山本育夫書下し詩集「不穏(ふおん)」十八篇(2)(「植物誌」47、2020年06月22日発行)
梅爾のことばが「女の肉体(ことば/思想)」だとすると、山本育夫は、もうどうしようもないくらい男だ。「見る」という動詞は、どんなふうに動くか。
二階にいるだれかが「ぼく」に見えたのか。あるいは路上から見上げているだれかが「ぼく」に見えたのか。「見る」という動詞を共有し、「ぼく」が「ぼく」に分裂しているのか、「ぼく」が「ぼく」に統合されようとしているのか。どっちが「ほんとうのぼく」であり、どっちが「もうひとりのぼく」なのか。主観がどちらで客観がどちらなのか。
このことは、その瞬間に、先に思ったことが「ほんとう」であり、あとで思ったことはほんとうを確かめるための「捏造」である。ことばというのは「ほんとう」であるということを主張するために、何でも捏造してしまう。後出しじゃんけんのように、どんどん増殖して、自己正当化をする。これが「男・性(おとこ・せい)」というものだ。
と書いても、まあ、抽象にすぎないから……。
これは、子どものときに言う、こんな「ことば/論理」に似ている。「雨に濡れないためには、雨が降ってくる前に雨粒をよければいいのだ」。言ったことがあるでしょ? だれかに自慢して。そんなことは、できないのに。そして、できないのに、そんなふうに「言える」ことを発見して、その発見がうれしくて。これを簡単に言い直すと、「ことば」はどんな不可能(嘘)でも、「論理のほんとう」として言うことができるということ。確かに雨は空から降ってくる。そのとき時間がかかる。そうであるなら、降ってくる時間より早く雨粒の下を通過すれば濡れない。これは「論理的」である。しかし、「一方的」な論理である。雨に言わせれば、子どもが走るよりも早く落ちれば子どもは濡れるし、何よりも子どもは一人なのに雨は「雨粒」といいながらひとつではない。子どもの論理は、単に「論理」に過ぎなくて、そこにはどんな「事実」もないのである。
声が地上から二階に届くまでには、確かに時間がかかる。さらにその声を聞いて「こだま」か返事か知らないが、声が帰ってくるまでには時間がかかる。その間に「ぼく」が地上と二階を往復すれば、山本の書いていることは「実現」できる。
「ことば」ではね。
でも「ことば」でできる(捏造できる、嘘をつける)からといって、それが「事実」になるわけではない。
で、どうするか。
なんとなんと、「ぼく」という「肉体」を「感情」にしてしまう。感情は確かにあるだろう。しかし、それを「肉体」のように「肉体」で確かめた人がいるだろうか。「肉体」のなかにあるから、外からは確かめられないと、ここでもう一度嘘をついてみてもいいけれど、まあ、そんなことはやめておこう。
言いたいのは、こういうことである。
と梅爾は、発見(蹄の跡に水がにじみ出てくる)を見つめ、それが跡を「満たす」まで見守った。ものの変化によって、自分の発見を「確認」している。「追認している」と言ってもいい。「ことば」で「結論」をつくりあげるのではなく、子どものように新しく生まれたものは、子どものように成長して別なものになる。それは「ことば/論理」の運動ではなく、梅爾を拒絶する「絶対的存在」である。その「絶対的存在」は梅爾のことばをいまは受け入れているが、いつかは叩き壊して違う存在になるかもしれない。どうなるか、わからない。だから、「見守る」なのだ。
山本は「見守る」ことはしない。「見て」、それが「発見」だとわかると、それを暴走させ、違うものにしてしまう。飛躍したところに「結論」を出現させ、その「結論」によって、それまでの「経過」を超越しようとする。梅爾の場合、「ことば/子ども」が梅爾を超越していくのに対し、山本の場合、山本が「ことば」を超越していく。別の「子ども/ことば」を出現させる。
それまで書かれていたのは「ぼく」であり、せいぜいが「声」だったが、突然「感情」が、「新しい発見」として提示される。
こう書くと、山本は怒るかもしれないが、ほら、安倍に似ているでしょ? 「これは、新しい基準です」。それまで言ったことは関係がない。「新しい」何かで、やりなおす。「新しい」と言えば、何でも通用すると思っている。
しかも、この「感情」は「引き裂かれている」。
この「引き裂かれている」という「比喩」は、単に「感情」がふたつある、「ぼく」と「もうひとりのぼく」がいる、ということではない。「引き裂かれた/感情」というとき、ひとは「感情」が二つになるのではなく、ひとつの感情が何かによってダメージを受けるという意味であると知っている。好きな人がいる。でも、その人が自分から離れて行ってしまう。そのとき「感情が引き裂かれる」。つまり、それは「分裂」ではなく「痛み」の「比喩」なのだ。主観的「比喩」に過ぎないのに、まるで「客観的事実」として、「分裂」を提示する。
「ぼく」が体験したことは「感情」のできごとである。「感情」は引き裂かれて「二つ」の感情になっていた。
このとんでもない「でっちあげ(捏造)」に「引き裂かれている」という「痛み」に通じることばをつかう。「痛み」はだれもが知っている。共感されやすい。受け入れられやすい。
「抒情病」だな、と私は思う。
