詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

俵万智「かーかん、はあい」ほか

2008-10-24 00:07:42 | その他(音楽、小説etc)
俵万智「かーかん、はあい」ほか(「朝日新聞」2008年10月22日夕刊)

 俵万智「かーかん、はあい」には、「子どもと本と私」というサブタイトルがついている。子どもに本を読み聞かせる。そのときの子どもの反応、俵の感想をつづったものだ。そこに、感動的な文章があった。

 一番笑ったのは「夜の事件」という作品。冒頭の「そのロボットは、よくできていた。」という一文には、面食らって「え? なに、そのロボットって・・・」と、訝(いぶかし)しそうにしていた。思えばこれは、かなり大人の文体だ。
  (谷内注・俵が引用しているのは星新一作、和田誠絵「きまぐれロボット」。子どものことばの「その」には傍点がある。)

 「その」は先行する何かを前提としている。文書を「その」ではじめるのは反則である。反則を承知で「その」と書き始める。読者の意識をひっかきまわす、活性化するためである。
 感動的なのは、そういう「ひっかけ」に子どもが反応して、「その」にきちんと疑問をぶつけていることだ。え? 子どもって、こんなにことばの決まりに敏感なのか? たぶん、俵の読み聞かせが、そういう敏感な子どもを育てたのだ。
 また、そした反応をきちんと受け止め「これは、かなり大人の文体だ」とすばやく反応しているのも、俵言語感覚の敏感さを浮き彫りにしている。
 敏感な言語感覚は、敏感な言語感覚の親によって育てられるのだ。あたりまえのことなのかも知れないが、感動してしまった。



 アーサー・ビナード、木坂涼(選・共訳)「詩のジャングル」は、エミリー・ディキンスンの「秋の朝」を取り上げている。

朝が、前よりも遠慮(えんりょ)しながら
やって来るようになった。木の実は
だんだん茶色くなって、クロイチゴも
キイチゴもほっぺがふくらみ、バラの花は
旅に出て、しばらく帰ってこないはず。

カエデの木は派手なスカーフを巻き、野原も
赤いフリルのついたドレスを着始めた。
この流行に遅(おく)れてしまわないように
わたしもなにかアクセサリーをつけよう。

この作品に、2人は、次の感想を添えている。

 春夏秋冬の服の流行も巡るが、ファッションは周りの人間だけに合わせていると、だんだん鬱陶(うっとう)しくなる。自然界はもっと頼もしい、生きたセンスに満ちていて、遊び心の源はそこにある。

 「頼もしい、生きたセンス」の「頼もしい」ということばの選択に木坂の視線を感じた。「頼もしい」ということばはこういうときに使うのだ、と教えられた。感動してしまった。
書き出しの「前よりも遠慮しながら」という訳にも感動した。繊細でやわらかい。ここにも木坂の視線を強く感じた。


プーさんの鼻
俵 万智
文藝春秋

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五つのエラーをさがせ!―木坂涼詩集 (詩を読もう!)
木坂 涼
大日本図書

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小林稔『砂の襞』

2008-10-23 09:35:28 | 詩集
小林稔『砂の襞』(思潮社、2008年09月25日発行)

 小林稔は自己をみつめる。それはだれもがすることではあるけれど、なぜか、感想を書こうとした瞬間に、そういうことばが浮かび上がってきた。とても基本的なこと、根本的なことが、ふと、思い浮かぶのである。
 「明るい鏡」の書き出し。

鏡に写る素肌の男の鳩尾に ゆっくりとナイフを落としていく
刃を男の胸にとどかせるためには
その腕を 手前に引かなければならぬ

 鏡があり、そこに映っているのは「実像」ではあっても「実物」ではない。あくまで「像」である。「像」には「像」に先だつ「実物」があって、「像」を破壊するためには、「像」そのものではなく、「実物」を破壊しなければならない。いわば、ここには向きの逆な動き、矛盾した(?)動きというものがある。その矛盾を小林はしっかりとみつめようとしている。
 自己洞察とは、いわば、自己を対象化すること。対象化とは自己を自己から切り離すこと。自己から切り離された自己は自己ではない--という矛盾をくぐり抜けないかぎり、自己洞察はできない。
 そういうことを、小林はしっかりと理解している。

 こういう姿勢、生き方に間違いはない。それは人間ならだれもがしなければならないことである。
 しかし、詩は、そうではないのである。
 そうではない、と書いてしまうと、ちょっと違ってしまうのだけれど、とりあえず、そうではない、と書いておく。

 自分をみつめる。自分を点検する。自己から切り離し、客観化する。それだけでは詩にならない、と言った方がいいのかもしれない。
 客観化しようとしてもできないもの、自己から切り離そうとしても切り離せない何かがあって、それが「客観」というような冷静な秩序を突き破って、突然姿をあらわしてしまう。そういうものが詩である。
 詩は、制御できないのだ。

五十年以上もの時間を奪いあった私が
この男であると信じてよいか
痛みを分かちもったといえるか
否、私を見つめているのは永遠の他者

 ここには何一つ嘘は書かれていないと思う。正しいことが書かれていると思う。そして、ふしぎなことに、それが「正しい」がゆえに、私には詩には感じられないのだ。自分の考えを(思考を)、「否、」と一瞬にして否定できる強い何か--それが小林のことばの運動の基本だけれど、それが強すぎて、詩になりきれない、という感じがする。

 鏡をとおして(媒介にして)自己を客観視する。そのときに見える「他者」ではなく、ほかの「他者」がいる、と私は思うのだ。
 自分を壊してしまう「他者」というものが、自分の「肉体」の内部に「いのち」になる瞬間を待っている。その誕生は制御できない。その制御できないものがあらわれたときこそが、詩、なのだと私は思う。
 小林は、「論理的」であるがゆえに、その「他者」の暴走を抑制してしまっているような気がする。



 後半に、紀行詩(?)が集められている。異国で体験したことが、とてもていねいに描写されている。良質な観光案内のようだ。あ、小林の行った国へ行ってみたいなあ、と思う。そういう意味では、とてもいい詩なのかもしれない。
 新しく出会ったものをきちんと受け止め反応する感受性は、青春の美しさに輝いている。そういう意味では、たぶん、とてもいい詩なのだと思う。
 でも、私は、そういうものとは違ったものを読みたい。
 異国の風景ではなく、異国へいったときに、それまでの制御をはなれて、小林の内部から暴れ出してくる「いのち」を読みたい、と感じてしまう。「理性」あるいは「客観」を離れて、これなに? わからないよ、というような部分をことばにしてもいいのではないだろうか。
 そんなことを、ふと思った。

 同時に、私は荒川洋治の『水駅』をふいに思い出した。あ、あれはいい詩集だったなあと、あらためて思った。荒川は「紀行詩」(?)の形をかりながら、異国を描写してはいない。異国に(つまり、他者の世界)に触れたときに、荒川の内部から、荒川を突き破ってあらわれる荒川自身を描いていた。それは荒川の知らない荒川であるがゆえに、本物の荒川なのだ。荒川を突き破ってでてきたものを、これはなんだろうと、ふしぎな気持ちで見ている荒川--そのふしぎさのなかに、抒情があった、と思う。--記憶を頼りに、書いているのだが……。


砂の襞
小林 稔
思潮社

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リッツォス「証言A(1963)」(4)中井久夫訳

2008-10-23 00:21:49 | リッツォス(中井久夫訳)
リッツォス「証言A(1963)」(4)中井久夫訳

一夜   リッツォス(中井久夫訳)

