由良佐知子「吾亦紅(われもこう)」、豊原清明
「夏休みのない井戸」(「火曜日」88号、2006年10月31日発行)。
由良の作品は、とても正直な作品である。
現実に目の前にあるものを見つめながら、なおかつ、それ以外のものが見えるときがある。そういうとき、こころは動く。それがそのまま「詩」になる。
目の前にあるものだけではなく、なにか別のものを見てしまう力のなかに「詩」はあるのだと思う。
最終連が非常に美しい。空中に揺れる吾亦紅がイランのこどもの手に見えてくる。他者への共感はこんな形で具体的になる。
*
豊原清明
の「夏休みのない井戸端」は「共感」をうしなって、夏に閉じ込められた自画像を描いている。その1連目。
「『電気くらげ』という季語を/指で辿りながら」の「指で辿りながら」に私は驚く。ことばと肉体の関係に驚く。「指」という肉体を具体的にかかわらせることで、豊原は「電気くらげ」から出発し、「電気くらげ」以外のものに行き着こうとしている。
由良が吾亦紅の向こうにイランのこどもの手を見たように、豊原は「電気くらげ」の向こうに「電気くらげ」以外のものを見ようとしている。
普通は(普通なら)、「詩」は見ようとして見えるものではなく、向こうから現れてきて、それに驚きながら、ことばが自然に動くのだろうけれど、そういう時ばかりではない。「詩」はどこからもやってこなくて、自分からつくりださなければ存在しないときもある。「詩」を現実に呼び込まない限りは、どうにも苦しいからである。現実の「包囲網」のなかに閉じ込められている感じがするからである。その「包囲網」を突き破るのが豊原にとって「詩」なのである。
この詩のなかの豊原がそうした状態である。現実に「包囲」されて、どこへもゆくことができない。そうして、そんな状態から逃れるために「指」を動かしている。「指」に頼っている。
この頼り方が悲しい。せつない。
豊原のことばの美しいところは、そういう悲しさ、せつなさに触れながら、それに酔ってしまわないところだ。酔って、その世界へ逃げていかないところだ。つまり自分自身に「共感」などしないところにある。自分のセンチメンタルに共感するのではなく、肉体の外にあるものに共感しようとして、今、指を動かしているのだ。それだけだ。「それだけ」をきちんとことばにできるところに豊原の美しさがある。
他者から見れば、現実に豊原のそばにいる人から見れば、もちろんそんなふうには見えないかもしれない。
それは、他者から豊原へ向けられた批判であろう。
豊原は、その批判をそのまま受け止めている。そういう批判があることを自覚し、逃げもしないし、そらしもしない。
自己のセンチメンタルに酔わずに、そうした批判をそのまま書いてしまうのは、もしかすると、豊原は、そういうものをかわしたり、そういうものから逃れる方法をまったく知らないのかもしれない。自己陶酔もひとつの逃避の方法であるが、豊原はけっして自己陶酔しない。
目の前にあるものと真っ正面に向き合い、そこに自分の肉体をさしだすということ以外に何も知らないのかもしれない。不思議な詩人である。
由良の作品は、とても正直な作品である。
現実に目の前にあるものを見つめながら、なおかつ、それ以外のものが見えるときがある。そういうとき、こころは動く。それがそのまま「詩」になる。
目の前にあるものだけではなく、なにか別のものを見てしまう力のなかに「詩」はあるのだと思う。
野の晩夏に
伸びる枝先のひとつひとつ
紅い花穂(かすい)を立てている
いつか見た映画
「ブラックボード--背負う人」
イランのこどもらの大きな瞳
戦禍に負われ
黒板を背に岩山を登る髭面の先生に
続く群のこども
空は青い
聞こえてくる
野の真ん中で
「ハイ」「ハイ」と手を挙げる
吾亦紅の花
最終連が非常に美しい。空中に揺れる吾亦紅がイランのこどもの手に見えてくる。他者への共感はこんな形で具体的になる。
*
豊原清明
悲しいと言われても
僕はちっとも悲しくならない。
「電気くらげ」という季語を
指で辿りながら生活という
厳しい張り手に困惑して、
世界地図を拡げ逃亡を試みる。
しかし包囲網に囲まれて
火噴き男にはならずには
逃げられなくなった。
女性のフリルを眺めたいとも思ったが
部屋から一歩も外を出ず、汗もかかず、
のうのうとした男として、
夏バテを理由にリタイア。
「『電気くらげ』という季語を/指で辿りながら」の「指で辿りながら」に私は驚く。ことばと肉体の関係に驚く。「指」という肉体を具体的にかかわらせることで、豊原は「電気くらげ」から出発し、「電気くらげ」以外のものに行き着こうとしている。
由良が吾亦紅の向こうにイランのこどもの手を見たように、豊原は「電気くらげ」の向こうに「電気くらげ」以外のものを見ようとしている。
普通は(普通なら)、「詩」は見ようとして見えるものではなく、向こうから現れてきて、それに驚きながら、ことばが自然に動くのだろうけれど、そういう時ばかりではない。「詩」はどこからもやってこなくて、自分からつくりださなければ存在しないときもある。「詩」を現実に呼び込まない限りは、どうにも苦しいからである。現実の「包囲網」のなかに閉じ込められている感じがするからである。その「包囲網」を突き破るのが豊原にとって「詩」なのである。
この詩のなかの豊原がそうした状態である。現実に「包囲」されて、どこへもゆくことができない。そうして、そんな状態から逃れるために「指」を動かしている。「指」に頼っている。
この頼り方が悲しい。せつない。
豊原のことばの美しいところは、そういう悲しさ、せつなさに触れながら、それに酔ってしまわないところだ。酔って、その世界へ逃げていかないところだ。つまり自分自身に「共感」などしないところにある。自分のセンチメンタルに共感するのではなく、肉体の外にあるものに共感しようとして、今、指を動かしているのだ。それだけだ。「それだけ」をきちんとことばにできるところに豊原の美しさがある。
他者から見れば、現実に豊原のそばにいる人から見れば、もちろんそんなふうには見えないかもしれない。
のうのうとした男として
それは、他者から豊原へ向けられた批判であろう。
豊原は、その批判をそのまま受け止めている。そういう批判があることを自覚し、逃げもしないし、そらしもしない。
自己のセンチメンタルに酔わずに、そうした批判をそのまま書いてしまうのは、もしかすると、豊原は、そういうものをかわしたり、そういうものから逃れる方法をまったく知らないのかもしれない。自己陶酔もひとつの逃避の方法であるが、豊原はけっして自己陶酔しない。
目の前にあるものと真っ正面に向き合い、そこに自分の肉体をさしだすということ以外に何も知らないのかもしれない。不思議な詩人である。