詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

丁海玉「浴槽」

2008-04-16 10:30:26 | 詩(雑誌・同人誌)
 丁海玉「浴槽」(「トードー」14、2008年04月20日発行)
 ホテルの浴槽を描いている。とてもシンプルな作品だ。

ホテルのバスタブに
湯が溢れそうに満ちている
横たわるようにからだをつけた
長くて大きいわりに
つかまるところが
みあたらない
底に尻をつけようとしても
ぽっかり浮いてくる

 ここには「からだ」があるけれど、「からだ」を充たすというか、「からだ」を乗り越えてゆく気力のようなものがない。つまり、疲れている。虚無感。そういうものが、こころを描かず「からだ」を描くこと、「からだ」だけに意識がうろうろとさまよう感じで描かれている。シンプルだけれど、そのシンプルの部分にあらわれる「からだ」(肉体)にすーっと引き込まれていく。
 バスタブにだけこだわることで、バスタブと「からだ」の関係だけにこだわることで、こころの頼りなさのようなものが浮かび上がる。
 奇妙ないいかたかもしれないが、どうしようもない(自分ではどうすることもできない)そのバスタブが「からだ」(肉体)で、バスタブのなかにある「からだ」(肉体)がこころであるかのような感じがする。
 「からだ」(肉体)はこころのように、バスタブを乗り越えてゆけない。かといって、バスタブのなかで、自在に動き回るわけでもない。
 2連、3連とつづけて読んでゆくと、そんな気持ちがさらに強くなる。自分の「からだ」(肉体)がこころであって、バスタブが「からだ」(肉体)。肉体であるバスタブと、こころである「からだ」の間には、変な隙間がある。つまり、お湯だね。それはぽっかりとこころを浮かせてしまう。こころを浮かせてしまって、浮かせた状態に閉じ込めている。こころの思うように「からだ」(肉体)は動いてくれない。
 そんな虚脱感。

手をのばせばバスタブの
へりにとどく
からだを落ちつかせようと
両手をのばして
へりをつかんでみるが
磨きあげてあるせいかすべってしまい
てのひらばかり
お湯をきる
ゆるやかなカーブのバスタブに
背泳ぎするように頭だけもたせかけた
力を抜く
ゆらゆらただよううちに気まで抜け
口やら鼻やらつかってしまって
こんどはおぼれそうに
なった

にじんでいた肌色で湯の底を
蹴り
ざんぶり起きあがる
浸っていたバスタブから
からだを切りとって
揺れる湯が
湯気にまかれた脚に当たるさまばかり

ながめた

 3連目の「からだを切りとって」がなんとも不思議で、味わいがある。ますます、バスタブが肉体で、そのなかにお湯という変なものが紛れ込んで、こころがぽっかり分離している--その分離したこころを切り取って取り出した、という感じがしてくる。そんなふうに取り出した「こころ」がことばで、その「ことば」が、この詩である。

 いま、この文を書いているのは、朝の10時26分なのだが、きっと今夜は風呂に入ってバスタブに身を沈めたとき、この詩を思い出すだろうなあ、と思った。もし、仕事がとても順調でてきぱきと進むならそうでもあいかもしれないが、疲れて帰って来たら、絶対この詩を思い出すだろうなあ、と思った。そのあと、私も私のからだをバスタブから切り取ることができるかなあ、切り取りたいなあ、とひそかに願った。



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三井葉子「桃のはな」

2008-04-15 10:34:54 | 詩(雑誌・同人誌)
 三井葉子「桃のはな」(「楽市」62、2008年04月01日発行)
 詩は、あ、おもしろいなあ、と感じてもそれを伝えることばが見つからないときがある。どうしておもしろいと思ったのか、それを明確に言うことばを私が持たないだけ、といってしまえばそれまでなのだが……。それでも、何かを書いておきたい。おもしろいと思ったということだけでも。
 そう感じた詩。三井葉子「桃のはな」。

お雛まつりをしましょうよ
野に狐いろの月がでるころに


むかし 書いた
すると
野末からまるまる太った狐がとび出してきたものだ

きょう
それを思い出して
よく見ると
なんだ
尻尾の付け根にわたし 掴まっているではないか

 「狐」を想像力の産物ととらえ、あらゆる想像力には「わたし」がぶら下がっている、「わたし」から自由な想像力はない--などと考えてみることができるはできるのだが、それではおもしろくない。
 「狐いろの月」から「狐」、そしてその詩を書いたことが「むかし」なので、「むかし」から「いま」までのことが、狐とともに思い出される、というふにう読むことはできる。読むことはできるが、それではなんだか入学試験の問題を解いているようでおもしろくない。
 私がおもしろいと思ったのは、理詰め(?)のことばの描き出すものではない。

 さらっと(?)書かれていることばのなかにある躍動感--それがおもしろいと思った。


むかし 書いた
すると
野末からまるまる太った狐がとび出してきたものだ

 このリズム。「と」という一呼吸、とさえも言えないような一瞬。そして、「と」よりははるかに落ち着いた「すると」というゆったりした呼吸。あ、ここで何かが変わるぞ、という印象。そして実際に、「すると」とのあとには、「野末から」の長い1行があらわれる。このリズムが、好きである。
 「すると」が引き起こす「事件」のようなものが好きである。
 「と」も「すると」もとても短い。短いけれど、やはりその短さにも長短があって、「すると」の方が、ちょっと相手の反応をうかがうようなところがある。
 「と」は一気に前にあることがら(前に書いたことば)を引き継ぐのに対して、「すると」はまえに書いたことばをいったん閉じ込めて、別のものを引き出す感じがする。
 そのリズム、スピードの変化にあわせて「野末から」の1行がある。

 ここには「書きことば」というよりも、話しことばのリズムがあり、そのリズムが「風景」だけでなく三井という人間を浮かび上がらせる。私は三井にあったこともないし、写真も(たぶん)1度見ただけだと思う。顔が思い浮かばない。それなのに、三井の肉体を感じるのである。話している口調がことばのなかにいきいきと動いていて、それが私を引きつける。
 3連目の「なんだ」も「すると」と同じような、口語でしかあらわせない呼吸と呼吸の切り返しを感じさせる。(このリズムは、4連目の「そうかあ」以後も続く。)

 同じように(あるいは、それ以上に)、口語の呼吸、肉体を感じさせるのが

尻尾の付け根にわたし 掴まっているではないか

 の「が」の省略である。「尻尾の付け根にわたし 掴まっているではないか」は成文化すれば「尻尾の付け根にわたしが掴まっているではないか」となるだろう。ここでは助詞「が」が省略されていて、その省略がとても肉体的なのである。書かれていないけれど、それは書かれたときよりも強く呼吸を感じさせる。
 「わたし 掴まっているではないか」と書きながら、「が」が省略されたために、「わたし」そのものも、どこかへ消えてしまう。消えるといっても存在がなくなるのではない。そうではなくて、「尻尾」と一体になってしまうのだ。溶け合ってしまうのだ。
 「わたし」が存在しなくなり、狐の「尻尾」と溶け合ってしまう。
 それなのに、いきいきと動いている。
 これは矛盾だろうか。
 たぶん「頭」で考えれば矛盾なのだろう。だが、肉体、肉体の呼吸で考えれば矛盾ではない。あらゆるものが同じ呼吸で存在する。切り離せない呼吸となって存在する。そういう至福がここにある。
 4連目以降は、次のようになっている。

そうかあ
あれからずうっと
狐の尻尾に掴まっていたのか


よく見ると
ぐじゃぐじゃ 人も牛も虫も蛙もいて
いっぱい
飲んでいる
食べている
くちぐちに

桃のはな

そらに浮く。

 日暮れてもまだ咲いている桃の花  葉子

 「ぐじゃぐじゃ」がとてもいい。「わたし」と狐の「尻尾」(あるいは狐そのもの)だけが融合するのではない。世界が融合するのである。一体になるのである。世界がとこあって存在していることを祝福するのである。溶け合いながら、ときどき「自己主張して」顔を出す。
 そうして、そこから何かが、すーっと全体を凝縮させるようにして(同時に、開きはなつようにして)、浮かび上がる。それがこの作品では「桃のはな」。

桃のはな

そらに浮く。

 と放り出されて書かれている。その「放り出し方」のなかに、融合がある。狐の尻尾に掴まってぐじゃじゃになっているはずなのに、それは同時に「桃のはな」として「そらに浮」いているのである。呼吸があうと、世界はそんなふうに「ぽっかり」という感じでかわる。
 最後の「俳句」は、全体を要約したものである。
 三井が俳句をいつごろから書いているか知らないが、そして、この詩には、俳句の呼吸、存在に向き合い、呼吸をあわせることで世界全体と一体になる感覚が生きていると思った。俳句から吸収したものが、三井のなかできちんと「肉体」にまで昇華しているのだと思った。




