詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋山基夫『シリウス文書』

2020-07-29 12:21:26 | 詩集


秋山基夫『シリウス文書』(思潮社、2020年06月20日発行)

 秋山基夫『シリウス文書』。「パープルレター」「和歌二十八首を読む」がおもしろいのだが、文字が多くて引用に手間がかかる。
 「句集評」には「大野呂甚大句集『くりごと』を読む」という副題がついていて、これも刺戟的なのだが、この句集がほんとうにあるかどうかわからない。句集を捏造して、秋山が評を書いている、ということばの運動かもしれない。そういう意味では、この作品について書くと、いちばん秋山に接近できると思う。ただし、句集が捏造である、という前提である。「現実」など、どこにもないのだ。「生活」というものもない。あるのはただ「ことば」だけだ。
 この決意のような潔さは、とても気に入っている。

 でも、きょうは、どうも目の調子がよくない。だから「マンダラ」を引用しながら感想を書く。私は秋山とは違って、いつでも「現実」しだいでことばが変わってしまう人間である。
 だからこそ、秋山の、現実なんか関係ないという潔さが気持ち良く感じられるのだろう。

 さて。どう書こうか。こんな部分がある。

中空へたましいがふらふら昇る
黒髪を撫でたお方を恋いこがれ
夢の夢よりもはかない世に臥し
山の端に出る月を待っています

 和歌にありそうなことばの動きだなあ。「新しさ」は感じない。けれど、私のことばが整えられるのを感じる。
 この四行は、ことばを整えて書かれている。それは一行の文字数がそろえられているという「形式」をとおしてもうかがえる。
 そして、この「形式」というのは、私は一行の文字数を例に上げたが、そういう表面的なものではなく、ほんとうは何かもっとことばの内部構造のようなものに属している。ことばの肉体。秋山のことばは、鍛えられた肉体を持っているのである。

月はむかしのゆめの月ではない
春はむかしのゆめの春ではない

 「月はむかしの月ではない/春はむかしの春ではない」ならば、すでに和歌で歌い尽くされたことだ。しかし、そこに「ゆめの」ということばを補うだけで、世界が二重化する。「むかし」というのは「ゆめ」なのだとわかる。「ゆめ」とは「ことば」という意味でもある。「ことば」にするから「むかし」が「むかし」として「いま」に蘇る。そういう、かけはなれたものを「いま」に呼び寄せる運動が「ことば」であり、「ことばのゆめ」、つまり「ことばの欲望」なのだ。それを秋山は生きている。
 この「欲望」は、不思議なことに、鍛えないと衰えてしまうものなのだ。
 秋山は、「ことばの肉体(欲望)」を鍛え続けている。それが、私には、一種のリズムとして響いてくる。
 若い人の「ことばの欲望」は鍛えられた欲望というよりも、剥き出しの、整えられない欲望である。そういう若い人の欲望についていくのは、かなり厳しいが、秋山の欲望になら、まだついていけると、私は感じる。
 たぶん、どこかで同じような鍛え方をしているのだろうと思う。ある意味で、ことばの鍛え方には「時代」が反映するということかもしれない。
 こんな部分もある。

ほろほろと山吹散るか滝の音 芭蕉
熱風が夏のひと月を襲いつづけひとむらの山吹が枯死した
わしゃあやっぱ山吹の黄色が黄色の中の黄色じゃ思うとる
吉野川岸の山吹ふく風に底の影さへうつろひにけり 貫之

 「わしゃあやっぱ」は口語だが、口語は口語で「欲望」の整え方があるのだ。その整え方が、この一行を支えている。私はなんとなく「仁義なき戦い」の菅原文太の「声」を思い出すのだが、私も秋山も、ひとが大声で主張する「声のリズム」を聞いて育った世代だろう。この一行は「大声」で発せられたものではないかもしれないが、「大声」をだすことができるのだという「強さ」、いいかえると「どす」を秘めている。「欲望」を矯めている、という力を感じさせる。
 そういうものが、芭蕉と貫之のことばを叩き壊して、あざやかに噴出している。
 こういうのは好きだなあ。

 いまは、若者が大声で主張するということがなくなった。そういうことも反映しているかもしれない。……と書くと、また違った問題になるかもしれないが。









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Estoy loco por espana(番外篇80)Ricardo Ferna’ndez

2020-07-29 11:56:16 | estoy loco por espana


Ricardo Ferna’ndez

Colores espan'oles

El cielo visto desde la esquina del edificio (el cielo y la esquina del edificio).
Una parte del edificio está en la esquina de la parte abierta.
Cuando se recorta como una foto, parece una sola imagen abstracta pura.
Contraste de azul y gris. El cambio de gris en gris.
El gris claro (gris pequen'o) es muy efectivo.
Este equilibrio se siente como una pantalla calculada y construida.


スペインの色。
ビルの一角から空を見ている。
開かれた部分の隅に、ビルの一部が入り込んでいる。
これが写真として切り取られると、まるで一枚の純粋な抽象画のように見える。
青と灰色の対比。灰色のなかにある灰色の変化。
明るい灰色(小さな灰色)が非常に効果的。
このバランスが、まるで計算され、構築された画面のように感じられる。
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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(85)

2020-07-29 09:32:38 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (宇宙のはてに小さな橋がかかつている)

ぼくはときどきそこを通るものを考える
まだ名づけられていないもの

 「考える」ということばは「思う」よりも意識的である。精神的である。心情的ではない、と言えばいいのか。
 「名づけられていない」には「名づける」という意思(精神的意欲)が感じられる。
 「名もないもの」なら「事実」。
 「名ものないもの」に「名づける」のが詩である。
 「名づける」とは「名もないもの」に、自分の「意思」という「橋」をかけ、渡っていくことである。


*

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破棄された詩のための注釈02

2020-07-29 00:30:42 | 破棄された詩のための注釈
破棄された詩のための注釈02
                             2020年7月29日


 荒廃した人格の一部は、若いときの恋人によってつくられたものだが、彼女には意識できていなかった。それは階段をのぼるとき、手すりをもつのではなく、壁に手を這わせる癖となって出ていた。
 この文章は削除され、別の散文詩の一場面につかわれた。かわりに、こう書かれた。
 階段をのぼりながら、女はこころのなかで、後ろからついてくる男をあざ笑った。そうしないと絶頂に達しないからだ。そして、まだ何もしていないのに、足もとがふらついた。
 しかし、その描写には、「悪魔的描写」をするという作家の文体がまじっていることに気づいたのか、さらに書き直された。
 踊り場の高い窓から射してくる白い光は、スカートに触れて青い色を散らした。
 陳腐だ。男は唾を吐き、陳腐さを隠すために、こうつづけた。

 踊り場の高い窓から射してくる白い光は、スカートに触れて青い色を散らした、という夢を見てはいけない。このことばは、自画像として、いつまでも彼女を苛んだ。
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