詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(25)

2019-06-14 14:57:28 | 嵯峨信之/動詞
* (魂しいのなかに)

魂しいのなかに
なぜぼくをつれ戻そうとするのか

 私は「魂」というものの存在を実感したことがないので、「頭」でことばを動かすしかないのだが、一般に「魂」は人間の体のなかにあると理解されていると思う。いいかえると「ぼく」のなかに「魂」はある。
 ところが、嵯峨は、逆のことを書いている。
 まず「魂しい」があって、そのなかに「ぼくをつれ戻す」。
 でも、だれが? 「魂しい」が、ということになる。
 そのとき「魂しい」とはだれのものなのか。「ぼく」のものか。「ぼく」以外のものか。
 「論理」に整合性を持たせようとすると、「魂しい」は「ぼく」のものではない。「魂しい」という名の、一種の人間(いのち)の「理想」のようなものである。そのなかに「戻る」ことによって、「ぼく」は人間に「なる」ということかもしれない。







*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
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