畦の薺―三井葉子詩集
三井 葉子
富岡書房

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たなかあきみつ訳、ドミトリイ・バヴィリスキイ「ショスタコーヴィチの交響曲第六番(一九三九)」

2008-04-14 10:53:18 | その他(音楽、小説etc)
 たなかあきみつ訳、ドミトリイ・バヴィリスキイ「ショスタコーヴィチの交響曲第六番(一九三九)」(「組子」15、2008年04月10日発行)
 エセー、評論の文体がどういうものであるべきか私は知らないが、ことばはいつでも他人の意識をひっかきまわすことを目的としている。びっくりさせる。混乱させる。その瞬間に、いままで見たことのないものが見える。見たことがないから、それは、「わからない」という印象を引き起こす。いままでの、自分が持っていることばの体系を超越しているので、手に負えないのだ。
 たとえば、たなかあきみつが翻訳しているドミトリイ・バヴィリスキイ「ショスタコーヴィチの交響曲第六番(一九三九)」。その書き出し。

 状況を関係を相関性を志向の定位をえがき、あえて人間と人間の周囲(社会環境)をではなく客体と主体を連結する空の架け橋を描くポートレイトの古典的(典型的、ショスタコ的)実例であり、おのれの論理的延長をめざす情動の道程であり、諸条件のむなしさを誇示する全体性の重圧である(このような状況下の個人はつねに事態の推移に及ばない)。

 「状況を関係を相関性を志向の定位をえがき、」--この文の「を」の連続。こういう文体を日本語は持っていなかった。学校の「作文」なら書き直しを勧められるだろう。その後の「……でなく、……であり、……であり、……である。」も同じく、「美しい文体」とは言えない。「美しくない」から、手に負えないのである。特に「……を……を……を」という書き方が、これはいったい何?という印象を引き起こす。「目的語」はひとつ、が文章として読みやすい。「目的語」あるいは「補語」が複数なら「……を……を」と繰り返すのではなく、「と」で並列すべきである。--たとえば、そんなふうに、学校の「作文」は指導するかもしれない。「わかりやすい文体」への書き直しを指導するかもしれない。
 だが、それをやってしまうと、この文章は読みやすくなるかもしれないが、「おもしろさ」を失ってしまう。
 「……と……と……と」ではなく、「……を……を……を」。並列ではなく、繰り返し。繰り返すことでしか書けないものがあるのだ。こでは学校の「文体」(教科書の文体)ではとらえられない何かが起きているのである。
 「状況を関係を相関性を志向の定位を」と書くとき、「状況」のなかから「関係」が絞り出され、「関係」が「相関性」に凝縮され、「相関性」が「志向の定位」に純粋化されていることがわかる。書くことで、ドミトリイ・バヴィリスキイは、自分の思考を少しずつ明確に(限定的に)している。「……でなく、……であり、……であり、……である。」も同じである。ここでは、何かが並べられているのではなく、何かが、ドミトリイ・バヴィリスキイの思考が、不純物を除外しながら純粋化されているのである。
 普通、「……と……と……と」と並列すると、その存在は複数にまみれていく。「純粋な固体」といしての性質を失ったゆく。幅がひろがった分だけ、あいまいになる。ドミトリイ・バヴィリスキイは、そういうこととはまったく逆のことをしているのである。いくつかのことを特別な文体(それまでは存在しなかった文体)で並べることで、単純化(抽象化)の方向を強調しているのである。複数のものがぶつかり合いながら、互いの外側を(余分を)削りあい、どんどん純粋化してゆく。その純粋化の過程の強調--それをドミトリイ・バヴィリスキイは実践している。
 なぜ、そういう文体を選んだか。
 それはドミトリイ・バヴィリスキイにとってショスタコーヴィチの音楽が、そんなふうに感じられたからだろう。聞き取った音楽と、自分の思考を、ぴったり重ね合わせ、ことばを、思考を音楽そのものにするために、わざと(あえて)、そういう文体をつくりだしているのである。学校の文体(教科書の文体)ではできないことを、だれもしなかったことをやろうとしているである。
 ドミトリイ・バヴィリスキイは、まず他人を(読者を)おどろかし、読者の意識をひっかきまわすまえに、自分自身をひっかきまわし、文体をつくり直しているのである。文体を作り上げることを最優先にしているのである。

 手に負えない。そういう欲望をていねいに追って読むことはとても苦しい。論理的に「意味」をつかみ取り、要約することはむずかしい。しようとすればできるのかもしれないが、そんなことはしたって無意味である。(と、私は思う。)

 こういうときはどうするか。私は、ただ酔ってみる。(漂ってみる、となぜかワープロは最初に変換し、あ、それはそれでおもしろいかもしれないと思った。--いつか時間があったら、「漂ってみる」の方向へ行ってみたい。)音楽に「論理的意味」を結びつけても無意味である。いままで聞いたことのない音の動きにただ酔えばいい。(漂えばいい。と書けば、漂うが、身を任せればいいに動いてゆく--そして、酔うと、何かに身を任せる、がここでも復活する。)そうすると、この「意味」を拒絶することばのうねりが、音楽そのものになる。この「音楽」は、わからない。最初はただ驚くだけである。驚かされるだけである。--これは、しかし、あたりまえのことなのだと思う。
 知らない文体で書かれている文章を最初から「わかる」ということはありえない。最初の「文体」に出会って最初に感じるのは、「好き、嫌い」である。そういうところからしか人間は(少なくとも私は)入ってゆけない。「好き」と感じているうちに、なんとなく自分のなかで、その「文体」に共鳴するものが生まれてくる。ことばが動きはじめる。音楽を聴いていて、だんだんと、そのメロディーを、あるいはリズムを口にしてみるようになるのと同じである。(私は、ここに再現された「文体」が「好き」である。)
 
 こうした文体を再現するたなかの翻訳は翻訳そのものとしても大変おもしろい。優れたものではないか、と私は思う。(原文を私は知らないし、それを眼にしても、たなかの訳が正しいかどうかということは私には判断できないが。)
 ここに訳出された「文体」は読みにくい。そしてわかりにくい。だが、読みにくさを再現することが「翻訳」なのである。「文体」を再現することが「翻訳」なのである。「文体」が再現されているから(と、私は思う)、訳出されたことばに私は酔うことができる。




たとえば、こんなCDがあります。

ショスタコーヴィチ:交響曲第1番&6番
バーンスタイン(レナード)
ユニバーサル ミュージック クラシック

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トニー・ギルロイ監督「フィクサー」

2008-04-13 20:51:26 | 映画
監督 トニー・ギルロイ 出演 ジョージ・クルーニー、ティルダ・スウィントン、トム・ウィルキンソン、シドニー・ポラック

 「ボーン・アルティメイタム」のトニー・ギルロイ監督作品。「ボーン・アルティメイタム」の冒頭の新聞記者が殺されるまでのシーンのすばらしさ(カメラワーク)が忘れられない。今回も少し似たシーンがあるが、あれほどの緊迫感でかなり劣る。
 この映画の見どころは役者のつかい方である。
 ジョージ・クルーニーは目が大きく、美形である。その男が弁護士を演じる。ただし、この弁護士は「汚れ役」である。だらしない弁護士で、ギャンブルにおぼれている。担当も敏腕弁護士が手がけないような、「もみ消し」(フィクサー)専門である。「汚れ役」というのは美形が演じるととても魅力が出る。非情さが輝き、あ、こういう悪人になってみたい、という気持ちにさせられる。ジョージ・クルーニーには、そういう非情さがない。特徴的な目、口元が非情とはかなり遠い。甘いのである。その分、今回のようなだらしなさがずいぶん似合う。ミミ・レダー監督によって磨き上げられた役者だが、女性の心をくすぐるような、甘ったれた雰囲気が、だらしなさとなじみ、なかなかおもしろい。だらしなさ、甘さにつけこまれ、組織に利用されていく過程が、リアルになっている。
 そして、このジョージ・クルーニーの非情さを欠いた甘さとは逆に、敏腕の女弁護士が非情を売り物にしている。この対比がおもしろい。
 ティルダ・スウィントンは、起伏の少ない顔(ジョージ・クルーニーと対極的である。また、トム・ウィルキンソンとも対極的である。)で、非情を「理性的・理知的」へと昇華させて見せるのだが、これがなかなかすばらしい。鏡の前で、浴びせられるであろう質問を想定して、何度も答えを練習するシーンがすばらしい。(このシーンは「ボーン・アルティメイタム」の監督ならではのさばきである。)そして、この繰り返される練習に作り上げられた非情が、最後の最後、一気に崩れてゆくのだが、その顔の奥に、フラッシュバックのように、かつての繰り返しの練習が行き来するのである。この「練習」は映像としては存在しないのだが、見ている観客(私)の意識のなかでフラッシュバックが起きる。ジョージ・クルーニーを見つめ、必死になって冷静さ、非情さを守ろうとするのだが、つまずく。練習でつまずいても、何度かくりかえすことで乗り越えてきたが、今回は、練習(想定)を超えていて、がたがたと崩れる。これが、とてもリアルなのである。
 ティルダ・スウィントンはこの映画で「アカデミー賞助演女優賞」を獲得しているが、それにふさわしい演技である。彼女の演技を見るだけでもこの映画を見る価値がある。というか、この演技を見ないことには彼女については何も語れないだろう、という気さえする。
 彼女のこの演技があって、いわばジョージ・クルーニーの情のストーリー、情が非情に勝つというストーリーも説得力を持つ。キャスティングが映画をささえていると言える。





