詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井道人監督「新聞記者」(★★)

2019-06-30 19:06:50 | 映画
藤井道人監督「新聞記者」(★★)

監督 藤井道人 出演 シム・ウンギョン、松坂桃李

 「話題」になっているらしいが、あまりにも予想通りのつまらなさでがっかりしてしまった。
 テーマは「ジャーナリズムと民主主義」ということになるのだろうが、ジャーナリズム、民主主義、そして政治に共通するのは「ことば」である。「事実」をことばで、どう表現するか。表現が成立したその瞬間、「事実」は「真実」にかわる。こういう「ことばのドラマ」、「ことば」の対立と動きを映画で描くことはなかなかむずかしい。「ことば」は映像になりにくいからね。そのむずかしさと、映画はどう向き合っているか。最初から向き合うことを投げ出している。
 悪役(?)の官僚が「国と民主主義を守る」と言うが、その「ことば」のなかにしか「民主主義」は出てこない。聞き漏らしたのかもしれないが、主役の新聞記者は「民主主義」ということばを語らない。さらに「政治家」が登場しない。官僚の陰に隠れている。「上」という比喩(ことば)でしか登場しない。つまり、ジャーナリズムのことばと政治家のことばが対立し、そのなかから「事実」があぶり出され、「真実」にかわっていくという展開がない。
 これではねえ。
 いくら「獣医大学」だの、「レイプ事件の容疑者を逮捕しなかった」だの、「官僚をスキャンダルで追い落とす」だのということが描かれても、安倍にとっては、痛くもかゆくもない。単に「娯楽映画」に終わっているし、(なんといっても「獣医学部」は生物兵器?をつくるための研究機関という設定では、日本で起きたこととはあまりにも違いすぎるし)、「悪いのは官僚」という安倍の「官僚切り捨て」作戦の追認で片がついてしまう。「政治家(安倍)がそれを指示したという証拠」はどこにもなく、官僚が「忖度」し、かってにやったことですんでしまう。
 私が安倍なら、大喜びするだろうなあ。「ほら、悪いのは官僚。私(安倍)は、どこにも関与していないだろう? だれも私(安倍)から指示されたとは言っていないだろう?」これでは安倍は「無実」だという宣伝映画である。
 こんな映画でジャーナリズムを描いたとか、政治(の暗部)を描いたとか、よく言う気になるなあ。
 私たちはもっと「ことば」を鍛えないといけない、ということだけは教えられる。
 日本にあふれているのは、この映画の中に出てきた「ツイッター」のたかだか140字の「罵詈雑言」であって、「論理を積み立てていくことば」ではない。民主主義とは無関係の「ことば」だ。「民主主義」とは「多数決」(多いものが正しい)ではなく、対立点をどこまでもどこまでも「ことば」で語り尽くすことだという意識が完全に欠落している。
 だいたいが安倍のやっている政治というのは、「安倍晋三記念小学校」という名前の学校をつくってくれるひとを優遇するとか、「息子が獣医になりたいといっているから、そのために大学を造りたい」という友人の手助けするとか、「国家」のあり方とはぜんぜん関係のない単なる「人事」だ。自分がうれしい、相手も喜ぶ、よかったよかった、という金を使ったお遊びにすぎない。これが高じて、武器を大量購入すればトランプが喜んでくれる、軍隊を指揮するチャンスもやってくる(なんとしても軍隊を指揮して戦争をしてみたい)という自己満足のための「金遣い遊び」にすぎない。
 官僚を描くなら描くでいいのだが、その官僚を突き破り、安倍にまで「ことば」をぶつけないと映画にはならないのだ。
 こういう映画、アメリカでは必ずと言っていいほど実際の大統領が映像で登場する。安倍、あるいは菅の実際の映像を組み込まないことには、「政治映画」としては完全な失敗。前川元次官とか、望月記者とか、そういう人はタイトルバックで補足的に登場すればいいのであって、狂言回しとして登場しても、ばからしくて見ていられない。

 あ、書き忘れたことがひとつ。主人公は「自分を信じ、疑え」(だったかな?)ということばを父から教えられたことばとして大切にしている。この「ことば」を私なりに言いなおすと、「自分のことばの動きを信じ、他人のことばを疑え(嘘か真実かを確かめろ)」ということだと思う。主人公は「事実/真実」はなんだろうとは思うが、他人の言ったことばの嘘(ここが矛盾している)ということを突き詰める形でことばを動かしていない。これも、この映画を非常に弱いものにしている。
 安倍はこう言っているが、自分の知っていることをことばにして言いなおすと、安倍の言っていることが信じられない。間違っているのじゃないか。たとえば「100年安心年金」というけれど、年金だけだと毎月5万円も赤字になる。貯金がなくなってしまったら、私の老後はどうなる? 安倍は年金を増額してくれるのか。
 自分の知っていることを、自分でことばにする。そこから民主主義が始まる、と私は信じている。

