詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

チアン・チアルイ監督「雲南の少女 ルオマの初恋」

2007-09-17 21:01:11 | 映画
監督 チアン・チアルイ 出演 リー・ミン、ヤン・チーカン

 朝、少女が目を覚ます。戸をあけて庭に立つ。カメラは家の内部から少女の姿と、その向こうの棚田を映し出す。不思議な遠近感である。カメラはあとで棚田の全景を映し出すが、それはたいへんな広さをもっている。よく、こんなにも美しい棚田を維持しつづけているのものだと、ただただその風景に感動する。映画のなかで起きている少女の恋を忘れてしまうほど、その風景は美しい。棚田にみなぎる水が、空を、その村の空気の透明さをそのまま映し出して、静かに静かに広がっている。こんな美しい風景を、なぜ、冒頭で、わざわざ家のなかから、しかも戸口の暗い輪郭のなかに閉じ込めるような遠景でとらえるのか。予告編で、棚田の美しさを見ていただけに、この冒頭の棚田の紹介の仕方には心底驚かされた。なぜ? なぜ、こんな不思議な、まるでホウ・シャオシェンの遠近感のような映像を映し出すのか。
 この理由は徐々にわかってくる。
 海抜二千メートル、ハニ族の村。棚田の美しさを見るために世界から観光客がやってくる。--だが、その美しさは、少女にとっては「美しさ」ではない。あくまで家のなかからつづいている風景なのである。お婆さんと二人暮らしの、質素な生活。村で採れるトウモロコシやその他の野菜の質素な生活。つましく積み上げてきた生活。それと棚田は地つづきなのである。棚田は、きのうきょうできたものではない。村人たちが共同して長い年月をかけてつくりあげてきたものである。そこでは協同して田植えがおこなわれる。収穫も協同して行われるだろう。たがいに自分のできることをする。そういうことが「自然」にまでなってしまって、その結果としての棚田がある。それは、いわばこころの外の風景ではなく、ハニ族のこころそのものの美しさであり、また少女自身のこころの美しさでもある。
 外から見れば「美しい」。けれど、その「美しさ」は少女が意識しているものではない。少女の内面、こころの美しさ、意識しない美しさなのである。こころが、そのまま外へ出て行ったとき、それが美しく見えるだけのことであり、それは少女には意識することのできないものなのである。
 この家と(村と)少女と棚田(美しさ)の関係は、棚田の風景そのものではなく、少女の美しさそのものについても言える。少女はたいへん美しい。観光客がみな少女といっしょに写真を撮りたいと思うほど美しい。だが、少女は彼女自身の美しさを意識していない。無垢なこころ、おばあさんを大切に思い、村の老人を大切に思い、そして子牛をかわいいとだけ思っている無垢なこころの美しさが、彼女の顔を輝かせていることを知らない。意識していない。
 少女は棚田を美しいと思ってやってくる観光客、そしてその観光客を相手に商売をする青年をとおして棚田は美しいのだと知る。同時に、少女を美しいという観光客、そういう観光客と少女を結びつけて商売をする青年をとおして、自分は美しいのだと知る。
 少女はまだ見たことのない都会を美しいと感じている。エレベーターを美しいと感じている。それと同じように、ハニ族の村の外の人たちは棚田を美しいと感じ、少女を美しいと感じていることを知る。
 ここから少女が少しずつ変わる。美しさを意識させてくれた青年にこころが少しずつ動いてゆく。朝、目を覚まして庭へ少女が出るように、少女のこころのなかから新しい少女が外へ出てくる。冒頭のシーンが、このとき、はじめて意味を持ってくる。少女は少女であることに目覚める。棚田と家(こころのありか)の間に歩みだす。少女は、目の前に広がる棚田を越えて、遠い遠い都会へ行くこともできる。また逆にひっそりと家のなかへ引き返すこともできる。そういう世界のありかたを冒頭のシーンは象徴していたのである。
 映画は、その冒頭の象徴するシーンそのもののなかへ収斂して行く。それは悲しい。悲しいけれど、とても美しい。少女はあいかわらず棚田の村にいる。少女と出会った青年は、遠い遠い都会より、さらに遠い世界へ行ってしまった。しかし、その青年は少女と出会うことでその遠い世界へ旅立つことができた。そういう形で結晶する「愛」というものもあるのだ。
 高い高い山の上に広がる棚田。千枚田というより、万枚田といった方がいいくらいの広がり。その美しさ。それに触れて、誰かがいままで知らなかった世界へ歩みだすことがあるかもしれない。それはもちろんハニ族の村に、そして少女に何かをもたらすということはないかもしれない。だが、そういう形で結晶する何かがあるのだ。
 少女は、いま、それを受け止め、受け入れている。
 あらゆる「人事」は、ハニ族のつくりあげてきた棚田、自然となってしまった棚田のなかに、ゆるやかに溶け込んで行く。通りすぎる雨、吹きすぎる風となって、それもひとつの自然となる。そういうものを自然にしてしまうほど、ハニ族の棚田は美しく、大きい。人の暮らしは、こんなにも豊かでありうるのだ。失恋も、悲恋も、こんなに豊かで美しくありうるのだ。


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北川朱実「ラジオ体操の朝」

2007-09-16 10:11:29 | 詩集
 北川朱実「ラジオ体操の朝」(「石の詩」68、2007年09月20日発行)
 抒情詩はむずかしい。読むのもむずかしいが、書くのもむずかしい。北川の詩は、私は3連目が非常に好きだ。悲しくて、切なくて、抒情詩、抒情というものがあるとしたら、こんな行にある、と感じる。
 その1-3連。

踏み切りを渡ったとたん
なにかとても大事だったことが
どうでもよくなった

伊藤組の前で
ニッカズボンをはいた男たちが
五、六人
ボリームをあげて
ラジオ体操をしている

誰のものでもない夜明けの空を
ひとりぶんずつ与えられて

 「ひとりぶん」の空を感じるために、伊藤組に入ってラジオ体操がしたくなる。体がぶつからない距離で誰かがいる。そんな間近に人がいるのに、空はちゃんと「ひとりぶんずつ与えられている」。うれしくて、悲しい。この悲しいは「愛(かな)しい」かもしれない。それを愛するしかない悲しさ。そこに何か自分のものがあるということ、それを生きるということ。そういう「愛しさ」。
 「大事」だったこと、用事がどうでもよくなる。その「ひとりぶん」の空の下では。肉体がある。肉体が動く。そして、それを「ひとりぶん」の空が見つめている。もちろん空が見つめるというのは、人が空を見つめるので、その反作用(1)のような力で見つめるのだが、そこには一種の交感がある。たがいに見つめあ。そして、ひとりであること。「ひとりぶん」の空であることを知る。
 「ひとり」を感じる時間はいろいろあるだろうが、「朝」こめ「ひとり」を感じるのにふさわしい時間かもしれない。
 北川の詩は、その後、いくつかの連をはさんで、次のように終わる。

それから
人の物語がはじまる前の
すこし膨らんだ地球を
ゆっくりと手で回す

 世の中はしだいに目を覚まし、「人の物語」をつくりはじめる。朝は、まだその「物語がない」。だから「ひとり」なのだ。
 --と書いたとたんに、私は、この詩がつまらなく感じる。
 ちょっと聞き飽きた。そう思ってしまう。
 「人の物語」「はじまる」「すこし」「ふくらんだ」「ゆっくり」「手」。どこにも新しいことばがない。そのことに苛立ちを覚える。なぜ、こんな形に美しく収斂してしまうのだろうと、その収斂の「技術」に苛立ちを覚える。美しくあることに苛立ちを覚える。抒情が、抒情まみれになってしまった、と感じてしまうのである。

