詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大森立嗣監督「MOTHERマザー」(★★★★★)

2020-07-14 18:13:06 | 映画
大森立嗣監督「MOTHERマザー」(★★★★★)

監督 大森立嗣 出演 長澤まさみ、奥平大兼、阿部サダヲ

 予告編を見て、非常に気になった映画である。何が気になったかというと、カメラの演技が少ない。最近の映画は、訳者が演技していないものをカメラの切り取り方で演技にしてしまう。それが、どうも気に食わなかった。この映画は、そういう部分が少ない。カメラの枠のなかで、役者が充分に演技をしている。そして、その「肉体」がきちんと伝わってくる。
 唯一(?)、カメラが演技をするのは、長澤まさみが奥平大兼にすがりつき、「もうお母さんには修平しかいない」と泣くシーン。カメラは二人の全身から、奥平大兼の握りしめた拳へのアップへと動く。そのぎりぎりの抑制で震える拳に奥平大兼の感情があふれているのだが、ここはそのまま全身のままでとめておいてほしかった。奥平大兼が、長澤まさみから平手打ちされ、そのままぴくりとも動かない。顔は殴られたとき横に動き、斜め下を見ている。その動かない奥平大兼に長澤まさみがすがりつくのだが、そのままがいい。私の好みからいえば、もしカメラが演技をするのだとしても、それはアップではなく、むしろ引いてほしい。引いた画面の端に(離れたところで)、妹が遊んでいる姿が入ってきたら、私は泣いてしまっただろうなあ、と思った。
 長澤まさみは、私は初めて見たのだが、とてもよかった。子どもを育てる力がないのだが、「私の産んだ子ども、私の一部」という感じが、せりふだけではなく、肉体から発散されている。自分の肉体そのものだから、彼女自身が肉欲におぼれる自分を許すように(性交することによって、その後何が始まるのか、それから起きることを受け入れるように)、子どもの「肉体/精神」が傷ついていくことを許してしまう。「修平なら、こういうことを自分の肉体で乗り切ることができる」と信じている。そして、その「信じていること」が暴走して、奥平大兼に祖父母(長澤まさみにとっては両親)殺しをさせてしまう。このときの、ふたりの全身の演技はとても素晴らしい。(カメラは演技を放棄して、ただ「枠」に徹している。)殺人を押しつける方も、引き受ける方も、どうしていいかわからなくなっている。長澤まさみは「息子が殺人を侵しても、その肉体も精神も傷つかない、そういう力を持っているはずだ。私の子どもなのだから」と思っている。奥平大兼は「もし祖父母を殺さなければ、殺して金を手に入れなければ、母は肉体も精神も傷ついて死んでしまう」と思っている。いや、ふたりは思っているというよりも、思い込もうとしている。互いの思いを了解した上で、自分の肉体を動かす。「これは、私の肉体」。ふたりが、互いのことをそう思っている。精神の苦悩も「これは、私の苦悩」と思っている。私は便宜上わけて書いたが、ふたりは、それをわけることができないところにまで追い込まれている。この緊張感がすごい。
 ふたりには、結局何が起きたのかわからないのだと思う。わかることは、「私は息子が好き」「私は母が好き」ということだけなのだ。その「好き」のためにはいろいろなことができるのだけれど、その「いろいろ」を想像できない。「好き」という感情が強すぎて、他の人が「こうしたらいいのに」(親ならこうすべきだ/こどもならこう生きるべきだ)ということばを受け入れることができない。
 倫理や正義をもちだすと、この映画は、とんでもないものになってしまう。長澤まさみの行為も、奥平大兼の行為も、社会(良識)は決して受け入れることができない。しかし、良識を超越しているものが、この世にはあるのだ。「いのち」そのものが、すべてを超越しているだろう。ひとが死んでも、どこかしらないところで「いのち」そのものはつづいているのだから。
 ここから思うことは、たったひとつ。私の母は母の肉体を「分割」するように私を産み落としてくれた。「ひとり」として産んでくれた。そうであるなら、私はぜったいに「ひとり」にならないといけない。
 そういう思いに至ったとき、ふっと、ラストシーンで長澤まさみも奥平大兼も「ひとり」であることを受け入れることができるようになっている、と思った。信じられないような「つながり」で「ひとつ」になっていた「ふたり」だが、最後は「ひとり」であることを受け入れて、自分と他人をみつめている。そこに静かな「安らぎ」のようなものがある。悲惨なストーリーだが、超越的な美しさがある。長澤まさみも奥平大兼も、非常にいい役者だ。
(T-joy 博多、スクリーン3、2020年07月14日)  




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吉増剛造「筆舌に尽くしがたい、救いのようなもの」

2020-07-14 10:08:34 | 詩(雑誌・同人誌)
吉増剛造「筆舌に尽くしがたい、救いのようなもの」(「イリプスⅡ」31、2020年07月10日発行)