ティルダ・スウィントンを見るなら、
オルランド 特別版

パイオニアLDC

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トニー・ギルロイ監督作品を見るなら、
ボーン・アルティメイタム

ジェネオン エンタテインメント

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瀬崎祐「湯治場の話」

2008-04-13 09:05:46 | 詩(雑誌・同人誌)
 瀬崎祐「湯治場の話」(「交野が原」64、2008年05月01日発行)
 湯治場で死に神(?)に会った「話」である。「話」を詩に仕立てている。「話」が詩にかわるとは、どういうことか。ということを、少し考えた。「話」を読みながら詩を感じたのだが、それはなぜか、ということを考えた。「話」を詩にかえるものがあるとすれば、それは何か。
 作品の前半。

薄暗い湯治場の天井は高くて湯気がたまっている
気泡場には男がひとり入っている
あなたをみとめると もっと近くへお寄りなさい と声をかけてくる
くぐもった声が高い天井に響く
近寄ると男の頭が不安定に揺れている
男の両肩も気泡に押されて小さく揺れている
まるで男の上半身が湯に浮かんでいるように見える

 文体。リズム。
 対象へ少しずつ近づいて行く。その近づいて行くときのリズム、対象との距離の縮むときの速度、間合いにゆるぎがない。
 そこに私は、瀬崎の「肉体」を感じる。そして、そこに詩を感じる。「薄暗い」ということばが作品の冒頭にあるが、その「薄暗い」場所を歩むときの、少しずつ、少しずつ、足許を確かめるようなリズムに詩を感じる。単に「薄暗い」だけではなく、そこは「湯治場」である。足許は濡れている。滑るかもしれない。どうしても、少しずつ、少しずつ、おそるおそる進む。

近寄ると男の頭が不安定に揺れている
男の両肩も気泡に押されて小さく揺れている

 同じことばがくりかえされ、くりかえされるたびに、少しずつ何かが変わる。あ、と思う。この少しずつに気がついたら、もう、その少しずつをどこまでも追いかけていくしかない。急激にかわる、大きくかわるなら、それは向こうがかってにかわっていくのをそのまま放っておけばいいけれど、少しずつだとついつい引き込まれるのである。
 少しずつなので、なんといえばいいのだろうか、その変化をおいかけるのにちょっと余裕(?)が生まれる。ついつい「考え」てしまう。思考が、精神が、感情が、動かなくてもいいのに動いてしまう。余分なことをしてしまう。
 次のように。

まるで男の上半身が湯に浮かんでいるように見える
気泡に隠されてよく見えないが 男の下半身はないようなのだ

 ここでも「見える」「見えない」という形で「見る」という動詞がくりかえされている。そして、その動詞の間には、実は「肯定」「否定」という大きな断絶があるのだが、「よく見えない」ということばの奥には「少しは見える」という微妙な「見る」が隠されていて、それが「微妙」(少し)であるからこそ、それを補おうとして、思考が、精神が、余分に動く。
 そして、動きはじめたら、止まらない。

まるで男の上半身が湯に浮かんでいるように見える
気泡に隠されてよく見えないが 男の下半身はないようなのだ
男は どうやってこの浴槽までたどり着いたのだろう
誰かが男を投げ入れていったのだろうか
それとも 湯に浸かっているうちに下半身を失ったのだろうか

 この動きはじめたら止まらない感じが、最初の少しずつのリズムと同じである。
 とんでもないことを考えているのだが、つまり現実的にはありえないことを考えているのだが、同じ動詞をくりかえすことで、その動きに急激な変化はないと「強調」し、そうすることで「少しずつ」のリズムのなかへ読者を誘い込むのである。
 少しずつというリズムの一貫性と、それを裏切るような現実(常識)を否定する現象--その落差、乖離の感じに「ゆるぎ」がない。文体がしっかりしている。その印象ゆえに、私は詩を感じる。

 私はいつでも、だれの作品でも、文体にひかれる。何が書いてあるかではなく、どんな文体で書いてあるか、に関心がある。そして、その文体が一定であるとき、対象を描写するときの、対象と精神の距離が一定であるとき、そこに魅力を感じる。
 対象と精神との距離--それを「一定」にしている「ことば」に「思想」を感じる。

 瀬崎のこの作品の場合、この作品を「一定」にしている「ことば」、キーワードは、「薄暗い」である。もっと強調して言えば「薄い」である。ただ「暗い」のではなく「薄暗い」。その「薄い」という形容詞のなかには「少し」が含まれている。「少しずつ」の「少し」が含まれている。その「少し」は「見える」と「よく見えない」の差の「少し」に通じる。さらには「下半身はないようなのだ」の「ようなのだ」の「よう」にも通じている。不確かであるけれど、肉体に触れてくる何か、「実感」のようなものが、全体を覆っている。支配している。統一している。
 その統一されたことばの世界が、動いて行く。
 その結果、それがどこにたどりついてしまうか。そんなことは、作品にとってはどうでもいいことである。どこまで、統一したリズム、ことばで世界をたどりおおせるかだけが問題である。
 文体が持続するとき、文体は「肉体」になる。そうすると、そこから詩が立ち上がってくのである。

*

風を待つ人々
瀬崎 祐
思潮社

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岩佐なを「自然光」

2008-04-12 10:43:03 | 詩(雑誌・同人誌)
 岩佐なを「自然光」(「交野が原」64、2008年05月01日発行)
 岩佐なをのことばはどんどん自在になってくる。どこへでも動いてゆく。「自然光」の書き出し。1行目。

青いラジオから異国の鼻唄が流れてくる。

 いきなり「青いラジオ」。いきなり「鼻唄」。「あおい」も「ラジオ」も「鼻唄」も知っているが、こんなふうにことばが結びついて情景を浮かび上がらせるということは思いもしなかった。

青いラジオから異国の鼻唄が流れてくる。
さぁ、
また背骨をタテにのばして
次の生きる準備をしなくてはいけない。

 2行目の「さぁ、」もいい。何が「さぁ、」なんだ。といいたいけれど、これは岩佐にしても同じだろう。「さぁ、」と1行目を断ち切るしかないのである。1行目を断ち切って、「過去」(現在につづいている意味の連続)を断ち切る。そうすることで、どこへでもゆくのだ。「さぁ、」の読点「、」は、その踏み切り台である。ここから、跳ぶのだ。加速するのだ。
 「また背骨をタテにのばして」の「また」がなつかしい。過去を断ち切りながら、それでも過去をひきずる。そして、「背骨をタテにのばす」という、関節をはずしたような日本語のおかしさ。書いてあることばの意味はもちろんわかる。わかるけれど、ほら、こんなふうに日常では言わないでしょ? ここには「わざと」がひそんでいる。その「わざと」こそが詩である。
 「わざと」で弾みをつけて、岩佐は、ほんとうにどんどんどこへでもゆく。


午前中のきぼうは両手のひらの上で
光のマリになっている。
むぎゅっとむすんでつよく輝くタマにすることも
ひきのばしてまばゆいイタにすることもできる。
その日その日の占いがちがうように
きぼうの形も毎日かわる。
窓から向かいの学校の赤レンガ塀がみえる。
近くに行けば地域のみのむしたちが
陽にあたろうと塀に垂れ下がっている姿を
見ることができる。
が、けっして竹ぼうきで掃い落としてはいけない。
縁側で日向ぼっこをしているばあちゃんを
いきなり庭に突き落としてはいけない、
のと同じ。

