詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎の世界(6)

2019-06-08 22:57:36 | 現代詩講座
谷川俊太郎の世界(6)(朝日カルチャーセンター(福岡)、2019年06月03日)
                         
 「みち」「やめます」「まだうまれないこども」の三篇を読んだ。参加者は、池田清子、香月ハルカ、井本美彩子、青柳俊哉、萩尾ひとみと私(谷内修三)。まず「まだうまれないこども」をどう読んだかを紹介する。
 私は、いっしょにこの詩を読んだ女性から、とても大事なことを教えられた。頭をガツンと殴られた。目が覚めた。

まだうまれないこどもは
ハハのおなかのなかで
まどろんでいる
ハハはすなのうえにたって
うみをみつめている

まだうまれないこどもは
ハハのおなかのなかで
ほほえんでいる
ハハはさかみちをのぼる
きょうをたしかめながら

まだうまれないこどもが
ハハのおなかのなかで
みじろぎする
ハハはねむっている
いのちをしんじきって

--どんな印象を持ちました?
「おだやかな、とがったところのない詩ですね」
「自分のおなかのなかにこどもがいたときのことを思い出した」
「読むと妊娠しているお母さんの姿が浮かんできますね。でも詩のタイトルとは、うまれないこども、というのがおもしろい」
--この詩では、こどもと母親がずーっと対比される形で書かれているけれど、ここは少し変かな、というところはありませんか?
「三連目の、みじろぎするという動きが、引いている感じ。まどろんでいるや、ほほえんでいると少し違う。でも、それを母が信じきっているというのがいいなあ」
--引いている、というのはどういうことですか? もう少しつけ加えてもらえますか? みじろぎと引いているの感じが、よくわからないのだけれど。
「こどもが、まだうまれたくない、と言っている。それを受け止めている」
--あ、そうなんだ。私は単純に赤ん坊がおなかのなかで蹴っていると思ったのだけれど。みなさん、どうです?
「みじろぎ、って動いているということですよね」
「いまの感想を聞いて、ふに落ちたんだけれど、最初に読んだとき、最後のいのちをしんじきってが、よくわからなかった」
「幸せな親子を単純に描いているのかな。もっとウラというと変だけれど、違うことを書いているのかも、とも」
--あ、そうですか? 私は単純に幸福な姿を美しく描いていると思ったのだけれど。
「最後の、信じきって、が気になる」
--少し視点を変えましょうか。この詩は三蓮からできていて、こども、ハハが繰り返しか書かれているんだけれど。井本さん、外国人に日本語を教えていますよね。外国人に日本語を教えるという立場から見ると、この詩に、変なところはありません?
「まだうまれないこども、という言い方かな」
--助詞のつかい方で気になることはありませんか? 一連目、まだうまれないこども「は」、ハハ「は」と主語の助詞が「は」になってますね。二連目も、こども「は」、ハハ「は」ですね。でも三連目だけ、こども「が」、ハハ「は」になっている。どうして三連目だけ、こども「が」にしたんだろう。
「あ、そうですねえ」
--「は」でも意味は同じですよね。「は」でそろえた方が、全体の統一感がある。なぜ「が」にしたんだろう。
「一連目、二連目は、ハハは起きているけれど、三連目ではハハは眠っていますね」
「三連目だけ、こどもが起きている。ハハは眠っているけれど」
--あ、なるほど。でも、そういうときは、日本語の助詞の使い方としては、ふつうは、変わっている部分を強調するとりたての助詞「は」をつかう。ほかの部分は「が」をつかうんじゃないかな?
「気がつかなかったなあ」
--谷川が意識して書いているか、無意識に「が」にしたのかわからないけれど、私は意識的に変えていると思う。そういう意味で、この「が」がキーワードだと思っています。それで、このことについて語り合えたらいいなと思う。
