詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鶴見忠良『つぶやくプリズム』(2)

2009-04-04 01:00:51 | 詩集
鶴見忠良『つぶやくプリズム』(2)(沖積舎、2009年03月10日発行)

 きのうの「日記」に書いた鶴見の「桜」の「黄金の雫」。それを味わいたくて、公園へ桜を見に行った。今年の桜はもう満開をすぎていた。桜には申し訳ないが、花びらをちぎってなめてみた。食べてみた。
 私の肉体はぼんくらで、なまけもので、桜の花びらから感じることができたのは、かすかな甘さである。そして、その甘さは、木の低い方のことろの花びらよりも、高いところの方がすこし甘味が強い。ちらちらと梢から落ちてくる花びらは、さらに甘かった。
 「黄金の雫」は感じられないけれど、いや、「黄金の雫」を自分の肉体で感じられなかったがゆえに、鶴見のことばが私にとっては「黄金の雫」である。いっそう、美しく、貴重なものになった。



 「闇の花火」にも、鶴見の「肉眼」の強靱さがあらわれている。全行。

花火は
闇に甘えている

闇は
性懲りもなく
花火を掴みそこねている

闇と花火
どちらが奴隷だ

闇の襞をひき裂いて
血に濡れながら
私達子供は
生まれて来たのではないか

遠く歓声があがる
まぬけな大砲が鳴っている

闇には
闇の腹腸(はらわた)から絞り出す

闇の花火が
あるのではないか

 鶴見が失明していることは、きのう書いた。そして、その失明している「肉眼」が「闇の花火が/あるのではないか」という時、それは、私に対して「闇の花火が見えますか」と問いかけているのにひとしい。「見たことがありますか? 私は失明しているので見えないけれど、それを実感できる。教えてください。闇の花火はどんな形をしていますか?」鶴見に、そう質問されたような気持ちになった。私はそれに対して答えることができない。私の目は甘ったれていて、「闇の花火」を見て来なかった。
 夏、夏の終わりに花火大会がある。そのときは見に行こうと思う。「闇の花火」が見えるか、鶴見に答えることができるものを私は見ることができる。見に行かなければ、と思う。

 それにしても、(それにしても、というのは変な表現であるけれど)、「闇には/闇の腹腸から絞り出す」とは、なんと強いことばだろうか。「闇の花火」も強いことばだが「闇の腹腸から絞り出す」も強い。
 このことばは、それに先だつ「闇の襞をひき裂いて/血に濡れながら/私達子供は/生まれて来たのではないか」と向き合っている。母は子を生む。「はらわた」から「子」を「絞り出す」。きっと、そうである。私たちは、その「絞り出す」力をかりながら、「闇をひき裂いて」生まれてきたのである。そこには「血」があふれている。
 このなまなましい誕生のドラマ。
 きのうの「桜」のなかにも「嬰児」がいたが、鶴見の詩は、人間の再生、新しい誕生を描いている。鶴見が生まれ変わった瞬間を、なまなましく伝えることばをもっている。
 花火大会に行く。そこで鶴見の「肉眼」は花火と闇の戦いを見る。いや、「闇の花火」が炸裂し輝くのを見る。そして、生まれ変わる。赤ん坊となって、母親の胎内からこの世界に飛び出してきたときのように、「血」に濡れて、最初の空気に触れたときのように、力のかぎりに叫ぶ。
 ああ、すごいなあ。間抜けなのは「大砲」ではなく、遠くであがる「歓声」かもしれない。

 作品のなかで生まれ変わる鶴見。ことばは、鶴見にとって「肉眼」そのものである。その誕生、あたらしい「いのち」の叫びと向き合えるよろこびほど、うれしいものはない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(44)

2009-04-04 00:20:11 | 田村隆一
 「暁の死線」の「泉」は何によって見るのだろうか。「肉眼」を超える「肉眼」でるあ。「肉眼」は、田村の詩にたくさん出てくる。「目」そのものがたくさん出てくる。
 「眠れ」には、田村が繰り返し書いていることばがある。

 病院からの帰り道 武蔵野の雑木林のなか
を歩いた 大きな木に出会うとおれは立ちど
まってしまう癖がある おれの目には見えな
い地下の根のひろがりがそのときにかぎって
見えてくるのだ 肉眼とはいったいなにか

