アスガー・ファルハディ監督「誰もがそれを知っている」(★★+★)
監督 アスガー・ファルハディ 出演 ペネロペ・クルス、ハビエル・バルデム、リカルド・ダリン、エドゥアルド・フェルナンデス、バルバラ・レニー
謎解き映画というのは私は好きではない。途中で「答え」がわかってしまい、退屈になる。「良質(と言われる)」な映画ほど、「わかりやすい」。カメラが演技するからだ。「伏線」をカメラの「演技」で描き出すからだ。
この映画では、リカルド・ダリンがアルゼンチンからやってきて、警官上がりの私立探偵(?)と会ったあとのシーン。ペネロペ・クルスと二人で車で村へ帰っていくのだが、このときの二人の乗った車のシーンが、他の映像と完全に違っている。走る車をただ映しているのではなく、誰かが後ろから追いかけている(尾行している)ときの、その視点でフレームができている。ほんとうに追跡しているかどうかは問題ではなく、誰かが「後ろ」から二人を追っている。それは「意識」だけかもしれないけれど。ということは、リカルド・ダリンと私立探偵を引き合わせた者(その会合のとき、そこにいたひと)の誰かが「犯人」ということになる。
で、そのあとの展開は、ただただ「犯人隠し」のためのストーリーになる。こうなると、私の感覚では「映画」ではなく、「紙芝居」になってしまう。
ただ、この映画には「推理」を越える隠し味があって、それが気に入って★をひとつ追加した。
どういう「隠し味」かと言うと。「こどもは親の秘密を知る」「親はこどもの秘密を知る」ということ。これが二重に組み合わさっている。
誘拐される娘の父親が、実は母親(ペネロペ・クルス)の昔の恋人(ハビエル・バルデム)だったというのは、安っぽいメロドラマみたいで「秘密」どころか、誰もが想像する通り。しかし、誘拐犯はペネロペ・クルスの兄と妹だったと、母親(ペネロペの母、つまり誘拐されたのは母親から見れば孫)が知ってしまうというのはなかなか「味」がある。その「真実」を母親はペネロペ・クルスには言うことができない。
ペネロペ・クルスが娘に対して「あなたの父親はハビエル・バルデムだ」と言えないように、母親は「おまえの娘(つまり、孫)を誘拐したのは、おまえの兄と妹だ」と言えない。なぜ言えないか。娘を傷つけてしまうからだ。母親が気にかけているのは、いつも娘が傷つかないように、ということだけだ。
だから。
ほら、ペネロペ・クルスの妹が「誘拐犯」の一人であると気づいたとき(何か変だと気づいたとき)、母親は彼女を最後まで詰問することはない。わかっているけれど、どこかで追い詰めない。最後の最後のシーン。母親は息子を呼び止める。そして何か言おうとする。ここで「結論」を映さずに映画は終わるのだけれど、これはなかなかおもしろいなあ。母親にとって、娘というのは「分身」なのか。息子は「分身」とまでは言えないのか。そういうことを思ったりする。
この映画には、また、もうひとつとても不思議な「味」がある。リカルド・ダリンがしきりに「神」を口にするのだが、この神が私にはスペイン人の言う神とはちょっと違うと感じた。妙に「個人的」というか、「直接的」に聞こえる。神と自分は直接、契約を結んでいる。それは「キリスト教」というより、「イスラム教」の信じ方に似ていると感じた。イスラム教と言っても、いろいろあるだろうから簡単にこんなことを書いてしまってはいけないのだろうが、ここにアスガー・ファルハディ監督の「イラン人」性のようなものが出ていると感じた。
(KBCシネマ1、2019年06月03日)