詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小池昌代「箱根」、松下育男「床屋で」

2020-07-12 15:52:04 | 詩(雑誌・同人誌)
小池昌代「箱根」、松下育男「床屋で」(「孔雀船」96、2020年07月15日発行)

 小池昌代「箱根」。

春は底冷えがする
死んでいるものには
泥の 冷たさ

 は始まる。なんとなくエリオットの「荒れ地」を思い出す。でも、小池は、エリオットとは違う方向へことばを動かす。

鎌倉時代
武士たちには
兄弟の血よりも濃い ヒーローがいたが
わたしには そんな主君がいない

 小池が何を書こうとしているのか、見当がつかない。

妹は
いまは 山ほども遠く
長じて わたしたちは
汽笛のように孤独だ
言うまでもないことだが
思い出すことがある
道を曲がったとき 山を見たこと

 そして、この「見当のつかなさ」は、この「道を曲がったとき 山を見たこと」で頂点に達する。タイトルから察すると、山は「箱根」を指すのかもしれないが、「道を曲がったとき 山を見たこと」がいったいどうしたというのだ。道を曲がることと山を見ることに、どういう関係があるのだ。
 「道」「山」という、あまりにも無防備というか、何も具体的に指し示さないものにあきれてしまうのだ。
 あきれてしまうのだが、ここから、ことばが一転する。

危機のように
稜線が 身に迫り
山よ 抽象的な山
長い石段をのぼり
山の神社へ詣で
雲の湧く旧い山道を行けば
何もかもが 具体性を帯びた
箱根
我が実朝の眼差しが強く差しこむ
山桜の散る音にも耳をすますと
石ころのひとつに
わたしの顔があっても 驚きはしない

 いや、そんなことがあれば驚くだろうと、ふつうなら私はいいたくなるのだが、そんな気持ちが起きない。ぐいぐいとひっぱられてしまう。
 そこに書かれていることは、現実ではない。ことばなのだ。そして、そのことばは現実を否定して、「事実(あるいは真実)」を生み出している。
 そこに書かれているのは、事実、あるいは真実というものなので、驚くのがあたりまえなのだが、「これは事実なのだ、真実なのだ」という気持ちが引き起こされているので、驚きの方が引き下がってしまうのだ。「事実(真実)」を発見した驚きが、それまでの日常の驚きを凌駕してしまうのだ。驚いているのだけれど「驚きはしない」というしかない「驚き」がある。
 これを、詩との出会い、という。

かつて山にのぼった船があり
その巨大な悲しみが
山の裾野で いまも溶け続けている
とりかえしのつかないことをして
ハエに生まれ変わることを夢見ていたが
腐葉土積もるここならば
かなうかもしれない

 あまりにも「非現実的」なことが書かれているのだが、「非現実」か「現実」かを超越して、ことばが「事実」を生み出している。「ことば」を読んでいるのか、それまで隠れていた「事実」を、つまり発見された「真実」に向き合っているのか、わからなくなる。興奮する。「ことば」に酔い始めていることに気がつく。
 そうか、これが詩というものか、とあらためて思うのである。
 小池のことばは、まだまだつづくのだが、「これが詩だ」と感じたときから、その行方(結論)は、「いま/ここ」ではないことが明らかなので、それがどんな「結末」にたどりつくかは関係がなくなる。
 だから、もう引用しない。
 詩がつづいているのだから、それは詩を読むしかないのだ。私の感想など、どうでもいいことなのだ。



 松下育男「床屋で」は床屋での客(松下、と仮定して読んでみる)と理髪店の店主との会話を再現したものだ。
 犬を飼っている。その犬を「おふくろ」が可愛がっている。しかし、犬が死んだ。死んだと知っているはずなのに、「おふくろ」が犬を預からせてくれ(一晩いっしょにいたい)と電話をかけてくる。天守は「おふくろ」が認知症になったのではないかと心配になる。「おふくろ」は……