 見えるものを見るのが「目」、見えないものを見るのが「肉眼」である。そのとき「肉」とは、深く意識とかかわっている。木の根についていえば、木の根が土のなかにあることを田村は知っている。それがどれだけのひろがりをもっているかは知らないが、その根はたしかに地下にある。その知識として知っているものを「肉眼」はすくいだすのである。田村の「肉体」のなかから。「肉体」のなかからすくいだし、それを見るのが「肉眼」ということになる。
 「死線」の「線」から「泉」をすくいあげ、それを見てしまうのは、「頭脳」ではなく「肉眼」である。肉眼であるからこそ、それは「夜明け」か「日暮れ」を求める。具体的な時間を求める。そして、その時間も、実は田村の「肉体」のなかにある。

 「指と手」には、次のことばがある。

困ったな つまりぼくが云いたいのは ほ
  んとうにものを見るのには工夫がいる
  眼だけひらいていたって見えるはずが
  ないんだ

きみにとっちゃ針の穴かもしれないけど
  ぼくにとっちゃ覗きからくりみたいな
  ものだ しかも故障だらけでさ もの
  が見たかったら 手を動かすんだ 指
  をふるわせるんだ

すると 五本の指には五つの眼が 一本の
  手には針の穴よりももっと小さい穴が
  ついていると云うんですね

や きみにしては巧いことを云ったよ 五
  本の指には五つの眼 それも眼だけじ
  ゃない 鼻も耳も舌もついているんだ
  よ 波に消えさる砂の上の文字も解読
  できるし 猫が夢見る夢だってぼくの
  手は見られるんだ 風の匂い 水の味

 「手を動かす」「指を動かす」--それが見ることにつながる。すべては「肉体」をとおって、はじめて「肉体」のなかで見えてくる。
 「肉体」が「混沌」の「場」である。混沌のなかから、「肉体」が現実をすくいとる。「肉体」のなかの存在と、世界のなかの存在が呼応し合うとき、目が「肉眼」にかわるのだ。
 そして、そのとき、「肉体」と「精神」はまた融合したものになる。

 波に消えさる砂の上の文字も解読できるし

 この1行。「解読」ということば。
 「解読」は単に「文字」を見ているのではない。「これは水であり、氷ではない」というふうに「見て」その形を読んでいるのではない。「文字」には「文字」をこえるものがある。それを把握することが「解読」でである。
 この「解読」を「肉体」にあてはめると……。

 目が見る、目が見た表面的(?)な存在を、鼻、耳、舌、手、指のなかをくぐらせ、鼻、耳、舌、手、指にもわかるようにすることを「解読」というのだ。全身で「解読」する。そのとき、目は、いまそこにある存在を自分の「肉体」の内部に見ることになる。
 「肉体」の内部にあるものは、世界の「内部」にあるものと呼応する。
 たとえば木。大きな木。それは地中に根をひろげている。その根は、人間でいえば、肉眼とつながっている鼻、耳、舌、手、指なのである。大地のなかに木が根をひろげていると「解読」するのは、目だけの力ではない。

 

 

砂上の会話―田村隆一対談 (1978年)
田村 隆一
実業之日本社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鶴見忠良『つぶやくプリズム』

2009-04-03 10:32:03 | 詩集
鶴見忠良『つぶやくプリズム』(沖積舎、2009年03月10日発行)

 鶴見忠良の「つる」は正確には、「雨」冠、その下の左に「金」、右に「鳥」という漢字。表記できないので「鶴」で代用している。
 いまは桜の季節。その「桜」を描いた詩。全行。

わたしはなぜこれまで桜の匂いに
気がつかなかったのだろう
花見時がやってくるたびに
「つまらん」と歎いては
そっぽを向いたもんだ
知命の年をはるかに越えた今
はっきりと桜の花を捉えることができる
さだめなく風のうねりに揺られゆれて
なんと清らかなパルファン
木の間を渡る小鳥たちの
鮮やかな囀り
青空をいっそう
底深いものにしている

なめる
食んでみる
光の当り具合によって
少しずつ 味がちがう
苦い悔の底に
黄金の雫が
こぼれている

花びらのもとに静寂が漲る
咲き乱れる嬰児の
まぶた
それは
せせらぐ
無数の雪洞(ぼんぼり)である

 鶴見は失明している。花見を「つまらん」と拒絶していたのは、そのことと関係しているかもしれない。しかし、花は見るだけのものではない--と気がついたと、鶴見は書いている。
 2連目が非常に美しい。
 私は桜の花をなめてみたことがない。食べてみたこともない。だから、味を知らない。色とかすかな匂いしか知らない。だから、どぎまぎしてしまう。花に味がある、ということを知らされて、どぎまぎしてしまう。
 しかも、その味は、光の当たり具合によってちがうという。たしかに、色も光の当たり具合、日向に咲く桜と日陰に咲く花ではちがうから、味もちがうだろう。それは、鶴見に言われて初めて知ることである。知る、と書いたが、実際は、私はまだ、その味を知らない。想像しているだけである。
 そして、その想像のなかで、私はさらに驚く。