 ほら、だんだん何が書いてあるかわからなくなるでしょ? 予測がつかなくなるでしょ? ことばにはことばの論理があって、どうしても論理を含んで(論理にしばられて)しまう。予測された方向へ動いて行くものである。しかし、岩佐のことばは、そういう予測を振り切って自在である。
 そして、どの行も音が不思議である。「近くに行けば地域のみのむしたちが」の「ち」の繰り返し、「ち」のなかに存在している「い」のうねり。意味から自在になって、音楽と融合するのである。これは、恍惚と融合する、というのに等しい。音楽のなかで、感覚が溶け合って、意味(理性)からするりと精神が抜け出す。
 自在というしかない。

 途中を省略して、最期の部分。

青いラジオを消し
机上の部屋も淋しくなって
陽のぬくもりも徐々にあわく。
竹ぼうきを携えて
みのむしを見に行くつもり。

 なぜ、「竹ぼうきを携えて」? 「竹ぼうきで掃い落としてはいけない」のではなかった?
 これは、矛盾ではない。
 これは、自在な変化なのである。「竹ぼうきで掃い落としてはいけない」というのは、それを書いた時点での思いであって、ことばを書いているうちに気持ちも「自在に」かわるのだ。(こういうとき、普通は「自在」ということばはつかわないが。)
 そして、この変化こそ、詩なのである。ことばを書いているうちに、書いているひとが書いていることからさえも自由になり、変化してしまう。自分が自分でなくなってしまう。そういうことばを手に入れてしまう。それが詩だ。
 この不思議な変化の直前の「陽のぬくもりも徐々にあわく。」の句点「。」は2行目「さぁ、」の読点「、」と呼応し合っている。「さぁ、」の読点「、」が踏み切り台だとすれば、「あわく。」の句点「。」は飛び込み台か、発射台である。



 この詩には、この詩のことばには、もうひとつ、とても不思議なことがある。私だけか感じている不思議かもしれない。ほかのひとが感じるかどうかわからない。岩佐が狙って書いたのかどうかもはっきりしない。

きぼうの形も毎日かわる。

 この行の「きぼう」が私には「ほうき」の音の入れ換えに思えるのである。実際、音を入れ換えれば「ほうき」「きぼう」は区別がつかない。(私はもともとことばの音のいれかえ、文字のいれかえにとても弱くて、しょっちゅう区別がつかなくなる。読み間違える。書き間違える。ワープロで「という」と打とうとして「とうい」となってしまうことなど頻繁に起きる。)
 「きぼう」が毎日かわるように、「竹ぼうき」のつかい方も毎日変わる。すばやくかわる。みのむしを掃い落としてはいけないのだが、実は掃い落とすためにこそつかわれる。この詩には書かれていないけれど、竹ぼうきを携えて行けば、みのむしを掃い落とすしかないのである。
 みのむしを掃い落としてはいけない、というのが「現実」なら、掃い落とすのは「希望」である。夢である。してはいけないからこそ、人間は、それをしてしまう。してはいけないことをするのは楽しい。「自在」になった気分である。

 こういう楽しさを、岩佐は、ことばで実現している。




岩佐なを詩集 (現代詩文庫)
岩佐 なを
思潮社

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北川透「母音について--アフォリズムの稽古⑭」

2008-04-11 11:37:01 | 詩(雑誌・同人誌)
 北川透「母音について--アフォリズムの稽古⑭」(「イスプリⅡnd」創刊号、2008年04月20日発行)
 ことばはどこまで自由なのだろうか。ことばはほんとうに自由なのだろうか。たとえば、「母音について」の冒頭。

身体の中が幾何学的な模様で溢れている、
精妙な機織虫に犯されたい、とわたしは言った。

 1行目をどう読むべきなのか。どう読まれたがっているのか。2行目の「虫」を修飾することばとして読むべきなのか。それとも「ので」を補って、「わたし」は「(わたしの)身体の中が幾何学的な模様で溢れている(ので)、」「精妙な機織虫に犯されたい、」と読むべきなのか。
 もちろん、文学に「読むべき」などというものはない。答えはない。どう読んだっていいのだ。北川には北川の意図があるかもしれないが、その意図を乗り越えて(あるいは完全に無視して)、そこからことばそのものの可能性(勝手な読み替え)をしてこそ、ことばは楽しくなる。ことばは書いた瞬間から北川のものであって北川のものではない。読んだ側のものでもあるのだ。北川が、ことばの自由をもとめて書いているなら、わたしの方だってことばの自由をもとめて読んでかまわないのだ。わがままな読者である私はそう思う。
 ごく普通に(国語の教科書や入試の問題を解くように)読めば、1行目は2行目の「虫」を修飾している。しかし、私は、それを「わたし」そのもののありようを示していることばとして読みたい。1行目が、「わたし」の状態をしめしていることばとして読まれたがっていると感じてしまう。
 そして思うのだ。よし、読んでやろう。「身体の中が幾何学の模様で溢れている」人間がここにいて、その身体の中の幾何学的な模様をなんとか肉体の外に出したいと欲望している人間のことばが次々に溢れてくる--そういう感じで詩を読んでやろう、と思う。肉体の中の幾何学的な模様が機織虫に犯されることで、どんな化学反応を起こし、一枚の布に変わっていくのか、読んでやろう、と思うのである。
 北川の詩に(そのことばの意図に)反するように、北川の書こうとしたことではなく、そこにあることばを、北川の思いとは無関係な方へ動かしてやろう、と思う。
 2連目。

そうでなければ産む気になれないもの。
すぐに解読されるあんな単純な文字ではだめなの。
あんな小さな耳、あんな狭い通路はいやなの。
体温も色彩も凹凸も知らない鈍感な触覚、
あんな粗雑な人形の容器には、もう飽きたの。

 こういう欲望が起きるのは、「身体の中が幾何学的な模様で溢れている」人間しか持てないだろう。たとえ「身体の中が幾何学的な模様で溢れている、」という1行が虫を修飾することばであったとしても、そういうことばが生まれてくるのは、そのことばに匹敵するだけの肉体を持っている肉体でなければならない。拮抗するもの、拮抗しうるものだけが、その1行を受け入れることができるのである。そして、受け入れながら、自分を変えていくことができるのである。
 1連目にでてきた「犯されたい」は被虐的な欲望ではない。むしろ、攻撃的な受け入れである。受け入れながら、受け入れることで、戦いがはじまる。「犯される」ふりをして、あるいは「犯される」ことを利用して、相手を犯すのだ。とんでもないものを、つまり「犯した」相手が想像もしていなかったものを生み出し、それを相手につきつけるよろこび--そういうものを感じながら「犯される」夢を見ているのである。
 ここに書かれているのは「産みたい」という欲望である。「幾何学的な模様」を違ったものにして(自分自身さえも知らないものにして)、産み出したい。そして産み出されたものが、新しく生きるのを見たい。産み出したものが、自分のいのちなのか、それとも自分とは関係なくかってにいきる存在なのか、それを見たいのだ。
 「あんな粗雑な人形の容器には、もう飽きたの。」とは、既存のものにうんざりしているという表明である。
 人間の形を超越したもの、人間の想像力を超越したもの--ただそういうものになりたいという欲望だけがあるのだ。それは北川の欲望ではなく、北川の肉体を借りてあらわれたことばの欲望なのである。