おふくろ
犬の骨壺と写真を大きな袋にいれて
さっさと帰って行ったんです

翌朝
返しに来ましたけどね

一晩
骨壺と一緒にいたんだなと
思いましてね

それで何をしていたんだろうと
思いましてね

一晩で
いいのかなと
思いましてね

たまらなくなってきたんですよ

 感動的である。「思いましてね」とを繰り返したあと、「思いましてね」とは書かずに、ただ思ったことをそのまま放り出している。「たまらなくなってきたんですよ」。
 この放り出し方(気持ちを補足しない)に詩があるといえばいえるのだけれど。
 私は、この感動は「詩」ではなく「散文」だと思った。「事実」を「事実」のまま、何の変形も加えずに積み重ね、その結果として、いままで知らなかったことにたどりつく。「結論」が非常に大切なものとして響いてくる。
 でもねえ。
 この感動は、小池の詩の「結末なんかどうでもいい」という感動とは正反対のものなのだ。

 こういうことは、読者の好き嫌いだから、私が口を挟むべきことではないが、小池と松下との、まったく違うことばの動き、「詩」の差し出し方に、私はちょっとびっくりした。
 そして、小池の「詩」への大転換、そのときの「踏み台」のようなものが「道を曲がったとき 山を見たこと」とう実に平凡なことばであったことを同時に思い出すのだ。「平凡なことば」のなかへ踏み込む力が詩を生み出す第一歩なのだ。もしかするとその「強さ(力)」こそが詩なのではないかとも思う。小池の詩を長々と引用したが、そらで思い出すことができるのは「道を曲がったとき 山を見たこと」という、いわば「無意味」な一行なのだから。
 「無意味」の定義はむずかしいが、松下の最終行「たまらなくなってきたんですよ」と比較すると、わかるものがある。小池の「道を曲がったとき 山を見たこと」は非情なのだ。詩は非情の先にある、非情をくぐりぬけたときにあらわれる。人情はストーリーになる。






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ウッディ・アレン監督「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」(★★★+★)

2020-07-12 13:31:51 | 映画
ウッディ・アレン監督「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」(★★★+★)

監督 ウッディ・アレン 出演 エル・ファニング、ティモシー・シャラメ

 最近のウッディ・アレンは弱い光のなかで、輝いたり陰ったりする「人肌(女性の肌)」の変化に執着している。この映画でも、最初からそういうシーンで始まる。大学のキャンパスでエル・ファニングとティモシー・シャラメが話をする。夕方の色づいた光がエル・ファニングを染め上げる。金髪がやわらかに輝き、ほほが朱色(黄金?)にそまる。エル・ファニングが美しいのか、夕暮れの光が美しいのか、判断に迷う。そして、迷っている瞬間、私は、私がウッディ・アレンになっていると感じる。
 言い直すと。
 もしエル・ファニングが魅力的に見えたとしても、それは彼女自身の力によるものではない。ウディ・アレンの演出、特に光の演出によって、この世を超えた存在になっているのである、とウディ・アレンは言っているのだ。
 ここではウディ・アレンは「自己分裂」していることになる。
 ふつうはミューズに出会い、ミューズに引かれて、さまざまな活動が始まる。しかし、ウディ・アレンの場合、それは「女性」であるだけではだめなのだ。その「女性」をウディ・アレンが求める光のなかに存在させることで、彼女はミューズに生まれ変わるのだ。ミューズがウディ・アレンを育てるのではなく、女性をミューズに生まれ変わらせることで、ウディ・アレンの創作欲は動き始めるのだ。
 ミューズによってウディ・アレンは生きているということを装い、ウディ・アレンは次々にミューズを取り換えていく。ウディ・アレンにとってミューズは突然やってくるのではなく、ウディ・アレンの「創作」でもある。同じミューズを使っていたら「自己模倣」になる。「自己模倣」を乗り越えるためには、次々にミューズを「更新」しなければならない。
 そういうことが、非常によくわかる映画である。ダイアン・キートンからはじまり、エル・ファニングにたどりつくまでの「女性の変遷」を見ていると、とくにそう感じる。
 ウディ・アレンの「好み」は「成熟」というよりは、「未成熟=未完成」である。「ブルー・ジャスミン」のケイト・ブランシェットさえ、「未完成」を生きている。「わがまま」を貫いている。(ダイアン・キートンは、唯一、未成熟とは無縁の女性に見えるが、未成熟を感じさせないことがウディ・アレンには耐えられず破綻したのかもしれないし、そこで破綻したからこそウディ・アレンの女性遍歴=ミューズ探し、ミューズづくりがはじまったかのもしれない。ウディ・アレンには「未熟、未成熟」と「純粋」のあいだには大きな違いがあるということが明確に認識されていないのかもしれない。「未成熟」なら「純粋」と思い込んでいる感じがある。)