苦い悔の底に
黄金の雫が
こぼれている

 「苦い悔」とは、花見を拒絶しつづけ、その結果として、この詩を書くまで桜の「味」を知らなかった、知る機会を失ってきたということに対する「悔い」のことである。そして、その「悔い」があるからこそ、「黄金の雫」に鶴見の舌は触れる。舌だけではない、鶴見の内臓全部、からだ全部が、その内部から黄金の雫にあらわれて、美しくよみがえる。いや、新しく誕生する。
 そのよろこび。
 それが3連目だ。
 「嬰児」ということばが出てくるが、これは、誕生したばかりの鶴見自身の姿である。鶴見は失明しているが、誕生したばかりの鶴見は、まぶたをとじて、黄金の雫が、まぶたの奥を流れていくのを感じる。せせらいでいるのを感じている。
 それは、雪洞のようにあたたかな光を抱いている。無数の、ゆれる光。
 鶴見は、それを「静寂」のなかで見ている。「静寂」のなか、というのは、全身が誕生したばかりの「目」になって、その光を見ているからである。聴覚は、そのとき、鶴見の肉体から身を引いている。

 私は何度も何度もこの日記で、感覚の融合の美しさ、不思議さに肉体を感じると書いてきた。そういうものが感じられないと、そのことばが信じられないと書いてきた。鶴見のことばは、そういう働きとはまったく逆の肉体があることを教えてくれる。

 あらゆる感覚が、たったひとつの感覚に統合されて、純粋に、その感覚自体になる。聴覚も、触覚も、味覚も消える。いま、鶴見は、純粋視覚になって花を見ている。あたらしく誕生した鶴見という嬰児が、まだだれもみたことのない花を見る視力そのものになっている。もし、そのとき音楽が聞こえたとしても、そしてそのとき鶴見が何かに触り、その感触をたとえばやわらかいとか、あたたかいとか感じたとしても、それは聴覚や触覚の仕事ではなく、彼の視覚の仕事だ。鶴見は、目で、音楽を見ている。小鳥の囀りを聞いている。目で、桜の花に触っている。目ですべてをとらえているので、そこにどんな音が存在しても「静寂」がみなぎっているとしか、言いようがない。書きようがない。
 そういう「肉体」の一瞬があるのだ。

 桜を見に行こう。いや、桜をなめに行こう。食べに行こう。今年の桜は開花がはやく、もうだいぶ散っているけれど、まだ間に合う。鶴見が味わった「黄金の雫」は私にはどんなふうに感じられるだろうか。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(43)

2009-04-03 00:31:19 | 田村隆一

 『5分前』(1982年)の巻頭の「暁の死線」。書き出しの2連がとても好きだ。

どんな夜明けの五分前
どんな日暮れの五分前

午睡からさめて
時計をみたら いつまでも五分前にはならないのだ

 なぜ「五分前」? それがわからない。だから、この詩が好きである。あるひとつの何か、その手前、そういう感覚。
 たどりつく前のある一点(ある時間)。そこにたどりつけば、その先が、たどりつくべきものが見えるのか。見えるかもしれない。けれども、そのある一点(ある時間)にもたどりつかない。
 ここは、どこ? いつ? それがわからないときでも、その先の先に、たとえば「夜明け」あるいは「日暮れ」というものがあるとわかる感じ。
 この、おしひろげられた「間」の不思議さ。ここには、ことばにならない何かがある。
 この詩は「顔のない女」→「幻の女」→「暁の死線」と、連想が動いていく。そして、田村は、ウィアム・アイリッシュのDead lone の訳に悩んだ、と告白している。そのあと、

それでは そのままgoといういことになって
Dead lone は「死線」になった
死線の線には
泉があるから

夜明けなのか
日暮れなのか

ひっそりと
告げてくれると ぼくは
思う

 おしひろげられた「間」--そこに、「泉」が浮かび上がる。「死線の線には/泉があるから」というのは、漢字「線」を「糸」と「泉」にわけて、そういっているだけなのだが、その「糸」と「泉」にわけるときの、そのとき生じる「間」が、「五分前にならないのだ」の感覚に、不思議と重なって感じられる。
 そこから浮かんでくる「泉」、その「間」に見えてくる「泉」。それをなんと読んでいいのかわからない。私が、いま書いているのは、感想にもなっていいない、たんなることばなのかもしれない。私は、私の感じていることをうまくいえない。
 だが、なんといえばいいのだろう。
 私には「泉」がみえる。私の見ている「泉」は遠くにあって、うっすらとその水面が光っている。その輝きはたしかに、「いま」が「夜明け」なのか「日暮れ」なのか、告げてくれるような感じがする。--というか、そういう「泉」を、ふっと見てしまうとき、それはたしかに「死」とつながっているような気がするのだ。
 不思議な予兆。予感。

