詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ監督「その手に触れるまで」(★★★★★)

2020-07-08 15:43:01 | 映画
ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ監督「その手に触れるまで」(★★★★★)

監督 ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ 出演 イディル・ベン・アディ

 非常に見づらい映画である。特に私のように視力の弱い人間は、船に酔ったような感じになる。画面が揺れるのだ。そしてその揺れは、たとえば「仁義なき戦い」のような手持ちカメラが走り回る揺れではなく、ふつうの映画なら固定して撮るシーンで揺れるのだ。たとえば少年がイスラムの礼拝をする。その肉体を追うようにしてカメラが動く。カメラを固定しておいて、その「フレーム(枠)」のなかで少年がひざまずき、体を投げ出すという動きを撮った方が、観客には少年の動きがわかりやすい。しかし、カメラは固定されていない。どこに「視点」を定めて動いているのかもつかみにくい。ただ、少年に密着するように動いているということだけがわかる。これが私の知っている少年(人間)ならば、こういうとらえ方をしていても「不安」にも「気持ち悪い」という状態にもならない。知っている人だったら、本の少しの肉体の動き、手や指の動きだけでも、何かを感じる。でも、始めてみる人間、知らない人間の動きを、こんなふうに撮られて、それを見せつけられても困惑する。少年のことは何も知らないのに……と思ってしまうのである。細部の動きから、少年の「内面」を感じ取れと言われても、そんなものはわかるはずがない。しかし、そのわかるはずがないものを、ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ監督は、「わかってやれ」と押しつけてくる。いや、そうではなくて、ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ監督も少年がわからずに、ただわかりたいと思い、そばにいつづけるだけなのかもしれない。
 この「そばにいる」(いっしょにいる)という感覚が「気持ち悪い」までに濃厚になるシーンが、少年が出席している「放課後講座」である。あるときアラビア語(?)を歌をとおして教えるのはいいことか、コーランに反することがというテーマにした話しあいが開かれる。子どもたちの両親も参加している。そこで何人かが発言する。その何人かをカメラは発言者が変わるたびにずるずるっと動いて捕らえる。一人ずつをカメラを切り換えて映し出すわけではない。そうすると発言者と発言者のあいだにいる人までカメラに映ってしまう。もし、そこに私がいたら(つまり「肉眼」でそういう場を目撃したら)、私は発言者と発言者の「あいだ」の人々を意識から省略して発言者だけを見つめる。見ていても「脳」のなかで見なかったことにする。ところが、カメラにはそういう「省略」ができない。そこにいる人を全部映し出す。不必要な(?)人も「つながり」のなかに入ってきて、その「つながりのなさ」があるにもかかわらず、そこにいるということが非常に気持ち悪い感じで目眩を引き起こすのだ。人がそばにいること、個人が個人では存在しないことというのは、ある意味で「気持ち悪い」ことなのだ。私たちは(私だけか)、たぶん、人がいても「いない」という処理をして、日常を生きている。
 この映画の主人公は、しかし、その「そばにだれかがいるけれど、それはいない」という「処理」ができない。自分とは違う考えの人がいる、ということを受け入れることができない。そばにいていいのは、自分と同じ考えの人間だけだ。世界は自分と同じ考えの人間で構成されていなければいけない。そう思っている。そして、その少年の意識が私に乗り移っているから、放課後講座の討論会が「気持ち悪い」ものとして肉体に迫ってくるのだ。そして、ここから考え直すと、この映画のカメラは「少年」そのものなのだ。「少年」の見ている世界を「少年」が見たまま、再現しているのだ。
 手を洗い、口をすすぎ、身を清めるシーンが何度も出てくるが、その時の映像に少年の顔が入り込んでいたとしても、それは「客観」ではなく、少年が見た「主観」からの世界である。手を洗うシーンでは、手しか映らないから、そのことがよくわかる。少年は真剣に「手」の汚れが落ちていくのを見ているのだ。
