詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

黒沢清監督「トウキョウソナタ」(★★★+★)

2008-10-02 01:16:43 | 映画
監督・脚本 黒沢清 出演 香川照之、小泉今日子、小柳友、役所広司 

 これは、これまでの黒沢清のどの映画よりもこわい映画である。
 何か所か、非常にこわいシーンがある。ひとつは街の風景。ビルが林立する。その手前に高速道路が立体で走っている。画面の上の方の道路は混雑していて車がゆっくりゆっくり、左から右へ進んでいる。下の道路はすいていて右から左へ速度をあげて車が走り去る。同じ場所、というと変だけれど、地理的には同じ位置にある道路が上りと下りでまったく違っている。そして、その差異を、上り線を走っている車も下り線を走っている車もまったく知らない。他人のことは何も知らない。そういう人間がひしめいている。
 もうひとつ。香川照之の家。すぐそばを電車が走っている。電車が通りすぎるとき、家のなかに電車の光が侵入してくる。防ぎようがない。電車に乗っているひとのことなど、香川家のひとは知らない。そして、そういう知らない人が直接侵入してくるのではなく、人間の形をとらずに、毎日、何回も何回も侵入してくる。そのことに、一家は慣れている。電車が通りすぎても、その光が家のなかに侵入してきても、何の反応も示さない。
 冒頭の嵐のシーン。小泉今日子が家の中へ侵入してきた雨にあわてて、窓を閉め、床を拭くのと対照的である。(このシーンのあと、小泉は、ふたたび窓を開け、外の風景をみつめ、それから嵐が家の中へ侵入してくるのを許すのだが、これはこの映画のひとつのテーマである。何かが侵入してくるのを許す、というのがこの映画の重要なテーマであり、それを冒頭できちんと紹介している。)
 彼らに何ができるか。
 最初、彼らは、向こう側へ侵入せずに、ただひたすら自分たちの「家」の関係を持続する。父は父の役を、母は母の役を、子供は子供の役を、「関係」として維持する。いろんなものが、それぞれの個人のなかへと侵入してくるが、彼らはそれを家族の「関係」のなかには持ち込まず、家族の「関係」の外においたまま、その侵入を他の家族に知られないようにふるまい続ける。自分の中に侵入してきたものを「秘密」として守っている。そしてその結果、「関係」がどんどん形骸化して行く。形骸化していっているのに全員が気づきながら、何もできない。
 小泉今日子が息子に向かって「私がお母さんの役をやらなかったら、家族はどうなるの?」と語りかけるシーンがあるが、このシーンが、この家族を象徴的に語っている。それぞれが「役」を演じることで「家」、「家族」の「関係」が成り立っているのだ。そういうことを、全員が知っている。知っていて、同時に、それ以上のことが何もできない。
 黒沢の映画のなかでもっとこわい映画である、という理由はそこにある。知っていて、何もできない。何かが自分たちの中へ侵入し、壊していくのを見ているだけ。

