『新世界より』(1990年)を読む。
田村は何度も同じことを書いている。同じことを書くのは田村だけにかぎらないから、田村もまた同じことを何度も書いている、というべきか。その繰り返しかいていることのひとつに「肉眼」ということばがある。
「人が人になるのには」の「目」の部分。
最後に「五十年かかる」という1行が省略されている。
「肉眼」はここでは間接的に定義されている。青年の時は「肉眼」ではなく「イデオロギーや観念で」ものを、世界を見ていた。イデオロギーや観念を捨て去るのに人間は50年かかる、と田村は考えている。この50年というのは正確に「50年」というよりは、ばくぜんとした「おとな」になるまでの「間」のことである。
なぜ、人間は、イデオロギーや観念でものを見るか。楽だからである。イデオロギーや観念は体系(思考の遠近法)を持っている。それを「もの」にあてはめると、きちんと遠近法ができあがるから、何かを見たような気持ちになる。これを捨てるのは、確かに、むずかしいことだと思う。
だが、どうやればイデオロギーや観念を捨てることができるのか。
「想像の舌」は、そのひとつのヒントである。
「想像の舌」で地平線、水平線に触れる。そのとき「詩」がやってくる。「詩」は「肉眼」で見るものである。「肉眼」でつかむものである。
この詩でおもしろいのは、「肉眼」を「視力」ではなく、「味覚」と「触覚」で代弁していることである。「苦さ」は「味覚」、「痛み」は「触覚」。ふたつの感覚が融合している。感覚がひとつのものであることを超越した瞬間、その感覚器官は「肉眼」になる。「詩」をつかみとることができる「器官」になる。
「肉眼」とは顔のなかほどにあるふたつの器官のことではなく、詩をつかみとる機能、運動のことである。「肉眼」を「もの」の名前ではなく、「運動」にあたえられた呼び名なのである。
「感覚の融合」とは、別なことばでいえば、「感覚」の働きを定義している「固定観念」の否定である。破壊である。「舌は味をみるもの」という固定観念でとらえていては、その想像力をどれだけのばしてみても「地平線」「水平線」にとどかない。「味覚」だけであく、「触覚」もある、そのふたつがまじりあったものととらえるとき、舌は「味覚」を超越する、「味覚器官」という固定観念を破壊する。その破壊の果てに、新しい世界、詩がやってくる。
「白の動き」という作品にも「肉眼」ということばが出てくる。ユトリロの絵から刺戟受けて書いた作品だ。
「イデオロギーや観念」は「特定の思想や、(特定の)感情」ということばで繰り返されている。「特定」のもの、「定められた」ものの拒絶がここでは、繰り返し書かれている。
田村は、「肉眼」を「造形」するものととらえている。それは最初からある肉体の一部の器官ではなく、人間が「造形」する、つくりあげていくものなのである。だから「50年」かかる。最初から肉体に備わっているものなら、「50年」は不要である。
田村は、そして、ユトリロの場合「手」で「肉眼」をつくると考えている。みている。「想像力の舌」ではなく、ユトリロは「手」を動かすことで「肉眼」を手にいれる。
このとき、つまり、私たちがユトリロの絵をみて、そこに詩を感じるとき、私たちはユトリロの「肉眼」を体験していることになる。
ひとは、他人の肉体を体験できる。--これは奇妙なことのようだが、実は日常的にありふれている。だれが見知らぬ人が道端でうずくまっている。そのとき、私たちは自分の腹が痛むわけでもないのに、彼は腹が痛いのだと想像の中で体験している。人間の肉体には、そういう「想像」を誘い込む力がある。ユトリロの「肉眼」がはっきり何かを見たのなら、その「肉眼」とまた絵を見る人の「肉眼」になる。「特定の思想、感情」にとらわれていない、まだ定まっていない(固定していない)何かにふれる。何かを見る。
このことばのなかにある「連動」、そして「連動」のなかにある「動く」ということば。それは「固定観念」の「固定」を否定することばである。動くのだ。「白」がさまざまなものとつながり動く。連動する。それは「白」いがいのものをも揺さぶり、破壊し、動かすということである。
「肉眼」が見る、とは「動き」を見るということである。この「動き」とは、これまで田村の思想を語るのにつかってきたことばで言い直せば、「生成」である。あるいは「誕生」である。
田村は何度も同じことを書いている。同じことを書くのは田村だけにかぎらないから、田村もまた同じことを何度も書いている、というべきか。その繰り返しかいていることのひとつに「肉眼」ということばがある。
「人が人になるのには」の「目」の部分。
目が肉眼になるまでは
五十年かかる
青年の時はイデオロギーや観念でしか
ものを見ていない
海の微風 木枯しの音
世界の影の部分が見えてくるまでには
最後に「五十年かかる」という1行が省略されている。
