ミキ・デザキ監督「主戦場」(★★+★★★)
監督 ミキ・デザキ
慰安婦問題と日本人、韓国人、さらにアメリカ人はどう向き合っているか。話題のドキュメンタリーである。
私は、「慰安婦は存在しなかった」という人の意見をきちんと聞いたことがなかったので、それをきちんと聞いてみたかった。ちょっと「肩すかし」である。学者らしき人も登場し発言しているが、杉田水脈、ケント・ギルバート、櫻井よしこら、「事実」をつきつめるというよりも「心情」を語るという感じの主張が多く、「慰安婦は存在した」と語る人の「事実」を記録したいという主張と隔たりが大きすぎて、論戦になっていない。
慰安婦の問題がむずかしいのは、「証言」の困難さにある。「慰安婦は存在しなかった」と主張する人は、「慰安婦をさせられた」という女性の証言が必ずしも一貫していなことを「根拠」にあげるが、性的被害を被害者が「一貫した論理」で語ることはもともとむずかしいことだろう。そのときの屈辱や悲しみがこみあげてきて、「正確」に語れと要求するのは失礼だろう。「正確さ」がない(矛盾した証言がある)と批判するが、むしろつらい体験を矛盾なく語っているとすれば、その「正確さ」の方に疑問があるとさえ言えるかもしれない。
また被害者がいれば、加害者もいることになるが、加害者の方には自分のしたことを正直に語る責務があるかもしれないが、同時に自分のしたことを語らない権利もある。どんなことがらに対しても、人は自分にとって不利なことは証言しなくていいという権利を持っている。自分がしたことが悪いことであり、それを語れば非難されるとわかっていれば、非難を承知で告白するのはかなり勇気のある人間である。
性被害の実像は、客観的にはなりにくい。この客観的になりにくい被害とどう向き合うかは、困難な問題を多く含んでいる。
慰安婦問題は、歴史問題というよりも、人権問題なのである。言い換えると、絶対に「過去(歴史)」にはならない問題、常に「現在」の問題なのである。「慰安婦は存在しなかった」と主張する人たちには、この感覚が完全に欠如している。
慰安婦でなくても、たとえば、本人の意思で結婚した夫婦であっても、生活している過程で愛情が破綻した場合、人はセックスを拒否できる。意志にそぐわないセックスを強要すれば、それは人権侵害になる。ドメスティックバイオレンスなど、いま、日本でも話題になっていることを土台にしても、それは明らかである。そのために苦悩している女性がいる。また男性もいるだろう。セクシャルハラスメントも同じである。
歴史問題であるけれど、現実の問題でもあるという視点からの意見は、また「慰安婦は存在した」と主張している人の側からもあって当然だと思うのだが、そういう指摘も明確には感じられなかった。それも残念だった。
「歴史」の問題として、私にとって収穫だったのは、日韓交流が日韓独自の交渉によって形成されたものではなく、常にアメリカの世界戦略によってつくられたものであるという指摘だ。アメリカは世界戦略の一貫として、日本と韓国を利用している。日本と韓国が敵対していては、アメリカの世界戦略が機能しない。オバマさえ、その戦略にしたがって日韓和解をお膳立てした。もちろんほかの見方もあるだろうが、この映画では、その問題を手早く描いていた。
そして。
実は、これこそが「主戦場」というタイトルに影響している。というか、ミキ・デザキ監督が描きたかったのは、これだと気づかされた。「慰安婦問題」をどう処理するかの「主戦場」は「日韓」ではなく、アメリカが舞台なのだ。アメリカの「世界戦略」が舞台なのだ。
だからこそアメリカの大学院生が、自分の国の問題として、この映画をつくったんだろうなあ。日本人や韓国人のためにつくった映画ではない。
トランプがこの映画では描かれていないが、つまりトランプが「日韓」の関係をどう考えているかわからないが、日韓問題はアメリカの世界戦略と関係づけて見ていかないと、どうなるかわからない。
極端な話、北朝鮮とアメリカが「敵対関係」を解消し、「友好条約」を締結した場合、日韓の関係はどうなるのか。南北統一が実現したら、日本と南北統一国家との関係はどうなるのか。それに対してアメリカはどう関与してくるのか。