 もしこの詩が3連で終わっていたらどうだろうか。
 中途半端だろうか。北川の思いが十分表現されていないだろうか。たぶん、北川自身はそう感じるのだろうと思う。3連だけでは、たんに目撃したことがらのスケッチに過ぎないと感じるのかもしれない。スケッチは、それに対応する「思想」を書くことで奥行きのある現実になる--そう考えるのかもしれない。
 たしかにそうなのかもしれない。

 しかし「ひとりぶん」の空と「男」が、空を見あげ、空から見下ろされ、交感するのように、何かをスケッチするとき、北川と対象は何らかの「交感」をしているのではないだろうか。その「交感」の美しさは、そこに「思想」をつけくわえない方が「誰のものでもない」ことばとなって、ことばそのものとなってゆくのではないだろうか。そんなふうに、作者の手からも離れていってしまうことばの力が「詩」ではないだろうか。

 ことばは、作者が、自分の方へ引き寄せたり、引き止めたりしては死んでしまうものではないだろうか。
 --そんなことを考えた。
 
 (私は、この作品は3連目までで完成していると思う。したがって、4連目以降は引用しないので--最終連は引用してしまったが--、「石の詩」で読んでみてください。)
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小長谷清実「眺めていた日」

2007-09-15 11:16:23 | 詩(雑誌・同人誌)
 小長谷清実「眺めていた日」(「交野が原」63、2007年10月01日発行)
 小長谷の詩にはいつも不思議な音楽がある。音の繰り返しがつくりだす習慣性(?)というのだろうか、いまのことばをもう一度声に出して読んでみたいという気持ちにさせられる行がある。

かくて あるやなきやの窓を開け
開けたつもりで
あけがたの広場を眺めていた

 「あ」と「か行」の繰り返しなのだが、この作品の一番の成功(?)は「かくて」ということばをつかったことだろう。「か」という音をここにもってきたことだろう。
 というのも……。

浅くなったり 深くなったり
時に中空に跳ね上がったり
(フィルムが もうすでに
疲れ切っているせいなのか)
わたしが登場するシーンは
今日も足場があやふやである
(もう いくらかは
慣れきっているけれど)
かくて あるやなきやの窓を開け
開けたつもりで
あけがたの広場を眺めていた

 これがこの作品の1連目であるが、よく読むと「かくて」がわからない。「かくて」って、どういう意味? 「かくて」って「こうして」という意味ではなかったっけ? 「こうして」の「こう」は何?
 何が何だかわからないのだが「かくて」からはじまる「か行」と「あ」の繰り返しが、「どういう意味?」という論理を飲み込んでゆく。そんなこと、どうだっていいじゃないか、という気持ちになる。ここは「か行」と「あ」の繰り返しによる音を楽しめばいいのである。
 ただし、音といっても、それは「耳」で聞く音ではない。口蓋、のど、舌で聞く音だ。発音するときの肉体の部分が連動して聞く音だ。口の開き加減を調整して「あいうえお」と「K」を組み合わせる。「あけがた」の「が」は私は鼻濁音で読む。「ながめていた」の「が」も鼻濁音で読む。口蓋、のど、舌と書いたけれど、ほんとうは鼻でも聞いていることになる。
 この肉体が連動して音をつくりだしていくときの何かがとても気持ちがいい。肉体の内部にまでなにかがおりてくる。その感じが好きなのである。
 この感覚は、「ことばには意味がある」ということを忘れさせてくれる。「意味」(センス)を無意味(ナンセンス)に変えてしまう。ナンセンスの空間で、そのとき意味がではなく、肉体が解放される。その感じが、私は好きである。

 これはちょっとモーツァルトに似ている。モーツァルトの音楽にも「意味」はあるのだろうけれど、音楽の門外漢の私には「意味」は感じられない。ただ、その音の繰り返しが肉体を解放してくれくるということだけが、モーツァルトが好きな理由だ。しつこいくらい繰り返される音。その音がだんだん体のなかへおりてきて、こりかたまったものを解きほぐし、体の外へ出してくれる。
 小長谷のことば、その音も同じである。

 少し不平を書けば、「広場」という音を何とかしてほしかった。どういう「代案」があるかと問われれば、私には答えることはできないのだが。
 もっともこれは私だけが感じる特殊事情かもしれない。私は私の住んでいる地方で発音される「は行」は私には聞き取れない。特に「は」の「H」が聞き取れない。「浜本」「天本」は私には何時いても区別がつかない。私は「は行」の音が、そういう事情があって嫌いになっているのかもしれない。
 そういう次第で、この作品は、好きだけれど、嫌い、という不思議な印象とともに私の前にある。それを私は「眺めている」。何日か「眺めていた」。と書いてくると、なんだか「そういう次第で」が小長谷の書いた「かくて」にも似てくるようで、とても変な気持ちだ。


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河瀬直美監督「殯( もがり) の森」

2007-09-14 08:03:35 | 映画
監督 河瀬直美 出演 うだしげき、尾野真千子

 田の緑、畑の緑、山の緑。これは同じようであって、地方によって少しずつ違う。河瀬直美は奈良の緑にこだわっている。冒頭の山のシーンはおだやかでやさしい。緑は乱暴に暴れ回ることはない。風を受けてゆっくりと葉を揺らしている。葬儀の列のシーンも同じ。白くたなびく旗からはかなりの風を感じるが田んぼの緑は思いの外静かである。
 静かに人間を受け止めてくれる--それが河瀬直美の自然である。緑である。
 人間とは緑(自然)の関係が「やさしさ」に象徴されるのは茶畑のシーンだ。痴呆症(?)の老人と介護の女性が隠れん坊と鬼ごっこのあわさった遊びをする。
 茶畑の整然とした列。手入れされた緑。その緑のかげに人はもちろん隠れることができる。しかし、それは「神隠し」のように人を消しはしない。ちょっと背伸びをすれば必ず見つかる。緑は人間を受け入れ、遊ばせてくれる。遊びをとおしていのちを蘇らせてくれる。
 老人と女性は、二人とも最愛の人を亡くし(老人は妻を、女性は息子を亡くし)、失意に沈んでいるが、この鬼ごっこで、笑いを取り戻す。動き回る肉体のよろこびを取り戻す。
 このシーンは、「殯( もがり) の森」で繰り返される。
 老人は逃げながら女性を森の奥へ奥へと誘い込む。そこではたしかに肉体は苦悩し、披露する。激しい雨が降り、谷川の水は鉄砲水となる。しかし、それは自然が人間を非常にたたきのめし、殺すというところまではいかない。困惑させ、泣きわめかせるが、あくまで人間の、人間同士の関係を改善させるもの、人間関係を回復させる「試練」に過ぎない。発熱さえも、人間の自然の力を試すものに過ぎない。
 弱いはずの老人が、泣きわめく女性に触れて、人間の強さを取り戻す。介護される側が介護する側に回る。そして野宿では、もう一度老人が弱い人間になり、それを女性が介護する。裸になって(自然になって)、その自然の温もりで老人をすっぽりつつむ。人間の本来の力、自然の力を、人間を裸にして(無防備の状態にして)、そこから回復させるのが、河瀬直美の自然だ。
 人間は弱いときもあれば強いときもある。だから助け合う。頼りにし合う。そういう「愛」がある。そういう「愛」の力を二人は回復し、それを手助けするのが、河瀬直美の緑、河瀬直美の山、河瀬直美の自然だ。そこは一種の聖域であり、その聖域は「やさしい」ということが基本にある。
 老人と女性は、その森で、死んだ人を忘れる必要はない、死んだ人をずーっとずーっと永遠に愛していてもいいのだ、ということを実感する。
 亡くなった人のことは忘れて、もっと自分を大切に、前向きに生きて行きなさい--というようなありきたりな慰めではなく、ただずーっとずーっと愛し続けることは、それはそれで一つの生き方なのだ、とこの映画はつげる。木のように、山の奥に繁る大きな木のように、そこにとどまり、ただ亡くなった人のことを大切に思い続けて生きていてもいいのである。
 そして、そのような愛の形は奈良の山、奈良の緑にふさわしい。
 どこかへ出ていくことはない。風が吹けば風に葉を裏返し、挨拶する。その挨拶に、日の光はやさしく反射する。そういう宇宙がある。そういう宇宙の静かな力を、人間の内部に取り戻すのを助けてくれる--それが、奈良の山、奈良の緑だ。

