詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井坂洋子『続・井坂洋子詩集』

2008-10-15 02:03:36 | 詩集
井坂洋子『続・井坂洋子詩集』(思潮社、2008年09月23日発行)

 詩とは何か。簡単に言うと、私は、詩とは散文から乖離したものと考えている。どんなことばも散文を基本としている。つまり、言いたいこと、「意味」を相手に伝えるのが言語の絶対条件であり、ひとに言いたいことを伝えるには、それなりの決まりがある。その決まりの基本が散文である。「事実」があり、「事実」には「事実」にふさわしいことばがあり、そのことばにはことばを動かす順序が決まっている。そういう「決まり」から乖離しているのが詩である。ただし、この「乖離」が詩になるためにはひとつの条件がある。「乖離」の「距離」が常に一定であることである。そして、詩とは、その「乖離」の「距離」のことである。(この定義は、実は散文芸術にもつかえる。「事実」というものがある。その「事実」からどれだけの「距離」を維持して対象を描くか。その「距離」が一定のとき、その散文は芸術に、つまり小説や、評論や、哲学になる。)
 --この「距離」を、散文にも、詩にもあてはめるために、文体と言い換えると、すっきりするかもしれない。
 あらゆる言語芸術は「文体」であり、文体とは対象との「距離」である。「距離」が一定であるとき、そこに自然と「文体」があらわれる。

 井坂の「文体」、つまり「詩」は、対象に「淫しない」という態度にある。これは対象に分け入らない(卑近なことばで言えば、対象のなかに闖入しない、男根を挿入しない)という意味ではない。女性だって、その意識の男根を対象のなかに挿入する人間がいる。それはそれでいいのだ。井坂の場合は、対象に触れ、同時に対象から離れる。対象を十分に知った上で、対象から離れる。「淫しない」というのは、そういう意味である。離れる前に、実際は意識の男根を対象に挿入しているかもしれない。しかし、書くときは、かならず対象から離れる。姦淫したまま対象を描くということがない。その「距離」の具合に、井坂のことばの特徴がある。

 「返歌 永訣の朝」という作品がある。『箱入豹』の冒頭の作品である。タイトルからわかるように、この詩は宮沢賢治の「永訣の朝」を踏まえている。宮沢賢治のことばのなかを歩き回って、つまり意識の男根でかきまわし、宮沢賢治を好き放題(?)にあじわい尽くして、宮沢賢治から離れる。
 宮沢賢治に淫して、宮沢賢治の乱れるままに、意識の男根の快楽を楽しむという詩もあるだろうけれど、井坂はそういうことはしない。離れる。離れてしまって、宮沢賢治が、されるがままの快楽から落ち着くのを待っている。そして、まるで後技の余韻さえも消し去って、離れ、どんなに淫しても宮沢賢治は宮沢賢治、井坂洋子は井坂洋子である、とはいう「さびしさ」からことばを動かす。
 井坂洋子のことばには、淫する快楽の、そのはての「さびしさ」がある。そして、その「さびしさ」が一定の「距離」を持っている。その「さびしさ」のなかに、肉の苦悩がある。
 その特徴的なことばは「覚えている」である。

その朝
わたしは修羅についた
林の近くの家
ひと口みぞれを飲んだ
ゆきを頼んだ
これは覚えている

 ひとはあらゆるものに淫する。どっぷりとひたる。そのとき、ひとはすべてを忘れる。淫していることさえ、忘れる。忘れるから淫することができる。そして、自分ではなくなる。エクスタシー。自分の外に出てゆく。自分ではなくなる。
 ところが、井坂は、そういう淫したことを「覚えている」。そこに「さびしさ」がある。悲しみがある。この悲しみは人間存在への愛しみでもある。人間は淫しながら、そのまま自分の外へと完全に脱出できるとはかぎらない。人間は自分にもどってしまう。外へ出たことは「幻」。そして、そういうことを人間は「覚えている」。意識のことではない。肉体が覚えているのだ。

 私の書いていることは、抽象的すぎるかもしれない。

 だが、こう考えてもらいたい。井坂の書いたこの6行。その行から「覚えている」をとってしまったらどうなるか。「覚えている」という行がなかったら、井坂は、この詩を書くことができない。そのことばがないと成立しない。そういうことばを私は「キイワード」と呼ぶのだが、井坂のこの作品のキイワードは「覚えている」である。
 「覚えている」は2連目にも出てくる。

なぜ来たのか
したしいものに会いに
これも覚えている
朝が私を招き入れたのだ
朝のぬけがらがたくさんあって
思いを深く耕した跡
じらじらと乱(らん)を踏みつけるように
人々が
枕もとにいた

 「覚えていた」「覚えている」。
 このことばの特徴は何か。「覚えていた」「覚えている」といわれるもの、つまり「対象」はいまは目の前には存在しないということである。私は、いま、ここに存在する。しかし、私が、いま、ここに存在するとき、同時に、いま、ここに存在し得ないものがある。そこに存在するのは、「距離」である。「距離」だけが存在する。私と、いま、ここにない対象その隔たりだけが存在する。それを知ることは「さびしい」。それを思い出すことは「さびしい」。それを「覚えている」と実感することは「さびしい」。

 井坂の詩は、どれも「さびしい」。不思議に「さびしい」。それは単に対象の不在だけを明らかにするからではなく、いま、ここに、私という肉体があることを実感させる「さびしさ」である。肉体の実感があり、対象の不在がある。その瞬間にあらわれてくる「距離」。それが「さびしい」

 宮沢賢治の「永訣の朝」あら、いつでも、ここにある、と言えるかもしれない。文庫本もあれば全集もある。宮沢賢治のことばは消えることはない。それでも、それは、いま、ここにはないのだ。「読んだ」という記憶、その「覚えている」のなかに、ある。
 宮沢賢治から離れて(覚えている、をしっかり自覚して)ことばを動かす。その「距離」。そのときの「距離」。テキストを前にして、それを読みながらことばを動かすのではないのだ。「覚えている」と言えることだけを手がかりにして、肉体ごと動いていくのである。だから、美しく、「さびしい」。

顔を両手で覆って
なげく
所作
透んだ林の底から湧き起こってくる
白い鳥の声

 このただならぬ美しさの前に、私はことばを失う。何を書いていいかわからなくなる。いいなあ、としか言えない。
 たぶん、この美しさがただならないものであることは井坂自身自覚している。だから、詩は、そういうものに淫しないように、きちんと「距離」を提示して閉じられる。この冷静沈着(?)なありようが、また、なんとも言えず「さびしい」。美しい。

睡りはいつしか
わたしに重みを垂れ
穂を垂れて実る一本の祝儀
睡りのなかで示唆を受けた
(しろい山々のしろい山
 は
 わたしの墓石
 しろいだけの形)

みぞれによって土潤い
潤いすぎて
みだらになる
こころの容体がわるくなる
だから けんじゃよ
嘆いてはいけない

 うーん、嘆かせてよ。





箱入豹
井坂 洋子
思潮社

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野村喜和夫『言葉たちは芝居をつづけよ、つまり移動を移動を』

2008-10-14 10:14:19 | 詩集
野村喜和夫『言葉たちは芝居をつづけよ、つまり移動を移動を』(3)(書肆山田、2008年10月10日発行)

 野村喜和夫はノーテンキである、と私は思う。それはたとえば、「むきだしで純粋な」次の部分。

 とにかく出てゆくこと、歩んでゆくこと。ぼくは誰なのか、というふるびた問いをかくじつに無にしながら、けれどますます可塑的な街の捉えがたい奥ぶかく、ひとむらの草地を烈しく臍とする蛇にさえ導かれて。

 「とにかく出てゆくこと、歩んでゆくこと。ぼくは誰なのか、というふるびた問いをかくじつに無にしながら、」というのは野村の永遠のテーマである。こういうことを楽々と書いてしまうことが、正直であり、またノーテンキの所以である。
 「ぼくから出てゆくこと」というのは、そう書いてしまっては何も書いたことにならない。そういうことばをつかわずに「ぼくから出てゆく」その実践こそが詩である。しかし、書く。書いてしまう。書いてしまえば、ことばは書く前とは違ってしまうことを知っていながら、書いてしまう。
 さすがに、それだけではまずい(?)と思うのか、「けれど」以下は、何が「けれど」なのかわからないことばで濁している。「論理」をぱっと手放し、カンでことばをたぐりよせる。
 「奥ぶかく」→「草地」→「蛇」。
 あ、ずっごく単純。想像力の動きが、くっきりと見えてしまう。「烈しく」「臍」という視線(想像力)の攪拌など、まったく無効である。もちろん野村はそれが無効であると承知で書いている。それがノーテンキ。
 このノーテンキは別なことばでいえば「純粋」。

