詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

2020年07月06日(月曜日)

2020-07-06 23:59:59 | 考える日記
ことばが勃起する。
 そういう瞬間がある。
 ことばを射精したい。

 どれだけ出るか。どれだけ飛ぶか。
 
 こんなふうに言い換えることができる。
 ことばは何に照準をしぼっているか、ことばの射程はどこまで広いか。そんなことは書いてみないとわからない。けれど、このことについて書きたいという欲望が、「結論」を無視して動いてしまう。結論を想定できないのに、ことばが動いてしまう。「結論は書きながら考えろ」というよりも、「結論は書き終わってから考えろ」という感じ。
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『梅爾詩選』(竹内新訳)(2)

2020-07-06 23:26:17 | 詩集


『梅爾詩選』(竹内新訳)(2)(思潮社、2020年05月25日発行)

 詩集を読むとき、私は、行き当たりばったりに読む。最初から順に最後まで読むということはない。特に、近年はページが多いので、読み通すのに体力がいるから、どうしてもその日その日、気の向くままにという感じになる。
 きょうは『梅爾詩選』(竹内新訳)の「夢に清渓湖に帰る」という詩を読んだ。タイトルが、いかにも「漢詩」らしい。「夢に」の「に」のつかい方が「漢詩」の「読みくだし」を思い出させ、ちょっと緊張する。

夜のなかを母鹿がやって来る
まなざしは静まり返った湖面のように優しく
蹄の跡はにじみ出た水に満たされ
月の光がこうこうと降り注いでいる
小さな鴛鴦は抱き合い眠っている

 梅爾が女性だと知ったので、そんなに驚きはしなかったが、女性と知らなかったら「蹄の跡はにじみ出た水に満たされ」ということばで、私はじっと立ち止まったと思う。女性と知っているので、「ほっ」くらいの感じで次の行に移った。移ったけれども、やっぱり少し違う何か、私の「肉体」を刺戟してくる「正しさ」、おまえは間違っているぞ、と叱責する声を聞き、立ち止まることにしたのだ。つまり、このことを書いておこうと思ったのだ。
 他の詩人のことば、男のことばと、どこが違うのか。
 大岡信だったと思うが、春のなぎさを少女が歩く詩がある。砂浜に足跡がある。その足跡のかたちに水がにじむ、というような繊細な描写がある。古今・新古今派に通じる繊細さであり、そこには何か、繊細さを知っているんだぞという「みえ」(みせびらかし)のようなものがある。男が書くと、繊細は、どうしてもそうなる。
 梅爾も「蹄の跡はにじみ出た水」と書いている。視線は大岡と同じように動いている。しかし、そのあとに「満たされ(る)」という動詞がつづく。私は、ここに驚く。踏みしめた土の下から水がにじみ出る、ということを発見し、ことばにするだけではないのだ。それがどうなるかを見守っている。この「見守る」という感覚が、私にとっては驚きである。あ、そうなのだ。何かを発見したら、それがどうなるか「見守る」ということが必要なのだ。発見で喜んでしまってはいけないのだ。(ということもないのかもしれないけれど。)
 そして、この「見守る」に、私は私が忘れている「女性の正しさ」を感じる。「見守る正しさ」とは、産んだ子どもを「見守る正しさ」である。こう書いてしまうと、女性に何かをおしつけている、女性差別だという批判が返ってくるかもしれないが、それを承知で私は書く。「見守る」は「時間をかける」であり、「寄り添う」でもある。そしてそれはいっしょに何かをする(共同で何かをする)ということではなく、何が起きようとも私はお前の傍にいる。お前は、もうひとりの私なのだという感覚だろうと思う。
 「時間をかける」という感じは、水が蹄のかたちを満たすのをみつめたあと、さらに「月の光がこうこうと降り注いでいる」という時間をみつめ、そこから「小さな鴛鴦は抱き合い眠っている」へとつながっていく。ここに「静かな動き」(静かな連絡/接続)がある。別のもの(切断されたもの)なのに、つながっている。それは「見守る時間」がつなぐものなのだ。
 そういう「時間」が私の「肉体」のなかに入ってくる。
 この切断と接続、不思議な距離は、つづきを読み進むとこんな風に言い直されている。

