むか。「あいご」と読めば、それは韓国語の「アイゴー」になるかもしれない。喜怒哀楽、特に強い悲しみを訴えるときのことばに。
「母語」のほかにも、「ことば」はまじってくる。それは「感情」がまじってくるということでもある。人間は、そうやって「つながる」ともいえる。
私の「要約」では、藤井が何を書いてあるかわからないと思うが……。
一篇の詩のなかで、何かがすり変わるように動いている。何と何がすり変わったのか、何のためにすり変わったのか。それを読み解けば、また、「意味」が強い形で生まれてくるのだろうけれど、それを書くことは私にはできない。
いいかえると、わからない。
わからないけれど、この詩のなかでは、ことばが「音」を中心にして、「越境」を繰り返していると感じる。「意味」の越境、「意味」の破壊。それでも生きることば。それを、「生まれる瞬間」にこだわって書いていると感じる。
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