 あ、タイトルそのものに「純粋」ということばがあったなあ。「むきだしの純粋」。あ、それこそが野村の本質なのである。
 剥き出しの純粋さは馬鹿に見える。ノーテンキに見える。それでも、その剥き出しの純粋さが汚されずに存在できるのは、その純粋さは汚れる先に、他者を洗ってしまうのである。そういう剥き出しの純粋さは、それに対して「馬鹿」「ノーテンキ」と言ってしまった瞬間から、実はその批判者が「馬鹿」「ノーテンキ」というくだらない基準でしか野村を見ていないということを宣言してしまうからである。(これは、私のことを、反省をこめて、書いている。)

 「馬鹿」「ノーテンキ」「純粋」ということばに頼らずに、どうやって野村のことばのパワーに触れるか。
 それは、実は、とてもむずかしい。
 いちばん間違いのない方法は「好き・嫌い」である。「好き」と言ってしまうのが、たぶん野村の作品に対するいちばん正確な批評になる。それ以外のことばは、何を書いてみても、結局何かの受け売りになるだろう。「好き」ということを、かっこつけて言い直しても、「好き」以上には何も伝えられない。

 と、開き直って、私が「好き」といいたい行を少し引用しておく。「反・彼方」。

その何処にでも 雨が
ふりつづいた むしろおれが
ふりつづいた
雨として
言葉汁として
雨はおれ おれは雨



群れ
ただ
群れ たとえば
単語として おれは
ふりつづいた 名づけるのではなく



名づけるのでなく
単語として
おれのうえに おれは
ふりつづいた
ふり つづいた
           (引用した「単語」は本文ではゴシック体)






ニューインスピレーション
野村 喜和夫
書肆山田

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野村喜和夫『言葉たちは芝居をつづけよ、つまり移動を移動を』(2)

2008-10-13 00:49:45 | 詩集
野村喜和夫『言葉たちは芝居をつづけよ、つまり移動を移動を』(2)(書肆山田、2008年10月10日発行)

 「シャルルヴィル発歯痛」は軽快で読みやすい詩だ。

ランボーの
シャルルヴィルまで行って
ぼくは歯痛をわずらった、わずらった。

発端はこうだった
夏の朝早く
ランボーなら
「おれは夏のあけぼのを抱いた」とうそぶくあの時刻
成田を発って
シベリアのタイガのうえを飛び
細くうねる蛇のような川と
ほの暗い痣のような雲の影とを
きりもなく眼下にかぞえるうち
とうとうか、やっとか、あっという間にか
やがてパリ
やがてシャルルヴィル

 2連目の書き出しの「発端はこうだった」という1行が私はとても好きだ。「発端」なんか、どこにもない。とりあえず、そこに設定してあるだけである。「意味」は書いた瞬間に否定されているのである。そして、身軽になる。
 このばかばかしさが、とてもいい。このばかばかしさが、とても好きである。

 ある詩人の作品について、「ばかばかしい」ではないけれど、一般には否定的につかわれることばで批評したところ、抗議のメールがきたことがある(書いた文章を削除しろ、と要求してきた)が、なかには「ばかばかしい」というような否定的なことばでしか評価できないものもある。
 野村の、この「発端はこうだった」には、あらゆる「発端」を切り捨てる力がある。すべてを切り捨てるということは、すべてを「発端」として採用してもいいということと、同じである。そんなばかばかしさ、つまり「意味の不成立」をうながす力がある。
 つづいて「ランボー」が出てくるが、ようするに「ランボー」ということばをどうやって早く登場させるか--それだけのために「発端」を設定しているのである。
 いいなあ、この安直な(これも、私としては肯定して書いている)軽さ。

 先に進んでの、「とうとうか、やっとか、あっという間にか」もいいなあ。早く「シャルルヴィル」を登場させたいのだが、じらしたい気持ちもある。
 でも、だれをじらすの?
 読者なら、とっくに「シャルルヴィル」があらわれることを知っている。野村が、我慢できずにすぐにでも「シャルルヴィル」をだすことはわかっている。2行目にすでにでてきているし、ごていねいにも、「ランボー」という注釈までついている。「ランボー」には「夏のあけぼのを抱いた」という注釈までついている。脇道へ入れば入るほど、「シャルルヴィル」以外のものは登場できなくなる。
 で、だれをじらしているの?
 野村自身をじらしているのだ。自分でじらして、自分でじれったがり、じぶんでたどりついて、うーん、じれるってこんなに楽しいと喜んでいる。
 いいなあ。ほんとうに、いいなあ。

 私は他人が喜んでいるのを見るのは大好きだ。

 あとは、もう、野村が自分でじらして、自分でいらいらと快感を同時に味わうのを読み進むだけである。
 そして、そのきわめつけが「歯痛」である。
 
 なんだ、この歯痛というのは?
 どんなふうに痛んだか、どれだけ苦しかったかなんて、ぜんぜん書いてない。
 自分で、歯痛と書いて、わかってよ、わかってよ、ランボーのシャルルヴィルまで来て歯痛なんだよ、このじれったい気持ちわかってよ。
 と、野村はいうのだけれど、そんなのわかりっこないわな。
 だいたい、シャルルヴィルへ行ってきました、ランボーのふるさとへ行ってきましたというのを、「わざと」歯痛にかこつけて言おうとしているんだから、ねえ、シャルルヴィルへ行ってきたといいたいだけなんでしょう? シャルルヴィルってランボーのふるさとなんだよ、知ってるっていいたいだけなんでしょ?

 まあ、こういう見え透いたことばの動き--それが見え透いていることを知っていて、野村は「わざと」こんなふうに書いている。その「発端」が「発端はこうだった」という次第だ。笑えるねえ。
 いいなあ、この矛盾。
 やっぱり長嶋茂雄を思い浮かべてしまうなあ、私は。ホームランもヒットも関係ない。ただ、バットでボールをたたきたいんだ。ピッチャーが投げてくる球をボールでたたきたいだけ。同じように、野村は、ただことばを突き動かしたいだけ。「意味」なんか、関係ない。動いていくことばの、その動きが楽しいから、なんでも書いてしまうだけなんだ。ことばを動かすためなら、どんな「わざと」もやってのける。
 いいなあ、このノーテンキ。
 (あ、これも、肯定的な意味でつかっていますよ。)



スペクタクル
野村 喜和夫
思潮社

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野村喜和夫『言葉たちは芝居をつづけよ、つまり移動を移動を』

2008-10-12 14:47:15 | 詩集
野村喜和夫『言葉たちは芝居をつづけよ、つまり移動を移動を』(書肆山田、2008年10月10日発行)

 野村喜和夫の詩を読むと、野村は詩を知らないんじゃないか、と思うことがある。詩を知らないといっても、もちろん私よりもはるかに多くのことを知っている。たくさん詩を読んでいるし、たくさん詩を書いている。そして、高い評価を得ている。それにもかかわらず、野村は詩を知らないんじゃないか、といいたくなる。それはたとえていえば、長嶋茂雄をつかまえて、長嶋は野球を知らない、というのに似ている。もちろん長嶋は素人とは比較にならないくらい野球を知っている。野球選手としての実績もあれば、監督としての実績もあり、評価も高い。それにもかかわらず、長嶋は野球を知らない、という批評(評価?)が流通するのは、長嶋の野球がセオリーを超越しているからである。セオリーを無視しているからである。別のことばで言えば、「カン」によって動いていると思わせるところがあるからである。野村の作品にも、そんな「におい」がある。知っていて書いているんじゃない。「カン」で書いているのではないか、という感じがする。その「カン」は詩の歴史、詩のセオリーを超越したところから、突然降ってくる。そして、野村はそれにしたがって動いている。そういう感じがする。
 もちろん、これはいい意味で書いている。
 どんな芸術でも「カン」がなければ芸術にならない。あることがらが芸術になるためには、常識を超越した力が必要である。超越したものがなければ、それは「実用品」に終わってしまう。日常ではつかえない何かがあるから、それは芸術になるのだ。
 長嶋の野球がある意味ではばかげている。しかし、ひとを魅了する。ばかげているからである。非日常だからである。つまり、芸術だからである。野球はもちろん芸術ではなく、スポーツである。ダカラ、長嶋は馬鹿だと批判される。