 やがて、関係は形骸化を通り越して、破壊してしまう。その破壊は、関係だけではなく、それぞれの個人をも破壊する。つまり、もう「秘密」を守ることができなくなる。「秘密」をなくしてしまった結果、もう父でも、母でも、子供でもなくなる。
 ところが、そこから映画はがらりとかわる。たぶん、そんなふうにしないと映画が成り立たないのかもしれないが、映画から恐怖がすーっと消えてしまう。それが、なんと言えばいいのだろうか。つまらない。
 それぞれの人間が「秘密」をなくしたとき、彼らは「役」を演じられなくなる。そして、人間になってしまう。たった一人になって、そこから自分で立ち上がるしかなくなる。そして、家族が再生しはじめる。
 予測はついたことではあるけれど、なんだか、とてもつまらない。恐怖に破壊され、再生不能になって、社会に放り出される。そういう形では、やはり映画は存在し得ないのだろうか。
 *
 この映画には一種の「オチ」みたいなものがついている。好意的に言えば「伏線」がきちんと幸福につながるように脚本がつくられている。
 この不思議な物語を支えているのは、侵入してくるものなのだ。
 香川照之には「現金入りの封筒」、小泉今日子には「強盗」、息子には「ピアノ」が侵入してくる。それは彼らを破壊する。それまでの自分とはまったく違った存在にしてしまう。そして、何が侵入してきたか、父と母はあいかわらず「秘密」にしているが、「秘密」があることによって、こんどは逆に相手を許し、受け入れるようになる。自分に「秘密」があるように、相手にも「秘密」がある。それは言う必要のないものである。
 息子だけが例外である。息子のなかには「ピアノ」が、音楽が侵入してくる。その存在を父は最初拒絶する。しかし、最後は受け入れる。家族に受け入れられた「侵入者」を頼りに、息子がまず再生する。ピアノによって、自分をつくりだしてゆく。それによって、家族が再生する。
 映画は、その瞬間、突然メルヘンになってしまう。
 なんと言えばいいのだろうか。この瞬間、私は何か裏切られたような感じがしたのである。芸術にとって、人間の再生こそが最大のテーマである。この映画もきちんとそれを描いている。だが、それでいいのかな?とふと思ったのである。奇妙な印象が胸の奥に残ったのである。
 少年がラストシーンでピアノを弾く。そのとき、窓のカーテンが揺れている。冒頭の、小泉今日子と嵐のシーンにもカーテンが揺れていたが、その揺れとは対照的に、実におだやかで優しい揺れである。揺らぎである。思わず息を飲む美しさである。少年の演奏するピアノにひかれて人が集まってくる。少年は受験でピアノを弾いているのだが、教官たちも採点をすることを忘れて聞きほれている。とても美しい。ああ、こんなふうに再生できてよかったなあ、と思う。
 思うけれど、やはり、違和感が残る。
 私はあまのじゃくなのかもしれないが、この幸福なラストシーンよりも、最初に紹介したこわいこわいシーンの方が好きなのである。香川照之と小泉今日子の再生した父・母の姿よりも、絶望している前半の演技の方にひかれるのである。そこには何のよろこびもないけれど、不思議な強さ、こんなふうにして人間は絶望できるのだという力を感じ、胸が震えるのである。
 その、前半と、後半のつなぎ目が、私にはなんだか納得が行かないのである。香川照之、小泉今日子の演技はすばらしい。その演技がなければ、★3個の映画になる。


(付記)
 ひとの幸福を願わないわけではないけれど、この映画は、やっぱり、変。
 たとえば、「木靴の樹」はハッピーエンドではないけど、不思議に納得してしまうものがある。納得というと変かもしれないけれど、思わず「ミネク、幸せになれよ」と祈ってしまう。映画なのに、つまり、架空の話であり、ミネクは実在の少年ではないということをはっきり知りながら、私は真剣に祈ってしまった。映画なのに、祈ってしまうなんて、はじめての体験だった。思わず泣いてしまった。
 そして、祈ることによって、その映画が不幸で終わるにもかかわらず、私自身が救われたような感じを覚えたのである。
 そういう映画が、私は、とても好きなのだ。
 「木靴の樹」はハッピーエンドではないけれど、とても好き。「トウキョウソナタ」はハッピーエンドだけれど好きになれない。



アカルイミライ 特別版

メディアファクトリー

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森川雅美『山越』

2008-10-01 10:21:02 | 詩集
森川雅美『山越』(思潮社、2008年09月01日発行)

 私には森川雅美の詩はよくわからない。
 たとえば、私には岩佐なをの詩もよくわからない。なぜ、こんなに気持ち悪いのか、まったくわからない。岩佐の書いている詩を気持ちよく感じるひとがいるということは推測できるが、私には、ともかく気持ちが悪い。しかし、岩佐の詩については、わからなくて、とても気持ちが悪いにもかかわらず、ついつい読んでしまう。読んでしまうと、ついつい感想書いてしまう。こんな気持ち悪い詩を書かないでください、とほんとうはいいたいのだが、なぜか引き込まれてしまう。岩佐のことばに肉体を感じるからだ。肉体のあるものには、私はどうしても反応してしまう。そして、こんなに気持ちが悪いのは、もしかしたら、これが好きってことかなあ、などと考え、ときどきぞっとしてしまう。岩佐のことばが好きっていやだよなあ、ぜったいにいやだよなあ、と言い聞かせるために私は岩佐の作品について何事かを書いてしまうのかもしれない。
 森川の詩についての「わからない」は、岩佐の詩に対する「わからなさ」とはまったく別の次元に属する。
 森川の詩のわからなさを私なりに説明すると。
 たとえば、今回の詩はとても長い。「2000行の野心的長編詩」と帯にある。だが、数えたわけではないので何行あるかわからない。--そういうときの「わからない」なのである。「2000行」書いてある、ということは「帯」からはわかるが、それは私が確かめたことではなく、他人がそう書いているのであり、私にはそれがほんとうかどうかわからない。数えればたしかに2000行あるのだろうけれど、そんなことは「わからない」ままにしておいていいことだろうと思う。2001行あろうが、1998行であろうが、それはデジタルな情報であって、2000行と2001行、1998行の区別なんて「頭」でわかるだけであって、読んだ実感として差異がない。--そういうわからなさが、森川のことばにはつきまとっている。
 森川はとても「頭」がいいひとなのだと思う。2000行と2001行、1998行の違いがわかるような「頭」のいいひとなのだと思う。私にも、ちゃんと数を数えれば2000行と2001行、1998行の違いは指摘できるけれど、私はそんなめんどうなこと「わかりたくない」という人間なのだ。簡単に言い直すと、「頭」のいいひとのことばを読んでいると、なんだかめんどうになり、「わからない」とひとくくりにして安心してしまいたいのである。2000行、2001行、1998行の違いなんかわかっても、私の暮らしがかわるわけではないから、それがたとえ2015行、1980行であっても「嘘つくな」なんて言わずに、「へえーっ、そうですか」ですましてしまう。そんなところに「真実」を探すようなことをしたくない。

