詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

村上春樹『海辺のカフカ』

2020-07-02 18:36:37 | その他(音楽、小説etc)
村上春樹『海辺のカフカ』(新潮社、2002年09月10日発行、2017年03月05日26刷)

 もし外国人に日本語の小説の読み方を教えるとしたら、どんな教材がいいか。私は村上春樹が大嫌いなくせに、教材には村上春樹が適していると思う。これはカンにすぎないのだが。
 で、ためしにを『海辺のカフカ』をめくって、その「第一章」の書き出し。

 家を出るときに父の書斎から黙って持ちだしたのは、現金だけじゃない。古い小さな金色のライター(そのデザインと重みが気にいっていた)と、鋭い刃先をもった折り畳み式のナイフ。鹿の皮を剥ぐためのもので、手のひらにのせるとずしりと重く、刃渡りは12センチある。外国旅行をしたときのみやげものなんだろうか。やはり机の引き出しの中にあった強力なポケット・ライトももらっていくことにした。サングラスも年齢をかくすためには必要だ。濃いスカイブルーのレヴォのサングラス。
 父が大事にしているロレックスのオイスターを持っていこうかとも思ったけれど、迷った末にやめた。その時計の機械としての美しさは僕を強くひきつけたが、必要以上に高価なものを身につけて人目をひきたくはなかった。それに実用性を考えれば、僕がふだん使っているストップウォッチとアラームのついたカシオのプラスチックの腕時計でじゅうぶんだ。むしろそちらのほうがずっと使いやすいはずだ。あらためてロレックスを机の引き出しに戻す。
 ほかには小さいころの姉と僕が二人並んでうつった写真。その写真も引き出しの奥に入っていた。僕と姉はどこかの海岸にいて、二人で楽しそうに笑っている。姉は横を向き、顔の半分は暗い影になっている。おかげで笑顔がまんなかで分断されたみたいになっている。教科書の写真で見たギリシャ演劇の仮面みたいに、その顔には二重の意味がこめられている。光と影。希望と絶望。笑いと哀しみ。信頼と孤独。一方の僕はなんのてらいもなくまっすぐにカメラのほうを見ている。海岸には僕ら二人のほかに人の姿はない。僕と姉は水着を着ている。姉は赤い花柄のワンピースの水着を着て、僕はみっともないブルーのぶかぶかのトランクスをはいている。僕は手になにかをもっている。それはプラスチックの棒のように見える。白い泡になった波が足もとを洗っている。

 これを読んで、こんな質問を考える。

1 僕(主人公)は何歳くらいだと思いますか? なぜ、その年齢を想像しましたか?
2 父親は何歳くらいで、どういう人間だと思いますか? なぜ、そう想像しましたか?3 僕が、父の書斎から持ち出したものは、何と何ですか?
4 僕が、父の書斎から持ち出さなかったものは何ですか?
5 それを持ち出さなかった理由はなぜですか? なぜ、持ち出さなかったのですか?
6 持ち出したものの中で、僕が一番大事だと考えているものは何ですか?
7 なぜ、それが一番大事だと、あなたは考えますか?

 質問の「要点」は6と7。
 質問というのは、たいてい「答え」を想定してつくるものだが、この質問と答えをくみあわせて考えながら、私はもう、小説のつづきを読む気力をなくしていた。
 僕が持ち出したものの中で一番大事なのは、「僕と姉との写真」。それは「非実用的」なのに、長々と説明している。僕が実用性を重視していることは、二段落眼に「実用性を考えれば」ということばが明記されていることからもわかる。それなのに実用性を無視して(つまり、他者と自分との関係において何の意味も持たないと知りながら)、それについて語る。言い換えると、それが自分にとって大事であるということを語るからなのだ。
 村上春樹の小説は、驚くほど「合理的」に書かれていて(実用性ということばを、前もって書いている部分にそれが端的にあらわれている)、「速読」できるようになっている。「速読」しても、読み落としがないように書かれている。また、絶対に読者がつまずかないように書かれている。なぜ、僕が写真を持っていくか。「実用的ではない」。つまり、「個人的に必要だ」からだとわかるように書いている。
 この「合理性」は、こんなふうに問いかけると、より明確になる。

8 「家を出るときに父の書斎から黙って持ちだしたのは、現金だけじゃない。」とはじまるのは、なぜだろう。
 答え ほかにも持ち出したものがある、ということを暗示するためである。そして、その他のものかと読者の関心を引っ張っていくため(物語の展開をスムーズにするため)である。

9 「父が大事にしているロレックスのオイスターを持っていこうかとも思ったけれど、迷った末にやめた。」という文章から、僕の性格を想像してみよう。どういう人間だろうか。
 答え 自分の行動を常に見直し、他人の視点を意識する人間である。自分がどうみられているかを基準にして、自分の行動を制御することができる人間である。言い換えると、つねに「自己対話」をする人間でもある。

 そして、ここから「僕と姉との写真」へと世界が変わった瞬間に、小説のテーマがくっきりと見えてくる。「暗示」(象徴的言語)であるけれど、誤解の入る余地がないくらいに明示される。
 「二重の意味」ということばが三段落目に出てくるが、「二重」であることによって世界が完成するというテーマである。主人公の僕は、自分を探しに世界へ飛び出すのではない。僕とだれか(姉が、まず書かれているが)と二重になること、出会い、まじわることで、世界が生まれると同時に、世界が完結する。このときの二重は、似た者同士の重なりあいではなく、まったく反対のものが「二重」になることで完結するのである。「重なりあい」の中に、それまで存在しなかった運動があり、その運動そのものが世界なのだという哲学が村上の中にあるのだろう。
 読まずに書くのだが。
 こんなふうに、書き出しを読んだだけで小説世界がどう展開していくかわかってしまう作品というのは「退屈」ではないだろうか。ことばとはこんなふうに書くもの(語るもの)という「手本」にはなっても、それ以上のものにはなり得ないのではないだろうか。
 読まずに書くのだが。
 私が村上春樹の「ことば」に関する疑問は、そこにある。何が起きても、それは前に書かれていることをきちんと踏まえていて、どこにも間違いがない(嘘や飛躍がない)というのは、ことばを読んで「だまされる」という快感から遠いのではないか。
 私は、だまされたい人間である。そんなことありえないだろう。でも、そうあってほしい、と小説を読んだときは思いたいのだ。







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青柳俊哉「朝」、池田清子「雲」、徳永孝「居酒屋」

2020-07-02 10:58:27 | 現代詩講座
青柳俊哉「朝」、池田清子「雲」、徳永孝「居酒屋」(朝日カルチャーセンター福岡、2020年06月29日)

朝     青柳俊哉

裏の戸をあけると
初夏の大きな光の森で
神々がはなやいで村人と話をしている
鶏(にわとり)の声が空にたち 
漁師が運んできた荷箱の氷のうえの
鰹(かつお)の青い背がまぶしい
小川の水が不思議にあかるんで
水草や川アユのそよぎはレモンの香りがする
遠くの水車(みずぐるま)があじさいの葉を潤し
水辺の桃の木の陰の
きれいな子どもの喉(のど)をぬらす
酢(す)牡蠣(がき)や水(も)雲(ずく)がすずしい

 前半はおもしろい。
 「裏」ということばは「暗さ」を感じさせる。それが「光」で破られる。冬の弱い光ではなく、初夏の強い光。「光の森」は初夏の若葉が光を反射している風景だろうが、光そのものが「森」として存在しているとも読むことができる。「光」が比喩ではなく、「森」が比喩なのだ。この強い「光」は「神」ということばにつながっていく。「光の森」は「神の森」だ。「神」が「森」につどい、祝祭をあげている。「森」(神)が「光」を発している。「神」がそんなふうに華やいでいるので、それにつられるように、村人が家の外に出て話している。「神々がはなやいで」の「で」は、そんなふうに読むことができるし、また神々と村人が話しているとも読むことができるが、私は、初夏の透明で強い光の中で、村人自身が「神々」になって話し合っていると読んでしまう。
 「光の森」で「森」が比喩なのだと書いたが、二つのものが出会うとき、その二つは交互に入れ替わる。光が森であり、森が光であるなら、神々が村人であり、村人が神である。
 そうした祝祭を、鶏が空に向かって告げる。「鶏の声が空にたち」の「たち(立つ)」という日常ではあまりつかわないつかい方でことばを動かしているのも、祝祭にぴったりあっている。漁師は取れたばかりの鰹を運んでくる。祝祭の肴だ。青い背が、初夏の強い光を反射して輝いている。
 この強烈な光の祭典は、次の「小川の水が不思議にあかるんで」までつづくが、その後は、ことばが「小川」につながる「水」にひきずられ、停滞してしまう。「水草」「水草」「水車」「水辺」と「水」から飛躍できなくなる。(「レモンの香りがする」は視覚から嗅覚へと肉体を活性化させるので、この部分は停滞しているわけではないが。)
 「光と森」「神々と村人」のような、ふつうの連想では結びつかないものが結びつき、イメージが炸裂するという感じではなくなる。イメージではなく、「情景」になってしまう。
 作者は「水(みず)」という音の「濁音」のつながりで、ひとつの世界を構成するつことを狙っている。「水車」を「みずぐるま」と読ませているのは、そのひとつの「証拠」なのだが、これは作者に「説明」を聞かないとわからない。