その邸宅は何年も戸を閉めたままだった。
徐々に壊れて行った。手すり、鍵、バルコニー。
ついにある夜突如二階全部に明かりがついた。
八つの窓が全部開け放たれ、バルコニーの二つのドアが開いた。
ドアにカーテンはなかった。

通りかかる人は僅かだったが、立ち止まって見上げた。
沈黙。人気が無い。明かりのついた四角な空間。ただ、
壁に立て掛けた骨董品の鏡は、
黒い木彫りの重厚な枠縁を付けて、
腐って真中が凹んだ床板を映している、途方もない深さに。



 リッツォスの詩は簡潔である。簡潔に感じるのは、そこに「説明」がないからである。「その邸宅は何年も戸を閉めたままだった。」そう書き出されれるが、「その」が説明されない。「その」というのは指示を含む。「その」という限りは、先行することばが必要である。しかし、リッツォスはそれを書かない。「説明」を省略し、いきなり始める。この作品は、そうした特徴を端的にあらわしている。
 「奪われざるもの」の書き出し。「奴等は来た。」の「奴等」とは「だれ」なのかは、その後も「説明」されなかった。いつも、どの詩でも「説明」は省略される。そして「説明」が省略されているがゆえに、そのことばは「映像」としてのみ、そこに登場する。「過去」を持たない。「過去」をリッツォスは読者の想像力に任せてしまう。そして、映像に徹する。

 リッツォスの詩が映画に似ていることはすでに書いたが、ここでもことばは「カメラ」となって移動するだけである。移動し、ロングから、クローズアップへ。そのとき、読者のこころは自然に動く。ロングからクローズアップへという視線(カメラ)の動きそのものに「感情」があるからである。人は感情が強くなると、その対象だけをクローズアップでみつめる。その動きをことば(カメラ)は追うだけなのである。

 この詩では、そういう動きの他に、もう一つ、とても視覚的なものがある。闇と光の対比である。夜と、邸宅からあふれる光。そういう外観の描写からはじまり、ことば(カメラ)は邸宅の内部に移動し、邸宅の内部、ひとつの部屋の中で、鏡に近づく。鏡のなかには、暗闇よりももっと深い闇が映っている。床板。腐って、凹んでいる。その「途方もない深さ」。そこに、夜の闇を超越した闇がある。「こころ」の闇がある。暗い、と書かずに「深さ」と書いているのは、それが夜を超越しているからである。「暗い」ではつたえられないものが、そこにはある。「こころ」にしかとらえることのできない闇である。
 
 簡潔である。「こころ」を、抒情を排除したまま、ことばは動く。清潔に感じるのは、そこに余分な「こころ」がないからだ。
 中井の訳は、その簡潔さ、清潔さととてもよく合っている。




こんなとき私はどうしてきたか (シリーズケアをひらく)
中井 久夫
医学書院

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小池昌代『ことば汁』

2008-10-22 08:56:33 | その他(音楽、小説etc)
小池昌代『ことば汁』(中央公論新社、2008年09月25日発行)

 「女房」のなかに、次の1行がある。

 理論は時として飛ぶものである。

 ザリガニが脱皮したのを見て、突然2匹になったと思う。しかも1匹は死んでいる、と思う。しかし、それは脱皮したザリガニと、生きているザリガニであった。そうわかって「ほっとしました」。
 実は、その脱皮したザリガニは、女と男が見ているのだ。そして、男と女(前の女房)が「脱皮した」と気づいて、同じように「ほっとしました」と感じ、その同じ気持ちのまま、いっしょに暮らすようになった--ということを説明するために語られるエピソードである。
 え? 脈絡がたどれない?
 そう、そんなふうにして、「理論」は「飛ぶ」。なぜ脱皮したザリガニだと気づいて「ほっとしました」という感想がいっしょになったからといって、男と女がいっしょにくらさなければならないのか。そんなところに「脈絡」はない。
 この「脈絡のなさ」を小池は(あるいは、小説の主人公は、と言い換えるべきか)「理論は飛ぶ」と呼んでいる。
 そのあとにも、小池独特の表現がつづく。

 理論は時として飛ぶものである。レオは脱力した。どこか、かすかに、自由になったよろこびもあった。

 「脈絡のなさ」。それが「脱力」であり、「自由」である。この「自由」には「かすかに」という修飾がついている。限定、がついている。
 生きているということは、なにも「理論」(私のことばでは、むしろ「論理」だが)をいつもいつもきちんとしているということではない。「理論」で暮らしをとらえると窮屈になる。どこかで、そういうものを放り出す瞬間がある。
 主人公以外のふたりは「ほっとしました」と言っているが、その「ほっとした」感じは、どこかで「脱力」とつながっている。

 「脱力」と「ほっとする」は、似ていて少し違う。「ほっとする」はともかく「安心」につながるが、「脱力」は「安心」とは必ずしもつながらない。何かを制御する力を維持できなくなる--一種の不能性が「脱力」である。力が抜けて、無力になる。力が失われていくのを感じる。力がなくなったとき、ひとは一般に、「自由」を失うけれど、その逆もある。どこかにもう、自分で自分を制御しなくてもいいんだ、という「気楽さ」も生まれる。小池が書こうとしているのは、そういう「無力」の「気楽さ」に通じる感覚である。ほんとうは違うんだけれど、「まあ、いいか」という感じに似ているかもしれない。

 「理論は飛ぶ」。しかし、けっして「飛ばない」ものがある。そういう視点から、見つめなおすと、また別のものも見えてくる。
 「理論」は頭で考えるものである。そういうものは「実体」がない。「実体」がないからこそ、「実体」をもとめる。素粒子論などを考えてみると、よくわかる。「クオーク」なんて、そもそも存在しない。いや、存在しなかった。それが存在する前に、まず「理論」があった。「理論」はそれを証明する「実体」をもとめた。そして、「クオーク」を発見する。そのあとで、実はこれこれのものは、こういう「理論」によって解明できるという具合に「学問」は進んで行く。だから、ときどき「理論」は飛ぶ。原子、陽子、電子、中性子と言っていたと思ったら、素粒子、クオークという具合に、基本になるものが、ぽーんと「飛んで」、別なものになってしまう。
 ところが、人間には、そんなふうに「飛ばない」ものがある。ずるずるとつながっていって、ずるずるとつづくものがある。「肉体」である。「肉体」は常に変わっているけれど、常につづいている。けっして「飛ばない」。
 それはある意味ではだらしない。だらしないけれど、なんだか、だらしないぶんだけ気安さがある。
 「脱力した」の主語は「精神」であるけれど、「精神」が「脱力」するとき、なんとなく「肉体」も「脱力」する。肉体の力も抜ける。だらしなくなる。肉体の力が抜けたとき、肉体は何か別のものに触れる。ちょっとおおげさに言うと、それまで肉体をつつんでいた空気の枠とは別の枠に触れる。違う空間を生きはじめる。その瞬間の自由は「精神」の自由というより、「肉体」の自由である。だらしなくたっていいんだ、ということを味わう「肉体」のよろこびである。

