詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アルメ時代 20 トリュフォー追悼

2019-06-28 10:52:44 | アルメ時代
トリュフォー追悼



 「女は主観的であり男は客観的である。この定義はあやしい。むしろ女は客観的であり男は主観的である。女は感性で動き男は知性で動くからだ。知性、論理は、自己を他者に受け入れさせようと動く。そこには意思が働いている。意思とは主観の別称である。これに対し感性は意思の制御をはなれて動く。主観の入る時間的な余裕がない。つまり客観的にしか動けない。そして女は、他人が自分をどう思うかなど気にせず、最初に動くものにしたがって動く。」
 トリュフォーがそう言ったというのは嘘である。しかしほんとうかもしれない。トリュフォーの映画を見て私が考え出したことばだからだ。
 ほんとうはヒチコックを追悼し、トリュフォーは次のように言っている。
 「断片的なものは客観的である。持続的なものは主観的である。持続とは意思の作用である。何を選択し何を排除することで統一を持続するか。ストーリーの時間の流れをどのように持続させるか。その判断は激しく主観的である。したがってどこかに必ず歪みが出る。そこに人間の秘密がある。ヒチコックのスリラーはそう教えてくれる。私は彼の映画のエッセンスを恋愛に応用してみたにすぎない。」
 この引用も実は捏造である。しかしまったく真実が含まれていないとは言えない。トリュフォーがヒチコックを追悼するとき何と言っただろうかと考えたとき、私の頭に浮かんだことばだからである。
 たぶんヒチコックの次のことばが私の意識に作用したのだと思う。
 「嘘を信じさせたかったら一つだけ矛盾をしのばせておきなさい。そして誰かが指摘するのを待って、突っぱねなさい。『たしかに矛盾している。しかしほんとうなのだ。』現実は数式のように整然とはしていない。誰もが抱いているその感覚を利用することです。」
 彼の忠告をあてはめるなら、私のトリックは非常につたない。しかし私はヒチコックの論理を厳密に適用しようとは思わない。前に捏造した文を作り替えはしない。なぜならヒチコックのことばも、出典は私の脳の奥だからだ。
 ヒチコックが何と言ったか。あるいはトリュフォーがヒチコックから何を学んだか。私はまったく知らない。私の精神の未熟さが、トリュフォーを追悼するにあたって、捏造の橋渡しを必要としているにすぎない。何かほんとうのことを言うためには一度嘘をつかなければ語りはじめられないことがあるのだ。
 私の、トリュフォーとヒチコックをつなぐ捏造をささえるものは、トリュフォーが敬愛してやまなかったルノワールのことばにこそある。トリュフォーは天才監督をインタビューし、次のことばを引き出している。
 「女にかぎらず、人間はみんな私の思惑を裏切るように動く。だから好きだ。なぜかといって、彼等はそうすることで私のインスピレーションになるからだ。」
 このことばが、先の捏造とどうつながるのか、私は説明できない。ルノワールがインスピレーションと呼ぶしかなかったように、彼のひとまとまりのことばが、私にはインスピレーションとなったのだ。そこからどんな力がどんなふうに私に作用したか。それはわからないが、私のことばのすべてはそこから生まれてきたのである。
 とはいうものの、ルノワールがほんとうに私の引用どおりに語っているかというと、そうではない。私は告白しなければならない。私は私の論理のつごうのいいように、ルノワールのことばを削り、つけくわえ、ねじまげている。先に引用を装った三つの文と同様、私の捏造であると言った方が正しいだろう。いや、実は、完全な虚構の産物でしかないと訂正しなければならない。
 しかし私は感じているのである。少なくとも類似したことは述べているに違いない。ことばでなければ、たぶんすばやく意識の奥にもぐりこみ、やがて静かに精神を濾過する映像の力で。そして、その力が、いま、私のことばを引用しているのだ。
 引用しようとすると、逆に私が引用される。そして知る。私の精神や感性が作り出したものは、私の精神や感性をつくったものへと還っていこうとしている、と。だから言うしかない。トリュフォーはこう言った。ヒチコックやルノワールはこう言った。というのは嘘である。しかしほんとうだ。



(アルメ241 、1986年05月10日)
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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(39)

2019-06-28 08:49:43 | 嵯峨信之/動詞
* (時と空気と)

時と空気とがずれると
息がとまる

 時間と空間ではなく「時と空気」。
 こう書くとき、嵯峨は「時」をどんなふうにとらえていたのだろうか。
 「時」の実感はなく、「空気」の密度(濃度)のようなものだけが、息苦しいまでに実感されている。空気だけが「時」を置き去りにして希薄になったのか、空気が「時」に押し寄せて濃密になったのか。どちらの場合も瞬間的に息ができないと感じるだろう。
 後半を読むと、嵯峨がどちらを感じていたかわかるのだが、そのことについては書かない。「意味」になりすぎるから。
 私は後半の「意味」よりも、一行目の「ずれる」がおもしろいと思った。
 「時」と「空気」は一体のものかもしれないが、別々の名前で呼ばれ、別々であると意識したときから「ずれ」が始まる。
 「ずれ」が他のものに影響していく。それが引用しなかった後半の「意味」である。










*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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