詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

由良佐知子「吾亦紅」、豊原清明「夏休みのない井戸」

2006-11-20 12:46:25 | 詩(雑誌・同人誌)
 由良佐知子「吾亦紅(われもこう)」、豊原清明「夏休みのない井戸」(「火曜日」88号、2006年10月31日発行)。
 由良の作品は、とても正直な作品である。
 現実に目の前にあるものを見つめながら、なおかつ、それ以外のものが見えるときがある。そういうとき、こころは動く。それがそのまま「詩」になる。
 目の前にあるものだけではなく、なにか別のものを見てしまう力のなかに「詩」はあるのだと思う。

野の晩夏に
伸びる枝先のひとつひとつ
紅い花穂(かすい)を立てている

いつか見た映画
「ブラックボード--背負う人」
イランのこどもらの大きな瞳
戦禍に負われ
黒板を背に岩山を登る髭面の先生に
続く群のこども

空は青い
聞こえてくる
野の真ん中で
「ハイ」「ハイ」と手を挙げる
吾亦紅の花

 最終連が非常に美しい。空中に揺れる吾亦紅がイランのこどもの手に見えてくる。他者への共感はこんな形で具体的になる。



 豊原清明の「夏休みのない井戸端」は「共感」をうしなって、夏に閉じ込められた自画像を描いている。その1連目。

悲しいと言われても
僕はちっとも悲しくならない。
「電気くらげ」という季語を
指で辿りながら生活という
厳しい張り手に困惑して、
世界地図を拡げ逃亡を試みる。
しかし包囲網に囲まれて
火噴き男にはならずには
逃げられなくなった。
女性のフリルを眺めたいとも思ったが
部屋から一歩も外を出ず、汗もかかず、
のうのうとした男として、
夏バテを理由にリタイア。

 「『電気くらげ』という季語を/指で辿りながら」の「指で辿りながら」に私は驚く。ことばと肉体の関係に驚く。「指」という肉体を具体的にかかわらせることで、豊原は「電気くらげ」から出発し、「電気くらげ」以外のものに行き着こうとしている。
 由良が吾亦紅の向こうにイランのこどもの手を見たように、豊原は「電気くらげ」の向こうに「電気くらげ」以外のものを見ようとしている。
 普通は(普通なら)、「詩」は見ようとして見えるものではなく、向こうから現れてきて、それに驚きながら、ことばが自然に動くのだろうけれど、そういう時ばかりではない。「詩」はどこからもやってこなくて、自分からつくりださなければ存在しないときもある。「詩」を現実に呼び込まない限りは、どうにも苦しいからである。現実の「包囲網」のなかに閉じ込められている感じがするからである。その「包囲網」を突き破るのが豊原にとって「詩」なのである。
 この詩のなかの豊原がそうした状態である。現実に「包囲」されて、どこへもゆくことができない。そうして、そんな状態から逃れるために「指」を動かしている。「指」に頼っている。
 この頼り方が悲しい。せつない。
 豊原のことばの美しいところは、そういう悲しさ、せつなさに触れながら、それに酔ってしまわないところだ。酔って、その世界へ逃げていかないところだ。つまり自分自身に「共感」などしないところにある。自分のセンチメンタルに共感するのではなく、肉体の外にあるものに共感しようとして、今、指を動かしているのだ。それだけだ。「それだけ」をきちんとことばにできるところに豊原の美しさがある。

 他者から見れば、現実に豊原のそばにいる人から見れば、もちろんそんなふうには見えないかもしれない。

のうのうとした男として

 それは、他者から豊原へ向けられた批判であろう。
 豊原は、その批判をそのまま受け止めている。そういう批判があることを自覚し、逃げもしないし、そらしもしない。
 自己のセンチメンタルに酔わずに、そうした批判をそのまま書いてしまうのは、もしかすると、豊原は、そういうものをかわしたり、そういうものから逃れる方法をまったく知らないのかもしれない。自己陶酔もひとつの逃避の方法であるが、豊原はけっして自己陶酔しない。
 目の前にあるものと真っ正面に向き合い、そこに自分の肉体をさしだすということ以外に何も知らないのかもしれない。不思議な詩人である。

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財部鳥子『衰耄する女詩人の日々』

2006-11-19 23:09:05 | 詩集
 財部鳥子『衰耄する女詩人の日々』(書肆山田、2006年11月20日発行)
 「ウパニシャッド」の最終連。

それから
だれとも知れない者が内心に叫ぶ悲鳴を聴いた
ああ 消えておくれ!
ああ 残ってはならない
死は暗号だけでいいの!
女詩人はデスマスクから離れて
荒涼とした心の底の硫黄の山をよろめき歩く
ああ 栄光あるデスマスクよ
消えておくれ!
戻れると思うなよ

 「だれとも知れない者」。その叫び。悲鳴。「詩」とは、いつもそこにある。財部のこころに響くのだから、その「だれとも知れない者」が財部と別人の姿をしていても財部自身である。そうであっても、やはり「だれとも知れない者」というほかはない。その「矛盾」のなかに「詩」がある。
 そして、その「矛盾」を一番端的にあらわしているのが「衰耄する女詩人」であるかもしれない。「衰耄する」の「する」ということば。そのなかにある「変化」。財部に先立つのか、それとも財部に遅れてやってくるのか。「時差」はない。「時差」はないにもかかわらず「する」という変化ゆえに、常に「だれとも知れない者」でしかありえない。それまでの財部自身ではないのだから。
 財部は、彼女自身のなかに「他人」を見ている。「他人」がいることを知っている。その意識が「詩」を魅力的にする。
 どうして、ここで、こういうことばが? 読者は迷うかもしれない。財部はいうだろう。「だって、聞こえたんだもの」。
 そうした事情は「あとがき」に詳しく書かれている。財部は「日々老衰する詩人」ということばに出会い、そのことばは「私にとても魅力的に感じられた。日々老いゆくことは人間にとって新鮮な体験ではないだろうか」と。日々、自分の中の他人と出会う。それは、相手がどんな状態であろうと、新鮮には違いない。詩人に好奇心さえあれば。財部は、たぶん、いつまでも好奇心をうしなわない人間なのだ。自分の中の「だれとも知れない者」の声を聞くことがうれしい人間なのだと思う。
 この「だれとも知れない者」に名前をつけた作品がある。「だれとも知れない者」を「潭」と呼んでいる。「潭」が登場する作品は、どれも楽しい。「夕陽の階段」。
  
駅の回廊の窓から赤くあかく夕光がさしこんで
カメラを構えた男が光に立ちむかう
あれが潭ではないだろうか
俯瞰するレールはかがやいて浮き上がる
蛇行して化粧のように光をすばやく刷毛ではく
光がレールを移行していくと
かれは身軽に別な窓へと光を追う
あの華奢な背骨と飛ぶような脚のはこび
あれが潭だという確信もないけれど
潭ではないだろうか
足を挫いて杖をついた女詩人は
回廊で男の撮影が終わるのを待っていたが
こうも思いたい
あの夕陽の走るような速さをわたしたちは分け持っている
それが潭という時間だと
夕陽が駆け去るまでの数分が
潭という時間だと
潭が心からわたしを愛したことがあったのか
と女詩人は猜疑しているが
男に助けられて階段を上がる杖は
もういちど夕陽を見ようとして急いでいる
潭という時間はが潭が不在でもあったのだろうか

 「あれが潭ではないだろうか」「あれが潭だという確信もないけれど/潭ではないだろうか」。「だれとも知れない者」ゆえに「確信」などあるはずもない。しかし、それが「潭」だとわかる。なぜか。

あの夕陽の走るような速さをわたしたちは分け持っている

 この「分け持っている」という感覚、何かを共有する感覚があるから「潭」だとわかる。そして、もし、何かを共有する感覚があれば、そのとき、それが「だれ」であっても、その「だれか」は「潭」でもある。

潭という時間は潭が不在でもあったのだろうか

 この最後の疑問は「あれが潭ではないだろうか」と同じように、疑問の形をとっているけれど、実は「確信」である。潭という時間は潭が不在なら存在するはずがない。財部ひとりでは存在しない。「だれとも知れない者」が財部と一緒に存在するときのみ、「詩」は存在する。これは逆にいえば、「詩」が存在するとき、そこには常に潭が存在するということでもある。最後の3行は、潭に会うために階段を急いで上る女詩人を描いている。美しい夕陽とともに詩は存在し、潭は存在する。財部は夕陽を見ることで潭を存在させようとしているのである。
 潭が一緒にいるときのみ詩は存在する。そして、この一緒にいるときのみ、という感じ--そこから「時間」ということが強く意識される。
 「潭」は「だれとも知れない者」(人間)であると同時に「時間」なのである。そしてそれは「夕陽が走るような速さ」「夕陽が駆け去るまでの数分」の「走る」「駆け去る」ということばにあらわされているように、動いていく時間、とどまることを知らない時間である。動いていくということは、常に「だれとも知れない者」になりつづけるということでもある。
 そこでは人間と時間が混同されているのではなく、時間と人間が融合している、溶け合ってひとつの存在になっているのである。

 「老衰する詩人」「老衰する自分自身」--そういう存在を財部は知らない。知らないけれど、「潭」(男)のような存在だろう。常に何かを共有する存在だ。その存在を「潭」という男と想定しているのは、それが財部にとって自分自身ではないということを明確にするためだろう。「未知」なものを含んでいる存在だと明確にするためだろう。
 財部はその変化、動くものを好奇心いっぱいに受け入れている。
 財部の詩が、ふいに、今ここで新しく始まったという印象が非常に強い。「老衰する」の「する」の発見(時間の発見)、「潭」という人物の発見が、財部を生まれ変わらせたのかもしれない。新人の詩集を読むときのように、わくわくする詩集だった。


