詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(40)

2019-06-29 11:03:03 | 嵯峨信之/動詞
雑草詩篇 Ⅲ

* (小さな水溜りは)

風が吹くと
水溜りはおさない翼でいつしんに飛び立とうとする

 小さな波を翼に見立てている。
 「おさない」と「いつしん」の呼応が強い。さらにそれが「する」へと結びつく。「いつしんに」「する」。
 飛び立てるように、嵯峨は祈ってる。その祈りも「いつしん」だ。


*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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愛敬浩一『赤城のすそ野で、相沢忠洋はそれを発見する』

2019-06-29 10:22:45 | 詩集
愛敬浩一『赤城のすそ野で、相沢忠洋はそれを発見する』(詩的現代叢書36)(書肆山住、2019年07月08日発行)

 愛敬浩一『赤城のすそ野で、相沢忠洋はそれを発見する』は「書き下ろし詩集」。相沢忠洋について私は何も知らない。だから「それ」が何を指しているかも想像できない。「赤城山」は名前は聞いたことがあるが、どこにあるか正確には知らない。
 わからないまま、詩を読み始める。

相沢忠洋は凄い。
相沢忠洋は凄い。
相沢忠洋は凄い。
相沢忠洋は凄い。
相沢忠洋は凄い。

 と繰り返されても、実感できない。そのうち、この「凄い」が、

納豆のねばねば。
ねばねばの納豆。

 と相沢忠洋が「納豆(売り)」に変わっていく。「相沢忠洋は凄い。」ではなんのことかわからないというよりも、ひとつのことを同じ調子で言い続けるのはむずかしい。どうしても、そこに違うものが入ってくる。その最初に入ってきた「相沢忠洋」以外のものが「納豆」だ。
 そのうちに「納豆売り」は、こう変わる。

相沢忠洋は歩く、自転車を押して。
相沢忠洋は歩く、自転車を押して。
相沢忠洋は歩く、自転車を押して。
相沢忠洋は歩く、自転車を押して。
相沢忠洋は歩く、自転車を押して。

 自転車に乗って、納豆を売っていたらしい。金にならないよなあ、そんなことじゃ。さらに、

相沢忠洋は「戦後」を歩く。
相沢忠洋は「戦後」を歩く。
相沢忠洋は「戦後」を歩く。
相沢忠洋は「戦後」を歩く。

 一回書けばわかることなのだけれど、愛敬は、また繰り返している。
 で、この「凄い」「納豆(売り)」「自転車」「歩く」「戦後」の変化の間に、問題の「それ」が書かれている。「土器や石器」、つまり「岩宿(遺跡)」を発見したのだ。私は、「遺跡(土器、石器)」には関心がないので、そういうことを書かれても、ふーん、と思うだけなのだが、愛敬のことばの繰り返し、繰り返しているうちに、それが少しずつ変化していくリズムに引きつけられていく。
 一方で、こんなことも思う。詩の中に石毛拓郎が出てきたので石毛拓郎と比べてしまうのだが、愛敬は詩がへたくそだ。石毛なら愛敬が長々と書いた一篇(46ページもある)を百行(二百行かもしれないけれど)で濃密に、しかもことばひとつひとつをエッジを立てるように鮮烈に書き上げるだろう。愛敬は、こまごまと、だらだらと、見境なく書いている。だんだん変わっていくけれど、こまごま、だらだらが変わらないので、何が変わったのかぜんぜんわからない。ああ、へたくそだ。ああ、ばかだなあ。
 なのに。
 その「ばかだなあ」が「ばかだなあ」のまま、「あ、凄い」に変わるのだ。
 相沢忠洋というひとは、納豆を売りながら「岩宿」を歩き回り、あちこちの穴ぼこから土器や石器を見つけ出す。そしてそれが明治大学のなんとか先生を中心とした調査によって「岩宿遺跡(旧石器時代の遺跡)」発見になるのだが、その「発見」からは相沢忠洋の名前は消えている。無名の人のままなのだ。「納豆売り」のままなのだ。
 最終的(?)には評価されるし、愛敬もこうやって詩を書いて紹介しているのだが、どうも、この「生き方」は「へたくそ」としかいいようがない。しかし、「へたくそ」だけれど、その「へたくそ」のなかにある正直がいいなあ、と思う。あたたかい。生きている人間に直に触れた気持ちになる。
 で、ここからもう一度詩を読み直すと、こんな具合にも思うのだ。
 相沢忠洋は、自転車で納豆を売って歩きながら、その途中で、あちこちの穴ぼこから土器や石器を見つける。(以下は、私が勝手に捏造した詩行。)

穴ぼこから土器や石器を見つける。
穴ぼこから土器や石器を見つける。
穴ぼこから土器や石器を見つける。
穴ぼこから土器や石器を見つける。
穴ぼこから土器や石器を見つける。

 これが繰り返されると、

岩宿から土器や石器を見つける。
岩宿から土器や石器を見つける。
岩宿から土器や石器を見つける。
岩宿から土器や石器を見つける。
岩宿から土器や石器を見つける。

 になる。そして、それは

岩宿は旧石器時代の遺跡だ。
岩宿は旧石器時代の遺跡だ。
岩宿は旧石器時代の遺跡だ。
岩宿は旧石器時代の遺跡だ。
岩宿は旧石器時代の遺跡だ。

 こう、変わっていくのだ。
 こまごま、だらだらが広がって面になり、積み重なって時間になる。歴史の事実になる。
 そして、この「発見」を担い手は、「あそこに穴ぼこがある。土器や石器のかけらがある。あれはなんだろう」と「戦後」の苦しい時代にもかかわらず、奇妙なことを夢見た人間なのである。肩書は「納豆売り」だ。
 ここに愛敬は「自由」を見ている。
 あれこれ書くと「説明」になってしまうが、(すでに私の感想は説明になってしまっているが)、この「自由」がなんとも楽しい。
 私は突然、昔読んだ「思想の科学」を思い出してしまう。ふつうの市民の「作文」のような文章が載っている。つまり、はやりの「現代思想用語」とは無縁のことばで、日常のなかで気づいたことが書かれている。そこに書かれているのは、「気づき」というかたちの「正直」である。その「正直」こそが思想である。そして、その「正直」は「自由」であったのだ。何からの自由? 「現代思想用語」(体制)からの自由だ。自分の手と足、目をつかって、丁寧に根気よく生きていく。「へたくそ」に生きていく、自由だ。
 相沢忠洋が「発見」したのは、「遺跡」なんかではなく、そういう「生き方」(思想)だ。「岩宿遺跡」は「発見」したものではなく、むしろ相沢忠洋によって「発明」されたものだ。相沢忠洋が新しく作り出した文化だ。







*

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