詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本育夫書下し詩集「不穏(ふおん)」十八篇(2)

2020-07-07 17:49:25 | 詩集
山本育夫書下し詩集「不穏(ふおん)」十八篇(2)(「植物誌」47、2020年06月22日発行)

 梅爾のことばが「女の肉体(ことば/思想)」だとすると、山本育夫は、もうどうしようもないくらい男だ。「見る」という動詞は、どんなふうに動くか。

02こだま

事務所の近くの
戦災で焼け残ったような
一角にある中華屋の二階の
手すりごしに
ぼくを見ている
見上げているぼくが

 二階にいるだれかが「ぼく」に見えたのか。あるいは路上から見上げているだれかが「ぼく」に見えたのか。「見る」という動詞を共有し、「ぼく」が「ぼく」に分裂しているのか、「ぼく」が「ぼく」に統合されようとしているのか。どっちが「ほんとうのぼく」であり、どっちが「もうひとりのぼく」なのか。主観がどちらで客観がどちらなのか。
 このことは、その瞬間に、先に思ったことが「ほんとう」であり、あとで思ったことはほんとうを確かめるための「捏造」である。ことばというのは「ほんとう」であるということを主張するために、何でも捏造してしまう。後出しじゃんけんのように、どんどん増殖して、自己正当化をする。これが「男・性(おとこ・せい)」というものだ。
 と書いても、まあ、抽象にすぎないから……。

おーいと二階に向かって
声をかけると
おーいとこだまがかえってくる

そのあいだに
大急ぎで二階のぼくは
見上げているぼくに
もどってくる

 これは、子どものときに言う、こんな「ことば/論理」に似ている。「雨に濡れないためには、雨が降ってくる前に雨粒をよければいいのだ」。言ったことがあるでしょ? だれかに自慢して。そんなことは、できないのに。そして、できないのに、そんなふうに「言える」ことを発見して、その発見がうれしくて。これを簡単に言い直すと、「ことば」はどんな不可能(嘘)でも、「論理のほんとう」として言うことができるということ。確かに雨は空から降ってくる。そのとき時間がかかる。そうであるなら、降ってくる時間より早く雨粒の下を通過すれば濡れない。これは「論理的」である。しかし、「一方的」な論理である。雨に言わせれば、子どもが走るよりも早く落ちれば子どもは濡れるし、何よりも子どもは一人なのに雨は「雨粒」といいながらひとつではない。子どもの論理は、単に「論理」に過ぎなくて、そこにはどんな「事実」もないのである。
 声が地上から二階に届くまでには、確かに時間がかかる。さらにその声を聞いて「こだま」か返事か知らないが、声が帰ってくるまでには時間がかかる。その間に「ぼく」が地上と二階を往復すれば、山本の書いていることは「実現」できる。
 「ことば」ではね。
 でも「ことば」でできる(捏造できる、嘘をつける)からといって、それが「事実」になるわけではない。
 で、どうするか。

引き裂かれている
感情があるんだな

 なんとなんと、「ぼく」という「肉体」を「感情」にしてしまう。感情は確かにあるだろう。しかし、それを「肉体」のように「肉体」で確かめた人がいるだろうか。「肉体」のなかにあるから、外からは確かめられないと、ここでもう一度嘘をついてみてもいいけれど、まあ、そんなことはやめておこう。
 言いたいのは、こういうことである。

蹄の跡はにじみ出た水に満たされ              (夢に清渓湖に帰る)

 と梅爾は、発見(蹄の跡に水がにじみ出てくる)を見つめ、それが跡を「満たす」まで見守った。ものの変化によって、自分の発見を「確認」している。「追認している」と言ってもいい。「ことば」で「結論」をつくりあげるのではなく、子どものように新しく生まれたものは、子どものように成長して別なものになる。それは「ことば/論理」の運動ではなく、梅爾を拒絶する「絶対的存在」である。その「絶対的存在」は梅爾のことばをいまは受け入れているが、いつかは叩き壊して違う存在になるかもしれない。どうなるか、わからない。だから、「見守る」なのだ。
 山本は「見守る」ことはしない。「見て」、それが「発見」だとわかると、それを暴走させ、違うものにしてしまう。飛躍したところに「結論」を出現させ、その「結論」によって、それまでの「経過」を超越しようとする。梅爾の場合、「ことば/子ども」が梅爾を超越していくのに対し、山本の場合、山本が「ことば」を超越していく。別の「子ども/ことば」を出現させる。