 ことばのなかには、「幾何学模様」が溢れている。それが北川という「機織虫」に犯されて、誰も知らなかった布に、一編の詩におられることを欲望している。北川は一匹の「機織虫」になって、ことばを侵していく。日常の文法を破壊し、ことばの内部へ侵入していく。ことばが「体温も色彩も凹凸も知らない鈍感な触覚、/あんな粗雑な人形の容器には、もう飽きたの。」と叫んでいるのを聞きながら、「何をいってるんだ、ばかやろう、おれがこんな具合におまえの体の中に精液(精神の液体だね、これは)をまき散らして受精させてやる。産んでみろ」と襲いかかる。
 ことばはことばで、「そんなところつついたってだめ。そんな浅いところ、そんなほかのひとが切り開いたところをなぞったってだめ」と北川を挑発する。
 北川とことばが「わたし」と「機織虫」のふりをして、互いに入れかわりながら、犯し、犯される。セックスをする。その摩擦のなかで、ことばが燃え上がる。だれのものでもないことばが。その瞬間をもとめている。
 セックスをどんなに分析したって「意味」が出てこないように、詩も、どんなに分析したって「意味」は出てこないものである。ただ、そこが快感、そこじゃだめ、なぜわからないんだ、ばか、そこじゃない、そこだよ、なん具合に動き回る。そしてそれは見ていても馬鹿馬鹿しいだけである。実際に、そのセックスに闖入して、北川も、ことばも想像もしていなかった(予想していなかった)方向から、勝手にことばを動かすだけである。
 「身体の中が幾何学的な模様で溢れている、」は虫を修飾することばではなく、「わたし」そのものの状態、自己認識であると勝手に読み替える。ことばが、そう読まれたがっているから、その欲望を解放してやるのだ、と叫びながら、北川の作品を「犯す」(北川の意図に反して、私自身の欲望をおしつける。欲望をぶちまける)。そうすると、なんといえばいいのだろう。私のなかでことばが動きはじめる。--つまり、いま書いている文章になる。

 私の書いていることは、たぶん、多くのひとにとっては「でたらめ」としか感じられないだろうと思う。私は、それでかまわない。私は国語の教科書をつくっているわけでもなければ入試の問題を解いているのでもない。
 あることばにふれて、私のなかでことばが動きはじめる。それをただ追いかけている。私のなかで何かになろうとしていることばがある。それを誘い出してくれることばの力との出合いを楽しんでいる。それだけである。
 ある人の作品を読む。それに誘われて私のことばが動く。それは一方的な片思いである。そうであっても、そのとき私が変わる。相手のことばによって、自分が自分でなくなる。え、こんなこと書きたかったわけではないのに、書いているうちに、こんなものになってしまった……そういう思いにとらわれる瞬間、私はちょっとうれしくなる。
 ことばは確かに自由だと思う。自由になる力をひめいてる、と思うのだ。

 北川のことばは、いつでもそういう世界へ誘ってくれる。「誤読」させてくれる巨大なひろがりを持っている。

*


萩原朔太郎 「言語革命」論
北川 透
筑摩書房

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青木はるみ「妖怪のように」

2008-04-10 07:09:13 | 詩(雑誌・同人誌)
 青木はるみ「妖怪のように」(「交野が原」64、2008年05月01日発行)
 現実のなんでもないことでも見つめているうちに妄想(?)が拡大していくことがある。ことばがじわじわと現実を越境して、ここではないところへ行ってしまう。青木は、そのことばの暴走を、現実を「越境」するというよりは、越境することで「現実」をおしひろげる。「ほら、ここまでが現実だよ」と言ってみせる。
 その移行の仕方がおもしろい。
 「妖怪のように」の全行。

古い民家の軒先がささくれだち
竿が一本吊るしてある
縞柄の固そうな敷布団が二つ折れに干してある
ブルージーンズの片方だけが竿に通り
ほとんど崖といってよいほどの険しい山肌が迫る露地
そこには僅か 陽の差す時間もあるのだ
彼と私はグループでハイキングに来ただけなのに
いつのまにか二人っきりになり夢中で蕨(わらび)を摘んでいた
山肌は徐々に紫の色を深め
足もとの芹(せり)も小川のなかに消えていく
他人の家のことだが あの敷布団を取りこもうと思う
蕨を上手に煮て卵で閉じようと思う
芹が もしも毒草のキンポウゲだったなら
お酒といっしょに ほどよく体の隅々まで
めぐりめぐって
どんな最期になるのかしら
(ねえ ここに住みましょうよ)

 前半は、どこにでもある山村の風景である。物干し竿に布団が干してある。ジーンズが干してある。そういうものを見ながら(見たことを記憶しながら)、蕨とりをしている。夕暮れが近いのに、布団は干したままだ。干した意味がなくなる。夕暮れになり、また水分を含みはじめる。取り込まなくていいのだろうか……。
 ごくふつうの人間が考える(感じる)ことである。日常の生活を大切にしているひとなら、そういうことは、他人事ながら気になるものである。
 そういうごくごくふつうのこと、実感を出発点にして、架空の「日常」が動きはじめる。布団を取り込んだあとは、夕御飯の準備。蕨を摘んだから、蕨をつかった料理。食べるなら、酒も飲もう。食べて酒を飲んだら、もうひとつの楽しみ。布団も春の日差しをあびてふっくら……。
 そこから、もう一歩。
 ふたりが「私」と「彼」の関係ならば、それは日常であっても、ちょっとはみ出た日常。どこにでもある日常だけれど、それはやはり毎日の日常からは少しはみ出ている特別の日常だ。特別であるからこそ、夢はいっそうしなやかに(つまり束縛から解放されて)、楽しい「最期」を夢見る。
 そして。
 「最期」--いったん死んで、生まれ変わるのだ。

 こんな夢を見れば、そしてそれが青木の年齢ならば(失礼!)、たぶん「おいおい、それじゃあ色事を通り越して妖怪だよ」なんて軽口も飛び交うだろう。青木はもちろんそこまで承知の上で「妖怪のように」というタイトルをつけている。「そうよ、妖怪よ」と、最初から笑っている。
 そして、この「笑い」の力が「現実」へ読者を引き戻す。
 笑ったのは、ことばでおしひろげられた世界でのこと。笑ってしまえば、その世界は「笑い話」になってしまう。笑い話になってしまえば、残るのは「現実」である。

 きのうの感想のつづきになってしまうが、はたして渡辺武信は、こういう「現実」と実際に交渉があるのだろうか。そういう交渉とは別の関係を生きているような気がしてならない。


*

青木はるみ詩集
青木 はるみ
思潮社

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渡辺武信「記憶の負荷」

2008-04-09 02:11:59 | 詩(雑誌・同人誌)
 渡辺武信「記憶の負荷」(「AFTER HOURS OF AN ARCHITECT 」9、2008年03月30日発行)
 渡辺武信のことばは不思議である。社会というものを常に含んでいる。どんなことばも社会を含んではいるのだが、渡辺の社会は、「常識的社会」である点がとてもかわっている。(たとえば鈴木志郎康の社会はきわめて個人的であるし、清水哲男の場合は新古今的抒情まみれの社会である。)
 「記憶の負荷」の1連目。

死者たちは既に遠い60年 6月15日から
時を追って並び続けているが
彼ら彼女らを思い出すことはない なぜなら
忘れられたことのないものは思い出せないからだ

 「60年 6月15日」がすっと割り込む。こういう「社会的日時」を書くことに対して渡辺は抵抗感を持っていない。あまりにもまっとうな日にちなので、私はびっくりしてしまうが、このまっとうさこそが渡辺のことばの特徴である。
 2連目は、もっとおかしい(?)。--おかしいということばしか思いつかないのだが、たぶん先に上げた鈴木や清水なら絶対に書かないことば(けれども、ごく普通のひとが書くかもしれないことば)があふれている。つまり、渡辺は、詩とは無縁(?)であるようなひとがつかうことばをつかって詩を書いているのである。
 2連目の途中。

おいおいと老いを意識してからは
死者たちのクヨクヨ供養したり、オイオイと嗚咽する暇(いとま)も失せ
ついつい追悼の一句を詠んで片付けるしかない

 この駄洒落のようなことばの羅列。それは最終連にも出てくる。

いずれにせよ それは 酒乱でも癒せない修羅であり
生き残った者が歩む他ない未知の道なのだろう

 「酒乱」と「修羅」、「未知」と「道」。こうしたかけはなれたものがひとつの音のなかで偶然出会うその瞬間の、意識のゆさぶり。そういうところに確かにひとつの詩のあり方はあるにはあるのだが、そうした音の楽しさ(不思議さ)を追い求めるというのであれば、ここに書かれていることばはあまりに凡庸ではないだろうか。あたりまえすぎないだろうか。--詩、と定義するには、ちょっと恥ずかしい感じがしないだろうか。
 渡辺は、そういうことに対して恥ずかしさを感じない人間なのである。
 どういえば的確なのかわからないが、たぶん、あまりにも育ちがよすぎて「社会」というものを肌で感じてはいないのだ。「社会」とはこういうものである、ということを自分の肉体で感じるというよりは、たとえば家族(両親)が「世間のひとは、こんなふうに生活しているのよ」というのを聞いて、つまり、ある「距離」をへだてて見るものなのである。「庶民」というものは(社会というものは)、こういうことばで出来上がっている、ということを聞いて学び、それにあわせてことばを動かしている感じなのである。
 逆に言えば、渡辺の実際の生活は「社会」とは触れ合っていない。そのために「社会」で流通することばをつかうことで「社会」のなかに自己を組み込んでゆく--そういう感じでことばを動かしている。
 「社会」のひとびとは「おいおいと老い」というようなしゃれをつかう。「ついつい追悼」というようなことばのつかい方をする--そういうことばにあわせて渡辺は渡辺自身を動かしている。そういうことばをつかうことで「社会」の一員であることを偽装(?)する。
 偽装としての「社会」というものがあり、その偽装のなかで、渡辺は「社会人」となる。「独自のことば」は排除される。あくまで、「流通していることば」を手がかりにことばを動かしていく。そのなかに「社会」が「社会」として浮かび上がる。その社会が「建前」か「本音」か、よくわからないが、(というのもひとはしばしば「建前」の形で「本音」を言うからである)、その「よくわからない社会」が、清水哲男の「抒情詩」よりもときに痛切に響く。自分自身に対するかなしみではなく、「社会って、世の中って、なんでこんな具合なのかなあ」というかなしみである。そんなふうにしてかなしみながら、「社会」と和解する--そういう形での、詩、そのことば……。