 ああ、こんな静かな緑があるのか。こんなやさしい緑があるのか。つくづくそう思った。
 自然は非情だし、その非情なところがとてもいい、とこれまで思っていたが、この映画を見て、静かでおだやかな緑もいいものだと思った。激しい季節風、雪、あるいは台風、過酷な高温ということも、奈良にはないのかもしれない。そうしたおだやかさ、静かさが育てた緑とともに河瀬直美のこころは育ったのだと思った。
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小杉元一「瞑想するテロリスト」

2007-09-13 10:21:12 | 詩(雑誌・同人誌)
 小杉元一「瞑想するテロリスト」(「ESO」13、2007年08月31日発行)
 ときどき好きで好きでたまらない、という1行に出会うことがある。たとえば小杉の詩の2連目。

おとこは下穿きを洗う手を止め
痛い手を下げながら
声を上げる
静かに水はそこで改行し

 「しずかに水はそこで改行し」。「改行」ということば。それがこんなふうにつかわれるとは思いもしなかったが、実は、私の驚きはその「改行」というつかい方そのものに対する感動ではない。
 きのう9月12日の「日経新聞」のコラム「春秋」に「共感覚」のことが短く紹介されていた。黒いインクで印刷された数字の5が緑に見える。半音高いドの音を聞くと青い色が見える--というような、感覚のリンクのことを「共感覚」というらしい。
 うまくいえないが、それに似た感じだ。
 「静かに水はそこで改行し」という1行に触れた瞬間、私は不思議な音を聞いた。透明な音楽を聴いた。それがCかGか、ということはわからない。透明な音がすーっと頭の中を横切って行き、世界が晴れわたった。
 小杉がこの1行で何を言いたかったのか、何を伝えたかったのか--そういうことはまったく考えず、ただ、その瞬間に聞こえてきた音に、ことばの音ではなく、抽象的な、それこそバイオリンでも、ピアノでもなく、そういう「物体」に触れていない「音」(沈黙の奏でる音)にこころがひかれた。
 「意味」「内容」などまったく関係がない。

 こういうことがときどき私には起きる。

 詩を読みながら、実は詩を読んでいない。「意味」を読んでいない。「内容」を読んでいない。
 ほんとうは説明できないものにひきずられて、ある作品を「好き」と感じ、ある作品を「嫌い」と感じる。そして「好き」と感じて繰り返し読んでいて、ようやく「意味」とか「内容」に出会う。「一目惚れ」したあと徐々に相手のことを理解しはじめるのに似ている。「一目惚れ」に理由がない。それと同じように、詩のある1行を好きになるのに理由はない。嫌いになるのにも理由はない。強いて言えば、小杉の1行に「音楽」を感じたように、ことばを読んだ瞬間、音楽を感じるものが私は好きなのだと思う。

 小杉の詩の感想をつづけるなら……。といっても、ほかに実は書くことがないというのが正直なところなのだが……。
 その1行で聞いた「音楽」がつづかない。「音」の気配はするのだが、「音」にまでいたっていない行がつづく。そうすると、なんだか気が滅入るのである。さっきの「音楽」は私だけに聞こえて、小杉には聞こえないものなのか。私だけが感動し、小杉は自分自身の書いた行に感動していないのか、と考えはじめてしまう。
 こういうことを、「つまらなくなる」と私は言っている。突然、詩がつまらなくなるのである。
 小杉にとっては、私の書いていることは理不尽なことにしか感じられないだろうと思う。この文章を読んでいる他の人にとってもそうかもしれない。そうと、うすうす(というより、はっきりと)感じながらも、私は小杉の1行に感動してしまった。でも、あとの行には感動しなかった、としか書けない。

 小杉には申し訳ないが、そういことがあるということを明確にしておきたくて、小杉の詩の一部だけをつかわせてもらった。


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海埜今日子「ゆび借景」

2007-09-12 10:24:51 | 詩(雑誌・同人誌)

 海埜今日子「ゆび借景」(「交野が原」63、2007年10月01日発行)
 きのう読んだ岩佐なをは「伝記」という構造を借りて、架空の人間を描いた。嘘、架空というのではないけれど、海埜今日子は「ゆび」というか肉体を借りながら、普通は見ることのできない現実を描く。今ある現実の「関節」を外し、その隙間に、いままで見えなかったものを誘い込む。詩には構築(岩佐の方法)と同時に解体(海埜の方法)とがある。(もちろん、その二つは相互に入り交じっているのだけれど。つまり構築一方、解体一方ということはなく、構築しつつ解体し、解体しつつ構築するのだけれど。)

指の庭がしきりとみちのかたちにぶれていた。はがれたくなったのかもしれなかった。

 「はがれたくなった」ということばが象徴的だが、いまある形を変更するのに、海埜は「はがす」(外すに通じる)という動詞を採用する。つけくわえるよりも、そこにあるものを取り除くのである。
 それは、普通に生活しているときの「意識構造」をはがすのに似ている。そして、そういうものを「はがす」とき、「意識構造」が閉じ込め、一つの形にしていたものが、ほどせ、なまなましく光る。皮膚をべろりとはがし、その内側にある血の滲んだ筋肉、内臓をさらけだすかのように。
 そこにあるものたちは、まだ「構造」をもっていない。いや、構造というのはあらゆる存在の内部から自然に発生してくるものだけれど、そういう自然発生では不気味な形になる。そういう不気味さ(他人と共有できないもの)を押しとどめるように「外部構造」の「枠」があるのだけれど、その「枠」をはがすと、「外部構造」からときはなたれたもの、「外部構造」をもっていないものが、生々しくうごめくのである。
 この「外部構造」をもっていないうごめき--それを海埜は「ひらがな」で書き留める。岩佐が「漢字」(漢文体)をつかって次々に「外部構造」をおしひろげ、そうすることで「内部空間」を自由にし、その「内部」に「異臭を放つ」ということを試みたのに対し、海埜は「外部構造」を「はがす」ことによって「内部」そのものを「外部」にしてしまう。うごめいているものを、「形」にとじこめずに、ただ動かしてしまう。
 海埜には、肉体の、いのちの、そのうごめきに対する畏れと信頼がある。そういうものに身を任せ、ことばを動かす。うごめく「ひらがな」は「漢字」のように「形」を安定させてくれないが、その不安定なうごめきこそが、あるいはうごめきをうごかせているいのちこそが海埜が信頼している何かなのだ。