「私も、ここだけ「が」になっているのが気になりました」
「まどろんだり、ほほえんだりということではなく、ここだけ身じろぎすると、はっきりしたうごきがあるからかな」
「うごきが、ここだけ大きくなっている。それを強調している」
--そういう意味では、実際、もうすぐうまれてくる感じなのかな? 力強くなっているのかな。
「ほほえんだり、まどろんだりはお母さんにはわからないけれど、身じろぎはわかる」
「動くのはけっこう早くからわかりますね」
--ハハの描写で言うと、一連目はうみをみつめると具体的だけれど、二連目のきょうをたしかめながらはとても抽象的ですね。この「きょう」はほかのことばでいうと何になります?
「いきていることをたしかめる」
「いのち? いのちをたしかめながらに通じる」
--そうすると二連目の「きょう」は「いのち」と言い換えられるし、三連目の「いのち」は「きょう」と言い換えることもできそうですね。それで、全体が融合し、落ちついた感じがすごくするのだと私は思うのだけれど。
 それから、三連目の「ハハはねむっている/いのちをしんじきって」は、普通に読むと「ハハはいのちをしんじきってねむっている」ということなのだと思うけれど、私はちょっと赤ん坊がいのちをしんじきってみじろぎする、ということも感じる。それで、いのちをしんじきるということばのなかでこどもとハハが一体になっている、という幸福感を感じる。
 それから不思議なことは、この詩はハハはと客観的に書かれているのでハハではない人が書いたと受け取れるけれど、ハハ自身が自分のことをハハと客観視して書いたとも読めますね。私はどちらかというと谷川が書いたというよりも、あるハハが自分のことを書いた詩と受け止めて読む。
 でも、これは谷川が書いた。そのとき一番不思議なのは、谷川は自分自身ではハハの体験をしていないのに、まるでハハのように書ける。
で、私はいつも思うのは、谷川は非常に耳の言い人で、他人の話を聞いて、それをそのまま自分の声としてことばにすることができるということ。七色の声、七変化の声という気がする。
「よく聞いているのだと思う」
「でも、まだうまれないこどもという表現は不思議。うまれてくるこども、とは言うけれど」
「そうだよね、ふつうはうまれてくるこどもというね」
「うまれないこどもには違和感がある」
「そうだよね。だから、詩に、なんとういかネガティブなものを感じる」
「思っちゃいけないけど、もしかすると、このままうまれないのかも、とか」
--あ、そうか。最後のぎょうが気になるというのは、そういうことだったんですね。井本さんの指摘も、そういうことだったんですね。びっくりしました。やっぱり、性別も年齢も違うひとといっしょに詩を読むというのは、驚きがあるなあ。言われてみて、初めて気がつきました。たしかに、自分の体のなかに赤ちゃんがいて、そのこどものことを「まだうまれない」とは言えないだろうなあ。
「もうすぐうまれてくるこども、っていいますね。女はね」
「男性から見ると、こういう表現はそれほど不自然じゃない、ということですか」
--私は不自然とは感じなかった。
 また谷川は、よく「未生」ということばをつかう。まだうまれない、というのは谷川にとっては、ふつうに使うことばであって、それがそのまま無意識に出たということだと思う。
 でもたしかに「まだうまれない」というは、「外」からの見方であって、妊娠している女性はそんなふうには言わないというのはよくわかります。
 私は、肉体感覚として「これからうまれてくる」という感じを知らないので、「まだうまれない」とは違和感を感じなかった。
 逆に言えば、もし女性が谷川の篠なかに「未生」ということばを読んだとき、なぜ未生なのかと思うかもしれませんね。
 きょうは皆さんに勉強させていただきました。ありがとうございます、と言いたいです。