 こんな抽象的な批判をしても、また森川に叱られるだけだろうけれど、まず、そのことだけは書いておきたいと思った。

 で、作品である。
 12ページに、次の1行がある。

生きる人と生きえなかった人の言葉をつなぎたいと思う

 この1行に森川の思想が凝縮していると思う。私は思想ということばをつかったが、森川の作品に対してつかった思想は、私が、他の人の作品を評価するときにつかう思想ということばとはかなり違う。森川の思想は「頭の思想」、ほかのひとの作品のときにつかう思想は「肉体の思想」というくらいに違う。別のことばで言い直せば、「頭の思想」とは「意味の思想」、あるいは「思想の意味」になるかもしれない。
 森川のこの1行を私が「頭の思想」と呼ぶのは、その行のなかに出てくる「言葉」という表現に「頭」を感じるからだ。
 なぜ、「言葉」? なぜ、きちんと伝えられるもの? なぜ、「言葉」になってしまっているもの、「頭」で処理されたものを「つなぎたい」のだろうか。「頭」で処理されたものは、別に、森川がつながなくても、読者がかってに本を読んでつなげばいいのではないだろうか。

 私は、たとえば岩佐を詩を読んでいて感じるのは「ことば」を「つなぐ」という行為ではない。逆のことだ。人間の暮らしには「ことば」にならないものがある。「ことば」では伝えられないものがある。それに「肉体」でしか伝えられない。卑近な(?)例で言えば、「ことば」にならない「いのち」はセックスでしか伝えられない。「あー」とか「うー」とか「いくーっ」とか、たとえばマルクスやカントの「頭の思想」には無縁なことばをわめきながらつないでゆくものが「肉体」にはある。それは愛し合っていても、憎しみ合っていても、何の感情もなくても、ときにはつながってしまうものである。そして、つながってしまうために、ときにはひとは苦しんだり、悩んだりもする。思い通りに行かないもの。矛盾したものが「肉体の思想」にはある。その矛盾したものを、あるがままに浮かび上がらせるのが芸術の(詩の)仕事だろうと私は感じている。

 「言葉」をつなぐのではなく、むしろ逆だろう。ことばを切り離して、ことば以前に返して、ことばがことば自らの力で、それまでことばとして存在しなかったものと結びつくようにしむけるのが詩であるだろう。生きる人と生きえなかった人の「言葉にならないもの」をつなげるために、いまあることばを解体するのが詩ではないのだろうか。芸術ではないのだろうか。
 ことばが解体する(解体させる)--その果てにあらわれてくる自由。
 ことばが解体するとき、それまでの精神・感情・その他人間の「内部」(?--とりあえず、そう呼んでおく)ものが、解放される。ものの見方の限定からときはなたれる。そして、何かとんでもないものとかってに結びつく。その瞬間に、「あ、こんなの、はじめて」という興奮とよろこびがやってくる。「頭」に、ではなく、「肉体」に。
 そういうものを感じさせてくれないことばは、私は「わかりたくない」。だから、「わからない」、というしかない。



山越
森川 雅美
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美空ひばり「美空ひばりスペシャルベスト」