指の庭がしきりとみちのかたちにぶれていた。はがれたくなったのかもしれなかった。かたくなったかしょをもりあがらせ、跡地としてのしゃだんをさがします。こんばんでしたね、ここからさきにゆけますか。よばわって、なるべくうねりにそうようにして。さすった手相は、かれらをうしなっていたが、はじまりにむけ、かさねてなげる、たどりたい。

 「漢字」ではなく「ひらがな」であること。一文字に一つの音。そこでは速度は拒まれている。飛躍は拒まれている。「さすって」(摩って)ということばが、これまた象徴的だが、そこは「触覚」の世界なのである。速度、飛躍、跳躍(これは大地を「離れること」)を拒んで、ひたすら「密着」しているものをたどる。
 「はがす」というのは「密着」を意識しつつ、その内部へと入り込むことである--というようなことを考えさせられてしまう。海埜は、たぶん、そういう「哲学」(思想)をこの詩のなかで探しているのだ。

はがれましたか、そとがわです。なぞったしゃへいに、とらわれたものがおちてゆく、そうしてまたかわくのだ。

 ここに、海埜の快感と苦悩がある。二つが入り混じり、運動がつづく。あらゆる哲学、思想は、常に動く。とまらない。自己否定を繰り返すことが唯一の行動である。

 読者が、いや、正確に私がと書くべきか。「ひらがな」は「漢字」を求める。読んだ「ひらがな」は頭の中で「漢字」に変わる。「そとがわ」は「外側」という意識にかわる。それは「そとがわ」が「外側」にかわいてしまうこと、血塗られていた「皮膚の内部」のすぐ外側に新しい皮膚(外部)ができてしまうことでもある。
 こうしたことは書いている海埜の意識の中でも起こることなのだろう。
 だからこそ繰り返すのだ。詩を書き続けるのだ。かわいてしまう内部の、その「外側」となったものを常に「はがし」つづけるのだ。はがしながら、外側と内側の隙間にはいりこみつづけるのだ。
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岩佐なを「黒舞茸」

2007-09-11 11:34:29 | 詩(雑誌・同人誌)
 岩佐なを「黒舞茸」(「交野が原」63、2007年10月01日発行)
 「黒舞茸」という架空の画家の、架空の伝記である。書き出しから嘘であることがすぐわかる。

青嵐尾六年、戦国燐寸連立浜に生まれる。(生まれていなかったという説もある)本名束間摺八。群青尾元年、離島画をまなんでいた従兄滅法不義之臣にしたがい上京し、ともに照明太子の魚卵堂時画塾に入門。

 年表(?)を**尾*年で統一し、嘘を強調している。こういう作品は、どこまでことばの調子を統一したまま嘘をつけるかが、おもしろいか、おもしろくないかの分かれ目である。尾→明太子→魚から、蛾→虫→変態とあからさまになってゆく過程がおもしろいし、最後はいつもの岩佐節という感じにまで高まっていく。

緑便尾三年には、第四十回ぐらい異形展に濃密な色彩表現による「わが腹ン中」を出品して特等席となり、注目をあびる。白狐尾六年、黄泉平坂に旅行。運よく帰国後、蛾国美術忍者養老院再興に同人として参画し、その第一回展に冥土旅行に取材した「いぬじに」二巻を出品した。琳派や軟便画(下画)はもとより、後期出鱈目派など北氷洋絵画からもまなんだこの時期の作品は豪放な筆致とにおいたつ色彩を特徴とし、蛾国画史の中でも異臭を放っている。

 嘘にだまされて、「異臭をはなっている」をそのまま読んでしまう。「異彩を放つ」が正しい(?)日本語だね。
 嘘を語っているのだから、そんなところで正しい日本語など守る必要もないのだけれど、嘘というのはところどころに「ほんとう」をいれていかないと嘘がつづかない。「束間摺八」だの「不義之臣」のなかにも「ほんとう」が含まれているけれど、まだまだ「観念」にあって、肉体にまでなっていない。
 「緑便尾三年」の「緑便」がきいているのだと思う。「緑便」は辞書にも載っている「正しい日本語」である。そして肉体とも深いつながりを持っている。こういうことばには人間誰しも弱い。ついつい引き込まれる、という意味である。そういうことばで引っ張っておいて、「異臭をはなっている」。
 「異臭を放つ」ということばはたしかに「正しい」のだけれど、歴史のなかで特にきわだっていることをあらわすことばではない。--そういうところへ、すばやく紛れ込ませ、そのあとすぐに終わってしまう手際も楽しい。

 一方、この詩を読みながら私は粒来哲蔵を思い出した。粒来の詩も一種の嘘を書いている。その嘘を書くのに、岩佐も粒来も一種の「漢文体」のような表現を利用している。(最近読んだ背負い瀬尾育生の詩も漢字を巧妙につかって読者の想像力を刺激していた。)漢字と想像力、特にそのスピードについて考えてみると何かおもしろいことが見つかるかもしれない。
 今回の岩佐の詩、粒来の詩などは、「和文」のしなやかな文体ではおもしろくないのかもしれない。漢文の現実を切り捨てながら飛躍する文体が、嘘にはむいているのかもしれない。
 読者が、これは何? と考え、ことばを出す前に、視線はつぎのことばで意識を引っ張ってゆく。そういうスピードが嘘の絶対条件かもしれない。

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須藤洋平「小指」

2007-09-10 10:18:49 | 詩(雑誌・同人誌)
 須藤洋平「小指」(「現代詩手帖」2007年09月号)
 短い作品である。全編引用する。

俺、ヤクザとかそんなんじゃないけど、小指って
やっぱあんまり要らねぇような気がするんだよな どう?

うーん、時代に逆行してどんどん退化してゆくだろうから
小指だけじゃなく順番は分かんないけど次々にさ、
指全部なくなっちゃうんだろうなぁ……
そして何だか分かんないけどまた一本ずつ生えてきたりしてな(笑い)
……
そうなるとやっぱ小指最初に生えてきそうな気がするなぁ

抒情詩人とか特にさ

 「口語」というか「しゃべり口調」で書かれているが、文体にゆるぎがない。散文を(たとえば小説を)しっかり読んでいる感じがする。詩よりも散文で文体を鍛え上げた人のように思われる。
 「やっぱあんまり要らねぇような気がするんだよな どう?」の「どう?」というのは、しっかりした文体意識があって、そのうえで日常会話の「肉体」の部分をしっかりおさえながらことばに取り込んだものだ。「小指だけじゃなく順番は分かんないけど次々にさ、」の語順、そして「読点(、)」の押さえの呼吸がとてもいい。散文意識がしっかりしていないと、こうした微妙な語順、読点は押えられない。
 これだけ明確な散文意識で詩を書くというのはたいへんなことだ。散文と詩の両方が見えている。
 須藤の作品は、この「小指」と同時に発表されている「波紋」の2篇しか知らないが、この詩人は、散文と詩、口語と書き言葉、という具合に、世の中をくっきりわけて見ることができるのだろう。はっきりわけて認識しながら、それを統合することもできる。
 これはちょっとつらいかなあ。
 世界の両側がくっきり見えるのはつらいかなあ。

