川上亜紀『チャイナ・カシミア』(七月堂、2019年01月23日発行)
川上亜紀『チャイナ・カシミア』は短編集。その表題作の書き出し。
とても奇妙な文体である。特に「ベランダの……」の一文に私はつまずいてしまう。「気配がしてきて」の「きて」とは、どういうことだろうか。「気配がして」ではなく「気配がしてきて」と書いたのはなぜなのか。たぶん一行目の「体が浮き上がっていきそうだ」の「いく」という動詞の影響で「くる」という動詞が動いているのだと思うが、こういう微妙なことばの呼応を読み続けるのはつらい。目の悪い私は、どうしても敬遠してしまう。
だが、読み進んでいくと、「いく」「くる」のような動詞の呼応を中心にことばは動いているわけではない。むしろ「猫」をわざわざ「灰色の獣」と言い換えたような、「比喩」になりきれない言い換えを中心にことばが動いていく。
雪から寒さ、寒さからセーター、セーターからカシミア、カシミアから山羊へと少しずつ「ずれ」てゆく。つかず離れずの「距離」が、ことばを動かす力になっている。
そして、この「距離」から見つめなおすと、「気配がしてきて」の「くる」がよくわかる。「くる」のは「私」と「猫」との「距離」を動いて「くる」のである。「気配」が部屋の隅に「ある」のではなく、部屋の隅の、猫の目という一点から動いて「くる」。そのときの「距離」を「私」は感じている。
このあるような、ないような、つまり「距離がある」と言わないかぎり「距離」として存在し得ないものが、たとえば雪から寒さ、寒さからセーター、セーターからカシミア、カシミアから山羊の間にある。
奇妙なのは。
それが川上の特徴なのかもしれないが、どの「距離」も一定であるということだ。こっちの「距離」の方が遠い、あるいは近いと感じさせることがない。「距離」を空間と言いなおし、空気と言いなおし、その密度ととらえ直しても同じだ。こっちの密度が濃い、こっちは薄いという感じがしない。同じ濃度だ。
それは、どの部分(ことば)についても言える。たとえば、
この文章の中の「一万トン」「四割」「七七万頭」という数字。実感がない。実感のないことがらとして書かれた部分なのだから実感がなくていいのだが、その実感のないものの具体性に通じる。抽象であることが、抽象のまま、具体としてそこにある。
書き出しにあった「きて」を補って、
冷蔵庫のモーター音、水道管の鳴る音、壁のきしむ音がかすかに聞こえて「きて」、静けさは音によってますます強烈になった。
と読みたくなる。
たぶん、そう読むべきなのだと思う。「くる」といっしょにある「距離」は川上にとっては「肉体にしみついたキーワード」である。だから省略してしまうのだ。
この短篇のハイライト(?)というか、中心的なテーマは「私」が山羊になり、「父」が山羊になり、声に「エヘンエヘン」という山羊の声がまじる部分にあるのだが、この山羊になるということも、山羊になって「くる」という「距離のある変化」として読むと川上の「肉体」が見えてくる感じがする。
どういうことも「変化」というのは「瞬間(突然)」であるが、その「瞬間」を微分して、「距離」に返還してしまうことばの運動が川上ということになるのだろう。
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川上亜紀『チャイナ・カシミア』は短編集。その表題作の書き出し。
雪は空から地に向かって降っているのに、見上げていると体が浮き上がっていきそうだ。ベランダの窓を閉めていると、部屋の隅で灰色の獣が黄色い眼を開ける気配がしてきて、私は振りかえった。すると部屋のもう一つの隅で光っていたテレビから「氷点下」という音と白い文字が流れ出した。
とても奇妙な文体である。特に「ベランダの……」の一文に私はつまずいてしまう。「気配がしてきて」の「きて」とは、どういうことだろうか。「気配がして」ではなく「気配がしてきて」と書いたのはなぜなのか。たぶん一行目の「体が浮き上がっていきそうだ」の「いく」という動詞の影響で「くる」という動詞が動いているのだと思うが、こういう微妙なことばの呼応を読み続けるのはつらい。目の悪い私は、どうしても敬遠してしまう。
だが、読み進んでいくと、「いく」「くる」のような動詞の呼応を中心にことばは動いているわけではない。むしろ「猫」をわざわざ「灰色の獣」と言い換えたような、「比喩」になりきれない言い換えを中心にことばが動いていく。
雪から寒さ、寒さからセーター、セーターからカシミア、カシミアから山羊へと少しずつ「ずれ」てゆく。つかず離れずの「距離」が、ことばを動かす力になっている。
そして、この「距離」から見つめなおすと、「気配がしてきて」の「くる」がよくわかる。「くる」のは「私」と「猫」との「距離」を動いて「くる」のである。「気配」が部屋の隅に「ある」のではなく、部屋の隅の、猫の目という一点から動いて「くる」。そのときの「距離」を「私」は感じている。
このあるような、ないような、つまり「距離がある」と言わないかぎり「距離」として存在し得ないものが、たとえば雪から寒さ、寒さからセーター、セーターからカシミア、カシミアから山羊の間にある。
奇妙なのは。
それが川上の特徴なのかもしれないが、どの「距離」も一定であるということだ。こっちの「距離」の方が遠い、あるいは近いと感じさせることがない。「距離」を空間と言いなおし、空気と言いなおし、その密度ととらえ直しても同じだ。こっちの密度が濃い、こっちは薄いという感じがしない。同じ濃度だ。
それは、どの部分(ことば)についても言える。たとえば、
カシミアの原毛は世界で一万トンしか採れないこと、中国のカシミアのほぼ四割はモンゴルで生産していること、厳冬のモンゴルでは七七万頭の山羊が凍死したこと、などを教えてくれたときはとても熱心に私は聞いていたのだが。
この文章の中の「一万トン」「四割」「七七万頭」という数字。実感がない。実感のないことがらとして書かれた部分なのだから実感がなくていいのだが、その実感のないものの具体性に通じる。抽象であることが、抽象のまま、具体としてそこにある。
灰色猫はかりかりと猫用食器のなかのドライフードを食べ続けた。テレビ画面をリモコンでOFFにする。冷蔵庫のモーター音、水道管の鳴る音、壁のきしむ音がかすかに聞こえて、静けさは音によってますます強烈になった。
書き出しにあった「きて」を補って、
冷蔵庫のモーター音、水道管の鳴る音、壁のきしむ音がかすかに聞こえて「きて」、静けさは音によってますます強烈になった。
と読みたくなる。
たぶん、そう読むべきなのだと思う。「くる」といっしょにある「距離」は川上にとっては「肉体にしみついたキーワード」である。だから省略してしまうのだ。
この短篇のハイライト(?)というか、中心的なテーマは「私」が山羊になり、「父」が山羊になり、声に「エヘンエヘン」という山羊の声がまじる部分にあるのだが、この山羊になるということも、山羊になって「くる」という「距離のある変化」として読むと川上の「肉体」が見えてくる感じがする。
どういうことも「変化」というのは「瞬間(突然)」であるが、その「瞬間」を微分して、「距離」に返還してしまうことばの運動が川上ということになるのだろう。
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評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
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「詩はどこにあるか」2019年4-5月の詩の批評を一冊にまとめました。
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(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
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(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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