詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「谷川俊太郎の世界」

2019-06-20 10:01:34 | 現代詩講座




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谷川俊太郎の世界(7-2)

2019-06-20 08:01:32 | 現代詩講座
谷川俊太郎の世界(7-2)(朝日カルチャーセンター(福岡)、2019年06月17日)

 参加者は青栁俊哉、池田清子、井本美彩子、香月ハルカ、萩尾ひとみ。

井本美彩子

午後七時のニュースが始まったころ
腹のふくれた巨大な蜘蛛が
暗がりから
じっとこっちを見ていた

「もうすぐ子を撒きちらすのよ」
すこしばかり眉間に皺をよせて
母がつぶやいた
「昔からそうなんだ」
父があきらめたように言った

撒きちらされた子どもたちが
夜の中泳ぐ
口から無数の糸を吐いて
どこまでも夜に乗る
わたしたちをもう見つめるだけの
あなたが たたずむ その夜に
糸を吐く
ねえ またいつか会えますか
わたしも いつかまで 知っていた
あの夜の中

そして今日も
午後七時のニュースが始まった
というのに
あの巨大な蜘蛛は
もういない

「この前はありだったなあ、今回は蜘蛛。子を撒きちらすんですか?」
「蜘蛛の子を撒きちらすということばがある」
「撒きちらします。すごいですよ」
「私の感性がついていかないのだけれど、実際に蜘蛛の子が散るのを見たことがあるんですか?」
「二連目までは、実際のことです」
「ねえ またいつか会えますか、というのは誰が誰に会うんですか」
--作者に聞くのではなくて、考えましょう。誤解かもしれないけれど、その誤解なのかに新しい詩があるかもしれない。
「蜘蛛ですかね。またこの蜘蛛に会いたい」
「自分の心の中にある好きな人」
「私も、ここの部分がよくわからない。わたしも いつかまで 知っていた、というのは何を知っていたんだろう」
「いつかまで、というのも何か不思議な表現」
--ふつうは何といいます?
「そのときまで、かな」
--井本さん、何かいいたいかもしれないけれど、もう少し待ってくださいね。この人たち、いったい何言ってるんだろうという感じかもしれないけれど。(笑い)この二行について考えるおもしろいと思う。
 ちょっと視点を変えて、その前の、あなたが たたずむ その夜にの、あなたというのは誰だろう。そこから考えてみましょうか。あなたのまえに、蜘蛛、母と父と、書かれていないけれど私が登場している。あなたは、母? 父?
「もう見つめるだけの、とあるから、あなたは去っていくんですか」
「蜘蛛かな。でも、感想のなかで出てきた恋人かもしれない、という気もしてくる。」
「蜘蛛に象徴されている何かかもしれないけれど」
「蜘蛛の子はまだ生まれて。まだ生まれないまま死の世界からあらわれてくるもの」
--あ、すごいなあ。私は、蜘蛛を見たときの、過去の私、という具合に読んだ。母や父といっしょに蜘蛛を見たときの私にもう一度会えるかな、と。そのときの私は蜘蛛の子を散らすということを知らない。けれど父や母は知っている。それを聞いて、ああ、そうなんだと思った私。小さいころの一瞬に会える。子どもにはわからないけれど、大人は知っている世界がある。それを知って、ドキドキした感じの子ども時代の私、と読んだのですが。最後の連のは、あの巨大な蜘蛛はもういないと書いてある。蜘蛛だけではなく、あの蜘蛛を見た私も今はいない。過去になった、と読んだのですが。
 で、井本さんは?
「あ、聞かないと言ったのに」(笑い)
「蜘蛛は座敷の暗がりに来ている。座敷というのは、小さいときの感じでは、家のほかの部屋とは違う空間という感じがある。その座敷に蜘蛛の子が散らばっているイメージがあって、その座敷には、いなくなった人たちが佇んでいる。そのなかで祖先、先祖のこととかを思い出している。座敷というのは、死んだ人たちがいると同時に、生まれてくる人がいるという感じ」
「すると、いつかまで知っていた、というのは?」
「小さい子どものときまでは感じとれていた座敷の感覚」
「なるほど」


ゆめ 香月ハルカ

ももいろのはなふさが
あおいそらに
ふっくらとたれている

しらぬまにうえられたやえざくら
たびだった かれに
ひとめみせてあげたい

ずっとおもいつづけていたら
ゆめで であえた
でもやえざくらはみえなかった

ゆめはふしぎなじかん
どこにもすがたはないけれど
おもいがつながることがある
ぼんやりめざめても
からだのどこかにのこっている
ゆめはねむりのなかのむげんのせかい