 今回の詩集は「新作」というよりも、古い作品の拾遺集である。新しいのは「序 言葉たちは移動をつづけよ、つまり芝居を、芝居を」だけである。その「序」の冒頭。

   言葉たちは移動をつづけよ
       つまり芝居を
     芝居を
うしろ向きに
      出発する
  幽鬼ノヨウニ薄イ俺ダカラ

 1行目がいきなり3字下がってはじまる。なぜ? 理由はわからない。2行目は7字下がっている。なぜ? 3行目は5字下がり、4行目は字下げがない。なぜ? しかし、次のように書き換えてみると、不思議な気持ちになる。

言葉たちは移動をつづけよ
つまり芝居を
芝居を
うしろ向きに
出発する
幽鬼ノヨウニ薄イ俺ダカラ

 行の先頭をそろえると、野村のオリジナルを読んだときの、ことばのリズムがすっかり違ってしまう。字下げ、その空白(沈黙はまた別のものだろう)こそが「序」の詩なのである。空白(余白ということばをつかいたくもなるけれど、何か違う)がことばのエッジ(?)をきわだたせる。その「きわだち」のなかに、詩がある。そして、そういう「きわだち」と「きわだち」を誘い出す空白の関係は、ことばを超越した何かである。どれだけほかの詩を読んでみても、詩の歴史をたどってみても、何字下げればことばのエッジがきわだつかということなど、わかりはしない。「きわだち」を呼び寄せるのは「カン」なのである。(空白をつかわない詩でも、「カン」によって、野村は「きわだち」を引き寄せている。そういう印象が、私にはある。)

 「空白」と、ことばの「きわだち」。そのやりとりのなかで、何がおこなわれているか。ことばの「意味」の否定がおこなわれているのだと、私は思う。
 ことばが動いていけば、それが詩である--野村の信じている詩の定義は、そういう簡単なものであると思う。
 私も、実は、そう思っている。
 「移動」こそが詩である、と。
 そして「移動」とは「否定」なのである。「意味」を否定しつづけることがことばを動かしていく。
 1行目の「移動」を野村は「芝居」と言い換えることで「否定」する。「移動」を、まるで、そんなことばなど存在しなかったかのように消し去ってしまう。「完全否定」してしまう。
 「移動」するといっても、「正しい」もののなかへ「移動」するのではなく、虚構=芝居のなかへ動いていく。芝居というのはあることがらを踏まえ、それをなぞり、そうすることでなぞる本人(ことば)を嘘にしてしまう。芝居を真実にするには演じるものが嘘に徹しないと、芝居のなかに真実が誕生しない。一種の矛盾。矛盾の動き、矛盾した「移動」がここにある。「芝居」のなかにはほんとうは「否定」はふたつある。役者が誰かを演じるとき、そこではまず「演じられた人間」が否定されている。彼自身が登場しないことが芝居の条件である。そして、演じるものもまた登場しない。あくまで「演じられたもの」が登場する。そういう「否定」と「否定」の拮抗関係のなかで、何かが動きだす。その何かを、たとえば「詩」と呼んでみたりする。
 いきなり、「移動」「否定」の本質を語ってしまったために、野村のことばは立ち往生する。3行目は苦しい。ことばを放り出して、それが「空白」によって否定されるのを待っているようである。しかし、逆にスポットライトをあびてしまって、芝居をぶち壊してしまう「間」、存在してはならない「間」が突然浮かび上がったような印象もある。
 しかし、そういう「間」そのものをも利用して、野村は、ことばを、その「意味」を「否定」する。「移動」の向きを、「前方」(意味は、たいてい「前」にある。人間は「前」を目指すものだからである)から「うしろ」へ転換してしまう。さらに「後退」(後退の文字のなかには「うしろ」が含まれている)するのではなく、「出発」する。ことばの「意味」を一気に無秩序にする。無関係にする。普通は結びついていない「うしろ」と「出発」を結びつけ、「後退」ということばの誕生を封じ込めてしまう。
 ことばの常識(流通することば)を否定しつづける。否定して、移動しつづける。

 野村は今回の詩集の「序」で、彼がこれまでやってきたことを、「私はこういう詩人です」と提示してみせているのだ。私は野村の作品の熱心な読者ではないのでよくわからないが、たぶん、熱心な読者なら、この拾遺集の作品が別のどの作品にどんな形で昇華・結晶したのかわかるかもしれない。
 そういう「道筋」(?)を提示することで、野村は、過去を全部「否定」のなかに封じ込め、新しい出発をしようとしているのかもしれない。「うしろ向きに/出発」する姿を芝居としてみせておいて、ほんとうは、まったく別次元への飛翔を準備しているのかもしれない。めお飛翔のための「空白」として、この詩集が提示されているのかもしれない。
 この詩集はこの詩集でおもしろいけれど、私は、次の野村の詩集がとてもおもいしろいに違いないと確信した。



街の衣のいちまい下の蛇は虹だ
野村 喜和夫
河出書房新社

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井坂洋子「風の音」

2008-10-11 01:17:24 | 詩(雑誌・同人誌)
井坂洋子「風の音」(「現代詩手帖」2008年10月号)

 井坂洋子の「風の音」書き出しは不思議である。

大木の枝が
坂道に傾(なだ)れ込む空気を鷲掴みにして放つ
たびに 激しく揺れている
足もとから風が舞いあがってきて
コンクリートの建物の 直角に伸びる影に
ふっと紛れる

 不思議、と思わず書いてしまうのは、井坂の描写が美しいからである。目に見えるようだからである。そして、ほんとうは、目に見えないからである。
 たぶん、こういう書き方は誤解を招く。
 実は、私は、この詩のことをどう書いていいのかわからない。
 風景が見える。見えるのに、それが風景であるかどうか、わからない。
 私の視線は「大木の枝」を見る。「坂道」を見る。「傾れ込む空気」を見る。透明だから、見えないのに、見えたつもりになる。そして、見えないものを見るために、視線はいったん「枝」にもどり、「枝」が見えない空気を「鷲掴み」にするのを見る。みえない「空気」を「鷲掴み」にして、そのあと「放つ」のを見る。
 その、呼吸を見る。

 私は見ているのではない。私はなにも見ていない。見えたと錯覚するように、視線を動かされている。見えているのは「枝」ではない。「空気」ではない。二つが交渉する「呼吸」である。
 そんなものは「肉眼」には見えない。見えないはずなのに「見えた」と錯覚するのは、井坂のことばが、私の視線を、不思議な「呼吸」でひっぱるからである。その「呼吸」はかわっているが、不自然ではない。どこか、「肉体」を含んでいる。
 それを特に感じるのが、

たびに 激しく揺れている

 という1行である。
 冒頭の「たびに」はもちろん、前の行につながっている。

坂道に傾れ込む空気を鷲掴みにして放つたびに 
激しく揺れている

 という改行の仕方の方が文法的に自然である。ところが、文法的に「自然」な改行、意味にしたがった改行だと、「呼吸」が消える。ほかの読者はどうかわからないが、「たびに」が前の行の最後にぶら下がっていると、私のことばのなかから「呼吸」が消える。そして、その結果、大木も枝も坂も空気も消える。
 3行目の冒頭の「たびに」という飛躍した「呼吸」がすべてを統一している。すべてを動かしている。その動力になっている。前の2行が、よりくっきり動きだすのである。
 この「呼吸」は「意味」ではない。そういうものを、私は「肉体」と呼んでいる。
 この「呼吸」の瞬間、「意味」が消え、井坂洋子という「肉体」が浮かび上がってくる。私は井坂洋子を写真でしか知らないけれど、その知らないはずの人間が、ふいに私のそばで「呼吸」しているのを感じる。そして、その「呼吸」に誘われて、私は動いて行ってしまう。動かされてしまう。
 動きだすと、もう止まらない。

 1行あいて、2連目がはじまる。

自動ドアが開閉するたび
侵入しようと身構える風も
階段の深々とした絨毯まではとどかない
踊り場の大きな花瓶に
造花のような精巧な容姿を悔やむ白い花が
高いメシベを垂らしてうなだれる
にょっきりと伸びる首をもつ麗人の
細い手首に巻かれた男物の時計の
表面が湖のようにひかる
光(ライト)は幾つ重なりあっても光量が一定で
木の床はのっぺりと捌けている
奥の部屋からはときおり拍手が聞こえ
長いドレスの裾を擦る音が
部屋の前でとまる
慇懃な声が交わされ 扉が開いて
花嫁が押しだされる

