詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中庸介「涙坂」

2019-06-21 16:52:06 | 詩(雑誌・同人誌)
田中庸介「涙坂」(「ミて」146、2019年03月31日発行)

 田中庸介「涙坂」は、こんなふうに始まる。

三鷹台の駅の裏側の道を辿っていくと
何だか道がよくわからなくなるのは昔と同じだった。
タクシーが偶然そっちを向けて停まったものだから、
ぼくらは九十四歳のじじを乗せて駅裏のハンバーグ屋を出発した。
夜の闇の中、
神田川に沿ってくねくねと道は続く。
あの橋をわたりあの坂を登れば何とかなるかと思ったけれど、
思ったよりもそっちの道は狭くて、
運転手は頭に血がのぼった。
するとじじが
(あそこの店は味がよいね、実に味がよかった
と、突然大声で言った。

 いまはやりのわざと文脈を叩き折ったような文体ではなく、自然な「散文」のリズムが読みやすい。私は自然な「口語」の方が、ことばの運動を正確に伝えてくれると信じている。「じじ」というのは田中からみての「じじ」ではなく、田中のこどもからみての「じじ」である。つまり田中の父であるのだが、この「じじ」という「口語」の選び方自体が日本語の肉体の自然を反映している。ことばの肉体の自然が、田中の詩のなかにあると言う点も、私は好きである。
 この「自然」な書き出しのなかでは、「偶然」と「突然」の出合いがとてもおもしろい。これが「必然」に変わる。その過程は、次の引用までのあいでに、それこそ「散文(事実の積み重ね)」として書かれているのだが、そこは省略して。

無明の中を進むタクシー、
そのヘッドライト、
じじとかかとおれと娘、
おれたちはまだ、あのタクシーに乗っているんじゃないかと思うよ
ねえ、三鷹台の駅前のハンバーグ屋に行ったねえ、
パプリカのかかった温製ポテトサラダを みんなして 食べたよねえ。
そして、あそこの店は味がよい、実に味がよかった、と言ったよねえ。

 「おれたちはまだ、あのタクシーに乗っているんじゃないか」というのは「事実」ではなく「思い」であるのだが、「思うよ」の「よ」ということばによって、家族の「事実」になる。そしてそれが「よねえ」の繰り返しによって共有される。
 このあと詩は、タイトルの「涙坂」に向かって加速するのだが、その加速前の、この一連が、私は特に好きである。
 「意味/涙坂」になる前の、ことばの肉体がある。「かか」とか「あそこ(の)」とかのことばの選択も、自然な肉体が持っている強さを教えてくれる。

 芝居を見ていて、うまいなあと感じる役者の台詞回しは、「ことば(セリフ)」が動く前に、肉体が動く。肉体を「セリフ」が追いかけ、ストーリー(意味)になる瞬間だが、この「無明の中を」から始まる連には、それに通じる「ことばの肉体」がある。





*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(32)

2019-06-21 10:00:24 | 嵯峨信之/動詞
* (友情が重さをますのは)

塩を大きな袋に詰めながら
ひとりの男が唄つている

 唄は男の仕事(塩を詰める)と関係があるか。たぶん、ないだろう。「作業唄」ではなく、男がふと思い出す唄を思う。
 「唄う」という動詞は、どう言うことだろう。
 もし唄わずに、おなじことばを話していたら、この男はとても風変わりに見えるだろう。
 唄う人は人を安心させる。
 唄うというのは、その人の何かを解放すると同時に、聞く人にその解放を伝えるものかもしれない。
 しかし、そういう感想を裏切るように、この詩は、こうつづいている。

魂の外に出ようとするとそこにながれているのは死の唄だ

 いつもとは違い「魂」と嵯峨は書いている。
 「魂しい」と「魂」を嵯峨はつかいわけているようだ。
 概念としての「魂」、嵯峨の実感としての「魂しい」と考えることができる。
 概念の外には「死」が存在する。死んだあと、肉体を「魂」が抜け出すということを人は言うが、肉体をのがれた「魂」は「肉体の死」、あるいは「死の肉体」を目撃することになるのか。
 私は「魂」の存在を実感したことがないので、こういうことについて書くのは、どうもこころもとないが、嵯峨は「魂」を「死」と結びつけ、「魂しい」と「生(いのち)」と結びつけているのではないかという気がする。
 「魂しい」という書き方をすれば、たぶん「死」はこの詩に登場しなかっただろう。つまり、違う詩になっていただろう、と思う。
 単なる「直感」だが。





*

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