田中庸介「涙坂」(「ミて」146、2019年03月31日発行)
田中庸介「涙坂」は、こんなふうに始まる。
いまはやりのわざと文脈を叩き折ったような文体ではなく、自然な「散文」のリズムが読みやすい。私は自然な「口語」の方が、ことばの運動を正確に伝えてくれると信じている。「じじ」というのは田中からみての「じじ」ではなく、田中のこどもからみての「じじ」である。つまり田中の父であるのだが、この「じじ」という「口語」の選び方自体が日本語の肉体の自然を反映している。ことばの肉体の自然が、田中の詩のなかにあると言う点も、私は好きである。
この「自然」な書き出しのなかでは、「偶然」と「突然」の出合いがとてもおもしろい。これが「必然」に変わる。その過程は、次の引用までのあいでに、それこそ「散文(事実の積み重ね)」として書かれているのだが、そこは省略して。
「おれたちはまだ、あのタクシーに乗っているんじゃないか」というのは「事実」ではなく「思い」であるのだが、「思うよ」の「よ」ということばによって、家族の「事実」になる。そしてそれが「よねえ」の繰り返しによって共有される。
このあと詩は、タイトルの「涙坂」に向かって加速するのだが、その加速前の、この一連が、私は特に好きである。
「意味/涙坂」になる前の、ことばの肉体がある。「かか」とか「あそこ(の)」とかのことばの選択も、自然な肉体が持っている強さを教えてくれる。
芝居を見ていて、うまいなあと感じる役者の台詞回しは、「ことば(セリフ)」が動く前に、肉体が動く。肉体を「セリフ」が追いかけ、ストーリー(意味)になる瞬間だが、この「無明の中を」から始まる連には、それに通じる「ことばの肉体」がある。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093
「詩はどこにあるか」2019年4-5月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076118
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
田中庸介「涙坂」は、こんなふうに始まる。
三鷹台の駅の裏側の道を辿っていくと
何だか道がよくわからなくなるのは昔と同じだった。
タクシーが偶然そっちを向けて停まったものだから、
ぼくらは九十四歳のじじを乗せて駅裏のハンバーグ屋を出発した。
夜の闇の中、
神田川に沿ってくねくねと道は続く。
あの橋をわたりあの坂を登れば何とかなるかと思ったけれど、
思ったよりもそっちの道は狭くて、
運転手は頭に血がのぼった。
するとじじが
(あそこの店は味がよいね、実に味がよかった
と、突然大声で言った。
いまはやりのわざと文脈を叩き折ったような文体ではなく、自然な「散文」のリズムが読みやすい。私は自然な「口語」の方が、ことばの運動を正確に伝えてくれると信じている。「じじ」というのは田中からみての「じじ」ではなく、田中のこどもからみての「じじ」である。つまり田中の父であるのだが、この「じじ」という「口語」の選び方自体が日本語の肉体の自然を反映している。ことばの肉体の自然が、田中の詩のなかにあると言う点も、私は好きである。
この「自然」な書き出しのなかでは、「偶然」と「突然」の出合いがとてもおもしろい。これが「必然」に変わる。その過程は、次の引用までのあいでに、それこそ「散文(事実の積み重ね)」として書かれているのだが、そこは省略して。
無明の中を進むタクシー、
そのヘッドライト、
じじとかかとおれと娘、
おれたちはまだ、あのタクシーに乗っているんじゃないかと思うよ
ねえ、三鷹台の駅前のハンバーグ屋に行ったねえ、
パプリカのかかった温製ポテトサラダを みんなして 食べたよねえ。
そして、あそこの店は味がよい、実に味がよかった、と言ったよねえ。
「おれたちはまだ、あのタクシーに乗っているんじゃないか」というのは「事実」ではなく「思い」であるのだが、「思うよ」の「よ」ということばによって、家族の「事実」になる。そしてそれが「よねえ」の繰り返しによって共有される。
このあと詩は、タイトルの「涙坂」に向かって加速するのだが、その加速前の、この一連が、私は特に好きである。
「意味/涙坂」になる前の、ことばの肉体がある。「かか」とか「あそこ(の)」とかのことばの選択も、自然な肉体が持っている強さを教えてくれる。
芝居を見ていて、うまいなあと感じる役者の台詞回しは、「ことば(セリフ)」が動く前に、肉体が動く。肉体を「セリフ」が追いかけ、ストーリー(意味)になる瞬間だが、この「無明の中を」から始まる連には、それに通じる「ことばの肉体」がある。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093
「詩はどこにあるか」2019年4-5月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076118
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com