 なぜ「風」(空気?)が「花嫁」に変わってしまうのか。その「意味」はわからない。「意味」はわからないが、ことばが動いて行き、その動きにあわせて、そのときどきの「肉体」が向こうからあらわれてくる。ドアになり、絨毯になり、花瓶になり、メシベになりながら。
 そのリズムが、私には、やはり「呼吸」として感じられる。向こう側から何をひっぱりだしてくるか。向こう側の何と視線が切り結ぶのか。それは「呼吸」なのだ。
 いや、「呼吸」が向こう側を呼び出すのではなく、向こう側に呼び出されて、「呼吸」をととのえるとき、そこに「人間」として井坂があらわれてしまうのかもしれない。
 よくわからないが、そこにたしかに「呼吸」があり、「呼吸」があるところに、ひとりの人間の「肉体」がある。その、不思議な体温を感じる。




箱入豹
井坂 洋子
思潮社

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林嗣夫「体温の明けくれ」「冷ややっこを食べながら」、小松弘愛「しり」

2008-10-10 10:48:43 | 詩(雑誌・同人誌)
林嗣夫「体温の明けくれ」「冷ややっこを食べながら」、小松弘愛「しり」(「兆」139 、2008年08月10日発行)

 林嗣夫「体温の明けくれ」は熱がでたときのぼんやりした意識を描いている。ぼんやりしたまま、電子辞書で「体温」という項目をひき、「体温」に出でくる「物質代謝」ということばをひく。ことばをたどりながら、自分のことばを動かしてゆく。ことばを動かすのは、ことばなのだ。辞書のなかで、「異化」「同化」ということばに出会い、そこからは辞書ではなく、林の「肉体」がことばと交わる。

うかつにも
はるばると異化、同化に明けくれ
うかつにも
体温に明けくれ

 そして、体温を正確に測るには「口の中」「お尻の穴」がいいのだけれど、うーん、抵抗がある。というわけで、普通のひとがするように「腋の下」にたどりつく。
 そこから、ことばがゆったりとたゆたう。

体の外部でありながら内部
血管に囲まれた内部でありながら しかし 外部

横になって
はるばると同化、異化の明けくれ
わたしがほんとうに行き着きたいのは
口ではなく
お尻でもなく
腋の下のような場所かもしれない

 「腋の下」は「肉体」であるけれど、ことばによってとらえられた別の場所。体温計をはさむときの、内部と外部の接点なのだけれど、林の一連のことばのなかでは、なにか微妙に違っている。熱のある頭が漂ってたどりついた「無意識」のような、不思議な場所。まだことばにされなかった「肉体」のどこかである。どこかであるかはだれもが知っているけれど、すこし違ってしまった「肉体」の位置。
 ことばに動かされ、ことばが動いてゆく。そして「肉体」と交わって、体温の熱をあびて、不思議な温みにそまって、知っているのに知らないなにかになる。
 こういう「場」に詩がある。

 「冷ややっこを食べながら」も同じだ。意識はことばに出会う。そして、ことばはことばを動かしてゆく。ことばは動かされるままに動いて行き、なんとなくいつもとは違ったことばになる。どこが違う? 正確には指摘できないなにかが違う。正確に指摘できないのは、それが「既成のことば」ではなく、見慣れているけれども林の意識によって洗い直された「新しいことば」であるからだ。

冷ややっこを食べながら
あしたのことを考えていたら
あしたがちょっと
四角に見えた

冷ややっこを食べながら
あの女(ひと)のことを思っていたら
あのひともちょっと
四角に見えた

白いさっぱりした宇宙の中で
太陽は四角
わたしも四角

ひやっとする新しい時間が
のどを落ちていく
胸を落ちていく

冷ややっこを食べながら
あしたのことを考えてたら
きょうのかどかども
やわらかくなった

 「新しい時間」ということばが出てくるが、詩は、たしかに「新しい時間」を誕生させることば、生成に立ち会うことばなのである。
 どのれんのことばも、みんな知っていることばなのに、どれもこれも林の肉体を通ってきて「新しく」生まれ変わった新鮮な、気持ちのいい冷や奴のような、食欲をそそることばである。



 小松弘愛「しり」は、「土佐方言」をめぐるシリーズ。この作品でも、林のように「辞書」が登場する。辞書に導かれてことばが動きだしている。
 ただ、今回の小松の作品は辞書の領域からはみださない。
 土佐方言の「しり」には「女陰」という意味もある。そのことばがほんとうに「絶滅種」になってしまって、小松が、いきいきとした肉体としてとらえることができなかったのか、そのことばの前で恥ずかしがっているのか、ちょっとわからない。もし、「女陰」という意味の前で恥ずかしがって、「しり」と小松の肉体が交わることができないのだとしたら、ちょっと(かなり?)、おもしろい。あ、そうなんだ。小松は恥ずかしがり屋なんだ、といままで気がつかなかった小松に出会ったようで、詩そのものとは別に、愉快になった。




風―林嗣夫自選詩集
林 嗣夫
ミッドナイトプレス

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どこか偽者めいた―詩集
小松 弘愛
花神社

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ジョージ・C・ウルフ監督「最後の初恋」(★+★)

2008-10-10 00:04:03 | 映画
監督 ジョージ・C・ウルフ 出演 リチャード・ギア、ダイアン・レイン、スコット・グレン

 とてもつまらない映画である。手術に失敗し患者を死なせてしまった外科医と、浮気した夫が女に捨てられて戻ってきた女。二人が出会い、恋に落ちる。海のある田舎町。海辺のホテル。
 ただ、一か所、とても美しいシーンがある。
 リチャード・ギアに向かって、スコット・グレンが死んだ妻のことを語る。
 「妻とは高校時代からの知り合いである。高校時代から顔に出来物があった。自分は気にならなかったが、妻はそれを気にしていた。そして、手術をしたいと言った。愛してくれているあなたのためにきれいになりたいと言った。手術なんかしなくてもきれいなのに、と止めたけれど聞き入れてもらえなかった。……」
 すべてをことばで語ってしまう。映画としては、ほんとうはおもしろくないシーンである。
 ところが、演じるスコット・グレンが非常にいい。
 話している内容を超えて、顔で見事に演技している。どんなに妻を愛していたか。妻がどんなに自分を愛していたか。それを、真剣にリチャード・ギアに向かって語る。
 どきどきしてくる。
 「さすらいの航海」でキャサリン・ロスがほんの一瞬でてきて、両親に金を渡す。そのシーンに似ている。ぐい、とスクリーンを締める。
 田舎の、実直な夫。浮気なんかはしない。ひたすら妻を愛し、暮らしを愛している。その感じが、座って、話すだけで滲み出てくるのである。
 映画はつまらないが、このシーンだけはもう一度見てみたい。

 一方、その演技を受け止めるリチャード・ギアがさんざんである。スコット・グレンの名演技を受けきれない。涙を流してみせるが、ただ涙を流しているだけであり、そこに感動がない。反省がない。医師とは、まずひとを知ることだ--という基本が伝わってこない。
 みていて、スコット・グレンがかわいそうになってくる。こんな大根役者を相手に、あれだけの名演技をしたのか、と。
 こんなことで、報われるのだろうか。





トレーニング デイ 特別版

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八木幹夫「永遠なんて」、池井昌樹「柄杓」

2008-10-09 10:58:16 | 詩(雑誌・同人誌)
八木幹夫「永遠なんて」、池井昌樹「柄杓」(「歴程」554 、2008年09月30日発行)

 八木幹夫「永遠なんて」は「おさなご」の春を描いている。全行。

春の丘を風のように走りたくて
何度も転ぶ
おさなごよ
言葉もほんのカタコト
しゃべるかどうかだというのに
世界はすべてきみのものだ
つくしんぼ
よもぎ
光る川
次々と
山の方から湧いてくる
白い雲
言葉はまだ
きみの中では
不定形のままだけれどは
つくしんぼはまるで
やわらかな小指

 「おさなご」のなかでことばが不定形であるように、八木のなかでもことばは不定形である。八木のことばは、幼子に誘われるまま、その瞬間瞬間、形をとっている。そのリズムがとてもいい。特に、

つくしんぼ
よもぎ
光る川

 このリズムが、なんともいえず気持ちがいい。
 「つくしんぼ」が最後にもう一度出てくるところも、とてもいい。

つくしんぼはまるで
やわらかな小指

 と八木は書いているが、目に浮かぶのは、幼子のやわらかな小指がつくしんぼうになっている姿だ。比喩と現実が入れ替わる。「つくしんぼ」の比喩として「やわらかな小指」があるのではなく、「やわらかな小指」の比喩として「つくしんぼ」があり、その比喩が成立する瞬間、世界が完全に一体化する。