2008-10-01 00:14:21 | その他(音楽、小説etc)
 吹き込まれた年代順に、1悲しき口笛、2東京キッド、3越後獅子の唄、4私は街の子、5リンゴ追分、6お祭りマンボ、7津軽のふるさと、8港町十三番地、9車屋さん、10ひばりの佐渡情話、11柔、12悲しい酒、13人生一路、14愛燦々、15みだれ髪、16川の流れのように。
 1から11までがとてもおもしろい。「津軽のふるさと」が聞きたくて買ったのだが、ほかもとてもおもしろい。
 「津軽のふるさと」の切ない切ない透明な感じは、いったいどこからくるのだろうか。まるで少女合唱団のソロのような透明さと、ふるさとを遠く離れたひとの、晩年(少なくとも中年以降)の切なさが同居している。そこに歌われている春の日、日本海の青は目の前にない。目の前にない過去を「現在」として呼び出す悲しみ。ひばりがこの曲を歌っているのをテレビでみたことが一度だけあるが、年をとってからの歌よりも、最初の録音、モノラルのこの少女の不思議な声が、ほんとうに不思議である。
 「お祭りマンボ」「車屋さん」もとても好きな曲だ。「お祭りマンボ」は陽気なのか、悲しいのかよくわからないが、人間の暮らしというのはそんなふうにして陽気と悲しみがとなりあわせにくっついているものである。「車屋さん」はジャズと都々逸の同居がなんといっても楽しい。こんなむちゃくちゃな(?)曲をよくつくるものだと思うけれど、それをとても自然に同居させてしまうひばりの声の不思議さ。
 ひばりの声には、何かいつでも矛盾したものがある。ひとつの色に染まっていない。
 「津軽のふるさと」は少女なのに、年増女(という表現が適切であるかどうかわからないが、ようするに人生経験が豊かな女性)の切なさが同居している。普通なら、まったく別な次元のものがいっしょに存在している。その矛盾が、津軽の風景を、いまはそこにないにもかかわらず、かつてあったままの美しさと、それに手が届かない切なさで浮かび上がらせる。
 「悲しき口笛」の不思議な倦怠感と、「越後獅子の唄」の、まるで他人を疑うことを知らない純真さ、その声の差異にも驚く。「悲しき口笛」と「港町十三番地」は、私には似通ったものに感じられるけれど、やはり声が声の質のちがいに驚く。「港町十三番地」には一種の余裕というか、諦めがある。
 こんなに不思議な、いろいろな声はどこから出てくるのか。
 と、書いた瞬間、ひばりの声はどこからか出てくのではなく、「出している」のだと気がついた。
 「声を出す」とは普通のことである。誰でもが「声を出す」。歌うときは、誰だった「声を出す」。出さないと歌にならない。--というのは、あたりまえのことであるけれど、ほんとうはあたりまえのことではない。普通は声を出しているのではない。普通は、単に声がでているのだ。声がでるに任せて歌っている。曲の旋律、リズムにあわせて声がでる。声は歌詞をたどっている。
 ひばりはそうではなく、声を出す。声を出すことで、その声のなかに感情を作り上げる。こころのなかにあって、まだ明確にならない感情。ひとは悲しいときさえ、その悲しみがどんなに悲しいかをはっきりとは自覚できない。ひばりは、そのはっきり自覚できない感情を声のなかに引き上げる。だから、複数の感情が声のなかにあるのだ。感情に流されるまま声を出していたら(つまりは、感情によって声が「出されてしまって」いたら)、声は単調になってしまうかもしれない。その単調さを乗り越えるために、ひばりは声のなかに複数の感情をつめこむ。
 ひばりの声は「わざと」出した声なのである。そして「わざと」のなかに、どんなときでも芸術が、つまり詩がある。

 後半のひばりは、いわゆる演歌ばかり歌っていたが、とても残念だ。ひばりはジャズやシャンソンも歌っている。ジャズは一度日記に感想を書いた。どれもおもしろい。ひばりは何でも歌える。それが、たぶんおもしろくて、作曲家も「これは歌えるかな? これならどうだ?」と挑むような形で曲をつくったのかもしれない。「車屋さん」のように、ジャズと都々逸の同居(これが、なんと、「津軽のふるさと」の米山正夫の曲である)など、ひばりがいなかったら誰も書こうとはしなかったのではないだろうか。ひばりも、そんな曲が好きだったのではないだろうか。(と、私はかってに思う。)後半が演歌にしばられているようで、なんだか寂しい。


スペシャルベスト(DVD付)
西沢爽,関沢新一,小椋佳,星野哲郎,秋元康,藤浦洸,西條八十,小沢不二夫,村岡実
Columbia Music Entertainment,inc.( C)(M)

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする