詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『田村隆一全詩集』を読む(63)

2009-04-23 00:00:26 | 田村隆一
 『新世界より』(1990年)を読む。
 田村は何度も同じことを書いている。同じことを書くのは田村だけにかぎらないから、田村もまた同じことを何度も書いている、というべきか。その繰り返しかいていることのひとつに「肉眼」ということばがある。
 「人が人になるのには」の「目」の部分。

目が肉眼になるまでは
五十年かかる
青年の時はイデオロギーや観念でしか
ものを見ていない
海の微風 木枯しの音
世界の影の部分が見えてくるまでには

 最後に「五十年かかる」という1行が省略されている。
 「肉眼」はここでは間接的に定義されている。青年の時は「肉眼」ではなく「イデオロギーや観念で」ものを、世界を見ていた。イデオロギーや観念を捨て去るのに人間は50年かかる、と田村は考えている。この50年というのは正確に「50年」というよりは、ばくぜんとした「おとな」になるまでの「間」のことである。
 なぜ、人間は、イデオロギーや観念でものを見るか。楽だからである。イデオロギーや観念は体系(思考の遠近法)を持っている。それを「もの」にあてはめると、きちんと遠近法ができあがるから、何かを見たような気持ちになる。これを捨てるのは、確かに、むずかしいことだと思う。
 だが、どうやればイデオロギーや観念を捨てることができるのか。
 「想像の舌」は、そのひとつのヒントである。

きみの舌をできるだけ長くのばせ
その舌が
どんな地平線
どんな水平線に
触れられるものか試してみるんだ

その苦さ
その痛み

想像の舌を長くのばせ
できるだけ

苦さと痛みの感触が
きみの味覚を刺戟したら

詩は
星の光り
あさぎ色の草原の風
黙りこくったまましずかに呼吸している
一本の木

 「想像の舌」で地平線、水平線に触れる。そのとき「詩」がやってくる。「詩」は「肉眼」で見るものである。「肉眼」でつかむものである。
 この詩でおもしろいのは、「肉眼」を「視力」ではなく、「味覚」と「触覚」で代弁していることである。「苦さ」は「味覚」、「痛み」は「触覚」。ふたつの感覚が融合している。感覚がひとつのものであることを超越した瞬間、その感覚器官は「肉眼」になる。「詩」をつかみとることができる「器官」になる。
 「肉眼」とは顔のなかほどにあるふたつの器官のことではなく、詩をつかみとる機能、運動のことである。「肉眼」を「もの」の名前ではなく、「運動」にあたえられた呼び名なのである。
 「感覚の融合」とは、別なことばでいえば、「感覚」の働きを定義している「固定観念」の否定である。破壊である。「舌は味をみるもの」という固定観念でとらえていては、その想像力をどれだけのばしてみても「地平線」「水平線」にとどかない。「味覚」だけであく、「触覚」もある、そのふたつがまじりあったものととらえるとき、舌は「味覚」を超越する、「味覚器官」という固定観念を破壊する。その破壊の果てに、新しい世界、詩がやってくる。

 「白の動き」という作品にも「肉眼」ということばが出てくる。ユトリロの絵から刺戟受けて書いた作品だ。

彼のオブジェは、教会であろうと、婦人のお尻であろうと、下地は「動いている白」である。
ぼくは、欧米の小さな美術館で、ユトリロに出会うと、わが灰色の青春がよみがえってくるのだ。ある特定の思想や、感情があったら、画家の手は動くまい。画家によって、ぼくらは肉眼をあたえられると思うべきだ。
画家もまた、手によって自分自身の肉眼を造形し、「白」の連動を体験するにちがいない。

 「イデオロギーや観念」は「特定の思想や、(特定の)感情」ということばで繰り返されている。「特定」のもの、「定められた」ものの拒絶がここでは、繰り返し書かれている。
 田村は、「肉眼」を「造形」するものととらえている。それは最初からある肉体の一部の器官ではなく、人間が「造形」する、つくりあげていくものなのである。だから「50年」かかる。最初から肉体に備わっているものなら、「50年」は不要である。
 田村は、そして、ユトリロの場合「手」で「肉眼」をつくると考えている。みている。「想像力の舌」ではなく、ユトリロは「手」を動かすことで「肉眼」を手にいれる。
 このとき、つまり、私たちがユトリロの絵をみて、そこに詩を感じるとき、私たちはユトリロの「肉眼」を体験していることになる。
 ひとは、他人の肉体を体験できる。--これは奇妙なことのようだが、実は日常的にありふれている。だれが見知らぬ人が道端でうずくまっている。そのとき、私たちは自分の腹が痛むわけでもないのに、彼は腹が痛いのだと想像の中で体験している。人間の肉体には、そういう「想像」を誘い込む力がある。ユトリロの「肉眼」がはっきり何かを見たのなら、その「肉眼」とまた絵を見る人の「肉眼」になる。「特定の思想、感情」にとらわれていない、まだ定まっていない(固定していない)何かにふれる。何かを見る。

 「白」の連動を体験する

 このことばのなかにある「連動」、そして「連動」のなかにある「動く」ということば。それは「固定観念」の「固定」を否定することばである。動くのだ。「白」がさまざまなものとつながり動く。連動する。それは「白」いがいのものをも揺さぶり、破壊し、動かすということである。
 「肉眼」が見る、とは「動き」を見るということである。この「動き」とは、これまで田村の思想を語るのにつかってきたことばで言い直せば、「生成」である。あるいは「誕生」である。





あたかも風のごとく―田村隆一対談集 (1976年)
田村 隆一
風濤社

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ダニー・ボイル監督「スラムドッグ・ミリオネラ」(★★★★)

2009-04-22 21:35:31 | 映画
監督 ダニー・ボイル 脚本 サイモン・ビューフォイ 出演 デーヴ・バテル、フリーダ・ピンチ、イルファン・カーン

 好きなシーンがいくつかあるが、とりわけ好きなのが、ラストシーンの、駅で主人公の少年が初恋の少女と再会するシーン。少年が少女のほほの傷に唇をつける。そのときフィルムが猛スピードで逆回転する。まだ少女のほほに傷がないときまで。いまの少女はほほに傷があるけれど、その傷が記憶の美しいほほに瞬時のうちにとってかわる。少年は「いま」を生きると同時に、「過去」を生きている。過去のあらゆる瞬間が、「いま」を輝かせるのだ。
 この「いま」と「過去」の関係は、この映画のすべてである。
 少年はクイズショーの難問を次々に突破していく。学校教育を受けていないのに、次々に難問を答える。なぜ、そういうことができるか--ということを解きあかす形でストーリーは進むのだが、彼が答えることができるのは、それを「体験」しているからだ。人は「知識」は忘れる。けれど、体験は忘れない。
 たとえば、クイズで「 100ドル札に書かれているアメリカ大統領は?」という問題がでたとき、少年はかつていっしょに暮らしたことのある少年を思い出す。その少年は「盲目」にさせられ、路上でシンガーとして物乞いをしている。主人公は、金持ちのアメリカ人のふりをしてその少年に 100ドル札を渡すのだが、そのとき盲目の少年は主人公に「どんな絵が書いてある?」と確かめる。主人公は顔をことばで描写する。すると盲目の少年は「ベンジャミン・フランクリンだ。 100ドル札にまちがいない」という。少年は 100ドル札をつかわない。 100ルピー札も知らない。それは実際に手にしたことがないからだ。けれど、かつての仲間がいったことば、 100ドル札にはベンジャミン・フランクリンの肖像が描いてあるということは忘れることができない。これが学校で教わった「知識」なら忘れてしまったかもしれない。だが、現実は、ぜったい間違えてはいけないものとして身につけた「体験」は忘れようがない。ベンジャミン・フランクリンはアメリカの大統領ではなく、かつていっしょに暮らしたことのある少年、盲目にさせられて、路上で歌を歌い物乞いをさせられている友だちが話してくれた 100ドル札の絵だからである。
 少年が知っているのは、自分の体験だけである。絶対に間違えることのない自分のなまなましい体験。命懸けの体験だけである。
 クリケット遊びはするけれど、それは遊びでするものであって見るものではない。だから、だれがどんな記録を残したかは知らない。映画をたくさんみているわけではないが、自分が糞壺に飛び込んでまでしてサインを俳優の名前は忘れるはずがない。『三銃士』の本は見たことがあり、聞いたこともあるが、読んだことはないので(学校へきちんといけなかったので)、その登場人物は知らない……。
 その体験には、とてもムラがある。きちんと学校へ行き、そこで学習するのではなく、生きていく過程で必要なものだけを体験するから、どうしてもそこで身につけた「知識」は体系立っていない。--このムラが、クイズの形式にぴったりあって、少年は、つぎつぎに正解を答える。そこには、他人が(司会者が)しかけた嘘を見抜くという「知恵」も含まれる。
 インド、ムンバイという土地が(暮らしが)、少年をそんなふうに育てた。貧しい暮らし、そこを訪問する金持ちのアメリカ人というギャップ。宗教の対立があり、ギャングが横行し、他方で安い人件費ゆえに「世界のコールセンター」が存在する都市。コンピューターをたたけば、さまざまな「知識」が無料で集まってくる仕組み。そこでは、体系だった成長というものの方がむりかもしれない。現実の過激さが、体系をくずしていくのである。
 映画からは、そうい現実がみえてくる。現実と真剣に向き合いながら生きている人間がみえてくる。

 この映画のすばらしさは、何よりもそういう現実をアトランダムのクイズ形式と重ねて展開する脚本にある。クイズの質問ごとに少年の「過去」がなまなましくよみがえる。それは「過去」ではなく、「いま」の彼の「いのち」そのものとしてよみがえる。なぜなら、彼がクイズにでているのは、初恋の少女に再び会うことが目的なのだから。多くの国民が見ているテレビ。そこに出れば、離ればなれになった少女が見てくれるかもしれない。そして会いに来てくれるかもしれない。少年の恋は現在形(いま)であり、その恋の過程に体験してきたことが、クイズとともによみがえる。過酷な体験だけがよみがえるのではなく、瑞々しい思いがよみがえる。愛がよみがえる。
 愛があるとき、ひとは答えを間違えるはずがないのである。
 これは、最後の最後に、美しい形で描かれる。「三銃士の主人公はだれ?」少年は知らない。そして「ライフライン」で電話に出た少女も知らない。彼等は本を読まない。でも、間違えるはずがない。それはふたりが愛し合っているからである。--そんな、ばかな、そんな非現実的な、と思うひとがいるなら、それは愛を知らないからである。知らなくても「正解」を選んでしまう。それは「軌跡」でも「偶然」でもなく、その愛が「運命」だからである。
 映画の宣伝文句にのってしまったような書き方になってしまったが、それは確かにそうなのだ。そうに違いないと信じさせてくれる力が、この映画の脚本には宿っている。