世界はすべてきみのものだ

 が、光に満ちてあらわれてくる。



 池井昌樹「柄杓」は、中盤にとても美しい行がある。

ひさかたぶりに
あちらがたずねてくるので
こちらはあさからおおさわぎだ
このあついのに
ねくたいなんかむすばされ
むすびなおされたりもして
ことこととなをきざむおと
もっとおくでもことことと
だれかがにたきをするおとが
はたとやみ
めをとじて
ひしゃくのみずをうけている

 「ことことと……」という日常、そのなつかしい風景を起点にして、「こちら」と「あちら」が瞬間的に一体化する。「こちら」と「あちら」はかけはなれているのではなく、「こちら」と「おく」にかわる。「あちら」は同じ家の中にある。戸一枚向こうにある。その世界は「めをとじて」精神を解放すると、くっきりと見えてくる。肉眼では見えないのに「ひしゃくでみずをうけている」その姿がくっきりと見えてくる。
 放心するとき、池井の肉眼は精神の目になる。肉体の耳も精神の耳になる。そこでは、あらゆる世界がしずかに溶け合う。
 「あちら」がくるのか、「ことら」がゆくのか。
 同じことなのだ。



夏空、そこへ着くまで
八木 幹夫
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眠れる旅人
池井 昌樹
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稲垣瑞雄『半裸の日々』

2008-10-08 10:04:48 | 詩集
 不思議な静謐に満ちた一篇がある。「姫鱒の暦」。引きつけられた。その全行。

湖面がまくれ上がると一年が過ぎた
翻る一瞬の音の中にすべてが凝縮されている
閉じ込められていた阿寒湖での遠い年月
いまもこの富士の裾野の湖にたゆたっているのか
朝起き抜けで湖を一周する
午後は岸辺を離れ
湖底に身を沈めるのが掟だ
繰り返すことの意味と無意味
かすかに伝わる波の動きで季節を知る
水ぬるむ朝は
翼を得て北の湖を目指したい
凍りつくことへの果てしない憧れ
生と死の狭間に横たわる
薄刃のような神の摂理
やがてこの裾野にも氷河期がくる
おれたちの末裔はその時まで
生きのびることができるというのか
富士を映す紗幕のような湖面の裏側に
虚しい真実を求めながら

 「姫鱒の暦」とあるから「姫鱒」を歌っているのだろう。富士の裾野にある湖。そこに住む姫鱒。目覚めて湖を一周し、岸からはなれた湖底で眠る。--書いてあるのは、たしかにそうなのだが、私にはなぜか白鳥の姿が思い浮かんだ。

翼を得て北の湖を目指したい

 この1行の「翼」のせいだろうか。だが、「得て……したい」というのだから、その存在が翼をもたないことは明らかである。白鳥ではない。白鳥ではなく、たしかに姫鱒なのだ。そうわかっていても、白鳥が思い浮かぶ。
 なぜか、飛べなくなった白鳥が自分自身を「姫鱒」と思い込もうとしている。飛ぶことのできなくなった「姫鱒」であると自分に言い聞かせて、その上で「翼があったら」と夢見ているように感じられるのだ。
 否定された夢。その否定された夢を取り戻すために、あえて、自分を白鳥ではなく、姫鱒であると信じ込もうとしている白鳥。
 私の目に浮かぶのは、そんなまぼろしである。その悲しみである。
 その悲しみを、より鮮烈にする、次の1行。

凍りつくことへの果てしない憧れ

 ここには、死への、不思議な憧れがある。「凍りつく」。湖面が白くうっすらと凍る。そのときの、不思議な静謐。
 白鳥が動けば氷は割れる。それくらいの、薄い薄い氷。でも、白鳥は動かない。動かず、閉じ込められることを夢見ている。そのとき、氷は湖と空の境界線である。境界線は「水面」として、いつも存在するけれど、その「境界」をさらに印象づける、「まぼろし」。「まぼろし」が具体的になったもの。(これは、もちろん、比喩として書いているのだが……)その、「まぼろし」そのものになってしまうことを白鳥は夢見ている。氷といっしょに凍てついて、普遍の彫像になる。そんな、夢。

生と死の狭間に横たわる
薄刃のような神の摂理

 薄く薄く湖面にはりつめた氷が「神の摂理」なら、そのとき、その氷の只中にあって、ひたすら凍てつき彫像になってしまう白鳥もまた「神の摂理」そのものに違いない。
 そんな夢が、そんな幻が、静かに震えている。

 私の読み方は、明らかに誤読である。「白鳥」などどこにも描かれていない。稲垣自身も「姫鱒」と書いている。タイトルにはっきり、そう書いてある。しかし、何度読み返しても、私には、白鳥にしか見えない。



 この詩集には、稲垣の闘病の詩がたくさん含まれている。以前、稲垣の詩集について感想を書いたとき、稲垣が闘病を克服して書いている、という私信をもらったことがある。稲垣が闘病中であることを私は知っている。そういうことが、詩を読むときの私のこころに影響しているのかもしれない。
 あまりの静謐な美しさに、「白鳥の歌」ということばがふいに浮かんだのである。

 この作品が「白鳥の歌」であってほしくないと思う。これを超える作品をぜひ書きあげてほしいと思う。そういう祈りもこめて、あえて、この作品に「白鳥」を感じたということを記しておきたい。
 ことばは裏切られるためにある。私のことばが、稲垣の肉体によって裏切られることを祈っている。


半裸の日々
稲垣 瑞雄
思潮社

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風の匠
稲垣 瑞雄
岩波書店

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 橋本治『夜』

2008-10-07 12:06:24 | その他(音楽、小説etc)
 橋本治『夜』(集英社、2008年06月30日発行)

 橋本治の文章の特徴は、わかっていることとわからないことを非常に明確に意識することである。小説の場合でも同じである。
 「暮色」は男が女をつくって家を出ていく話である。女と娘が家に残される。その母と子の会話。そして、それにつづく娘の描写。

「だから、どう思うのよ?」
「どうってなにを?」
「おとうさんがあんなことして--」
「あんなこと」がどんなことなのか、加那子には具体的に分からない。
「あんなことって、なによ?」
「あんた、お父さんのこと嫌いじゃないの? いやじゃないの?」
 加那子は、どうやら事態の進展のしかたに気がついた。誰も、具体的なことは教えてくれない。具体的なことはなにも分からず、ただ「事実」だけがあって、それをどう判断するか以外の権限が、加那子には与えられていない。誰もなにも教えてくれない。おしえてくれないのに、それはもう「動きがたいような事実」になっている。なにがどうなっているのかわからないのに、それで定まってしまうような「事実」というものはあるのだろうか。

 「事実」というものがある。そして、その「事実」には分かる部分と分からない部分がある。分かる部分があり、一方で分からない部分があるものが「ひとつ」である。そのことをめぐって、こころは、加那子は揺れる。
 橋本治は、この「分かる部分があり、一方で分からない部分があるもの」が「ひとつ」であることを強調するとき、括弧記号「 」でくくる。「 」でくくられたものは、いつも単純なことばである。だれもが知っていることばである。そういうもののなかに、暮らしの「思想」がつまっている。わかっているものと、わからないものを同居させたまま、動いている。
 橋本治は、そのわかっているものと、わからないものの前で主人公に考えさせるのである。わかっているものと、わからないものは「矛盾」であり、その「矛盾」のなかには、何か、まだ言語化されていないものがある。その言語化されていないものを、少しずつ暮らしを、行動を追いながらつきつめていくのが「小説」である。

 その追いつめているものは先に引用したような「事実」もあるが、もっと細部にもある。そういうものを橋本治はとてもつよく認識している。「暮色」の最初に夕暮れの描写が出てくる。夕暮れを--

 それを、「美しい」と思うようになったていたのは、いつの頃からだろう。三十年も前のことなのに、消えて行った夕暮れの美しい色が、まだ胸の中に残る。(略)
 なぜ、それを「寂しい」とおもわなかったのかは分からない。ただ、美しかった。

 「美しい」と「寂しい」は、どこかでつながっている。「ひとつ」になっている。そのことを主人公は知っている。でも、分かってはいない。そういうことは、人間の暮らしのなかには無数にある。その一つずつを、橋本治は括弧「 」に入れて、みつめる。
 「知る」と「わかる」の違いの中を、橋本治はゆっくりと、ていねいに入っていく。