 6月17日は、詩の創作。自作の詩(20行以内)を持ち寄り、感想を語り合います。
 飛び入りで参加したい方は、朝日カルチャーセンター(福岡)へお申し込みください。電話092・431・7751






*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(19)

2019-06-08 09:47:16 | 嵯峨信之/動詞
「火の鳥」

* (なにもかも)

なにもかも燃やしつくそうとして
自分で燃えつきた火の鳥
空を炎でかきまわし
存在しない名をかいて飛びさる火の鳥

 火の鳥は、「どこに」名を書くのか。「何で」名を書くのか。
 二連目。

他の空はむなしく
心のはてまでのびていて大きな虹がかかつているだけだ

 火の鳥がいる場所が火の鳥の空になるのか。
 「他の空」ということばが、何か巨大に感じられる。
 「むなしく」は「他」を修飾するようにも、次の行の「のびる」を修飾するようにも、「虹」を修飾するようにも、さらには「かかる」を修飾するようにも読むことができる。その対象を限定しないことばが、「巨大」という感じを呼び覚ます。
 嵯峨が書きたかったのは一連目かもしれないが、私が「読む」のは二連目である。



*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメールでも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)

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数字のトリック

2019-06-08 09:13:34 | 自民党憲法改正草案を読む
数字のトリック
             自民党憲法改正草案を読む/番外273(情報の読み方)

 年金をめぐり、麻生が「老後に約2000万円の取り崩しが必要」という「資産形成報告書」の表記をめぐって釈明した、という記事が、2019年06月08日の読売新聞(西部版・14版)2面に載っている。見出しは、

麻生氏「不適切表現」釈明/金融審議会報告書 「老後2000万円必要」

 その記事によると、

報告書では、65歳で定年退職して95歳まで生きる夫婦の場合、毎月約5万円の赤字が続き、30年間で約2000万円が不足するとの試算を示した。この試算は、平均的な家計の支出と年金収入などを単純に差し引きした計算で、貯蓄や退職金などを考慮していなかった。
 麻生氏は「あたかも赤字なんじゃないかというような表現をしたのは、表現自体が不適切。そうじゃない方もいっぱいいる」と話した。

 しかし、これで「釈明」になるのか。
 「貯蓄や退職金などを考慮していなかった」というが、言い換えれば「貯蓄や退職金で2000万円の資産」がなければ「赤字」になるということだろう。年金以外に2000万円必要なことにかわりはない。
 だいたい国民のすべてが65歳の退職時に「貯蓄+退職金」で2000万円の蓄財があるというのは「事実」なのか。麻生自身、「そうじゃない方(2000万円の赤字にならないひと)もいっぱいいる」と言うが、「いっぱい」とは何人、国民の何%か。ぜんぜん具体性がない。
 それに「老後に約2000万円の取り崩しが必要」というときの「取り崩し原資」は何なのか。「貯蓄+退職金」ではないのか。言い換えると、「貯蓄+退職金」で2000万円になるように資産を(貯蓄を)不増やす必要があるということだろう。「貯蓄+退職金」で2000万円あるから、年金が少なくても赤字にならないと、そんなノーテンキな考え方をだれがするだろうか。年金だけでは赤字、何かのための「担保」としての「貯蓄+退職金」を「取り崩す」しかない、というのが一般のひとが考えることではないのか。
 麻生の発言を聞いて、国民のだれが、「65歳時の貯蓄+退職金」のほかに2000万円必要だと思っただろうか。年金だけでは生活できない。退職するまでに、退職金を含めて、2000万円貯蓄しないと生活できない、と受け止めたのではないのか。年金以外に2000万円必要なことにかわりはないのではないのか。
 これでは、とても「釈明」とは言えない。年金だけで生きていけないことが、より明確になったというべきだろう。

 訳がわからないのは、読売新聞の態度である。他紙は知らないが、よくこういう発言をとらえて、読売新聞が「釈明」と受け止めたものだ。
 書いた記者は、「自分の退職金と貯蓄をあわせると65歳のときには2000万円は確保できる。だから、月々約5万円の赤字にはならない」と考えたのか。2000万円がなくなるまでは、年金がいくらであろうと月々の赤字は発生しないと考えたのか。たとえば、年金が月に1万円だとしても、「貯蓄+退職金=2000万円」があるから、毎月の赤字はゼロ、とでも考えたのか。それで、ほんとうに「安心」したのか。
 こんなばかげた説明を「釈明」と呼び、年金だけでは毎月5万円の赤字になっても、貯蓄や退職金があるから大丈夫、心配はいらないと言う「論理」がわからない。だいたい65歳で退職する人の何人が「貯蓄+退職金」で2000万円確保できるのか。その人数を確認したのか。少なくとも、麻生に、そういう人は何人いるのか。「いっぱい」ではなく、具体的に問いただしてみる必要がある。

 今回の「釈明」で明確になったのは、年金だけでは毎月の収支に赤字になる。毎月、どこかから約5万円を工面する必要があるという、麻生が最初に語った「事実」に何の変わりもないということだけだ。
 年金だけでは生活できないというのが、絶対的な「事実」なのだ。
 不足分を国が補てんするということもない、というのも「事実」なのだ。
 問題は「表現」ではなく、「事実」だ。
 新聞は「表現」ではなく、「事実」を伝えるべきだ。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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