ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ監督「その手に触れるまで」(★★★★★)
監督 ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ 出演 イディル・ベン・アディ
非常に見づらい映画である。特に私のように視力の弱い人間は、船に酔ったような感じになる。画面が揺れるのだ。そしてその揺れは、たとえば「仁義なき戦い」のような手持ちカメラが走り回る揺れではなく、ふつうの映画なら固定して撮るシーンで揺れるのだ。たとえば少年がイスラムの礼拝をする。その肉体を追うようにしてカメラが動く。カメラを固定しておいて、その「フレーム(枠)」のなかで少年がひざまずき、体を投げ出すという動きを撮った方が、観客には少年の動きがわかりやすい。しかし、カメラは固定されていない。どこに「視点」を定めて動いているのかもつかみにくい。ただ、少年に密着するように動いているということだけがわかる。これが私の知っている少年(人間)ならば、こういうとらえ方をしていても「不安」にも「気持ち悪い」という状態にもならない。知っている人だったら、本の少しの肉体の動き、手や指の動きだけでも、何かを感じる。でも、始めてみる人間、知らない人間の動きを、こんなふうに撮られて、それを見せつけられても困惑する。少年のことは何も知らないのに……と思ってしまうのである。細部の動きから、少年の「内面」を感じ取れと言われても、そんなものはわかるはずがない。しかし、そのわかるはずがないものを、ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ監督は、「わかってやれ」と押しつけてくる。いや、そうではなくて、ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ監督も少年がわからずに、ただわかりたいと思い、そばにいつづけるだけなのかもしれない。
この「そばにいる」(いっしょにいる)という感覚が「気持ち悪い」までに濃厚になるシーンが、少年が出席している「放課後講座」である。あるときアラビア語(?)を歌をとおして教えるのはいいことか、コーランに反することがというテーマにした話しあいが開かれる。子どもたちの両親も参加している。そこで何人かが発言する。その何人かをカメラは発言者が変わるたびにずるずるっと動いて捕らえる。一人ずつをカメラを切り換えて映し出すわけではない。そうすると発言者と発言者のあいだにいる人までカメラに映ってしまう。もし、そこに私がいたら(つまり「肉眼」でそういう場を目撃したら)、私は発言者と発言者の「あいだ」の人々を意識から省略して発言者だけを見つめる。見ていても「脳」のなかで見なかったことにする。ところが、カメラにはそういう「省略」ができない。そこにいる人を全部映し出す。不必要な(?)人も「つながり」のなかに入ってきて、その「つながりのなさ」があるにもかかわらず、そこにいるということが非常に気持ち悪い感じで目眩を引き起こすのだ。人がそばにいること、個人が個人では存在しないことというのは、ある意味で「気持ち悪い」ことなのだ。私たちは(私だけか)、たぶん、人がいても「いない」という処理をして、日常を生きている。
この映画の主人公は、しかし、その「そばにだれかがいるけれど、それはいない」という「処理」ができない。自分とは違う考えの人がいる、ということを受け入れることができない。そばにいていいのは、自分と同じ考えの人間だけだ。世界は自分と同じ考えの人間で構成されていなければいけない。そう思っている。そして、その少年の意識が私に乗り移っているから、放課後講座の討論会が「気持ち悪い」ものとして肉体に迫ってくるのだ。そして、ここから考え直すと、この映画のカメラは「少年」そのものなのだ。「少年」の見ている世界を「少年」が見たまま、再現しているのだ。
手を洗い、口をすすぎ、身を清めるシーンが何度も出てくるが、その時の映像に少年の顔が入り込んでいたとしても、それは「客観」ではなく、少年が見た「主観」からの世界である。手を洗うシーンでは、手しか映らないから、そのことがよくわかる。少年は真剣に「手」の汚れが落ちていくのを見ているのだ。
少年に触れていいのは、そして少年が触れていいのは、少年と同じ「清らか」な存在でなければいけない。少年と同じように「神」と一体になろうとしている人間でなくてはならない。それ以外の人間は、「いてはいけない」。共存など、ありえない。少年と違う考え(違う神を信じる)人間は、いてはいけない。もしいっしょにいたいなら、同じ考え(同じ神)を持つべきだ。
これを象徴するのが、少女との恋である。少女は少年に触れる。キスをする。そのとき少年は少女にイスラム教徒になれと迫る。それができないなら、いっしょにいることはできないと突き放す。
さて。
ここで、私は悩む。