そして何だか分かんないけどまた一本ずつ生えてきたりしてな(笑い)

 「(笑い)」、というのはほんとうの笑いではない。「あはは」「うふふ」「くすくす」という肉体の声ではない。「頭」の「声」、認識である。「どう?」やそのほかのことばの感じが「口語」(肉体)なのに、ここにだけ突然「頭の声」が出てくる。
 とても寂しい。とても悲しい。
 西脇順三郎ではないけれど、淋しい、ゆえにわれあり、といいたくなる、とんでもない寂しさがある。
 寂しさは「肉体」よりも「頭」に響いてくる。

 もうこうなると「肉体」へは帰れない。「……」という沈黙を挟み、「1行空き」を挟み、精神の力で詩を押えてしまうしかない。
 それがまた、寂しい。西脇みたいに「淋しい」と書いたほうかいいかな?



 「波紋」の最初の4行。

じゃあ悔しくて悔しくて仕方なかったんだね
よくここまで耐えたね、そして証明したいんだね
覚悟はある?
分かってる、そんな生半可な気持ちじゃないよね

 こうした行と、「小指」のことばをあわせて読むと、須藤は耳が飛び抜けていいことがわかる。「口語」をそのまましっかり耳で聞き取り、ことばに定着させ、そして同時に「頭の声」をことばにせずに、沈黙のなかで整理し続けている。
 「淋しさ」は、脳髄の作用である、ということがよくわかる。

 須藤の作品と西脇の作品は似ているわけではないが、急に西脇が読みたくなる--そういう作品である。

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平田俊子「『恋の山手線』二〇〇七系」

2007-09-09 09:15:30 | 詩(雑誌・同人誌)
 平田俊子「『恋の山手線』二〇〇七系」(「現代詩手帖」2007年09月号)
 とてもおもしろい。そして残念なことに、私は平田俊子のおもしろさを伝えることばを持っていない。この詩のおもしろさを浮き彫りにするには私は不適格である。それでもおもしろいと書かずにはいられない。

わたしの名前は駒込で
田端の隣に住んでいます
アパートの壁は薄いので
上野がくるとすぐわかります
不倫はいけないと思うのね
わたしは巣鴨に相談します
ほっときなさいよと巣鴨はいいます

 引用したのは2連目。

不倫はいけないと思うのね

 この「のね」がいいなあ。自分の考えなのに「不倫はいけないと思う」と言い切っていない。というか、それをいったん客観的(?)にしようとしている。思いを確認して、念押しをしている。その呼吸の「一拍」が絶妙なのだ。「一拍」おくことで、不思議なずれが生まれる。
 「不倫はいけないと思う」と「わたしは巣鴨に相談します」はつながっているのだが、直接つながっているわけではない。「駅」と「駅」を結び距離の間に線路があるように、「不倫はいけないと思う」と「わたしは巣鴨に相談します」の間には「のね」があるのだ。「のね」は線路なのだ。「わたし」の思いと「巣鴨」の思いはもちろん別のものである。それを直接つなげることはできない。だから、「わたし」の思いをいったん「のね」によって切り離し、まるで「わたし」の思いではないかのように、客観的な思いであるかのように装って、「巣鴨」に提出する。
 「巣鴨」答えは簡単。
 そんなもの、「線路」で結びつけるの、やめなさい。ほっときなさい。「上野」と「田端」(その間には複数の「駅」がある)が「くっついている」と思っているなら、それらにそう思わせておけばいいのである。「恋」というのは間にどんなものがあろうと、くっつくときはくっくつ。「不倫はいけない」というようなものを持ち込んでみてもなんにもならない。
 
 山手線の駅名が人間に置き換えられ、そのついでに(?)位置関係に置き換えられ、そのついでに、山手線の全部つながってぐるりと回ってしまう関係が「恋」の関係に置き換えられている。
 「恋」なんて、全部つながっている。誰かと誰かがくっついている。駅と駅とが線路によってくっついているのとかわりはない。そして、その駅と駅とを結んで行き来している何かと、「恋」を行き来している何かも、そんなに差はない。
 ぐるぐるまわって、めぐりめぐって、あらゆる差異をのみこんで「恋」というもののすべてが完成する。ひとつひとつの「恋」はそれぞれに「恋」だけれど、結局、くっついて、そのくっつきに焼き餅やいて、その焼き餅をやくということさえ、「恋」とは何かのなかに含まれてしまう。
 相談に乗るふりをして、自分を通り越して、相談相手が「恋人」とくっついてしまうなんてこともある。

そういえば
巣鴨は 以前は原宿でした
いつのまにか巣鴨になって
わたしの隣に住んでいました
巣鴨の 上野が好きなのです
じりじり上野に接近し
西日暮里か 日暮里か
あわよくば鴬谷の座をねらってるのです
どいつもこいつも油断がならない
上野のようなみにくい男の
どこがいいというのでしょう

 女は男に「恋」をするのではない。男も女に「恋」をするのではない。「恋」そのものに「恋」する。くっついていることに「恋」する。だから、どこかで「恋」を見れば、それを奪ってみたくなる。邪魔したくなる。そんなことは誰もが知っている。そして誰もが知っているけれど、知っているからといってそこからのがれることもできなければ、それをうまく乗りこなすこともできない。

不倫はいけないと思うのね

 せいぜいが、「のね」を繰り出し、それが「客観的」を装うことぐらいである。あるいは「同情」を誘い込むことくらいししかできない。でも、「のね」というような「客観」を装った思いには、誰も「同情」はしないなあ。

 とてもいい感じで、ふてぶてしい。若い女性には、こういうふてぶてしさ、ふてぶてしさの奥にあるさびしさは書けないだろうなあ、と思う。
 私はふてぶてしい人間というのはどうにも好きになれない感じがするのだけれど、平田は私のそばにいないから、平気で、平田のふてぶてしさが好き、と言える。
 変かな?


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山本博道『ダチュラの花咲く頃』(2)

2007-09-08 17:12:34 | 詩集
 山本博道『ダチュラの花咲く頃』(2)(書肆山田、2007年08月30日発行)
 3部構成のうちの2部(中央)は散文形式でできている。
 「金色の雨」の書き出し。

金色の寺院のそばの大木に咲いている白い花を眺めていた。頭はからっぽだった。それほど太陽の光はじりじりと熱く、強く、痛く、ぼくには眼や心に映るものなど、どうでもよくなってくるのだった。とにかく暑い。どれほどのペットボトルが華厳の滝で胃袋へ落ちただろう。