 もひとつ、おまけ(?)。
 映画のほんとうのラスト。ストーリーがおわったあとの、クレジットの紹介に先だってはじまるダンスシーンがすばらしい。駅のプラットホームで登場人物が踊る。華やかで、すべてが生きている歓びにかわる。それはストーリーとは関係ない。関係ないけれど、その「いま」を生きて楽しむというエネルギーが炸裂していて、あ、これがインドなのだと感動してしまう。ストーリー部分に拮抗する、「付録」(おまけ)とはいえない。付録、おまけを超越した美しさに満ちている。


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荒川洋治『実視連星』

2009-04-22 14:57:37 | 詩集
荒川洋治『実視連星』(思潮社、2009年05月01日発行)

 「写真機の雲」という作品がある。そのなかほど、

Sはあるとき
Sよりも年上の男を
「先輩! 先輩!」
とうれしそうに呼んでいた
その先輩、先輩と呼ばれた人は
酒の入ったコップをもちながら にっこりとわらい
「きみは、ユーモアものでもかいてみたら。あいうえお」
と石川にいった
先輩はこれで二人になった
同じことをいう これが感じとれる社会だ

 最後の「同じこと」というのは、詩の冒頭の部分を受けている。

二年先輩のSは 石川が学生のころ
「おまえには 才能はない
趣味で ユーモア小説でもかいてみろや」
と言った
このSのひとことかが
石川の雲を先導した

 「ユーモア小説(もの)でもかいてみろ」と石川は2回言われた。そこに「社会」がある。「社会」とは「同じこと」を言ってくれるひとたちとの関係のことである。
 荒川が詩をとおして書きつづけているのは、この「同じことをいう」という暮らしの(生き方の)大切さである。「同じことをいう」という習慣が消えつつある。それは「同じこと」が消えるということでもある。荒川は、その消えつつある「同じこと」を詩の形にして守りつづけている。守りつづけていると書くと保守的な感じがするかもしれないが、誰もが「同じことだからいわない」という風潮を生きている時と、この「同じことをいう」という生き方は非常に革新的である。革新的でありすぎて、その革新性が見えにくい。つまり、どんなふうに革新的であるかを説明しようとすると、非常にめんどうくさい。

 「社会」「同じことをいう」。それに関することばはつづく。

同じことをいう これが感じとれる社会だ
でも体制の転覆はないぜ と
Sのたよりは かなしいことにふれた
長文でもないので そこに社会があった 恐怖があった

 「同じこと」は「長文」ではない。とても短い。短いけれど、それをささえている「感じ」はとても長い。短い「同じこと」を聞かされながら、どれだけ長い(長文の)「感じ」を感じ取れるか--それが大切なのである。
 短い「同じこと」を繰り返し言いつづけ、それが感じ取れるまでそのひとを待ってくれるのが「社会」というものである。そういう「社会」はしだいに消えつつある。たとえば「先輩」という「社会」も。その結果、「短いことば」の奥にある「長い感じ」がどんどん消されてしまって、「感じ」そのものが「日本語」から消えてしまっていく。
 荒川が感じていることばへの思いは、そういうことだろうと思う。
 「日本語」から「感じ」を消したくない。「日本語」に「感じ」を復活させたい。--荒川がやっていることは、それにつきると思う。『水駅』のころから、それは一貫していると思う。『水駅』のころは、それが「抒情」という形に見えたので理解しやすかったが、いま書いている作品には「抒情」のような簡単な(便利な)キーワードがない。そのために、とても説明しにくい。
 「同じこと」をいう社会。それを言ってくれるひととの関係。そのなかでつくられ、そだてられていく感じ、そしてことばのつかいかたの作法。それは、ことばをどう感じ取るかという感じ方の「教育」でもある。

 うまくいえない。

 たとえば、次の連の次の部分。

「おれの着物はおまえの反物」
そんなことも
Sはいったように思うが
この いまの思いがうれしくて
少しもそれを真剣にきいていない
「あとから誰かがきくだろう」
石川はそう思い
勇気のある行動に出ようとした

 ひとが何かいう。いってくれる。それを「真剣」にはきかない。「あとから誰かがきくだろう」。そんなふうに聞き逃す。そうやってやりすごしたことばを、もう一度誰かがいってくれる時(それに気づいた時)、そこから「社会」がうまれる。つまり、離れているふたり(同じことをいってくれたふたり)が、石川というひとりを中心につながる。そして、そこに「感じ」が流れはじめる。「感じ」が存在するだけではなく、動きはじめる。
 荒川は、ことばを、1対1の関係の中で動かそうとはしていない。1対1の関係のなかにとじこめようとはしていない。1対1から解放しようとしている。そう説明すれば、いくらか荒川の革新性に近づくことになるだろうか。
 ことばは、たとえば恋人に愛を告白することばは、基本的に1対1の関係にある。ほかのひとが納得しなくても相手さえ納得すれば、それはことばとして有効である。そういうことを狙ったことばは、たくさんある。1対1の関係の中で有効なことばが流通し、反乱しているとさえいえる。
 荒川は、そういうことばに対して、1対1をさえている、もっとゆるやかな、感じ方そのものを育てることばを復活させようとしている。
 「あとから誰かがきくだろう」は、この連の部分では、石川自身の思いとなっているけれど、それはほんとうはSの思いでもある。「あとから石川はまた誰かから聞かされるだろう」。いま、いっていることがわからなくてもいい。いつか、また誰かに出会い、「おなじこと」を聞く。そのとき、「感じ」がわかる。「感じ」を思い出す。そんな具合にして、深いところでつながっていく「社会」というものがある。
 「先輩」とは、たぶん「おなじこと」をいってくれる人のことである。
 昔は、こういう「先輩」の集団を「壇」と呼んでいた、と思う。荒川は、いまはなくなった「壇」を復活させようとしている。「壇」によって、ことばの「感じ」をささえ、ことばの動き方を鍛練しようとしている。
 でも、これは、現代のように、「オンリーワン」至上主義の時代には、なかなか通じないだろうと思う。人間は「ナンバーワン」でなくていいのはもちろんだけれど、「オンリーワン」でなくてもいいのである。「オンリーワン」などといわなくても人はひとりにきまっている。「オンリーワン」でなくてもひとりであり、同時に、そのひとりは「感じ」をそれぞれに持っている、「感じ方」を共有しているということが重要なのである。「感じ」というより「感じ方」の共有。その「共有」の「場」が「壇」だろうと思う。「感じ方」の共有がなくなったとき、「感じ」そのものがなくなっていく、と荒川は感じているのだと思う。
 これは、しかし、通じないかもしれないなあ、と思う。さびしいけれど(荒川には申し訳ない気持ちにもなるけれど)、荒川のやっていることは、あまりにも高級すぎる。時代を先取りしすぎている。



 「同じこと」。これは、ことばがそのままなら「同じこと」になるわけではない。そのことを厳しく書いている詩がある。「酒」の3連目。全体が2字下げになっている。注釈の形で挿入された行である。

〔この詩を見るため、捨てるための手引き〕
最初の一節のなかほどにある「強い母」は、
正しくは「強い母」。最終節のこれもなかほどの
「たぐいまれな薬草」は「たぐいまれな薬草」が
正しい。全体にみえる「酒」も、正しくは「酒」。
いまはこんなことをしている。

 「この詩」とあるが、この作品の最初の一節にも、最後の節にも、「強い母」もそれ以下のことばも出てこない。そして、間違っている(?)と指摘されていることばと「強い母」「たぐいまれな薬草」「酒」と、正しくは云々といわれたことばは、まったく同じである。外見上は同じことばを一方を間違っていると書き、ただしくは云々と書き直している。
 これは、どういうことだろう。「強い母」は正しくは「弱い母」、「たぐいまれな薬草」は正しくは「ありふれた薬草」なら違いはわかるが、同じことばで反復されたのでは、訳が分からなくなる。
 たぶん、荒川は、「この詩」に書かれている「強い母」以下のことばは「壇」を共有していない、というのである。「感じ方」が共有されたものではない、というのである。外見は「同じ」であっても「感じ方」が「共有」されていなければ、そのことばは「正しくはない」。
 「写真機の雲」に戻る。先輩Sは「趣味で ユーモア小説でもかいてみろや」と石川にいった。Sよりも年上の男(Sの先輩)は「きみは、ユーモアのもでもかいてみたら」と石川にいった。それは正確には「同じ」ではない。けれど「同じこと」である。
 「酒」にもどる。荒川が書いている「強い母」「たぐいまれな薬草」「酒」はまったく同じことばではある。けれど、それは「同じこと」ではない。「こと」が大切なのだ。「同じ」をささえている「こと」が。「こと」がそこに存在するかどうかがとても大切なのだ。
 荒川は、ここでは、荒川自身の詩の読み方、あるいは本の読み方を、しずかに語っているだ。「いまはこんなことをしている」と。

 言い直そう。
 荒川は「こと」を書いている。「こと」というのは、ことばのなかに隠れているものである。「こと・ば」。「こと」の「葉っぱ」(端切れ?)が「ことば」であり、そこに「こと」がなければ、ただの葉っぱである。
 さらに言い直せば、荒川は、彼の作品では「感じ方」が「共有」されていたことばを選りすぐって詩を書いている。そうすることで「こと」をしっかりみえるものにしようとしている。





実視連星
荒川 洋治
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(62)

2009-04-22 01:10:13 | 田村隆一

 「生きる歓び」は田村が飼っていた猫と尾長(鳥)を追悼する詩である。

生のよろこび
生のかなしみ

死のかなしみ
死のよろこび

ぼくらはその世界で漂流している
神あらば
大爆笑になるだろう

死は卵だ
その卵を 破って

生はよみがえる
猫のチーコ 尾長のタケ
十八年も生きつづけて いま
桜の木の下で眠っている

人生痛苦多しといえども
夕べには茜雲あり
暁の星に光りあり
チーコ タケ
チーコは仔猫になって永福寺(ようふくじ)あとの草原をかけめぐれ
タケ 小さな山の上を小さな羽根で飛びまわれ