これくらい、女と男は違うのだ。
もう一篇、引用してみよう。
「その体臭を嗅ぐ」は走り去った男の体臭を嗅ぐとも読めるし、風景そのものの体臭を嗅ぐとも読める。私は、男の体臭ではなく、風景そのものの体臭(獲得したものか、前から持っていたものかは、あとで考えよう)を嗅ぐと読みたい。
でも、それは私がいま書きたいことではない。
山本は、ここでも「発見」にこだわっている。コロナに感染した男がジョギングしていたら、男が走ったあとにはコロナウィルスが空中に漂っている。そういうことは山本が「発見」したことではなく、世間に言われていることだが、これを「体臭」と言い換えることで山本の「発見」にしてしまう。
そして、そのあとなのだ。
山本は、その「発見した体臭」にこだわりつづけ、「体臭を嗅ぐ」ということばで「発見」を閉じる。完結させる。これが男の方法なのだ。
梅爾と比較してみよう。
梅爾は発見したものを「見守る」。そして見守っているうちに、視界が広がっていく。発見から離れて、世界が広がる。その広がりの中に、梅爾は、彼女の肉体を拒絶して存在しつづける「非情」の絶対性を見ている。「見守る」というのは、優しい行為だが、同時に絶対的非情と共存するための行為なのだ。絶対的非情を受け入れることで、梅爾は、彼女の「肉体」を「開放」してしまう。つまり「宇宙」になり「無限の時間」になる。梅爾が詩の最後で「一億年おまえを見守る」と書いたのは、非常に自然な成り行きなのである。
「男・性(おとこ・せい)」は、こういう「開放」を生きられない。
山本の詩について書いているのか、梅爾の詩について語りなおしているのかわからなくなったが、きょうは、こんなことを考えたのだった。
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梅爾のことばが「女の肉体(ことば/思想)」だとすると、山本育夫は、もうどうしようもないくらい男だ。「見る」という動詞は、どんなふうに動くか。
02こだま
事務所の近くの
戦災で焼け残ったような
一角にある中華屋の二階の
手すりごしに
ぼくを見ている
見上げているぼくが
二階にいるだれかが「ぼく」に見えたのか。あるいは路上から見上げているだれかが「ぼく」に見えたのか。「見る」という動詞を共有し、「ぼく」が「ぼく」に分裂しているのか、「ぼく」が「ぼく」に統合されようとしているのか。どっちが「ほんとうのぼく」であり、どっちが「もうひとりのぼく」なのか。主観がどちらで客観がどちらなのか。
このことは、その瞬間に、先に思ったことが「ほんとう」であり、あとで思ったことはほんとうを確かめるための「捏造」である。ことばというのは「ほんとう」であるということを主張するために、何でも捏造してしまう。後出しじゃんけんのように、どんどん増殖して、自己正当化をする。これが「男・性(おとこ・せい)」というものだ。
と書いても、まあ、抽象にすぎないから……。
おーいと二階に向かって
声をかけると
おーいとこだまがかえってくる
そのあいだに
大急ぎで二階のぼくは
見上げているぼくに
もどってくる
これは、子どものときに言う、こんな「ことば/論理」に似ている。「雨に濡れないためには、雨が降ってくる前に雨粒をよければいいのだ」。言ったことがあるでしょ? だれかに自慢して。そんなことは、できないのに。そして、できないのに、そんなふうに「言える」ことを発見して、その発見がうれしくて。これを簡単に言い直すと、「ことば」はどんな不可能(嘘)でも、「論理のほんとう」として言うことができるということ。確かに雨は空から降ってくる。そのとき時間がかかる。そうであるなら、降ってくる時間より早く雨粒の下を通過すれば濡れない。これは「論理的」である。しかし、「一方的」な論理である。雨に言わせれば、子どもが走るよりも早く落ちれば子どもは濡れるし、何よりも子どもは一人なのに雨は「雨粒」といいながらひとつではない。子どもの論理は、単に「論理」に過ぎなくて、そこにはどんな「事実」もないのである。
声が地上から二階に届くまでには、確かに時間がかかる。さらにその声を聞いて「こだま」か返事か知らないが、声が帰ってくるまでには時間がかかる。その間に「ぼく」が地上と二階を往復すれば、山本の書いていることは「実現」できる。
「ことば」ではね。
でも「ことば」でできる(捏造できる、嘘をつける)からといって、それが「事実」になるわけではない。
で、どうするか。
引き裂かれている
感情があるんだな
なんとなんと、「ぼく」という「肉体」を「感情」にしてしまう。感情は確かにあるだろう。しかし、それを「肉体」のように「肉体」で確かめた人がいるだろうか。「肉体」のなかにあるから、外からは確かめられないと、ここでもう一度嘘をついてみてもいいけれど、まあ、そんなことはやめておこう。
言いたいのは、こういうことである。
蹄の跡はにじみ出た水に満たされ (夢に清渓湖に帰る)
