詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

財部鳥子『胡桃を割る人』

2008-07-16 09:11:10 | 詩集
 財部鳥子『胡桃を割る人』(書肆山田、2008年06月30日発行)
 巻頭の「見聞」という詩がとても気持ちがいい。その全行

古い村落の
祠のそばの大きな樟


雨傘のような全体の形
幹は白鳥の首のようで
半円 半球の梢を支えている
幹に触れば恐竜のうろこのように厳めしく
このあたり文字では表しきれない


こんな比喩だらけの手紙から
りっぱな樟は芽生えないのを
彼はよく知っていて
休日ごとに火車に乗って
樹を見に行くと書いてきた


大きな雨傘のしたに
美しい白鳥が首をのばしていて
そのそばを火を吹く車が走っていく


* 火車--中国語で汽車のこと

 何かと出会う。あるいは人と出会う。そのとき、かならずわけのわからないものがある。自分の知らないことがある。そのことに対して、こころを開いて行けるかどうか。つまり、自分を捨てて、相手の方に身を寄せていく。そのとき、自分がどうなってもいい、という感じで、相手にすべてをまかせてしまう。--この瞬間を「愛」と呼んでいいと思うが、財部は、相手の(他者の)の「美」に触れた瞬間、その相手を(他者)を心底愛することができる力を持った人である。そう思った。

 財部のところに一通の手紙が届く。その手紙には樟のことが書いてある。その描写はそれ自体で美しいが、書いた人(彼)は自分のことばには満足していない。そして、自分を満足させるために樟を見にはるばると汽車に乗って古い村まで行く。--手紙に、そう書いてある。
 それを読んだ瞬間、財部には、美しい美しい風景が見える。

大きな雨傘のしたに
美しい白鳥が首をのばしていて
そのそばを火を吹く車が走っていく

 手紙を読んだために、ここには不思議なことが起きている。「火車」は中国語で汽車である、と財部自身注釈で書いているように、それが「火の車」ではなく「汽車」であることを知っている。けれども、汽車ではなく、火を吹く車が走っていく。その「幻」を財部は見る。
 この「幻」。火を吹く車が一番の幻だが、雨傘も、白鳥も、白鳥の首をのばした姿もまた幻である。幻であるけれど、その幻を見る力が「愛」なのだ。
 古びた樟(老いた樟)を見たことがある人ならたいていはその姿が想像できる。たいてい、楠の幹はやわらかく捻じれている。それはたしかに白鳥の首のようにやわらかくカーブしている。そして、やわらかいけれど、樹皮は硬い。恐竜のうろこという比喩はぴったりという感じがする。大きく広がった全体は雨傘にも見えるだろう。
 彼が書いてきた手紙から、だれもが自分自身の見た樟を思い出すことができる。
 だが、それは彼がほんとうに見てきた樟ではない。だから彼はその樟を見に古い村落へ汽車に乗って行く--と手紙を書いてきた。
 その彼の、樟に対する「愛」。それが、そのまま財部を乗っ取る。その「愛」に飲み込まれてしまうことを財部は恐れてはいない。むしろ、その「愛」にはげまされるようにして、財部は自分自身の「知識」を捨てて、存在しないもの、「知識」を超越する「幻」をみる。普通の汽車じゃ、つまらない。立派な樟。雨傘であり、白鳥であり、やわらかくカーブした首である樟。それにふさわしのは「火を吹く車」。その赤い炎。
 「幻」を、より美しいものにするために、財部は、いわば「知識」を捨てて、狂って見せる。自分が自分でなくなって見せる。「火車が火を噴く車だって? 中国語を知らないの飼い? 汽車のことだよ、ばかじゃないのか」という批判を受け入れる覚悟をして、木を見るために、火を噴く車を走らせて出かけるなんてかっこいい、と言ってのける。そうやって、彼の、樟に対する「愛」に向き合う。彼を、「かっこいい」男にしてしまう。

 これは一種の相聞歌である。前半の3連が彼からの歌。最後の3行が財部からの答え。「私も、その火を噴く車で、猛スピードで空間を超えて、古い村、その樟を見に行きたい。連れて行って」。そう告げている。

 とても美しい。





財部鳥子詩集 (現代詩文庫)
財部 鳥子
思潮社

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井坂洋子「緑のエキス」

2008-07-15 10:35:08 | 詩(雑誌・同人誌)
 井坂洋子「緑のエキス」(「一個」2、2008年初夏発行)
 途中に一か所「誤植」が出てくる。「誤植」は、まあ、よくあることかもしれない。私が引用した作品にも無数の「誤植・誤記」があるだろうと思う。(申し訳ない。)
 「誤植」は、普通は、気にならない。
 ところが今回に限って、とても気になった。「緑のエキス」の3連目。

心臓を射抜かれた落鳥の速さで
垂れ幕の影の道化の気安さで
”ふむ”は”ふいになじんでくる
人間びょうぶの前
とんがり頭の頂きから
・・・・を命じる

 この詩には「”ふむ”」と「”へむ”」が登場する。そして、そのまわりにあれこれことばが飛び交う。具体的ではあるけれど、しかし、「”ふむ”」と「”へむ”」が何(だれ)なのかがさっぱりわからないので、いくら読んでも何もわからない。何もわからないけれど、たとえば

痛みの所在がはっきりしないのに
鈍痛の薄靄が収縮する

 というような行(2連目)にはこころが誘われる。あ、こんなふうにことばを動かしてみたいという気持ちにさせられる。(こういう気持ちにさせることばが、詩である。--私は、そう考えている。)
 そして、3連目である。

”ふむ”は”ふいになじんでくる

 助詞「は」のあとの「”」。この「誤植」が隠しているものは何だろうか。ほんとうはつまり、井坂は、どんなことばを書こうとしていたのか。私は「推理小説」のような謎解きは大嫌いだが、なぜか、こういう「誤植」の推測は好きである。
 こういう「誤植」の推測は、井坂の詩のファンならすぐに何が書いてあったのか(書かれるべきだったのか)がすぐにわかることかもしれない。私は井坂の詩はほとんど読んだことがないので、ただ推測するだけである。そして、その推測には、たぶん井坂ではなく、私自身が顔を出してしまうだろう。--そうではあるけれど、ちょっと、推測をつづけてみる。ことばがことばを求めて動いていく--そのことが、私にとっては「詩」そのものの体験なので……。

 私は、この「誤植」を「欠落」として読んだ。つまり、

”ふむ”は”「へむ”に」ふいになじんでくる

 と読んでみた。「 」のなかに入れたことばが欠落しているのだと思って読んだ。
 そうすると、この作品には、ある構造が浮かび上がるからである。
 「ふむ」と「へむ」は別個の存在だが、どこか共通するものをもっている。そして、そのひとつが別のひとつになじんでくる。つまり、とけあってひとつになる。そして、その「ひとつ」になった「へむ」もまた世界とひとつになってゆく。言い換えれば、「へむ」が消え去る。消滅する。「ふむ」も「へむ」も消えて、世界だけになる。

 でも、「ふむ」も「へむ」も消えたら、そのときの「世界」そのものをだれが認識するのか。新しく誕生する誰かである。「ふむ」も「へむ」ももともと読者にはだれのことか(なんのことか)わからない。わからなくていいのだ。それはいずれにしろ、消え去るものだから。そして、消え去りながら、誕生するものこそ「詩人」というものなのだ。

暗闇から 時々
怒声や罵り声がきこえてくるが
ただ移動する大勢としかわからない

 「わからない」が絶妙である。この「わからない」は「わかる」を含んでいる。「移動する大勢」の感じは「わかる」のである。
 ことばは、詩のことばは、いつでも「わかる」感じのなかにある「わからないもの」と「わかる」ものを操作しながら、何かを生み出す--その何かになって「詩人」がうまれかわる。そういう作業である。詩を書くということは。

 井坂の「誤植」がいったい、ほんとうは何なのかわからないけれど、そのわからないものを井坂の作品のなかに探していて、そんなことを思った。




箱入豹
井坂 洋子
思潮社

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高橋千尋「焦がさないでていねいに煮詰めることが大事らしい」

2008-07-14 13:25:41 | 詩(雑誌・同人誌)
 高橋千尋「焦がさないでていねいに煮詰めることが大事らしい」(「一個」2、2008年初夏発行)
 絵本である。という、絵本形式であるというべきなのか。眠れぬ夜、頭の中は「うつ」がいっぱい。それを「鬱虫掘り」やってきて、掘っていく。「鬱虫」は佃煮にして食べる。そういう「物語」(?)がいちおう、ある。(と、私は読み取った。)
 台所で佃煮をつくっている絵のそばには、次の文字。