私は清らかな魚
遥かな夜のなかで
水からセンチメートルの彼方にいる

 「センチメートル」。何センチか書かれていない。他の詩には「三メートル」というようなことばがあったが、その距離に比べると非常に近い。近いけれど「彼方」と梅爾は言う。自分が産んだ子ども。しかし、生まれてしまったら、もう全体に「一体」になることはないという「彼方」の「絶対性」がある。これが女性の「肉体感覚」なのだろう。
 この「距離感」にも、私は立ち止まる。それは頭で想像はできるが(だから、これが女性の「肉体感覚」なのだろう、と書いたのだが)、私は「肉体」で実感していない。だから、それを実感し、ことばにする「肉体」に出会うと、何か、自分の「肉体」そのものを整えられるような気がするのだ。
 こんな言い方が正しいかどうかわからないが、「肉体」が勃起する感覚、刺戟を受け、目覚める感じになるのだ。性器が、ではなく、ことばが勃起して、ことばを射精しろ(書いておけ)と励まされるのだ。そして、私はそれをそのまま書く。

 脱線したが、さらに読み進むと、詩はこう展開していく。

険しい峰の橋を渡り悠久の岩の谷川を渡って
風景を心ゆくまで見てから
酔っ払ったコオロギのように
北斗七星島の港に停泊し鴛鴦の娘に眼差しで
思いを伝えるほど素晴らしいことはない

 「鴛鴦の娘」と「娘」を出してくるところなど、「男」の詩人とかわりはないが、これは梅爾の「男性(おとこ・せい)」というよりも「性(ジェンダー)」を超越した視点なのだと思う。どうして「性」を超越してしまうか。「心ゆくまで見てから」ということばがあるが、「心」が満足してしまったから、「性/肉体」は二の次になるのだろう。この感じを「酔っ払った」とも書き直している。
 そしてこの「素晴らしい」瞬間のなかに、「眼差し」ということばがあることからわかるように、これはこれで「見守る」の一形態なのだ。
 こういう行を経たあと、詩は最終連にたどりつく。

私はもう目を覚まさず綿の花のなかに横たわり
おまえを哀惜することができる
おまえの心が翡翠のようでありさえすれば
私は断崖に眺められるその瀑布と青苔のあたりで
もう一億年おまえを見守る

 私の「誤読」は、梅爾の「見守る」ということばにのみこまれ、「正しい」にかわる。最初の連で「見守る」ということがこの詩のキーワードだと「肉体」で私は感じたのだが、それが「ことば」になって、ここにある、と感じる。
 こういうことは、またまた不謹慎な表現になるかもしれないが、「ことば」でセックスし、いっしょに絶頂に達したような快感!
 でも、これはもちろん私の「誤読」。梅爾は私の「肉体」も「ことば」も問題にしていない。私は「時間」をせいぜい自分の一生としか考えていないが、梅爾は「一億年」と書いている。
 最後に私は、梅爾にぶん殴られるのである。お前の肉体は間違っている。だからたかだか七十年かそこらしか生きられない。女の私は一億年生きるのだ、ざまあみろ。悔しかったら、一億年生きてみろ、と言われてしまうのだ。
 この「絶対的正しさ」に、私は、ただ立ち止まるだけである。私の感想は、ただの妄想。独りよがりだ。





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FaceBookに書いたことなのだけれど。

2020-07-06 21:45:45 | 自民党憲法改正草案を読む
FaceBookに書いたことなのだけれど。(フェイスブックでは、他の人の文章に紛れ込んでしまうので、再掲載しておく。)
東京都知事選で小池が勝利したことに関すること。
二つのことを書いた。(ほんとうは、ひとつなのだけれど、二回にわけて書いた。

★その一。

小池の勝利。
これが意味することは、たったひとつ。
選挙戦ができないときは、現職が絶対に勝つ、ということ。
安倍は、すぐにでも衆院選をやりたいだろうなあ。
コロナ不安で、街頭演説は充分にはできない。
あした総選挙があれば、失敗だらけの安倍だけれど、絶対に自民党が圧勝する。
小池が、それを証明して見せてくれた。
どんなにコロナ感染者が増えようが、コロナは「夜の街」のせい、とだれかを「排除する」作戦に徹すれば、それだけで現職は勝てるのである。
「悪いのは、あの人たちのせい」
安倍も、その作戦を取る。
「休業したら、生きていけないでしょ?」
「悪いのは、あなたがたではない。悪いのはあの人たちだ」
だが、病気の人を批判してどうなるのだ。
病気を人も安心して生きていけるようにするのが政治のはずだ。
「悪いのは、あの人たちだ」
こういう論法を許せば、「あの人たち」は次々に拡大されていく。
ホームレスが悪い、生活保護を受けている人が悪い、引きこもりが悪い、etc.
きっと、老後資金を2000万円準備しなかった人が悪い、いつまでも年金に頼っている高齢者が悪い、という具合に広がっていく。
「弱いものいじめ」が横行する社会になる。