この少年に、私はどこまで付き合いつづけることができる。少年が何を考えているかわからない。頭では「狂信的」なイスラム教徒になっている、ということは理解できるが、だんだん、少年は狂信的なイスラム教徒なのだと頭で処理することで、こころと肉体が少年から離れて言っていること気がつく。つまり、「冷淡」な気持ちでストーリーを追うことになる。「結末はどうなるの?」と思ってしまう。
と、突然、思いがけない「できごと」が起きる。
少年は、放課後教室の女性の先生を「背信教徒」と思っている。なんといっても、先生の新しい恋人はユダヤ教徒なのだ。そして殺害することが正しいことだと思っている。実際に殺害しようとして失敗し、少年院に入る。少女との濃いの跡、作業で通っている農場からの帰り道、少年は車から脱走し、もう一度女性教師を殺そうとする。しかし、女性教師の家に忍び込もうとしたとき、つかんだ二階の窓が壊れ、少年は地面に落ちる。背中を強打して、動けない。死んでしまう、助かりたいと思う。必死になって、庭を仰向けのまま這ってゆく。女性教師を殺すはずの「凶器」の金具で、窓格子を叩き助けを求める。女教師が出てきて、少年に気づく。「救急車を呼んでほしいか」と尋ねる。少年は、うなずく。少年は女性教師に手を伸ばし、その手に触れる。それまで、別れの握手さえ拒んでいた女性教師の手に触れる。
何が起きたのか。死にたくなくて、少年は必死だったといってしまえばそれまでだが、私は、このラストシーンに、非常に衝撃を受けた。
だれかといっしょに生きる(社会)とは、「助けを求める」ことなのだ。「助けを求めることが許される」のが社会なのだ。少年は、それまで誰にも助けを求めてこなかった。神にさえ、助けを求めていない。正しいことをすれば(背信教徒を殺害すれば)、神は少年を受け入れてくるとは考えても、それは神が助けてくれるということとは違う。自分の肉体を傷めることで、少年は初めて「助けを求めた」。それまで少年は「助けられてきた」けれど、他人に助けを求めたことはなかった。でも、人間とは助けを求めるものなのだ。
握手をする(他人に触れる)は、「私はあなたに危害を加えません」、あるいは「私はあなたを助けます」という意味をあらわすだけではなく、「何かあったら私を助けてください」ということを含んでいるのだ。もちろん、「助けてください」を意識して握手をする人はないが、握手をしたことがある相手なら、ひとは助けの手を差し伸べる。「助けを求めてもいい」というのが社会なのだ。
このことは、カメラの動きというか、映像そのものからも伝わってくる。
この時のカメラ、映像は、それまでのものとはまったく違う。仰向けで這っていく少年に近づき、その動きにあわせて移動するという点では同じだ。そして、少年が何をめざしているかが最初のうちはわからないという点でも同じだ。少年に何が見えているのかがわからない。けれど、少年がポケットに隠し持っていた凶器を取り出し、窓の格子を叩いたときから、彼のやっていること、「助けを求めていること」がくっきりとわかる。そして、女性教師の手に触れたときの「安心感」がくっきりとわかる。
ああ、よかった、と思う。
私は少年を誤解しているかもしれない。監督が描きたかったものを理解していないかもしれない。しかし、この「ああ、よかった」という気持ちの晴れ方は、めったにない。いわゆるハッピーエンドではないけれど、心底、「ああ、よかった」と思う。このときカメラは少年に寄り添っているのではなく、少年そのものになっていると実感する。カメラと主人公と、見ている観客が「一体」になる。こういう映画を「名作」という。
(KBCシネマ2、2020年07月08日)
**********************************************************************
「現代詩通信講座」開講のお知らせ
メールを使っての「現代詩通信講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントを1週間以内に返送します。
定員30人。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円です。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。
お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com
また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571
**********************************************************************
「詩はどこにあるか」6月号を発売中です。
132ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168079402
*