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大崎千明「クモ」、小松弘愛「たっすい」

2006-11-18 23:23:57 | 詩集
 大崎千明「クモ」、小松弘愛「たっすい」(「兆」132、2006年10月28日発行)
 大崎千明「クモ」はとても不思議な詩である。

ふと不安になった
おしりからクモが出てくるのではないかと
それは 用のあと
おしりをふいた紙を見たら
小さな黒いクモに見えたからだが

 何かがゆがんで見える。存在しないものが存在しているように見える。それとどう向き合うべきなのか、を考えている。その導入部が「クモ」であるのが、とてもおかしい。「おしりをふいた紙を見たら」というのが、とてもおかしい。こういう肉体の出し方というのはいいなあ、と思う。
 そして、この肉体が、詩の途中でとても重要になってくる。その部分もとてもいい。

わたしはきのう
病気の母を背中に背負って自転車をこいでいた
ゆるい上りの山道はでこぼことハンドルをとられて
転びそうになりながら やっと
バランスをとり

道が薄暗くなったとき
見知らぬ男がついてくるのに気づいた
自転車は重くてすすまない
しだいに近付いてくる男
とうとう自転車ごとわたしたちは倒れてしまった

ほとんど裸の母は口もきけず
わたしは このままここに
母を置いて逃げたかった
裸の母の身体に布を巻いて背負い
わたしは走った

男が追いかけてくる
今にも襲いかかってくる
母を ここに 置いて 逃げたら
そうしたらわたしは助かる
母はきっと死ぬ

桃色のカーテン越しに
朝の陽差しがわたしを目覚めさせ
夢だと思った
でも わたしの背中の母が
消えるわけではない

 「わたしの背中の母が/消えるわけではない」がすばらしい。悪夢は消える。夢の中の男も消える。母も消えるかもしれない。しかし、「背中」は消えない。「背中」に残る母の肉体の感触は消えない。大崎が「消えるわけではない」と言っているのは、背中に残る母の感触である。
 感触は「わたし」と「母」をつなぐものである。母を「ここに 置いて 逃げたら」と想像することはできるし、実際に置き去りにして逃げることもできる。しかし、感触を置いて逃げるわけにはいかない。
 感触というのは、結局、自分自身である。大崎自身である。
 感触のことは、大崎にしかわからない。
 それは夢のなかに出てきた「男」と同じものである。大崎にしか見えない。そしてまた、用を足したあとの紙に残る「クモ」と同じである。それを見た人は大崎しかいない。
 だからこそ、大崎は書く。

たとえおしりからクモが出てきても
目をそむけずに
わたしはそのものと
向き合わなければならない

 それに向き合えるのは大崎しかいないからである。

 で「クモ」と「母」の関係は? 
 大崎は具体的には書いていない。以下は私の想像である。大崎は母を介護したことがあるのだろう。下の世話も含まれているだろう。そのとき、お尻をふいた紙を見るというようなこともあっただろう。そのときも「クモ」を見たかもしれない。「母を ここに 置いて 逃げたら」と思ったこともあったかもしれない。「そうしたら わたしは助かる」と思ったこともあるかもしれない。そして、その、思ったこと、が「感触」として肉体に残るのである。母の裸(裸同然の体)に触れた手、その感触。母を背負った感触。病気ならば母の体はべったりと大崎の背中にはりついただろう。内臓そのものが直接背中に触れているのではないかと感じるような、逃れることのできない感触……。
 その感触と「クモ」はつながっているのである。クモの巣の細い細い糸のようなもので。
 母の病気と大崎の肉体もつながっているのかもしれない。予感のようなものとして。



 小松弘愛「たっすい」は「たっすいがは、いかん」と言われた時代の記憶について語っている。「たっすいがは、いかん!」ということばは、戦争中は国を挙げて叫ばれた。「気力が乏しい、弱いのはいけない」という意味である。小松は子供時代は「たっすい」と呼ばれていたらしい。今はキリンラガーの広告につかわれている。居酒屋でキリンにしますか、アサヒにしますか、と問われて、ふいに子供時代に読んだ「ヨミカタ」の教科書が浮かぶ。「たっすいがは、いかん」と言われた記憶がよみがえる。

一瞬
迷ったその時
「たっすいがは、いかん!」
の 赤い文字を配した
横断幕のようなものが目の前に浮かび
りゅうりょうたるラッパの音が聞こえて--
むろん これは真っ赤な嘘で

 チテ チテ タ
 トタ テテ
   タテ タ

「ヨミカタ」の活字が
チラチラと頭の隅にちらつき
わたしは
「アサヒ」

答えてしまった。

 「弱さ」を選ぶ。それが小松の肉体にしみついた「思想」かもしれない。「弱さ」を選ぶとは「権力に与しない」と言い換えると、わかりやすい「思想」になるかもしれないが、そんなふうに言い換えず「弱さ」を選ぶ、選んでしまうのが小松なのだろう。
 「答えてしまった」の「しまった」のなかに、肉体を感じる。
 この肉体はどこかで大崎の、「背中」の感触に通じる。「意識」で制御できない反射神経、肉体にしみついてしまったものである。だからこそ、信頼することができる。
 「権力に与しない」というようなことは「真っ赤な嘘」の類のものかもしれない。かっこいい「思想」はどこかうさんくさい。「弱さ」を選んで「しまった」(しまう)という、それこそどうしようもない「弱さ」こそ、人を裏切らない何か、真に「思想」と呼ぶにふさわしいものだろうと思う。
 大崎のことばを流用して書けば、体にはりついた「弱さ」は「消えるわけではない」、消えるものではない。だから「思想」なのだ。


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加藤健次『紺屋記』

2006-11-17 22:59:17 | 詩集
 加藤健次紺屋記』(思潮社、2006年10月20日)
 この詩集にはとてもすばらしい3行がある。「沈下橋」のなかほど。

なかば壊れた人の
声は腑に落ちるのではなく
膝に落ちる

 「膝に落ちる」。特に、この1行の力に感動した。「なかば壊れた人」をどうとらえるかは難しいけれど「沈下橋」ということばから、私はある「流れ」にのみこまれ、沈んでいる人と思いながら読んだのだが、その気落ちした人の声は、「私」に届く前に、その人自身の膝の上に落ちる。
 「腑に落ちる」の「腑」は「こころ」の比喩にあたると思うけれど、「膝」と対されることでより肉体に近付いた。あるいは、「腑」に対して、はっきり目に見える「膝」が登場することで、その人の全体が肉体そのものとして浮かび上がってくる--どう言えば正確になるのかわからないが、この3行を読んだとき、「壊れた人」の肉体が鮮明に浮かび上がり、それにあわせるようにこえの届く距離までが目に見えるのである。
 声は対面していても必ずしも相手には届かない。声は人に届く前に、その人自身の膝の上に落ちてしまうこともある。
 このリアルな肉体、心と声の在り方をたった3行で浮かび上がらせる。そのことだけでこの詩集は記憶に値するし、加藤健次自身も記憶に値する。ほんとうにすばらしい3行である。

 この3行があまりにも素晴らしいために、どうも、私には他の作品があまりおもしろく感じられない。ことばのなかから肉体が浮かび上がってこない。
 たとえば「こくご」。

こくごのうえに
細い雨がおちている
こくごの約束はきちんとまもって
大小の円ができる
たくさんの朝のおもてを
そとへそとへひろがって
脚をゆらす
比喩はさみしく
水たまりに長靴でたっている
大人になる前だから高い声で
音読する
さくらがさいています。
さくらがちっています。
消えるために現れる意味に
かさをさして
近づく人の名をよんでみましょう。
「ん」が強くひびいてくる。
わかりません。
わかりたくありません。
どこまでが脳でどこからが体か
つめたくきらわれている
ななめの直線を約束にのこして
細い雨がおちている
一ねんせいの
こくごがめくられる

 雨の日。国語の授業。1年生が本を朗読している。それをなつかしい絵のように描写している。現代の小学校というよりも、記憶の中の小学校のような感じである。記憶の中だけの、余分なものを排除した、美しい世界である。「比喩はさみしく」も「ななめの直線を約束にのこして」美しい行だと思う。繊細で、ああ、加藤は繊細な人間なのだと感じさせる。
 しかし、そこから私がほんとうに感じるのは、加藤の「美しく書きたい」という思であって、肉体ではない。肉体が見えない。「記憶の中の小学校」だから肉体がなくてもいいのかもしれない。肉体を排除して、精神だけを細い雨に打たせて、「わたしの精神はこんなに美しい」と主張し、それが伝わればそれでいいのかもしれない。

わかりません。
わかりたくありません。
どこまでが脳でどこからが体か

 と加藤は書いているが、そのことばとはうらはらに、加藤にはそれがわかっているようにも思えるのだ。
 細い雨。その細さを感じる精神までが脳である。精神が細い雨に打たれて、その細さを感じるまでが脳である。肉体は細さを伝えるためだけに存在している。ほかにも伝えられることはあるかもしれないが、細さ以外のものを除外する。それが、このときの加藤の肉体(体)だ。脳が最初から肉体(体)を限定している。
 他の詩も、肉体の範囲を限定し、その限定のなかで精神を動かしている。それも、ある精神を深くつきつめるために肉体を限定してことばを動かすというよりも、肉体の思わぬ反撃にあって精神が乱れないように、あらかじめ肉体を限定している感じがする。そのうえで「抒情」を展開しているような印象が残る。

 「抒情」にならなくてもいいのではないだろうか。ことばは美しくなくてもいいのではないだろうか。繊細な精神を伝えなくてもいいのではないだろうか。
 そうしたことよりも、そのつど肉体を発見することの方が重要なことではないだろうか。
 最初に引用した3行がなければ違った感想を書いたと思う。あの3行がすばらしいがために、私は、他のすべてのことばに不平が言いたくなってしまった。こんな経験はあまりない。不思議な詩集だ。

