詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇80) Xose Gomez Rivada

2020-07-28 19:56:10 | estoy loco por espana


?’ Por que’ la visio’n prefiere la modificacio’n?
Por ejemplo, cuando veo este trabajo, recuerdo "cara". No puedo determinar quie’n es. Pero yo entiendo. El mira un poco hacia abajo y abre la boca.
La forma en que abre la boca no es la forma en que la abre al hablar.
Es consciente de los sonidos claros.
El esta cantando.

Basado en esto, puedo decir:
Cuando veo la cara de una persona que canta, me atrae su boca.
Estoy mirando el lugar donde sale su voz.
Luego, Xose vea el rostro de cantante ligeramente hacia abajo. El a’ngulo de la nariz lo muestra.
Entonces vea una mejilla hinchada.

Este trabajo me lleva de vuelta al primer "visual" cuando veo a una persona cantando una cancio’n.
Hay "real" antes de que la visio’n sea "corregida", donde los humanos tienen ojos, narices y bocas.
El arte devuelve nuestra conciencia al "antes de la corregida ".
El gran arte me devuelve a un sentido primitivo.


視覚は、なぜ、修正を好むのか。
たとえばこの作品を見たとき、私は「顔」を思い出す。誰の顔かは特定できないが、少しうつむき、口を開けている。
その口の開け方は、話すときの開け方ではない。
明瞭な音を意識している。
歌っているのだ。
ここから逆なことが言える。
歌っているひとの顔を見るとき、私は口に引きつけられている。
声が出てくる場所をしっかりとみつめている。
つぎに、ホセは、顔が少しうつむいているのを見た。鼻の角度がそれをあらわしている。
それから膨らんだほほを見た。
この作品は、歌を歌うひとを見たときの、最初の「視覚」へ私をひきもどしてくれる。
ここには、人間には目があり鼻があり口があるという具合に、視覚が「修正」される前の「リアル」がある。
芸術は、私たちの意識を「修正前」に戻してくれる。原始の感覚に戻してくれる。


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「現代詩通信講座」開講のお知らせ

2020-07-28 18:07:04 | 現代詩講座
「現代詩通信講座」開講のお知らせ

メールを使っての「現代詩通信講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントを1週間以内に返送します。

定員30人。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円です。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571
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2020年07月28日(火曜日)

2020-07-28 18:05:57 | 考える日記
2020年07月28日(火曜日)

 「結論」というの多くの場合最後にたどりつくものではなくてたいてい最初にある。
 そして、最初にあるものにあわせて不都合なものを排除していくことで整合性(論理性)を獲得していくという暴力を抱え込んでいる。
 ことばの運動というのは、どうしてもそうならざるを得ないのかもしれないけれど、私はそういうことに抵抗してみたい。

 理想は書かずに、話すこと。
 話しことばは、話したさきから消えていく。
 「私がいいたいのは、いま、きみが要約したことではなく、こういうこと」と次々に先へ進んで行く運動。
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杉本真維子「皆神山のこと」

2020-07-28 17:21:49 | 詩(雑誌・同人誌)
杉本真維子「皆神山のこと」(「イリプスⅡ」31、2020年07月10日発行)

 杉本真維子「皆神山のこと」は四連で構成され、「起承転結」になっている。いや、起承転結ではないのかもしれないが、三連目が「意味」だけではなく、ことばのリズム、選ばれていることばが異質なので、「転」を連想させる。
 そして。
 ここが問題。三連目だけ、ことばのトーンが違う。そのことによって、ことば全体を二重化する。その「二重性」を感じさせるところに詩があるというか、詩を感じるのだが……。
 起承転結というのは、つづめて言うと、最初と最後、かけ離れたものを結合し閉じることで、世界を二重化することなのだ。ものと、ことばの二重化。「ふつうの意味のことば=もの(存在)」と「ことばだけでとらえることができる精神世界」を結びつけ、二重化し、「精神世界」への移行をうながす運動なのだ。
 でも、どうなんだろう。
 杉本のことばは、この作品の中では「片手落ち」ということばをめぐって動く。一連目に出てきて、それを追いかけ、「起承転結」を展開し、「片手落ち」でおわる。
 この「完結性」は、詩というよりも「小説」ではないだろうか。飛躍というよりも論理的結論と言えばいいのか……。

皆神山のふもとにすむ
こやまというひとに
近親の死を
片手落ち、と言われたことがある
あれは、鼻歌のような
陽気な吉日
現代的な駐車場から、
ふわっふわっと、
白衣が揺れるのを見た
ふだんは薬剤師をしているという

 ここには、多くの省略がある。省略せずに書けば「小説」になるものが、省略によって詩になっている。このときの詩とは、「ことば」が「ことば」として存在するということである。「ことば」は「ことば」であることを頼りに、そこに存在しているという「不安定」な感じが、想像力を刺戟し、想像力によって飛躍せよと読者に呼びかける。それを詩だと感じさせる。
 言い直すと。
 
片手落ち、と言われたことがある

 だれが、そう言われたのか。読者はどうしてもここで、そうかんがか手しまう。書かれていないから。書かれていないことを考えるように、ことばが動いている。これを想像力を刺戟すると私は呼んでいる。
 ふつうの詩ならば(あるいは、私小説でもそうかもしれないが)、「私」が言われたのである。作品の「主役」は「私」。でも、この作品では、「私」は完全に杉本と重なるわけではない。
 で、それが証拠に、二連目。

導かれ
別の日には
皆神山でおみくじをひいた
あの群発地震の観測所も
松代大本営跡も見学し
よい思い出であった
けれど
集合場所には誰よりも早く到着し
礼を尽くしているような顔をして
ほんとうは周囲を牽制していた
そういう社会性のある男には
どうしてもなりたくなかった
だから
皆神山よ