 吉増剛造「筆舌に尽くしがたい、救いのようなもの」は、今野和代の『悪い兄さん』の書評である。書評であるとわかるのは、副題に今野の名前と詩集のタイトルが書いてあるからである。しかし、何が書いてあるか、ぜんぜんわからない。わからないけれど、吉増が今野の詩集を読んでいる、ということだけはくっきりと伝わってくる。
 読点「、」ばかりがつづく長い書き出しの後半(中盤?)、

わたくしもそっと、手を出してみる、そんな小さな旅に出ることにする、……。
ここで初めて「。」をおいて、言葉の歩みをとめてみると、予感として止むに止まず、どうしてもいいたいことの“しるし”のようなものが、たとえば四行目の“少しく裂けて”あるいは六行目の“擦って過ぎて来た”のあたりに、「今野和代紀行」or「悪い兄さん紀行」の、こちらのどうしてもそこで佇んでしまっているらしいorそこで立ち往生してしまっている、わたくしめの詩の紀行の無様な…姿

 詩集を読むことを「旅」と呼び、その書評を書くことを「紀行(文)」を書くことと捉えなおしているのだが、そういう「意味」とは関係なく……。
 私は「。」を書いて、そこから、それまでに読んできたこと、これから書くだろうことを予感している、その「呼吸」に引きつけられた。

 ちょっと吉増を真似たような書き方になってしまったが、これは私の呼吸が吉増に重なったということだろう。

 私は「読む」ということは、相手の「呼吸」にあわせることだと思っている。一緒に歩いている(走っている)ひとに呼吸をあわせる。それは、私が相手にあわせているのだが、一度呼吸があってしまうと不思議なことが起きる。
 相手の「呼吸」をリードできるのである。
 いっしょに「呼吸」をあわせて、しばらく走る。完全に合致する。そこから、自分の「呼吸」で走り出す。ピッチをあげる。すると、相手がそれについてくる。相手が私の呼吸にあわせてくれるのである。
 これは「読書(ことばを読む)」でも同じである。
 吉増の「呼吸」は最初乱れている。今野の「呼吸」をつかみきれない。それにあわせようと、もがいている。その「もがき」をいったん読点「。」で区切ってしまう。すると、不思議なことに、吉増自身の「呼吸」の「欠点(?)」のようなもの、あるいは「長所」のようなものが自覚でき、そこから「呼吸」をあわせる「コツ」もみえてくる。
 あ、ここにあわせればいいんだ、と発見する。
 それが、“少しく裂けて”“擦って過ぎて来た”である。その「呼吸(息づかい/音)」になら、あわせられる。それは吉増自身の「呼吸」にほかならないからだ。
 そうして、同じような「呼吸」を探し始める。おなじような「呼吸」を拾い集める。そうすると完全に「呼吸/息づかい/音」が一致する。一致を確認して、吉増は「呼吸」をリードし始める。加速する。

「長い橋」が、どうしてか気になる、……。おそらく、無意識に「戎橋」とか「心斎橋」がざわざわと遠く能裏をかすめている筈で、あるいは「曽根崎心中」のお初の面差しも明滅していたのかもしれなかった、……。
  ながい橋を渡る
  ザンバラ髪の人が
  白い イヌを 連れて
  むこうから歩いてくる
  いき倒れの魂が浮遊する空
  うつろな 半欠け のまま       「ながい橋」
そう、……。今野和代の幻視の性質…というべきか、本質というべき“霞性のようなものをたしかに呼吸しているものおと…”が“半欠け のまま”たしかに顕って来ていて、

 という具合だ。
 今野の本質を“霞性のようなものをたしかに呼吸しているものおと…”と定義した上で、それが「“半欠け のまま”たしかに顕って来ていて」というとき、「半欠け」を「完全」にするために、その世界へリードしていくのが吉増だとわかる。
 もちろん、吉増のリードにまかせて「半欠け」から「完全」になってしまえば、それは今野ではなくなる。しかし、吉増にリードされていくかぎり「半欠け のまま」なのである。そして「半欠け」であることで、今野の世界が不思議な魅力を発揮する。
 あ、このまま走り続ければ、今野は「呼吸」が楽になり、ゴール寸前で最後の力を振り絞って吉増を抜き去る。そういう「マラソンレース」を見る感じだ。
 ずーっと「リードされている」(追っている)ふりをして、力を蓄え、最後にふりきるのだ。
 つまり、「半欠け」が、大逆転で勝利するのだ。

 今野に追いつき、リードしつづけ、最後に抜き去られたことを、吉増は、こんなふうに書いている。

存分に、……その口中or詩の奥行に、宿るようにし得たことを、……告げることのかなうところにもまた、わたくしも辿れました……の、でした。

 いやあ、おもしろい。
 吉増は、こんな「正直」な詩人だったのか、とびっくりした。

 




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