 文体に魅力を感じた。「使い込んだ声」ということばがあるが、「使い込んだ文体」という感じがする。長い間書き続けた筆が、自然に覚えた呼吸と艶のようなものがある。
 「どうでもよくなってくるのだった。とにかく暑い。」という部分の呼吸に、とくにそれを感じた。「どうでもよくなってくるのだった」という、どこをおさえていいかわからないような、だらーっとした感じを突き破って、「とにかく暑い」が噴出してくる。長い長い文章、「熱く、強く、痛く」というしつこい文章をつきやぶってことばが噴出してくる。そこに、肉体では制御できない感情の爆発、怒りのようなものを感じ、その強さが「艶」になっている。
 その直後の「華厳の滝」という比喩が、また、とてもとてもおもしろい。
 「過去」が突然噴出してきたことになるが、その「過去」と登場のさせ方が楽しい。芝居の中生登場人物が突然「過去」を語るのに似ている。「過去」があることで、「現在」がいきいきしてくる。つまり、こういうとき、「現在」は大きく揺れる。「現在」は「現在」のままでいられなくなる。
 2連目。

わが国では夾竹桃の仲間らしいが、寺院のそばの大木は一般にプルメリアと呼ばれ、テンプルツリー、パゴダツリー、ブッダツリー、インドソケイの別称がある。白のほかに赤や黄色のいい匂いの花をつける。幸せになれるかどうかはともかく、ひとはこれを花輪にして仏像に供え、祈りつづける。ぼくが見たかぎりの印象では、ひとびとの多くは質素な服装をしていて、祈りの顔にも精彩はなかった。

 夾竹桃がプルメリアに、プルメリアがテンプルツリーに。同じものが、同じ時間に別々の名前をもつのは、それがそれぞれ特別な「過去」をもっているからである。その過去は、いまでは誰もどういうものか気にしないが、たしかにものに名前があるということは、それをそう名づけるだけの「理由」が「過去」にあったことにある。
 夾竹桃もプルメリアもテンプルツリーもそれぞれに、そう呼ばれるだけの「過去」をもっている。その「過去」はとりたてて語られるわけではない。だが、いったんことばになってしまうと、そこに目には見えないけれど「衝突」が生まれる。
 そして、ことばはその衝突のエネルギーで先へ先へと進んで行く。
 ある目的、これが書きたいという目的があって、それに「奉仕」する形でことばが動くのではなく、「現在」に噴出してきた「過去」が時間を動かして、ことばが動いて行く。その動きを、山本はただ報告する。その「ただ報告する」ということのなかに、大きな人間としての豊かさがある。


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山本博道『ダチュラの花咲く頃』

2007-09-07 10:42:42 | 詩集

 山本博道『ダチュラの花咲く頃』(書肆山田、2007年08月30日発行)
 たくさんの「数字」が出てくる。たとえば「雨の日とその翌日」。

ぼくはくたびれた
全国には二十七万人の医師がいて
入院患者は百五十万人で外来患者は八百八十万人
公務員は五百四十万人いて火災は年間六万件起きている
そして失業者が四百万人以上もいるというのに
プロスポーツ選手が一万四千人もいる

 これが詩? 確かに詩なのだ。
 医師→入院患者→外来患者は一つながりの数字だ。しかし、公務員→火災件数→失業者→プロスポーツ選手は? つながらない。つながらないものを山本はつなげてゆく。しかも空想ではなく、現実にあるつながらないものをつなげてゆく。
 何によって?
 数字によって。
 数字が、同じ「数字」であることによって、あたかも何か関係があるかのようにつながってゆく。
 これはとても不思議である。

 「数字」の不思議さは、それを簡単に「頭」の中で復唱できることである。「二十七万人の医師」。その「二十七万人」という数字を「頭」は間違えることができない。間違えてもすぐ気がつく。
 「間違いのなさ」によって、これらの行はつながっているのだ。

 しかし実際に肉眼で二十七万人の医師にであったときはどうだろう。「二十七万人」という数を間違えずに数えられるかどうかわからない。さっきあった医師と今目の前にいる医師が別人が同じ人物か、それもあいまいになるかもしれない。肉体ではわからないことが多い。間違えてしまうことか多い。しかし「数字」は「頭」のなかでは間違えない。
 「頭」と「肉体」は、そんなふうに「ずれ」を抱え込んでいる。

 「間違いない」ことと、「間違えること」。
 その間を山本は進んで行く。
 2連目。

ゴッホもダリも本物は観たことがない
美術館はいつも雨の日のように混んでいる
だからショパンも家で聴く
本棚におさまりきらなくなった詩の本は
ひまをみて段ボール箱に詰めて行く
ふだんのぼくの一日は
アポリネールに会うことではじまる
ミラボー橋の舌を流れる遠いわれらの恋?
通勤時の水道橋を流れる濁った神田川だ
川の水が逆流する大雨の翌日は
東京湾からの潮の匂いがした
ときおり見かける白い鴎に
文具店の片隅が書店を兼ねていて
それだけでも夢が凋みそうだった
少年時代の海辺の街が浮かんで来る
ここはいったいどこだろう?

 「頭」と「肉体」のずれは、日常においてこそ、強烈になってゆく。ゴッホ、ダリ、ショパン、アポリネール……。「頭」が知っているものによって、山本の肉体はあっちへ引っ張られ、こっちへ引っ張られ、行方が定まらない。
 その定まらなさに悲しみが漂う。

ぼくはくたびれた

 疲労というのは、確かに「頭」と「肉体」が分離し、しかも完全に分離するわけではなく、常に「頭」が肉体を「正確さ」で締め上げるところからはじまる。そのことが山本の詩を読んでいると、悲しみといっしょに伝わって来る。
 抒情詩はこういうところへやってきたのだ。
 今年の傑作の一冊だと思った。


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大西規子『ときの雫ときの錘』

2007-09-06 09:06:08 | 詩(雑誌・同人誌)
 大西規子『ときの雫ときの錘』(思潮社、2007年08月20日発行)
 「パンドラの箱」という詩の2連目が不思議だ。

パンドラの箱を開けた日から
ふの形で一日が流れている
けれども大方の眼に映る
朝の風景は
ふをかくして
眩暈のように始まる

 「ふ」。2行目と5行目に出てくる。これは何?
 4連目まで読むと「ふ」がわかる。

真昼の街角で
負の人生とか
一生 歩だったとか
肩を丸めてあるいていく男の
背後から-とっても幸せ-と浴びせてやる
と どこからか
ふふふと笑い声が聞こえてくる
負負負なのか
不不不なのか
やがて
影の時間が還ってくる
ふの形をした想いが
現実と希望の間を
慈しむように漂いはじめる

 「ふ」は「負」にもなれば「不」「歩」でもある。「負」「不」だけではなく「歩」(将棋の駒だろう)という「比喩」が混じってくることろが、大西の特徴かもしれない。将棋では「歩」はもっとも非力なもの。このとき「歩」はそっくりそのまま「負」になる。けれども、「負ける」とわかっているものも、からなず存在する。「負ける」という役割を果たす。「歩」が「負ける」ことで、「勝ち」を呼び込む戦術がある。(捨て歩という戦術)。とはいうものの、その「価値」は、「歩のない将棋は負け将棋」といわれているわりには、そんなに高くはない。なにか一種の矛盾のようなものがある。
 その矛盾のようなものに刺激されて、

肩を丸めてあるいていく男の
背後から-とっても幸せ-と浴びせてやる

 という2行も存在している。
 「歩のない将棋は負け将棋と言ったってねえ」という気持ちと、どこかそういう人生を歩いている人間に身を寄せたい気持ちもあるようだ。ふんぎりがつかない。大西自身が「矛盾」を抱えているということだろう。
 こういう矛盾を抱えた部分が、私は好きだ。割り切れないものをかかえ、それでもその割り切れないものを何とかみつめてみたいという気持ちが、そこにはある。