 死んでしまった猫と尾長が記憶の中でよみがえる。死者が記憶の中でよみがえる。それは誰もが体験することである。その誰もが体験することを、

死は卵だ
その卵を 破って

生はよみがえる

 と田村は書いている。
 ここに書いてあることは、誰もが知っていることなので、その知っていることを「比喩」として書いてあるだけ--と単純に思ってしまう。単純に、そう思ってしまうけれど、やはり、これは田村にしか書けない行である。田村しか書かなかった行である。
 死が生を生む。死を通って生はよみがえる--このことばは矛盾である。ふつうは生には死がやってくる。生を通り抜けて死にいたる。田村のことばは、その「時間」の流れとは一致しない。矛盾する。
 その矛盾を解体するために「卵」という比喩がつかわれている。「比喩」とは矛盾を解体するためにとおらなければならない「場」なのである。

 「時」には、甲という時と別の乙という時があって、それが出会った時に甲と乙との「間」として「時間」が動きはじめる。「差」(隔たり)があって、それが「間」であり、その「間」にこそ「自由」がある。
 このことを「比喩」にあてはめてみよう。
 「比喩」が「比喩」であるためには、その「比喩」は描こうとしている対象そのものではない。
 「死は卵だ」という「比喩」が成り立つためには、「死」と「卵」のあいだに「間」が、隔たりがなければならない。実際「死」と「卵」は同じものではない。「死」は「もの」ではない。手でさわることもできない。「死」と「卵」を勘違いするひとはだれもいない。そこには決定的な「間」がある。
 そして、それに決定的な「間」があるにもかかわらず、それではその決定的な「間」とは何なのか、私たちは、うまく語れない。少なくとも私にはそれを語ることができない。隔たりすぎていて、「間」というものを意識すらできない。「死」と「卵」は無限大に遠い。これでは、意識は動いていかない。
 別の例で説明する。
 たとえば「少女は薔薇」という比喩。「少女」と「薔薇」は同一ではない。ふたつの存在のあいだには「間」がある。しかし、それが比喩である時、その「間」を「美」という観念が駆け抜け、ふたつを結びつける。「間」は「間」でありながら、しっかりと結びつく。
 そのときの「美」というベクトルが意識される時、比喩は比喩になる。比喩を構成する要件にはふたつあることになる。ふたつの存在のあいだの「間」、そしてその間を結ぶ「ベクトル」。
 「死」と「卵」には巨大な「間」は存在するが、それを結びつけるベクトルはない。だから、これは、ふつうの「比喩」ではない。

 「死は卵だ」が「比喩」になるためには、「ベクトル」が必要だ。このベクトルを田村は「破って」という動詞でつくりだしている。「破って」という動詞が「死」と「卵」の「間」を駆け抜けることによって、それははじめて「比喩」になる。
 この運動をつくりだす時につかう「動詞」--そこに、田村の「思想」が凝縮している。
 何度も書いてきたが、田村の矛盾は、矛盾→止揚→発展という形で昇華はしない。存在を、その存在の存在形式を破壊し、対立構造そのものを解体するというのが、田村の矛盾の形式であった。そのときの運動のありようが「破って」ということばとして、ここに凝縮している。
 「破る」「破壊する」「解体する」--そのとき「間」も解体する。そして、その瞬間に「自由」があふれだす。「生きる歓び」が。

 別の角度からもう一度。
 「生」と「死」。その「間」。「間」をつくりだしている何か。「生」と「死」はまったく別のものであるけれど、そのふたつのものに「間」というものが存在しうるのか。「死」と「卵」の「間」は無限大だったが、「死」と「生」は? まったく違うものなのに、そのふたつのものに「間」はない。しっかり隣り合っている。分離不能である。「生」がおわったところから「死」なのである。「間」は存在しない。
 「間」が存在しないのに、「比喩」をつかう。「間」を呼び込むことばを田村はつかう。そして、「破る」という動詞を持ち込むことで、「間」の存在を明確にし、同時に「間」を破壊することで「自由」の在り方を指し示す。
 このときの「比喩」と「動詞」は、また、不思議なものに触れている。
 「その卵を 破って」と田村は書いているが、これは正確には(?)、「卵の殻を破って」ということになるだろう。「間」はほんとうは存在する。「卵の殻」のように破ってしまえば、その存在形式がかわってしまうほど存在そのものに密着したかたちで、ふたつのものをわける「間」がある。「間」は「無限大」ではなく、逆に「無限小(?)」だったのである。「無限大」と「無限小」が結びついている--そういう「存在形式」がある。「矛盾」がひとつのもののなかで固く結びついていることがある。それを田村は「破る」。「やぶる」ことで、その矛盾を「自由」に転換しようとする。

 そして、このとき、田村は「卵の殻」の「殻」ということばを省略している。省略すると同時に、1字分の「空白」、アキを書いている。
 これは、とても重要なことだと私は思う。
 「卵」には「殻」がある--ということは周知の事実である。「卵を破る」といえば「卵の殻を破る」というのに等しいことはだれでもわかる。だれでもわかるから「殻」を書かなかった。それは、ひとつの理由である。しかし、「殻」を書かなかったのは、それだけではないと私は思う。「殻」と書いて、そこに「小さな間」を出現させてしまうと、田村の書こうとしていることは違ってきてしまう。田村は、そういうことを無意識のうちに知っていたのだと思う。
 卵の2行は、

死は卵だ
その殻を 破って

 とも書くことができたはずだ。「卵」「殻」とことばをかえた方が「卵」を2回つかわずにすみ、ことばの変化が出たかもしれない。(そのかわり、なんとも「間延び」した、だらしないことばの動きになる。)
 しかし、「殻」と書いてしまえば、そこに「境界」ができる。「境目」ができる。「生」と「死」は確かに違った存在であるが、そこには「境目」はない。「殻」と書くと、その「殻」のなかに境目ができて、田村の生死観と違ってきてしまうのである。
 その、間違った方向へ動くベクトルを制御するために「殻」は省略されている。しかも、「破る」という動詞は絶対に書かなくてはならない。
 この複雑な問題を通り抜けるために1字空白が導入されているのである。空白によって、意識を緊張させているのである。
 多くの詩人が1字空白をつかう。改行をつかう。ほとんど無意識につかっいると思う。田村も無意識でつかう時が多いかもしれない。しかし、この「その卵を 破って」というときの1字あきには、精神の運動を正確に描こうとする意識がはっきり働いている。その意識が、つぎの「生はよみがえる」という行の前に、1行あきを呼び込んでいる。

 ことばには書いていいものと書いてはいけないものがある。

 1字あきという「間」、1行あきという「間」。この詩では、その「空白」に田村の思想が凝縮されている。
 --私は、ほんとうは、そこから書きはじめるべきだったかもしれない。
 「生きる歓び」は猫と尾長のことを思い出している小さな作品である。飼っていたペットのことを思い出すというのは誰もが体験する小さなことがら(?)である。けれど、

死は卵だ
その卵を 破って

生はよみがえる

 この3行(1行あきを含めれば4行)には田村の思想が凝縮している。ペットのことを思い出すという「内容」に目を向けると、読み落としてしまう大事なものが凝縮している。



新選田村隆一詩集 (1977年) (新選現代詩文庫)
田村 隆一
思潮社

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飯田保文『人間インフレ』

2009-04-21 13:25:10 | 詩集
飯田保文『人間インフレ』(思潮社、2009年03月20日発行)

 飯田保文『人間インフレ』のことばは、突然、逸脱する。それは、どう読んでいいかわからない。たとえば「言葉なき歌」。そのなかほど。

言葉かぎょう
は分節あら
ぎょうもがく
でいねい
わたくし
蚊とんぼう
きがつきゃプィーンは
うるせーぜ

 「言葉かぎょう」は「言葉稼業」だろうか。2 行目の「あら」は「あら、びっくり」というときの「あら」だろうか。「ぎょうもがく」は何が「もがいく」のだろうか。「稼業」、それとも、50音図の「か行」。いや、2行目、3行目にはことばのわたりがあり、「あら/ぎょう」は「荒行」であり、「もがく」の主語は、「私」、あるいは「言葉」なのだ。「でいねい」は「泥濘」かなあ。それとも、「で(格助詞)+いねい」。「いねい」って、何? 「否(いな)」の活用形? 「わたくし」は「私」だろうなあ。まさか、「わっ、タクシー」や「綿+櫛」ではないだろう。「蚊とんぼう」は「蚊とんぼ」? 「プィーン」は蚊蜻蛉の羽音? だから「うるせーぜ」と叫んでいる?
 なんだか、わからないが、「気がつきゃ」「煩せーぜ」と、叫んでいることだけはわかる。いや、わかった気持ちになっている。論理的なことはわからないが、感情的なことはわかる。いや、わかった気持ちになる。
 この「わからなさ」と「わかる」(ほんとうは「わかった気持ちになる」)のあいだを飯田のことばは駆け抜ける。そして、ときどき、その疾走に、私は「幻」を見る。それはもしかしたら現実かもしれないが、確証がないので、とりあえずは「幻」と呼んでおく。
 それは、引用した部分でいえば、「でいねい」である。「もがく」ということばに引きずられ、私は「泥濘」を想像するが、泥濘というのは、まあ、ほとんどの場合、否定的な意味合いを帯びている。その否定的な意味合いに引きずられて(もがく、と複合して)、「でいねい」のなかから「否」ということばがふっと浮かんでくる。それが「見える」。ほかの人には見えないかもしれない。飯田もそういうものを見せようとして書いているのではないかもしれない。しかし、私には「見える」。くっきりと「見える」。
 そして、その「否」は、あらゆることばに対して、発せられた飯田の「肉体」の深い深い部分の声という気がする。
 「言葉かぎょう」。その「ことば」に対して「否」と叫んでいる。否が強すぎるので「言葉稼業」が「言葉稼業」にならずに、「言葉かぎょう」に破壊されてしまっているのだ。そして、その破壊の過程で、「稼業」は「○○+業」「○○+行」に「分節」されて、その破片が遠く離れたもの、あるいは一番身近なものと結合し、新たなことばをつくりあげる。
 ここでは、破壊と再創造、再生が同時におこなわれているのである。破壊と再生という矛盾するものが同時進行しているから、それは何がなんだかわからない。再生の気配(?)が実感できた時(錯覚できた時)、そこに書かれていることが「わかる」、「わかった気持ちになる」。

 ことばは、破壊され、分節され、あらたに組み立てられ直す。その瞬間、ことばの気まぐれな自由が輝く。--ことばをかえていえば、そういうことになる。その気まぐれな自由が「かっこいい」と感じた時、私はそれを「わかる」(わかったような気持ちになる」と、とりあえずいうのである。
 次の2行では、ことばは、しりとりのように動く。

ぬすみまくれまくわうりまくらかすめろかすみそうあしたあしは
らにあしもつあなたあなろぐいっしゅんでじたる

 「きがつきゃプィーンは/うるせーぜ」と同じように、ここでも最後は「アナログ一瞬デジタル」と破壊しきれずにことばが浮いてしまうのが残念(?)なのだけれど、それまでの、どこにでもくっついてしまう自由さはたのしい。
 先のしり取り(行のわたりを含む)の要素があったが、飯田は、しり取りのとき「動詞」が省かれ、名詞が「音」に分節され、音だけが利用されるという運動をいつでも利用する。
 音の運動は「意味」の運動よりも早く、また「肉体」に深くからみついている。
 そのため「頭」でつくりあげる論理の正確さには追い付けないが、イージーな「肉体」の誤読を先走りするようにつかみとってしまう。「わかるもの」「わかった気持ちになれるもの」を、特に頭の悪い私は、かってにつかみとってしまう。そして、どんどん誤読を重ねていく。

 飯田は、不完全な(?)ことばの運動によって、自由を表現する--というより、不完全さを前面に出すことで、読者の、無意識の文法を破壊し、読者がことばにどれだけ束縛されているかを知らせようとしているのかもしれない。いや、これは、私だけが勝手にする誤読かもしれないのだけれど。
 「あなたの名を知った」の書き出し。

脳の中であなたにあった
ピアノを弾く手をやすめてやさしく微笑む
夢の列車の向かい席で微笑んだ同じ微笑みを原爆がする
脳のニューオーリンズシアトルではれつする
草も生えない2メートル蟻の行き交う淡い人影が焼き付いたコンクリート脳
後ろめたさと優越感しろいブタが皇居を買2935がって
皆 しにすれば良かったんだ

 「買2935がって」が何のことかさっぱりわからないのだが、そのさっぱりわからないという感じが強いだけに、次の「皆 しにすれば」が、「皆殺しにすれば」と読めてしまう。読んでしまう。飯田のことばは、ときどき助詞を省略するから「皆愛し」ということばも成り立つはずなのに、「皆殺し」と私は読んでしまう。
 「原爆」ということばに引きずられるからかもしれない。
 そして、これこそが、つまり、読者が(私が)、飯田のことばを、たくさん書いていることばのどのことばに引きずられて全体を読んでいるかということを、知らせている。私は、無意識に(何の前提もなしに)飯田のことばを読みはじめる。そして、何の前提もないはずなのに、あることばには厳しく反応し、別のことばにはまったく反応できない。そういうことが起きる。その反応の変化というのは、私自身のことばに対する向き合いかたを教えてくれるものである。私が、どんなことば(流通言語)にしばられているかを教えてくれる。

 あ、飯田は、あらゆることばから自由になれ、と叫んでいるのだと、そのとき、気がつく。流通言語からの自由--それこそ、詩の、現代詩のいちばん存在理由だ。




人間インフレ
飯田 保文
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(61)

2009-04-21 01:03:42 | 田村隆一

 「間」をとは何か。「光りと痛み」のなかでも、田村のことばは「間」を追いかけている。「時間」を「時・間」ととらえて、「間」を見つめている。

月の光りだと
地球にとどくまで一・三秒しかかかならない
すると月光によって
詩に駆りたてられる人間は一・三秒の誤差があるわけだ
太陽の光りは八分十六秒六もかかる
詩人よりも農夫のほうが光りの誤差に耐えなければならないな
誤差の力学から考えると 詩よりも草木のほうが詩的だということになる

 「誤差」とは「間」の大きさのことでもある。そして、田村は、この「間」が大きい方が「詩的」だという。「誤差」こそが「詩的」だということになる。
 「誤差」「間」を求める。そこに田村の思想がある。
 何度か弁証法について書いた。矛盾→止揚→発展。この運動にあっては「誤差」は許されない。別なことばで言うと、この運動にあっては「間」、あるいは「飛躍」というものはあってはならない。それは「連続」したつながりでなければならない。しっかりしたつながりで、発展という方向へ運動を組織していくのが弁証法の哲学である。「矛盾」というものには必ず「間」がある。対立するものの間には、互いを拒絶する何かがあって、それが「間」をつくりだす。その「間」を少しずつ取り除き、ぴったり重ね合わせてしまうことが止揚であり、その止揚の結果、「間」を、つまり矛盾をつくりだしていたものは、発展的に別の存在になる。別の存在ではあるけれど、そこには緊密な運動が確立されている。矛盾→止揚→発展という運動の「確立」が弁証法である。
 田村の運動はまったく逆である。矛盾が矛盾として認識されるのは、それが対立するだけではなく、なんらかのつながりを要求するから矛盾になるのである。つながりを(連続を)もとめないかぎり、それは別個に存在するだけで矛盾にはならない。水と火は、離れて存在するかぎり、互いを否定はしない。矛盾した存在ではない。
 世界というのは、ある意味では、離れているものが連続する形にととえようとする運動でもある。人間は、あらゆるものをひとつの連続体系のなかに組織的にとらえようとする。どんな連続形式として世界を描写できるか--を科学は求めている。それを追究するのが「発展」でもある。
 田村のことばは逆である。連続を求めるものを叩ききることにある。水と火は矛盾した存在である。それはそのままの形で結びつけようとするから矛盾なのである。結びつける運動を解体してしまえば矛盾しなくなる。水と火を遠く隔てて結びつかないものにまで解体してしまう。水を、たとえばH2Oにしてしまう。さらには、HとO、水素と酸素にしてしまう。それは、火を消しはしない。逆に燃えあがらせる。あらゆる存在は、解体しつづければ、どこかで矛盾しなくなる。
 それは、どの段階まで?
 原子? 分子? 陽子? 中性子? 素粒子?
 それは、もしかすると、矛盾を消す解体であるだけではなく、副作用として原子爆弾のような破壊、あるいはブラックホール、ビッグバンという制御できない運動を引き起こすかもしれない。
 それがどういうものであれ、田村が求めているのは、そういうものである。
 素粒子ついでにいえば(?)、素粒子は見えない。それを見るためには、論理によって、原子の、あるいは分子の構造に「間」を導入しなければならない。分子の世界を宇宙的規模に拡大しないと、つまり巨大な「間」を導入しないと、それは見えて来ない。
 田村が詩でやろうとしていることは、大げさに言えば、そういうことである。
 世界の結びつきを解体する。存在そのものを解体する。存在をエネルギーの基本的な形にまで解体し、それが自由に動き回れるようにする。それが、詩だ。詩のことばの夢だ。「間」を、巨大な「間」をつくりだすことが、世界を自由にうごかす出発点なのである。
 「間」のなかで見えるもの--それは、現実そのものとは違って見える。素粒子の運動は、たとえば私たちの現実とは重ならない。その重なりを目で、耳で、手でつかみ取ることはできない。つまり現実と素粒子の運動の間には、巨大な「誤差」がある。そして、「誤差」が大きいほど、それは「真実」というか「真理」というか、存在の「自由」に触れているのである。

 そういうものを、どうやってことばは見えるようにすることができるか。「肉眼」で見えるようにできるか。
 その答えは、わからない。
 わかるのは、何がそういうものを妨害しているか、ということである。
 田村は「魂」をやり玉に挙げている。

それにしても ゴッホは耳を切るべきではなかった えぐるなら両の眼だ
じゃ詩人は?
魂という腐敗性物質さ
 不定形のくせに形式があり
 光りよりも
 もっと遅れてきては
 痛みをかきたてるからね

 「魂」。「形式」をもった腐敗した存在。「形式」というのは、連続性のなかにある。田村は、連続するもの、連続して形を描き出そうとするものを「腐敗している」と考える。腐敗していないもの、健康なものは、連続を解体し、自由に動くものだけである。常に、連続するものを解体しつづける力だけが「自由」の名に値するのだろう。
 解体する。関係を解体する。「間」をつくりだす。ことばすら解体し、ことばとことばの「間」を拡大する。「意味」を拒絶する。「意味」を破壊し、否定する。

 「現代詩」は難解だという。あたりまえである。現代詩は「発展」をめざしていない。ことばの「解体」を通して、別なことばで言えば、ことばを批評することで、ことばに自由を持ち込もうとしているからである。それは「日常」の連続性ではとらえることができない。逆に言えば、難解でなければ詩ではない、ということになる。


腐敗性物質 (講談社文芸文庫)
田村 隆一
講談社

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吉田博哉「父の馬」、岡本勝人「秋篠寺から般若寺へ」

2009-04-20 11:11:08 | 詩集
吉田博哉「父の馬」、岡本勝人「秋篠寺から般若寺へ」(「ガニメデ」45、2009年04月01日発行)

 吉田博哉「父の馬」は、父が飼っていた馬を、そして馬を飼っていた父を書いている。父が飼っていた馬と、馬を飼っていた父では、「馬」と「父」の違いがあるのだが、その区別がつかなくなる。それは、「私」が父が飼っていた馬を見ていたのか、それとも馬を飼っていた父を見ていたのか、しだいにわからなくなるのと似ている。そしてその区別のなさは、最初「父」と「馬」を混じり合ったものにし、それから「私」と「父」を、同じように、まじりあわせてしまう。
 あ、
 こういうことが、愛ということなのか、とその瞬間に気がつく。

父は私の知らない村に持仏堂のような厩を持っている--この仕事先を告げないことが母に捨てられた原因らしい--何度か連れて行かれ 父の馬を見た。大きなガラスのような目を覗くと村が見え父が映っている。熱い尻の毛皮の緻密で手も弾かれそうな重量感に私はめまいを感じた。