と梅爾は、発見(蹄の跡に水がにじみ出てくる)を見つめ、それが跡を「満たす」まで見守った。ものの変化によって、自分の発見を「確認」している。「追認している」と言ってもいい。「ことば」で「結論」をつくりあげるのではなく、子どものように新しく生まれたものは、子どものように成長して別なものになる。それは「ことば/論理」の運動ではなく、梅爾を拒絶する「絶対的存在」である。その「絶対的存在」は梅爾のことばをいまは受け入れているが、いつかは叩き壊して違う存在になるかもしれない。どうなるか、わからない。だから、「見守る」なのだ。
山本は「見守る」ことはしない。「見て」、それが「発見」だとわかると、それを暴走させ、違うものにしてしまう。飛躍したところに「結論」を出現させ、その「結論」によって、それまでの「経過」を超越しようとする。梅爾の場合、「ことば/子ども」が梅爾を超越していくのに対し、山本の場合、山本が「ことば」を超越していく。別の「子ども/ことば」を出現させる。
感情
それまで書かれていたのは「ぼく」であり、せいぜいが「声」だったが、突然「感情」が、「新しい発見」として提示される。
こう書くと、山本は怒るかもしれないが、ほら、安倍に似ているでしょ? 「これは、新しい基準です」。それまで言ったことは関係がない。「新しい」何かで、やりなおす。「新しい」と言えば、何でも通用すると思っている。
しかも、この「感情」は「引き裂かれている」。
この「引き裂かれている」という「比喩」は、単に「感情」がふたつある、「ぼく」と「もうひとりのぼく」がいる、ということではない。「引き裂かれた/感情」というとき、ひとは「感情」が二つになるのではなく、ひとつの感情が何かによってダメージを受けるという意味であると知っている。好きな人がいる。でも、その人が自分から離れて行ってしまう。そのとき「感情が引き裂かれる」。つまり、それは「分裂」ではなく「痛み」の「比喩」なのだ。主観的「比喩」に過ぎないのに、まるで「客観的事実」として、「分裂」を提示する。
「ぼく」が体験したことは「感情」のできごとである。「感情」は引き裂かれて「二つ」の感情になっていた。
このとんでもない「でっちあげ(捏造)」に「引き裂かれている」という「痛み」に通じることばをつかう。「痛み」はだれもが知っている。共感されやすい。受け入れられやすい。
「抒情病」だな、と私は思う。
これくらい、女と男は違うのだ。
もう一篇、引用してみよう。
14残された風景
その風景は男が走り去ったあとの風景だ
だからいまはその風景に男はいないのだが
男の体臭は漂っているかもしれない
なぜならいまその風景から
男は消え去ったばかりだから
体臭の中にコロナはいないのか?
男はどこへ行ったのか?
その風景にはだれもいないので
わからない
残された風景
なのだ
その体臭を嗅(か)ぐ
「その体臭を嗅ぐ」は走り去った男の体臭を嗅ぐとも読めるし、風景そのものの体臭を嗅ぐとも読める。私は、男の体臭ではなく、風景そのものの体臭(獲得したものか、前から持っていたものかは、あとで考えよう)を嗅ぐと読みたい。
でも、それは私がいま書きたいことではない。
山本は、ここでも「発見」にこだわっている。コロナに感染した男がジョギングしていたら、男が走ったあとにはコロナウィルスが空中に漂っている。そういうことは山本が「発見」したことではなく、世間に言われていることだが、これを「体臭」と言い換えることで山本の「発見」にしてしまう。
そして、そのあとなのだ。
山本は、その「発見した体臭」にこだわりつづけ、「体臭を嗅ぐ」ということばで「発見」を閉じる。完結させる。これが男の方法なのだ。
梅爾と比較してみよう。
蹄の跡はにじみ出た水にみたされ
月の光がこうこうと降り注いでいる
小さな鴛鴦は抱き合い眠っている
梅爾は発見したものを「見守る」。そして見守っているうちに、視界が広がっていく。発見から離れて、世界が広がる。その広がりの中に、梅爾は、彼女の肉体を拒絶して存在しつづける「非情」の絶対性を見ている。「見守る」というのは、優しい行為だが、同時に絶対的非情と共存するための行為なのだ。絶対的非情を受け入れることで、梅爾は、彼女の「肉体」を「開放」してしまう。つまり「宇宙」になり「無限の時間」になる。梅爾が詩の最後で「一億年おまえを見守る」と書いたのは、非常に自然な成り行きなのである。
「男・性(おとこ・せい)」は、こういう「開放」を生きられない。
山本の詩について書いているのか、梅爾の詩について語りなおしているのかわからなくなったが、きょうは、こんなことを考えたのだった。
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定員30人。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
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少なくとも月1篇は送信してください。
お申し込み・問い合わせは、
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また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
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