エミリオ・エステベス監督「パブリック 図書館の奇跡」(★★★★★)
監督 エミリオ・エステベス 出演 エミリオ・エステベス、アレック・ボールドウィン、クリスチャン・スレイター
大作というのでもない。傑作というのでもない。けれど★5個をつけたくなる映画というものがある。このエミリオ・エステベス監督「パブリック 図書館の奇跡」が、それである。
父親はマーティン・シーン、弟はチャーリー・シーン。ふたりに比べると「地味」だが、足が地についた「主張」がある。だから脚本も監督もやるのだろう。
この映画でのエミリオ・エステベスの「主張」とは何か。
ことばはだれのものか。必要としている人間のものだ、につきる。
そして、この「必要としている人間のもの」はことばだけではなく、ほかのものにもあてはまる。音楽も美術も。この映画では「図書館」が「寒さを避けるための空間(室内)」として求めれている。この「求め方」はほんらいのあり方とは違う。違うけれど、そういうものが求められたとき、どう人間は対応できるか。自分の「肉体」をとうして「再現(実行)」できるか、それが、問われている。
オハイオ州シンシナティ。寒波に襲われた街。行き場のないホームレスが「図書館」を占拠する。どう対応するか。それがテーマ。図書館は、ホームレスのシェルター(受け入れ場所)ではない。でも、追い出してしまうと、彼らは凍死する恐れがある。
そのやりとりの過程で、エミリオ・エステベスが「怒りの葡萄」を引用する。
ここで、私は涙が出てしまう。おさえきれない。しばらくはスクリーンが見えなくなってしまう。エミリオ・エステベスは、無意識のうちに「怒りの葡萄」のことばに支えられて生きてきた。何か言わなければならなくなったとき、そのことばを語る。それは彼のことばではない。けれど、それを口にしたとき、それはスタインベックのことばではなく、彼のことばなのだ。
このとき、エミリオ・エステベスは、「一個の肉体(ひとりの人間)」なる。「ことば」ではなく「声」を生きる。ことばを「肉体」にしてしまう。
このとき、そのことばは、それを聞いているホームレスのことばでもある。「声」にならない「声」が、いま、エミリオ・エステベスがスタインベックの「ことば」を生きることで「声」になり、共有されて、ホームレスの「肉体」のなかで動いている。
ことばの共有は、最後にまた違った形で展開される。
警官が突入することを知ったエミリオ・エステベスとホームレスたちは裸で逮捕されることを望む。無抵抗の象徴として裸になる。そのとき、エミリオ・エステベスが歌い始める。その歌をホームレス全員が歌う。音楽の共有だけれど、その音楽は、そのとき何よりも、ことばなのだ。いいたいことが、そのことばのなかにつまっている。他人の書いたことば(歌詞)だが、歌うとき、そのことばはホームレスの「声」となって彼らの「肉体」を結びつける。
ことばはだれもが話すが、だれもが語れるわけではない。でも、語らないといけないときがある。自分でことばを組み立てる必要がある。だれにでもできるわけではない。そういうときは、知っていることばに頼る。覚えていることばに頼る。覚えているのは、そのことばが彼を支えてくれていたからである。ことばは、覚えられて、肉体になる。肉体になって「共有」が広がっていく。
こういうことが、図書館を舞台に繰り広げられる。
図書館はことば(情報)の宝庫だ。そこにやってくるひとたちは、「情報」を求めている。なかには、「実物大の地球儀はない?」というとんでもないものもあるが、世の中にはとんでもないものを「情報(ことば)」として求めている人もいるのだ。そういうものを図書館はもっていない、図書館にはない情報(ことば)もある。それを、どうやって獲得するか。その「答え」のひとつが、「怒りの葡萄」と「歌」によって表現されている。「共有」は図書館にはないのだ。共有できる「ことば(情報)」を提供できるが、「共有」そのものを提供できない。「提供」を獲得するとき、ことばも情報もかわっていく。そこから現実のドラマが始まる。「生きている」ということが始まる。
ことばをあつかう仕事をしてきたこと、ことばを読んだり書いたりすることをつづけている私には、ひとつの「理想」を見る思いがする。そういうことも★5個の理由だな。
それにしても、「交渉人」「テレビのレポーター」も組み合わせ、ことばの「共有」の問題を、ことばがいっぱいの図書館を舞台にして、ドラマにする脚本には細部に目配りがきいていて、エミリオ・エステベスの演技同様、浮ついたところがなく、とてもいいと思った。
(KBCシネマ、スクリーン2、2020年07月18日)
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