 (ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン2、2019年06月30日)

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(41)

2019-06-30 13:14:34 | 嵯峨信之/動詞
* (ぼくが記憶のなかで)

ぼくが記憶のなかで失つた多くの路上を
いまだれかが歩いているだろう

 「記憶のなかで失つた」という表現が意識を覚醒させる。「忘れる」とは違う。「記憶」そのものはあるのだが「路」がない。でも、記憶は「ある」。
 だからこそ次の行の「歩く」という動詞が可能になる。動くことができる。
 疑問に思うのは、なぜ「多くの」路上なのだろうか。この「多く」は「路」を指しているのか。それとも「長さ」を「多く」と言いなおしているのか。さらに二行目の「歩いている」のはひとりなのか。「多く」は「歩いている」ひとを間接的に修飾しているのか。
 ひとは「多く」のものをなくす。けれどなくしたと意識するのは、「ひとつ」ではないだろうか。そういう疑問も残る。









*

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川上明日夫『無人駅』

2019-06-30 11:21:04 | 詩集
無人駅
川上 明日夫
思潮社


川上明日夫『無人駅』(思潮社、2019年06月01日発行)

 川上明日夫は独特のリズムで詩を書く。『無人駅』でも同じである。帯に引用されている「喫茶店の一隅にて」。

喫茶店の一隅にひっそり身をおいて
さてと
途方が ゆっくり首をもたげている
一服の
煙のようなとぐろに 目を許しては
これから
どうするの と そっと あなたの
思案が からみついてくる

 長い行(といっても十四字だが)と短い行が交互に現われる。「思案が……」以後、少し乱れる。あるいは変化がある。しかし、この長い行と短い行の交錯というリズムは、多くの詩に共通する。
 私は、このリズムが嫌いだ。他者(読者?)との交渉を拒んでいる。他者の声を無視して、自分の声を守り通している。
 なぜ、このリズムが嫌いなのか。川上のリズムが狙っているのは「切断」と「接続」の強調だ。「喫茶店の一隅にひっそり身をおいて」と書いて「さてと」で前の一行を切断してしまう。切断がおこなわれたことを確認して「途方が ゆっくり首をもたげている」と接続する。それは古いことばで言えば「手術台の上のミシンとこうもり傘の出合い」なのだ。「無関係なものの偶然の出合い」。けれど、出合ってしまえば「偶然」というものなどどこにもない。出合っても、意識化されない(ことばにされない)ことがらはいくつもある。ことばにしてしまうのは、それがどこかに「必然」を含んでいる。その「必然」は、

喫茶店の一隅にひっそり身をおいて
途方が ゆっくり首をもたげている

 と、「さてと」を削除してしまうと明確になる。「偶然」ではなくなる。「喫茶店」と書いたときから「途方」が動き始めている。そういう「必然」をわざと隠している。隠すことで「必然」を「偶然」のように装っている。
 川上においては「偶然の出合い」は「技巧」のことなのだ。
 私はまた、「目を許しては」という「翻訳のしそこない」のような「古くさい」ことばづかいも嫌いだ。「古さ」とは言い換えると「古典」ということであり、そういうことばをつかうのは、「手術台の上のミシンとこうもり傘の出合い」という「無関係なものの偶然の出合い」といっても、ほんとうは「必然」(古典を踏まえた展開)であると主張するためなのだ。

何がしかの こころの瀬せらぎと
風の音いろ
ゆるい彼方の すこしばかりの景色
を 上品にくれて
ほら 草ぼうぼうの 夢のそしりが
きょう あなたの紙魚
水を染めては 流れてゆくのです

 そして、このとき「古典」とは「感性(あるいは情緒)」のことである。「感性的必然/情緒的必然」。主観にとっての「必然」。開き直りといえば開き直りだなあ、とも私は思う。
 詩は主観的なものだから、主観であるという主張に対して、私はどう言えばいいのかわからない。「嫌い」としか言えない。

それから
朝のさっきは どちらへ行ったのか
から ゆるやかに はぐれて
たまに 眺めるだけの いまも が
見る に入っていった

 なんだか初期の荒川洋司の詩から「固有名詞」を消し去って、修辞の運動を引き継いだような文体である。「朝のさっきは どちらへ行ったのか」というのは、あ、美しいなあと思わず声を漏らしてしまうが、その後のだらだらしたリズム、思わせぶりのことばの動きが、私はやっぱり嫌いだ。





*

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