 小池の小説には、その「だらしなさ」へのあこがれのようなものが煮詰まっている。どの小説にも「生真面目」な「理論」を生きる人間が描かれている。そして、その人間が「生真面目」の「理論」をある日、放り出す。手放す。それは「飛ぶ」というより、むしろ「崩れる」に近いかもしれないが……。そして、その「飛ぶ」ことによって生まれた空隙へ、肉体がずるっと入り込み、だらしなく、己の場を広げて行く。そのときの、ふしぎな快感。そういうものへのあこがれが、煮詰まっている。
 煮詰まっている、というのは奇妙な言い方になるが、詰まっているではなく、私には「煮詰まっている」ように感じられる。
 たぶん、小池はそういう「煮詰まったもの」を書きたいのだと思う。「煮詰まっていく」ときの人間の動きを書きたいのだと思う。

 そんなことを考えた。




ことば汁
小池 昌代
中央公論新社

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リッツォス「証言A(1963)」(3)中井久夫訳

2008-10-22 00:19:53 | リッツォス(中井久夫訳)
リッツォス「証言A(1963)」(3)中井久夫訳

石   リッツォス(中井久夫訳)

日々が来ては去る。努力も、新鮮な驚異もなく。
光と記憶に濡れそぼつ石。
ある者は石を枕にする。
ある者は着物を脱いで、風で飛ばないように石で押さえ、泳ぐ。
ある者は石を腰掛けにする。
ある者は目印に。畑の、墓地の、壁の、森の--。

陽が沈む。家に帰る。浜の石は卓に置いて小さな像になる。小さなニケの像。アルテミスの猟犬。昼、若者の濡れた足の台になったこの石は、睫毛の影の恋パトロクロス。



 リッツォスの詩は映画の1シーンのように感じられる。(これは、昨日書いたことにつながる。)いつも映像がくっきりしている。そして、その映像は、いつもその「風景」をみつめるひとと強い関係がある。
 登場人物が風景をみつめるのは当然である。
 リッツォスは登場人物がみつめる風景と同時に、実は、その登場人物そのものを「風景」のようにみつめる存在を描く。
 だれかをみつめるだれか。
 だが、それはだれなのかは書かない。関係を少し感じさせるだけである。
 映画、映像ならば、その視線にそまった輝きがスクリーンに投げかけられることになる。ところが、ことばは映像ほど「視線」の色をつたえない。映像は「肉体」的な何かを感じさせるが、ことばはもっと抽象的で、「色」がない。
 ……はずである。
 しかし、この詩には「色」がある。独特の「匂い」がある。「視覚」をとおってくるときの、ときめきのようなものがある。
 だれか(A)をみつめるだれか(B)。そのときの、Aに対するBの思いを感じさせる「色」がある。

ある者は着物を脱いで、風で飛ばないように石で押さえ、泳ぐ。

 この1行には、「だれが」泳いだのか描かれていない。「だれか」がどんな肉体をしていたか、書いていない。けれども、その「肉体」を裸の輝きを、まぶしい思いでみつめている視線が「肉体」として描かれている。その「視線」のために、風景に「色」がついている。その「色」を消し去ろうとしてあがく視線が「石」に向かい、石につまずいている。

ある者は目印に。畑の、墓地の、壁の、森の--。

 はとてもかわっている。ほんとうに「畑」の目印に? いや、そんなことはない。「畑」のなにかの目印だ。畑そのものの目印なんて、ありえない。畑は広い。目印がなくても畑だとわかる。目印は、何かを植えた、埋めた目印である。墓地の目印も何かを埋めた目印だ。壁の目印も何かを塗り込めた目印だ。
 そこには、つまり、隠されたものがある。
 隠されたものの「印」、暗示、象徴が「石」なのだ。

 何をほんとうは隠しているのか。「ニケ」、「アルミテス」(犬)、「若者」、「睫毛」、「パトロクロス」。
 これはリッツォスの世界というより、カヴァフィスの世界かもしれない。中井はカヴァフィスも訳している。同じギリシャの詩人である。リッツォスの方が、私の印象では禁欲的である。




カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
みすず書房

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リッツォス「証言A(1963)」(2)中井久夫訳

2008-10-21 10:06:39 | リッツォス(中井久夫訳)
奪われざるもの   リッツォス(中井久夫訳)

奴等は来た。廃墟を見ていた。周囲の地積も。何かを目測しているらしかった。舌を出して光と風を見た。気に入ったのだ。
我々からまた奪う気だ。暑かったが、こちらはシャツにボタンを掛けた。靴を点検した。我々の一人が遠くを指さした。他の者は廻れ右をした。
他の者が逃げた時、その男はそっとしゃがんで、土くれを一握り取ってポケットに入れ、何食わぬ態で立ち去った。
外国人が見回すと、足許に深い穴があった。彼らは歩いて、時計を見て、去った。
穴の中には剣一振り、壺一つ、白骨一本。

                    「剣」以下--ギリシャ国家 



 リッツォスの詩は映画的である。ギリシャ語を知らない私は原文をもちろん知らない。中井久夫の訳でしかリッツォスを知らないのだが、とても映画的である。別のことばで言い換えると、映像が動く。なめらかに、接続して、というのではない。かならず切断されて、切断が動きをうながすのである。
 中井は句点「。」を多用することで、動きを強調する。「。」をカメラの切り替えと思って読み直すと、この作品が「映画」そのものであることがわかる。
 1行目を「カメラ」に置き直してみる。括弧内が「カメラ」である。

奴等は来た。
(遠くから歩いてくる、あるいは車でやってくる姿をロングでとらえる。カメラのなかで、人間が、あるいは車が動く。近づいてくる。--ロング)
廃墟を見ていた。
(カメラは切り替わる。切断をはさんで、廃墟の全景。人物はスクリーンのなかにはない。--ロング)
周囲の地積も。
(カメラは移動する。ロングのまま移動する。カメラの移動が視線の動きである。人物は映らない。映さない。--ロング)
何かを目測しているらしかった。
(カメラは廃墟、地積を映したまま、ロングに移動する。カメラは切り替えず、同じカメラで、人物を背後、あるいは斜め後ろから映す。廃墟と人物の背中を映しながら、カメラはしだいに人物に近づいていく。--ロング、ミドル、アップへという移動がある。)
舌を出して
(人物に近づいたカメラが横顔を映し出す。口が動く。舌が動く。この間、カメラは人物に近づきはするが、その顔の全体は映さない。あくまで口元だけを映す--クローズアップ)
光と風を見た。
(カメラは顔から廃墟、風景全体へと切り替わる。ただしこの切り替えは、切断を含まない。カメラそのものがぐぐっと視線を変えるのである。--ロング)
気に入ったのだ。
(風景の全体。輝く光と風が見えるような美しい風景。--ロング。)

 カメラが切り替わらずに、同じカメラが移動しながら視線の動きと重なる時(長回しでカメラが動く時)、そこに想像が加わる。「目測しているらしかった」「気に入ったのだ」という「思い」が加わる。
 人間の思いは、その場でとどまっても存在するだろうけれど、思いが思いになるためには、ある動きが必要なのだ。そういう人間の思考そのものを架空の「カメラ」借りて、ことばに移しかえる。

 その映像、映像のことばは何を伝えるか。どんな「意味」があるか。それを問いかけることはナンセンスである。「意味」はない。ただ「映像」の確かさだけがある。「映像」のリアリティーだけが大切なのである。



括弧―リッツォス詩集
ヤニス リッツォス
みすず書房

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ミシェル・ゴンドリー監督「僕らのミライへ逆回転」(★★★★★+ハンカチ10枚)

2008-10-21 00:22:24 | 映画
監督 ミシェル・ゴンドリー 出演 ジャック・ブラック、モス・デフ、ダニー・グローヴァー

 これは映画オタクのための映画である。
 と、思って、見始めた。実際、「ゴースト・バスターズ」「ロボ・コップ」「ライオン・キング」「2001年宇宙の旅」「ラッシュアワー」などなど次々にリメイクされていく映画がとてもおもしろい。「リメイク」は「リメイク」したくて「リメイク」しているのではない。低予算(?)だから、「本物」がつくれない。だから、「リメイク」する。
 CGはもちろん、ない。衣装もなにもない。あるのは、ただ知恵だけ。創意工夫をこらして、ただひたすら、昔見た映画を、記憶を頼りにチープにコピーする。これが、非常に、非常に、非常に、非常に、非常に、おもしろい。CGがない時代、こんなふうにして映画は工夫に満ちていたのだ。あの「2001年宇宙の旅」の手作りの工夫--そして、工夫する楽しさが、はちゃめちゃにおもしろい。
 私はかつて映画のサイトで「リメイクコーナー」というのをやっていた。それは実際に映画をつくるのではなく、見た映画を別の俳優でやると、こんな感じになるという「お遊び」コーナーである。こういう「お遊び」が楽しいのは、映画作りに参加できるからである。もちろん架空の映画だけれど、ねえ、こんな映画にしてよ、という欲望の発散である。
 映画を見終わったあと、映画のシーンを真似してみるのも、私は大好きだ。こどもの頃なら「月光仮面ごっこ」だったのが、おとなになったら「ゴーストバスターズごっこ」「2001年宇宙の旅ごっこ」という感じだ。
 自分でできる範囲で見た映画に「参加」する。それが楽しい。そのときの喜びを、この映画は、全編で展開するのである。笑いっぱなしである。ともかく、「リメイク」のめちゃくちゃなチープさ加減が、「肉体」を感じさせて楽しいのである。

 そして、この映画には、ハンカチが10枚必要な、美しい、美しい、美しい、美しい、美しい、美しい、美しい、美しい、美しい、美しいシーンがあるのだ。「ニュー・シネマ・パラダイス」の最後、延々とつづくキスシーン、「アイ・ラブ・ユー」ということばのラッシュに私は涙をとめることができなかったが、この映画の美しさはそれをはるかにしのぐ。私がいままで見た映画のなかでいちばん美しいシーンだ。
 それは。
 最後の映画ができた。みんなでそれを見ることにする。壁に白いシーツをかけ、プロジェクターを用意する。そして、いよいよ。さあ、はじまる。その、期待のなかで、電燈を消す。
 闇。真っ暗。何も見えない。
 これが美しい。その闇が美しい。何も映っていないのに、とても美しい。涙がふわーっと噴き出してくる。あとは、もう何も見えない。涙で歪んだスクリーンだけである。(もう、この美しい映像を見た瞬間に、それから以後の展開は全部くっきりわかるというか、予想通りなので、スクリーンなんか見ていなくていい。ただ、涙を流していればいい。)
 スクリーンのなかでは、登場人物たちが、映画を見ようとしている。映画は暗闇のなかで映し出される。(これがビデオ、あるいはCDとの一番の違いだ。)闇は絶対的な上弦である。映画の前に、明かりを消すのはあたりまえのことだが、それがすばらしい。その瞬間にあらわれる闇が、ほんとうに美しい。
 スクリーンにあらわれた闇。
 その真っ暗な光が劇場にひろがる。私たちが映画を見ている映画館のなかにひろがる。その瞬間、同じ暗闇で、スクリーンの登場人物と私たち観客との垣根がなくなる。暗闇になって、登場人物と、私たち観客が一体になる。私たちは劇場に座って映画を見ているのではない。登場人物たちのいるスクリーン、古いビデオショップのぎっしりひとがつまった部屋でシーツのスクリーンを見ているのだ。
 これは、うれしい。これは、興奮する。ハンカチ10枚じゃ足りない。バスタオルが必要だ。涙が、涙が、涙が、涙が、あふれて止まらない。

 あの、ダニー・クローヴァーがスイッチを押して、明かりを消すその瞬間、ぱっとあらわれる暗闇。ああ、もう一度見たい。何度でも見たい。その暗闇を、ほんとうに何度でも何度でも見たい。部屋の中が一瞬、静寂につつまれる。映画館のように。あの一瞬の、胸の高鳴り。全員の鼓動が一瞬とまり、同じリズムで動き始める瞬間だ。
 映画はやっぱり映画館で、その暗闇で、みんなが垣根をなくして、一体となって見るものなのだ。暗闇は、すべてを隠す。すべてを隠して(すべてを捨て去って)、スクリーンに描かれる夢をみんなで見るのが映画だ。みんなで同じ夢を見れば、それはもう夢ではなく、現実なのだ。
 いいなあ、このよろこび。

 この一体感は、映画(物語)のなかでは、ビデオショップから、ビデオショップがある街全体へとひろがっていく。そこには白いシーツのスクリーンの秘密が関係している。映画の秘密が関係している。このことは、まあ、多くの映画ですでに描かれたことではあるけれど、この映画では、それがハッピーエンディングにつながっているので、ここでは書かずに置いておく。
 ぜひ、見てください。絶対に、映画館で見てください。できるなら、映画オタクの友人を誘っていっしょに見てください。となりの席で、映画オタクの友人が、映画のせりふが聞こえなくなるくらい笑いころげる声を聞きながら見てください。笑い声がないと、この映画の楽しさは半減します。笑って、笑って、笑って(意味がわからなくても、笑い声があふれてくると、人間はつられて笑うものです)、さらに笑って笑って、最後の、涙、涙、涙という晴々とした映画です。
 「長江哀歌」のように10年に1本の映画とはいいません。しかし、これを映画館で見ないと、映画のよろこびがわかりません。そういう映画です。



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リッツォス「証言A(1963)」中井久夫訳(1)

2008-10-20 11:27:34 | リッツォス(中井久夫訳)

 リッツォス「証言A(1963)」中井久夫訳は「象形文字」同人誌版、およびインターネット版で紹介してきたが、まだ紹介していないものもある。この「日記」であらためて手元にある中井の訳を紹介していく。なお、中井の訳の著作権は中井久夫に属します。転写(コピー)する場合は、かならず中井久夫の了解をとってください。

 *以降の文章は、私の感想です。





 彼女は鎧戸を開けた。シーツを窓枠に干した。陽の光を眺めた。
 鳥が一羽 彼女の眼を覗き込んだ。「私は独り」と彼女はささやいた。
 「でもいのちがあるわ!」。彼女は部屋に戻った。鏡が窓になった。鏡の窓から飛び出したら自分をだきしめることになるでしょう。



 短い文章のリズムにひかれる。基本的に1文に1動詞。切断された印象があるが、その切断の感じが、孤立、孤独と結びつく。「一羽」「独り」を強調する。ただし、ぷつん、ぷつんと切れながら、「意味」の連続性はしっかりしている。固く結びついている。その切断と結合の感覚が、矛盾が、後半になって「彼女」を突き動かす。切断と結合が、彼女のなかから何かを引き出す。彼女自身の力を引き出す。

 鏡が窓になった。

 詩の白眉はここにある。
 「鏡」はもちろん「鏡」である。それが「窓」になる、ということは物理的にはありえない。けれど、意識のなかでは、そういうことがある。これは「比喩」ではなく「事実」である。意識の真実である。
 切断と結合が、彼女の意識に作用し、鏡を窓に換えてしまう。
 そして、このとき、彼女はそれまでの彼女ではない。「鳥」に「なる」。鏡が窓に「なる」なら、彼女は鳥に「なる」。鳥になって、そとへ飛び出す。空へ飛び出す。
 鳥は空気を翼でおしのけて飛んでいるのではない。自分を抱きしめて飛んでいるのである。「いのち」を抱きしめて飛んでいるのだ。

現代ギリシャ詩選
中井 久夫
みすず書房

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中井久夫『臨床瑣談』

2008-10-20 10:53:53 | その他(音楽、小説etc)
中井久夫『臨床瑣談』(みすず書房、2008年10月15日第2刷発行)

 私は医学についてなにも知らない。「臨床」の話がわかるわけではない。それでも、中井久夫の『臨床瑣談』はおもしろい。おもしろいというと変だが、こころを打たれる。内容というよりも(内容ももちろんなのだが、内容そのものはどれだけ正確に理解しているかわからないので、「内容よりも」と書いてしまうのだが)、中井の文体にこころ打たれる。
 「SSM、通称丸山ワクチンについての私見」はタイトル通り、「丸山ワクチン」について書かれたものである。
 私は、たとえば次のような部分に、とてもこころを動かされる。「丸山ワクチン」について直接触れた部分ではなく、中井が専門とする精神医学について触れた部分であるけれど。

抗うつ薬が効果を発揮するのに二週間かかるといわれるのは、うつ病にはゆるやかな勾配で効果があらわれることが必要なのかもしれない。しかし、私は必ずしも二週間を要しないことをみている。あるいは、うつ病の人の(当然ともいえる)不信感の解消に必要な時間であるかもしれない。「薬ごときで動かされてたまるか」という感情があってふしぎではない。

 最後の一文が、とても気持ちがいい。
 医師なのに(医師だから、と中井はいうだろうけれど)、患者に自己を押しつけない。自分の治療法にしたがえば患者は治る、それを受け入れよ、というような態度ではない。患者それぞれが、それぞれの肉体と感情を持っている。それを動かすのは、あくまで患者の方であって、医師は、その動きにある方向性を与える、という考え方が、この文章の底にある。患者のなかで育っていく力、動いている力に目を向ける、という姿勢と言い換えてもいいかもしれない。
 何にふれた文章をとってもそうなのだが、丸山ワクチンなら丸山ワクチンで、そのワクチンのなかでどんな力が育っているのか、動いているのか、そしてその動きを性格にするために丸山がどんな工夫をしたか、ということに中井は目を向けている。存在が、存在自身で持っている力を大切にしている。

 中井は中井自身が書いた「ウイルス学実験手技マニュアル」について紹介している。手書きのガリ刷り。それがコピーされてつかわれている。「たぶん私のロンゲスト・セラーである」と中井自身が書いている。そして、マニュアルを定義して、次のように言う。

マニュアルは不器用な人間が作るもので、人の二倍試験管を割る私にはその資格が十分にあった。

 これは、人の二倍は実験をした、ということ間接的な表現だと思うけれど、その表現のなかにある「不器用な人間」ということばに、私は中井の姿勢を感じる。「不器用な人間」とは、先に書いた文章に結びつけて言い直せば、潜在的な力を正しく発揮する方法を確立していない人間ということになると思う。だれにでも力がある。その力をどうやって制御し、育てていくか。それが「マニュアル」である。自分以外の何かを利用するのではなく、自分の利用の仕方を、反省をこめてメモしたのが「マニュアル」である。
 精神科の「往診マニュアル」もコピーされてつかわれている、とも書いているが、それもやはり、どうやって自分自身を抑制し、ひそんでいる自分の力を引き出すかということが基本になっていると思う。

 だれにでも、そして何にでもそれぞれの力がある。その力について、人間が知っていることはわずかである。わずかであるけれど、それをきちんと自覚し、育てれば、とても大きなものになる。阪神大震災のとき、延焼を防いだ木について書いた文章も、別の本のなかにあったが、そういう文章も、木のなかにある力に目を向けたものである。自然のなかにもふしぎな力がある。それは人間を守ってくれる。そういう力と共存して暮らすことの大切さを教えてくれる。中井は、いつでも、どんなときでも、目に見えない力に目を向けている。かならず、自立し、育っていく力がある、と信じている。

 「丸山ワクチン」にふれた文章にもどる。患者の感情について書いた文章につづけて、次のように書いている。

 漢方薬は、漢方を信用していない医者が出しても効かないという。逆に、北里大学東洋医学研究所を先日訪問したが、非常によく治るそうである。方々の医師を巡礼した挙句に最後の望みを託するところだからという。ブラセボー効果は医学界では「幻の足し算」とみなされがちのようだが、「服薬にともなう生体反応のマイナス面を打ち消すことによって自然回復力を促進する」と考えてみてもよいのではないだろうか。その中には心理的要因とともに生理的要因もあると私は思う。

 「自然回復力」ということばを中井はつかっている。「自然」の「力」。だれにでも「自然」の「力」がある。ただ、私たちは、その「自然」の状態をよく知らない。その「自然」のなかにひそむ「力」を知らない。その「力」は「回復力」であることもあれば、もっとほかのことである場合もあるだろうが、ともかく人間には(存在には)、それぞれの「力」というものがある。それを育てることがいちばんたい大切なのだと中井は考えているように、私には感じられる。

 それぞれの存在のなかにある「自然」の「力」を鍛え上げ、強靱にしたものが「技術」であるだろう。「技術」にするための方法(たどるべき道のり)が「マニュアル」だろう。そう考えると、中井は、ただひたすら「自然」の「力」をしっかりしたものに育てようとしている、そのことにこころを砕いていることがわかる。
 そういう視線を、あらゆる文章に感じ、こころ打たれる。



 中井はギリシャの詩人リッツォスの詩をたくさん訳している。その訳が私の手元にある。一部はすでに同人誌「象形文字」に掲載した。「象形文字」のホームページにも紹介しているが、あらためてこの日記でも紹介して行きたい。中井の訳に、私の感想を付け加える形で。
 


臨床瑣談
中井 久夫
みすず書房

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塚越祐佳『雲がスクランブルエッグに見えた日』

2008-10-19 10:58:53 | 詩集
 塚越祐佳『雲がスクランブルエッグに見えた日』(思潮社、2008年09月30日発行)

 巻頭は「星期四」という作品。その1連目が非常に気になる。

ゆうやけ
が上に下に

つばもゆきも
もくようびも
どうろに落ちる長い影

 特に後半の3行が印象に残る。ひらがなのせいである。もし、これが漢字まじりで書かれていたら印象がまったく違ってしまう。

唾も雪も
木曜日も
道路に落ちる長い影

 たぶん、私は読み過ごしてしまう。
 「つばもゆきも/もくようびも/どうろに」のなかにある濁音の響き。それが、私ののどを刺激する。口蓋を刺激する。耳を刺激する。その音はもちろん漢字にしても同じ音なのだが、感じだと「音」の前に「視覚」が働いてしまう。視力が「意味」をすくいとってしまう。音は背後に隠れてしまう。
 これは塚越の感覚というよりも私の感覚について語ることになってしまうが、私は、ことばをどうやら「視覚」を優先させてつかみ取ってしまう。「ひらがな」だと、「視覚」は「意味」を取り損ねる。「ひらがな」だと、ばらばらの「音」が先に肉体に反応し、そのあとで、「これはなに?」という感じで、遅れて「意味」(漢字で書かれたもの)がやってくる。そして、その遅れてやってくる「意味」までの間、のどが、舌が、口蓋が、あるいは鼻腔が音の響きを楽しんでいる。私の場合、「耳」というより、発音器官(?)が「音」を楽しむ。

 塚越は、こういう効果を狙っているのだろうか。

 はっきりとは、わからない。わかるのは、塚越の詩ではなく、私の感覚についてである。私は、こんなふうにして「音」を通して肉体が反応したとき、とても気持ちがいい。そして、会ったこともない塚越の「肉体」が恋しくなる。大げさに言えば、塚越の「肉体」と一体化したような快感を覚える。
 ちょっと、誤解を与える書き方だったかもしれないけれど。
 例を別なものに置き換えると、たとえばパバロッティの声を聞いたとき。その声を私は出せるわけではない。けれど、その声を聞くと、「耳」よりも「のど」が反応する。ああ、こんなふうにして声が出たら気持ちがいいだろうなあ。そして、そのときの気持ちのよさのなかに、私の「肉体」が溶け込んで行く。
 それに似た感じを、冒頭の1連に感じたのである。

 最後の連は、濁音ではなく「清音」に反応してしまった。

ゆうやけ
が上に下に
ぴって わたし
ひかりはさしこむくらいがいい
しょゆうしたら
そこからは
かんたんだった

 「しょゆうしたら」がたまらなく気持ちがいい。肉体全体が快感に溺れる。「ぴって」という半濁音「ぴ」と、「て」のあいまいな響きが、清音をいっそう透明にするのかもしれない。一種の不純物(?)がすぐ近くにあることで、清音の清らかさがいっそう引き立つのかもしれない。

 たの作品でも、私は(私の感覚は)、塚越の「ひらがな」に反応する。「冬のボサノバ」のなかほど。

穴の底には
ほそながい音工場

 「ほそながい」がとてもいい。とても気持ちがいい。あくまで私の肉体感覚のことなので、何がどうして、とは説明できないのだけれど……。あえていえば、この「ほそながい」は窮屈じゃない。「細長い」は窮屈だが「ほそながい」には窮屈をはみだす「ゆとり」がある。隙間がある。「細長い」なら3文字、「ほそながい」なら5文字。ひらがなのほうが長くて、そして字画がゆったりしているせいかなあ。

 あ、私は「音」のことを書いていたのに、なぜか、ここでは「視覚」のことを書いているなあ。

 「視覚」「聴覚」そして「発声器官」がどこかで溶け合っている。その感じが、とても気持ちがいいのかもしれない。




雲がスクランブルエッグに見えた日
塚越 祐佳
思潮社

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岩崎宏美「思秋期」

2008-10-18 09:29:52 | その他(音楽、小説etc)
岩崎宏美「思秋期」

 先日(かなり前になるが)、テレビで岩崎宏美が「思秋期」を歌っていた。30年以上前の曲になると思う。そのころは気がつかなかったが、不思議なことに気がついた。(気づくひとは30年以上前に気づいていたと思うけれど。)
 前半、もの悲しげな感じで歌がはじまるのだが、後半、「ひとりで紅茶のみながら……」、そして最後の「無邪気な春の……」と曲が進にしたがって、そのもの悲しい感じが、澄みきった感じにかわる。「ひとりで」で少し透明に、そして「無邪気な」でもう一歩進んで透明になり、最後の「秋の日」で完璧に透明になる。
 へえー、こんなきれいな曲だったのか、と感心してしまった。岩崎宏美がうまくなったのかな?
 CDを探してきて聞いてみたが、やはり同じだった。

 好奇心を発揮して、ちょっと調べてみた。阿久悠作詩、三木たかし作曲。「足音もなく……」はA♯ではじまり、「ひとりで……」はBではじまり、「無邪気」はCではじまる。半音ずつ旋律が上がっているのだ。
 私は音痴のせいか、この半音の区別がつかない。メロディーラインが同じなので、同じ音を声の色の変化だけで歌っているのだと思い込んでいた。
 歌手なのだから、半音ずつの移調はなんでもないことなのかもしれないが、その半音あがるごとに透明になっていく感じは、しかし、おもしろい。三木たかしは、岩崎宏美の声がどの調のときいちばん透明になるかを把握していて、それにあわせて作曲したのだろうけれど、その期待通りに歌う歌手というのも、いいものだ。

 一方、不思議なことも思った。音楽には調がある。移調によって曲の感じがかわる。そんな具合に、文学(詩)でも移調はあるのだろうか。もし、あるとすれば、それはどんな具合にしておこなわれるのだろうか。
 たとえば、きょうの「日記」で取り上げた原子修の「バラード 憲法の木」は、私の感覚でいうと、

ういういしい茎がさみどりに伸び
みずみずしい双葉がまみどりにひらき

 の部分は、岩崎宏美が歌う「ひとりで紅茶……」、「無邪気な春の……」という感じの移調のように、とてもこころを刺激される。ことばにあわせて、こころがすーっと動いて移管時がする。
 「ういういしい」→「みずみずしい」、「さみどり」→「まみどり」ということばの動きが「移調」のような効果をあげるのかもしれない。こういう「効果」が含まれているから、原子の詩を「バラード」そのもの、「歌」のように感じたのかもしれない。
 原子はとても耳のいい詩人なのだろう。ただ、その耳のよさが完全に全体を統一しているかといえば、そうでもないような気がする。「地獄の焔(ほむら)を耐えぬいたぼくの絶望そのままの」というような行の、音の悪さ(と、私には感じられる)は「不協和音」と呼ぶには、何か、抵抗がある。「不協和音」も「和音」である。原子の音は、そこでは「和音」になっていない感じがする。

 (この文章は、下の日記の補足です。)



思秋期から・・・男と女 1(紙ジャケット仕様)

ビクターエンタテインメント

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原子修「バラード 憲法の木」

2008-10-18 01:01:34 | 詩(雑誌・同人誌)

原子修「バラード 憲法の木」(「極光」10、2008年09月20日発行)

 原子修「バラード 憲法の木」はタイトルどおりの詩である。多くのひとが想像するだろうことをそのまま書いている。つまり、戦争に傷つき、その反省から生まれた「第九条」を掲げる憲法を一本の木になぞらえて歌っている。バラードとあるように、それはたしかに「歌」になっている。

地獄の焔(ほむら)を耐えぬいたぼくの絶望そのままの
黒くて固くてちいさな木の実
でも
その内部でいのちの火はほろほろと焚いている
ひと粒の小さな木の実
ぼくの心のなかの
すぐには忘れられない焼け跡の
まだ戦火のほとぼりさめやらぬ土に
ぼくがそっと埋めてあげた
ひと粒の実

ぼくの心のなかの
たやすくは忘れられない焼け跡で
飢えにあえぐぼくの
人知れずながす涙のしずくをのんで
かすかな黄金の芽がほころび

じっと見守るぼくのまなざしの光を吸って
ういういしい茎がさみどりに伸び
みずみずしい双葉がまみどりにひらき
やがて すっくりと立ちあがった一本の幼い木

 この詩には何度も「ぼく」が登場する。けれどその「ぼく」はきのう読んだ渡辺玄英の「ぼく」のようには増殖はしない。「ぼく」と繰り返すのは、「ぼく」にもどるためであって、「ぼく」から出て行くためではない。「ぼく」は絶対にかわならない。
 かわること--ことばを通してかわっていくことが、「文学」の姿だとすれば、たぶん原子の書いていることばは「文学」ではない。「現代文学」「現代詩」ではない。
 しかし、たぶん、そういう見方は一面的すぎる。

 原子はかわらない。同じ「ぼく」でありつづけ、その同じ「ぼく」を起点にして、「木」がかわっていく。
 涙をのんで、黄金の芽を吹き、さみどりの茎になり、まみどりの双葉になる。その変化にすべてをかける「ぼく」がいる。「木」をみつめる「ぼく」はかわらないが、そのまなざしのなかで「木」がかわる。--そのとき、実は、「ぼく」は育っている。
 それはゆっくりであるから、たぶん、目には見えない。目には見えないゆっくりしたスピードで、融合する。「ぼく」と「木」は区別がつかなくなる。「ぼく」ではなく、「対象」になってしまうのだ。「ぼく」でありつづけることが「ぼく」ではなくなる唯一の方法なのである。原にとっては。

 これは「愛」のひとつの形である。

 「ぼくがそっと埋めてあげた」の「あげた」。その、不思議な響が、私は、この詩では特に好きだ。そっと身を引いた「距離」が好きである。
 「ぼく」はあくまで、何かに対して一歩ひいている。「ぼく」の領域にとどまり、踏み出さない。踏み出して、対象をつくりかえようとはしない。自分の思うままにしようとはしない。ただ、それが、それ自身の力で育っていくのをみつめている。
 みつめながら「さみどり」を学ぶ、「まみどり」を学ぶ。みどりには、そんなふうに変化があることを知る。それは「ぼく」から出て行っていないように見えて、ほんとうは「ぼく」の大きな変化だ。


受苦の木―原子修詩集
原子 修
書肆青樹社

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渡辺玄英『けるけるとケータイが鳴く』

2008-10-17 11:52:14 | 詩集
渡辺玄英『けるけるとケータイが鳴く』(思潮社、2008年09月30日発行)

 「風俗」や「時代」を描いている詩--と、一般にいわれているような気がする。インターネットで飛び交っていることばや「ケータイ」(携帯電話)、「コンビニ」(コンビニエンスストア)ということばが登場するから、そんなふうに呼ばれるのだと思う。
 そして、「風俗」とか「時代」の「表層」を滑っていく詩--とも呼ばれていると思う。
 しかし、私は「風俗」にも「時代」にもあまり関心がない人間なのか、渡辺の詩を、そのことばを読んでも「風俗」というものを感じない。「風俗」の定義が私と普通のひととでは違っているのかもしれないが、渡辺が書いていることを「風俗」とは思いたくない。

 渡辺の詩を読んでいていちばん驚くのは「ぼく」への関心が非常に強いということだ。いたるところに「ぼく」が出てくる。「ぼく」ぬきでは、世界が存在しない--そう信じていて、必死になって「ぼく」「ぼく」「ぼく」と叫びつづけている。
 「けるけるとケータイが鳴く」という表題作はいくつもある。そのうちの「毎日新聞ばーじょん」(52ページ)。その前半。

手をふって別れた
それからホームに突き落とした
どこにも行くところがなくて
空も飛べなくて
くるしむことも
くるうこともできないぼくらは
からだの重心がおかしくなっている
ゆらゆらとフルえる心臓がヘンな生き物に
なって(いる(いない(かもしれない
けるけるとボクにでんぱが届く
どこまでがぼくなのか(わからないね
ぼくから(ぼくが(ずれつづけて
どこにもない街の知らない駅の改作をとおった

 「なって(いる(いない(かもしれない」--という行に、私は「ぼく」への強い強い関心を感じる。「なっている」でいいじゃないか。急いで否定し、仮定する。そんなふうに「ぼく」を増やしていかなくてもいいじゃないか。「ぼく」を増やさないと、「時代」についていけないのかもしれない。もしそうなら「時代」についけいけなくてもいい。「時代」に乗っからなくてもいいじゃないか、と私は思ってしまう。
 そんなふうに「ぼく」に夢中になるのではなく、誰かを心底好きになってみたら?と思う。「ぼく」についていくのではなく、「ぼく」以外の誰かに真剣についていく。それはとても危険なことである。「他人」についていけば「ぼく」は「ぼく」ではなくなってしまう。「ぼく」と言おうとしても「ぼく」なんていなくなってしまう。「ずれ」てしまうのではなく、ほんとうに消えるのだ。

くるしむことも
くるうこともできないぼくらは

 もし、苦しむことも、狂うこともできないのだとしたら、そこには「ぼく」が不在だからではなく、そこには「ぼくら」がいっぱいいすぎるからだ。「くるしむぼく」を一方で「わらい」、一方で「仮定」に変える。どこまでもどこまでも「ぼく」を増やしていく。
 私はなんだか、とても面倒に感じる。
 こんなふうに「ぼく」を増やしつづけることが。

 たぶん渡辺は「こまめ」な性格なのだろう。私はほんとうにずぼらで、「私」がひとりいるだけでも面倒くさい。「私」を増やすなんて、面倒くさくてできない。「私」に対して気配りするなんて、あほらしくて、できない。

なって(いる(いない(かもしれない

などと、「私」だけで考えたくない。「なっている」が間違っていたって気にしない。誰かが「なっていないよ」と指摘するなら、そのとき考え直す。自分で考え、自分で自分を三つに増やすなんて、ほんとうに面倒だと思う。

 私はたぶんとても保守的な人間なのだろう。たとえば携帯電話は私も持ってはいるし、あると便利なことはわかるが、ある意味でとても面倒なものだとも思う。家の固定電話だけなら、「私」は実に簡単な存在だ。会社から解放されて、家でくつろいでいる。好きなことをしている。会社から電話がかかってきたって、「ああ、面倒くさい」という声を出して応対しても、それで大丈夫だ。会社からプライベートな家に電話をかかってくるなんて、「面倒」なことが起きているに決まっているのだから、「面倒くさい」という声で応対したって、別にかまわないのだ。「携帯電話」だと、たぶん「ああ、面倒くさい」という声を出してはいけないのだと思う。「携帯電話」むけの「声」というものがあるのだと思う。「私」をいつも余分に準備していなければならないのだと思う。こういうことを軽々とできるひとは、ほんとうに、こまめなのだと思う。

 私がきょう書いたことは詩の感想ではなくなってしまったかもしれない。でも、これが、私の感じたことだ。それ以上に私を増やしたくない。ふえつづける「ぼく」を読みつづけるのが、途中でとても面倒になってしまった。どうぞ、かってに「ぼく」を増やして行ってくださいね、「ぼく」がどこまで増えるかということに、私は関心がありません、と言いたくなってしまったのである。
 「ぼく」を増やしながら世界と向き合うことが最先端の風俗なら、私はそこから落ちこぼれたままでいたい、と思ったのだ。「私」をとりつくろうことほど、面倒なことはない。とりつくろわなくても「私」なんだから、もう十分。

 渡辺と知り合いでなくてよかった。知り合いだとしたら、面倒くさくてしようがないかもしれないなあ、とさえ思ってしまった。




けるけるとケータイが鳴く
渡辺 玄英
思潮社

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斎藤健一「生物」、みえのふみあき「西海にて」

2008-10-17 00:48:23 | 詩(雑誌・同人誌)
斎藤健一「生物」、みえのふみあき「西海にて」(「乾河」53、2008年10月01日発行)