 少年に触れていいのは、そして少年が触れていいのは、少年と同じ「清らか」な存在でなければいけない。少年と同じように「神」と一体になろうとしている人間でなくてはならない。それ以外の人間は、「いてはいけない」。共存など、ありえない。少年と違う考え(違う神を信じる)人間は、いてはいけない。もしいっしょにいたいなら、同じ考え(同じ神)を持つべきだ。
 これを象徴するのが、少女との恋である。少女は少年に触れる。キスをする。そのとき少年は少女にイスラム教徒になれと迫る。それができないなら、いっしょにいることはできないと突き放す。
 さて。
 ここで、私は悩む。
 この少年に、私はどこまで付き合いつづけることができる。少年が何を考えているかわからない。頭では「狂信的」なイスラム教徒になっている、ということは理解できるが、だんだん、少年は狂信的なイスラム教徒なのだと頭で処理することで、こころと肉体が少年から離れて言っていること気がつく。つまり、「冷淡」な気持ちでストーリーを追うことになる。「結末はどうなるの?」と思ってしまう。
 と、突然、思いがけない「できごと」が起きる。
 少年は、放課後教室の女性の先生を「背信教徒」と思っている。なんといっても、先生の新しい恋人はユダヤ教徒なのだ。そして殺害することが正しいことだと思っている。実際に殺害しようとして失敗し、少年院に入る。少女との濃いの跡、作業で通っている農場からの帰り道、少年は車から脱走し、もう一度女性教師を殺そうとする。しかし、女性教師の家に忍び込もうとしたとき、つかんだ二階の窓が壊れ、少年は地面に落ちる。背中を強打して、動けない。死んでしまう、助かりたいと思う。必死になって、庭を仰向けのまま這ってゆく。女性教師を殺すはずの「凶器」の金具で、窓格子を叩き助けを求める。女教師が出てきて、少年に気づく。「救急車を呼んでほしいか」と尋ねる。少年は、うなずく。少年は女性教師に手を伸ばし、その手に触れる。それまで、別れの握手さえ拒んでいた女性教師の手に触れる。
 何が起きたのか。死にたくなくて、少年は必死だったといってしまえばそれまでだが、私は、このラストシーンに、非常に衝撃を受けた。
 だれかといっしょに生きる(社会)とは、「助けを求める」ことなのだ。「助けを求めることが許される」のが社会なのだ。少年は、それまで誰にも助けを求めてこなかった。神にさえ、助けを求めていない。正しいことをすれば(背信教徒を殺害すれば)、神は少年を受け入れてくるとは考えても、それは神が助けてくれるということとは違う。自分の肉体を傷めることで、少年は初めて「助けを求めた」。それまで少年は「助けられてきた」けれど、他人に助けを求めたことはなかった。でも、人間とは助けを求めるものなのだ。
 握手をする(他人に触れる)は、「私はあなたに危害を加えません」、あるいは「私はあなたを助けます」という意味をあらわすだけではなく、「何かあったら私を助けてください」ということを含んでいるのだ。もちろん、「助けてください」を意識して握手をする人はないが、握手をしたことがある相手なら、ひとは助けの手を差し伸べる。「助けを求めてもいい」というのが社会なのだ。
 このことは、カメラの動きというか、映像そのものからも伝わってくる。
 この時のカメラ、映像は、それまでのものとはまったく違う。仰向けで這っていく少年に近づき、その動きにあわせて移動するという点では同じだ。そして、少年が何をめざしているかが最初のうちはわからないという点でも同じだ。少年に何が見えているのかがわからない。けれど、少年がポケットに隠し持っていた凶器を取り出し、窓の格子を叩いたときから、彼のやっていること、「助けを求めていること」がくっきりとわかる。そして、女性教師の手に触れたときの「安心感」がくっきりとわかる。
 ああ、よかった、と思う。
 私は少年を誤解しているかもしれない。監督が描きたかったものを理解していないかもしれない。しかし、この「ああ、よかった」という気持ちの晴れ方は、めったにない。いわゆるハッピーエンドではないけれど、心底、「ああ、よかった」と思う。このときカメラは少年に寄り添っているのではなく、少年そのものになっていると実感する。カメラと主人公と、見ている観客が「一体」になる。こういう映画を「名作」という。