 「ふ」という文字、「負」にでも「不」にでも、さらには「歩」にでも、(そしてもっとほかの「ふ」にでも)、なれるものがある。肉体が出会った瞬間には、それがまだ「負」「不」「歩」の区別がないもの。それをていねいに追って行く。断定せずに、揺れるがままに、どこへ行くのか追ってみる。
 そういうことろに大西のよさがある。

 1連目を読み返し、2連目と比較するとそのことがより鮮明になる。1連目。

反転の朝に向けて
しきりに闇が蓄えてるものは
不安とか不信とか
不確かなものばかりだ

 ここでは「ふ」は「不」という明確な概念をもっている。
 この概念を大西はいったん捨てる。それが2連目。「不」を「ふ」にかえることで、概念が簡単にかたづけてしまっている「不」とはいったい何なのかを考える。
 「負」「不」「歩」。この「歩」という比喩もやっぱり概念かもしれない。そういうことを意識するからこそ、3連目に

ふふふという笑い声が聞こえてくる

 という行が誕生する。「ふ」はほんとうは「ふふふ」。
 「ふ」を「負」「不」「歩」なんて、やっぱり概念語なのだ。「比喩」なんて、概念なんだ。

 この「ふふふ」が詩集全体を貫くと、とてもおもしろい詩集になっただろうと思う。あいまいなもの、肉体のなかにひそんでいるあいまいなもの、まだことばにならないものを、少しずつ追い求め、そこに概念を否定して行く肉体というものがもっと出てくるとたいへんおもしろい詩集になっただろうと思う。
 肉体が出てくる前に、どうしても「負」「不」というような、見ただけでイメージが固定してしまうような概念にたよって動くことばがある。そして、その「負」「不」という否定的な、あるいは悲観的な、ようするに弱々しい概念にたよって抒情を書いてしまうことばがある。
 そこが残念。


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白鳥信也『ウォーター、ウォーカー』

2007-09-05 11:44:52 | 詩集
 白鳥信也『ウォーター、ウォーカー』(七月堂、2007年09月01日発行)
 「あっ」という冒頭の作品。その冒頭の部分。

あっ
あめ
ほほが
水滴を感じる
雲からちぎれ落ちた
しずく

 この6行を中心にして白鳥の詩について語ったら視点が狭すぎるだろうか。そうかもしれない。しかし、詩集は(特に前半は)ここに書かれたことがらのバリエーションとして私には感じられる。
 一番印象的なのは「雲からちぎれ落ちた」という行である。「ちぎれ」である。雨の一滴を雲という全体からちぎれたものであると見る視点。それはどこかでもう一度全体と一体となりたいという叫びを隠している。その叫びを、白鳥は「雨」の一滴の叫びとして聞き取るのではなく、自分自身の肉体の叫びとしても聞き取っている。「ほほ」という肉体、そして「感じる」ということばが、そうしたニュアンスを深くたたえている。雨の一滴の叫び--それは明確に聞こえるものではなく、そしてそれは「耳」で聞き取るのではなく、「ほほ」という皮膚で「感じる」もの。そこには複数の感覚の「共同」の作業がある。複数の感覚が独立してではなく、微妙な形で融合して動いている。
 雨と肉体の一体感。耳と肌の一体感。そして、その一体感の対極にある「ちぎれた」という悲しみ。そういうものをめぐる抒情が白鳥の描いているものである。
 雨と肉体の一体感(あくまで感じ)は、たとえば

からだの内側から呼応するものがある
身体は水だもの

 この2行の「呼応」ということばとなって立ち現れてくる。
 水と肉体は別の存在である。それは「触れる」(接触する)ことで「呼応する」。「呼応する」ことのなかに、「ちぎれ」を修復し、「一体」を回復しようとする精神がある。この「呼応」する精神は、より激しくなると「合流」を求める。
 「はっぷん」という作品。

水はこの俺をひっつかんで
合流しようとしている

 この作品には、また「ちぎれる」ということばが出てくる。「ひきちぎれる」という形で。
 あらゆるおとなしい水(たとえばコップのなかの水)は「水」そのものから「ひきちぎられた」存在である。それは「発奮して」「合流しなければならない」--と白鳥は感じる。その「叫び」を聞き取る精神(感情)は、しだいに高まり「俺をひっつかんで/合流しようとしている」とまで感じるようになる。

 雲から一滴が引きちぎられ雨になる。同じように白鳥のなかから何かが引きちぎられ(さらわれ)、何かになる。それが「合流する」ということもある。
 「血はダンスしている」の蚊、蚊に吸い取られた血の「合流」というユーモラスなものまである。そうしたものを描くときも、必ず白鳥は「水」を書いている。

無数の水面のダンス
無数の水面のキス
無数の血液の交じり合い

 「血液の旅」と白鳥は書いているが、宇宙(世界)における「水の旅」ととらえなおした方が白鳥の描いているものがよくわかる。宇宙に存在する水、白鳥の肉体のなかにある水--それが、「呼応し」、「合流する」。蚊は、その媒体である。「血液」は「水」の変形である。
 引きちぎられ、孤独なものが、「呼応し」「合流する」というのが白鳥の詩である。

 「微水」という作品の、美しい2行。

水のにおいにからだをひたし
しだいに私とかさなってゆくわたしがいる

 聴覚、触覚についてはすでに書いた。ここにもうひとつ、「嗅覚」がくわわる。肉体に備わった感覚が共同作業を拡げながら、ちぎれてしまった私と水とのつながりを呼び戻す。そのとき、「私」と「わたし」が一体になる。「私」と「わたし」は、「白鳥という肉体のなかの水」と「白鳥の肉体の外の水」のことである。
 二つは一体になり、重なり合う。
 その、求めても求めても、手に入れることのできない「至福」を夢みる悲しみ--そういう抒情が白鳥のことばを動かしている。


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広瀬大志『ハード・ポップス』

2007-09-04 09:16:15 | 詩集
 広瀬大志『ハード・ポップス』(思潮社、2007年07月31日)
 広瀬のことばは軽い。軽快だ。抽象的なことばをつかっても停滞しない。スピードがある。
 「刎ねられる汎神論」はタイトルのなかにすでに軽さがあふれている。耳で書く詩人なのだろうと思う。2連目が美しい。

値しないことで折れ曲がる時間を
言葉が襲ってくる
おれは
草花のように
縦に踏まれる

 「値しないことで折れ曲がる時間」。何のことかわからないが、わからなくていい、という感じでことばが変化し、先へ先へと進んで行く。そして行きっぱなしになるのではなく、先へ進んだことばのなかに「過去」が、つまり前に書いたことばがさっと紛れ込む。その感じが軽快なのだ。
 草花のように、縦に踏まれて、折れ曲がった時間。
 「縦に踏まれて」の「縦に」が絶妙な「転調」である。

 「デスペラード」の2連目の2行にも広瀬の特徴がでていると思う。

突然切れた電話の向こう側までが
宇宙の広さだとしたら

 「時間」にしろ「宇宙」にしろ、ひとの口にのぼることばだ。そして、そのことばはひとの口に乗るときはたいてい軽い。その軽さがそのまま広瀬のことばのなかに生きている。
 耳で聞いたことばが、口蓋、舌、歯、のど、鼻を経て音になる。肉体を経て、ことばは広瀬のまわりで動く。
 この肉体感覚が、とてもいい。