★その2


新型コロナに対する「政権」の対応の仕方、初期から一貫して変わっていないと思う。それをそのまま「バージョンアップ」して、小池は展開した。そして、それが都知事選で代成功した。
新型コロナが発生した当初、「医療崩壊が起きる」と叫ばれた。これは、新型コロナ患者が押し寄せると、高額医療費を支払っている「金持ちの患者」を救えない。救えるはずの患者が救えなくなるというかたちで最初に表面化した。(これは、言い換えれば、貧乏な患者の面倒をみていたら、金持ちの患者の治療に専念できない、という主張だ。医療崩壊の前に、「医療倫理崩壊」が始まっていた。)
最初から、選別が行われていた。
今度の選挙では、その選別を「夜の街」に焦点をしぼってやっている。
「貧乏な患者」の面倒をみていたのでは収入にならない、高額医療費を支払ってくれる「金持ち患者」を守れ(医療収入を守れ)というかわりに、「不道徳な患者」を許すな、というかたちに変わってきている。
これは「作戦変更」であり、その作戦変更にあたって「貧乏な患者」を味方に引きつけようとしている。
「夜の街の不道徳な患者」を排除すれば、「貧乏な患者」も診察できる。悪いのは、「不道徳な患者」だ、という風潮をつくろうとしている。
この「作戦変更」には、やはり「医療倫理(経済)」が関係している。
医療体制が少し整ってきた。「貧乏な患者」も診察することにして、収入を増やしたい。
医療機関の「トップ」がそう思い始めたのだ。それを小池は代弁しただけ。
「夜の街」であろうと、「昼の街」であろうと、ひとのいのちはひとのいのち。それが無視されている。
そして、これは、一貫して同じことであるとも言える。
ひとことで言い直せば「貧乏人は切り捨ててかまわない」。
「夜の街の従業員」とは、ようするに「大企業に就職できなかった貧乏人」を言い直しているにすぎない。
「大企業に就職できない貧乏人」が感染を広げると、大企業の活動ができなくなる。それは許せない、ということを、ことばを変えて言っているだけだ。
「夜の街(不道徳)」をやり玉に挙げれば、大企業にこきつかわれている下請けの貧乏人も、口をそろえて「夜の街が悪い」と言ってくれる。
その「作戦」が、完全に成功したのが都知事選だ。
この「差別」をつくりだすことで、「貧乏人」の不満をごまかしてしまうというのは、江戸時代の「士農工商」のやり方と同じだ。農民は貧乏だが、「商業」をやっているひとよりも偉いのだ、とごまかす。さらに「士農工商」の下に「被差別階層」をつくりだし、「商業人」を「あなたよりまだ下がいる」と持ち上げる。
時代は「戦前」どころか「江戸時代」にもどっている。
「お殿様」が一番偉い。「お殿様」のいうことを聞かない奴は許さない。
安倍は、絶対にこの「小池作戦」(差別できる対象をでっちあげる作戦)を真似する。「①お殿様が一番偉い」「②次に、あのひとたち以外の国民が偉い」「③悪いのは、あの人たちだ」。もちろん①②は言わない。③だけをいう。
衆院選が近づいた、と私は感じている。
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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(74)

2020-07-06 09:09:54 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (故郷の川のながれが)

忘れていた言葉の布を織りあげている

 川の流れは縦の糸、記憶は流れを横切る(止める)横の糸か。交錯して、ことばになる。それも、忘れていたことばに。
 「故郷」と「忘れていた」は同じ意味。
 いま、故郷に帰って来て、川を見る。川の流れという縦糸が、嵯峨に記憶という横糸を交差させろとささやきかけている。




*

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