詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小田雅彦『刻をあゆむ』

2019-06-26 11:09:20 | 詩集
遺稿詩集&アンソロジー 刻をあゆむ
小田 雅彦
宮帯出版社
小田雅彦『刻をあゆむ』(MPミヤオビパブリッシング、2019年05月15日発行)

 小田雅彦『刻をあゆむ』は「遺構詩集&アンソロジー」。
 詩だけではなく絵にも関心があったのだろう。画家と共同で詩画集も出している。『鎖のすべて』は平野亮の素描と小田の詩の組み合わせ。どの作品にもタイトルはついていない。そのなかの一篇。(平野の絵は抽象的だが、「ドン・キホーテ」がロシナンテに乗っている姿にも、風車の巨人に挑んでいる姿にも見える。詩は、横書き。)

思いが現われようと
空間をまさぐる
その爪先は
かたちを求めてまよう
誰もさえぎるな
待てば明るくなる
しだいに
線のなかのものを抱きこむ
けれども 破たんは
意味を持つところから
起きる

 「意味」ということばがつかわれ、それこそ最後は「意味」で終わるのだが、詩の「意味」自体は「意味」を否定している。
 詩は矛盾したものである。人生も矛盾といえるかもしれない。だから、これはこれでいいのだと思う。
 線の運動には二種類ある。直線と曲線。曲線は必然的に何かを「抱きこむ」。そこから衝突が始まる。しかし、その衝突は線と線との衝突ではなく、異質なものの衝突であり、衝突とは呼んではいけないものかもしれない。私たちは、その衝突(出合い)をそのままにしておくことができない。出合いは変化を生み出す。それがどんなふうに生長しようが、その内部にはかならず「否定」がある。「否定」を小田は「破たん」と呼んでいるが、これは「弁証法」で言いなおせば「止揚」になるだろう。「意味(結果)」を求めるから、その過程には「否定されるべきもの」を含んでしまうのだ。
 小田は、そういうことをただ「起きる」という動詞に語らせている。

 第一詩集『昔の絵』(1943年)の「昔の絵」。(「絵」はどちらも正字だが、流通している字で代用)

僕は貝殻を忘れ
歩くのも悲しく
けむった街角に立ちどまった

丘の松までも
こちらを向き
くもった眼にささやいた

僕は黒い帽子の少年を
曲がった路の上に
置いてみつめた

遠い貝殻に
灯がともり
団欒がしずかによみがえった

この昔の絵は
冷たい絹を巻きながら
美しい澱みに降りて行った

街の襞から
もれる気泡は
僕を透き通って消えた

 最終連が印象的だが、二連目が私は好きだ。「丘の松までも/こちらを向き」の「こちらを向く」という動詞が強い。
 で。
 この「丘の松」というのは、現実の松だろうか、それとも「絵」のなかの松だろうか。三連目の描写は、現実を舞台にしての空想だろうか、絵を舞台にした空想だろうか。そもそも、その絵は誰が描いたものなのか。他人ではなく、小田が描いたものではないだろうか。
 三連目は、その絵の中にすでに「帽子の少年」がいるのか。あるいは存在しない少年を、いま思い描いているの。そのとき、その少年は過去の「僕」なのか。
 どのようにも思いを重ね合わせることができるのは、絵も記憶も「透明」なのものを含んでいるからだろう。青春を含んでいるからだろう。
 これが最終連の「僕を透き通って消えた」に変わる。ことばが書いている運動とは別に、私は「僕」が「透き通る」、そして「僕」が「消える」と読んでしまう。もちろん、このときの「僕」というのは現実の僕であると同時に「記憶の僕(黒い帽子の少年)」でもある。
 絵(視覚)の動き、視覚のなかの動きを、小田はことばにする詩人なのだろう。絵を形にとどめず、運動に変える詩人だ。




*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(37)

2019-06-26 09:04:13 | 嵯峨信之/動詞
* (ぼくはよろめいた)

ぼくはよろめいた
地球の大きな影につかまりそうになつた

 なぜ「よろめいた」のか書いていない。
 二行目は一行目の結果かもしれないが、私は逆に読んでみる。二行目が「原因」であると。
 地球の影につかまりそうになる、というのは「気づき」である。自分やまわりにあるものの影ではなく、地球そのものにかげがあると気づいた。気づきの衝撃が嵯峨をつかまえてしまう。それからのがれようとして「よろめく」。
 「よろめく」には自分の力を超える何か、自分ではどうすることもできない何かを感じさせるものがある。








*

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