雲      池田清子

あの
雲のあたりで

寝っころがって
おしゃべりして

そのまんま
消えてしまっても
いいかなあ

 雲を見ている。しかし、雲を見ているうちに、作者は雲になってしまっている。雲は流れて消えていくもの。だから、最終蓮の「消えてしまう」の「主語」は雲であるはずなのに、しらずしらずに作者にすりかわっている。作者が「雲になって」消えてしまってもいいかなあと考えている。
 書き出しの「あの」は遠くにあるものを指すことば。作者から「遠い」。しかし、「あの」と明確に意識したときから、「遠くにあるもの」が自分に近づいてくる。ことばにとっては「あの」雲だが、肉体は「この」雲と思って、「寝っころがって/おしゃべりして」しまう。このときの「主語」は作者。そして、雲といっしょになっている。雲といっしょだから寝ころがり、雲といっしょにおしゃべりをするのだ。「……て」「……て」と、ことばを言い切ってしまわずに、何かに預けている。これが、そのまま最終連へつながっていく。
 とても自然にことばが動いている。
 「きえてしまっても/いいかなあ」という終わり方には、消えてしまわなくてもいいのでは、という意見もあったが、作者の「いま(この詩を書いたとき)」の心境としては、「いま/ここ」から離れられたらなあという思いがあったのだろう。



居酒屋   徳永孝

私の好きな席は
カウンターの右はしです

でも 近ごろは
友だちのえいこさんが
座るので

わたしは
右から2番目です

 この詩も、一度聞いたら、そのまま覚えられそうな正直さにあふれている。
 この詩を読むときのポイントはひとつ。二連目の「友だちのえいこさん」ということばに、どんなことばを補うことができるかである。「えいこさん」を「友だち」ということばが修飾している。その「友だち」をさらに、どう修飾するか。
 「美人の」「赤いシャツを着た」「きのうけんかした」「二日前に知り合った」「お金持ちの」「安倍首相から紹介された」。詩の前後がなければ、どういうことばでも修飾語として付け加えることができる。
 でも、いま私が書いたようなことばを付け加えようとする人は誰もいないだろう。
 きっと「好きな」か「大好きな」だろう。そして、その「好き」ということばは、一連目に書かれている。「好きな席」。そういう感じの「好き」なのである。「席」と「友だち」をいっしょにするのは奇妙かもしれないが、別個の存在を結びつけてしまうのがことばであり、結びつけた瞬間に生まれてしまうのが「詩」なのだ。
 「徳永さんの好きな人ってどんな人?」
 「うーん、居酒屋のカウンターの右端の席のような感じ」
 「なに、それ?」
 「ぼくは、居酒屋ではカウンターの右端にいつも座るんだ」
 なんとなく、わかるでしょ?
 で、その好きな友だちに、いまは席を譲っている。自分の気持ちが大事であるように、「えいこさん」が大事なのだ。
 二連目の「座るので」の「ので」は、とても効果的である。「ので」がなくても客観的「事実」はかわらない。二人の座る位置が変わるわけではない。しかし、「主観的」事実は違うのだ。「ので」のなかに、「友だちのえいこさん」と書いたときに省略したのと同じ「省略(書かれなかったことば)」があるのだ。
 ためしに、こう考えてみればいい。一連目。「好き」ということばをつかわずに、

わたしはいつもカウンターの
右端の席に座ります

 と書いても、「客観的」事実はかわらない。いまは「右端にえいこさんが座り、二番目にわたしが座っている」。でも、書きたいのは「客観的」事実ではない。「主観的」事実である。「正直な気持ち」である。
 この詩には、その「正直」があふれている。







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