 主人公は父が家を出て行ったことを知っている。どうやら、それには女が関係していることも知っている。そのことに対して母が恨みを抱いていることも知っている。知ってはいるけれど、「わからない」。「わからない」とは、別のことばでいえば「納得できない」ということでもある。「わからない部分」が「わかった」にかわったとき、知っていることは「納得」にかわる。
 いや、ここで知っていると書いたことは、ほんとうは「気づいている」ということなのかもしれない。人間には、気づいている、分かっている、知っている、という意識の動きがあり、それは微妙にからみあっている。その微妙な世界へ少しずつ分け入っていくのが小説なのだ。
 最初に引用した部分のつづき。

 父が何を考えているのかは分からない。父親が以前に於いてなにをして、今なにをしているのか。なにをしようとしているのかも分からない。母親がなにを考えているのかは分かるような気がする。なにもなかったことにしたいのだ。いったい、母親はなにをどれだけ知っているのか?
 分からない。
 ただ母親は、自分の夫に嫌悪と怒りを感じていて、そのことを肯定しろと、娘に迫っているのだ。

 ここに書かれている「肯定」とは「受け入れること」と同じである。「肉体」で「受け入れる」。だきとる。それが肉体になじむまで、それを抱きつづける。
 「頭」は分かっているものと、分からないものを区別する。区別してしまう。しかし、肉体はそういうものを区別せずに抱きしめることができる。人間は、そんなふうに奇妙ないきものである。橋本治は、その奇妙さをどこかで「肯定」している。
 そして、「肯定」されているからこそ、そのことばが「わかる」「わからない」の間を、どこまでもどこまでも追いつめて行っても、無理がない。「頭」の窮屈さがなく、生きている人間のあたたかさが滲み出てくる。そこが魅力だ。






橋本 治
集英社

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時里二郎「裏庭」

2008-10-06 11:36:34 | 詩(雑誌・同人誌)
 時里二郎「裏庭」(「ロッジア」3、2008年09月30日発行)

 時里の父は歌人だったという。「裏庭」はその父が残した歌と、ノートへの注釈という形をとっている。--というのは、時里の「説明」である。それはそのまま「正直」な「説明」なのだと思うが、「正直」というのは不思議なもので、あまりに「正直」だと「嘘」になってしまう。「嘘」という言い方が悪ければ、「正直」は真実を突き抜けて、何か別なもの、いままで存在しなかったものになってしまうと言い換えてもいい。

 行商の暮らしと歌の関係を、「父」は次のように書く。

不思議なのは、さうやつて忠実に日常をことばに換えていくことによつて、現実が妙に変質してゐるのに気づいた。歌を通して見えるわたしと、現実のわたしとの間にはずいぶんと乖離がある。現実から失はれるものと付け加はるものがある。(略)

今日は三度雨にあひて三所に雨宿りして一日暮れたり

(略)
 三度雷雨に遇ひ、三所で雨宿りした。これは間違ひのない事実であり、そのまま歌にした。ところが、この歌に詠はれた一日は、三度雨に遇ひ、三度雨宿りしたことが、他のもろもろの日常を殊更消し去つて、その歌のリズムのせゐで、むしろ雨に遭ふ行商のつらさを嘆いてゐるわたしにかはつて、歌にうたはれたつらさを演じてゐるわたしがそこにゐる。

 この現実と虚構の二重構造にあって、現実から虚構を見、さらに虚構から現実をみつめなおすことで、現実が「変質」するというのは、「父」のことばというより、時里自身が彼の詩を語っているようにも聞こえる。
 「父」が書いているノート。それ自身が「ほんもの」であっても、そこからそういう部分だけをとりだして書くと……
 (ちょっと時里の文体をまねて、以下を書いてみる)

 他のもろもろのことばを殊更消し去って、そのことばの内容のせいで、父の思いにかわって、そういう思いを語らせている時里がそこにいる。

 言い換えよう。「父」がそのことばを書いたとしても、その部分を取り出してきて、そこに父の思いがあるかのように書いてみても、その部分を取り上げることは、引用しなかった他のことばを消し去ることであり、その取り上げるとことと消去との操作の間からは、「父」が浮かび上がってくるのではなく、そういう操作をしている時里が浮かび上がるだけである。「父」の現実を語らせるふりをしながら、時里は「父」に「時里の現実(思い)」を語らせているのである。

 次に引用するのは、時里の「父の歌」に対する批評(?)である。

結核患者の日常の起居を忠実に射精することが現実を直視することであるとする作品の多いなかにあって、彼の作品は、日常を脚色し、ドラマを演出し、つまり現実を歪めてゐるやうに見える。しかし、そのけれん味は、それゆゑに、現実の影の部分を反映してゐると言へはしまいか。

 「批評」ということばに(?)を付けたのは、私は、これを批評と感じていないからだ。感想とも感じていないからだ。
 時里は「歌」のことなど考えていない。「ことば」そのものについて考えている。「歌」を突き破って、「歌」の向こう側、「ことば」そのものについて考えている。
 「父」が「変質」と呼んだものを、時里は、ここでは「歪(み)」ととらえている。ことばはもとより現実のすべてを描写できない。何かを取り上げることしかできない。何かを書くことは何かを捨てることだ。それを「父」は「変質」と呼び、時里は「歪み」と呼ぶ。
 だが、これは変質でも歪みでもない。ことばの基本的な本質である。そういう本質を「変質」「歪み」と、「わざと」突き抜けて考えはじめる。「正直」なふりをして、「わざと」現実を逸脱してしまう。
 そして、「そのけれん味は、それゆゑに、現実の影の部分を反映してゐる」と念押しをする。念押しをすることで、ほんとうに「歪めてしまう」「変質させてしまう」。
 「歪み」「変質」--それは、時里のことばを借りて言い直せば「影」である。
 「歪み」「変質」は、実は「影」である。そう主張することで、時里は、現実へ引き返して行く。
 だが、ほんとうに引き返したのか。
 違う。突き抜けたのだ。そこに書かれている「影」は現実の影ではなく、比喩である。比喩としてしか言いようのないものである。(つまり、「影」とは言ってみたものの、まだ何も語っていない、あいまいなものである。それは「哲学の用語」のように、きちんと定義されていない何かである。)

 「正直」な時里は「正直さ」のあまり、つまり時里自身の関心に忠実なあまり、もう、ここでは「父の歌」「父のノート」について語ることを突き破って、ことばとは何か、詩とは何か(時里が詩を書くとき、何に重点を置いているか)ということを語りはじめるのである。
 先の引用のつづき。

われわれは、影に目を向けることによつて、その実態を陰影深く表現することの効用を知つてゐる。影を写生することによつて、現実は実際以上に深く表現できるのではないか。

 ね、時里の試みそのものでしょ。
 それにしても。
 「現実は実際以上に深く表現できる」--これは、「芸術家」特有のことばだね。
 なぜ「実際以上」が必要? 実際以上って何? 実際以上なら「実際」(現実)を超越してしまっていない? 超越しても「現実」?
 変でしょ? とっても変でしょ?
 その「変」なのが、「詩」なのだ。時里は「表現」ということばをつかっているが、「変な・表現」、「現実を超越してしまった表現」が「詩」なのである。いままで存在しなかったものを「ことば」によって存在させてしまう。それが「詩」なのである。

 時里は正直に、「詩とは何か」を告白している。




翅の伝記
時里 二郎
書肆山田

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小杉元一「塵のみどり」

2008-10-05 01:41:34 | 詩(雑誌・同人誌)
小杉元一「塵のみどり」(「EOS」14、2008年09月30日発行)

 途中に、とても美しい行がある。

素足が ふむ
塵のみどり
さむいみどりはしんしんとつづいていく
うすいふたつならびの
弦楽
耳は
なんども改行したが
窓辺にやってくる魚のむれは見えない

 特に「素足」から「うすいふたつならびの」までが美しい。「さむいみどりはしんしんとつづいていく」には、何かぞくぞくするものがある。その4行のあとに「弦楽」ということばがあるが、「音楽」があるのだ。
 「ふむ」と「さむ」い。「む」の響き。「みどり」のくりかえし。「さむい」「うすい」。その母音の脚韻の踏み方。
 「耳は/なんども改行したが」。その4行の「意味」はわからない。わからないけれど、私の「肉体」は納得してしまう。私の「耳」は何度も4行のあいだを行き来し、その音楽に揺れた。
 音、特に母音のゆらぎだけではなく、そのリズムも気持ちがいい。
 「素足が ふむ」という3・2のリズム。1字空きを自覚するなら、3・1・2。それが「塵のみどり」に、3・3になる。それも前の行のリズムをひっくりかえした感じ、つまり前の行が、頭が重いのに対し、次の行は尻が重い。「塵の」は軽い。早い。「ti・ri・no」。「い」の音のたたみかけが、ことばを短く感じさせるのである。それに比べると「mi・do・ri」は「塵の」と同じく「い」と「お」の組み合わせなのに、「い」と「い」のあいだに「お」が入るので、同じ3音でも少し長く感じる。
 そういう短いリズムの楽しみのあとで「さむいみどりはしんしんとつづいていく」という「ひらがな」の、つまり音だけをゆっくりみせる行がくる。長く、ゆったり伸ばして響く音。「しんしんと」という音の繰り返しが、まるで演歌のサビのように華麗だ。
 そして、そのあと。「うすいふたつのならびの」という、一種、「意味」のあいまいな(これって、なに?)の変化があって「弦楽」という硬いことばに急変する。
 とても楽しい。