 渡辺は「落語」も好きなようである。
 「落語」と渡辺の詩の関係を追ってゆくとなにかおもしろいことが書けるかもしれない。「落語」には「庶民」が描かれているが、それは現実の庶民ではなく、「話芸」にまで高められた「庶民」である。落語の登場人物に似た行動をするひとはいるが、「落語」の登場人物そのものは現実にはいない。現実の人間を題材に、それをある種の「芸術」(ゆるぎない典型)にまで高めたものが「落語」である。それは、いっしゅの「芸術としての庶民」である。この「芸術としての庶民」(芸術としての社会)を、私は、「偽装」と仮に呼んだのである。
 そこには「典型」がある。「普遍」がいきなり、存在する。
 個別であること(極私的であること)から、遠く離れて、ただひたすら「典型」として「社会」が存在する。「社会」のなかで語られる「ことば」がある。
 これは「現代詩」の基準(?)から見ると、とても変わっている。非常に風変わりである。



 余談といっていいのかどうかわからないが。
 渡辺は映画が大好きである。そして、渡辺が好きな映画というのは、やはり「典型にまで高められた社会」としての映画である。「 8号」で渡辺は2007年の映画ベスト10を掲げている。「今宵フィッツジェラルド劇場で」「恋とスフレと娘と私」「ホリデイ」などは「典型としての社会」である。特に、「恋とスフレと娘と私」「ホリデイ」で描かれている「社会」は、現実の庶民とは無縁のものである。現実はそんな具合にはなっていない。そういう生活を、普通のひとはしていない。だから、その映画がどんなにおもしろおかしくても、普通のひとは「絵空事」(偽装の社会)と見てしまう。だから普通は「ベスト10」などには選ばない。親身に感じられない、からである。(「今宵フィッツジェラルド劇場で」は「芸人」という特別の世界であるから、まあ、許容できるし、映画の完成度も非常に高いから「ベスト10」に選ぶ。)

 こんなことは書いてもしようがないことなのかもしれないけれど、こういう「ずれ」に接するのは、私はなんとなく楽しい。
 「現実」(?)というのは、ひとによって、こんなにも違うのだ、と感じてしまうのである。現実にはどうかよくわからないが(渡辺の私生活を私は知らないが)、あ、上流社会の人間から社会を見ると、こんなふうに見えるのか、と私は驚いてしまうのである。






渡辺武信詩集 続 (2) (現代詩文庫 第 1期186)
渡辺 武信
思潮社

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池井昌樹「矢」

2008-04-08 00:12:11 | 詩(雑誌・同人誌)
 池井昌樹「矢」(「歴程」549 、2008年03月31日発行)
 とても短い詩である。全行。

帰心矢のごとし
でも
かえるところのないぼくの矢は
どこへかえればよいのだろう
どこをさまよいつづけるのだろう
あめのよあけは
ねどこでひとり
あのまちのいろ
あのまちのおと
あのまちにふるあめのおと
めをつむり
尾羽うちからし

 「あめのよあけ」からはじまる「あ」の繰り返し、「あの」の繰り返しがこころの動きに拍車をかける。途中に挟まる「ねどこでひとり」が加速するための踏み切り台(?)のような感じで働いている。「ねどこ」ということばの、あたたかい響きが、まぼろしの雨に、とてもよく似合っている。
 感動する、という作品ではないが、リズムに、自然にこころが重なってしまう。
 「あのまちにふるあめのおと」とこの行だけ長くしたのも効果的だ。こころが加速して、そこではいつもの倍の距離をこころが動いていることが納得できる。こころはいつでも加速する。「矢」に限らず、現実の存在のスピードは最初が一番早くてしだいに遅くなる。しかしこころは逆に最初はゆっくりだ。そして、リズムをととのえながら加速し、現実を突き破っていく。

 私はセンチメンタルは嫌いだが、唯一、池井の書くセンチメンタルだけは好きである。





一輪
池井 昌樹
思潮社

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伊武トーマ「ディア・ハンター」

2008-04-07 10:52:16 | 詩(雑誌・同人誌)
 伊武トーマ「ディア・ハンター」(「歴程」549 、2008年03月31日発行)
 映画「ディア・ハンター」の1シーンをことばで追っている。語られなかったことばを再現しようとしている。

星はながれ。
星はきらめき。

きみの瞳に。
月のしずくがこぼれ落ちた。

夜の光。
美しい鹿よ。

今宵もひとり。
狩りに出たぼくは。

血まみれの銃を捨て。
つめたい闇に身を投げる。

森の奥深く分け入れるほど。
樹々はますます口を閉ざし。

凍てついた沈黙に。
ひとすじの銃声が舞い戻る。

あれは。
獲物を狙ったものじゃない。

去りゆくきみの後ろ姿を。
永遠に焼きつけようと。

おのれの頭に銃を突きつけ。
引き金をひいたのだ……。

星はながれ。
星はきらめき。

 「あれは。」以後の2行3連のセンチメンタルを引き立てるためにことばが動員されている。
 映画のなかで語られなかったことばを再現している--と私は最初に書いたが、正確には、映画のなかで語ってほしかったことばを再現しているというべきかもしれない。
 ベトナム戦争をくぐり抜けてきた男。その男のなにか起きた変化。狙った鹿を逃したとき、男は自分になんと言い訳をするか。「獲物を狙ったものじゃない。」--否定し、それからゆっくりと逆説のように語りはじめる。「去りゆくきみの後ろ姿を。/永遠に焼きつけようと。」--この否定を踏み台にしてこころを美へむけて再構築するセンチメンタル特有の動き。それを書きたいために、伊武は映画の1シーンを借りてきたというべきかもしれない。
 否定を踏み台にして、美を再構築しようとしている。--この意識があるからこそ、

星はながれ。
星はきらめき。

 と、いったいいつの時代のことばなのだ、といいたくなるような、歌謡曲のような行を平然とくりかえすことができる。

 ああ、と、伊武のことばに引き込まれるようにして、私は溜め息をもらしてしまうのだが、それは詠嘆ではなく、嘆きの溜め息である。
 ベトナム戦争は、こんなふうにしてセンチメンタルを輝かせる「道具」になってしまったのだろうか。こころを「美」にむけて飾りたてる「道具」になってしまったのか。
 あの映画は、センチメンタルになった男の哀しみを描くことが目的だったのか。

 この作品は、映画のなかで語られなかったことばを再現しようとしているのではない。そうではなくて、映画が否定したことばを、否定するために苦悩しながら語らなかったことばを、けっして語ってはいけないことばを、まるで宝石のように輝かせてみせる。
 どんな戦争であれ、それを利用して、こころの「美」を再構築するような動きには、私は嫌なものを感じる。私には、こういうことばは、映画への讃歌ではなく、映画への侮辱のように感じられる。

 ベトナム戦争は、センチメンタルで語られる時代になってしまったということだろうか。ベトナム戦争がセンチメンタルになりさがるなら、太平洋戦争がセンチメンタルになるのはもう防ぎようのないことなのか。
 とても不気味である。

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北爪満喜「さしのべる」

2008-04-06 01:28:01 | 詩(雑誌・同人誌)
 北爪満喜「さしのべる」(「エウメニデスⅡ」31、2008年02月15日発行)
 枯れた枝をしたから見上げた写真といっしょに掲載されている。写真に撮った風景を、もう一度ことばでとらえ直している。
 その中程。