「四月に最初の詩を書いたとき、ちょうど庭には八重桜が咲いていた。そのときに書きかけていた詩です。夫を亡くして十六年たっている。母が残した広い庭があって、母が亡くなって、夫が退職したあといろいろ手入れをした。そのなかに桜があった。ことしは特にきれいに咲いた。そのことを書いてみたくて書いた。夢で実際に夫に会って、夢というのは不思議だなあ、と」
「ゆめはねむりのなかのむげんのせかい、というのはいいですね」
「何か思っていると、夢に出てくるということはありますよね」
「こういう夢を見たい」
「夢で会いたいなあと思って」
「ずっとおもいつづけていたら、ゆめで であえた、というのがいいですね」
「おもいがつながることがある、というのも」
「からだのどこかにのこっている、というのが印象的。私はときどき前の日に見た夢が次の日に寝るときに余韻として残っているときがある」
「つづきをみます?」
「そういうことではないのだけれど、何か残っている感じがする」
「でもやえざくらはみえなかった、というのが気にかかった」
--私も、やえざくらはみえなかった、が印象に残った。彼に会えたけれど、やえざくらはみえなかったというのは、完璧ではないということなのだけれど、だからこそ逆に真実だと感じさせる。また、だからこそ夢という感じもする。夢のもどかしさというか、リアルな感じがいいなあ、と思った。両方ともかなえられてしまったら、実際に見た夢ではなくなるような、頭で作り上げた夢のような。
 もうひとつ、からだのどこかにのこっているもとても印象的で、好きな行なのだけれど、ふつうは夢はどこに残っているといいます?
「私は追いかけられたりする夢が多くて、残ってほしくない。(笑い)こわい夢は、記憶に残っている」
「どこって聞かれたら、頭かな。頭じゃなくて、からだのどこかというのは素敵な表現ですね」
「全身、かな。体の芯、かな」
--どこに残っている。なかなか特定するのはむずかしいですね。そういう特定できないことを特定できないまま、からだのどこか、と書くということも大事なことかなと思う。わからないものをわからないままにして、それがことばとして書かれていると、とても印象的になると思う。池田さんの書いた「穴」もそうですね。ことばとしてわかるけれど、何かわからないものを含んでいて、それが書かれていると刺戟的。言われてみて、はじめてわかるようなところがあると、ああ、ほんとうのことを書いているな、詩だなあと感じる。自分では言えないものが書かれている、そのことばに出会ったとき、私は、ここが詩なんだなあと思う。
「全部ひらがなで書かれているもいいですね」

子犬 萩尾ひとみ

あの日、何匹かいた子犬の中から
一番おとなしそうな君を選んだ
でも、大人しかったのは一晩だけ
次の日から、君は超おてんば
柴犬の雑種だと信じていた家族をうらぎり
君はしっかりテリア?の風貌

君の目には、いつもぼくが映っていた
僕は、よそ見ばかりしていたのに
君は、毎日、僕の帰りを待っていてくれた
君は幸せだったかい

私はあなたよりずっと早く歳をとって
私の目にはもうあなたは映らない
私の耳にはあなたの声は届かない
それでも、私はあなたを感じています
全身であなたを感じています
あなたのことが大好きだから

「私、きょうはこれないかなあ、と思うくらい、犬が危ない状態なんです。でも、きのうの夜、何か書いておこうと思って」
「超おてんばの超がおもしろい。僕は、よそ見ばかりしていたのに、も印象に残る」
「愛情がいきいきと伝わってくる」
「三連目で私が出てくる。その前は僕。大人になった私が子ども時代に死んでしまった犬、かわいがっていたことを思い出しているのかな」
「三連目が、よくわからない。逆かなあ」
--逆というのは?
「犬は人間より早く歳をとりますね。だから、私があなたより早く歳をとるというのが、逆に感じる」
--あ、いま、とても大事なことを言ってくれたと思う。ちょっと、ほかの人の感想を聞きたいのだけれど、一連目に君、二連目に僕、三連目に私が出てくる。僕は、誰だとおもいます?
「飼い主」
--三連目の私は?
「飼い主」
「私も飼い主だと思う」
--みなさん、私は飼い主?
 主語を逆に考えてみるとどうなりますか? 一連目の君は犬。二連目の君も犬。僕は飼い主。僕になっているけれど、これは萩尾さんが僕になって書いている。三連目の私は主語が交代していて私が犬であなたが飼い主。そう読めませんか? 私が犬で、あなたと書かれているのが僕、つまり飼い主。そう読むと、犬(私)は飼い主(僕)よりずっと早く歳をとる、というのは犬と人間の関係になる。
「あ、やっとわかった」
--一連目、二連目は人間が主語になっているけれど、三連目は犬が主語になっている。「そんなに、わかりにくかったですか? すぐわかると思って書いたんだけれど」
--私もすぐわかるだろうと思っていたんだけれど。それでちょっと長々と説明してしまったんだけれど。
「聞けばわかるんだろうけれど」
--あ、作者に聞いちゃおもしろくないんですよ。やっぱり、違っていてもいいから考える。たぶん、よくわからない部分、ひっかかった部分に、作者のいちばんいいたいことが書いてある。その人にしか書けないことだから、ほかの人にはわからない。そう思って読むと楽しいと思う。そのときに、そこに書かれている「動詞」を中心にして読むと、「動詞」にあわせて自分の体が動いていくので、ことばではなく体でそのひとのことがわかる。それで、この詩の場合、私を犬と考えるだけではなくて、犬になってください。そうすると、最後の二行がよくわかる。あなたのことが大好きだから、という感じがわかる。

次回は7月1日(月曜日)午後1時-2時30分
1回かぎりの飛び入り受講もできます。
問い合わせは092・431・7751 朝日カルチャーセンター福岡まで。







*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(31)

2019-06-20 00:00:00 | 嵯峨信之/動詞
* (このように細々と)

その音がやむと
大空のはてを
僧侶の一行が遠ざかつていくのが見えた

 「音」と「イメージ」の関係が印象的だ。
 音が「やむ」とイメージが「見える」。しかも「見える」ものは「遠ざかつていく」。つまり消えていく。音とイメージは、一瞬のうちに交代し、「消える」という動詞のなかでひとつになる。「消える」という動詞はここには書かれていないのだが。




*

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