「肉眼」はここでは間接的に定義されている。青年の時は「肉眼」ではなく「イデオロギーや観念で」ものを、世界を見ていた。イデオロギーや観念を捨て去るのに人間は50年かかる、と田村は考えている。この50年というのは正確に「50年」というよりは、ばくぜんとした「おとな」になるまでの「間」のことである。
なぜ、人間は、イデオロギーや観念でものを見るか。楽だからである。イデオロギーや観念は体系(思考の遠近法)を持っている。それを「もの」にあてはめると、きちんと遠近法ができあがるから、何かを見たような気持ちになる。これを捨てるのは、確かに、むずかしいことだと思う。
だが、どうやればイデオロギーや観念を捨てることができるのか。
「想像の舌」は、そのひとつのヒントである。
きみの舌をできるだけ長くのばせ
その舌が
どんな地平線
どんな水平線に
触れられるものか試してみるんだ
その苦さ
その痛み
想像の舌を長くのばせ
できるだけ
苦さと痛みの感触が
きみの味覚を刺戟したら
詩は
星の光り
あさぎ色の草原の風
黙りこくったまましずかに呼吸している
一本の木
「想像の舌」で地平線、水平線に触れる。そのとき「詩」がやってくる。「詩」は「肉眼」で見るものである。「肉眼」でつかむものである。
この詩でおもしろいのは、「肉眼」を「視力」ではなく、「味覚」と「触覚」で代弁していることである。「苦さ」は「味覚」、「痛み」は「触覚」。ふたつの感覚が融合している。感覚がひとつのものであることを超越した瞬間、その感覚器官は「肉眼」になる。「詩」をつかみとることができる「器官」になる。
「肉眼」とは顔のなかほどにあるふたつの器官のことではなく、詩をつかみとる機能、運動のことである。「肉眼」を「もの」の名前ではなく、「運動」にあたえられた呼び名なのである。
「感覚の融合」とは、別なことばでいえば、「感覚」の働きを定義している「固定観念」の否定である。破壊である。「舌は味をみるもの」という固定観念でとらえていては、その想像力をどれだけのばしてみても「地平線」「水平線」にとどかない。「味覚」だけであく、「触覚」もある、そのふたつがまじりあったものととらえるとき、舌は「味覚」を超越する、「味覚器官」という固定観念を破壊する。その破壊の果てに、新しい世界、詩がやってくる。
「白の動き」という作品にも「肉眼」ということばが出てくる。ユトリロの絵から刺戟受けて書いた作品だ。
彼のオブジェは、教会であろうと、婦人のお尻であろうと、下地は「動いている白」である。
ぼくは、欧米の小さな美術館で、ユトリロに出会うと、わが灰色の青春がよみがえってくるのだ。ある特定の思想や、感情があったら、画家の手は動くまい。画家によって、ぼくらは肉眼をあたえられると思うべきだ。
画家もまた、手によって自分自身の肉眼を造形し、「白」の連動を体験するにちがいない。
「イデオロギーや観念」は「特定の思想や、(特定の)感情」ということばで繰り返されている。「特定」のもの、「定められた」ものの拒絶がここでは、繰り返し書かれている。
田村は、「肉眼」を「造形」するものととらえている。それは最初からある肉体の一部の器官ではなく、人間が「造形」する、つくりあげていくものなのである。だから「50年」かかる。最初から肉体に備わっているものなら、「50年」は不要である。
田村は、そして、ユトリロの場合「手」で「肉眼」をつくると考えている。みている。「想像力の舌」ではなく、ユトリロは「手」を動かすことで「肉眼」を手にいれる。
このとき、つまり、私たちがユトリロの絵をみて、そこに詩を感じるとき、私たちはユトリロの「肉眼」を体験していることになる。
ひとは、他人の肉体を体験できる。--これは奇妙なことのようだが、実は日常的にありふれている。だれが見知らぬ人が道端でうずくまっている。そのとき、私たちは自分の腹が痛むわけでもないのに、彼は腹が痛いのだと想像の中で体験している。人間の肉体には、そういう「想像」を誘い込む力がある。ユトリロの「肉眼」がはっきり何かを見たのなら、その「肉眼」とまた絵を見る人の「肉眼」になる。「特定の思想、感情」にとらわれていない、まだ定まっていない(固定していない)何かにふれる。何かを見る。
「白」の連動を体験する
このことばのなかにある「連動」、そして「連動」のなかにある「動く」ということば。それは「固定観念」の「固定」を否定することばである。動くのだ。「白」がさまざまなものとつながり動く。連動する。それは「白」いがいのものをも揺さぶり、破壊し、動かすということである。
「肉眼」が見る、とは「動き」を見るということである。この「動き」とは、これまで田村の思想を語るのにつかってきたことばで言い直せば、「生成」である。あるいは「誕生」である。
あたかも風のごとく―田村隆一対談集 (1976年)田村 隆一風濤社このアイテムの詳細を見る |