細い指と尖った爪を霧に覆われた空へきりきりさしのべている。
見つめていると、ハハを想いだした。
ハハというまなざしは、このようではなかっただろうか。
霧のような他者のほうへコのほうへ、刺さってしまいそうなほど
ことばのようなまなざしをのべ、
そしてまなざしのなかに込められた想いはおおくは届かないまま
届かないまま、まなざしの痕跡が、霧のなかに刻まれてゆく。
影のように、霧のなかに模様をつくる。
まるで霧のこころのうちの傷のように。

 「ハハ」とはもちろん「母」である。「コ」は「子」である。
 ところが北爪は「母」とは書かない。「子」とは書かない。漢字で書いてしまうと、ことばが既成のものにしばられるという感じがするのかもしれない。既成のものではない何か、北爪がほんとうに感じているものを探すために、あえてカタカナの表記をつかったのだろう。
 既成のものではない何かを探そうとする想い、熱意のようなものは、

そしてまなざしのなかに込められた想いはおおくは届かないまま
届かないまま、まなざしの痕跡が、霧のなかに刻まれてゆく。

の2行に凝縮している。「まなざし」「届かない」がくりかえし、そしてただくりかえすだけではなく、順序がいれかわなりがら手さぐりしている。そこには具体的には見えないもの、「まなざしの痕跡」というような、ことばでしかたどれない何かが浮かび上がるのだが、この見えないものを存在させるには、同じことばをくりかえすしかないのだろう。同じことばをくりかえしながらでも、なんとかそれを明確にしたいという思いが、そこには存在する。
 そして、この熱意のようなものに揺すぶられて、最後の3行で、ことばが不思議な化学変化を起こす。

ハハというまなざしはチのそこからうかびあがる樹木かもしれない
チはそこから空へむけてのびあがる樹木の叫びににている
鳥をもわたしがうんだと


 「ハハ」は「母」である。それは前とはかわらない。しかし、「チ」はどうだろうか。「地」であろうか。それとも「血」であろうか。「地」と読むのが論理的かもしれない。しかし、私は「血」を最初に思い浮かべた。
 「届かないまなざし」は「血」を源としている。「まなざしの痕跡」も「血」を出発点としている。「母」は「大地」であるが、その「大地」は「大血」でもある。おおいなる血でもある。そこからすべてが生まれる。生まれたもののなかには同じ「血」が流れている。その同じ血、同じ血でありながら、違ったものになっていくものに向けて、いつでも「手」を「さしのべる」--そこに母の「原型」、母の「神話」のようなものを感じているのだ。
 「血」は樹木のなかを通れば樹木の叫びになる。そして、その叫びは樹木であることを超越する。「鳥」をも生み出してしまう。「樹木」と「鳥」は同じ「血」からできている。だからこそ、強く強く結びつく。

 「ハハ」は「母」を「母」以前の混沌に還元し、そこから「血」は流れはじめる。何にでも変わりうるエネルギーそのものの運動として、どこへでも動いてゆく。「樹木の叫び」になり、「叫び」は「鳥」を生む。こういう自己超越、自己を次々に乗り越えて自己以外のものに変身し、なおかつ固い結びつきとしてあらゆるものが存在しうるのは「チ=血」だからである。
 「地」は「チ」という音そのものに解体、還元されて「血」へと化学変化を起こし、そこからすべての世界がはじまる。
 「ハハ」「チ」というカタカナ表記には、はっきりした「思想」が込められているのだ。

*

いま手に入る北爪満喜の詩集。

青い影・緑の光―北爪満喜詩集
北爪 満喜
ふらんす堂

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川島洋「再会」

2008-04-05 11:19:50 | 詩(雑誌・同人誌)
 川島洋「再会」(「すてむ」140 、2008年03月25日発行)
 不思議な詩である。

 父が死んで 会う機会もめっきり少なくなった。それでも夢で一度 うつつで一度あっている。

 という前文があり、夢の描写があり、現実の描写がある。夢は夢だから、もちろん現実にはありえないことが書いてある。ありえないことなのだが、そういうことがあってもいい、という感じがしてくる。ゆったりした、気持ちのいい文体である。

 何か話しかけていなければどこかへ消えてしまうのではないかと思った時 父がまた口をひらいた。あのな とうさんな ゾウムシになるよ。「ゾウムシ?」ああ。頑丈な虫だなあれは。かなり硬いぞ。地味だけどよく見ると可愛いな。おっとりして、死んだふりもうまいんだ。ゾウムシってなかなかいいと思ってな。あとは何ゾウムシがいいのか ということなんだが。
「どうせなら オオゾウムシがいいんじゃないかな」と僕は答えた。

 いわゆる「輪廻」について書かれているのだが、ゾウムシというあまり知られていないものに生まれ変わる、というのがなんともおかしい。カブトムシとかクワガタとか、とんぼとか蝶々ならすぐにわかるのに、ゾウムシ。私は昆虫はほとんど知らないので、思わず調べてしまった。(そのため、感想を書くのも遅くなってしまった。)
 死んでしまった父と、そんな普通は知られていないような(と、私は思う)昆虫を話題にして話ができるのは、父も川島も昆虫に詳しいのだろうか。そうではなくて、川島だけが昆虫に詳しいのだけれど、その昆虫に対する詳しさ、温かい視線のようなものが父に対して欠落していたと感じて、その反作用のようにして、そんな対話が生まれたのだろうか。
 どちらにしろ、いま、そこにあることば、夢のなかのやりとりは、とても温かい。とてもゆったりしている。
 「死んだふりもうまいんだ。」がとてもこころに響いてくる。父は死んだのか。それとも死んだふりだったのか。死んだふりだったら、いいのだけれど。父は、そういう川島の思いをすくいとるようにして「死んだふりもうまいんだ。」といったのか。
 こういう、互いのこころの、作用・反作用、相手のことを思っての意外なところからのことばの登場こそ、「再会」を強く印象づける。昔はわからなかったものが、ふたたび出会うことで、突然、わかるようになる。突然和解する。出合いか、再会が、過去を美しく整えるのである。
 そいういう父と子の、夢のなかでの若いのあと、現実が描かれる。

 二度目に父と会ったのは それから一年近くあとだ。散歩に出かけた三ツ池公園の 蓮の花を見おろすベンチの上に父はいた。もう言葉を交わすことはできなくなっていた。家に連れて帰ろうかとも一瞬考えたが 思い直した。手近な樹の枝先に乗せてやると 父はそこに おっとり しっかり掴まった。

 2連目の、夢のなかで父が言った「おっとりして。」が川島の表現として復活している。その、ことばの「再会」の仕方のなかに、川島と父との対話のすべてがある。あることばが、ふっと口をついて出てくる。それは川島のことばであるけれど、そのことばの奥には父のことばがある。あ、父はこんなことを言っていたな、という思い出がある。
 特別な強調もなく、しずかにおかれていることば--そこに、不思議な温かさがある。交流がある。いいなあ、と思う。


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松岡政則「那魯湾渡暇飯店備忘録」

2008-04-04 11:37:01 | 詩(雑誌・同人誌)
 松岡政則「那魯湾渡暇飯店備忘録(ナロワンリゾートホテルメモ)」(「すてむ」140 、2008年03月25日発行)
 3篇の詩で構成されている「備忘録」であるが、読み終えたあと感想を書くためにタイトルを引用しようとすると「暇」という字が「眼」に見えてしまった。「渡暇」と書いて「リゾート」というのはなかなかおもしろいと思うが、「渡眼」と書いて「眼を渡らせる」=見渡すという感じに読ませたい。そんな思いに襲われた。それほど「眼」の印象が強い。松岡は「眼」の詩人だ、と思ったのだ。
 最初の1篇「○オーストロネシア語族の移動の中に、」の全行。

(数千年の昔、
(遅れてこの島に這い上がった者らの中にわたしの踝がなかったか。
道端に練炭の欠けらがころがっている。
バス停の前を粟の穂を担いだおんなが通り過ぎる。
ひそまりかえった山奥の社(集落)は、
そのいちいちが眼に良い。