 斎藤健一「生物」は文体が非常に気持ちがいい。短いことばが積み重なり、積み重なったところで、その短いことばのなかに存在したいのちが、ぐい、と動く。そして世界を異質なものにする。そのリズムがいい。
 全行。

月がのぼる。まるい海である。光。北北西。あかるくかがやく闇。テトラポッド。鰤はぴちぴち跳ねる。大きく口をあき潮くさい息を吐き出す。西洋の袖ボタンに似た石が捨てられている。さかさまに彼らはよこたわる。両眼は幕を張りぬれるのだ。暗い水。浪。泡。荒れ痛む皮膚の色だ。

 世界をゆさぶり動かす起点としての「大きく口をあき潮くさい息を吐き出す。」この一文の強さ。「潮くさい息」。そのなまなましさ。鰤と人間が重なり合う。いのちが重なり合う。
 「両眼は幕を張りぬれるのだ。」の「のだ」がいい。断定がいい。「ぬれる」で終わっても「意味」はかわらない。しかし「のだ」があのるとないのでは、いのちのかかわりかたが違う。ぐい、と接近し、一体になる。
 とても印象に残る。



 みえのふみあき「西海にて」。「Occurrence18」。みえのは、斎藤のように対象の内部へは入っていかない。

ぼくが休む空虚はどこにもない
樹には樹の充実がある
真鍮は真鍮の
おまえはおまえの
実態に満たされている
ぼくは駆け足で遁走する
歩道橋の階段を踏みはずして
郵便局の金庫の扉を通過する
素粒子のように

 みえのは「通過する」。しかも「素粒子のように」。
 こうした視線の悲しみが休める「空虚」はたしかにないかもしれない。あるのは、ただ、ことばだけである。悲しみを通過させてくれることば。悲しみは通過してどこかへ行ってしまう。ことばだけが残される。それを見る悲しみ。この運動は循環する。けっして終わることがない。終わることができない。




少女キキ―詩集 (1963年)
みえの ふみあき
思潮社

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井坂洋子『続・井坂洋子詩集』(2)

2008-10-16 09:12:32 | 詩集
井坂洋子『続・井坂洋子詩集』(2)(思潮社、2008年09月23日発行)

 「覚えていた」「覚えている」ということばと同じくらい強烈に響いてくることばが、井坂洋子の詩にはある。「物語」である。
 「はるの雪」では次のようにつかわれている。

空が割れて
雪が降ってくる
破天荒な空模様である
小さなこどもの手を取り
物語の奥へと誘う
<ぼくはどこに行くの>
答えられないひとつめの質問
わたしたちが虫ならば
天地はお前の庭まで
わたしたちが人間ならば
天地は夕暮れの鉄橋まで
こどもは
ひとつ胴震いして
目を大きく見開く

<ママはどこに行くの>
答えられないふたつめの質問
時間の流れを
順を追って思いだし
思いだすことにぶらさがっている
他にはなにも考えたくない
物語のはずれの
青い影の角で待ち合わせても
だれもこなかった

 「物語」といっても、ここではどんな「物語」もわたしたちは読み取ることはできない。ただ「物語」としか書かれていない。
 ただし、ていねいに読んでいけば、「物語」の定義は導き出すことができる。
 「物語」とは人間の行動を決定する何かである。
 たとえば「物語」のなかで「わたしたちが虫ならば/天地はお前の庭まで」までの範囲であり、そこへ行くことができる。「物語」のなかで「わたしたちが人ならば/天地は夕暮れの鉄橋」までの範囲であり、そこへ行くことができる。
 「物語」は別のことばでも定義し直されている。
 「時間の流れを/順を追って思いだし/思いだすことにぶらさがっている」。「物語」のなかには時間がある。時間の流れがある。時間には順序がある。そしてそれは「思いだす」ということと関係がある。「思いだす」ということは「覚えている」ということと関係がある。ひとは「覚えている」こと以外を「思いだす」ことはできない。
 言い換えると。
 「覚えている」とこは「時間」を含み、その時間には順序があり、それが順番に再現されると「物語」になるということだ。そして、そういうきちんとした時間の流れのあるところでは、人間は「虫」になって時間を再現することもできれば、「ひと」となって時間を再現することもできる。もちろん、そのとき「虫」となるか「ひと」となるかで、「物語」の様相は変化する。「物語」はそういう変化を受け入れる。あるいは、うながす。そういうものである。

 井坂は、そういう「構造」をはっきりと見ている。「物語」をきちんと体験してきている。(きのうの「日記」で、井坂の精神の男根はそういう世界をくぐり抜けてきたと乱暴に書いたが、これは私が私の「物語」を井坂にあてはめてみただけで、ほんとうはもっと別の適切なことばがあるだろうと思う。)「物語」をきちんと体験してきて、そこから逸脱する。脱出する。そういうときに、詩は、突然あらわれる。
 たとえば。

物語のはずれの
青い影の角で待ち合わせても
だれもこなかった

 「青い影の角」。何であるか、見当もつかない。しかし、「青い影の角」は何であるかということを拒絶して、ただほんとうに「青い影の角」としてくっきり見えてくる。それが「物語のはずれ」というわけのわからない場所であればあるほど、抽象画のように、あざやかに見えてくる。
 これは「物語」を拒絶するだけではなく、「物語」そのものを破壊する。「覚えている」こと、「思いだす」ことのすべてを破壊し、そこから何かをはじめてしまう。そういう出発点である。
 それは別のことばで言えば、「物語」の「時間」の順序では捉えきれなかったもの、「思いだす」ことのできなかったもの、「覚えている」と自覚できなかったもの、「物語」のさらに時間をさかのぼった「過去」なのである。無意識という「過去」なのである。そういうものが「物語」を突き破って、その構造をたたき壊して、ぱっと、何の予告もなくあらわれる。
 さらに別のことばで言えば。
「物語」から「乖離」し、きっちりとした「距離」をあきらかにする。ことばを「物語」から完全に解放する。自由にする。
 それが、詩である。井坂の詩である。

 「物語」の時間を突き破ってあらわれる「過去」。自由になる「過去」。「過去」という無意識--と書きながら、ふと思うのは「劇」である。
 芝居というのは役者の肉体を必要としている。そして役者の肉体が背負っているのは、「過去」である。芝居の「物語」に書かれていること以前の「過去」。そういうものを差し出しながら、ことばを活性化させ、未来へ動かしていくのが芝居である。芝居は小説と違ってただひたすら「時間」が前へ進む。実は「過去」はこれこれでした、と小説のときのように挿入するわけにはいかない。常に「いま」として動きながら、その動きに「過去」を感じさせなければならない。役者の肉体はそういう責任を背負っている。役者の肉体から脚本に描かれていない「過去」が感じられるとき、つまり脚本そのものを破壊して動きだす何かが感じられるとき、芝居はおもしろくなる。強靱な肉体、特権的な肉体が芝居をおもしろくするのである。
 井坂のことばには、そういう「劇」をつくりだす「肉体」がある。「物語」から常に逸脱し、逸脱することで時間を活性化させる「肉体」がある。特権的な「肉体」がある。

 「青い影の角」は、透明で、近づきやすい「肉体」である。
 井坂の「肉体」は、かならずしもそういう近づきやすいだけの「肉体」ではない。そして、それこそがほんとうの魅力なのだが、わたしのことばでは、そこまではたどりきれない。ただ、そういうものを感じながら、私は井坂の詩を読んでいる。




井坂洋子詩集 続 (2) (現代詩文庫 第 1期189)
井坂 洋子
思潮社

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