 この変化は、最終連で、次のようにきれいに結晶する。

ひとりは
みどりの塵となり
ひとりは
みぞれのひかりとなり

 「り」の音がいいなあ。「みどり」と「みぞれ」の揺らぎがいいなあ。濁音は、その「にごる」という文字のために汚いものと考えられているようだけれど、この「みどり」「みぞれ」の濁音をはさんでの音の変化の美しさを聞いていると、濁音というのはいいなあ、豊かだなあと感じる。豊かな濁音をくぐりぬけることで、「み」の音は何かをつかみとり「り」が「れ」に変わるのだ。

 楽しくて、楽しくて、しようがない。

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谷川俊太郎「うざったい」

2008-10-04 01:09:15 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「うざったい」(「朝日新聞夕刊」2008年10月03日)

 ことばにするのは自分の体験でなくてもかまわない。自分(私)というものは、なくてもかまわない。そういうものがなくても、ことばはことばとして存在し、動くことができるという体験を谷川は存分に持っている。--と、きのうの「日記」に書いた。そこのこを、あらためて思った。
 「うざったい」は中学生の女の子の思いを語っている。その全行。

好きってメール打って
ハートマークいっぱい付けたけれど
字だとなんだか嘘(うそ)くさい
心底好きじゃないから?

でも会って目を見て
キスする前に好きって言ったら
ほんとに好きだって分かった
声のほうが字より正直

だけど彼は黙ってた
そのとたんほんの少し私はひいた
ココロってちっともじっとしてないから
ときどきうざったい

 谷川俊太郎の署名がなかったら、中学生の詩そのものである。

 いや。
 たぶん、中学生が詩を書いたら、こんな具合にはならない。こんなふうに思うかもしれないが、こんなふうにことばを書くことはできない。
 ことばはいつでも、ずーっと遅れてやってくる。
 体験があり、こころがあり、どうにもならない感じがあって、それをかかえつづけて、ある日、突然、こころがことばになる。こころは、それまで、ずーっと待っていなければならない。ところが、こころは、そんなふうには待っていてはくれない。どこへ動いていいかわからず、それでも、ともかく動いてしまう。ことばを待ちきれない。

 そのときの「空気」を谷川はだれよりも正確につかみ取る。それを自分のものとして呼吸してしまう。
 「うざったい」とは、他人を批判してつかうことばである。
 でも、ときどき、それは他人ではなく、自分のことだったりする。自分を他人の中に見つけて、「うざったい」と思うのだ。そういう「批判」(言語批判)が、ことばを「詩」にする。こんなことは、こころにことばが追いついて、さらにことばがこころを追い越して、そのことばをもう一度こころが見つめなおさないと、起きない。
 中学生には、たぶん、永遠に最終行の「うざったい」は書けない。書けるとしたら、この谷川俊太郎の詩を読んだあと、はじめて可能なことである。

 ことばはその国民が到達した思想の最高点であるというようなことを三木清は言っていたが、そのことばを思い出す。
 「うざったい」は谷川俊太郎の、この詩によって「詩」になった。思想になった。少女のココロ。その生々しい思想に。

 それにしても。

 私は長い間、谷川俊太郎は、ことばを「書く」ひとだと思っていたが、ほんとうは「聞く」ひとなのかもしれない。
 ちょっと(かなり?)論理がずれてしまうかもしれないが、この「書く」と「聞く」の違いは、たぶん美空ひばりの「歌う」と「聞く」の関係に似ている。美空ひばりは「歌う」。しかし、それはほんとうは「聞いた」ことを再現しているのだ。自分の「声」を出しているのではない。自分の声をいったん殺し、他人の「声」を美空ひばりをくぐらせて、出している。「他人」を全面に出しているのだ。「他人」の持っている空気を自分の中に取り込み、肺のなかであたため、少しだけ自分の体温を感じさせる形でそっと吐き出す。そのとき、「他者」と美空ひばり(谷川俊太郎)のあいだにある「空気」がかわる。
 あ、自分の「声」はこんな形になりたがっているのだ、と「他者」が美空ひばりの声や谷川俊太郎のことばを聞いて、再発見するのである。それはまったく新しいものではなく、ほんとうは「他者」の中にあったもの、そして美空ひばりや谷川俊太郎がきちんと育てて、形をあたえてくれたものだからこそ、「他者」、つまり聴衆(読者)のこころになじむのだ。

 世の中には、ほんとうに耳がいいひとがいるのだ。






谷川俊太郎の33の質問 (ちくま文庫)
谷川 俊太郎
筑摩書房

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谷川俊太郎、伊藤比呂美、四元康祐「連詩 わたしからわたしたちへの巻」

2008-10-03 11:10:02 | 詩集
現代詩手帖 2008年 10月号 [雑誌]

思潮社

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谷川俊太郎、伊藤比呂美、四元康祐「連詩 わたしからわたしたちへの巻」(「現代詩手帖」2008年10月号)

 谷川俊太郎、伊藤比呂美、四元康祐「連詩 わたしからわたしたちへの巻」を読みながら不思議な気持ちになった。3人が連歌のように詩を書いているのだが、私には谷川俊太郎のことばだけが、とても静かに感じられたのである。伊藤比呂美と四元康祐はことばを活性化しようとして必死になっている。個性を出そうとして必死になっている。ところが谷川は少し引いている。どうぞ、2人で動いてください、と見守っている感じなのだ。
 これは、昔、石川淳、大岡信、丸谷才一の連歌を読んだときの石川淳のことばの動きに似ている。大岡、丸谷のことばが飛躍するのに対して、石川淳のことばは飛躍ではなく走るのである。ほんとうはジャンプしているかもしれない。けれども、その踏切板(?)が感じられない。すーっと、足の筋を伸ばして、その伸ばした感じが前へ進む。
 以前、「飛ぶ」と形容されたディープインパクトの走りを分析したら、実は飛んでいる時間(足が大地から離れている時間)は他の競走馬より短く、大地に触れている時間は逆に長いということがわかったと新聞に書いてあった。それに似ているかもしれない。たしかに空中に浮かんでいるよりも大地を直接押している時間の方が長いと、体は前へすーっと動く。筋肉の力で地上を滑るように移動するのだ。そのとき「空気」の動きが、たぶん、足が地についているだけよりくっきりと感じられ、そのために「飛んでいる」と錯覚するのかもしれない。


熊本の暑さはたしかに変化した
昨夜はじめて空調をかけずに眠れた
わたしたちが立ち会っているのは
季節の移る瞬間
小学生の手足みたいな           比


手には取れぬものを掴み取り
足には届かぬ場所へ辿り着くための
テニヲハ                 康


鏡板の前でわっと泣き出した子
シテの声が父親の声でなくなっている    俊

 伊藤比呂美の5行はいわばあいさつ。ここでは特に飛んでいるという印象はない。それは、まあ、あたりまえなのだが、いつもの伊藤のことばとら違っているなあという感じがする。その「違っている」という感じが、すでに「飛んでいる」。力が籠もっていて、何か無理があるような、読んでいる私の方が力んでしまいそうな緊張感がある。
 四元康祐は伊藤の「手足」を受けたのだろうか。べたっとした接近の仕方である。たぶん、四元自身がそう感じたために、「テニヲハ」ということばでむりやり手足から離れようとしている。ここにも、やはり緊張感を感じる。「飛んでいる」のかもしれないが、「空気」のスピードが感じられず、苦しい。
 これに対して谷川のことばには緊張感がない。軽々としている。
 能か狂言か、古典のことはよくわからないが、稽古をしている父子。あるいは舞台そのものでもいいかもしれない。父が、家庭での父の声とは違った声を出している。それに驚いて、わっと泣き出す子供。その姿が、とても自然に目に浮かぶ。ことばに緊張感がない。たぶん、谷川は何度もそういう光景を見ているのだろう。父が父親でなくなった瞬間、子供が驚き、泣き出すという光景を。その、経験の裏付けのようなものが、どこかにある。ことばが動き出すための「大地」がある。
 もしかすると、それは実際の体験というより、そういう光景はこんなことばで語るといちばんすっきりする--そういう体験、いろいろなことばを書きつづけた体験かもしれないのだけれど。