 「大きなガラスのような目を覗くと村が見え父が映っている」というのは、シャガールの絵「私の村」のようでおもしろい。シャガールの絵では、動物も人間も家も木々も星もみな区別がなかった。吉田は、最初から、あらゆるものを区別しないのかもしれない。だからこそ、父が飼っている馬を、まるで自分自身で飼っているかのように、強い愛で描写する。「熱い尻の毛皮の緻密で手も弾かれそうな重量感」というようなことばは、馬に直接触れた人間、その生々しさを愛した人間にしか書けないことばだと思う。
 「私」の前で、馬と父は、まるで「恋人」のように語り合う。

父は一晩中厩に寝て勘定する。てん足娘の蹠のようにそっと掻いてやると 伸縮する唇を大きく裏返して<ヌヒーン ホンホン> 笑う馬が父に語りはじめる<わたしめが病気で死にかけて売られそうになったときも 旦那様はわたしめの鼻を吸って治してくれました><あれは中国の古い厩神の猿をまねたのさ お前がすくっと起きたので驚いたよ 俺はあれ以来背中が痒くなるようになった>

 この描写は、とても美しい。馬と父の会話は、とてもむつまじい。うらやましいくらいにむつまじい。あたたかい。そこには「肉体」がある。
 愛は、けっきょく、「肉体」のまじわりである。「肉体」がまじわるということは、「肉体」が変化するということでもある。実際、このことがあってから、父は半身馬になってしまう。
 そして、さらに馬と父との愛は深くて強いものになる。

背中の痒い父が草原にねて 身体をS字にくねらせ奇声を発する 馬が父の胸の地平線をのぞくように鼻を寄せる いったいどんな快感なのか 半身馬の父が四肢で空をたどるので 小栗判官が馬で梯子を登るように地平線が垂直になる。

 「馬が父の胸の地平線をのぞくように鼻を寄せる」という描写も、とても透明で、その描写から父の胸のなかの地平線が本当に見えてくる。吉田もそれ地平線をくっきりと見たのだと思う。
 その地平線を、父を、そして馬を、「私」が生々しく記憶しているのは、それが「私」にとって大切なものだからである。ふつうは存在しないもの、その地平線、胸のなかに誕生した地平線を見る力、それをそっと守るこころ--この「大切」にするこころが愛なのだ。

隙きゆく駒に父をしきりに思うこの頃 私はもういちど 父のその死暮らしはどんなかたずねてみたいと思う。行くときに見え 戻るとき見えなくなる地平線しかない父の村はもうすぐそこである。

 「父のその死暮らしはどんなかたずねてみたいと思う」は誤植なのか、どうなのか、ちょっと判然としない。
 わからないまま、感想を書くのは無責任かもしれないけれど、「行くときに見え 戻るとき見えなくなる地平線」は、とても美しいことばだ。
 愛というのは、いつでも対象へ向かうとき、それが見える。「地平線」のように。その先に「目的地」がある、そう誘っているかのように見える。けれど、いったん、愛の領域にはいると、それは消える。馬と父が愛のことばを交わし、父が半身馬になってしまったように、「地平線」が人間の体のなかに入ってしまうからである。
 その父と馬の領域へ「私」は入っていこうとしている。入っていこうとすること--それ自体が、愛である。
 こんなふうにして愛される父は幸せだし、そんなふうに父を愛せる吉田も幸せだと思う。ふたつに区別はない。--そういう区別のないなつかしさがあふれる詩である。



 岡本勝人「秋篠寺から般若寺へ」は、きびきびした文体でことばが進む。

近鉄京都駅から電車に乗り西大寺駅についた
駅から押熊行きのバスに乗る
しばらく細い住宅街の道をバスはぬけていく
まもなく左手に西大寺の記憶が見えてきた

 こういう文体で、寺の歴史、風景、それからその寺に関して哲学者や文学者、詩人のことがさらりと書かれる。そういうことばを通って、岡本は、寺へとちかづいてゆく。接近という運動をつづける。
 吉田の父と馬は、とけあって「愛」になったのに対し、岡本のことばは、とけあうのではなく、一歩一歩、進む。岡本の「愛」は、その道(他者のことば、認識)を通ることである。その道を通るとき、岡本と、詩人が、哲学者が、重なり合う。
 書き出しのことばが特徴的だが、それは1行1行、独立している。(なかには2行にわたるものがあるが、基本は1行である。)そこでは、ことばがリレーされるのである。エリオットや、寺には直接関係のないドラクロワやショパンもこの詩には出てくるが、彼らは(彼らのことば、は)「溶け合う」のではなく、リレーされる。
 詩の途中に、

本尊の薬師如来の左手にすっとたつ技芸天立像の清楚なたたずまいを
どのように言語化することができるだろう

 という2行があるが、岡本は「リレー」という言語の運動形式を、この詩で発見したといえるかもしれない。「リレー」を別のことばでいうなら……。
 詩の最後。

紅葉のなかで火と薔薇がひとつになる
秋の夕日がはやくおちないようにとささえる杖が必要だ
突風がつかの間の融和の手触りをあたえると
あたりには夕暮れがゆっくりと成長していった

 1行に次の1行を重ね合わせ「ひとつ」になる。その「リレー」の結果、そのひとつ」は「成長」の軌跡を描く。岡本にとって、愛とは、成長するものなのだ。


死生児たちの彼方―吉田博哉詩集 (1983年) (日本現代新鋭詩人叢書〈第16集〉)
吉田 博哉
芸風書院

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都市の詩学
岡本 勝人
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(60)

2009-04-20 02:02:11 | 田村隆一

 『生きる歓び』(1988年)に「between 」という詩がある。そこでは「時間」と「間」に関することばが出てくる。

時の歩みは人間の足にくらべたら
気が遠くなるくらいのろいということも分ってきた
十万年前か百万年前に(わたしにとっては紙一重だ)
はじめて直立した人間の
脳髄の衝撃を追体験しようとすると
一瞬 わたしは目まいに襲われる

 「十万年前」と「百万年前」との「間」には「九十万年」の広がりがある。しかし、それは田村にとっては「紙一重」である。つまり「間」が存在しないに等しい。なぜか。「九十万年」という「時」の「間」は「頭」では理解できるが、「肉体」では理解できないからだ。そして「頭」の理解というのは錯覚でもある。「頭」は「数字」の違いによって、見えないものを見えるようにさせているだけであって、だれも(どんな人間も)、「九十万年」がどれだけの長さ、広がりなのか「体験」したことはない。
 「体験したことがない」ことを人間は理解できる。あるいは「体験していない」からこそ、間違えずに理解できる--ということかもしれない。たとえば「九十万年」という時間の広がりをだれも体験していない。だからこそ、私たちは「 100万年-10万年=90万年」と「正確」にその「間」を表現することも、把握することもできる。実際に、たとえば91万年生きたとしたら、その長さを、たとえば「91万年」と「90万9999年」の違いを私たちの「肉体」は具体的に語ることができるだろうか。きっと、できない。体験していないからこそ、私たちは正確に表現できる、理解できるということもあるのだ。

 これは、逆のこともいえる。逆のことを考えると、おもしろいことが起きる。私たちは1歳くらいのとき、はじめて「直立」して歩く。これは誰もが体験することである。その体験を正確に記憶している人間は、たぶん、いない。けれども、子供が立ち上がって歩く姿を見ると、その最初の「直立」を見ると、自分もそうしてきたことが「わかる」。「理解する」というより「わかる」。
 その「わかる」ことをもとにして、「はじめて直立した人間」のことも、「わかる」。あるいは、わかったような気持ちになる。その瞬間、不思議なことが起きる。
 「十万年前」「百万年前」の「差」が消えて、ただ「直立する」という肉体の行動だけと人間が結びつく。
 目の前の子供が(赤ちゃんが)直立して歩く--その姿を見た瞬間、自分もそうであったと「わかる」ように、なにかが「わかる」。10万年、 100万年の「時」を超えて、なにかが「わかる」。他人の経験というものは、けっして「わからない」ものであるはずなのに、「わかる」。
 別な例を挙げた方がいいかもしれない。たとえば、道端で腹を抱えてうずくまる人を見たとき、私たちは、その人が「腹が痛いのだ(あるいは体のどこかが痛いのだ)」ということが「わかる」。他人の「肉体」の痛みは自分の「肉体」の痛みではないのに、それが「わかる」。
 「肉体」というのは「間」を消してしまうものなのだ。「間」を飛び越して、なにかを結びつけてしまうものなのだ。
 そういうことを、田村は、道端の人間に対してではなく、あるいは赤ちゃんに対してではなく、「はじめて直立した人間」に感じる。「わかる」。なにかを共有する。そして、そのとき「肉体」を隔てているのは、「空間」としての「距離」だけではなく、そこに「時間」の「間」が入ってくる。
 「肉体」は「時間」の「間」も、超越する。あるいは浸食する。超越と浸食は、たぶん、正反対のことなのだろうけれど、その正反対のもの、矛盾したものが、同じものになる--というのが田村のことば、思想の特徴である。


 この、肉体と時間の「間」の関係について書いている詩が、病院を舞台にしているのは、すこし暗示的である。象徴的である。肉体の変化が、「時間」というものへと田村の視線をひっぱっていっているのかもしれない。



あたかも風のごとく―田村隆一対談集 (1976年)
田村 隆一
風濤社

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中村鐵太郎「わくらばにレダ。とふひとあらば。すまの浦に」、たなかあきみつ「鹿の角 」

2009-04-19 13:49:06 | 詩集
中村鐵太郎「わくらばにレダ。とふひとあらば。すまの浦に」、たなかあきみつ「鹿の角--pour un trompe-l'oeil 」(「庭園詩華集二〇〇九」2009年04月05日)

 ことばはことばを誘い合う。ことばには、それぞれ「出自」というか、過去がある。ことばがことばを誘うということは、ことばがべつのことばの「過去」を呼び寄せることである。そして、それが積み重なって、イメージのゲシュタルトが完成する。そういうことに敏感な人と鈍感な人がいる。
 中村鐵太郎「わくらばにレダ。とふひとあらば。すまの浦に」は、ことばの誘い合いに敏感な人の作品である。

べつの日は夕暮れに針を使う女が
じぶんの影を窓に縫いとめている。

 「影を窓に縫いとめ」るということは、現実にはできない。けれど、「針」「縫う」「女」、「夕暮れ」「影」「窓」とことばが誘い合えば、そこに現実にはありえないことが、ことばそのものの運動として幻想(イメージ)を作り上げてしまう。針は影を窓に縫いとめなければならない。布に、ではなく、窓に、というのは、「夕暮れ」は窓から入ってくるからである。そして、布に、というのでは、布と縫うが近すぎて、嘘--影を縫いとめるという嘘が浮き立ってしまう。窓、という絶対に不可能なものが存在することで、影を縫いとめるという幻が完成する。嘘と嘘がぶつかりあって、幻を真実にかえてしまう。ことばだかが自律運動でつくりあげる世界を真実にしてしまう。
 ことばが何を誘い合っているか--そのことばの声に敏感に耳を澄ますことができる詩人が到達する世界がここにある。

 針で影を縫いとめる--そのとき、省略された布。それは、ひそかに反逆しはじめる。その部分の、ことばの誘い合いもとてもおもしろい。

皓くそりかえる喉元が
あああと息を漏らすのもみえる。
男にうしろから抱かれて、胸の桃もつぶれる。
からだがねじれ、腰もがつくり、
口元にむらさめがふりかかり流れ星がへそに赤らむ。
前の草地を梳きながら入れ替わり、
男神はすこし離れ股間をつかんで、女をだきなおす。
翼に朝霧が奥まで覗いていた。 

 布はどこにも書かれていない。書かれていないから、布が見える。「喉元」から「胸の桃」へ、「口元」から「へそ」へ。そのとき、ほかの部分に布があるかどうか。つまり、女は裸かあるいは半裸か。布を書かないことによって、布が肌を隠し、見えるものと見えないものが入り乱れ、見えないものこそが見えてくる。布に隠されている肌を想像力が見る時、その布が不在なら、そのときの想像力も無効になるという関係のなかにある布。布はひそかに「私の存在なしでは想像力は存在しない」と反逆しているのである。その、入り組んだ反逆までが、ことばの自律運動である。ことばの誘いあいである。
 中村は、こうしたことばの誘いあいを、「レダ」と結びつけている。「鶴の恩返し」の「鶴」ではなく、「レダ」。その、一種の断絶のようなもの、「日本語」本来の対象ではないものを一種の刺激にして、ことばがいったい何を誘いあえるかを探している。「異質」なものが、ことばを新しく動かす--そのときうまれることばの自律運動のたのしさ。
 ことばに敏感な詩人の、企みに満ちたたのしさである。



 たなかあきみつ「鹿の角--pour un trompe-l'oeil 」もまたことばに敏感である。ことばがことばを誘い合うそのときの音楽に敏感である。
 中村が、古典といっていいような、日本の美意識、エロチシズム、「縫いとめる」ということばが象徴的な、連続性のいのちに触れることばを誘いあわせるのに対し、たなかは、「縫いとめ」ることをこばむもの、拒絶、断絶を誘い合わせる。

発吃者はときには傲慢にみえるだろうが
その実ひきつれがいくども彼の喉を
唾が石化するほど締めつける。
地上へ墜落した死鳥の群れは豊穣な唖だから
石洗いの合い言葉mutoは発語されない。

 不協和音ということばがある。中村のことばが和音なら、たなかのことばは不協和音である。
 不協和音といっても、この音楽用語自体、一種の自己矛盾のようなものであって、音が重なればそれはいつでも「和音」である。それをどう感じるかの違いがあるだけである。不協和音のなかにある新しさ--そういうもの、そういうことばの誘いあいを、たなかはことばの運動からひきだしている。「ひきつれ」ということばが象徴するような、一種の「負」のことばの誘い合い、その負と負がぶつかるときの、暗い輝き。
 それは、深い深い断絶があってこそ、誘い込むような魅力になる。連続ではなく、断絶。それを強調するためにつかわれる漢語(漢字熟語)。文字もまた、ことばの運動として誘い合う。文字であるからには、そこに外国語が入ってくる必然もある。異国のことばが日本語を切断する。そのときの、短い不協和音。不協和音によって活性化する音楽。これもまた、とてもたのしい。そして、美しい。

 中村は「レダ」という異質によってつながりあう(団結する)音楽を鳴り響かせた。一方、たなかは、異質によって、いっそう遺失へと疾走する音楽、断絶のきらめきを無数に輝かせる音楽を鳴り響かせている。

ピッツィカーレ―たなかあきみつ詩集
たなか あきみつ
ふらんす堂

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ユー・リクウァイ監督「プラスティック・シティ」(★★★★)

2009-04-19 02:08:09 | 映画

監督 ユー・リクウァイ 出演 オダギリジョー、アンソニー・ウォン、チェン・チャオロン

 驚くほど鮮やかな緑。しかも圧倒的な自然というよりは(圧倒的ではあるのだが)、人間になじんだ緑である。暮らしのなかで見える緑、暮らしの手垢で磨かれた(?)緑なのである。つまり、暮らしが緑に侵食している。日本に(アジアに?)ひきつけて言えば、山の田んぼ、そのあぜ道から始まる山の緑という感じなのである。ブラジルでは、田んぼ(農村)ではなく都市である。本来、融合するはずのないものが、この映画では融合し、その融合によって、緑が鮮やかになる。補色が隣り合わせ緑なのである。実際、緑なのに赤を意識してしまう緑である。(これは最後に重要な意味を持つ。)
なぜ、こんなことが起きるのか。監督が、あのジャ・ジャンクー監督「長江哀歌」のカメラマンであるせいなのか。それも確かにある。アジア人の見た緑である。だが、同時に、この映画がアジア的人間関係を描いているせいもある。ストーリーにぴったり合致しているのだ。アジア的生活をすれば、目もアジア的になり、緑もアジア的に見えてくるのだ。それがたとえカメラを通したものであっても。
父と子、親分と子分、一種の「家族」感覚というのはどの民族にもあるものだけれど、民族によって何かが微妙に違う。アジアの場合、「個人主義」が弱い。そして儒教的なものが強い。「孝」の匂いがする。人間と緑の関係も、どこかに「孝」のようなものを含んでいて、それが「暮らし」(暮らし方)を感じさせる。「ひととひとのつながり」を優先するように、自然とも、対立ではなく、共存を大切にする。そのまなざしが、街の風景をとらえるとき、暮らしが滲んだ風景になる。(「長江哀歌」に通じる。)そして、「共存」、共存するための丁寧な関係の積み上げという暮らしを通じて、自然の緑と、街の暮らしが通い合う。
ここに、「共存」をよしとしない人間が割り込んできて、この映画の暮らしが崩れていく。その破壊のメカニズムは、ちょっと断片的すぎて分かりにくいが、それはその崩壊をあくまで主人公父子の関係を描くことで描ききろうとするからである。破壊する側の動きは最小限しか描かない、父子から見えるものしか描かないからである。闇社会の裏の動きを、実はこんな動きがあります、と説明しないからである。
説明の省略という「野心」を含んだ、あくまで映像にこだわった、映画のための映画なのである。
この映画の最後は、森へ、緑へ帰っていく。
その場所は、かつての生活の場であった。そこでの生活は金掘り、ゴールドラッシュにかけた人間の生活である。争いがあり、殺しもある。血が流された歴史がある。暮らしには、そういう暗部もある。いま、父としていきている男は、実は息子の本当の父を殺しているのだ。そのことを子は突然、フラッシュバックのように思い出す。その記憶、血の赤さが補色として、ふいによみがえる。偽りの父子の血の流れをたたき切って、本当の血が結びつく。噴出する。ギリシャ悲劇のように。
そのとき、緑が一変する。補色に向き合う鮮やかな緑を通り越して、ぶきみに深い深い緑になる。その瞬間がすごい。



長江哀歌 (ちょうこうエレジー) [DVD]

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『田村隆一全詩集』を読む(59)

2009-04-19 01:18:27 | 田村隆一

 詩は、いつでも「矛盾」の形でしか書けない。そして矛盾のなかにこそ、詩がある。
 「大火災」の「矛盾」は「時制」が逆転することろに現われている。

明日 ぼくは枯れ葉のベッドで産れる
今日 ぼくは地下鉄のなかで恋をする
昨日 ぼくは罪の意識もなくあっけなく死ぬ

もう一度、田村は繰り返す。

<明日>は過去形
<昨日>は未来形
<今日>はいつまでたっても現在形

 このことを、田村は、さらに言い換える。

いつまでたっても現在形
というのは
じつに不愉快である
<昨日>の新聞はすこしも面白くないが
三十年前の新聞なら読物になる
世界はいつも危機の情報にあふれていて
危機がなくなれば世界は消滅するだろう
何人かの皇帝と独裁者が亡命し
共和国ができたかと思うとたちまち内戦になり
飢えと肥満が競合しあって
かろうじて地球の生態系をたもっている
五千年まえとまったくおなじ生活様式を生きている遊牧民もあれば
一円の為替差損で自殺する優雅な人間もいる
つまり
この世に<明日>はないということだ
過去形でしか<明日>は表現できない
人間の言語構造そのものが倒立しているのだから
<あの世>から<この世>を見なければならない

 これは簡単に図式化(?)していえば、<明日>起きるだろうことは、すでに<昨日>つまり、過去に起きていることばかりである、ということになる。厳密にいえば過去と同じことが起きるわけではないが、同じ運動が繰り返されているということである。過去に起きなかったことなど、未来に起きるはずがないのである。私たちの「時間」は、それほどたくさんの「過去」をもっている。起きなかったことなど、もうすでにない。それは語られなかったことなど、もうない、ということに等しい。
 <明日>へ進むことは<昨日>をもう一度生きることなのである。
 「温故知新」ということばがあるが、ここに書かれていること自体、「温故知新」ということばが語っているように、すでに書かれてしまっている。そっくりではないが、類似のことが書かれている。「未来」へ進むためには「過去」をていねいに掘り進まなければならない--というのは、すでに語られていることである。
 それでも、そうするしかない。

 こんなことは、どう書いてみても、はじまらない。田村のことばの特徴をみつめることにはならない。

 田村は、他のひとたちと、どこが違うのか。同じこと(類似したこと)を書きながら、どこが違うのか。

<今日>はいつまでたっても現在形

 この行のなかにある「いつまでたっても」が田村のことばを動かしている。「過去」は掘り進めば「未来」になる。「未来」はそこに突入してしまえば、たちまち「過去」になる。過去も未来も、そんなふうにして変化する。しかし、<現在>だけは、かわらない。いつまでたっても「現在」という時制を生きている。
 だが、ほんとうか。
 「未来」という時間など、ほんとうはない。「現在」が「過去」になりつづける。その運動の結果、まぼろしのように、私たちは「未来」を思い描くだけであって、だれも「未来」を体験したものはいない。「現在」しか体験できず、体験した「いま」が「過去」にななりつづけるだけである。
 <明日><今日><昨日>というもの、未来・現在・過去という時制は、私たちの意識がつくりだした「方便」のようなもの、「肉体」がかかえこむ錯乱である。

いつまでたっても現在形
というのは
じつに不愉快である

 と田村は書いているが、この「不愉快」が田村の「思想」である。「いつまでも・不愉快」。それをなんとかしたい。だから、「過去」へではなく、「いま」を耕すのである。わかったように、「温故知新」とはいわない。(方便として、私は、田村は、そういうことを書いていると説明してしまったが……)。
 「温故知新」のような、語り尽くされた「哲学」は放り出して、田村は「いま」をただ耕す。次のように。

そこで
ぼくは 散歩に出る
秋の午後二時というとひとはいない

 そして、酒屋を見つけ、ビールを飲む。ビールを飲みながら、あちこちで飲んだアルコールのことを思い出す。語り尽くされた哲学を捨てるために、ただビールを飲み、過去の記憶を次々に捨てるようにして、ことばをまき散らす。どこまで捨てても、ことばは、しかし次々にあふれてくる。捨てきれない。
 その矛盾。その不愉快。

 もし、詩が、そして思想があるとすれば、その「肉体」の「不愉快」である。田村は「不愉快」の詩人である。
 --と書いてみたが、その「不愉快」の実体をきちんと浮かび上がらせるのは、とても難しい……。

田村隆一ミステリーの料理事典―探偵小説を楽しむガイドブック (Sun lexica (12))
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白鳥信也「ためいき道場」、細見和之「かたつむりの話」

2009-04-18 09:47:24 | 詩(雑誌・同人誌)
白鳥信也「ためいき道場」、細見和之「かたつむりの話」(「庭園詩華集二〇〇九」2009年04月05日)

 白鳥信也「ためいき道場」。ずるずると、ことばが動いていく。書き出し。

いつもの道を散歩していたら
電柱に大きな犬がつながれ
牙をむいて吠えている
犬の脇を通るのはやめて左折する
はじめての道を歩いていると
こんどは茶色のやっぱり大きな犬がいるので
曲り角をみつけて迂回する
まっすぐの道の奥に大きな木造の建物があって
だいぶ古いのだろう少し傾いている
道路に面した太い門には板が打ち付けられていて
墨跡が涙のように垂れている文字で
ためいき道場
どうぞご自由に見学を
と書かれている

 1行1行が独立していない。そのため、詩、という感じがしない。童話(?)のようなリズムもない。ずるずるっ。そういう感じ。だが、このずるずるとした感じが、この詩のいいところである。
 「墨跡が涙のように垂れている文字で」の「涙のように」という比喩が、この詩の場合、とてもよくあっている。ふつうなら(「現代詩」なら、という意味である)誰も書かない。古くさい。手垢にまみれている。ところが、この詩では、それがいい。
 こんなことは知っている、という印象がいい。
 詩のつづき。

引き戸の扉にはガムテープで紙が貼られている
「本日の標語 犬に出会ったら、ためいきをする」
本当にそうだと深くうなずいて扉をそろそろ開けてみる

 この「引き戸」も「ガムテープ」も「本日の標語」も、古くさい風景である。そして、それは古くさいがゆえに「見たことがある」という印象を呼び覚ます。そういう印象を利用して、どこにもなかったことをつけくわえる。「犬に出会ったら、ためいきをする」。古くさい印象--全部知っていること、という印象のなかに、その奇妙なものがまじり込み、不思議なことに、古くさいものが古くさいではなく、なつかしい何かに変わる。
 「本当にそうだと深くうなずいて」が、それを念押しする。「深く」は単に「うなずく」という首の運動ではなく、「本当にそうだと」肉体の「深いところで」 納得して、ということである。肉体の深いところには、古い記憶が積み重なって、なにかひとつのもの(共通のもの)をつくっている。
 この、古い記憶、というか、知っている、という感覚が重要なのである。

思ったりよりも明るい空間で
まん前の受付のテーブルには男が一人
お待ちしていましたと小声で言う

 「思ったよりも」という、この「裏切り」もずるずるという感じにつながる。「思った通り」よりも、「思ったよりも」という裏切りがある方が「深く」に響いてくるのである。「思ったよりも」に酔って、記憶が掘り起こされる。知っているのはずなのに、その知っていることが「新鮮」になる。
 そうしておいて、書かれていないけれど、「思った通り」まん前のテーブルには男がいて、「思った通り」、お待ちしていましたというのだ。
 
 「ためいき道場」自体は、「思った通り」のものではない。というか、誰も「思ったことのない」ものである。それが「思った通り」という印象を揺さぶりながら動いていく。こういうとき、文体は過激であっては行けない。スピードがあってはいけない。あくまで、ずるずると動いていかなくてはいけない。
 こんなにずるずる、ゆっくり動くのだから、いつだって引き返せる--そう思わせる文体でないと、ことは運んで行かない。
 ずるずるずると、どこまで行くか。それは、「庭園」で確かめてください。



 細見和之「かたつむりの話」も文体に特徴がある。

あじさいの花のかたわらで
静かな雨にうたれているかたつむり
どこから現われたのか、かたつむり
わたしはその姿を見るのがとても好き

 2行目、3行目で繰り返される「かたつむり」。せっかく繰り返したのに(?)、4行目で大きく飛躍するわけではない。繰り返したことばが、繰り返しによって変質しない。「変わりませんよ」と、読者に言い聞かせているのである。これは、もちろん、このあと、なにか変わったことがありますよ、という前置きでもある。昔話(童話)が、必ず「昔むかし、あるところに」ではじまるのと同じである。
 ごていねいにも、末尾に「これは絵本のための作品です。どなたか絵を描いてくださいませんか。」という注釈がついているが、これはようするに、童話のような文体なのである。細見は、その文体をきちんと踏襲しているのである。
 途中、

   (ここはソウル
   (ここはバグダッド
   (ここはカシオペア流星群の真っ暗な一角

 という魅力的な3行、絵本でしかありえないような飛躍があって、あ、これはおもしろいなあと思ったが、その後、急速に失速し、最後が非常につまらない。

かたつむりを見ていると
こんなふうに思えてきませんか
知性のはじまり
反省ではなく
好奇心なのだ、と

 私は天の邪鬼な子供なので、そんなふうに書かれてしまうと、「そんなふうには思えません」と大声をあげるだろうなあ。
 「絵本」といいながら、細見のことばは、「絵」を最後に破壊しているし、
「絵本」を読む「読者」の設定も間違えているように思う。

響音遊戯 1 (1)

七月堂

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『田村隆一全詩集』を読む(58)

2009-04-18 01:18:39 | 田村隆一

 『毒杯』(1986年)の最後のページは「まだ目が見えるうちに」という作品である。その後半。

「時が過ぎるのではない
人が過ぎるのだ」

ぼくは書いたことがあったっけ
その過ぎて行く人を何人も見た
ぼくも
やがては過ぎて行くだろう

眼が見える
いったい
その眼は何を見た

「時」を見ただけだ

 この詩は二つの点でおもしろい。ひとつは

「時」を見ただけだ

 と直接、「時」に言及していることだ。「時」はもちろんふつうは目には見えない。どんな視力のいいひとでも「時」を見たひとはいないはずである。それは「物体」ではないからだ。では、何か。存在の「形式」である。ものが存在する時の、在り方である。それは、いわば「観念」に属する。
 しかし、それを田村は「見た」という。
 何で見るのか。「眼」。ただし「肉眼」である。「肉眼」とは「肉体」であるけれど、その「肉体」というのは、「存在の在り方」なのである。「存在の在り方」としての「眼」が、つまり、そこに「思想」がかかわっているとき、「眼」は「肉眼」になる。
 そして、ややこしいことだが、その「思想」というのは、たとえばマルクス哲学であるとか、フランス現代思想であるとか、いわば「借り物」のであってはいけない。そういうもの、「頭」で学んだものを、切り捨てたときに残るもの、自分の「いのち」にからみついた、まだことばにならないもののことである。ことばにならない何か--それをくぐり抜けたとき、そのことばは「肉体」になり、そのとき、その「肉体」は「思想」になり、その結果として「肉眼」が、いままでは見えなかったものを見るのだ。ことばの力によって、それを存在させるのだ。「見る」とは「見える」ではなく、「見える状態」にさせることである。ことばをつかって、ふつうは見えないものをみえる状態にする。それが「肉眼」で「見る」ということである。
 
 もうひとつの興味深い点。

「時が過ぎるのではない
人が過ぎるのだ」

ぼくは書いたことがあったっけ

 この「あったっけ」。それがおもしろい。
 「肉眼」で「見たもの」--それが「思想」である。それは確かにそうなのだが、ある種の特別な人間は「肉眼」が形成される前に、何かを見てしまう。啓示。インスピレーション。見てしまう、というより、見えてしまう。
 「時が過ぎるのではない/人が過ぎるのだ」が、それにあたる。
 「思想」になる前に、ことばが、特別な人間--詩人にやってくるのだ。
 詩人は、その「見えた」ものを、自分の力で見るために「肉眼」を鍛える。いま「見えたもの」がほんとうに存在するのか。それとも、錯覚なのか。それを見極めるために、詩人はことばを動かす。
 田村だけにかぎったことではない。多くの詩人は、あるいはことばに携わる多くのひとは、何度でも同じことを書く。同じことばを書く。それは、それがほんとうに自分の「肉眼」が見たものなのか、そうではなく錯覚なのか確かめると同時に、もう一度、「肉眼」を意識してもそれが「見える」かどうか確かめるためでもある。

 ことばを反復する--そのとき、ふたつのことばの間に「間(ま)」が生まれる。その「間」は「時間」につながる。
 そして、そのことばの反復というとき、詩人は、自分のことばだけを反復するのではない。
 田村は、これまで書いてきた詩のなかで、多くの人のことばを引用している。西脇順三郎のような有名な詩人のことばだけではなく、街で出会った(外国で出会った)市井のひとのことばも引用している。たとえばアメリカ大陸を横断する列車の車掌のことばを。
 ことばを反復するとき、そこに「間」が生まれる。その「間」は「いま」と「過去」、あるいは「田村」と「他人」の「差異」でもある。その「差異」のなかに「時間」にかかわることがひそんでいる。「思想」の違い--そして「思想」の共通性がひそんでいる。それを見る、それをことばとして存在させるのが「肉眼」である。

 「まだ眼が見えるうちに」というタイトルは、田村の、まだ「肉眼」がとらえたものを書きつづけるという「詩人宣言」なのである。



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渡会やよひ「類従」、糸井茂莉「鳥/島のための夢」

2009-04-17 13:12:15 | 詩(雑誌・同人誌)
渡会やよひ「類従」、糸井茂莉「鳥/島のための夢」(「庭園詩華集二〇〇九」2009年04月05日)

 渡会やよひ「類従」はとても魅力的だ。

動物園のはずれで
不意の情動にとらえられるのは
枯れた雑草ゾーンに
盛り砂があるからだ
目路をさえぎり
陥没の危うさに寝そべって
油断なく荒んでいるもの
かぎりなく凝縮するものであり
美しく崩れるもの
それはまた獣舎を離れた虎ではないか

 「砂」を「虎」ではないか、と見間違う。そして、それを「情動」と呼ぶ。--渡会は正確には「情動にとらえられる」と書いているのだが、「砂」を見たから「情動」が起きたのか、「砂」を「虎」と見たから「情動」が起きたのか、あるいは「情動」が潜んでいたために「砂」が「虎」に見えたのか、はっきりしない。たぶん、それは分離できないものだと思う。分離できないがゆえに、それを「砂=虎」は情動であり、「砂=虎=情動」なのだと思う。
 さらにいえば、「砂」「虎」は渡会の外部にあり、「情動」は渡会の内部にあるものだが、それが同じものとして結びつく時、そこには外部・内部という区別はなくなる。
 この、区別のなくなったもののつながりの内部へと渡会は、ことばの力で入っていく。そのことばの歩みがとても美しい。

ゆるやかにカーブする背中
翳る幾条かの創の縞
まだ何ものにもならない
代赭色の気高い憧憬
渡れるだろうか
その一刷毛の稜線を
吹き上げる風に虎落笛のようにこたえれば
近づけるだろうか
その激しく均衡するものに

 「砂=虎=情動」は「均衡」している。そして、それが尋常なことではない(ふつうの世界ではない)ということを渡会は意識している。だからこそ「渡れるだろうか」「近づけるだろうか」と疑問の形でことばを動かしている。それは、「日常的」には、あってはならない世界の形である。だから「詩」という形をとっている。
 そして、そんなふうに「疑問」を持てば持つほど、その「均衡」はより緊密になる。この不思議。この不思議さのなかに、詩がある。

 砂 とら
  虎 すな

 なんと美しい2行だろうか。「砂」を「とら」と呼ぶ「情動」、「虎」を「すな」と呼んでしまう「情動」。漢字、1字あき、ひらがな、漢字、1字下げ、ひらがな、ということばの動きのなかに「情動」の揺らぎがある。1字あきのなかに、改行の瞬間に、「情動」がことばを渡る、ことばに近づく。
 渡会は、もう、このとき現実の「砂」「虎」ではなく、ことばそのものを渡り、ことばそのものに近づくのだ。ものをことばで呼ぶという行為そのものになるのだ。

砂の無数の微小な眼窩から
あの果てしなく極まる二つの眼に
金色にかがようさみしい尾に
つながることができるだろうか

 緊密であること。渡ること。近づくこと。それは「つながる」ということばのなかで収斂する。ことばが、「もの」(たとえば、砂、たとえば虎)と肉体(たとえば情動)をつなぐ。その瞬間に、人間は、詩に生まれ変わる。
 そして、その瞬間、世界が、激変する。

地に伏す枯草を踏み
ひややかにやさしい音楽にくるぶしを埋(うず)められ
 砂 とら
  虎 すな
見知らぬものにただ類従を願い
この結界を
はみだしてゆく

 もう、そこでは渡会は人間ではない。砂はもちろん砂ではない。虎も虎ではない。渡会は、そのことばは、すべてを超越してゆく。そして、すべてになりうる何かになる。まだ名付けられていない何かに、瞬間的に、かわってしまう。

 「自在」ということばがある。
 渡会は、この瞬間、「自在」に何にでもなれるエネルギーそのものになる。



 糸井茂莉「鳥/島のための夢」は、渡会とは「区別」の仕方が違っている。渡会は、「砂」を「虎」と見間違えたが、糸井は、夢のなかで「鳥」を「島」かといぶかる。

島だろうか、とりだろうか。あれは。しるしのようになびくあの白いものは。島、とする筋肉の盛り上がりを見せてくぼんでゆく土のきれはし。孤島としての夜。鳥、とする。象徴の肉片となって虚空に消える物体。ちぎれて、漂って。うっすらとわたしに近づいてく。兆しとしての夜。

 糸井は、渡会と違って「見間違えない」。「不明」のものから出発して、それを「鳥」と「島」へ分離していく。渡会が接近していく(つながることを夢見ている)のに対して、糸井は切断していく。
 1連目が象徴的である。

切れる、途切れる、続かないように、意味をなさないように、断ち切れる、逸れる、浮遊するため、夢のように、夢という言葉のため、夢になるために、消える、在るために、白の、からっぽの、肉体とはよべないものに、なるため、来るため、意味の、身体の軌道を残さないように、身体の意味が不意にあらわれないように、さやかに、白の、ささやかに、結ばれずに、結ばれずに、この、

 「切れる」「結ばれず」--糸井は、最初から、対象と離れた場にいて、そこで浮遊する。対象に言及することは、対象に近づき、つながることであるはずだが、近づき、それに触れながらも、糸井は、ひたすらそこから離れようとする。分離しようとする。そのために、ことばをつかう。そして、

この、

 というふうに、中断する。宙吊りのまま、世界のなかにある。それが糸井の「自在」である。


五月の鳥
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アルチーヌ
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『田村隆一全詩集』を読む(57)

2009-04-17 00:58:48 | 田村隆一

 きのう私は「川」の最終連について書いた。「ある大学教師……」からはじまる6行を最終連と書いた。しかし、それは間違いである。その6行のあと、3行あいて、ぽつんと、

空気遠近法

 という1行がある。これはなんだろう。これを再び「時間」と結びつけるのは、強引すぎるだろうか。

 「空気遠近法」という詩もある。その全行。

やっと人間に出会ったと思ったら
彩画的な色彩主義
あのヴェネツィア派の画法は
消滅していて

空気遠近法だけが生きのこった
この海面下の地下道では
人間はいつでも透明な
少年のままである

その少年を透視しなければ
バロックの世界へ入っては行けない

 これに先行する詩に「光りの縁取(ふちど)り」や「影の会話」という作品がある。そのなかにはアドリア海、ヴェネツィア、レースガラスなどということばがある。
 「空気遠近法」は、そういうことばと関係がある。
 「透明」という遠近法。ヴェネツィアの芸術に触れて、田村は、そういうものを感じた。「空気」には「透明」な遠近法がある、と。
 そこで気になるのは「人間はいつでも透明な/少年のままである」という2行だ。「少年のまま」がとくに気になる。「少年のまま」というのは、そこでは「時間」がとまっているということだ。「時間」が止まった時に、そこに「空気」の「遠近法」が存在する。「もの」の配置による遠近法ではなく、ものとものとの間にある「空気」そのものの遠近法が成立する。ものとものとの間には、実は、時間がある。遠いところには「少年のまま」の時間がある。「少年」が意識されるのは、「手前」つまり近くが「少年」ではなく、「大人」(あるいは老人)だからだろう。

 もうひとつ、気になる作品がある。「秋には色が見えてくる」。

木の葉が落ちる
人も人の心から落ちる
落ちてはじめて葉は春をむかえる支度をする
人の心は人から落ちてはじめて透明になる

心が透明になれば
色彩がくっきりと見えてくる

 「人も人の心から落ちる」「人の心は人から落ちて」。この2行では、「落ちる」もの(主語と仮に呼んでおく)が違う。主語が2行では入れ代わっている。これはどういうことだろうか。
 ふたつのもの、「人」と「心」は仮にふたつの存在として書かれているだけで、ほんとうはひとつかもしれない。それは「少年のまま」の人間のように、「いま」と対比した時にはじめて「遠近法」として浮かび上がってくるもののような存在かもしれない。ほんとうはひとつ。けれどそこに「時間」をおいてみると、ふたつにわかれる。少なくとも「遠近法」が成立するような形で、わかれて存在する。
 それは逆に言えば「時間の遠近法」をその間に挿入しないかぎりは、深く結びついて「ひとつ」であるということでもある。その深い結びつき--深すぎて見えない結びつき、それが「透明」ということなのだろう。

 透明なものに、本来「遠近法」はない。「遠近法」とは「視力」の世界である。視力は「透明」なのものを見ない。見えないから「透明」である。けれども「透明」ということばがあるように、それは「目」ではない何かを通してなら「見る」(認識する)ことができる。
 目で見えない、けれどもなんらかの方法で認識できるもの。それには、いろいろある。「音」もそのひとつだ。そして「時間」もそのひとつだ。

 「秋には色が見えてくる」--しかし、秋以外にも色はある。色は見えるのではないだろうか。秋の色は何が違うか。そこに「時間」が入ってくる余地がある。
 --余地がある、としか、私には書けないけれど、そういう形でしか書けない(言い表すことのできない)ことばの動きが、「ワインレッドの夏至」のなかを駆け回っている。そういうものを感じる。



小鳥が笑った―田村隆一vs池田満寿夫 (1981年)
田村 隆一
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