感情

 それまで書かれていたのは「ぼく」であり、せいぜいが「声」だったが、突然「感情」が、「新しい発見」として提示される。
 こう書くと、山本は怒るかもしれないが、ほら、安倍に似ているでしょ? 「これは、新しい基準です」。それまで言ったことは関係がない。「新しい」何かで、やりなおす。「新しい」と言えば、何でも通用すると思っている。
 しかも、この「感情」は「引き裂かれている」。
 この「引き裂かれている」という「比喩」は、単に「感情」がふたつある、「ぼく」と「もうひとりのぼく」がいる、ということではない。「引き裂かれた/感情」というとき、ひとは「感情」が二つになるのではなく、ひとつの感情が何かによってダメージを受けるという意味であると知っている。好きな人がいる。でも、その人が自分から離れて行ってしまう。そのとき「感情が引き裂かれる」。つまり、それは「分裂」ではなく「痛み」の「比喩」なのだ。主観的「比喩」に過ぎないのに、まるで「客観的事実」として、「分裂」を提示する。
 「ぼく」が体験したことは「感情」のできごとである。「感情」は引き裂かれて「二つ」の感情になっていた。
 このとんでもない「でっちあげ(捏造)」に「引き裂かれている」という「痛み」に通じることばをつかう。「痛み」はだれもが知っている。共感されやすい。受け入れられやすい。
 「抒情病」だな、と私は思う。

 これくらい、女と男は違うのだ。

 もう一篇、引用してみよう。

14残された風景

その風景は男が走り去ったあとの風景だ
だからいまはその風景に男はいないのだが
男の体臭は漂っているかもしれない
なぜならいまその風景から
男は消え去ったばかりだから

体臭の中にコロナはいないのか?
男はどこへ行ったのか?
その風景にはだれもいないので
わからない
残された風景
なのだ
その体臭を嗅(か)ぐ

 「その体臭を嗅ぐ」は走り去った男の体臭を嗅ぐとも読めるし、風景そのものの体臭を嗅ぐとも読める。私は、男の体臭ではなく、風景そのものの体臭(獲得したものか、前から持っていたものかは、あとで考えよう)を嗅ぐと読みたい。
 でも、それは私がいま書きたいことではない。
 山本は、ここでも「発見」にこだわっている。コロナに感染した男がジョギングしていたら、男が走ったあとにはコロナウィルスが空中に漂っている。そういうことは山本が「発見」したことではなく、世間に言われていることだが、これを「体臭」と言い換えることで山本の「発見」にしてしまう。
 そして、そのあとなのだ。
 山本は、その「発見した体臭」にこだわりつづけ、「体臭を嗅ぐ」ということばで「発見」を閉じる。完結させる。これが男の方法なのだ。
 梅爾と比較してみよう。

蹄の跡はにじみ出た水にみたされ
月の光がこうこうと降り注いでいる
小さな鴛鴦は抱き合い眠っている

 梅爾は発見したものを「見守る」。そして見守っているうちに、視界が広がっていく。発見から離れて、世界が広がる。その広がりの中に、梅爾は、彼女の肉体を拒絶して存在しつづける「非情」の絶対性を見ている。「見守る」というのは、優しい行為だが、同時に絶対的非情と共存するための行為なのだ。絶対的非情を受け入れることで、梅爾は、彼女の「肉体」を「開放」してしまう。つまり「宇宙」になり「無限の時間」になる。梅爾が詩の最後で「一億年おまえを見守る」と書いたのは、非常に自然な成り行きなのである。
 「男・性(おとこ・せい)」は、こういう「開放」を生きられない。

 山本の詩について書いているのか、梅爾の詩について語りなおしているのかわからなくなったが、きょうは、こんなことを考えたのだった。






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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(75)

2020-07-07 09:04:24 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (愛するということはそういうことだろう)

夕顔の白い花を
大地から小鉢に植えかえることだろう

 これは逆の言い方も成り立つ。

夕顔の白い花を
小鉢から大地に植えかえることだろう

 「愛」とは、そういう「逆」が成り立つほど、「領域」が広い。
 それは「愛する/愛される」(能動/受動)においても言える。そのとき次第なのだ。でも、そのとき次第といいながら、この「逆」をつらぬく変わらぬものがある。
 植え「かえる」という「動詞(運動)」である。「場所」が問題なのではなく、「かえる」という行動が「愛する」ということなのだ。「植えかえない」という選択(行動)もあるが、「しない」よりも「する」方が「愛」が大きいと思う。




*

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2020年07月07日(火曜日)

2020-07-07 00:00:00 | 考える日記
 ピカソの作品には、「整えられる前」の事実がある。
 私たちは、すべて「整える」ことを教えられる。
 「整えられたもの」が他者との「共有できる認識」になる。一点透視の遠近法は、私たちに「ものの見え方」を整える。そして、私たちは、「整えられた世界」へ入ってゆき、最初に見た事実を忘れてしまう。
 ピカソは、その「整えられた世界」を破壊し、「整えられる前」の視力に帰っていく。「整えられる前の欲望」のままに、世界を再現する。

 私は、ことばで、同じことをしたい。
 「結論」へ向けてことばを整えていくのではなく、「書き始めること」が結論なのだ、「書いている(書きつづけている)事実」が結論なのだ。
 書くことがなくなったら、それで終わり。
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