小池昌代「箱根」、松下育男「床屋で」(「孔雀船」96、2020年07月15日発行)
小池昌代「箱根」。
は始まる。なんとなくエリオットの「荒れ地」を思い出す。でも、小池は、エリオットとは違う方向へことばを動かす。
小池が何を書こうとしているのか、見当がつかない。
そして、この「見当のつかなさ」は、この「道を曲がったとき 山を見たこと」で頂点に達する。タイトルから察すると、山は「箱根」を指すのかもしれないが、「道を曲がったとき 山を見たこと」がいったいどうしたというのだ。道を曲がることと山を見ることに、どういう関係があるのだ。
「道」「山」という、あまりにも無防備というか、何も具体的に指し示さないものにあきれてしまうのだ。
あきれてしまうのだが、ここから、ことばが一転する。
いや、そんなことがあれば驚くだろうと、ふつうなら私はいいたくなるのだが、そんな気持ちが起きない。ぐいぐいとひっぱられてしまう。
そこに書かれていることは、現実ではない。ことばなのだ。そして、そのことばは現実を否定して、「事実(あるいは真実)」を生み出している。
そこに書かれているのは、事実、あるいは真実というものなので、驚くのがあたりまえなのだが、「これは事実なのだ、真実なのだ」という気持ちが引き起こされているので、驚きの方が引き下がってしまうのだ。「事実(真実)」を発見した驚きが、それまでの日常の驚きを凌駕してしまうのだ。驚いているのだけれど「驚きはしない」というしかない「驚き」がある。
これを、詩との出会い、という。
あまりにも「非現実的」なことが書かれているのだが、「非現実」か「現実」かを超越して、ことばが「事実」を生み出している。「ことば」を読んでいるのか、それまで隠れていた「事実」を、つまり発見された「真実」に向き合っているのか、わからなくなる。興奮する。「ことば」に酔い始めていることに気がつく。
そうか、これが詩というものか、とあらためて思うのである。
小池のことばは、まだまだつづくのだが、「これが詩だ」と感じたときから、その行方(結論)は、「いま/ここ」ではないことが明らかなので、それがどんな「結末」にたどりつくかは関係がなくなる。
だから、もう引用しない。
詩がつづいているのだから、それは詩を読むしかないのだ。私の感想など、どうでもいいことなのだ。
*
松下育男「床屋で」は床屋での客(松下、と仮定して読んでみる)と理髪店の店主との会話を再現したものだ。
犬を飼っている。その犬を「おふくろ」が可愛がっている。しかし、犬が死んだ。死んだと知っているはずなのに、「おふくろ」が犬を預からせてくれ(一晩いっしょにいたい)と電話をかけてくる。天守は「おふくろ」が認知症になったのではないかと心配になる。「おふくろ」は……
感動的である。「思いましてね」とを繰り返したあと、「思いましてね」とは書かずに、ただ思ったことをそのまま放り出している。「たまらなくなってきたんですよ」。
この放り出し方(気持ちを補足しない)に詩があるといえばいえるのだけれど。
私は、この感動は「詩」ではなく「散文」だと思った。「事実」を「事実」のまま、何の変形も加えずに積み重ね、その結果として、いままで知らなかったことにたどりつく。「結論」が非常に大切なものとして響いてくる。
でもねえ。
この感動は、小池の詩の「結末なんかどうでもいい」という感動とは正反対のものなのだ。
こういうことは、読者の好き嫌いだから、私が口を挟むべきことではないが、小池と松下との、まったく違うことばの動き、「詩」の差し出し方に、私はちょっとびっくりした。
そして、小池の「詩」への大転換、そのときの「踏み台」のようなものが「道を曲がったとき 山を見たこと」とう実に平凡なことばであったことを同時に思い出すのだ。「平凡なことば」のなかへ踏み込む力が詩を生み出す第一歩なのだ。もしかするとその「強さ(力)」こそが詩なのではないかとも思う。小池の詩を長々と引用したが、そらで思い出すことができるのは「道を曲がったとき 山を見たこと」という、いわば「無意味」な一行なのだから。
「無意味」の定義はむずかしいが、松下の最終行「たまらなくなってきたんですよ」と比較すると、わかるものがある。小池の「道を曲がったとき 山を見たこと」は非情なのだ。詩は非情の先にある、非情をくぐりぬけたときにあらわれる。人情はストーリーになる。
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小池昌代「箱根」。
春は底冷えがする
死んでいるものには
泥の 冷たさ
は始まる。なんとなくエリオットの「荒れ地」を思い出す。でも、小池は、エリオットとは違う方向へことばを動かす。
鎌倉時代
武士たちには
兄弟の血よりも濃い ヒーローがいたが
わたしには そんな主君がいない
小池が何を書こうとしているのか、見当がつかない。
妹は
いまは 山ほども遠く
長じて わたしたちは
汽笛のように孤独だ
言うまでもないことだが
思い出すことがある
道を曲がったとき 山を見たこと
そして、この「見当のつかなさ」は、この「道を曲がったとき 山を見たこと」で頂点に達する。タイトルから察すると、山は「箱根」を指すのかもしれないが、「道を曲がったとき 山を見たこと」がいったいどうしたというのだ。道を曲がることと山を見ることに、どういう関係があるのだ。