 いままで、私が書いてきたことばでは語れない何かが、この詩にはあって、それを私は美しいと感じる。


泉を求めて―田村隆一対話集 (1974年)
田村 隆一
毎日新聞社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水野るり子「ラプンツェルの鐘」

2009-04-02 09:57:53 | 詩(雑誌・同人誌)
水野るり子「ラプンツェルの鐘」(「ラプンツェルのレシピ」2009年03月27日発行)

 水野るり子「ラプンツェルの鐘」はグリム童話を題材に9人が詩を書いているなかの1篇である。「ラプンツェル」をどう料理できるか--という競作のようである。
 私は、水野の作品がいちばん気に入った。そこには音楽があったからである。

口のなかで
飴玉をころがすように
呼びかけてみる
ラプンツェル…
ラプンツェル…って
ほら、鐘の音が響いてくる
クラン クラン マリーン
 …呼ぶのは
 だれだい
 だれなの
 かわいい娘なの
クラン クラン マリーン
 ちがうわ、それはわたしじゃない
でも、空の水たまりに
息を潜めていた水夫たちが
ぬきあし さしあし
耳のおくの塔に降りてきて
クラン クラン マリーン…
こっそり鐘を突きはじめる

 童話をどうとらえるか。それは人によって違うだろう。私は、それは「読む」というより「聞く」ものだと感じている。聞きながら、消えていくことばを追いかけるように、想像力が逸脱していく。そのときのリズムが(音楽が)童話だと思う。「意味」ではなく、ことばが自在に動く、その一種のでたらめさのなかにある何か--ことばをつらぬく音楽がないと、童話は、どうしても「教訓」になってしまう。「教訓」ではおもしろくない。楽しくて、こわくて、こわいことが楽しくて、ついつい想像してしまう何か。あるいは、楽しくて、でも泣きたくて、その矛盾が好きで、ついつい想像してしまう何か。水野のことばのリズムは、そういうものをつかんでいるように感じられる。
 「空の水たまり」というありえないものが楽しい。「息を潜めていた水夫たちが/ぬきあし さしあし/耳のおくの塔に降りてきて」と肉体に迫るこわさが気持ちがいい。「耳のおく」から入ってくる音が「こころ」を乱暴につかんでゆく。その乱暴さに、なんだか、わくわくする。
 後半も、童話のお手本通り、こどもなら思わず目をつむりながらはっきり見てしまう何かが、音楽のままつづいていく。

ひややかな月の色に染まって
かたむいている
とんがり帽子の塔をむずむずさせて
ねえ、ねえ、きいてよ
お母さん
ラプンツェルって
魔女に食べられてしまった娘?
さあどうだかね
台所で長い竹箸を
リンゴに
突き刺したまま
振り向いたお母さんの口が
耳まで裂けている



ラプンツェルの馬
水野 るり子
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(42)

2009-04-02 00:21:57 | 田村隆一

 「ぼくは人間である」のでは「ない」。人間に「なる」。では、その人間に「なった」ぼくとはだれのことだろうか。「他人」である。
 「夜明けに目ざめ身を清めてから」に「他人」ということばが括弧付きで出てくる。1連目である。

人間の悲惨の証人は
軍人と僧侶と医師である
というのが
フランスの「さかしま」の作者の意見だが
それでは
人間の心と頭脳の秘密を盗むのは
探偵とスパイと詩人の仕事ということになる
軍人と僧侶と石は
固有のユニフォームに身を固めているがゆえに
見えない人である
探偵とスパイと詩人は
「他人」の服装をしているからこれもまた
見えない人である

 「見えない人」。軍人、僧侶、医師--それは「職業」として存在する。彼らと接するとき、人は、彼らを職業としてしか見ない。彼ら自身の精神的事情、感情的事情を配慮しない。そういうものは「見ない」。そして「見えない」
 一方、探偵やスパイは、その職業を知られると仕事にならない。彼らは「職業」を隠し、まったく未知の「他人」でなければならない。田村は、これに詩人もつけくわえている。人にとって、常に未知の存在であること。それが詩人の場合も存在意義なのである。「他人」であり、個人として理解されないこと、特定されないことが詩人の条件なのである。
 これは「個性」こそが詩人の条件という定義(そういうものがあると仮定しての話だけれど)からは、はるかに遠い考え方である。しかし、田村は、たしかにそういうものを詩人に求めている。「個性」であってはならない。「固有名詞」であってはならない。「固有名詞」としての存在であってはならない。「固有名詞」の「固」は「固定」の「固」に通じる。詩は、固定された世界であってはならないからだ。
 「ある」のではなく「なる」。「固有」のものを破壊し、「固有」ではななくする。そして、そこからあらたに「他」として生まれ変わる。その運動が詩だからである。
 2連目に書かれていることは、この補足である。