赤い台所には里子が住んでいて、
鬱虫の佃煮を煮詰めている。

里子はよよ子の親戚にあたるらしい。
それは確からしい。

鬱虫のつくだ煮は
黒砂糖、しょうゆ、みりん、
紹興酒、粉山椒、掘りたて鬱虫。

 虚構と現実が入り交じる。絵本だから、そこに書かれていることはもちろん虚構であり、「鬱虫のつくだ煮」なんてないのだろう。が、それをつくる手順、材料に「黒砂糖、しょうゆ、みりん」という具合に現実に存在する「もの」を配合することで、「鬱虫のつくだ煮」そのものを存在させてしまう。
 この現実と虚構の「あんばい」がとてもいい。
 それに先だつ2連、「里子」と「よよ子」の現実との関係の仕方も(現実との関係の描き方)も、「あんばい」がとてもいい。「親戚」とだけいって「おば」などといわないところに、虚構のうさんくささと透明さがいい感じでまじりあっている。繰り返される「らしい」「らしい」が、また絶妙だ。
 あいまいなものと明確なものが混じり合うと、ひとはあいまいなものを疑うよりも、確かなものを信じてしまう。
 「鬱虫のつくだ煮」。「鬱虫」は、何?と思うけれど、「つくだ煮」なら知っている。知っているものをしっかり抱き込んで意識は安心する。「つくだ煮」の作り方が書かれていれば、なおさら「つくだ煮」を信じてしまう。
 「里子」も「よよ子」もだれなのか知らないけれど、「台所」と「親戚」なら知っている。「親戚」のひとがやってきて「台所」を手伝うのも、なつかしいら暮らしで、とても安心する。
 「安心」をひきだす「あんばい」がとてもいいのだと思う。
 そして、それを実際に食べる描写が出てくると、もう、「安心」は揺るがない。

ぴり と 山椒のきいた ほろにがい鬱虫のつくだ煮。

「あぁ ご飯が進むこと。やっぱりご飯のおともは
つくだ煮ねぇ、玉木屋か鬱虫ねぇ。」

「そうねぇ何杯でも いけちゃうわ。」

「焦がさないで ていねいに煮詰めることが大事なの。」

 とてもいい感じだ。「あんばい」がいい、としか私は言い方を知らないが、とても、いい。
 配置される「絵」の感じもいい。
 半分もんもの、はんぶんにせもの。そういう感じがいい。
 そして「鬱虫」ということばもそうだけれど、その「嘘」(ありえないもの)にも「ほんもの」が潜んでいるという「あんばい」がなんともいえない。
 読んでいるうちに、その「嘘」なのかに潜んでいる「ほんもの」(たとえば、「鬱」)が、じんわりときいてくる。「鬱虫のつくだ煮」で何杯でもご飯が食べられるように、こういう嘘なら何杯食べても嫌悪感がでてこない。逆に、なんともいえない安心感がうまれる。

 この作品は、最後がまたまた大傑作なのだが、それはここでは省略する。私の文章では、もともと「絵本」の半分しか紹介できない。絵と文とのからみあいはぜひ「一個」そのもので読んでもらいたい。



 それにしても。というか、さらに、というべきか。
 タイトルの「焦がさないでていねいに煮詰めることが大事らしい」の「らしい」も非常におもしろい。
 先の引用を読み返してもらえればわかるが、作品のなか、本文には「らしい」はない。本文にはないけれど、タイトルには「らしい」を付け加えている。この絶妙な距離感--そこに、たぶんすべての「あんばい」の秘密があるのだと思う。
 高橋のほかの作品をもっと読めば、「あんばい」のことがもう少しわかるかもしれないが、いまは、たぶんすべての「あんばい」の秘密がある--という予感があるだけである。

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吉田加南子「しずく」、柏木麻里「蝶へ」

2008-07-13 19:45:36 | 詩(雑誌・同人誌)
吉田加南子「しずく」、柏木麻里「蝶へ」(「径」3、2008年06月01日発行)

 吉田加南子の作品は非常に批評しにくい。たとえば「しずく」という連作。何度も「しずく」というタイトルが出てくる。その最初の断章。

   しずく
空の種子(たね)です

 書かれているのは1行だけである。
 ここには「ことば」だけがある。「意味」が見当たらない。吉田は「意味」を意識しているのだろう。「種子」にわざわざ「たね」というルビを振っている。「しゅし」とは読まれたくないのだ。「しゅし」を拒んでいる何かがあるのだ。「意味」につながる可能性がそこにはあるのだろう。しかし、私には「意味」がわからない。
 「意味を拒絶したことば」がそこにあるだけ、という印象がある。
 2つ目の断章。

   しずく
空からではない

水からすべりおちるのです

 これもやはり、どう言及していいのかわからない。最初の「断章」の「空」がここでも登場する。最初の1行が、何らかの形でつづいている。しかし、吉田はわざわざ、もういちど「しずく」というタイトルをつけている。連続を拒否している。
 3行、つづけて書いてもいいのに、それを拒絶し、一方でうタイトルを「しずく」と同じものにすることで、連続を強要もしている。
 連続と拒否と強要。矛盾が、ここにはある。

 「矛盾」というのは、いつでも「思想」の始まりである。そこには、まだことばとして定着していない何か、ことばとして流通していない何かがある。流通言語にはのらない独自のものがある。
 連続の拒否と拒絶が吉田の「思想」である。

 「しずく」。それを「空の種子です」と定義されたとき、私は、ふと雨粒を思い浮かべる。空から落ちてくるしずく=雨。しかし、吉田は、雨のことを書いているのではない。書いているのかもしれないが、独自の書き方(思想を含んだ書き方)をしている。
 「しずく=雨」ではないことは、

空からではない

水からすべりおちるのです

 で明らかである。「雨」は空から落ちてくるが、吉田の書いているものは、「空から」「落ちる」のではなく「水から」「すべりおちる」。
 「雨」のように、「流通」することばではとらえきれないものが、ここには書かれている。そういうものを、いまあることばで書かなければならないということが、詩の苦しみである。(また、楽しみでもあるが。)

 「矛盾」は3つ目の断章で拡大する。

   しずくの匂い
ほどかれること

それもむすばれることです

 ここには「論理矛盾」しかない。普通は「ほどかれること」は「むすばれること」ではない。「ほどく」と「むすぶ」は反対の「意味」をもっている。ところが吉田はそれを「も」という簡単なことばで「同じもの」にしてしまう。
 3つ目の断章だけは「しずく」ではなく「しずくの匂い」になっている。
 ほんとうは、どの断章も「しずくの匂い」なのかもしれない。この作品は「しずくの匂い」について書かれたものかもしれない。そして、他の断章では「しずく」ですませてきたのに、3つ目の断章だけは「の匂い」と余分なものを付け加えざるをえなかった。「しずく」にしてしまいたいけれど、それでは「矛盾」が大きすぎて、ことばが動いて行かない。「矛盾」をほどき(解きほぐし)、動かす必要があったのだ。「矛盾」のなかでからまりあったものを、解きほぐす。それは、新しい結び目をつくる最初の一歩である。ほぐさないことには、からまりあって、肝心の結び目がつくれない。
 連続の拒否と強要のなかに存在する何か。
 それが、ここでは、どうしようもなく「表」でに出ざるをえなかった。

 吉田が描きたいのは「しずく」ではない。「しずくの匂い」である。匂いは「漂う」ものである。その「漂う」を引き受けて、4つ目の断章がつづく。

   しずく
漂うとき

湧きつづけるのですか

湧きだすとき

ただようのですか

 光

 って

 どこかに

 とまりたいの?

 「漂う」と「沸く」。あることばのなかには、ひとつの「意味」ではなく、いくつかの「意味」がある。それは通いあう。通い合いながら、しかし、同じものにはならない。同じなら、ことばはつかいわけられる必要はない。
 ここにも連続の拒否と強要に似たものがある。つながりたい。つながりたくない。矛盾したものが、そこにはある。

 この瞬間。

 私の意識は沈黙する。そして、そのとき、あ、吉田の書きたいのは、この「意識の沈黙」なのだということに気がつく。
 さまざまなことば。何かを描写する、いくつものことば。その描写のなかで、意識はいつも声を上げようとしている。声になろうとしている。吉田は、その声をいったん黙らせる。沈黙させる。矛盾のなかで沈黙させる。
 そして、沈黙のなかで何かが生まれる。生まれる予感がする。

 普通、詩は(あるいは、文学は)その生まれる予感を追いかける。追いかけて、ことばに定着させる。ところが、吉田は追いかけない。むしろ、さらに意識を沈黙させることばを書く。意識を沈黙させるためにことばを書く。
 7つ目の断章。

   しずく
光を生まなければならないのです

光が生まなければならないのです

 「を」と「が」の違い。そこにある「矛盾」。このまえで、意識は沈黙する。沈黙したまま、何かが生まれる、という予感を感じる。
 吉田の描いているものは、意識の沈黙の美。意識が沈黙するときにのみ、光のようにさっと駆け抜けていく美である。そういうものを批評することは難しい。一瞬、「あっ」と思う。その「あっ」が、実は批評だからである。「あっ」と思った、という以上のことは、たぶん、吉田のことばに対しては無効である。



 柏木麻里「蝶へ」も吉田の作品に似ている。ただし、吉田がことばを衝突させることで意識の沈黙を表現するのに対し、柏木は視覚的である。文字と文字との余白で意識の沈黙を表現するからである。
 吉田の詩は、声に出して伝えることができる。簡単に言えば、朗読ができる。ところが、柏木の詩は朗読では「意識の沈黙」の部分を伝えることができない。

蝶 という
とびら

 この2行の美しさは、私が紹介しているインターネットの、この感想文の形式では伝えることができない。「径」の1ページ目から3ページ目へと目で読んできて、その3ページ目の文字の配列のなかに、いや、その文字をとりかこむ「余白」のなかにこそ、詩があるからである。
 「径」を読んでください、としかいえない。
 「径」を読んで、3ページ目で、ことばを追いつづけた目が、ふっと一点に集中する。その瞬間の、快感。美しい蝶、探していた世界で一匹だけの蝶を、広い広い野で見つけた瞬間に似た喜びを味わってください。






言葉の向こうから
吉田 加南子
みすず書房

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音楽、日の
柏木 麻里
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石倉宙矢「かぞくてんせい」

2008-07-12 08:46:41 | 詩(雑誌・同人誌)
 石倉宙矢「かぞくてんせい」(「現代詩手帖」2008年07月号)
 「新人作品」欄。瀬尾育生が選んでいる。1連目。

よしこや
おかあさんもうわらいますからね
おまえも
いつまでもおこってないで
はやくわらいなさいよ
おとうさんならもうさきにわらっています
だからわたしもわらいます
おまえも
いつまでもがをはらずにわらいなさいね

 4連で構成されていて、構造は「よしこ」「おかあさん」「おとうさん」の繰り返しで、「行為」の時間系列も同じ。「よしこ」の「現在」を「おかあさん」がたしなめる。「おとうさん」は、もうその「こうい」をしている。
 どの連もそれぞれにおもしろいが、繰り返されることで、不思議なことに「もう終わり?」という印象が生まれる。いったい何連この調子で書くことができるのかわからないけれど、この先が読みたい、という気持ちになってくる。それは言い換えれば、この先をちょっと書いてみようかな、という気持ちにさせられるということである。

 詩に限らないが、どんな芸術でも、それにふれた瞬間、あ、こういう方法があるのか、これをちょっとまねしたいなあ、と思わせる作品はいい作品である。「これくらいの作品なら私にも書ける」と思わせる作品は、とてもいい作品である。
 石倉のことばは、ちょうど、その「これくらいの作品なら私にも書ける」と錯覚させることばの量で終わっている。4連という長さは、この作品には最適である。




現代詩手帖 2008年 07月号 [雑誌]

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是枝裕和監督「歩いても 歩いても」(3)

2008-07-12 08:20:07 | 映画
 書いても書いても、まだ書きたいことがある。書き残したことがある。
 この映画の魅力のひとつに繰り返しがある。
 たとえば樹木希林が長男の墓に水をかける。「暑かったろうね、暑いだろうね」。そのことばを阿部寛が何年か後に繰り返す。そのとき、墓のなかには母(樹木希林)も父もはいっている。妻と家族を連れてやってきた阿部寛が「暑いだろうね、暑かっただろうね」と墓石に水をかける。
 最初のシーンでは、墓石に水をかける樹木希林を阿部寛は、ちょっとばかにしながら見ている。死んでしまった人間に対して「暑いだろうね」というようなことばをかけても無意味である。理不尽である。そんな思いで、母の姿を見ている。母の思いにまで、阿部寛のこころは届いていないのである。理不尽、非理性的であることをしないではいられない思い--そういうものに、阿部寛のこころは届いていない。
 この映画は、そういう親の思いにまでこころがとどかない息子と、それに向き合い衝突してしまう老いた父・母の物語、そういう家族の物語だとも言える。
 思い通りにならないこと、理不尽なこと、不合理なことは、現実には様々に起きる。それをいくつもいくつも乗り越えて、ある日、ふっと、その乗り越えた瞬間に、自分の乗り越えたものが父や母の乗り越えたものと同じだと気がつく。そして、同じことをする。墓石に水をかけて「暑かったろうね」とことばをかけたところで、実際には、死んでしまった人間にはとどかないかもしれない。しかし、そうしないではいられない。理不尽なことをして、人間は、自分の行為を納得するのである。自分自身を納得するのである。
 ひとはみんな他人をではなく、自分を納得するために生きている。自分が納得できないから衝突する。

 墓参りのあと、阿部寛の家族は山道をおりる。すると黄色い蝶々が飛んでいる。「黄色いモンシロチョウは、冬を生き延びた白い蝶々が黄色になったものだ」と阿部寛が娘に語る。それは、冒頭の墓参りで樹木希林が阿部寛らに語ったことばそのままである。阿部寛には、そんなことは嘘だとわかっている。嘘だとわかっているけれど、そのことばを語りたい。母が語っていたという思い出を繰り返したいのである。
 繰り返すというのは「思い出」を繰り返すことであり、「思い出」を繰り返すということは「思い」を繰り返すことである。「思い出」というのは、ふっとこころの奥からわいてくるものであると同時に、こころの奥から意識的に「出す」ものでもある。「思い」を「形にする」ということでもある。
 ひとは「思い」を「形にする」ということで生きている。

 墓石に水をかける。そして「暑かったろうね」と語る。それは、「思い」を「形にする」ひとつの典型である。なぜ、そんなことをするかと言えば、そうすることで、こういう「思い」があることを知ってもらいたい、覚えておいてほしいと願うからである。
 墓石に水をかけ、ことばをかける阿部寛の様子に、ふたりのこどもたちは無頓着である。だが、いま、無頓着だからといって、それが記憶に残らないわけではない。記憶のどこかに残って、それがある日、「思い」そのものを生み出し、「形」にまで高めていく。そういうことが起きる。

 この映画のなかに出てくるせりふ--そのひとつひとつは、どれもどこかで聞いたことがあるようことばである。暮らしのなかで繰り返される「ぐち」のようなものである。激しく相手を叩きのめす討論のことば、決着をつけることばではなく、ずるずると結論を先のばしにすることばである。ようするに、ことあるごとに思い出し、口にしつづけることばである。
 墓石に水をかけるシーン、黄色い蝶々をみて語ることば--それはたまたま、この映画のなかで明確に繰り返されているが、その繰り返しが挟み込んでいるこの映画のなかの「ストーリー」のことばも、同じように繰り返しなのである。
 何度か「また、その話」というやりとりが、実際、映画のなかに出てくるが、人間はひたすら繰り返す。繰り返すことで、あいまいな気持ちを納得する。繰り返しが、「思い」をはっきりした形にする。その形を繰り返しなぞってみたとき、その形によりそうように、たとえば母の、父の思いが近づいてくる。その瞬間の、不思議な和解。
 声高にはならず、ただひっそりと語ってくる。

 私は何度も何度も、死んでしまった父や母を思い出した。父や母の肉体のなかで繰り返された時間というものを思った。--そういうものは、この映画のなかのせりふではないが、いつでも遅れてやってくる。間に合わない。そして、間に合わなかったからこそ、ひとは、それを繰り返してみる。繰り返すことで、少しでも取り戻そうとする。

 それは悲しみである。愛しみである。



小説ワンダフルライフ (ハヤカワ文庫JA)
是枝 裕和
早川書房

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峯澤典子『水版画』

2008-07-11 11:26:18 | 詩集
 峯澤典子『水版画』(ふらんす堂、2008年07月07日発行)

 ことばを読みはじめて、すぐ、この人は何を探しているのだろう、と思った。何を追いかけているのだろう、と思った。たとえば「水しるべ」。その1連目。

濡れた木陰に
雨雲の疱瘡のように浮かぶ
うすあおい花の球体を
たよりない明かりとして
神楽坂から路地を渡る

 「神楽坂から路地を渡る」。そして、どこへ行くのか、見当がつかない。別に見当がつかなくてもいいのかもしれないけれど、これは不思議な感じだ。
 どこへ行くかわからないかわりに、いま、ここまで来た道が、過去へ過去へとひきずりこまれる、というのでもない。
 ここには、「未来」も「過去」もない。
 峯澤のことばには「時間」がない。かわりに「時」だけがある。「時」が「時間」という「幅」をもったありようから切り離されて、孤立している。私には、そんなふうに感じられる。
 「時」が孤立するように、「場」を構成する「存在」もまた孤立している。

濡れた木陰に
雨雲の疱瘡のように浮かぶ

 この2行は「主語」を持たない。「何が」が不明のまま、ことばが動いていく。「濡れた木陰」が存在するが、その存在は何かと結びつくというより、「濡れている」こと「木陰」であることが、2行目で否定される。

雨雲の疱瘡のように浮かぶ

 「何が?」。そういう意識を否定するように、そんなふうに意識が動いていかないように「雨雲の疱瘡」という見たこともないものがたちはだかる。ことばとことば、それは意識と意識といってもいいのかもしれないが、何か連続した動きを分断して、たちはだかっている。1行目と2行目には連続した意識があるはずなのに、それが見えて来ない。そのために、1行目と2行目は孤立しているように感じられる。

濡れた木陰に
雨雲の疱瘡のように浮かぶ
うすあおい花の球体を

 「うすあおい花の球体」(アジサイかなあ……)という「主語」が登場してきたように、一瞬錯覚する。しかし「主語」がかかえこむ「格助詞」がつづかない。「は」「が」がつづかない。「を」という「補語」を呼び込む助詞。
 「雨雲の疱瘡のように浮かぶうすあおい花の球体を」と1行に書かれていれば、2行目は「花」を修飾する節だということがわかる。峯澤は1行につづけて書かずに改行するだけではなく、その改行の瞬間に「うすあおい」という別の修飾語(形容詞)を「花」に結びつける。
 この「うすあおい」という修飾語によって、「雨雲の疱瘡のように浮かぶ花の球体」は分断され、孤立する。
 孤立するだけではなく、「花」そのものが「補語」になることによって、「主語」がわからない不安が、いっそう強くなる。「何が?」 いったい、何が、ここに描かれているのか。ことばは、意識は、どこへ動いていこうとしているのか。

濡れた木陰に
雨雲の疱瘡のように浮かぶ
うすあおい花の球体を
たよりない明かりとして

 まだ「主語」は出てこない。「主語」のまえに、おそらく「主語」を説明する(補足する)、節が挿入される。「うすあおい」の働きと同じような感じで「たよりない」が、意識を分断する。それぞれのことばを孤立させる。
 「時間」が「時」のまま、それぞれの瞬間に、孤立して存在している、という感じがどんどん強くなってくる。
 そして。

濡れた木陰に
雨雲の疱瘡のように浮かぶ
うすあおい花の球体を
たよりない明かりとして
神楽坂から路地を渡る

 やっと「主語」が登場する。「述語」が登場する。
 やっと「主語」が登場したけれど、それは隠されている。「わたし」ということばを私は無意識に選び、(たぶん、「主語」を省略するという日本語の特性にしたがって)、述語「渡る」の「主語」と仮に考える。
 ほんとうは、「猫」かもしれない。「車」かもしれない。
 わからないまま、私は「わたし」を「主語」とかってに思い込んだだけである。
 そして「主語・わたし」補った瞬間、それまでの行が連続するかというと、私の意識のなかでは連続しない。あいかわらず分断されている。孤立している。そして、その孤立とともに、「人間」というよりも、孤立したひとつの「感覚」が浮かび上がる。目。視覚。「わたし」が目だけになって、私の視覚だけが、孤立して、「時」によって分断されながらさまよっている感じがする。
 これは、非常に、非常に、非常に寂しい。

 私が最初に感じた不思議さは、この「寂しさ」に原因があるのだと思う。いろんなものが描かれる。しかし、それは、つながっていない。つながっているのは、「わたし」のなかの「寂しさ」だけである。そして、その「寂しさ」が、あらゆる存在に対して、まるで「孤立」を迫っているような感じがする。「寂しい」からすべてが「孤立」してみえる、という感じを通り越している。
 対象を孤立させ、そうすることでやっと「わたし」の孤立を受け入れている、という感じがする。
 だが、いったん「孤立」が、「寂しさ」が共有されると、どうなるだろうか。「孤立」ではなくなる。
 それは、しかし、「わたし」には満足できない。「わたし」はさらに「孤立」を「さびしさ」を追いつづける。
 2連目。

いくつ角を折れても
駅前の堀の水の匂いが
坂のしたから追いかけてきて
たったいま改札で離れたひとの
体温の湿りを運んできてしまう

 目。視覚は、嗅覚、触覚へと広がって行く。広がりながら、孤立と寂しさを求める。「別れてきたひと」ではなく「離れてきた」ひと。「体温の温もり」ではなく「湿り」。その、微妙なゆらぎのなかで、ことばがふるえる。「流通言語」から「孤立」し、「こりつ」した感覚を浮かび上がらせる。
 このあと、「寂しさ」は「寂しさ」をさらに追い求めながら、美しく美しくなって行く。

目を瞑ったまま皮膚で知る
畳を天井をゆるす水と花の照り返し
あなたが目を浸した洗面器に
かた耳をつけると
ちりかかる花びらのような
まあるい和音
ふたりのどちらかが
少しでも深く息を吸うと
紙の花のように
すぐに雨にとけてしまう

 視覚、触覚、聴覚が誘い合いながら「寂しさ」を孤立させる。
 この美しさにこそ言及しなければならないのかもしれない。しかし、こういう美しさは、語ってはならないのだ。きっと。読んでもらうべきものなのだ。「寂しさ」はひとりひとりが抱きしめるべきものだから。峯澤が「寂しさ」を抱きしめているように。


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川口晴美「出航」

2008-07-10 00:28:25 | 詩(雑誌・同人誌)
川口晴美「出航」(「大マゼラン」11、2008年05月10日発行)

 「浴槽」と「わたし」。この関係は、たいてい「浴槽」に「わたし」が入るという形をとる。この詩も最初はそういう形をとっている。

 浅い浴槽でした。横幅は、ひとり横たわって入るのにちょうどいい狭さ。

 しかし、この書き出しにもすでに「浴槽」が「浴槽」でなくなり、「わたし」が「わたし」ではなくなる予感のようなものがある。

ちょうどいい狭さ

 「広さ」ではなく「狭さ」。そこにあるのは、触覚である。広いとき、私たちはなににも触れることができない。対象との距離がないとき(狭いとき)、私たちは何かに触れる。
 触れることをめぐって、川口の「変形」は始まる。

 ひた、と湿った足音がしました。

 狭さによって覚醒された触覚は「湿った」足音を聞く。この行で大事なのは「音」ではない。「聞く」ではない。「湿った」という感覚である。その「湿った」という「聴覚」ではないものが「聴覚」を刺激している。「聴覚」が「湿った」という感覚に侵食され、普通は聞こえないものを聞いてしまっている。

 ひた、と湿った足音がしました。浴室のタイルもわたしも、いまは乾いているはずなのに。浴室の扉はとざされてここにいるのはわたしだけ。ほんとうに聞こえたのでしょうか。記憶ちがいかもしれません。いいえ記憶のなかから響いてきたのかもしれません。きっと、そう、さっき跣で中庭を横切ったときの足音を、おもいだしたのですわたしは。

 音は、外部からはやってこない。記憶--「わたし」のなかから聞こえてくる。そして、それは「湿った」音である。「わたし」は「乾いているはず」なのに、それは「湿っ」ている。
 「湿った」ものと「乾いた」もの。それは、どこで出会うのか。引き金は「狭さ」である。接触である。触覚である。
 「記憶」の音を、川口は、次のように言い換えてもいる。

 ひた。わたしの体から湿った音がする。

 「記憶」とは「体」である。「湿った」ものと「乾いた」ものは、「体」で出会っているのである。この「体」を川口は、さらに言い換えている。

ぬかるんだ泥に濡れたのか、乾いた芝草と花を付着させたのか、滑らかな土に擦られたのか、覚えているのはわたしではなくわたしの皮膚です。

 「体」とは川口にとって「皮膚」のことである。その皮膚は、いま、「浴槽」に触れている。「水」に触れている。そして、そこでは「狭さ」は消えてしまっている。「皮膚」「水」「浴槽」がぴったりと重なる。そのとき、川口は「変身」する。

 わたしは開かれ、解かれて知らない場所になりました。わたしは浅い浴槽でした。

 「わたし」は「浴槽」に「変身」する。
 詩とは、ことばをつかって、ことばを書くことによって、「わたし」が「わたし」ではなくなってしまうことである。あることがらを書くということは、それまで存在しなかったものを出現させることである。その過程で、川口は「わたし」から「浴槽」になる。「変身」する。つまり、それは「詩」になってしまうということである。

 ひた。濡れた乾いた音をたて、中庭を、夜を斜めに切り裂いて、舟はここをはなれてゆきます。

 「ここ」とは「わたし」にほかならない。そのとき「わたし」ば「わたし」ではなく、「詩人」である。「濡れた乾いた」という矛盾を生きるしかない「いのち」である。




lives―川口晴美詩集 (現代詩人叢書)
川口 晴美
ふらんす堂

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是枝裕和監督「歩いても 歩いても」(2)

2008-07-09 13:00:08 | 映画
是枝裕和監督「歩いても 歩いても」(2)

 「家」のおもしろさがいたることろに出て来る。この映画のメインテーマは「家」というより「家族」なのだろうけれど、「家族」の舞台となる「家」そのものも非常におもしろい。
 玄関がある。硝子戸である。硝子戸ではあるけれど、透明ではない。縦に波が入っている。外から家のなかは見えない。一方、家のなかから外も見えない。しかし、家のなかからは外の様子は、外から内部をうかがうよりははっきり見える。外と内の明るさの違いで、影の見え方が違う。誰かがきた時、その影は内部からははっきり見ることができる。そういう構造につくられた家である。このつくりには、マンションや何かの鉄の扉とは違った「思想」がある。「家」の内と外を区別する「思想」がある。外部と接する時の「思想」がある。内部は隠したまま、外部のことを知る、という「思想」がある。そして、その「思想」はたとえばマンションのドアの「覗き穴」(?)にもあるのだけれど、「防御」の度合い、というか、印象が違う。マンションのドア、その「覗き穴」は、ドアの外のひとに「あ、今、覗かれている、自分が誰であるか確かめられている」といういんしょうがとても強くあるが、波ガラスのドアにはそういう印象がない。外を半分くらい受け入れている姿勢を出す--というところに、人間と人間のつきあいの「思想」がある。
 どの「家」でもたいていは調理場(流し台)は窓に向かってつくられることが多い。古い家ならなおさらだ。(マンションはリビングに向かって流し台があるつくりもある。)そこには、自然の光を利用するという節約の精神もあるのかもしれないが、それ以上に、やはり自然を重視する「思想」があるのだと思う。電気代の節約というよりも、自然の光で野菜を、その他の素材を確かめるという「思想」。たとえばダイコンやニンジンのみずみずしさは自然の光の方がはっきりと浮かび上がらせることができる。つかう水の輝き(それが水道の水であっても)も、太陽の光にふれることで、いったん人工のものから自然のものに甦る。そういう印象がある。映画の冒頭に樹木希林とYOUが料理の下ごしらえにダイコンの皮をむき、ニンジンをそいでいるが、そのときの色は電燈の光の色ではなく、あくまで自然の太陽の光によって引き出される輝きである。その太陽の光の輝きが素材を引き立てる。料理をおいしくつくるという「思想」につながっていく。
 「外」の取り込み方でおもしろいのは、玄関と縁側の関係にもあらわれている。玄関のドアはいつも閉ざされている。必要があるときのみ、それは開かれる。家に入る時、家から出て行く時。ところが縁側は違う。いつも開かれている。外と、つまり自然と接している。家のなかに自然を取り込む役割を果たしている。ここにも「家」の「思想」がある。人間は選んだ上で「家」のなかへ入れる。「家」のなかでも、玄関までのひと、玄関をあがり「家」の内部まで入れるひと。その区別がある。
 これに対して、縁側は、ひとの出入りとは関係がない。縁側を利用して「家」に出入りするのは「家族」のみである。「家族」だけが許される「特権」がここにある。親密なものだけに許される「特権」。その「特権」を自然は共有している。光、風、時には蝶々も「家」の「家」へ自由に出入りする。(この蝶々の「侵入」は、映画では特別の「意味」をもって描かれるが、こうしたことが可能なのも「縁側」があるからである。)そういう自然が「家」の「内」と「外」をつなぎ、人間の感性をゆったりさせる。「内」でいざこざというか、しっくりこない何かがあったとき、ひとは、「家」の「内」から目を「外」へ、自然へ向ける。阿部寛が父との会話に嫌気がさして、「外」を眺める。原田芳雄が弔問にやってきた少年(すでに青年)に背を向けて庭を見つめる。いやなこと、気に食わないことがあったら、そのときの心を、そんなふうにして「自然」へ向けて開放する。家の「内」にためこまない。そういう「思想」、そういう「暮らしの知恵」が「縁側」にある。
 この映画は、そういうものをとても自然に、暮らしそのものとしてきちんと描いている。人間が長い暮らしのなかで身につけてきた、ことばにならないような「思想」--つまり、マルクスだとかヘーゲルだとかカントだとか、あるいはドゥールーズだとかの、ことばことばしたことばで確立する「思想」とは違った「思想」をきちんと映像としてとらえている。
 ことばではなく、暮らしそのものが鍛える「思想」。これは「長江哀歌」にとても美しい形で表現されていたが、この映画にも、それに通じるものがある。「家族」が勢ぞろいしたときのために、大きな座りテーブル(正式にはなんというのだろう)を2階から下ろして来る。そういうものを常に準備しているという「思想」。そのテーブルをきちんと磨く、磨いているという暮らしの「思想」。タンス、引き出し、そういうものの、埃をはらい磨き上げるという「思想」。ひとつひとつの家具の、調度の、使い込まれた色、つや、輝き。そういうものに含まれる「思想」。「内」を守るという「思想」。「内」を自分の暮らしにあわせ、快適にととのえるという「思想」。
 この「内」の「思想」は、人間関係でも、しっかり描かれている。原田芳雄が浮気をしていた若い時代。樹木希林は原田が通いつめる女のアパートの下まで行った。こどもをつれて。そして、その窓の下で、原田が「ブルーライハト・ヨコハマ」を歌っているのを聞いた。その記憶を、樹木希林は彼女自身の内部にしっかり抱き留めている。同時に、そのときの歌、レコードをしっかり「家」の「内」にも残していて、ときおりそのレコードを聞いている。彼女は、そんなふうにして「内」を守った、維持してきた。
 この映画は、ある意味では、「家」の「内」と「外」の関係を、樹木希林の「内」と「外」を重ね合わせる形で描いている。それぞれの当時人物にはそれぞれの「内」と「外」があり、それもきちんと描かれているが、とりわけ樹木希林の姿をとおして象徴的に描いている。長男の死の原因となった少年に対する憎しみ、「忘れてもらっちゃ困る」「うらむものがないだけに、よけい苦しい」というようなことば--「内」から噴出し、「内」を知っているもの(家族)に対してのみ許されることば、それを吐き出す一瞬。そこに凝縮する「内」と「外」。そういうものが、ほんとうに「家」の構造そのもの、「家」で暮らすことそのものの「思想」とぴったり重なる。

 この映画はほんとうにおもしろい。「家」の内部の描写、光の描き方、使い込まれた調度の描写、さらには陸橋の裏側の錆などの描写に「長江哀歌」に通じるものを感じ、そのために「長江哀歌」が10年に1本の映画だとすれば、この映画は3年に1本、5年に1本の映画だと思ってしまったが(きのうは)、感想を書きつづけているうちに、この映画もまぎれもなく10年に1本の映画だと確信した。
 ほんとうにすばらしい映画だ。




歩いても歩いても
是枝 裕和
幻冬舎

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蜂飼耳「ほたるいかに触る」

2008-07-09 01:52:36 | その他(音楽、小説etc)
 蜂飼耳「ほたるいかに触る」(「something」7、2008年07月03日発行)
 「ほたるいかに触る」のなかにとても興味をひかれる部分があった。水族館(?)で触る。そして、その触って楽しむコーナーのうえに、「食べないでください」という注意書きを見つける。そのことのことを書いている。

 いかの仲間は、眼がいいという。レンズなどが精巧に出来ていて、よく見えるらしい。十センチに満たないほたるいかの眼は、いきいきと黒い。見られているな、と確信させる眼だ。まばたきはしない。こんなものを、捕まえて食べるのだ。闇のなかで脅かされれば青い光を流す、このようなものたちを。
 ふれて構わないコーナーのほたるいかたちは、囚われの身であることを把握しているのだろうか。知らない生きものの手に追われたり、逃げたりしながら、もうどこへも行かれない。
 「食べないでください」。言葉は告げる。眺めていても、とくに食欲は湧かない。食べたりはしない。冷たい水に両手を浸したまま、心だけ後退する。詩に似た影が、足元に溜まる。

 ほたるいかを描写する蜂飼のことば。そのことばと「食べないでください」が重なり合わない。どちらもことばであるのに、互いに受け入れない。どこを探してみても、蜂飼の肉体のなかには「食べないでください」に対応する肉体がない。蜂飼の肉体は「食べる」ということばと、この瞬間、なんの共通点ももたない。
 ことばが「肉体」をはなれてゆく。あるいは「肉体」がことばをはなれてゆくのか。そのことを、しかし、蜂飼は「肉体」ではなく「心」ととらえている。

心だけ後退する。

 そして、ことばだけが、重なり合わないことばだけが、「溜まる」。動いていくのではなく、「溜まる」。その感じを、

詩に似た影

 と蜂飼はいう。
 「詩」とは、蜂飼にとって、他人のことばと重なり合わないことば。蜂飼の「こころ」が、他人のことばから離れ(後退し)、その離れた場(後退した場)で、たまりつづけることばのことである。

 「詩に似た影」というのは「比喩」である。
 「比喩」とはそこに不在のもの。そこに不在だからこそ「比喩」というものが成立する。そういう場所で、蜂飼は「詩」ということばをつかっている。
 この定義を、とてもおもしろいと思った。





食うものは食われる夜
蜂飼 耳
思潮社

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是枝裕和監督「歩いても 歩いても」(★★★★★)

2008-07-08 00:01:29 | 映画
監督 是枝裕和 出演 樹木希林、阿部寛、夏川結衣、YOU、原田芳雄

 映画が終わった瞬間、「えっ、これで終わり? もっとつづきを見せてよ」と思わず叫んでしまう映画である。
 映画のなかでは何も起きない。いや、起きてはいるのだが、そのすべてが「時間」として描かれているので、何も起きていないように見える。「時間」として描かれるというのは、たとえば、あるひとつのシーン。冒頭の樹木希林とYOUがニンジンを削り、ダイコンの皮を剥く。そのとき描かれているのは、料理の下ごしらえをしている「今」という「時間」ではあるけれど、実は、その「今」は長い長い「時間」の積み重ね(料理をするという暮らしの積み重ね)とつながり、ほんとうに私たちが見ているのは「今」ではなく、樹木希林とYOUがそんなうふにして暮らしてきたという「家族の歴史」「家族の時間」である。そこには料理の下ごしらえという「今の現実」だけではなく、それまでのふたりのやりとりの「時間」が描かれている。私たちは、その長い長い「時間」、「今」を支える「過去の時間」を見てしまうので、何も起きていないように錯覚する。
 どのシーンも同じである。「今」を描きながら、実は「過去」というか、それぞれの人間のもっている「歴史」「時間」をていねいに描いている。
 映画は、海で溺れる少年を救って亡くなった長男の命日に集まった家族と、関係者を中心に描かれる。いわば「一家」が集まり、食事をし、話をする。それだけなのだが、その「それだけ」の奥に、それぞれの「歴史」「時間」が描かれているので、私は、まるでその「家族」の一員になってしまったように感じ、映画に飲み込まれてしまった。樹木希林は私の母ではないが、私の母そのものに感じられた。阿部寛は私の兄弟ではないが、私の兄弟のように感じられた。彼らが表現する「時間」と同じ時間を、私自身が体験したことがあるからだ。「演技」でも「ストーリー」でもなく、「時間」そのものを見ている、「時間」そのものが見えてくるので、そう感じてしまうのだ。
 この映画は、そして、そういう「時間」だけを描いているわけではない。「時間」を描きながら、その「時間」をつきやぶってあらわれる「人間のいのち」そのものをも描いている。「過去の時間」という抽象的なものだけが描かれるのなら、たぶん、映画は退屈である。それを破ってあらわれる「人間のいのち」の強さが、ときどき「時間」を消してしまう。「人間のいのち」は「過去」につながるのではなく、「時間」を突き破ることで、一気に「永遠」につながる。そういうシーンが、またすばらしい。
 たとえば、樹木希林は、「思い出の曲はブルーライト・ヨコハマ」だという。その理由は? 誰も知らない。誰も知らないその理由を、原田芳雄が風呂に入っているときに、硝子戸越しに、そっと明かす。「原田芳雄が愛人をつくっていたとき、そのアパートの下までこどもをつれて行った。アパートから原田芳雄が『ブルーライト・ヨコハマ』を歌う声が聞こえた」と。「嫉妬」が、その曲の裏に潜んでいる。「我慢」が、その曲の裏に潜んでいる。それはもちろんいしだあゆみの歌そのものがもっている「嫉妬」「我慢」ではなく、樹木希林が付け加えたものである。「人間のいのち」には「嫉妬」や「我慢」という形をとるものがある。「人間の永遠」(人間の絶対真理)というものが、周囲のものを打ち破ってあらわれる。その瞬間がすばらしい。
 長男に救われた少年が青年になって命日に訪問する。「もう仏前に参ってもらわなくてもいいのでは」と阿部寛がいう。それに対して樹木希林は猛烈に怒る。「忘れてもらっちゃ困る。つらい思いをしてもらわなくては困る」。それはこどもを失ったやり場のない悲しみ、消えることのない絶望である。
 この「嫉妬」「我慢」「絶望」(忘れることのできない心)は「料理の下ごしらえ」の「時間」のように、ひとを安心させる形では表に出てこない。表に出てこないことで、「時間」をどこかでしっかりと縛りつけている。それが、ある瞬間、突然、あらわれる。日常という「連続する時間」を突き破ってあばれる。
 人間には日常という時間と非日常という時間がある。それは、どこかで絡み合っている。それがときとして、くっきり見える。くっきり姿をあらわす瞬間がある。ときどき押さえている非日常の時間を爆発させ、日常の時間を安定させるのかもしれない。そういう爆発がないと、日常は狂ってしまうのかもしれない。
 そういう「人間のありかた」そのものを、この映画は「ストーリー」に閉じ込めず、「ストーリー」を開いたまま描いている。だから、終わりようがない。結論がない。そして、結論がないがゆえに、え、終わってしまうの?という気持ちが生まれる。ほんとうは、映画の外で「時間」はつづいている。その時間のつづきは、私にもつづいている(つながっている)。そういうことを感じて、こころが震える。

 この映画は、俳優陣が演じる「時間」という演技のほかに、もうひとつの演技がある。舞台となった「家」そのものが「演技」している。使い込まれた台所、テーブル、畳や屋襖、ドア、ガラス、鴨居……そういものまでが「演技」している。「演技」という言い方が奇妙ならば、「呼吸」している、と言いなおせばいいだろうか。俳優陣と同じ「空気」を「呼吸」している。同じ屋根の下で同じ「空気」を「呼吸」する。その「呼吸」に窓から入ってくる光さえも反応し、しずかに「呼吸」の色に染まる。細部の色のひとつひとつがとても美しい。生活という時間をくぐり抜けてきた美しさがある。「家」そのものの「歴史」は「家族」の「歴史」。その重なり合った「時間」と「呼吸」。それがこの映画にはある。
 もしかすると樹木希林、阿部寛の演技よりも、「家」そのものの「演技」の方が、この映画では重要かもしれない。樹木希林、阿部寛に映画を見ている間は目を奪われたが、映画を見終わって、思い出してみると、舞台の「家」が、私の「家」でもないのに、懐かしい懐かしい我が家に見えてくる。家族が集まり、呼吸する、いっしょに食事し、いっしょに生きていく--そのときの「場」が見えてくる。
 他人の家なのに、我が家に見える。他人の母なのに自分母に見える。他人の兄弟なのに自分の兄弟のように感じる。不思議だ。こういう不思議な映画のためにこそ、「傑作」ということばがある。



誰も知らない

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尾山景子「冬の時間」

2008-07-07 01:01:39 | 詩(雑誌・同人誌)
 尾山景子「冬の時間」(「大マゼラン」11、2008年05月10日発行)
 尾山景子の「冬の時間」。ある一部分だけ、とても気になる。その行だけを引用する。

小船は静かに動いている
暗い空がすぐ頭上に来ている
早くここから逃れたい、と思っている
船の上で立ち上がる
体がふらつく
船が動く
下がってきている空を両手で持ち上げる
意外にかるく
すうーっと上に上がる
手を放すとまた少し下がる
船が動く

 とても美しい。そして、その美しさを破るようにして存在する「意外に」ということば。なんといえばいいのだろうか。「意外に」ということばがなければ、私は、この詩について書くことはなかったと思う。「意外に」が、空と私と船とを一回かぎりの出会いとして結びつけている。
 「意外に」が、たぶん、尾山の「思想」なのだ。

 何かを感じる。何かを見る。何かを聞く。なんでもいいけれど、そのとき「意外に」という感覚がふっと入り込む。「意外に」というのは、「意識」が裏切られるということである。その瞬間に、世界が動く。
 この詩では

船が動く

 と書かれているが、私が動いたのか、海が動いたのか、空が動いたのか、実際はよくわからない。「船」を「私」のいる「場」と考えればいいのかもしれない。その「場」が動いた。「意外」に誘われるようにして「意識」の「外」へ、つまり知らなかった「場」(領域)へ動いていくのである。
 この「動く」が、とても美しい。

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三角みづ紀『錯覚しなければ』

2008-07-06 08:42:59 | 詩集
錯覚しなければ
三角 みづ紀
思潮社、2008年05月31日発行

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 「うしないつづける」の次の部分を私は何度も読み直した。

大勢のわたし自身をわたしたちが
わたしを囲んで

 「大勢のわたし自身をわたしたちが/囲んで」ではなく「わたしを」囲んで。補語が繰り返される。繰り返される「わたし」に、「わたし」と繰り返さなければならない切実な悲しみを感じた。繰り返しても繰り返しても、たどりつけない「わたし」を感じた。たどりつけないならば「わたし」と感じなくていいのかもしれない。もしかしたら存在しないのかもしれない。しかし、存在を三角は感じる。感じるのに、たどりつけない。感じだけが存在して「わたし」が存在しない。そのときの、感じることの「かなしみ」。それは「悲しみ」であると同時に「愛しみ」なのだろう。悲しみに愛がまじるがゆえに、それは切実なのである。痛切なのである。

大勢のわたし自身をわたしたちが
わたしを囲んで
かごめ
かごめ
を、はじめる
言い当てたわたしを
わたしは食して
もう行かれない場所には
赤い丸をつけるのだった

 「わたし」を「食して」、「わたし」を消していく。その「わたし」がいた「場所」をひとつひとつ消してゆく。「わたし」を減らすことで、「わたし」にたどりつこうとする。「1」としての「わたし」。「わたし」がまぎれもなく「1」であることを確かめたくて、三角は「わたし」を消してゆく。「わたしたち」を消してゆく。

あなたたち
わたしじゃない
にせものよ
もう少しで
わたしはわたしを取り戻す
でもなにかが
うまいぐあいに
欠落していて

 「あなたたち」とは「わたしたち」を「わたし」から見つめなおした呼称である。「わたしたち」は「わたし」ではない。「わたし」ではない「わたしたち」を消してゆく。そうすることで、「わたしはわたしを取り戻す」。
 この「取り戻す」という意識のなかに三角の「思想」がある。「1」になることを「取り戻す」。「消してゆく」(食してしまう)ことと「取り戻す」ことが、このとき一致する。

でもなにかが
うまいぐあいに
欠落していて

 「欠落していて」、それが、どういうことになるのか。このことを、三角は、書けない。どう書いていいか、わからない。この、わからないものを、書こうとして、ことばはクライマックスに達する。

最後のピースが見当たらない
おうそしてきの準備がなされていく
待って
もう少しで
わたし息を吹き返すの

 「最後のピース」とは「わたしたち」の「最後のわたし」だろう。それを消してしまえば、「わたし」は「1」になる。だが、その「最後のわたし」がみつからないので「わたし」は「わたし」を取り戻せない。
 ここには、一種の矛盾がある。
 「最後のわたし」がみつからないなら、「わたしたち」を消そうとしている「わたし」こそが「最後のわたし」(最後のピース)になるだろう。論理的には、たしかにそうなるのだが、「感じ」はそのことに納得しない。「最後のわたし」がいない。「わたし」が「わたし」になるための、消してしまわなければならない「最後のわたし」がいない。欠落している。だから「わたし」は「わたし」になれない。そこには「わたし」しかいないのに「わたし」になれない。「わたし」を取り戻せない。
 ぽっかりあいた虚無のようなもの。そのどこまでもはてしない空虚さが、「わたし」にぴったりくっついてはなれない。どう引き剥がしていいのかわからない。無理やり引き剥がせば、「わたし」を傷つける。傷つけてでも、引き剥がしたい。
 ここから、自傷の愛、自傷の自己確認の「かなしみ」は、はじまる。その「はじまり」の場で、三角は苦悩する。叫ぶ。泣く。それが三角の詩である。思想である。

 「わたし」と「わたしたち」のぴったりくっつくことで生まれる亀裂、虚無。それを三角は別のことばでも書いている。「きみの名は」の書き出し。

父親/母親に犯された夢をみてしまった
彼/彼女はわらって次の合図を待った

 「父親/母親」は「わたし/わたしたち」である。「彼/彼女」は「わたし/わたしたち」である。「わたし」と「わたしたち」が同じ存在ではないのと同じように、「父親」と「母親」は同一のものではない。「彼」と「彼女」は同一のものではない。しかし、それは一方を消してしまえば、たとえば「親」という存在に、「人間」という存在になる。この場合、「消す」とは完全な融合と同じである。
 ほんとうは「融合」(一体)というものを探さなければならないのかもしれない。
 だが、三角は「融合」ではなく、あくまで、対象を「消す」(食する、内部に取り込み消す)ことを、彼女自身のことばの運動の方向性として追い求めている。

 ここにはどうしようもない「矛盾」がある。
 そしてこの「矛盾」というのは「間違っている」という意味ではない。
 私はとりあえず「矛盾」と書いてしまうが、それは私の論理では「矛盾」としか言えないということであって、それを「矛盾」ということばではなく、もっと別のことばでとらえなおすことのできる「次元」がどこかにあるのだ。
 その「次元」は三角の「感じ」のなかにある。まだ、「感じ」のなかにしかない。それを、三角は探している。追い求めている。そして、それはまだことばにはならない。だから、はかなく、かなしく、切実な、ゆらぎの苦悩としてあらわれてきてしまう。
 だが、この「矛盾」はいつか必ず乗り越えられ、もっと強い「思想」になる。「思想」は常に「矛盾」を超えたときに、その鮮明な姿をあらわす。

 いま、ここにあるのは、そういう「思想」の予感である。







オウバアキル
三角 みづ紀
思潮社

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四元康祐「言語ジャック」

2008-07-05 01:22:08 | 詩(雑誌・同人誌)
 四元康祐「言語ジャック」(「現代詩手帖」2008年07月号)
 状況がことなることばが出会う。その出会いを、そのまま注釈を加えずに、出会いのままほうりだしている。
 私は、ふいに、中学のときの修学旅行のことを思い出した。夜、隠し芸をやる。そのとき、陰気な二人がほかのひととペアが組めずに取り残された。その二人がしょうがなく(?)ペアになって、歌を歌った。「かえるの合唱」と「春の小川」。独唱と独唱で、ハーモニーとかの楽しみがあるわけではない。私たちは、あっけにとられた。なにが始まったかわからなかった。どんな反応をしていのかわからなかった。終わった瞬間、ただ、拍手をした。こんな歌の歌い方があるのか、とただびっくりした。
 この「芸」の基本は、そこで歌われるふたつの歌が、とてもよく知られていることだ。だから、まったく違った曲なのに、はっきりと聞き取れる。そのことが、また、驚きだった。私たちの「意識」のなかにあるものと、はっきり呼応しながら、目の前に見たこともない形であらわれてきた--ということに感動(?)してしまった。

 それに類似(?)したことを、四元はやっている。「言語ジャック」は「1」と「2」から成り立っているが、その「2 日常の細道・発端」。インターネットでは紹介しにくい作品だが、ある文章に「奥の細道」が「ルビ」としてつかわれている。「かえるの合唱」と「春の小川」はどちらが本文でどちらがルビかわからないが、四元のやっている作品では「奥の細道」が「ルビ」の大きさで、本文(?)に添えられている。
 その本文のみを引用する。(「奥の細道」は想像するか、「現代詩手帖」で実際に作品を「みて」ほしい。)

 直線は曲線の一部にして、曲線は無数の直線の集積である。紐の上に結び目を拵えその運動にそって視線を回転させる者は、世界を事態として現象的に認識する。多くの者がその回転に吸い込まれていった。私も、いつの頃からか、テーブルクロスの皺に誘われて日常性を逸脱、パン屑の配置をさすらい、去年の秋居間のカーテンに結び目をひとつ拵え、その捻れと集中に……

 この詩が楽しいのは、「奥の細道」のリズムがそのまま生かされているからである。「意味」ではなく、「リズム」が浮かび上がってくる。(「かえるの合唱」と「春の小川」も「リズム」がいっしょだった。そしてメロディーと詩がばらばらだった。それがおかしかった。)「リズム」がいっしょなら、ことばは「同じ」(?)に聞こえるのである。
 四元は、とても耳がいい詩人なのだ。
 そして、その「リズム」は日本語の本来の「リズム」なのだろう。

 「リズム」の不思議さ、「音」の不思議さは、「意味」を超えるところにある。たとえば、四元が書いている、

直線は曲線の一部にして、曲線は無数の直線の集積である。

 これは、わかるといえばわかるし、ほんとうに理解できるかと言われれば、ちょっと悩む。(私だけかもしれないが。)それはこの部分にあてられた「ルビ」である「奥の細道」も同じ。「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。」も同じ。「月日は百代の過客にして」のほんとうの「意味」がわからなくても「行きかふ年も又旅人なり」とつづけて語られると、そのふたつは同じことを言っているらしいとわかり、そこからなんとなく「イメージ」(感覚)がわかる。「直線は曲線の一部にして」だけだと、どうして? という気持ちが起きるが、「曲線は無数の直線の集積である」とつづけられると、「ふーん」となんとなく納得させられる。
 四元は「言語ジャック」とタイトルで書いているが、正確(?)には「リズム」ジャックだろう。

 日本語(あるいは、ことば)に、「意味」なんてあるの? ことばがもっているのは「リズム」だけじゃない? 私が四元なら、そう主張するかもしれない。

 最後、「草の戸も住替る代ぞ雛の家 表八句を庵に懸け置く。」は次のように「リズム」ジャックされる。

   チワワは正立方体をイメージできるか
という疑問がふと胸に浮かんだ。

 いいなあ。「懸け置く」と「胸に浮かんだ」は「意味」としても似通ってはいるけれど、これは「リズム」がそう感じさせるだけなのかもしれない。「リズム」のせいだ、と私は思いたい。
 四元の詩は、私には、いままであまりしっくりこなかったけれど、この「日常の細道・発端」はとても気持ちがいい。うれしくて、笑いたくなる。傑作である。私は途中を引用しなかったが、これはぜひ、「現代詩手帖」で正式な形で読んでもらいたいからである。ぜひ、読んでください。買わなくても、立ち読みででも、ぜひ。





噤みの午後
四元 康祐
思潮社

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池井昌樹「みずうみ」

2008-07-04 10:40:28 | 詩(雑誌・同人誌)
 池井昌樹「みずうみ」(「現代詩手帖」2008年07月号)
 池井は「一心に」書く。これはきのう書いたことだ。そして「一心に」書くがゆえに、ひたすら繰り返す。「一心に」は「繰り返し」と同じ意味である。
 「みずうみ」には、その繰り返しが美しい形で結晶している。

ひそひそと またひそひそと
ふたつのこえがちかづいてくる
とおくから さらにとおくから
はもんのようにひろがってくる
ひとつのこえはははおやだろう
しゃくりあげるのはこどものこえだ
ふたつのこえはよりそいながら
まだねむれないわたしのまどの
ひのきえたまぎわまできて
はたとやむ
ひそひそと またひそひそと
ふたつのこえがちかづいてくる
とおくから さらにとおくから
はもんのようにひろがってくる

  繰り返しによって、繰り返すことによって、わかることがある。繰り返すことは確認することだからである。あるできごと、体験を、たとえばことばで繰り返す。語る。詩にする。そうすることは、体験を繰り返すことである。そして、体験をことばで繰り返すということは、体験の内部へと入ってゆくことである。
 そして、池井は気づく。

とおくから さらにとおくから

 ある声がちかづいてくると、それに誘われるように、それにつながる別の声が「さらに」とおくからちかづいてくる。「さらに」というのは、一種の繰り返しである。「さらに」というのは一義的には「強調」だが、ここでの強調は、繰り返しされるものの性質の強調である。やってくるものは「とおく」からやってくる。そう意識できたとき、「さらに」「とおく」が浮かび上がってくる。
 池井は「とおく」を「一心に」ながめる。そうすると、「さらに」「とおく」が見えてくる。
 「とおく」は距離をあらわす。その「距離」は、最初は「空間」である。「まどの/ひのきえたまぎわまで」というのは「空間」そのものをあらわしている。
 ところが、そのことが繰り返され、「いっしんに」そのことに集中すると、「とおく」が少し変化する。「とおく」は「空間」だけをあらわすものではない。

あのひ あれらのひびのどこかで
とどけたかったおおくのこえが
とどかなかったすべてのこえが
まだねむれないむたしのむねの
まだねむらない鹹湖(みずうみ)に
おおきなくらいよぞらをうつし
ひそひそと またひそひそと
とおくから さらにとおくから
うちよせてくる
うちよせてくる

 「あのひ あれらのひび」。「あの」「あれら」という指示代名詞は、「距離」を含んでいる。「とおく」を浮かび上がらせている。そしてそれは「ひ」とつながる。「場所」(空間)だはなく、「時間」と結びつく。
 「距離」の繰り返しが「時間」を引き寄せるのである。繰り返されることで、「ちかづいてくる」は「空間」と「時間」の結びついたものに姿をかえる。とても自然に。この「自然」な感じを引き出すのが「繰り返し」である。
 そして繰り返しによって「場所」が「時間」といっしょになったように、「ふたつのこえ」「はは」と「こども」の「こえ」は「おおくのこえ」にかわってゆく。「おおく」を含むものへとかわってゆく。「すべて」にかわってゆく。
 繰り返すことによって、池井は、「すべて」、つまり「全体」(宇宙)と一体になる。
 ここには「一心に」「こえ」を聞こうとする池井が美しい姿で描かれている。



 池井は「ひらがな」の詩を書いているが、ここでは一か所、漢字がつかわれている。「鹹湖」。塩辛い湖。苦い湖。「とおくから」「こえ」が「ちかづいてくる」。それは、池井にとって、「苦い」ことがらなのである。まだ、書き留めていないことばがある。まだ「一体に」なっていない「声」がある。
 「一心に」、池井とつながるすべてのものと「一体に」なろうとするのだが、何かと「一体に」なったとき、さらに「とおく」のものが見えてくる。池井という宇宙が広がれば広がるほど、さらに「宇宙」の果てしなさが身に迫ってくる。
 どうすればいいのだろう。
 池井は、ただ「一心に」ことばを書く。詩を書く。それしかない。書けば書くほど、まだ書いていないもの(とどけたかったこえ、とどなかったこえ)がはっきりしてくるので、書きつづけるしかない。それは、「人生」を知るという「かなしみ」、「いのち」を知る「かなしみ」を深く深く「むね」に抱くことである。「かなしみ」は「悲しみ」であり「愛しみ」でもある。

 この詩は、池井が詩を書く理由を語っている作品である。

*

これは、きたない (1979年)
池井 昌樹
露青窓

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水源行
池井 昌樹
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