 ということを書いてもしようがないが。

 私は、エル・ファニングが生理的に嫌いである。
 こう書き始めた方がよかったかもしれない。
 なにが嫌いか。「童顔」が嫌いである。「童顔」は「未成熟」とは違い「未熟」である。まだ「成熟」に手がかかっていない。
 でも、これは考えようによっては、「成」の気配さえないのだから、どんなふうにでも育てられる。変化させることができるということかもしれない。それは、逆に言えば、手を着けたいけれど、どこから手をつけていいかわからないということでもある。
 この映画のなかでは、恋人のティモシー・シャラメのほかに三人の「成熟」した男が出てくる。彼らは、ティモシー・シャラメに対して、どうしていいか、さっぱりわからない。したいことが「ある」のだけれど、それを具体化できない。ディエゴ・ルナは自宅に誘い込むが、スカーレット・ヨハンセンが帰って来て、したいことができない。自分の「未熟」をさらけだしてしまう。
 ウディ・アレン(ティモシー・シャラメ)も、結局、何もできない。
 自分のしたいことをエル・ファニングに明確に伝えるが、エル・ファニングは目の前にあらわれる「魅力」に右往左往して、エル・ファニングを「支えている」ティモシー・シャラメを、ほんとうに「つっかえ棒」のように利用しているだけである。そして、その自覚もない。
 ここには、どうすこともできない「分裂」がある。
 そして、この分裂は、最初に書いた「ウディ・アレンの自己分裂」に、そのまま重なる。
 ティモシー・シャラメはエル・ファニングに魅力を感じるが、それはティモシー・シャラメの求めている「陰影」を背負ったときのティモシー・シャラメなのだ。セントラル・パークの馬車のなかで、ティモシー・シャラメは「街路の騒音と、部屋の中の沈黙」というようなことを言う。だれのことばだろうか。私は知らない。それに対して、その出典を「シェイクスピアね」とエル・ファニングが言う。このとき、ティモシー・シャラメは、エル・ファニングに「陰影」を与えることは絶対に無理だと悟る。エル・ファニングは「陰影」を生きる人間ではないのだ。

 「陰影」好みなんて、スノッブだ。全体的な美は「無垢」にある。でも、「無垢」のままは嫌い。「陰影」を与えたい(自分の好みにしたい)、というのは「かなわぬ恋」である。
 この映画は、エル・ファニングとティモシー・シャラメを描いているが、ふたりがいっしょに行動するシーンは非常に少ない。「恋」は、「ミューズはほんとうにいるのか」というストーリーのための「枠組み」に過ぎない。そのことも、「かなわぬ恋」を雄弁に語っている。
 ウディ・アレンの映画を見ると、私はたいてい登場人物が大好きになるが、この映画ではかろうじてジュード・ロウが年をとっていい男になったなあと感じたくらいで、ほかの登場人物(役者)には「共感」というものを感じなかった。「凡作」だと思った。しかし、ウディ・アレンとミューズとの関係がとてもよくわかった気がしたので★をひとつ追加した。
(ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン3、2020年07月12日)


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(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
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