オンデマンドで以下の本を発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
監督 ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ 出演 イディル・ベン・アディ
非常に見づらい映画である。特に私のように視力の弱い人間は、船に酔ったような感じになる。画面が揺れるのだ。そしてその揺れは、たとえば「仁義なき戦い」のような手持ちカメラが走り回る揺れではなく、ふつうの映画なら固定して撮るシーンで揺れるのだ。たとえば少年がイスラムの礼拝をする。その肉体を追うようにしてカメラが動く。カメラを固定しておいて、その「フレーム(枠)」のなかで少年がひざまずき、体を投げ出すという動きを撮った方が、観客には少年の動きがわかりやすい。しかし、カメラは固定されていない。どこに「視点」を定めて動いているのかもつかみにくい。ただ、少年に密着するように動いているということだけがわかる。これが私の知っている少年(人間)ならば、こういうとらえ方をしていても「不安」にも「気持ち悪い」という状態にもならない。知っている人だったら、本の少しの肉体の動き、手や指の動きだけでも、何かを感じる。でも、始めてみる人間、知らない人間の動きを、こんなふうに撮られて、それを見せつけられても困惑する。少年のことは何も知らないのに……と思ってしまうのである。細部の動きから、少年の「内面」を感じ取れと言われても、そんなものはわかるはずがない。しかし、そのわかるはずがないものを、ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ監督は、「わかってやれ」と押しつけてくる。いや、そうではなくて、ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ監督も少年がわからずに、ただわかりたいと思い、そばにいつづけるだけなのかもしれない。
この「そばにいる」(いっしょにいる)という感覚が「気持ち悪い」までに濃厚になるシーンが、少年が出席している「放課後講座」である。あるときアラビア語(?)を歌をとおして教えるのはいいことか、コーランに反することがというテーマにした話しあいが開かれる。子どもたちの両親も参加している。そこで何人かが発言する。その何人かをカメラは発言者が変わるたびにずるずるっと動いて捕らえる。一人ずつをカメラを切り換えて映し出すわけではない。そうすると発言者と発言者のあいだにいる人までカメラに映ってしまう。もし、そこに私がいたら(つまり「肉眼」でそういう場を目撃したら)、私は発言者と発言者の「あいだ」の人々を意識から省略して発言者だけを見つめる。見ていても「脳」のなかで見なかったことにする。ところが、カメラにはそういう「省略」ができない。そこにいる人を全部映し出す。不必要な(?)人も「つながり」のなかに入ってきて、その「つながりのなさ」があるにもかかわらず、そこにいるということが非常に気持ち悪い感じで目眩を引き起こすのだ。人がそばにいること、個人が個人では存在しないことというのは、ある意味で「気持ち悪い」ことなのだ。私たちは(私だけか)、たぶん、人がいても「いない」という処理をして、日常を生きている。
この映画の主人公は、しかし、その「そばにだれかがいるけれど、それはいない」という「処理」ができない。自分とは違う考えの人がいる、ということを受け入れることができない。そばにいていいのは、自分と同じ考えの人間だけだ。世界は自分と同じ考えの人間で構成されていなければいけない。そう思っている。そして、その少年の意識が私に乗り移っているから、放課後講座の討論会が「気持ち悪い」ものとして肉体に迫ってくるのだ。そして、ここから考え直すと、この映画のカメラは「少年」そのものなのだ。「少年」の見ている世界を「少年」が見たまま、再現しているのだ。
手を洗い、口をすすぎ、身を清めるシーンが何度も出てくるが、その時の映像に少年の顔が入り込んでいたとしても、それは「客観」ではなく、少年が見た「主観」からの世界である。手を洗うシーンでは、手しか映らないから、そのことがよくわかる。少年は真剣に「手」の汚れが落ちていくのを見ているのだ。
少年に触れていいのは、そして少年が触れていいのは、少年と同じ「清らか」な存在でなければいけない。少年と同じように「神」と一体になろうとしている人間でなくてはならない。それ以外の人間は、「いてはいけない」。共存など、ありえない。少年と違う考え(違う神を信じる)人間は、いてはいけない。もしいっしょにいたいなら、同じ考え(同じ神)を持つべきだ。
これを象徴するのが、少女との恋である。少女は少年に触れる。キスをする。そのとき少年は少女にイスラム教徒になれと迫る。それができないなら、いっしょにいることはできないと突き放す。
さて。
ここで、私は悩む。
