詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アルメ時代34 秋の注釈

2020-07-31 23:30:41 | アルメ時代
アルメ時代34 秋の注釈  谷内修三



池を渡ってくる風が
窓の手前で曲がる
水に映った空から光が引いていく
時雨が水面を閉じるまで
しばらく均一な間が残される
「空虚はたしかに存在する
透明なために見えないのか
不透明なために見えないのか」
一日中さがしていたことばが
激しい音とになって
金属的な匂いのなかを去っていく
(思春期の肉体の音階に似ている)
しかし、
注釈は退けなければならない



(アルメ254 、1987年12月25日)
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破棄された詩のための注釈04

2020-07-31 23:16:34 | 破棄された詩のための注釈
破棄された詩のための注釈04
             谷内修三2020年7月31日


 「とりかえしのつかないことをしてしまった」と要約されたのは、奥の鏡に映っていたのが梔子だったか、花ではなく花びらの白く厚い記憶、あるいはことばだったか、もう思い出すことはできない。
 雨の降る音にあわせて、ゆっくり考えてみるが、はっきりしない。
 しかし「梔子」については、明らかである。それは比喩であり、そしてだれもが想像するように、見覚えのある肩から顎へかけての、肌のなめらかさを意味していた。記憶の鏡が映し出すものは、いつでも「見覚えのある」ものであり、「とりかえしのつかいな」ことである。

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岬多可子『あかるい水になるように』

2020-07-31 10:56:10 | 詩集


岬多可子『あかるい水になるように』(書肆山田、2020年07月25日発行)

 ことばはどうやって詩になるか。対象とことばとの「距離」を一定にするとき、詩が生まれる。対象とことばとの「距離」が詩なのである。
 これは、小説についても言えるし、ほかの文学についても言えるかもしれないが、詩の場合、それが顕著だ。詩は、ことばの運動そのものだからだ。
 こういうことは抽象的に書いてもしようがない。抽象的に書けば、それはいつでも「正解」になる。抽象自体がすでに「結論」に向けて動いているから、つまり方向性を持っているから、「完結」してしまうのだ。「完結」は、好き嫌いは別にして、いつでも「論理の整合性」によってのみ成り立っている。それが抽象というものだ。
 私は、こういうことを「壊したい」と思っているので、あくまでも「具体的」に書く。書きたいと思う。
 「距離」を岬は、どう書いているか。「くらいなかの火のはじまり」。

襖の向こうの 夜の声は
聞かなかったことにしてね。
ことが おきていたとしても
なにも おきていないから
花の こちら側で お茶で
ゆっくりと あまく あたためてね。
獣なのだから わたしたち それを
口で じかに 飲んでもいい。
もう暗くて もっと暗くなる
だから わからないけれど
緑の苔の廊下を 行き来するものは
見なかったことにしてね。

 「聞かなかったことにする」。「聞いた」が「聞か+なかった+こと」にする。重要なのは「なかった」である。否定する。存在を認めながら、それを除外する。これが岬のとっている「距離」である。
 こういうことは、だれもが体験する。
 そして、それを「持続」するとき、詩が生まれる。
 一回かぎりでは、詩にはならない。いや、一回かぎりの詩もあるのだが、岬がこの詩集で採用しているのは「距離」を持続する、反復しておなじ「距離」をつくるということである。「距離」が複雑に絡んでいくと、「線」が「面」になり「立体」になる。つまり、空間が生まれる。「場」が生まれる。「場」は「肉体」にかわる。さらに「時間」も加えることができる。そのとき「こと」が生まれる。単に客観的にみつめる「こと」ではなく、その「こと」を体験する。「こと」として「生きる」。
 「聞かなかったことにする」の「する」が「こと」を「生きる」になる。「する」と言う動詞のなかに「距離の持続」の展開ある。
 「聞かなかった」は「おきてはいない(おきなかった)」と言い直され、さらに「見なかった」と言い直される。「見なかったことにしてね」と「して(する)」が念を押される。
 この運動のあいだに「花の」から「飲んでもいい」までの別の「こと」が対比される。そこに、

じかに

 ということばがある。「口で じかに 飲んでもいい。」
 この「じかに」は「距離」を否定する。「距離がない」ことが「じか」である。それは「聞いたこと」「おきたこと」を「自分の内部」に閉じこめることである。「外に出さない」。「聞かなかったことにする」は「聞いたけれど、聞いたことを、外に出さない(だれにも言わない)、自分のなかにだけしまっておく」ということだ。自分の「内部」になってしまうから、「じか」なのだ。切り離せないもの、「距離」が不在のものなのだ。たんに「触れる」ということではない。「触れる」だけなら「目で触れる(見る)」「耳で触れる(聞く)」ということがある。「じかに」は自分のなにかとりこむということである。そのことを分かりやすくするために「飲む」という動詞がつかわれている。
 襖の向こう側が、こちら側になり、その向こう側/こちら側の区別を「ない」ものにして、自分の「肉体の内部」で引き受ける。「肉体の内部」では、それが「くらい火」になってくすぶり、もえあがる。

生きているこの夜
ほんとうは あつくてならないから
見えないなかで 触れてしまったから
それが何であれ とことん
ゆけるところまで ゆくのよ。

 岬は、「肉体の内部」に閉じこめたものを、「肉体の内部」で解放する。これは「破綻」だが、詩は、「距離」を持続したまま「破綻」までたどりつくことである。「結論」のように、閉ざすのではなく、逆に「叩き壊す」。
 そのために「距離」を持続するという、一種の矛盾を生きる。
 「あかるい水になるように」も、やはり「距離」を持続し、「距離」ではなくなる。

灯りのともる室内から
夜のみっしりと重い庭を
見よう見ようとしなければ、そして
見よう見ようとしても、でも。
あかるいところからくらいところは見えない。

 でも、その「見よう見ようとする」ところから「想像する」という力が動いていく。この「想像力を一定に保つ」ということが「距離」を守り、「距離」を線から面へ、面から立体へ、さらに時間を組み合わせ、「人間のこと」にしていくのである。

そこで 草や石や幼いもの、
知られずに 泣いているかもしれないでしょう。
夜を盗む指のような虫、
葉よりも花 花よりも実を
どうしたって 食い荒らしたいのが
わたしだったかもしれないでしょう、
どうしたって あまくてやわらかいほうへ ほうへ
身をよじりながら這っていって。
黒く濡れた庭から 灯りのともる室内は
とてもあかるく とてもとおく思われました。

 「でしょう」が想像であり、「思われました」が想像である。そのとき「人間のこと」が始まる。






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