りょう城『しあわせなはいじん』(2)(モノクローム・プロジェクト、2020年01月20日発行)
たとえば、こんな行がある。
雨の日になぜか落ちてる
軍手が
轢かれる
何度も何度も
何度もよー (よだれかけ)
ふと見かけた情景であり、友だちに語りかけることもあるだろう。それが、その語りかけたときの口調のまま「何度も何度も/何度もよー」と書かれる。
これは、未整理の無意識か。
そうではなくて、意識的な批評なのだ。「何度も」を私たちはたぶん意識しない。しかし、その意識しないことを、りょうは意識した。そういうことが批評なのである。批評とは特に新しいことをいうことではない。「私は、こんな風に見た(認識した)」と明確に語ることが批評なのである。「なぜ」と考え始めることが批評なのだ。他人のことばを借りてきて、「思想/哲学」風にことばを整えれば批評になるのではない。
「くさむしらん」は、こうである。
わたしはくさをむしりません。まなつ
でも、家の前のくさをそのままにします。
するとおおやさんがやってきて、刈ったり
抜いたり毒をかけたりします。
大家は、除草することでりょうを「批判する」。これを批評という人もいるかもしれない。りょうは「毒をかけたります」の「毒」に「批判」をこめている。これを批評という人もいるかもしれない。しかし、私は「除草剤は毒である」というこことばを借りてきたいちゃもんであり、「批評」を装っているが、批評にはなっていないと考える。
「そのままにします」にこそ、批評がある。
「そのまま」であることが、いまは批評になる時代なのだ。
借りてきたことばで、「除草剤は毒だ」といっても批評にならない。そういうことは、もう語り尽くされている。そして、「批評」として認知されている。つまり「定型」になっている。
「そのまま」とは、何か。
詩はつづく。
わたしはいぞんしょうしゃにあいます。かくせいざい
やアルコール、ギャンブル、食べ吐き処方薬
脱法ドラッグやガスパンや万引き、などなど。
わたしは煙草をくれる人が好き
です。1ミリのやつは泥水みたいな味が
します。15ミリのをください。
わたしはかさをさしています。雨の日も、
晴の日も曇の日も。風の日はかさが
こわれるのでカオスが路上にあふれ出します。
「そのまま」は「なるがまま」なのである。「依存症」は、なるがままか、なされるがままか、わからないが、きっと「なるがまま」なのだ。そして、その「なるがまま」の主張を「あるがまま」ことばにしたのが、たばこを描いた三連目だ。
整えない。社会の常識だとか、世間の声にあわせて、自分を整えない。ことばも、整えない。
かつて、詩は「抒情」にむけてことばを整えた。古今集には、そのための「技巧」がいっぱいある。もっと前から技巧があったかもしれないが、古今集から技巧のための技巧がはじまり、それは現代詩にもつづいている。
そう認識した上で、ことばを整えない。整えようとする圧力に抵抗して、整う前のことばを剥き出しにする。
これが、現代の批評である。
この「整えることを拒んだことば」を、りょうは「カオス」と呼んでいる。
一方で、りょうは、こんなふうな詩も書く。「川」。
かなしい川 開通した
開通したら ながれて ながれて
塵芥(ごみ)も 漂う霧も
ながれていった
そのあとは いっぽんの
川の跡
さかなが跳ねても
沁みる
さっと読むと「抒情詩」である。「沁みる」ということばが、そう感じさせるのだ。
しかし、よく読むと、何かが違う。「塵芥」を「カオス」と読み替えてみるといい。「カオス」がなくなれば、それは「現実」ではなく、何かが存在した「跡」にしかすぎない。
りょうは、こういう哲学的な批評も書く。
「跡」ということばが、あまりにも短いので、見落としてしまいそうだが、見落としてはいけない。
「いぬ」という詩も、私は大好きだ。
くろい いぬ
ひとりで空をみて、
いわがごつごつして
影には夕暮れのありんこたち
おしごとして、
海には
遠い線のところに
影のふね
けむりだして
おしごとして、
おしっこをがまんして、
くろいいぬ
ひとりで前をみて
「おしごと」とは何か。最終連の「ひとりで前をみて」いるのは、だれか。いぬか、りょうか。「ひとりで前をみて」、何をしているのか。
たぶん、それが「おしごと」なのだ。
「おしごと」のときは、「おしっこをがまん」しなければならないときがある。
いぬは、おしっこをがまんしているのか。
どこに「そのまま」があるのか。「あるがまま」があるのか。そして、それはどんなふうにして「いま/ここ」を批評しているのか。
書かない。
問いかける形で、私はすでに書いている。書き終わっているからだ。
コロナ感染が問題になったころに出版されたので、長い間、読まずに来てしまった。私は病弱なので、今回のコロナ問題では非常に影響を受けた。いまも受けている。ふつうの感じでは生きていられない。読むペースも完全に乱れてしまった。書くペースも乱れてしまった。
まあ、そんなことは、他の人には関係がないことだが。
でも、書いておきたい。
長い間、六か月間も、読まずに放置してきたこの一冊に対して、なんだか申し訳ない気持ちになるのだ。
「批評」が強烈な、とてもいい詩集だ。
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