この少年に、私はどこまで付き合いつづけることができる。少年が何を考えているかわからない。頭では「狂信的」なイスラム教徒になっている、ということは理解できるが、だんだん、少年は狂信的なイスラム教徒なのだと頭で処理することで、こころと肉体が少年から離れて言っていること気がつく。つまり、「冷淡」な気持ちでストーリーを追うことになる。「結末はどうなるの?」と思ってしまう。
と、突然、思いがけない「できごと」が起きる。
少年は、放課後教室の女性の先生を「背信教徒」と思っている。なんといっても、先生の新しい恋人はユダヤ教徒なのだ。そして殺害することが正しいことだと思っている。実際に殺害しようとして失敗し、少年院に入る。少女との濃いの跡、作業で通っている農場からの帰り道、少年は車から脱走し、もう一度女性教師を殺そうとする。しかし、女性教師の家に忍び込もうとしたとき、つかんだ二階の窓が壊れ、少年は地面に落ちる。背中を強打して、動けない。死んでしまう、助かりたいと思う。必死になって、庭を仰向けのまま這ってゆく。女性教師を殺すはずの「凶器」の金具で、窓格子を叩き助けを求める。女教師が出てきて、少年に気づく。「救急車を呼んでほしいか」と尋ねる。少年は、うなずく。少年は女性教師に手を伸ばし、その手に触れる。それまで、別れの握手さえ拒んでいた女性教師の手に触れる。
何が起きたのか。死にたくなくて、少年は必死だったといってしまえばそれまでだが、私は、このラストシーンに、非常に衝撃を受けた。
だれかといっしょに生きる(社会)とは、「助けを求める」ことなのだ。「助けを求めることが許される」のが社会なのだ。少年は、それまで誰にも助けを求めてこなかった。神にさえ、助けを求めていない。正しいことをすれば(背信教徒を殺害すれば)、神は少年を受け入れてくるとは考えても、それは神が助けてくれるということとは違う。自分の肉体を傷めることで、少年は初めて「助けを求めた」。それまで少年は「助けられてきた」けれど、他人に助けを求めたことはなかった。でも、人間とは助けを求めるものなのだ。
握手をする(他人に触れる)は、「私はあなたに危害を加えません」、あるいは「私はあなたを助けます」という意味をあらわすだけではなく、「何かあったら私を助けてください」ということを含んでいるのだ。もちろん、「助けてください」を意識して握手をする人はないが、握手をしたことがある相手なら、ひとは助けの手を差し伸べる。「助けを求めてもいい」というのが社会なのだ。
このことは、カメラの動きというか、映像そのものからも伝わってくる。
この時のカメラ、映像は、それまでのものとはまったく違う。仰向けで這っていく少年に近づき、その動きにあわせて移動するという点では同じだ。そして、少年が何をめざしているかが最初のうちはわからないという点でも同じだ。少年に何が見えているのかがわからない。けれど、少年がポケットに隠し持っていた凶器を取り出し、窓の格子を叩いたときから、彼のやっていること、「助けを求めていること」がくっきりとわかる。そして、女性教師の手に触れたときの「安心感」がくっきりとわかる。
ああ、よかった、と思う。
私は少年を誤解しているかもしれない。監督が描きたかったものを理解していないかもしれない。しかし、この「ああ、よかった」という気持ちの晴れ方は、めったにない。いわゆるハッピーエンドではないけれど、心底、「ああ、よかった」と思う。このときカメラは少年に寄り添っているのではなく、少年そのものになっていると実感する。カメラと主人公と、見ている観客が「一体」になる。こういう映画を「名作」という。
(KBCシネマ2、2020年07月08日)
**********************************************************************
「現代詩通信講座」開講のお知らせ
メールを使っての「現代詩通信講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントを1週間以内に返送します。
定員30人。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円です。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。
お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com
また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571
**********************************************************************
「詩はどこにあるか」6月号を発売中です。
132ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168079402
*
オンデマンドで以下の本を発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com