ヒゲやカツラとおなじように
思想も観念も偽装にはきわめて有効である
その点
感情はきわめて危険である
とくに憐れみの感情の危機的な
破滅的な暴力を描いたのはイギリスのカトリック作家である
したがって
感情的な人は詩人とはもっとも遠いところにいるものだ

 詩人は感情をもっていてはいけない。これは、持続した感情をもっていたはいけない。持続した感情として「固有の存在」であることを証明してはいけないという意味である。持続した感情は、「個人」が「他人」に生まれ変わることを邪魔する。とくに「憐れみ」は「個人」と別の「個人」を強く結びつけ、「他人」を排斥する。「憐れみ」は「個人」を「隣人」にしてしまう。「憐」と「隣」という文字が似ているからいうわけではないが、それは深いところで強くつながっている。
 それは詩から、たしかに、遠い。
 詩は常に固く結びついた世界の絆を切り離し、人間を自由にするものだからである。人間を世界に結びつけるあらゆるものは詩からは遠い。少なくとも、現代詩からは遠い。現代詩とは世界からことばを解放する、そして人間を自由にするものだからである。

 この作品には「個人」ということばも、「他人」と同じように括弧つきでつかわれている。

人間の典型は十九世紀的概念だが
その概念が破産すれば
意識の流れのなかに
諸断片となった人間は
金色のウイスキーをのみながら漂うだけにすぎない
スコットランドの地酒が欧米で国際化されたのは
第一次世界大戦後のことだ
まるで薬物を飲むように
ウイスキーを飲むようになったのは
「個人」がいなくなってからのことだ

 この「個人」とは「他人としての個人」である。第二次大戦という悲惨以前には、「個人」とは常に「他人」と同義であった。しかし、第二次大戦の悲惨が「他人」を「個人」として認めなくなった。「他人」のままでは「悲惨」な状況をのりこえることができない。連携が必要である。たとえば「軍人」「僧侶」「医師」というような「職業」の分担が必要である。

 人はウイスキーを飲む。田村はウイスキーを飲む。その理由を、田村は、ここに書いている。「個人」から「他人」にもどるためである。「個人」は特定の世界に結びついている。そういう拘束を断ち切り、「他人」になって世界を漂うためである。
 詩のなかで、田村は、「他人」になる。だれでもない存在になる。そして、世界を存分に、自由に味わう。そのために、ことばを、詩を書く。書きつづける。



インド酔夢行 (1981年) (集英社文庫)
田村 隆一
集英社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨恵子『私の男』

2009-04-01 12:02:17 | 詩集
嵯峨恵子『私の男』(思潮社、2009年03月08日発行)

 「映画」からヒントを得て書いた作品がある。私は、そんなに映画を見ていない。嵯峨の取り上げている映画で見ていないものもある。ただ、見ている映画の範囲内で言うと、どうも嵯峨の書いていることがぴんとこない。しっくりこない。
 「アデルの物語」は、トリュフォーの「アデルの恋の物語」を題材にしている。延々とストーリーの紹介がある。そのストーリーは私の記憶しているものと同じなのに、そして、私は「アデルの恋の物語」はとても好きな作品なのに、なんだか遠い感じがする。なぜなんだろう。
 最終連。

私が思い出すのはアデルだけ。ピンソンも下宿先の夫婦も、本屋も記憶からは遠い。アデルだけが強く、ひたむきで埃にまみれてさえ美しかった。十八歳のイザベル・アジャーニ、いや、アデル・ユーゴは。