 「そういう社会性のある男には/どうしてもなりたくなかった」。一連目の「こやまというひと」は「社会性のある男」と言い直され、「そういう男にはなりたくなかった」。もし、省略されている「私」が杉本であるならば、二連目は「そういう社会性のあるひとには/どうしてもなりたくなかった」であるだろう。杉本は女なのだから。
 もちろん杉本は、ここに書かれている(書かれていないが、登場する)「私」は架空の存在であり、杉本自身ではない。架空の存在を「男」と想定し、ことばを動かしていると言い張ることはできる。つまり、「論理」はあとからテキトウに説明できる。(論理はいつでも「後出しじゃんけん」である。だから、私はそれを信じない。)
 私が指摘したいのは「ひと/男」という「二重性」のなかでことばが動き、その「二重性」を利用して(罠に誘い込むようにして)「ストーリー」がすすめられていく。それが「小説」の構造なのだということである。
 よく読まずに書くのだが、杉本は、非常に「論理性」の強い文体を生きている。そして、論理性の強さゆえに、論理にならないものがぽきっぽきっと折れるようにして噴出する。そこにことばの悲鳴のようなものが聞こえ、それが詩を感じさせる。
 まあ、こんな「感覚的」なことは読まずに書けることである。(読まずに書くのだが、と書いたのは、そういう意味である。)
 だから、そういうことはメモとして残しておくことにして……。
 論理性、散文性を説明しなおすと、こういうことである。
 「集合場所には誰よりも早く到着し/礼を尽くしているような顔をして/ほんとうは周囲を牽制していた」という人間観察力、あるいは批評性。これは、どうしても「散文」のものである。「事実」を積み重ねて(集合場所には誰よりも早く到着し/礼を尽くしているような顔をして)、その上で「結論」を提出する。「ほんとうは周囲を牽制していた」と。
 詩は、こういう面倒なことをしない。
 ただ「結論」があって(あったと仮定して)、それを次々に解体し「意味」を「無意味」に変えていくのが詩だ。

 あっ、脱線したか。
 でも、どこから脱線したのか、それがよくわからない。意外と、脱線したところにこそ「線路」があるべきだったのかもしれない。
 引き返してみる。

 「片手落ち、と言われたことがある」とは、誰が言われたのか。わからない。わかることは「言われた」という「過去」と、それを「ある」という「現在」形で思い出しているという「二重性」である。「過去」は存在するように見えるが、それはいつでも「ある」という形でしか表現できないという問題がある。思い出した瞬間、「過去」は「いま」と区別がつかない。「時間の距離感」が存在しない。
 あらゆることが、ことばのなかでは「距離感」を失う。そして二重化する。
 「現代的な駐車場から、/ふわっふわっと、/白衣が揺れるのを見た」。誰が、白衣を見たのか。そもそも「白衣」を見たのか、「揺れる」を見たのか。さらに「ふだんは薬剤師をしているという」のは、誰のことか。「白衣」のひとか、それとも「こやまというひと」か。こういうことは、書いている杉本には「解決済み」のことである。しかし、読者にとっては「未解決」というか、初めて聞かされることである。
 既知と未知が出会う。
 このとき、「未知」こそが詩である。「未知」を印象づけるために「既知」を論理的には提出しない、という「手法」が、ここでは選ばれていることになる。これは「小説」というよりも「芝居(演劇)」の手法であると捉えた方がいいかもしれない。
 「芝居(舞台)」のよしあしは、役者が「過去(既知)」を舞台にあらわれた瞬間、どれだけ抱え込んでいるか、役者の過去を「未知」の手触りとして感じさせるか。これを「存在感」というが、そういうものが「こやまというひと」に託され、それを利用して、杉本のことばは「二重性」を運動そのものに変えていく。
 未知の存在感(過去がある、と感じさせること)を利用して、杉本は詩を「演出する」野である。演出家が訳者の存在感を利用して、芝居にリアリティを与えるように、杉本は「過去があると感じさせることば」を利用して、作品にリアリティを与えていく。「近親の死を/片手落ち、と言われたことがある」。この行を読まされたら、どうしたって、私(読者)の知らない「過去」が書かれている、と感じるでしょ?

 ああ、だんだん、ことばの動きが面倒になってきた。端折ってしまおう。
 杉本の作品の最後は、こうである。

強制労働のころ、一本の丸太を枕に、並んで眠られれた
朝は、丸太の端を、一度打たれて
一斉に叩き起こされた
やはり、片手落ち、と言われた

 「眠らされた」「叩き起こされた」のはだれか。「こやまというひと」か。もしかすると、「杉本」かもしれない。話を聞きながら、「こやまというひと」になっているのかもしれない。「叩き起こされ」て、目がさめて、ほら、知らなかっただろう。そういうことを「片手落ち」というのだ、と、「杉本」は言われた。
 覚醒の中で、「こやまというひと」と「杉本」が、ずれながら重なる。この「二重化」の運動が書かれているのだと思う。
 で。
 ちょっと追加すれば、この最後の一行には「ことがある」がやはり省略されているのだ。

やはり、片手落ち、と言われた「ことがある」

 そう補うと、一連目と重なることがよくわかる。
 「ことがある」ことがあったのだ。何かが起きて、それが「既知(存在感)」に変化して存在したことがある、ということがあったのだ。それが、あるのだ。
 でも、杉本は「ことがある」を書かない。断ち切ってしまう。ここではあえて「言われた」と「過去」を放り出す。「存在感」そのものを放り出す。その「過去」を拾いに行くとき、読者は、「杉本」になる。「杉本」になって、「言われたことがある」を自分の問題として引き受けてしまう。








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