 「剥製師は考えそれは生まれる」の3連目。

ノコギリは罪深く
防腐液は慈悲深い
剥製師は考え
それは誕生(ふっかつ)する

 「は行」の動きがとても楽しい。「深く」「深い」から「ふっかつ」へ。「深く(ぶかく)」「防腐液」の濁音の響き合いも美しい。濁音は豊かな音だ。「ふ」は透明で小さな小さな音だ。
 「深く」は「ぶかく」にしろ「ふかく」にしろ、最後の音が現代では母音を含まない。「bukak 」「fukak 」という感じ。「ふっかつ」も「fukkats 」も同じだろう。
 こうした音を広瀬は意識的にあつめているわけではないだろう。自然にそうなるのだろう。だからこそ、耳のいい詩人、耳で書く詩人、という印象が強くなる。

 耳から目へとことばの動きを拡げてみると、目のことばは耳に比べて弱い。「ハード・ポップス」のなかほど。

誰かが誰かを祝っている」
誰かが誰かを呪っている
誰かが誰かを殴っている
誰かが誰かを殺している

 「祝」「呪」の「つくり」の共有。同じく「殴」「殺」の「つくり」の共有。これがつづくとおもしろいと思うが、つづかない。たまたまそうなっただけなのだろう。視力で文字を読み、鍛えるということは意識したことがないのかもしれない。
 そうすると、もっと楽しく「ポップ」になると思う。



 余計なお世話、といわれそうだが……。
 『ハード・ポップ』よりは『ライト・ポップ』の方が広瀬のことば向きだと思う。「ハード・ポップ」には「抒情」が絡みついてきそうで(実際、いたることろに抒情があるのだけれど)、それがふっきれたらなあ、と思ってしまう。広瀬は「ハード」を書きたいのかもしれないが、私は「ライト」を読みたい。「ライト」な部分が美しいと感じる。
 あ、ハードの反対はソフト、ライトの反対はヘビーだっけ?
 ソフトでは抒情べったりになりすぎる。やっぱりライトがいいなあ、さっそうと軽快にのどや舌、口蓋、歯を刺激しながら弾む音--そういう詩が読みたいなあ、と読書欲(?)を刺激される詩集だった。
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和合亮一「らら駱駝もう止せ駱駝だだ」、山崎るり子「絵描き」

2007-09-03 08:37:58 | 詩(雑誌・同人誌)
 和合亮一「らら駱駝もう止せ駱駝だだ」、山崎るり子「絵描き」(「現代詩手帖」2007年09月号)
 和合の作品は眠る前に「羊が1匹、羊が2匹……」とやるかわりに、「駱駝が1頭、駱駝が2頭……」と数える詩である。「亜細亜ホテルの寝室」(2連目3行目)での不眠から睡眠へ。そのあいだに浮遊するさまざまな記憶。いわゆる「抒情詩」である。そして、「抒情詩」であることを拒絶するように、「はははははは」に代表される文字の羅列がある。
 「は」の数を数えるのが面倒なので引用しない。私はもともと繰り返される文字を読むのがとても苦手である。近眼で乱視も入っているので目では正確にどこまで読んだかたどることができないし、もちろん声に出して読むときも間違えてしまう。耳で聞けば印象が違うだろうけれど、印刷物では「ははははは」の羅列としか把握できない。
 したがって、「ははははは」は、私にとっては「無意味」にもならない。
 私の体質は和合の詩を読むのに適していない。
 感じるのは、和合は「ははははは」と繰り返し書いても疲れない元気さをもっているということだけである。「亜細亜ホテルの寝室」で眠ることができないくらい元気なのだ。眠れないのは脳が興奮しているからだ。その元気さだけ感じればいい、というのなら、確かにそれは感じる。元気さ、興奮の一方的な盛り上がりを、その興奮に参加せずに端で見るしかない。
 そして、その元気さ、興奮が、「はははは」に頼らなくても抒情を拒絶したものなら、私はまだこの作品を好きになれるが、最初に指摘したように抒情を拒絶するふりをしているだけのような感じがして、ちょっと気持ちが悪くなる。
 正直にいえば、書き出しの3行で、つまり「ははははは」に出会う前に私はその抒情に気持ち悪くなってしまっている。「ははははは」についていくどころではない。

おやすみ 眠る前に
髪を梳かせば
駱駝が一頭歩いてくるので笑うしかない

 「おやすみ」といったあとに髪なんか梳かないでくれ。「おやすみ」と自分にいったのか、横にいる人にいったのかによって、だれの「髪」なのかかわってくるけれど、それがだれの髪であれ、こんなべたべたな抒情がまだ詩に書かれるのかと思うと、びっくりする。駱駝が一頭歩いてくるより、そっちの方がはるかに笑える。そして絶望的な気持ちになる。
 抒情の拒絶は大好きだけれど、その前提となっている抒情が「髪を梳かせば」で始まる抒情なら、拒絶しなくても、すでに和合の詩以外からは消えてしまっているのではないのか。



 山崎の「絵描き」は残酷で楽しい。残酷さが抒情に変化していくところが泣かせる。

頭の中で血の
ぷぷっ
口が動かない
管が切れる音がして
ぷぷっ
ぷぷ きみろ
手が動かない

 画家が手を動かせないようになると失業だが、画家のかわりに妻が絵を仕上げて行く。そういう「物語」をもった詩なのだが、最初に出てくる「ぷぷっ」と「きみろ」がとてもいい。「ぷぷっ」は血管の切れる音だとすぐわかる。でも「きみろ」は? 「きみろ」って何? 「口が動かない」と山崎は最初からきちんと伏線をしいているが、画家がいおうとしていえないことばが「きみろ」なのである。
 この詩は、脳の血管が切れて思うように口が聞けなくなり手も動かせなくなった画家を語っているが、その描写には一つの工夫がある。画家自身が書いているのではなく、妻が画家にかわって書いている。絵に筆を加える感じで、画家の「ことばにならないことば」に妻の「ことば」が加筆されている。
 これは、どういうことか。
 妻は夫の画家のいっていることがわかっている。いっていることがわかっていて、それを裏切って「きみろ」と書いている。画家とモデルのあいだに何があったかを知っていて、だからこそ絵に筆を加える形で妻を打ち出していくように、画家のすべてを知っていて、だからこそ「ことば」に筆を加え、妻を前面に出して行く。
 ここが人間の残酷なところであり、また非常に温かいところである。血のあたたかさがある。残酷なことをするとき、血は相手に流れるだけではない。残酷なことをする自分自身も出血するのである。出血の量は、もしかすると残酷なことをする妻の方かもしれない。残酷さに、画家がどんなふうに苦しんでいるかをも妻は克明に報告しているからである。
 苦しみの共有があるのだ。悲しみの共有があるのだ。
 苦しみ、悲しみの共有こそ「抒情」のすべてである。

 「きみろ」が何であるかは、「現代詩手帖」で読んでみてください。そして噴出してくる抒情に溺れてください。抒情に溺れて溺れて、泣いて泣いて、泣きぬれる。そういうことができる詩です。最後にたどりつくまでの残酷さは、深い深い、裏返しの愛であることが、泣いたあとにくっきり浮かびあがってくる--というのも、いいなあ、と思う。


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