 あ、そうなんだ。嵯峨は、まずイザベル・アジャーニの恋という感じで映画を見て、いや、これはアデル・ユーゴなんだ、と思っている。美しかったのは、アデル・ユーゴなのだと。アデル・ユーゴの激情が美しかったのだと。きっと、嵯峨は、映画のストーリーを見ていたのだろう。
 私は、映画をそんなふうには見ない。ストーリーは、どの映画でも、まったく関係ない。だから推理ものでも、犯人が誰か聞かされても、(いわゆるネタバレ)、私はぜんぜん気にならない。たぶん、私の見方が間違っているのだろうけれど。
 私はアデル・ユーゴの物語と思って見はじめて、(それはイザベル・アジャーニを見てから10秒くらいなものだと思う)、そのあとはイザベル・アジーャニの恋だと思って見てしまう。アデル・ユーゴは、どこかへ消えてしまっている。俳優のもっている肉体、その感情を見てしまう。見とれてしまう。目と、鼻と、その唇がどんなふうに動くかしか見ていない。
 私も、この映画ではイザベル・アジーャニしか覚えていない。
 そして、だからこそ思うのだが、嵯峨はイザベル・アジャーニしか覚えていないと書いているけれど、その肉体は「寝汗」(4連目)「雪の日の赤い鼻」と「涙」(6連目)しか書かれていない。
 なぜ?
 詩のことばは、ストリート向き合うのではなく、スクリーンの映像、映し出される役者の肉体と向き合わないと、詩にならないのではないか。ストーリーの紹介なら、映画のパンフレットにまかせておけばいいのでは、と思ってしまう。

 ただし、そういう「映画詩」のなかでは、「おばあちゃんに聞いてごらん」はとてもおもしろかった。「ベルヴィル・ランデヴー」というフランス・アニメについて語った詩である。
 1連目と2連目。

おばあちゃんはなんで片足が短いの?
孫のシャンピオンを選手になるまでトレーニングさせるの?
なんでピアノと太鼓かじょうずなの?
おばあちゃんに聞いてごらん
おばあちゃんは何でも知っている

犬のプルートはなんで電車が通るたびにほえるの?
えさはシャンピオンの食べ残し?
ブルーノはなんで自動車やボートを押せるの?
おばあちゃんに聞いてごらん
おばあちゃんは何でも知っている

 この作品では、映画の断片は紹介されているが、ストーリーは紹介されていない。というより、ストーリーと切り離して、余分なことばかりが書かれている。ただし、見た人なら、ここに書いてある映像を思い出すことができる。そして、ストーリーを思い出しながら、結局、おもしろかったのはストーリーではなく、嵯峨が書いている余分なこと--ストーリーから逸脱していく余分なものだったことがわかる。
 たとえばおばあちゃんの片方が短い足。それをあらわすための片方だけヒールの厚い(高い)靴。そのカリカチュアされた肉体と、その肉体を受け入れて生きていく生き方(!)。人生とは、何かを受け入れながら生きていくこと、という姿勢。そこからはじまる、ほんとうに余分なこと。余分--といっても、たぶん、それは余分ではない。きっと、ほかにも方法があるはずなのに、そういう方法をとらずに、一人一人「独自の」方法をとるために生まれてくる「ずれ」なのかもしれない。そして、そういう「ずれ」にフランス人の癖がでていて、それが楽しい。2連目の、ブルーノが電車に吠える理由も、映画を見ているひとならわかるけれど、けっさくでしょ? おいおい、ほんとうに、犬がそんな理由でほえるかい?とちゃちゃを入れたくなるけれど、そんなふうに「論理立てる」のがフランス人なんだろうね。
 ストーリーを分断する余分なもの、ストーリーを逸脱して存在するものをピックアップしながら、それを

おばあちゃんに聞いてごらん
おばあちゃんは何でも知っている

 というリフレインのなかに閉じ込めていく。
 そのリフレインは、なんとういのだろう、この映画のテーマ、自分のできることをしながら世界を完結させ、その自分の世界を充実させて遊ぶという構造にぴったりあっている。
 この映画の登場人物たちは、みんなそれぞれ自分にできることをしている。しかも、どんなときでも楽しんでいる。世界がどうなろうと関係ない。歌を忘れずに生きている。その歌は、たしかに「おばあちゃんに聞いてごらん/おばあちゃんは何でも知っている」と歌っていたかもしれない、という気持ちになる。映画のなかの歌(主題歌?)は「コンスタンチノープルと韻を踏むのは難しい」とかなんとか歌っているのだが、きっとそれは間違いで、ほんとうは「おばあちゃんに聞いてごらん/おばあちゃんは何でも知っている」なんだよ、といいたくなるくらいに、この映画にぴったりである。
 詩集中、この1篇は傑作である、と思った。



 「ベルヴィル・ランデヴー」は、フレンチ・アニメの大傑作。フレンチ味がいっぱい。音楽のつかい方が素朴で楽しい。
 ぜひ、映画も見てください。DVDも紹介しておきます。


私の男―Mon homme
嵯峨 恵子
思潮社

このアイテムの詳細を見る

ベルヴィル・ランデブー [DVD]

ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロン・ハワード監督「フロスト×ニクソン」(★★★★+★)