アメリカでは「慰安婦問題」を世界戦略(世界に共通する人権の問題)として向き合っている。少なくともこの映画ではそう描かれているのに、日本は(日本の政府は)、「日韓の戦後処理問題」としてしかとらえていない。
私は、なんというか、落ち込んでしまった。しばらく椅子から立ち上がれなかった。
「慰安婦問題」を、この映画が描いているように、アメリカの世界戦略と関係しているとは考えたことがなかったからだ。アメリカから見れば、日本は、ほんとうにアメリカの一部なのだと、はっきり感じた。
ということとは別に、こんなことも考えた。
よく中国は経済の国、韓国(朝鮮)は思想の国、日本は政治の国と言われる。この映画では中国は出てこないが、韓国人の動き、日本人の動きを見ると、たしかにそうなのだと思う。
冒頭、元慰安婦だった女性が韓国の大臣に対して、「なぜ被害者である自分たちの意見も聞かずに、勝手に日本と交渉をし、協定を締結したのか」というような批判をする。自分の「人権」を明確に主張している。個人の権利として、自分のことばで語っている。思想そのものを語っている。自分の尊厳を取り戻す権利は自分にあるのであって、国が勝手に決めることではないと主張している。思想の国だ。ひとりひとりが思想を持っている国だ。
日本はどうか。どうやって国を動かしていくか。アメリカの要求にあわせて動いている。「政治」というのは簡単に言いなおせば、こび、へつらいによって、関係をスムーズにするということ。思想によって方針を決めるのではない。アメリカに気に入られるように国家の方針を決める。
これは、安倍によって、さらに加速している。
で、問題は。
私はまた引き返してしまうのだが。
いまは人権侵害が「売り」のトランプが大統領だから、安倍は思うがままに人権侵害路線で、トランプに媚びへつらっているが、人権派の大統領が誕生したとき、どうなるのかなあとも思う。安倍のもとでは、日本は完全に孤立し、それこそ戦争へ突入するというたいへんなことが起きるのではないのか。
これは、そういう意味では、日本への警告の映画だとも言える。
(KBCシネマ1、2019年06月08日)
監督 ミキ・デザキ
慰安婦問題と日本人、韓国人、さらにアメリカ人はどう向き合っているか。話題のドキュメンタリーである。
私は、「慰安婦は存在しなかった」という人の意見をきちんと聞いたことがなかったので、それをきちんと聞いてみたかった。ちょっと「肩すかし」である。学者らしき人も登場し発言しているが、杉田水脈、ケント・ギルバート、櫻井よしこら、「事実」をつきつめるというよりも「心情」を語るという感じの主張が多く、「慰安婦は存在した」と語る人の「事実」を記録したいという主張と隔たりが大きすぎて、論戦になっていない。
慰安婦の問題がむずかしいのは、「証言」の困難さにある。「慰安婦は存在しなかった」と主張する人は、「慰安婦をさせられた」という女性の証言が必ずしも一貫していなことを「根拠」にあげるが、性的被害を被害者が「一貫した論理」で語ることはもともとむずかしいことだろう。そのときの屈辱や悲しみがこみあげてきて、「正確」に語れと要求するのは失礼だろう。「正確さ」がない(矛盾した証言がある)と批判するが、むしろつらい体験を矛盾なく語っているとすれば、その「正確さ」の方に疑問があるとさえ言えるかもしれない。
また被害者がいれば、加害者もいることになるが、加害者の方には自分のしたことを正直に語る責務があるかもしれないが、同時に自分のしたことを語らない権利もある。どんなことがらに対しても、人は自分にとって不利なことは証言しなくていいという権利を持っている。自分がしたことが悪いことであり、それを語れば非難されるとわかっていれば、非難を承知で告白するのはかなり勇気のある人間である。
性被害の実像は、客観的にはなりにくい。この客観的になりにくい被害とどう向き合うかは、困難な問題を多く含んでいる。
慰安婦問題は、歴史問題というよりも、人権問題なのである。言い換えると、絶対に「過去(歴史)」にはならない問題、常に「現在」の問題なのである。「慰安婦は存在しなかった」と主張する人たちには、この感覚が完全に欠如している。
慰安婦でなくても、たとえば、本人の意思で結婚した夫婦であっても、生活している過程で愛情が破綻した場合、人はセックスを拒否できる。意志にそぐわないセックスを強要すれば、それは人権侵害になる。ドメスティックバイオレンスなど、いま、日本でも話題になっていることを土台にしても、それは明らかである。そのために苦悩している女性がいる。また男性もいるだろう。セクシャルハラスメントも同じである。
歴史問題であるけれど、現実の問題でもあるという視点からの意見は、また「慰安婦は存在した」と主張している人の側からもあって当然だと思うのだが、そういう指摘も明確には感じられなかった。それも残念だった。
「歴史」の問題として、私にとって収穫だったのは、日韓交流が日韓独自の交渉によって形成されたものではなく、常にアメリカの世界戦略によってつくられたものであるという指摘だ。アメリカは世界戦略の一貫として、日本と韓国を利用している。日本と韓国が敵対していては、アメリカの世界戦略が機能しない。オバマさえ、その戦略にしたがって日韓和解をお膳立てした。もちろんほかの見方もあるだろうが、この映画では、その問題を手早く描いていた。
そして。
実は、これこそが「主戦場」というタイトルに影響している。というか、ミキ・デザキ監督が描きたかったのは、これだと気づかされた。「慰安婦問題」をどう処理するかの「主戦場」は「日韓」ではなく、アメリカが舞台なのだ。アメリカの「世界戦略」が舞台なのだ。
だからこそアメリカの大学院生が、自分の国の問題として、この映画をつくったんだろうなあ。日本人や韓国人のためにつくった映画ではない。
トランプがこの映画では描かれていないが、つまりトランプが「日韓」の関係をどう考えているかわからないが、日韓問題はアメリカの世界戦略と関係づけて見ていかないと、どうなるかわからない。
極端な話、北朝鮮とアメリカが「敵対関係」を解消し、「友好条約」を締結した場合、日韓の関係はどうなるのか。南北統一が実現したら、日本と南北統一国家との関係はどうなるのか。それに対してアメリカはどう関与してくるのか。
アメリカでは「慰安婦問題」を世界戦略(世界に共通する人権の問題)として向き合っている。少なくともこの映画ではそう描かれているのに、日本は(日本の政府は)、「日韓の戦後処理問題」としてしかとらえていない。
私は、なんというか、落ち込んでしまった。しばらく椅子から立ち上がれなかった。
「慰安婦問題」を、この映画が描いているように、アメリカの世界戦略と関係しているとは考えたことがなかったからだ。アメリカから見れば、日本は、ほんとうにアメリカの一部なのだと、はっきり感じた。
ということとは別に、こんなことも考えた。
よく中国は経済の国、韓国(朝鮮)は思想の国、日本は政治の国と言われる。この映画では中国は出てこないが、韓国人の動き、日本人の動きを見ると、たしかにそうなのだと思う。
冒頭、元慰安婦だった女性が韓国の大臣に対して、「なぜ被害者である自分たちの意見も聞かずに、勝手に日本と交渉をし、協定を締結したのか」というような批判をする。自分の「人権」を明確に主張している。個人の権利として、自分のことばで語っている。思想そのものを語っている。自分の尊厳を取り戻す権利は自分にあるのであって、国が勝手に決めることではないと主張している。思想の国だ。ひとりひとりが思想を持っている国だ。
日本はどうか。どうやって国を動かしていくか。アメリカの要求にあわせて動いている。「政治」というのは簡単に言いなおせば、こび、へつらいによって、関係をスムーズにするということ。思想によって方針を決めるのではない。アメリカに気に入られるように国家の方針を決める。
これは、安倍によって、さらに加速している。
で、問題は。
私はまた引き返してしまうのだが。
いまは人権侵害が「売り」のトランプが大統領だから、安倍は思うがままに人権侵害路線で、トランプに媚びへつらっているが、人権派の大統領が誕生したとき、どうなるのかなあとも思う。安倍のもとでは、日本は完全に孤立し、それこそ戦争へ突入するというたいへんなことが起きるのではないのか。
これは、そういう意味では、日本への警告の映画だとも言える。
(KBCシネマ1、2019年06月08日)