(KBCシネマ2、2020年07月08日)


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館路子「夜半、雨の降る中へ送り出す」、田原「無題」

2020-07-08 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
館路子「夜半、雨の降る中へ送り出す」、田原「無題」(「北方文学」81、2020年06月30日発行)

 館路子「夜半、雨の降る中へ送り出す」は「正体不明」のものについて書いている。

夜半の
雨音の籠もる部屋の片隅に
病葉とおぼしきものが一枚
どこから吹き込んだものかと訝りつつ
拾い上げようとして身をかがめると
奇妙なことに
傍らの子猫がひどく警戒する風情でくっくっと鳴く
くっくっ
しかし鳴いているのは子猫ではなくて
朽ちたような葉の
眼も口許も見当たらない肉化した(ような)一枚が
音とも声とも推測しがたく身をふるわせて鳴いているのだ
進化の途次か退化のそれか
ともかく異形
摘まみ上げようとした手をとめて
思わず古語でつぶやく(口籠もりながら)
ただの生物ではあるまじ

 括弧内に閉じこめられるかたちで補われている(ような)(口籠もりながら)は何だろうか。それこそ思考の「口籠もり」か。そうではない、と思う。これは、何かに頼っているのだ。何か、とは「ことば」だ。それも「自分のことば」というより、「他人のことば」とも言うべき、「ことばの力」に頼っているのだ。
 それは「古語」の力。自分から進んでそれを口にするのではなく、自分のことばではたどりつけない何かがあって、それを「古語」に頼んで、いま、ことばにするのだ。
 (ような)は、古語というほどでもない。しかし、「肉化した一枚」と「暗喩」にしてしまうと何かが違う。「ような」という「直喩」なら許されるかもしれない。そういう意識が動いているように感じられる。「口籠もる」のは、それが館の「肉体のことば」ではなく、「知識のことば」だからだろう。いや、「知恵のことば」と言えばいいか。目で(頭で)読んで理解していることばではなく、「耳」で聞いて、つまり暮らしのなかで「こう言うんだったな」と思い出している感じ。両親か、祖父母か知らないが、館の肉親のだれかが「……ではあるまじ」と言っているのを聞いたことがある。その「記憶」のことば。昔の人(?)は、こういうとき「……ではあるまじ」と言うことで、その存在が存在として「いま/ここ」にあらわれてくるのを避けていた。存在を「ことば」の領域にとどめておいて、どこかへ放り出してしまう。正確に言い当てないことで、自分とは無関係にしてしまう。それが「……ではあるまじ」なのだろう。
 ここでは館は、過去からつづいている「肉体の力(いのちの力)」というものに、「古語」で触れ、それにすがっている。梅爾(また、この詩人を出してしまうが)が「一億年」と呼んでいる「肉体化された時間」に触れているのだと思う。
 「一億年」と「デジタル」の表現では言ってしまえるが、しかし「一億年」がどんな時間であるかを、梅爾は知らないだろう。知らないけれど、知ってると「肉体」でなら言える。それが「女・性(おんな・せい)」なのだと思う。
 この「知らないけれど知っている一億年」のようなものを、館は、「解読されない言語」「伝わって来ない言葉」と言っているように思う。

解読されない言語がまだ世界には在って
その一種で嘆いているようだが
わからない

伝わって来ない言葉に替えて
感情の在り処を読み取らなければなるまい
不安、悲しみ、恐怖感など
かたちにならないものがその身体の中に渦巻いてはいないか
くっくっ

 「わからない」けれど、「わからない」ということ(ことば)を媒介させて、それを「肉体(館は、身体と書いている)」で引き受ける。自分の「肉体」のなかに引き受ける。
 もし、館が「くっくっ」という声を漏らすとしたら、それはどういうときか。「ただの生物」ではなく、「不安、悲しみ、恐怖感」を抱え込んでいる「肉体」としての存在なのだ。こう、想像できるのは、館に「くっくっ」に似た声を発したことがあるからだ。ことばにならない「不安、悲しみ、恐怖感」をかかえて「くっくっ」。それは、館の「肉体」のなかで渦巻いている。そういう「時間」を館は知っている。
 そしてそれは館が知っているだけではなく、両親や祖父母(古語につながるいのち)が、あるとき、館の前で見せた「肉体の姿(いのちの姿)」そのものだったのだろう。館は、それを「古語」を引き寄せるようにして、館の「祖先の肉体」から引き寄せ、引き継ぎ、そうすることで夜の不思議な訪問者と和解しようとしているように感じられる。
 「ただの生物ではあるまじ」の「あるまじ」は「ことば=意味」というよりも「声」なのだ。「声」を発することで、「声」の力で、不吉な「肉体(いのち)」を避けようとする「いのり」のようなものだ。
 「いのり」と思わず書いてしまうのは、「私は、おまえを殺さない。逃がす。だから、私を助けてくれ」と言っているように聞こえるからだ。
 そんなことを思いながら、詩を読み進むと、最後にこんなことばが出てくる。

雨の中へ、街路灯のあかりの果てに拡がる闇へ
気味の悪い思いを消せないままに送り出してしまった
爾来、遭遇することはない
が、気懸かりなほど寂しいいのちのひとつ(だった)