2009-04-01 11:04:14 | 映画

監督 ロン・ハワード 出演 フランク・ランジェラ、マイケル・シーン、ケビン・ベーコン

 この映画は一箇所、非常におそろしいシーンがある。フロストがニクソンを追いつめ、「大統領が法なのだ」と言わせたあと、当時を回想したシーン。フロストに協力したひとりが言う。おおよそ、次のような内容である。
 「映像はすべてを切り捨てる。短絡化する。ひとはニクソンが追いつめられ、告白した一瞬のテレビ画面しか覚えていない」
 これはほんとうである。わたしたちは、全体をじっくり検証して何かを判断するのではなく、一瞬の表情で全部を判断してしまう。物事をひとつひとつことばにして、論理的に矛盾がないかどうかなど、気にしないのだ。論理が破綻する、その一瞬。そのときの表情。それだけで、その論理全体を一気に否定する。否定的な判断を下す。
 その判断は、間違ってはいないだろうけれど、たしかに何かを省略している。重要な「過程」を、その「表情」を引き出すまでにつみかさねてきた「過程」を一瞬のうちに忘れさせる。「ほら、やっぱりニクソンが悪かった、とんでもない奴だった」と簡単に判断して、では、そういった悪事が再びおこらないようにするためには何をすべきなのか、ということを考えなくなる。何を、どうすればニクソンのやった犯罪を防げるかは、その表情を引き出すまでの「過程」のなかにこそ手がかりがあるにもかかわらず、である。
 この映画は、映画でありながら、映像文化を厳しく批判している。それがおそろしい。とても冷めた映画である。

 映画は、フロストがニクソンを追いつめていく過程を映像化している。そこには、おもしろい対比がある。
 フロストは軽薄である。マイケル・シーンは「クィーン」(★★★★)のなかでブレア首相を演じ、クィーンから「にやけ顔のブレア」と呼ばれた役者だが、実際、顔がにやけている。とてもニクソンを追いつめるような男には見えない。それはニクソン自身も感じたことなのだと思う。くみやすい相手だと思い、インタビューに応じることにしたのだろう。(何回か金の話が出てくるが、金もそうだが、相手の顔の印象が影響しているだろう。)
 実際に、インタビューがはじまると、ニクソンの独壇場である。質問に対し、延々と一般論で語りつづけ、質問させない。インタビューの時間を演説でつかいきってしまう作戦である。そのとき、フロスト、マイケル・シーンの顔からにやけた印象が消える。笑っていられない。反撃の機会をなくして、うろたえて、椅子に沈み込む。
 このとき、私たちは、ニクソンとフロストの対話など聞いていない。二人の表情から、あ、ニクソンが勝っている、とだけ思う。ニクソンは、ちょっとちゃちゃを入れたいような、おかしな話もするのだか(実際、私は何度か声を上げて笑ってしまったが)、何を話したのだったか、よく思い出せない。ただ、フロストの姿勢が崩れ、顔が低くなり、後ろにさがり、背を自分で支えるのではなく、椅子の背もたれにあずけ、反撃できないというより、ただひたすらニクソンの攻撃をなすすべもなく浴びているという印象だけをもってしまう。
 インタビューのほとんどは、ニクソンが圧勝しているのである。
 ニクソンは非常に堂々とした男であり、フロストは軟弱な、たかがテレビのパフォーマーという印象しか残さない。
 途中には、二人の対比として靴の話が出てくる。フロストの履く靴が甲を解放したイタリア製の紐なしであるのに対して、ニクソンはあくまで甲をしっかりと固定する紐のある靴を履いている。ニクソンは「あの靴を見たか。イタリア製だ。紐なしで女っぽい」。そのことばのように、二人の対決は、攻めるニクソン(男)、うろたえるフロスト(女)という単純化した「映像」に収斂する。映像は、すべてを、簡単に短絡化するのである。
 これが、最後のインタビューで逆転する。
 そこでかわされる対話については省略するが、この大逆転の、勝利の一瞬の映像の処理がとてもすばらしい。
 最初に書いたフロストの仲間の「映像は短絡化する。ひとはニクソンの顔しか覚えていない。見ていない」というせりふを追いかけるようにして、実際のテレビモニターのなかにニクソンの最後の表情を映し出す。それもテレビ画面は斜めになっていて、あっ、ニクソンが絶望しているということがわかる範囲で、ぎりぎりの短い時間だけ、映し出す。映画なのに、映画のカメラがとらえたニクソンのアップではなく、あくまでテレビ--一般の人が見たであろうテレビのモニターのなかのアップを見せる。これは、うまい。ほんとうに、うまい。映画を見ているはずなのに、一気に、ニクソンがインタビューに応じたその時代、その瞬間、その敗北の瞬間に観客を引き込む。ああ、そういうことがあった、と、そのテレビを見ていない私でさえ思うのだから、実際にアメリカでそのテレビを見てひとはきっとその時間に引き戻されたことだろうと思う。
 どんな映像でも、その映像を受け入れるモニター(スクリーン)の大きさと、それにあわせたアップの大きさ(対象への接近の仕方)がある、ということも、ロン・ハワードは熟知しているのかもしれない。最後の最後、だめ押しの表情をテレビでなく、スクリーンでとらえた方が表情ははっきりするし、映画らしくもなるのだが、それではニクソンとのインタビューがつくりものになってしまう。リアルを超越してしまう。リアルを超越していい映画と、超越してはいけない映画があって、この映画はあくまでリアルに踏みとどまる映画である。(そのために映像文化批判までしている。)
 ロン・ハワードは特別に好きな監督というわけではなかったが、この最後の映像で、とても好きになってしまった。--あ、きっと、こんな感想も、きっと「短絡的」と批判されているのだろうけれど。