 と、書いて、突然、気がつく。突然、思ってしまう。
 たぶん、そうなのだろう。
 どんなことばも体験(肉体)とともにあるけれど、谷川は実際の自分の体験以上のものを体験しているのだ。自分のものではない体験をことばにするという体験が、たぶん、伊藤比呂美や四元康祐よりもはるかに豊富なのだ。
 ことばにするのは自分の体験でなくてもかまわない。自分(私)というものは、なくてもかまわない。そういうものがなくても、ことばはことばとして存在し、動くことができるという体験を谷川は存分に持っている。
 それはなんと言えばいいのか--いま、はやりのことば(もう、はやっていないかもしれないが)を借りて言えば、「場の空気」を読み、その空気にあわせてことばを動かすという体験である。ひとに(他人に)あわせるのではない。自分にあわせるのでもない。「空気」にあわせるのだ。そこでは、へんな言い方かもしれないが「体験」というものを捨てる。身軽になって「空気」になる。空気が、そのときすーっとなめらかに動く。そういう「空気」の動かし方の体験--自分を捨てる体験が、谷川にはとても多いのだろう。
 「空気」が動いた瞬間、谷川は自分の体験を超えているのだ。「空気」を体験しているのだ。
 これは別のことばで言えば、自分の体験というより、自分がいまここにいる、その「場」をしっかりと踏まえるということかもしれない。「飛ぶ」のではなく、「場」を踏みしめる。「場」から離れない。「場」を移動するのではなく、「場」の「空気」を移動させる。「場」の「空気」を移動させるためには、自分が動いてしまってはどうしようもない。「空気」のなか、「空中」を飛び回ってはだめなのだ。
 「自分」はそこにいたまま、ことばだけ、すーっと動かす。

 抽象的に書きすぎたかもしれない。

 谷川は「1」「2」を読みながら、伊藤比呂美と四元康祐の声がいつもと違っていると感じたのだろう。
 だから、谷川は、ここでは「子供」を演じている。二人の「声」(詩、ことば)が、二人の声ではなくなっているのに、「わっ」と泣き出してみせたのだ。ほんとうは「父親」役なのに、ぱっと、その「役」を捨てて、「子供」になってしまう。
 いやだよ、こわいよ。
 泣き出すことによって、二人を「鏡板」という「場」から、いつもの「日常」の「場」へと動く。動くといっても、「鏡板」の前にいることにはかわりはない。「泣く」という「空気」の存在する「場」、「空気」そのものを変えることで、その「空気」が存在した「場」を引き寄せるのである。
 伊藤と四元を、いつもの「詩」の次元へと引き戻す。

 あ、すごいなあ。

 ただ感嘆するしかない。「3」の2行によって、この「連詩」がほんとうにはじまる。谷川が「空気」を常に動かし、ことばを新鮮にする。「空気」を読む力が、谷川は人一倍強いのかもしれない。「空気」がどんなことばを必要としているか、それを「ことば」のかわりに感じ取る能力(へんな言い方かな?)があるのだと思う。自分が(谷川が)いいたいことを言うのではなく、ことば自身がいいたいと思っていることを感じ取り、代弁する。そうすると、谷川のことばだけではなく、伊藤比呂美、四元康祐とともにあることばも励まされて動きはじめる。「飛ぶ」のをやめて、「ことば」の筋肉を存分につかって動きはじめる。
 そういう感じの「連詩」である。

これが私の優しさです―谷川俊太郎詩集 (集英社文庫)
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新延拳『永遠の蛇口』

2008-10-02 10:26:48 | 詩集
新延拳『永遠の蛇口』(書肆山田、2008年09月20日発行)

 「青葉の風と一緒に」という作品。その3連目。

浅葱色の朝
夜明け前にはだいぶ涼しくなって
澄んだ水が夢から滲み出してきた
年輪は樹の外へは決して出て行けないのに
五月の心地よいあなたの眠りが覚めてしまわないうちに
その夢の中へ入り込むことはできないか
開け放たれた窓のカーテンを動かす
青葉の風と一緒に

 とても美しい。「年輪は樹の外へは決して出て行けないのに」が特に美しい。事実を肉眼ではなくいったん意識のなかで濾過し、そうすることで「意味」を抒情に変える。その自然な動きがいい。
 少し補足すると、新延はここでは「切り株」を見ているわけではない。「年輪」はだれもが知っている存在だけれど、実は、それを見る機会はかぎられている。木が立っているとき、木が生きているとき、私たちはそれを見ることはできない。それがあるということを意識のなかで知っていて、意識が肉眼では見えないものを見ているのだ。新延は、そういものを絶えずみつめながらことばを動かしている。現実と向き合っている。
 そういう現実と意識の交渉の中に、新延は詩を見いだしている。その瞬間が、とても美しい。

 肉眼だけではなく、また意識だけではなく、それが交渉する。だから、ちょっと奇妙なところもある。「五月」「青葉」の季節。それなのに、「夜明け前にはだいぶ涼しくなって」というのは、私の暮らしの感覚からすると、とても奇妙である。肉体ではなく、意識が先走りして、ことばがかってに動いてしまったのだろう。



 「夕刊の頃」には、奇妙なブレがない。突然変異というと新延に叱られるかもしれないが、まるで別種のいきもののように、詩集のなかで独立して輝いている。
 その全行。

あの人のあれをこれして
そうそう
それそれ
固有名詞が出てこない会話

夕刊が配達される頃は
みなやさしい声を出すね

みどりのサラダに塩をふる
淋しさをふる
胡椒をふる
せつなさをふる
ゆで卵のからがひとつつるんと剥けたくらいで
消えてしまうほど鬱かな
夜は一気には来ない

雨がふっている
窓の隅の蜘蛛の巣がかすかに揺れていて
こういうのを淋しいというのだろうね



 「あの人のあれをこれして」。「あれ」とか「これ」とか指示代名詞で指し示すだけでわかりあえるものがある。ことばを超えて、肉体が、暮らしが理解しし合う何かである。それはそのままでもかまわない。そのままの方がいいかもしれない。でも、ときどきは、それをはっきりさせてやりたい。
 「こういうのを淋しいというのだろうね」の「こういうの」は、国語の試験なら、前の行の「窓の隅の蜘蛛の巣がかすかに揺れて」いる様子だが、それではちょっと違うだろう。蜘蛛の巣が揺れているのが「淋しい」のではない。蜘蛛の巣が揺れていると気がつくこころ、それが淋しいのだ。
 最初に取り上げた「年輪」と「こころ」は似ているかもしれない。それが存在することはだれもが知っている。けれど、生きているときは、それは見えない。その見えないものが実は存在しているのだと意識して、その動きをことばに託してみる。ことばが動いたときだけ、「こころ」は見える。
 でも、その「見える」はことばを発した人にだけの「見える」かもしれない。だから、たずねる。念を押す。「だろうね」。「ね」。

 最初に取り上げた詩を援用すれば、「ね」からは「淋しさ」が滲み出してくる。

 途中の「みどりのサラダに塩をふる/淋しさをふる/胡椒をふる/せつなさをふる」の4行もいいなあ。実際に、物理として「ふる」ことのできるもの。目には見えないけれど存在するものが交互に出てくる。現実と意識がぴったり重なり、融合する。「ふる」という動詞のなかで、見分けがつかなくなる。いや、見分けが付くのだけれど、見分けがつくということをとおして、塩と淋しさ、胡椒とせつなさが入れ替わる。そして、いったん入れ替わると、塩とせつなさ、胡椒と淋しさも入れ替わる。完全に融合し、溶け合い、とけあいながら、ことばにする一瞬のなかでのみ、具体的ものにかわる。
 そして、そこにつかわれている共通の動詞「ふる」に引き寄せられて「雨」が書かれるとき、それはやはり「淋しさ」「せつなさ」と互いに入れ替わるのである。瞬間瞬間に、それぞれの存在としてあらわれてくる。

 美しいなあ。






雲を飼う
新延 拳
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