「道」「山」という、あまりにも無防備というか、何も具体的に指し示さないものにあきれてしまうのだ。
あきれてしまうのだが、ここから、ことばが一転する。
危機のように
稜線が 身に迫り
山よ 抽象的な山
長い石段をのぼり
山の神社へ詣で
雲の湧く旧い山道を行けば
何もかもが 具体性を帯びた
箱根
我が実朝の眼差しが強く差しこむ
山桜の散る音にも耳をすますと
石ころのひとつに
わたしの顔があっても 驚きはしない
いや、そんなことがあれば驚くだろうと、ふつうなら私はいいたくなるのだが、そんな気持ちが起きない。ぐいぐいとひっぱられてしまう。
そこに書かれていることは、現実ではない。ことばなのだ。そして、そのことばは現実を否定して、「事実(あるいは真実)」を生み出している。
そこに書かれているのは、事実、あるいは真実というものなので、驚くのがあたりまえなのだが、「これは事実なのだ、真実なのだ」という気持ちが引き起こされているので、驚きの方が引き下がってしまうのだ。「事実(真実)」を発見した驚きが、それまでの日常の驚きを凌駕してしまうのだ。驚いているのだけれど「驚きはしない」というしかない「驚き」がある。
これを、詩との出会い、という。
かつて山にのぼった船があり
その巨大な悲しみが
山の裾野で いまも溶け続けている
とりかえしのつかないことをして
ハエに生まれ変わることを夢見ていたが
腐葉土積もるここならば
かなうかもしれない
あまりにも「非現実的」なことが書かれているのだが、「非現実」か「現実」かを超越して、ことばが「事実」を生み出している。「ことば」を読んでいるのか、それまで隠れていた「事実」を、つまり発見された「真実」に向き合っているのか、わからなくなる。興奮する。「ことば」に酔い始めていることに気がつく。
そうか、これが詩というものか、とあらためて思うのである。
小池のことばは、まだまだつづくのだが、「これが詩だ」と感じたときから、その行方(結論)は、「いま/ここ」ではないことが明らかなので、それがどんな「結末」にたどりつくかは関係がなくなる。
だから、もう引用しない。
詩がつづいているのだから、それは詩を読むしかないのだ。私の感想など、どうでもいいことなのだ。
*
松下育男「床屋で」は床屋での客(松下、と仮定して読んでみる)と理髪店の店主との会話を再現したものだ。
犬を飼っている。その犬を「おふくろ」が可愛がっている。しかし、犬が死んだ。死んだと知っているはずなのに、「おふくろ」が犬を預からせてくれ(一晩いっしょにいたい)と電話をかけてくる。天守は「おふくろ」が認知症になったのではないかと心配になる。「おふくろ」は……
おふくろ
犬の骨壺と写真を大きな袋にいれて
さっさと帰って行ったんです
翌朝
返しに来ましたけどね
一晩
骨壺と一緒にいたんだなと
思いましてね
それで何をしていたんだろうと
思いましてね
一晩で
いいのかなと
思いましてね
たまらなくなってきたんですよ
感動的である。「思いましてね」とを繰り返したあと、「思いましてね」とは書かずに、ただ思ったことをそのまま放り出している。「たまらなくなってきたんですよ」。
この放り出し方(気持ちを補足しない)に詩があるといえばいえるのだけれど。
私は、この感動は「詩」ではなく「散文」だと思った。「事実」を「事実」のまま、何の変形も加えずに積み重ね、その結果として、いままで知らなかったことにたどりつく。「結論」が非常に大切なものとして響いてくる。
でもねえ。
この感動は、小池の詩の「結末なんかどうでもいい」という感動とは正反対のものなのだ。
こういうことは、読者の好き嫌いだから、私が口を挟むべきことではないが、小池と松下との、まったく違うことばの動き、「詩」の差し出し方に、私はちょっとびっくりした。
そして、小池の「詩」への大転換、そのときの「踏み台」のようなものが「道を曲がったとき 山を見たこと」とう実に平凡なことばであったことを同時に思い出すのだ。「平凡なことば」のなかへ踏み込む力が詩を生み出す第一歩なのだ。もしかするとその「強さ(力)」こそが詩なのではないかとも思う。小池の詩を長々と引用したが、そらで思い出すことができるのは「道を曲がったとき 山を見たこと」という、いわば「無意味」な一行なのだから。
「無意味」の定義はむずかしいが、松下の最終行「たまらなくなってきたんですよ」と比較すると、わかるものがある。小池の「道を曲がったとき 山を見たこと」は非情なのだ。詩は非情の先にある、非情をくぐりぬけたときにあらわれる。人情はストーリーになる。
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(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
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作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。
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また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
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