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高良留美子『崖下の道』(その4)

2006-11-16 23:34:00 | 詩集
 高良留美子崖下の道』(思潮社、2006年10月31日発行)。(その4)
 この詩集には、どうしても忘れることのできない詩がもう1篇ある。在日韓国人を描いた「夢の交差点で--鄭京黙 久保覚に」。遺稿集を読みながら、高良は鄭京黙のなかに「間」が存在することを発見する。タイトルの「鄭京黙 久保覚に」のなかに、すでに1字の「空白」(間)が存在するが……。

かれの本名、生まれたときからかれのものであった名前は、多くの人に知られることはなかった。わたしはかれの口からその名前が--たとえ日本読みでも--発音されるのを聞いたことはない。わたしがその名前を知ったのは、かれの遺稿集の最後の年譜の欄によってであった。かれが自分の名前のなかに“黙”の字をもっていたことが、わたしを考え込ませる。

 鄭京黙は彼自身について沈黙する。ここに鄭京黙の複雑さがある。沈黙の奥には「鄭京黙」がいて、その沈黙と高良との間には「久保覚」がいる。高良は、久保覚との「間」を生きているが、鄭京黙はそのとき同時に鄭京黙と久保覚との「間」も生きている。そして、その「間」を他人には(日本人には)見せないように、沈黙している。隠している。
 しかも、それは鄭京黙がそうしたいからという理由からだけではないのだ。私たち、つまり日本人が何らかの形で鄭京黙に沈黙を強いているのである。久保覚であれ、と強いているのである。--そういうことがあると認識しているからこそ、高良は「わたしを考え込ませる」と書くのである。
 
 常に鄭京黙と久保覚とのあいだに「間」が存在すること--そのことが鄭京黙にどんな影響を及ぼしているか。

 かれは有能な男だった。緻密な頭脳と実にねばり強い根気をもっていた。とりわけ、言葉に敏感だった。その敏感さはおそらくかれの二つの名前の亀裂のなかから生まれてきたに違いない。かれは言葉を発する脳髄の動きを捉えることかできた。かれはそれを書物にし、人びとに発信した。

 「間」は「亀裂」と呼び換えられている。そして、そこから「言葉に対する敏感さ」(言葉を発する脳髄の動き)が飛び出す。それは「魔」である。人々のこころを捉え、魅了するる「魔」である。たとえていえば、幣原の「戦争放棄」という考えである。「魔」ではあるけれど「真」でもあるものだ。つまり「思想」である。「思想」であるがゆえに、それをことばにするには「ねばり強い根気」もいるのである。
 そうしたことを理解した上で、高良は、次のように書く。

日本の戦後の言葉と思想がかれのような人によって支えられていたことを記すことができる。

 鄭京黙に「沈黙」を強いたものは、実は戦後の日本である。もちろんそこには高良も含まれる。含まれていると、高良は自覚している。わたしたち日本人が在日韓国人の「沈黙」を強いた。
 「支えられていた」と高良は書いているが、これは、そうした事実と向き合い、そのことを反省することでかろうじて日本の戦後の言葉と思想は、なんとかまっとうなもの(真)であることができたという意味だろう。もし、鄭京黙が、つまり、沈黙を強いられている人からの声が一言も発せられなかったら、私たちはもっと違った生き方、侵略戦争の延長線上を生きていたかもしれない。
 そういう反戦が、この1行にはこめられている。

 一方、 高良は、単純に鄭京黙を尊敬しているわけではない。鄭京黙のなかに存在する「魔」にも目を向けている。鄭京黙と久保覚の「間」は「魔」をも噴出させることを、きちんと書いてもいる。「間」が「魔」でありうることを認識するからこそ、「間」を「真」にかえるにはどうすべきかを考えようとするかのように。

かれは同時にしばしば信じられないほど無責任だった。(略)無責任どころか、人によっては--それがしばしば女性に対してだったことがわたしを傷つける--ひどい苦しみを与えることすらあった。日本人へのうらみ、憎しみがどのよう形でかれの心に居座っていたのか、わたしは知らない。ただそのような仕方で自分の在り方を--かれが一人の他者であることを--わたしたちに示したのだろう。

 「間」のなかで「魔」にも「真」にもなる。それは、鄭京黙にも制御がきかないことかもしれない。だからこそ、鄭京黙は「ねばり強く」「言葉を発する」。そして、その動きは、もちろん鄭京黙以外の人間には制御することができない。だからこそ「他者」なのである。
 この「他者」こそ、実は「間」をつくりだす力である。

 この「他者」の発見は、ここではとても不思議な形、親しみや愛情だけではなく、一種の反発、不信も含める形で書かれているが、これが高良の正直なところだと思う。「他者」に対して覚えるのは「共感」だけではない。
 「他者」対する反発、不安、不安からの自己防御--同じことが、人間の生きているあらゆる現場で起きる。
 そう思って読み返すと、「狭い海」で起きたことも、「他者」の発見だったことがわかる。
 「少女の右手」は、形をかえてあらわれた「鄭京黙」でもあったのだ。少女は、彼女の右手が「鄭京黙」であることを知っている、そして高良も少女の右手が「鄭京黙」(その本名は知らされていないけれど--つまり、間接的に、その存在を想像しているだけで、直に触れたことはないけれど)であるということを知っていると認識している。
 「他者」はいつでも私たちをたじろがせる。「他者」に対して何ができるかと、問いかける声がどこからか聞こえる。
 たじろいで引き下がることもあれば、たじろぎを隠すために暴力的にふるまうこともある。
 これは侵略戦争のとき起きたことでもあるが、今、現実に起きていることでもある。さまざまな差別や暴力の連鎖は、常に「他者」に向けられている。

 「他者」に対して何ができるか。「他者」がつくりだす「間」、「他者」に向けられる「魔」、それをどう乗り越え、「真」をどう実現するか。つまり「他者」とどう生きることができるか。高良自身を問い詰める「狭い海」の最後が切実に思い出される。

あの海の幅は狭かったけれど
いまわたしはあの海を越えて
少女の右手をつかまえにいくことができるだろうか
海の幅はほんとうに狭く
少女のからだは沈みかけていて
眼は助けを求めているかもしれないのに


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高良留美子『崖下の道』(その3)

2006-11-15 21:35:56 | 詩集
 高良留美子崖下の道』(思潮社、2006年10月31日発行)。(その3)
 「間」について、高良はさまざまに書いている。そのひとつひとつが胸に迫る。いくつかは「時」が「間」そのものである、と指摘している。

滝の音が聞こえてくる
滝の音はむかしといまを切りはなす
むかしには むかしの記憶があり
いまには いまの忘却がある

滝の音が聞こえてくる
滝の音はむかしといまを結びつける
むかしには むかしの沈黙があり
いまには いまの放心がある   (「滝の音」)

 ここに書かれている滝の音はむかしといまを切り離し、またむかしといまを結びつける。ある存在は「間」をつくりもすれば、「間」を消しもする。それは結局、人間の想像力の問題である。「思想」の問題である。いまとむかしを切り離し「間」どころか、いっさいの関係をなくすために何かを想像することもできなれば、なんとしても結びつけよう想像することもできる。

雪は降りつづいていた
雪は降り積もって
小路をかくそうとしていた
時が 傷をかくそうとするように   (「森の小路 1」)

 「間」を結びつけることと、「間」を隠すことはまったく別のことである。「間」は結びつける必要があるが、隠してはならない。「間」を結びつけることは、実は「間」を明確に理解することである。忘れないことである。

小路の下で 傷は血を流していた
雪は降りつづいていた         (「森の小路 1」)

 「間」を隠すとき、その「間」のなかに潜む「魔」によって人間は血を流し続けることになる。それは人間にとって、とんでもない悲劇である。

 「間」をどうやって生きるか。「蔓(つる)」という作品には、高良の願いがこめられている。

小川には川霧が立ちこめていた
太い蔓は流れの上を横切って
むこう岸まで届いていた

岩に砕けた水しぶきが
絶えまなく蔓に降りかかり
厚い層となって凍りついていた

半透明の氷の奥に
つるのごつごつした膚(はだ)があった
水は間断なく降り注いでいた

蔓がそこにあること
そこでしか生きられないこと
わたしは運命ということを考えていたのだった

 高良は「蔓」になろうとしているのである。「小川」(それが小さいか、大きいか、またその川が浅いか深いかは人によって違っているだろう)がつくる「間」、こちらの岸と向こう岸。その「間」を結びつける「蔓」になろうとする。「蔓」によって、こちらの岸と向こう岸はつながり、同時にそれがなければ隔たっていることも人は意識しないのである。それは「間」を覚醒させる存在なのである。
 「間」があること、そしてその「間」は「魔」に変わりうることを、常に、高良は伝えたいと願っている。それを伝えることを「運命」と考えている。幣原にとって「戦争放棄」が「運命」であったように、「蔓」として生きることを高良は「運命」として引き受けようとしている。
 「蔓」はときには厳しい時間を生きなければならない。冷たい水がかかり、その水は氷にかわる。それでも、こちらの岸と向こう岸を結ばなければならないのだ。それが高良の「運命」なのだ。

 高良にとっての「間」は戦争が深くかかわっている。高良の過去と今との「間」には「戦争」がある。「戦争」は「魔」であるといってしまえば簡単だが、「魔」と呼んだ瞬間にあいまいになるものも含んでいる。ひとりひとりに「魔」がどんなふうにかかわったかということが、全体の悲劇のなかで見えにくくなる。
 そのことを高良は恐れていると思う。
 「戦争」全体を語るのではなく、高良自身に即して語る。常に一本の「蔓」として「間」と「魔」、それがまた「真」にかわる瞬間のことを語ろうとしている。「詩」を選んでいる理由はそこにあると思う。



