詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩佐なを「鼻濁音」

2020-07-13 22:02:31 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「鼻濁音」(「孔雀船」96、2020年07月15日発行)

 岩佐なを「鼻濁音」を、どう読むか。

立夏のうらみちをそぞろあるく
盲学校跡の空き地のほうから
虹式で重なりなった声色の
曲が流れてくる
あの忍び音の
したわしいね
鼻濁音づかいの経緯を想いかえしては
にげろ
にげろと呟いてみる

 私は何度も何度も書くのだが、岩佐のことばが気持ち悪くて好きになれない。「うらみち」は「音」というよりも「文字」が気持ち悪いが、それが「そぞろあるく」とつながっていくとき、読むのをやめよう、と思う。
 でも、この気持ち悪い何かが、あるとき突然好きになって、あれはいったいなんだったのだろうと、いつも思う。
 で、つづけて読んでしまうのだ。
 「虹式」というのは「造語」だろうなあ。つまり、「造語」をつかってまでも、何か書きたいことがあるということなのだが、それは「声色」そのもののように、生理的なものなのだと思う。それが生理的であることが、私には、耐えがたい。
 猫の、ぐにゃりと体に触れてしまったときのよう恐怖心が私を襲う。
 こんなことは書いてもしようがないのだが、書かずにはいられない。
 「声色」が「忍び音」にかわるころは、「曲」がぐにゃりと「曲がる」ものになっている。猫の、あの、ぞっとする「肉体」に。

したわしいね

 わっ、「意味」を理解したくない、と私は思わず拒絶反応から、逆に、ひかれ始める。「したわしい」ということばなんか、私は、自分からは絶対に口にしない。ほとんと日常的には聞かないことばである。だから拒絶反応が起きるのだが、そして、拒絶反応が起きたのだから、ここで放り出せばなんでもないことなのだが、ここまで拒絶反応が起きるのはなぜなのか。それを知りたくなってしまうのだ。
 岩佐って、どういう人間?
 好奇心だ。
 で、

鼻濁音づかいの

 ということばに出会ってしまった瞬間、あ、どんな曲かわからないが、岩佐の聞いた「あの曲」は鼻濁音を含んだことばがあるのだ。そして、その鼻濁音の重なりが、虹のようにやわらかなのだ。鼻濁音を岩佐は「忍び音」と感じているのだと思い込む。そういうことができる人間なのだ。
 ここなんです。問題は。
 私の感覚では鼻濁音は「忍び音」ではない。「声色」というような、べったりと肉体に(生理に)へばりついてくるものでもない。しかし、岩佐は、この「べったり感」をこのましく思っているのだろう。あるいは、私が「べったり」と感じるものを、違うものと感じているのかもしれないが。
 「にげろ」の「げ」を岩佐は鼻濁音で発音するかどうか、岩佐が話しているのを聞いたことがないので判断できないが、そのことばはこうつづいていく。

げに気をつけてしだいに鼻孔からも
大きく発生すると
むかしはぬぬっぬぬっと
ちかづいてきて尾をふる
だいじゃび(大蛇尾)
にげずに受けとめられるこころもち
なにをなにを
こころで
いつどこでどうして
どうなったのか

 岩佐が「いつどこでどうして/どうなったのか」というくらいだから、このことばを追いかけている私には、そういうことがわかるはずがない。
 そして、この「わかるはずがない」に出会ったとき、私は安心するのだ。ここに詩がある、と思うのだ。他人が何か思った瞬間のこと(美しいと思ったのか、汚いと思ったのか、もっと他のことを思ったのか)を、他人である私がわかるはずがない。その「わからなさ」を、しかし、岩佐は追いかけている。追いかければ「わかる」にかわるという保障はない。
 途中を端折って、最後。

もはや
いやはや

 と岩佐自身が投げ出している。
 詩とはそういうものだろうと、私は思う。「結論」はないのだ。「結論」は、つまずいた瞬間にある。何かを変だな、これは何なのだろうと思った瞬間にある。そのわからないものを、別のことばで言い換えてみる。そのときのことばの運動のなかにある。「結論」にたどりついたら、それは詩ではなく、もっと別なものだ。

したわしいね

 岩佐は、瞬間的に、そう思った。そのことばが動いた。私には絶対に思いつかないことばが、その瞬間に動いている。これを、私は信じるのだ。



 




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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(77)

2020-07-13 08:59:41 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (その人はどこへゆく)

冬の日が野をあまねく照らしているところを
その人の影が動き
ぼくの心のなかを水のように去つていく

 「その人」が繰り返され、「その人」を受け継いで「冬の野」が「ぼくの心」と言い直される。「現実」が「心象」になり、そのなかで「その人」が「水」という比喩になる。
 この「比喩」よりも、現実と心象、現実と比喩が交錯するということが、詩を成立させている。交錯をとおして、比喩は事実になる。




*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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