詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井貞和『美しい小弓を持って』(15)

2017-08-27 08:50:16 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(15)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「オルタナティヴ」というのは、いまはやりのことばなのか、ときどき見かける。だけれど、私には何かよくわからない。私は耳で聞いたことばしか理解できない。話されるのを聞かないことには理解できない。私のまわりには、このカタカナ語を話す人はいない。
 それに「カタカナ難読症」と私が勝手にいっているのだが、カタカナが読めない。すぐ読み間違いをする。知らないことばなら、なおさらである。最初「オルナタティヴ」と書き写して、どうも見た感じが違う。一字一字指で押さえながら確認し、「ナタ」ではなく「タナ」かと気づいて書き直したくらいである。でも、口に出すと「オルナタティヴ」になってしまって、なかなか「オルタナティヴ」にならない。
 最初からつまずき、詩の感想を書く気持ちが半分いえてしまうのだが。

意味不明の突出した描写は
焼跡から イエスから
無頼派、戯作の文体が
描かれている なおそのうえで
兵隊服の男が朝鮮人男性と言えるかしら

 あ、これは石川淳の「焼跡のイエス」のことを書いているのかな? (最後に註釈があって、そうなのだと確認する。)
 石川淳の文体は強烈だ。
 「突出した」ということばが石川淳の文体の力をあらわしている。その「突出した」を修飾する「意味不明の」ということばが、さらに石川淳の「文体の力」をあらわしている。藤井の書いている「意味不明の」というのは、書かれている「内容/指し示すもの」が不明ということではなく、「突出力」が「意味不明」、つまり「常識はずれ」ということだ。
 「描写」が突出しすぎていて、「意味」がわからなくなる、と言いなおせばいいだろうか。度の強いメガネをかけると、網膜にものが焼き付けられて、それが取れなくなるような感じに襲われる。「見ているもの(対象)」が網膜に貼りつき、それ以外のものが見えなくなる。「脳」だけではなく「肉体」そのものが「見たもの(対象)」になってしまうような、激しい酔い、混乱、苦痛に襲われる。
 そういう「常識はずれ」の文体。不必要に「存在」が突出してくる文体。

意味不明の突出した描写は

 この一行だけで(次の行の、「焼跡から イエスから」がもちろん見えいてるから、そう感じるのだが)、あ、これは石川淳だと感じ、私はそれだけで、この詩に満足してしまう。
 私は石川淳が大好きだ。石川淳の文体を藤井も好きに違いないと思い、それだけで藤井の書いていることに「共感」してしまう。
 まだ、何も読んでいないのに。読んだとは言えない状態なのに。
 これは、ある曲の最初を聞いただけで、「あっ、この曲はすごい、大好きだなあ」と思うのに似ている。

 で、さらに読み進んでいくと。

野坂や 大江さん
終戦を扱う マンガ
若い世代が絶えず参照する
七十年間の オルタナティヴ

 野坂は野坂昭如、大江さんは大江健三郎。ふたりとも独特の文体をもっている。そのふたりも石川淳が好きだったのかな? 私は知らないが、藤井はそういうことを聞いたのかもしれない。実際はどうかはわからないが、物書きは石川淳の文体を「参照」するだろうなあ。
 というか。
 石川淳を読んだあとでは、自然に文体が石川淳にならないだろうか。
 いや、私の文体は、どんなに石川淳をまねしても石川淳にはなりようがないのだが、それは「客観的」な評価であり、私としては石川淳そのもの。あ、これって、石川淳の文体になっているなあ、と思うのである。いま書いている文章のことではなく、石川淳を読んだあとに書く文章のことだけれど。そういう思いにつきまとわれるので、私は石川淳の作品について感想を書いたことがない。

 あ、何を書いてるんだっけ。
 藤井の詩についての感想を書こうとしている。でも、脱線しっぱなし。思いは、石川淳に引っぱられてしまう。
 藤井はどうなのかなあ。
 そんなことを思っているうちに、詩は最終連にきている。

雪のまんなかで
ヴェロニックな顔が(あれ
ヴェロニカとは何か)と思いながら
黒いドロになる、と
それは作家 石川淳の表象だと
きのうのいちにち
反論しつづける娼婦のオルタナティヴ

 うーん。
 ここで、私の「肉体」は妙な具合に動く。突然「意味」に触れたような感じになる。「突出してくる何か」が「肉体」を突き破る感じ。「肉体」が突き破られる感じ。
 どういうことかというと。
 「表象」ということばが「オルタナティヴ」と結びついて、何か語りかけてくるのを感じる。こういう「現場」を何度か経験して、私は「ことば」の意味をつかむのだと思う。「正解」ではないが、自分で納得できる「意味」を自分の中にしまいこむといえばいいのか。
 この連で、私が特に注目したのは、

反論しつづける娼婦のオルタナティヴ

 である。「オルタナティヴ」というのは「反論しつづける」ということと深く関係している。そう直感する。
 この「反論」、言い換えると断定と否定のあり方は、その前の、

ヴェロニックな顔が(あれ
ヴェロニカとは何か)と思いながら

 と、何か似ていないか。
 何かを「引き寄せる」(想像する)、同時にその「引き寄せる何か」に対して「何か」と疑問を持つ。疑問は反論の一種。その瞬間、その「何か」はふたつになる。ふたつになりながら、「ひとつ」を探る。「オルタナティヴ」とは、いくつかの中から「ひとつ」を選びとって「表象」する。「ひとつ」に「表象」するということではないのか。
 石川淳の小説では、汚い少年が「イエス」として表象されている。少年は他のものにもなりうる。けれど石川淳はイエスを選びとって、イエスとして表象した。
 「オルタナティヴ」という「意味」はわからないが、「オルタナティヴ」の「運動」とはそういうことではないか、と私はここで思うのだ。 

 で、ここからさらに私は考える。
 人は誰でも大事なことは繰り返し言う。これと似たことを藤井は、詩のどこかで、いっていないか。
 読み返す。そうすると、一連目、先に私が引用した五行のあとに、こうある。

と煩悶し おいらはたしかに
内向きに収斂する

 最初に読んだときは何か書いてあるかわからずに、めんどうくさくて省略したのだが、そうか「収斂する」か。「オルタナティヴ」とは、「ヴェロニックな顔が(あれ/ヴェロニカとは何か)と思いながら」という具合に混乱する思い(反論にぶつかり、困惑する思い)を経て、そこから何かを「選び」、選び取ったものへ向かって「収斂する」ということか、と思う。勝手に、想像する。つまり、「誤読」する。「煩悶する」は「思いが乱れる」であり、それが「収斂する」とは「思い」が「表象」に結晶する。
 客観的なというか、流通言語としての「オルタナティヴ」がどういう意味かわからないが、藤井は、そんなふうに理解していないだろうか。
 そして、藤井は、石川淳の文体に、意識の衝突と、その意識を「ひとつ」に「表象」する運動を見て取り、それを「詩」の運動と理解し、引き継いでいこうとしている、と読む。私は「誤読」をそんな具合に拡大する。

 これは詩を読みながら感じ取った「意味」なので、間違っているかもしれない。藤井が話しているところを聞けば(声をとおして聞けば)、もう少し「意味」がつかみとれるかもしれない。
 勝手な「オルタナティヴ」の定義だけれどね。
言葉と戦争
クリエーター情報なし
大月書店
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