 「いのち」。館が「肉体」で引き受けたのは「いのち」だったのだ。そして、「だった」とはいいながら、それは「過去形」になってしまっているわけではない。括弧で隠しているように、過去だけれど、いつでも「いま」になって噴出してくる何かなのだ。「……ではあるまじ」という「古語」のように「過去」だけれど、「過去」にとどまり続けているのではなく、ふいに「いのち/肉体」が揺さぶられるようなときがあれば、また「いま」となってあらわれるものなのだ。



 「ことば」と「肉体」の、この「時間を越える交渉」を田原は「無題」の後半で、こう書いている。館が「古語」と呼んでいるものを、田原は「母語」と呼んでいる。

10
漢語は
あなたの歴史の原形
和語は
あなたの記憶の痛み

11
一篇一篇の詩は
母語に昇ってくる地平線
起点から
終りのない終点へと延びてゆく

 この「無題」には「高銀に」というサブタイトルがついている。私は「高銀」という人を知らないのだが、「10」の部分から想像すると、韓国の人だろう。詩のなかには「漢江」という地名も(川の名前)も出てくるから。その人は、韓国語を生きると同時に、漢語の精神を引き継ぎ、日本語も身につけている。(身につけさせられた、の方が正しいかもしれない。)しかし、「母語」はやはり韓国語なのだ。「母語」を「肉体」で引き継ぐとき、高銀は「終りのない終点」を生きる。ことばの運動が、どこまでもつづいていく。「一億年」と言わないのが、たぶん、田原の「男・性(おとこ・せい)」というものであり、それを田原は高銀のことばにも感じているのだろう。
 で。
 ここから、私は飛躍するのだが、「肉体」をどう「ことば」と関係づけるかというとき、男と女は、やはり違うのだと思う。


灯りが
馬の体内で明るく灯る
その蹄をふるう嘶きは
あなたの詩篇に響いている

 「馬」という明確な動物(昔は生活に密着していた)の「体」が象徴のようにして動いている。こういう象徴の作り方は、田原にとっては「古語(古典)」というよりも「母語」の動きなのだ。田原にとって「肉体」は「象徴」を引き受けるものなのだ。「象徴」を引き受けることで「ことば」と合体するものなのだろう。
 だから、


古木にかけられた空っぽの巣は
象徴性が失われ
鳥の帰りを待っている
漢江岸辺の前哨屯所が
水の流れを見送っている

 卵(あるいは雛)のいない空っぽの巣は、「象徴性」を持たない。そこに「いのち」がないからだ。
 人間と動物の「肉体」を「象徴」を手がかりにして結びつけ、漢詩(母語)と一体になるように、田原は田原と高銀の「肉体」を「ことば」に象徴化することで結びつけ、一体になる。象徴をつかい「肉体」を表現するという「母語(漢詩)」の伝統の中で一体化する。


匿名の闇討ちが矢を突き立てるのは
肉体ではなく
良識なのだ
時間の鏡の中で
嫉妬と騙し討ちは
かならずその正体を現すのだ

 「良識」とは「ことば」である。「正体」とは「ことば」である。田原は「ことばの肉体」を引き受け、引き継ぐ詩人である。ことばの肉体は象徴となり、「母語に昇ってくる地平線」となる。
 そして、

12
あらゆる川は一つの方向へ流れる
あなたが見守る漢江だけは
絶えることがなく
どんなところへも流れていく

 この最終連は象徴的だ。梅爾や館がさまざまな「いのち/肉体」を平然と受け入れることで「一億年」生きるのに対して、田原、高銀は「ことば/肉体」を引き受けることで「時間」というよりも「空間」的に越境していくのである。ここには、日本語で詩を書く田原(おそらく高銀も)の意識が無意識に反映しているのかもしれないが、とてもおもしろく感じた。
 ここに「見守る」という「ことば」があることにも注目した。「見守る」とき、梅爾は自分自身ではなくなって、他者に寄り添い動いていくが、ここに描かれている高銀はことばを「一つの方向へ流す」というところまでいっしょにいるだけで、それから先は「流れ」にまかせている。寄り添い、いっしょに動いていくわけではない。
 「終りのない終点」まで動いていくのは、あくまで「ことば」なのだ。「母語」のなかに生きている「いのち」なのだ。これは同時に、田原の生き方なのだ。





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