 最終行に「眼」という文字が出てくる。
 この短い詩は「オーストロネシア語族」の集落のスケッチだが、それはすべて「眼」で集められたスケッチである。「ひそまりかえった」という「聴覚」に通うことばもでてくるが、ほんとうに音がないのか、それとも「眼」にすべてが集中しているために「聴覚」が遠慮しているのか、よくわからない。たぶん、「眼」に感覚が集中していて、それを邪魔しないように「聴覚」は、それこそひっそりとひそまりかえっているのだろう。「聴覚」は姿をあらわさないことで、つまり「欠落」することで、視覚と融合している。「欠落」することで「眼」のなかに生きている。そう思えてくる。
 「欠落」と、その「欠落」を通ってどこまでも進んで行く眼、というものを、その視力をふと思うのである。
 2行目の「わたしの踝」は、それがあってほしいというひそかな思い、「欠落」しているものを夢見る力がとらえた美しさだ。「練炭」「粟の穂」は「現代」(松岡の日常)から「欠落」している。集落を「社」と表記する「オーストロネシア語」(?)のなかには「集落」のもっている機能を明確にする何か、集落は社会のひとつであるという意識のようなものが隠れている。「集落」ということばであらわすとき「欠落」するものが隠れている。見かけた風景にも、見かけたことば(見かけた文字、「眼」でしかとらえられないことば)にも、何か「欠落」がひそんでいるのだ。
 そういう「欠落」が全体に響きわたっているからこそ、「練炭の欠けら」ということばもやってくるのだろう。そこに存在すべきなのは「練炭」ではなく、あくまで「練炭の欠けら」なのである。
 「欠片」と書かず「欠けら」と松岡が書いた理由が私にはよくわからないが(私なら欠片」と書いてしまうが、という意味である)、「欠けら」という文字からかは「欠け」の複数(ら)が立ち上がってくるようで、これもとてもおもしろい。
 もっともこれは松岡の「眼」の力、視力に影響されて見てしまった私の幻想かもしれないが。

 「○台北でみた夢、獣の森、」にも「眼」は出てくる。前半を省略して、後半部分。

おんなのあしの、しろいいけないが、
ひえいだいらのやみをながれていく
はこがたのしょいこをきの根かたにたてかけ
男はたびのこまものうりのふうであった
あっ、いぬっ、
こえにならないこえもしどけなくやみをながれていく
あわれんでいるような、
なめまわしているようないっぴきのやまいぬの眼。
そのみじろぎの、もどかしいが、
このわたしだった

 この作品でも「聴覚」は遠慮している。「こえにならないこえ」と、「聴覚」にとらえられることを拒絶して「欠落」を選んでいる。その「欠落」のなかを、ひらがらがうねっていく。そして、このうねりは不思議なことに、ひらがなであることによって、「眼」ではなく「聴覚」を刺激する。ことばは「声」(耳に届いてはじめて形になるもの)となって生き生きと動く。「こえにならないこえ」のように、ほんとうは「声」になって、肉体のなかに生きている。
 「社」(集落)は「眼」を媒介にして「意味」を持ったが、ひらがなのうねりは「眼」を媒介にするだけでは「意味」を持ち得ない。「音」にかわって肉体に入り込み、そこで「意味」としてうごめく。そして、そのうごめきを「眼」は「聞く」のである。
 セックスの描写にはいろいろな方法があるが、これはとても魅力的だ。
 声を殺して(こえにならないこえ、を抱え込んで)、男と女の体がうごめく。そのうごめきを「眼」で見るとき、「眼」は単に体のうごめきを見るのではなく、「眼」で、体のなかにうごめいている「声」を聞いているのだ。
 「眼」と聴覚は、一方が「欠落」することで、逆に強く協同している。「眼」は「眼」を超越し、「耳」は「耳」を超越する。そのために、片方が欠落してみせるのである。「眼」だけが世界をとらえているふりをしながら、その奥でしっかりと手を結び合っている感覚--その複合。それが美しく形になっている。
 とても魅力的な作品だ。



 松岡の詩集を読むなら。

草の人
松岡 政則
思潮社

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長嶋南子「タガ」

2008-04-03 01:20:20 | 詩(雑誌・同人誌)
 長嶋南子「タガ」(「すてむ」140 、2008年03月25日発行)
 長嶋南子は自分を愛する方法を知っている。「タガ」という作品を読みながら、そう思った。このときの「愛する」というのは「かなしむ」というのに、いくらか似ている。自分の中にある「かなしみ」を見つけ、それを大事にする(愛する)ということを知っている。
 「タガ」の3連目。

退職した
どこで何をしてもいいのだから
勤め人とちがうことをしなければ
もっと大きなことをしなければ
それなのにひとりの昼間ボソボソご飯を食べている
こうなったら自動車にでも轢かれたほうがいいのではないか
わたしの破片がばらばら

 ここには不完全な(?)「わたし」がいる。思い通りにならない「わたし」がいる。それでも「わたし」をちゃんと「わたし」として見つめている。不完全な「わたし」、理想と違う「わたし」は哀しいが、それをうけとめている。「こうなったら自動車にでも轢かれたほうがいいのではないか」とは書いてみるが、ほんとうにそう思っているわけではない。
 なんとかしたいと思っている。だからこそ、つづける。

ふるさとの佐野桶店のおじさんまだ生きているか
きっちりタガをしめなしてもらいたいのだが
おじさん わたしは
店先でいつも遊んでいためがねをかけた女の子ですよ

 いまの「わたし」は退職して「タガ」がゆるんでいるのだ。そんなふうに自分を哀しみ、同時に「愛する」。「タガ」がゆるんでいるなら、それをしめなおせばいい。
 「タガをしめなおす」--たぶん長嶋は「タガをしめなおす」ということばを、その店先で知ったのだ。そのころは意味もわからずただ聞いていた。しかし、それをいまくっきりと思い出す。そのときに、おじさんと、おじさんが生きているその地域の空気を思い出している。地域があり、ひとがゆったりと関係し合う空気--それを呼吸して(もちろん、こどもはそういうことを意識しないが)生きてきたことを思い出している。
 そして、それにちょっとよりかかる。
 自分ひとりの力でなにかをするのではなく、まわりに、まわりの「空気」によりかかる。それは自己のなさけなさ(?)の自覚であると同時に、周囲への信頼の告白でもある。他人によって生かされている、という自覚のあらわれでもある。その瞬間の、弱さ、哀しみと、そんなふうにして自分を建て直すときの、自分へのいとおしみ。
 この感じがとてもいい。

 私は長嶋がどういう人間なのかまったく知らないが、想像するに、ひととの関係をとてもゆったりと築き上げているひとなのだろう。常に長嶋のまわりにはひとがいる。見守っていてくれるひとがいる。見守るといっても、なんといえばいいのだろう、ゆったりとした感じで、見守るひとと長嶋の間に「空気」がある感じで……。
 長嶋は、その「空気」を愛する。懐かしむ。それは、ゆったりと呼吸になって、そこに生きているひとを愛することでもある。

 詩の引用が逆になるが、前半(1連目、2連目)は次のようになっている。

きのうはあわてて
左右ちがう靴をはいて出て
数字はいつも写しまちがえて
会計のタカガイさんにめいわくをかけて

うそはよくついて
盗んできたもの多数 菓子 靴下 書類 本 夫
食べすぎては高脂血症
つまらないことできょうだいげんかをして
もっと身をよじるようなことをしたかったな

 いいなあ。ひとと一緒に生きているのはいいなあ、と思う。間違いも、嘘も、泥棒(?)も、すべて周囲に吸収されて、吸収されることで、「わたし」は立ち直っている。「タガをしめなおす」というのは、そういうことかもしれない。他人の力にささえられて、「わたし」の間違いをすくい取られて、正常にもどる。
 そんなふうにして生きているのは、哀しい? 自分だけの力だけで生きていく強さがないから哀しい? そんなことはない。
 哀しい「わたし」を自覚することは、哀しい人生をひとといっしょに生きることだ。ひとはたいてい哀しい存在である。弱い存在である。だから、愛し合うのである。



 この詩には、不思議な隠し味もある。1連目の「会計のタカガイさんにめいわくをかけて」という1行。そのなかに、「タカガイさん」という名前のなかに、わたしは「タガ」が隠れているのを感じる。また「めいわくをかけてて」のなかに「めがねをかけた」が隠れているのを感じる。
 遠く離れていながら、なにかを呼吸し合っている。
 この感じが「ふるさとの佐野桶店のおじさん」とも通い合う。
 この感じが、なんとも哀しく、なんとも美しく、いとおしい。いいなあ、この感じ。この遠く離れて呼吸することばのなかにこそ詩がある。そのことからかきはじめるべきだったかなあ、と私は文章を反省している。
 ごめんなさい。紹介の仕方、順序をまちがえて、変なことを書きすぎたかもしれない。ちょっと謝りたい気分。

コメント (1)
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