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高良留美子『崖下の道』(その2)

2006-11-14 14:34:10 | 詩集
 高良留美子崖下の道』(思潮社、2006年10月31日発行)。(その2)
 「わたし」が存在するとき、「わたし」と「わたし以外のもの」のあいだ、「間」が存在する。そしてその「間」は、「魔」であり、また「真」でもある。そのことを意識しながら、表題作「崖下の道」を読み返してみる。

その崖下の道を通るとき
彼女はいつも
十歳の少女に戻っていなければならない
その崖下の道を通るとき

あたかも彼女の生が
その歳(とし)で止まってしまったかのように
彼女が決して
十歳より上になることなどなかったかのように

深い渓谷に沿ってのびるその道が
十歳を超えた彼女を見ることを望まないかのように
あたかも彼女の生がその年に
運命の手に捉えられてしまったかのように

あの夏に十歳であったものは
いまも十歳でなければならないかのように
それ以上に成長しようとすれば
何かが壊れてしまうかのように

その崖下の道を通るとき
彼女はいつも
十歳の少女に戻っていなければならない
その崖下の道を通るとき

 「彼女」は今十歳ではない。その「彼女」が「十歳の少女」を思い出すとき、二人のあいだに「間」がある。その「間」はそのままにしておいてはいけない。そのままにしておけば、そこから「魔」が出現してくる。そういうことが「真」として存在する。「魔」を出現させないために、「彼女」は何をしなければならないか。「間」を消してしまわなければならない。今生きている「彼女」でなくて、「十歳の少女」にもどることで、「彼女」と「十歳の少女」の「間」を消してしまう。ないものにする。そうすれば「魔」は出現して来ない。--これが「彼女」(高良)が信じている「思想」、「真」と信じていることである。
 「崖下の道」で何があったのか。高良は具体的には書いていない。書いていないけれど、そこではかつて「魔」が出没したのだ。そして、その「魔」は「十歳の少女」ではない誰か、一緒にいただれかによって消し去られたのである。今、「魔」が存在しないのは、かつてだれかが消し去ったからであり、その消し去りがあるから、「彼女」は今、ここにこうして生きている。そのことを深く自覚する。「真」があるとしたら、だれかが「少女」の目の前に出現した「魔」を消し去ったということであり、そのことを忘れないために、「彼女」は「十歳の少女」に戻らなければならないのである。それが「魔」を消してくれた人に対する唯一の返礼の仕方だからである。「魔」を消してくれた人を忘れない、というのが「彼女」(高良)の「思想」でもある。
 「十歳の少女」のときではないが、「彼女」(高良)には忘れられない記憶がある。「北安(ベーアン)で」。

 ハルビンへ逃げる途中、河岸までたどり着いたとき、ソ連兵が一行をとりかこんだ。数人が銃をかまえ、ロシア語で「女を出せ」という。女たちはみな男装していた。ソ連兵はすぐ踏み込んできて、一人ひとり調べはじめるだろう。彼女は数え年十六歳だった。顔を伏せていたが、体のふるえが止まらなかった。
 そのときひとりの女が進み出て、いった。「わたしが行く。」一行に混じっていた商売女といわれる女たちの一人だ。すると何人かの女がかたわらに立った。
 「姐(ねえ)さんをひとりで行かせるわけにはいかない。わたしたちも行く。」
 彼女たちはソ連兵に引き立てられて去っていった。

 侵略戦争に敗れ、引き上げる「彼女」を含む一行。その前にあらわれたソ連兵。その「間」に「女を出せ」という「魔」の声が響く。「魔」が出現したことがあった。「魔」の前で「彼女」はふるえているしかなかった。そのとき、「魔」を消してくれた人がいる。商売女といわれるひとたち。彼女たちが「魔」とともに消え去った。自分を犠牲にすることで「魔」を消してくれた。それがそのときの「真実(真)」である。
 その「真」を「彼女」は忘れてはならない。その「真」を彼女は、ことばにして残していかなければならない。そのために、「彼女」は北安の町へ旅したのだった。
 侵略戦争が終わってすでに60年以上たつ。今とそのときとのあいだ、「間」は遠く広がってしまった。かつて何があったのか、そのとき「彼女」の目の前にどんな「魔」が出現し、またどんな「真」が出現したのか。その「真」をどうやって引き継いで行くか。そのことを「彼女」は考えている。
 「真」を引き継ぐこと、「真」を語ること--それは「魔」の出現を防ぐ唯一の方法だからである。
 戦争を放棄した人間が受け入れなければならない「運命」があるとしたら、それは「魔」に蹂躙されることではなく、「魔」を出現させないために、「魔」を消すためにおのれを犠牲にした人がいたということを語り続けること、語りながら、悲しみを「真」にかえることである。
 「魔」が「真」にかわったとき、その年に、「彼女」は「崖下の道」に書かれているように、確かに「運命の手に捉えられてしまった」のである。「魔」を「真」に変えた一瞬、そういう人々のことをかたりつづけなければならないという「運命」の手に。そして、その「運命」の手にとらえられたまま高良は詩を書く。その「運命」に身を投げ出す--それが高良の「思想」である。

 「運命」に身を投げ出している--そういう潔さがあるからだろう。高良の文体は清潔である。余分なことを書いていない。余分なことを書けば「魔」が侵入してくるとでもいうかのように、彼女の肉体にぴったりとくっついているものだけを、「真」と呼ぶに値する事実だけを書いている。

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高良留美子『崖下の道』(その1)

2006-11-13 22:49:52 | 詩集
 高良留美子崖下の道』(思潮社、2006年10月31日発行)。(その1)
 高良がこの詩集でつきつめようとしている問題は「間」である。たとえば私とあなたの「間」に何があるか。「狭い海」。

その女の子はすこし変わった形の右手をもっていた
(それだけで この国では一つの運命を荷うのに充分だ)
その子がわたしの方へ泳いできたとき
わたしは手をさしのべた
顔に疲れが出はじめていて
右手がわたしの手に一番近かったのに
その子は右手で水を掻き
左手でわたしの手につかまった
わたしが手をひっこめると思ったのだろうか
わたしがだじろぐと?
わたしは眼をそらして笑ったが
そのときのことを忘れない
その子がもし右手でつかまったら
わたしの手の筋肉は
少しも緊張しなかっただろうか
わたしの眼の端には
少しのたじろぎも現れなかったろうか
わたしには断言できない 断言できないが……
きっと少女はそれを感じるのがいやだったのだ
それを疑うのが

あのときわたしたちの間にあったのは
少女の右手がむなしく搔いた海だった
あの海の幅は狭かったけれど
いまわたしはあの海を越えて
少女の右手をつかまえにいくことができるだろうか
海の幅はほんとうに狭く
少女のからだは沈みかけていて
眼は助けを求めているかもしれないのに

 「わたしたちの間にあったのは」何か。高良は「少女の右手がむなしく搔いた海だった」と目に見えるものを提示しているが、もちろんその「間」にあったのは海だけではない。目に見えないもの、ことばにできないものが、そこにはあった。
 このことばにできないものを、高良はできうるかぎりことばにしようと努める。それが1連目に書かれている「逡巡」である。ただし、高良は「断言できない」と断っている。「断言できない」のは「わたし」のこころに起きたことと、少女のこころに起きたことの両方である。両方であるからこそ「断言できない 断言できないが……」と2回繰り返されている。
 「断言できない」と断りながら、それをことばにしようとする誠実さ、真摯さが、高良のことばを清潔なものにしている。
 そこから「祈り」のようなものが生まれている。わたしを「間」にさしだそうとする何かが生まれている。わたしを何かに、今までのわたしではないものに変えてしまわなければ「間」はとりかえしのつかないものになるかもしれないと感じるこころが、切実に伝わってくる。

 私たちは人と接するが、そのとき私たちは、私とあなたの「間」にあるものをとおして接している。それはたとえば「少女の右手」、そしてその右手に対するこころの揺らぎ。わかっているようでわかっていな何か、正直に語ろうとすればするほど、あいまいなもの、正確ではないものが増えてくる何か。
 そこに「思想」がある。正確に書こうとすればするほど正確ではなくなるもの、常に疑念を呼び込むもの、そんなふうに疑念を積み重ねるしかないもののなかに、あるいは疑念を積み重ねることのなかにこそ「思想」がある。
 いつか、私たちは、その「思想」を自分の肉体で実現しなければならない。その「思想」に自分の肉体を投げ出し、自分が自分でなくなってもいいと覚悟し、何かをしなければならない。
 それができるか。
 できるかどうかわからない。
 その不安を高良は、とても正直にことばにしている。「できるだろうか」と自問している。その正直さにも私は「思想」を感じる。「できるだろうか」という自問は、できるかどうかわからないと言ってしまうのに等しい。そう発言するとき、その発言に対して、どんな批判がかえってくるかわからない。その批判は高良を傷つけるかもしれない。しかし、高良は傷ついてもかまわないと覚悟して、できるかどうかわからない、できるだろうか、と自分自身を疑っている。
 「思想」は自分をいつわらぬことから始まり、常に自分自身への疑問の形でうごめく。



 人と人との「間」。「間」を「あいだ」ではなく「ま」と呼べば、それは「魔」にもなる。人と人との間にあるものは不確実なものである。不確かなものである。少女にさしのべた手のように、具体的なもの、たとえば肉体であっても、それは不確かなものになる。こころが不確かだからである。
 「魔」は不気味である。人間の力がおよばない何かである。さしのべた手は、たじろげは、少女をみはなす手に一瞬のうちにかわってしまう。そのとき手は救いではなく絶望にかわってしまうだろう。だからこそ、不確かではあってもそれを「信じる」ということも起きる。ただひたすら信じて身を任せるということも起きる。
 「狭い海」の少女にさしのべられた手--それは善意の手であるが、その善意であっても「逡巡」がある。「魔」と呼ぶべき「暗い部分」がある。「暗い部分」がありながら、それでもそれを見ないようにして(?)、人間は「善意」を信じる。そうやって生きている。信じれば「魔」が「真」になることを、自分の味方をしてくれることを私たちは体験的に知っているのかもしれない。信じたものだけが実現するということを体験的に知っているのかもしれない。
 確かに「魔」は信じる力によって「真」にかわることがあるのだ。「魔」さえもが信じる力に迷って「魔」ではいられなくなるのかもしれない。
 「魔力」は、そういう不思議な力について書かれた作品である。

“軟弱外交”の担い手 幣原喜重郎は
敗戦の日 電車のなかで
当局を呪う“野に叫ぶ”民の声を聞いた
そして組閣の大命を受けたその年の十月
戦争放棄の考えがかれの頭を訪れたのだ
幣原はのちになって書いている
「それは一種の魔力とでもいうか
見えざる力が私の頭を支配したのであった」と
昭和二十二年一月二十四日のマッカーサー元帥との会談で
戦争放棄の条項を憲法に入れることを提案したのは
幣原であったとのちにマッカーサーも証言している

 幣原と民の「間」にあったもの。それは「呪い」である。幣原を呪う「魔」である。そして、その「魔」が「戦争放棄」という考えを幣原にもたらした。幣原が自らの力で考えたのではなく、国民の呪いが「魔力」(見えざる力)として働いて、その考えを幣原にもたらしたのである。
 それは「魔」のささやきである。「魔」のささやきであるけれど、幣原が「ささやき」に形を与え、具体的なことばにしたとき、それは幣原を「呪い」から救い出した。国民は幣原を「呪う」ことをやめ、幣原のことばに身を投げ出した。国民が全身でしではらのことばを信じたとき、「戦争放棄」ということばは「真」へ転化した。平和を築くための土台になった。
 高良は、こういう転化を肯定している。こういう転化をことばのなかで実現したいと願っているのだと思う。わたしとあなたの間にはさまざまなことばがある。そのなかから、どのことばを選び出し、定着させるか。それよって世界はかわりうるのだ。

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映画「隠された記憶」について(再び)

2006-11-13 21:10:14 | 映画

「隠された記憶」については、7月11日、
http://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/6c751bf496d3a2b91140594730e800c2
で書いた。
いろいろなブログを見ていて気がついたことがあるので、少し書き加えておきたい。
たとえば、
http://eigajigoku.at.webry.info/200605/article_3.html
の筆者「瓶詰めの映画地獄」さんは次のように書いている。

この映画、フライヤーや劇場予告篇などにもあるとおり、
“ラストカットに全世界が震撼”というのがひとつのウリになっているハズなんだけど、
あのラストカットのいったいどこに震撼すればよかったのか、
恥ずかしながら、正直ボクにはまるでわからなかった。
話によると、あの大学の玄関前の風景のなかに、
盗撮犯の正体につながるような何かが映っているらしかったんだけれど、
ボクはてっきり学生の集団の前に上からボトンと人が落ちてくるものとばかり思っていたので、
身構えているうちにまんまと見過ごしてしまったようだ。

私は、この反応はごく普通のことだと思う。
ラストシーンで主人公の息子と父親の知人の息子が親しげに話しているシーンがあり、そのことから2人が犯人ということらしい。そのことが「震撼」の理由らしい。
これは非常にふざけた話である。
2人が犯人なら犯人でかまわないが、こういう「辻褄合わせ」(後出しじゃんけん)のようなものに「震撼」してしまっては映画の面白みはない。
2人が犯人なら、もっと明確に二人の姿を映しだすべきだし、2人が会っているという伏線を明確に映像として先に提出しておかなければならない。
伏線も何もなしに、突然2人の姿を、群衆のなかでとらえ、2人が犯人というのでは観客をなめきっている。

もし、「震撼」すべきことがあるとすれば、その2人が会っているという最後の映像を誰が撮っているかということにこそ「震撼」すべきである。
主人公の家に送られてきたビデオと同じように、固定したカメラが2人をとらえている。それは犯人である2人が撮ったものではない。ということは、2人を「犯人」に仕立て上げようとしている人間が存在するということである。
それは、誰か。
監督である。脚本家である。カメラマンである。つまり、映画制作者である。
2人は監督によって犯人にでっちあげられている。「辻褄合わせ」(後出しじゃんけん)と私が批判する理由はここにある。
何もかもが監督の思いのまま、監督の辻褄合わせだけで犯人がでっちあげられる。そういう映画の作り方にこそ私たちは「震撼」しなければならない。
また、そうしたでっち上げをうたい文句にして映画を売り込む方法にこそ「震撼」しなければならない。

この映画が魅力的なところは、主人公の過去がしだいに主人公自身によって暴き出されところである。送りつけられてきたビデオが主人公の隠し続けていたものを誘い出すのであるが、あくまでそれは誘いだしであって、実際に暴くのは主人公自身である。
主人公が自分自身の秘密と向き合う。隠しておきたいものを隠しきれなくなる。人間には、そういう瞬間が来るのだ。
たとえば、ギュンター・グラスが「ナチスにいた」と告白しなければならないような、劇的な一瞬が。
そういうことを考えながら、もし、ほんとうに「震撼」すべき何かがあるとするなら、最後の2人の姿を手がかりに「震撼」すべき何かがあると仮定し、そこから「答え」を導き出すならば、ビデオは主人公自身がカメラを据えつけ撮影したもの、ということになるだろう。
自分の過去のいかがわしい部分、それを隠しきれず、つまり誰かに語ることによって、その重みを分担したいと願い、その分担してくれる人に語りかけるために、主人公自身が全てを企んだのだと考えるべきだろう。
ラストシーンを撮ったのが監督ではなく、それまでのビデオを撮った人間がやはり同じようにして隠し撮りしているのだと仮定したとき、そうした隠し撮りをできるのは主人公しかいない。主人公が2人を「犯人」にでっちあげることで、自分自身の過去を明るみに出すしかなかった責任を「犯人」に押しつけているのである。
自分自身の過去を清算するために、過去の告白を迫る「犯人」さえもでっちあげる人間がいる--それは確かに「震撼」すべきことではある。

しかし、書きながら、こんなことを書いても映画の批評にはならないなあ、と思ってしまう。
私の書いたことは「映像の論理」ではなく、「ことばの論理」である。
映画には少しも触れていないのだ。

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小林茂『幽界より』

2006-11-12 23:02:01 | 詩集
 小林茂『幽界より』(書肆山田、2006年11月10日発行)。
 表題作「幽界より」におもしろい繰り返しがある。

その夢とは
さりげない合図のような
すごく儚い思いやりのような
言の葉にのこる葉末の雫のような
何気なく交わした指切りのような
心の裏に秘め隠した けもののようなもので

 「ような」が繰り返される。
 詩において「ような(ようだ)」は一般に直喩と呼ばれる技法である。ある存在を別の存在の「ようだ」と書くことで、先行する存在に何らかのイメージを与える。それによって存在がよりくっきりと伝わる。
 ところがこの作品では「ような」が繰り返されることで、イメージがひとつに収斂されるのではなく、逆に何がなんだかわからないものになる。「合図」「思いやり」「雫」「指切り」「けもの」。さらにそれぞれに修飾語がついている。そんなものが統一されたイメージなどあるだろうか。私には見当がつかない。私にわかるのは、それら「合図」「思いやり」「雫」「指切り」「けもの」がけっして重ならないということだけである。重なり合わないものを含んでいる。それらは繰り返されることで、それらのあいだに重なり合わないもの、「ずれ」を抱え込んでいるということだけである。
 そして、これは小林においても同じなのである。
 「ような」の繰り返しは、イメージを収斂するためにあるのではなく、「ずれ」を浮かび上がらせるためにある。何かを明確に伝えるためにあるのではなく、何かを「ずれ」を含んだとらえがたいものにするためにつかわれている。直喩とは逆のことが、この詩では「ような」をつかっておこなわれているのである。

あなたがいて ぼくがいて
あなたの夢があって ぼくの夢があって
その夢が なんとも不都合に ずれてしまうのだ
おまけに 時間までもが 具合悪く
ずれてしまうとは

 「ずれ」が存在することを浮かび上がらせるために、「ような」を繰り返す。「ような」を繰り返した分だけ「ずれ」が増えていく。

あなたがいて ぼくがいて
あなたの夢があって ぼくの夢があって
その夢が なんとも不都合に ずれてしまうのだ
おまけに 時間までもが 具合悪く
ずれてしまうとは
ぼくはそれを
一つに重ね合わせなくてはならない
もしかすると
それがぼくの使命なのかもしれない

でも
努力すれば するほど
夢がずれ 時間がずれ 空間がずれ

 ここに書いてあることは一種の「矛盾」である。「ような」を繰り返せば繰り返すほど(つまり「努力すれば するほど」)、「ずれ」は増えるのはあたりまえである。一つに重なることなどない。「ずれ」を減らし、一つに重なるためには、努力は「ような」を繰り返すのではなく、一回限りにすることが必要なのだ。だが、小林は、それを繰り返す。繰り返すことで、一つに重ね合わせようとする。徒労である。(引用した行のすぐあとに、「徒労」ということばが出てくる)。--そして、それが「矛盾」であるからこそ、ここに小林の「思想」がある。こどはになろうとしてもがいているもの、ことばになりきれない生々しい「思想」がある。

 「夢」の「ずれ」につづけて、小林は「時間」「空間」の「ずれ」に言及している。「時間」を含めた世界を4次元、空間を3次元と呼んだりする。「ずれ」を、小林は「次元」ということばでとらえ直してもいる。同じ作品の「Ⅲ」の部分。

玄のそのまた玄の
更に奥深いところでは
どうやら
次元が二つか三つ余計にあるらしい
幽玄とはよくいったもので
じつに微妙なところだが
ぼくはその朧でかすかに見える
深いところで
次元に迷ってしまった
うっかり 一つふみはずすと
まったく異なる次元に入ってしまうのだ

 「まったく異なる次元」とは「まったくずれた世界」のことである。
 「あなた」と「ぼく」のあいだには、複数の「ずれ」がある。それは複数の「次元」があるということだ。何かを明確にしようとして、たとえば「ような」をつかって説明する。声明すればするほど、複数の「次元」(ずれ)が存在することが浮かび上がり、ひとは迷うしかない。「Ⅲ」の最終連。

次元から次元へ
際限もなく続く迷い道に
ぼくは くたくたに疲れ果て
もはや
人界も遠く
仙界も遠く
まなこ 縹渺として
ただよい ながれ
ゆきつくはてもない

 そうしたものを世界、現実ととらえる。そうしたとらえかたが小林の「思想」である。「詩」である。
 「徒労」と小林は書いていたが、その「徒労」を生きることが、「幽界」につながる。単純な「次元」ではなく、複数の「次元」を自在にわたりあること、固定された「次元」を揺さぶり続けるものとして「幽界」があるということだろう。
 世界をゆさぶるものとして、たとえば「桃源郷」というものがある。「幽界」のひとつといえるかもしれない。その「桃源郷」を描写した部分に、ただ、「ずれ」だけが増幅する描写がでてくる。

その周り一面見えるものといったらそれこそ桃の木ばかり、そここそにごく微妙なずれを伴った時間・空間のなかで、見渡す限り白に紅に色とりどりの桃の花がこぼれるように咲き乱れ、遠い彼方は霧のように仄かに霞み、そこにただよう桃の魂の結晶体とでもいったものが、再編成されながら宇宙に向かってきらめくように翳り、就中あの大きな桃の樹ときたらあたかも天女の舞い昇るような姿でそそり立ち、そのあでやかな美しさは、それこそ神の業とでも称してしかるべく、……

 「ずれ」の増幅が、小林の「思想」である。「世界」をとらえる方法である。

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ジャレッド・ヘス監督「ナチョ・リブレ」

2006-11-12 21:43:37 | 映画
監督 ジャレッド・ヘス 出演 ジャック・ブラック

 「スクール・オブ・ロック」で主演だったジャック・ブラックが活躍する。この役者は目が真剣である。そこがいい。そして、見苦しい肉体が、また、実にいい。
 ずんぐりした身長、でっ腹に短足をさらけだして、主役が動き回る。映画は実話だというが、そういうことを吹っ飛ばしてしまう。つまり、実話という感じがしなくなる。「マンガ」になってしまう。ばかな男の、滑稽な夢という、この感じがとてもいい。実話だと感動しなくてはいけないというような、変な義務感(?)のようなものが生まれる。主役が美形で、肉体も理想的ならなおさらそう思うかもしれない。たとえば「シンデレラマン」--感動しなければいけない、という気持ちにだんだんなってきませんか? ところが、主役の男がどう見ても「マンガ」なので、感情移入しなくていい。突き放して見ることができる。実話なのに解放感がある。
 あらゆるシーンが、現実だと思って見るな。「マンガ」だ。「マンガ」なんだぞ、と突き放している。役者の演技も同じである。主役も脇役も、みんな戯画化されている。オーバーアクションの連続である。
 そのなかで、唯一、主役のジャック・ブラックの目だけが真剣である。目だけが「現実」を演じている。その真剣さが、あらゆる「マンガ」を統一して、時間を動かしていく。全体としては「マンガ」なのに、この男にとっては「マンガ」ではないのだ、切実な現実であり、必死の夢なのだという雰囲気をつくっていく。
 そしてクライマックス。
 最後のプロレスのシーンだけが「マンガ」ではなく、「現実」になる。肉体が真剣に動く。目と肉体が一致する。彼が生きているのは「夢」ではなく、「現実」である。「現実」は常に「夢」に勝つものである。「現実」だからこそ、そのなかで実現しなければならないことがある。--そのリアルな気持ちが肉体を支配する。
 特に、最後の最後、ジャック・ブラックが場外のレスラーに飛び掛かっていくときの顔のアップ。スポーツをしている、肉体をつかって闘っているという顔そのものになる。
 映画にとって「現実」は一瞬だけ再現されればそれで充分なのである。あとは「マンガ」であっても「嘘」であってもいい。役者が役者を超越して、リアルな肉体になる。その一瞬が映像として定着されていれば、それはいい映画だ。
 最後の最後のフライングで、私は「ナチョ」という役を見ているのか、ジャック・ブラックを見ているのかわからなくなったが、こういう一瞬、役にすぎないのに、役者の肉体そのものが、役を突き破ってスクリーンに定着する一瞬が大好きだ。

 この映画を作り上げているのは、ストーリーでも映像技術でもない。これはジャック・ブラックの演技、それも見苦しい肉体が最後の一瞬、醜さを超越する肉体に変わる演技が、この作品を映画にしている。

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于堅「一匹の蝶が雨季に死んだ」

2006-11-11 15:25:10 | 詩(雑誌・同人誌)
 于堅「一匹の蝶が雨季に死んだ」(「現代詩手帖」11月号、田原訳)。
 「中国現代詩特集」の一片。イメージの動き方に「詩」を感じる。行と行の飛躍に詩を感じる。こころが凝縮しながら、同時に一気に拡大していく感じが同居している。とても刺激的である。

一匹の蝶が雨季に死んだ
昼間 彼女がひとり地下鉄を飛び抜けるのを見て
日が暮れる前に家に着けるかどうか心配したのに
その死は青色の稲妻に囲まれて
金色の柔毛の昆虫 光と青空のダンス・パートナーは
強い雷雨の中泥水の中へ蹴り込まれた
そのとき 木の葉たちはしっかりと幹を抱き 目を閉じ
星々は暗闇の水に溺れ死んだ
その死は夏の感傷と憂鬱の日々を
さらに九月まで長引かせた
一匹の蝶が雨季に死んだ
それはたいしたことではない
私は早朝あの水溜まりを通りかかった時
美しいかけらを見た
小さな死が突然私の心に命中した
私は思い出す 雷雨が暴行を加えた昨夜
ごろごろという巨大な響きの外に座り
一匹の蝶を悼んだことを

 「それはたいしたことではない」。唐突にあらわれる1行が世界を攪拌する。「一匹の蝶が雨季に死んだ」そのことが「たいしたことではない」なのか。あるいは雷雨が蝶を泥水の中へ蹴りこんだことが「たいしたことではない」のか。蝶の死を木々が悼み、星がなげいたことが「たいしたことではない」のか。感傷と憂鬱が九月までつづいたことが「たいしたことではない」のか。
 誰にとって「たいしたことではない」のか。
 世界にとって、宇宙にとって、という意味だろうか。私は、作者にとって、たいしたことではない、という意味でこの詩を読んだ。
 蝶が雷雨に打たれて雨季に死ぬ--それは詩人にとって「たいしたことではない」。「たいしたことではない」はずなのに、それが、ふいに「心」をとらえる。「心に命中する」。
 そのとき「心」は「心」のままではない。一気に宇宙へと広がっていく。雷雨になって蝶を泥水の中へ蹴飛ばし、同時にそれを目撃する木になってしまう。木々の葉になって幹をしっかり抱き締める。まるで人間が何もすることができなくて、悲しみのなかで自分のからだを両手で抱き締めるように。また、遠い遠い星になって、蝶とともに泥水の中に身を投げる。--こうした動きの全てが「思い出す」ことの中にある。
 「こころ」が私の肉体から離れ、宇宙の全体とすっぽり呑み込む。
 「ごろごろという巨大な響きの外に座り」の「外」とは、「わたしという宇宙、心の把握する宇宙」が現実の宇宙より拾いからだ。こころは、そこまで拡大していくことができる。



 「心」ということば。そこに于堅の「思想」がある。詩はこころの動きを書いている。わざわざ「心」ということばをつかわなくても、読者は「心」を補って読むものだ。先に引用した作品の

小さな死が突然私の心に命中した

 その「心」は他の詩人なら書かないかもしれない。「心」と書かずに「肉体」(たとえば、「肉眼」あるいは「網膜」)と書くかもしれない。なかには「頭脳」とか「神経」とか書く詩人もいるかもしれない。
 しかし、于堅はそういうことばではなく、「心」ということばをつかわずにはいられないのだと思う。「心」ということばをつかわずには「詩」が成立しないのだと思う。
 「長い旅の途上」にも「心」ということばが出てくる。そしてその「心」も、私なら、たぶん書かない「心」、省略してしまうことばである。荒野を旅していて、遠くに灯火をみかける。そのときの様子。

それらの黄色い小さな星は
闇夜の大地を
暖かくて親しみのあるものに見せる
私は車を止めて
心からそれらを追いかけて行きたい

 「心から」。普通に書けば「心底」ということだろうか、と一瞬思うが、どうも違う。「心底」それらを追いかけて行きたいのなら「車を止めて」が矛盾するとまでは言わないが、車を止めなくてもいけるはずである。なぜ、車を止めて、追いかけなければならないのか。。
 于堅が追いかけて行きたいと思っているものは車では追いかけてゆけないものなのである。人一緒に車に乗ったままでは追いかけてゆけないものなのである。「車を止めて」は正確には、「車を降りて」であろう。車を降りて、ひとりで追いかけて行きたい。
 「こころ」は于堅にあっては「ひとり」ということと同義のことばに思える。
 「ひとりの人間」、無防備な、肩書も何もない裸の状態の人間、宇宙に投げ出されたままの、誕生したままの人間。それが「心」なのである。
 「一匹の蝶が雨季に死んだ」の「小さな死が突然私の心に命中した」は「私」という「ひとりの人間」の「ひとり」という状態に命中したという意味であろう。
 無防備な「ひとり」とは、何にでもなりうる「ひとり」でもある。「ひとり」であるということは、誰も于堅の行動を妨げない、自由という意味でもある。そういう状態で、たとえば于堅は稲妻になる、泥水になる、木々になる、星になる、そうして宇宙になる。宇宙になって、そのなかで一匹の死を体験し、またその死を悼むすべての存在の思いを追体験する。

 心とは宇宙が生成する現場である--于堅の「心」ということばに触れ、そんなことを考えた。
 目撃したもの、体験したことを書きながら、それが「過去」として目の前にあらわれてくるのではなく、今、ここで変化しながら動いているものとして立ち上がってくるのは、そこに「生成する心」があるからだと思う。


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指田一「接見」

2006-11-10 23:55:26 | 詩(雑誌・同人誌)
 指田一「接見」(「詩文学」156、2006年11月01日発行)。
 万引きした老婆に警備員が「嘘はダメだよ」と諭しているのをテレビで見ている。それを見ながら指田が考える。テレビの中のできごとを見ながら指田が考えはじめる。その行き来がとてもおもしろい。2連目。

話した事が全てです 泣き声になってきた 信じて貰えないんですね ビデオに撮っておくんだった(映像への盲信) どう説明すればいいの(言葉の不備への躓き) 私と相手のどっちの言う事を信じるんですか(これは言っても始まらない) そんなこんなで身体は泣き声(この時の身体は言葉から遠く離れていた)(感情に支配されていた)(言葉から離れても感情 特に攻撃と防御の感情は生じた)

 ふっと動く指田のことば。深く考えたことばというより、テレビを見ながらふっと思いついたことを、思いついたままことばにしているのだと思うが、そのふっと思いついた動きが、明確な批判をめざしていない分だけ自由に動きまわり、その自由な感じができごとを立体化している。見えているものに「立体的な構造」をしのびこませる。そして、そのときの「立体的構造」をつくっているもののなかに指田の「思想」が見えてくる。

そんなこんなで身体は泣き声(この時の身体は言葉から遠く離れていた)

 ここに書かれた「身体」「声」「言葉」の関係がおもしろい。指田は、ことばと身体は結びついて存在することもあるけれど、結びつかずに存在することもあると見ている。そのとき、では身体は何と結びついているのか。

(感情に支配されていた)

 「感情」である。
 これは論理としてもおもしろい(納得がゆく)が、それよりも、そうした考えを積み重ねていく時の指田のことばの動きそのものが、より刺激的である。
 (感情に支配されていた)は(この時の身体は言葉から遠く離れていた)と同じ括弧のなかではなく、別の括弧をつかって独立させて、指田はこのことばを書いている。一種の、飛躍、断絶をわざと浮かび上がらせている。そして、その飛躍、断絶とは逆にといえばいいのだろうか、このとき、「身体は」という主語は省略されている。省略されることで、「身体は」と書き表わした時よりも深く結びついている。まるで飛躍、断絶がないかのように、強い強い結びつきが文脈そのもののなかに生まれている。
 省略してしまうのは、その主語が指田にとって自明すぎるからである。切っても切れない意識の流れ、文脈が指田にとって明白だからである。人は自分にとって自明なこと、自明すぎることは省略してしまう。この自明すぎて省略してしまうものにこそ、「思想」はある。
 この作品のなかにつかわれていることばを借りていえば「嘘」とは反対のものがある。「思想」とは「嘘」の対極にあるものである。いつでも捨てられるものが「嘘」であり、決して捨てることができないものが「思想」である。
 「嘘」は意識してつくものである。論理を意識してつくりあげていくのもが「嘘」である。本当のことは、特に本人にとって明確すぎる真実は、たいてい省略される。わかっているからことばにしなくていいというよりも、そういうわかりきったことのためにことばをつかうくらいなら、もっと他のことがいえるはずだと思ってしまうのかもしれない。
 (感情に支配されていた)は(この時の身体は言葉から遠く離れており、感情に支配されていた)と書いてしまうと、しかし、またまったく違ったものになってしまう。ことばのスピードが、あるいは粘着力が違ったものになってしまう。どうしても

(この時の身体は言葉から遠く離れていた)(感情に支配されていた)

 と別々の括弧の中に入れて、なおかつ2度目の括弧のなかでは「身体は」という主語は省略されなければならない。省略しなければならないところに指田の「思想」がある。
 省略することで、「身体は」という意識が無意識のなかで強くなると同時に、一種の飛躍が可能になる。飛躍する、いわばスピードに乗って、いままで考えていたことと違った次元へと突入する。そういうことが起きる。

(言葉から離れても感情 特に攻撃と防御の感情は生じた)

 この括弧内の「主語」は何か。「身体は」では意味がねじれてしまう。「身体」に関係しているけれど「身体は」とは言えない何かが省略されている。
 「生じた」はどこに生じたのか、という具合に考えると指田の考えていることが少し見えてくる気がする。たぶん「身体に」生じた、という意味であろう。「身体は」という主語は「身体に」という補語にかわっている。この変化のために、(感情に支配されていた)では「身体は」という主語は省略されなければならなかったとも言える。
 「身体は」が「身体に」という具合に、「身体」が主語になったり補語になったりするのは、身体を超越する「主語」がどこかにあるからだ。「言葉」「感情」「身体」を超越する「主語」、あるいはそれらを統合する「主語」。--それは、「人間」ということかもしれない。全ては「人間の身体」「人間の感情」「人間の言葉」である。
 「人間は」というのが隠された主語である。「人間は」という意識が常に指田のなかにある。切っても切れない思いとしてある。そこから指田のことばは自然に動いてゆく。

(言葉から離れても感情 特に攻撃と防御の感情は生じた)

 人間の感情は、特に攻撃、防御の本能のようなものは、ことばがない場所でも生まれてくる。ことばの論理(意味の正当性)など無視して、唐突に人間のなかで姿を明確にする。肉体をつかって、ただむき出しの乱暴さで立ち上がってくる。それはことばにならないゆえに、「嘘」から遠いものを明確にする。それが「人間」というものである。
 指田が明確にしているのは、その感情が正しいかどうかではなく、感情には「嘘」がないということである。感情は「嘘」から遠いということである。「言葉」や「論理」には「嘘」がありうるが「感情」には「嘘」はありえない。人間は、その「嘘」のないものを肉体で具体化して生きている。

 --という結論が、では指田の言いたかったことなのか。書きたかったことなのか。
 長々と書きながら、私はそうではないと感じている。そういう「意味」のかたまりではなく、そういう意味が立ち上がってくる時の「構造」のようなものを指田は書きたかったのだと思う。
 人間には身体があり、ことばがあり、感情がある。それがどんなふうにして人間を動かしているのか。どんな構造になっているのか。あるとき「主語」は省略され、突然「補語」にかわったりする。そういう自在な(いいかげんな?)構造が人間の内部にあり、その自在さゆえに、人間は他の人間と、ことばや論理を超えて結びつき、納得し合う。
 身体(肉体)はことばを隠し、感情を隠し、同時に伝える。しかし、肉体は隠せない。肉体を通じて人は人を認識する。肉体をとおして、ことばの本当の意味も、感情も認識する。
 一方、人間は、ある人間を見なかったことにする(たとえば、万引きを見なかったことにする)ということができる。わかっているのにわからなかったことにする。そう判断する時、人間は実は、何かとても大事なものに触れている。
 真実に触れている。
 人間が見えないということはありえないけれど、人間を見なかったことにするということは、しょっちゅう起きている。その見なかったことにするときの人間のありよう、そこに指田は「思想」を発見しており、それがどういうものであるかを「身体」「言葉」「感情」の立体的構造のなかで少しずつ描いているのだと思う。「身体は」という主語から「身体に」という補語への変化、その隠された動き(表面には出さない動き)のなかに、指田の「思想」が存在すると思う。


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ジェイソン・ライトマン監督「サンキュー・スモーキング」

2006-11-10 23:51:29 | 映画
監督 ジェイソン・ライトマン 出演 アーロン・エッカート、マリア・ベロ、キャメロン・ブライト

 たばこ業界のスポークスマンが主人公。巧みな話術と情報操作でたばこを擁護し続けるコメディ。--と書いてしまえば、もう書くことは何もないのだが、おもしろいのは「話術」というよりも、この映画のなかにたばこを吸うシーンが出てこないということだ。
 たばこの害を否定するスポークスマンがたばこを吸わない。たばこ業界のトップもたばこを吸わない。たばこを吸わないで、たばこの害をのみ否定する。このたばこを吸う映像の欠如こそがこの映画の本当の痛烈なたばこへの批判である。
 したがって、(というような感想の書き方は堅苦しすぎるかもしれないが……)、この映画のテーマは、本当は「たばこ批判」ではない。とても映画にはなりにくいもの、ことば批判、特にディベート批判がこの映画のテーマだろう。
 途中に主人公が銃業界のスポークスマン、アルコール業界のスポークスマンと愚痴をこぼしあうシーンがある。そのなかで死者の数を自慢(?)しあう。死者の数はたばこがいちばん多い。銃もアルコールも統計的にはたばこにはおよばない。だから、自分がいちばんつらい仕事をしている。いわばいちばん嘘つきの仕事、いちばん攻撃される仕事にたずさわっている、と自慢する。ふたりは一瞬、どう反論していいのかわからなくなる。この、相手を一瞬どう反論していいのかわからなくさせることがディベートのコツなのである。(こういうシーンは何度か繰り返される)。
 死者の数だけでは、たとえば銃の場合、暴力の問題が省略されている。アルコールの場合、判断力の問題が省略されている。ことばはいつでも「省略」によって何かをごまかすことがある。これは何を付加するかということで何を隠蔽するかという問題とも密接につながっている。
 ディベートでいちばん省略されているのは、どういう論理が論理として正しいかという検証である。人(観客、大衆)は「論理」を見ない。見るのは「誰が困惑したか」ということだけである。「困惑」した方が負けである。人は何か正しいか知りたいというよりも、何かに味方して「勝利」を味わいたい、あるいは「敗北」する人間を見物したい。「敗北」する人間を大笑いしたい。
 「敗北」した方も、論理的に敗北したわけではないから、「笑い者になった」ということが問題になるだけである。こういうことは映画のなかでそれなりに描かれてはいるけれど、ちょっと物足りない。
 映画には向かないテーマだけれど、それを映画にしようとしたということだけは、まあ、評価に値するかもしれない。舞台の方がおもしろかったかなあ、と思う。舞台の方が、ことばと肉体の分離(乖離)が直接的に伝わってくると思う。こんなばかげたことを人間が言うということが直接的に伝わってくると思う。



 映画を少し離れて……。
 「非核三原則」をめぐる問題、「タウンミーティング」のやらせの問題を、映画を見ながらちょっと考えた。
 「非核三原則についての議論まで封じるのはいかがなものか(言論の自由に反する)」という意見は、まるで高校生のディベートの安直な主張のようである。国民(観客、大衆)を自民党はばかにしている、見くびっているのかと思うと恐ろしくなる。
 「非核三原則というが、実際に北朝鮮が核を開発し、ミサイル攻撃してきたとき、どうするのか」と言うけれど、それは「非核三原則」の問題ではなく、国防の問題である。国をどうやって守るかということから議論をはじめて、その仮定で具体的に北朝鮮の問題が出てくる、核の問題がでてくるというのと、いきなり非核三原則に対する議論が必要だというのでは論理が違う。「非核三原則」論議が必要だという主張が省略しているものは何なのか。その「省略」のなかにこそ、自民党の「思想」がある。「思想」はしばしば見えない形(隠されたまま)で押し広げられる。
 「非核三原則」は被爆国の絶対に譲れない一線であるだろう。それを前提として、ではどんな国防の在り方が可能なのか、それを追求していくのが国会議員の仕事だろう。前提を放棄するだけではなく、何かを隠したまま、「議論は自由だ」「議論を封じてはいけない」というのは、ごまかしである。それこそ、本来の「非核三原則を維持したまま、何ができるか」という議論を圧殺するものだろう。

 ことばの力がなくなっている。ことばの力が衰えている、と感じてしまう。
 「小学生から英語を」というのも、ことばの力を身につけさせないための政策かなあ、と思ってしまう。
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池田俊晴「いすいのことは」、白鳥信也「魚が飛んでいる」

2006-11-09 16:54:06 | 詩集
 池田俊晴「いすいのことは」(「フットスタンプ」第13号、2006年11月01日発行)。
 ことばを追いかけて詩人はどこまで行くことができるか。池田はそのことを試みている。「いすいのことは」の第1連。

ふいに
ことばが「来る」
消えようとする
一語一語区切られた音の
(いすいのことは)
なぜそのことばが「来る」のか
その音が来ようとするのか
ぼくにはわからない

 「いすい」は「遣水」「異水」「●水」(●はサンズイに胃)、「ことは」は「事は」「ことば」「古都は」なのかと池田は思いめぐらす。そういうときの状況を

運ばれてくる
音韻は脱落している
意味へと辿りつかない
発せられるまえに錯乱する
撓んだ音管を行き来する

 とても興味をそそられるけれど、のめりこむことができない。池田がのめりこんでいるようには私の意識は動いて行かない。
 たぶん「いすい」にしろ「ことは」にしろ、池田が簡単に「漢字」に置き換え、そうすることで「意味」に置き換えようとしているからだと思う。「音」と「漢字」の隔たりが簡単に結びつけられてしまっているからだと思う。「音」あるいは「ひらがな」には「意味」がない。「漢字」は「表意文字」であり、「意味」を含んでいる。そして、池田は「意味」に頼ることが性急すぎると思う。
 その性急さは「コード」「シグナル」「回路」などのことばを呼び込む。
 この性急さに、たぶん、私はどこかで拒絶反応のようなものを起こしてしまう。もちろんこれは池田のせいではなく、私の体質なのだが。
 そういうことばに頼るのではなく、たとえば、

乾いた
咽喉のずうっと奥の
吹き出してくる清音に絡まる
(ことは)という出来事の
音の
その内向する音の
背を丸めて辿ろうとする
夢のなかへ後退する

 というような、肉体の動きが描かれていれば印象は違っていたと思う。
 肉体は「意味」ではなく、「意味」に異議をとなえる存在であると私は感じている。「頭ではわかっているが、からだがついていかない」という表現があるが、からだがついていかないのは、からだのなにかが「頭」に対して「異議」をとなえているのだろうと私は感じている。そのとき、私は「頭」ではなく「からだ」の声の方が信じられると感じる人間である。
 「音」が「意味」を拒みながら、肉体のなかをどう動いていったかを読みたかったと思ってしまうのである。

乾いた
咽喉のずうっと奥の
吹き出してくる清音に絡まる

 というような行をもっともっと丁寧に描いてくれれば、この作品は、「意味」を拒絶した、あるいは超越した「意味」、つまり「詩」になったと思う。
 「詩」にならずに、では、この作品は何になったか。
 「●水」(●はサンズイに胃)が象徴しているように、今、こことは遠い、歴史の中の中国、つまり完全に「頭のなか」のできごと、空想、知的ゲームになってしまった。
 もちろん知的ゲームとしての詩もあると思う。思うけれど、もし狙いがそういうものであるなら、もっと知をばらまいて広大な歴史地図を描かないとおもしろくないだろうと思う。
 ことばを追いかけながら、結局、どこへも行ってしまわなかった池田が、その「頭」が取り残されている、という印象が残った。もっと過激に、もっと過剰に、もっと肉体的に、という思いが残った。おもしろくなりそうなのに、とても中途半端なものをみせられて、欲求不満だけが残った。



 白鳥信也「魚が飛んでいる」(「フットスタンプ」13)。
 魚といっても本物の魚ではない。ビニールでつくった魚が強風にあおられ、風船のようにふくらんで飛んでいる。

あんなふうに飛んでみよう
ビニールの魚になって
ビニールの魚になって
すうっと
すうっと
急に止まる
尾びれが痛い
風邪はビニールの魚になった俺を運ぼうとする
俺であるビニールの魚も風に乗りたいのに
ばたばたと風にあおられて俺がふるえている
ふりかえって見れば
細いチェーンで尾びれとコンクリート床がつながっている
机の上にいつも置かれているパソコンディスプレーと
キーボードのように
いつもこうなのだいつもこうなのだいつもこうなのだ

 「いつもこうなのだいつもこうなのだいつもこうなのだ」。この3回の繰り返しがいい。3回の繰り返しのなかに「詩」がある。「意味」だけ考えれば「いつもこうなのだ」は1回であろうが3回であろうが同じである。頭で考えればまったくかわらない。ところが「詩」を読むというのは「頭」だけで読むのではなく、肉体もつかって読んでしまうことなので、「いつもこうなのだ」が1回と3回ではからだのなかにたまってくる「こばにならないもの」の量が圧倒的に違う。
 白鳥のこの作品には、「いつもこうなのだ」のほかにも繰り返しがある。「ビニールの魚になって」「すうっと」は2回繰り返されている。「いつもこうなのだ」の繰り返しと違うのは繰り返しの回数だけではなく、その表記方法も違っている。「ビニールの魚になって」「すうっと」とそれぞれ行を改めて繰り返されている。「いつもこうなのだ」は1行のなかで繰り返されている。この違いにも私は「詩」を感じる。
 私は詩を朗読はしない。しかし、この詩を朗読したと仮定しよう。そして、それぞれの1行を同じ時間(たとえば1行3秒)で読んだと仮定しよう。(同じ時間で、と断るのは、詩が行わけの形で書かれているとき、その1行1行は長さに関係なく詩人のなかでは等価の重みをもっていると私は判断しているからだ。)
 「ビニールの魚になって」は普通に読めば2秒。「すうっと」は0・5秒。それを5秒かけて読むと、息の配分がゆったりするのがわかる。「すうっと」は「すうっと」であると同時にゆったりと、広々と、非常に開放された感じ、深呼吸でもしている感じがする。ビニールの魚を実ながら白鳥が感じているのはこのゆったり、ひろびろ、自由な感じなのだなあ、と実感できる。
 「いつもこうなのだ」は3秒で読むには、ちょっと「早口言葉」ふうにがんばらないといけない。「すうっと」とは対照的に、いらいらとした感じ、むかむかした感じを何かにぶつけるふうな怒りがないと3秒では読みきれない。声にならない。
 詩の1行1行を、詩人は(白鳥を含め、多くの詩人は)どれくらい気を配りながら「わけて」あるいは「わけずに」書いているのか知らないが、そこには無意識の「呼吸」、無意識の「肉体」というものが必然的にあらわれてくる。白鳥の「いつもこうなのだ」の3回繰り返しには、そうした肉体が明確に描き出されている。こうした肉体が感じられたとき、「詩」が身近になる。
 ああ、そうだよなあ、そうなんだよなあ、というのは感情や精神(頭)ではなく、肉体の反応のような気がする。


コメント (3)
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