アポロ13 (ユニバーサル・ザ・ベスト2008年第1弾)

Universal Pictures Japan =dvd=

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(41)

2009-04-01 00:03:33 | 田村隆一
 人間とは何か。田村は人間をどのように見ていたか。短い詩がふたつある。「装飾画の秘密」。

猫は一瞬のうちに猫になるが
人間はそうはいかない
光の部分と陰の部分でできているからだ

女性が女性になるためには
軽快なリズムと多彩の色調で
縁取られた時間がいる

神の眼から見れば
猫も人間もおなじ時間のなかで
生きているのだが

画家の眼から見たら
人間は物と交感することで人間になるのだ
とくに女性は装飾のなかで

装飾は流行ではない
装飾には内的な持続があり その時間が
女性に生命をあたえるとしか思えない

まだ だれも
猫の足音を聞いたものはいない

 「人間は物と交感することで人間になるのだ」。この行の「交感」は、次の連で「内的な持続」の「時間」と言い換えられ、「なる」は「生命あたえる」と言い換えられている。ものと交感するときの内的持続をとおして、人間は人間に生命をあたえ、そうすることで人間に「なる」。
 猫は猫になるというよりも「なる」という時間(内的持続)を必要としない。猫は猫に「なる」というよりも、最初から猫で「ある」のだ。人間だけが人間に「なる」のである。内的持続をとおして。

 「受精」という作品では田村は人間と花、蝶と比べている。

人間の見ていないところで
花はひらく

紫色の炎が空から垂れさがり
はげしい驟雨が海のほうへ駈けぬけて行くと

うなだれていた花は光りにむかって
唇をひらく

黒い蝶が通りすぎる
蜜蜂が通る

花は生殖器だから
ぼくは裸体のまま白昼の世界をみつめている

むろん
ぼくは人間ではない

 「ぼくは人間ではない」。では、何なのか。その直前の連が手がかりになるだろう。「ぼくは裸体のまま白昼の世界をみつめている」というのは、もちろん「事実」ではないだろう。比喩だろう。「裸体のまま」というのは。そして、「裸体のまま」であるから、田村は「人間ではない」といっている。「裸体」でないならなら「人間である」。
 「ぼくは人間ではない」の「ない」が重要である。「ない」は「ある」に対して「ない」といっているだ。
 では何なのか。
 「人間」に「なった」のである。
 比喩としての「裸体のまま」。それは、比喩は「ある」ではなく、「なる」である。たとえば、「花は生殖器である」の「生殖器」は比喩である。花は、人間でいえば「生殖器」である。「生殖器」というのは「動物」のものであって「植物」のものではない。比喩である。そして、その比喩をつかったとき、花は生殖器に「なる」。「ある」ではなく、人間の意識のなかで、生殖器に「なる」。
 花が生殖器に「なる」とき、田村は、その生殖器に誘われて「裸体」に「なる」。
 この「なる」というのは、現実というか、客観的な現象ではなく、「内的」なものである。「内的な持続の時間」のなかでおきる現象である。
 そして、こうした「内的持続時間」のなかでおきる変化、花が生殖器に「なり」、田村が裸のままに「なる」という、「なる」の重なり合いを「交感」というのである。

 最終行の「ぼくは人間ではない」とは「ぼくは人間になる」とおなじ意味になる。

 「ぼくは人間である」のでは「ない」。人間に「なる」。「ある」を否定して「なる」へと動く。たどりついたところは、弁証法のように、矛盾→止揚→発展ではないから、簡単にはわからない。「ある」を否定し、解体し、生まれ変わる「なる」も、外見的にはわからない。わかりにくい。すべては「内的持続時間」の問題である。




詩集〈1977~1986〉
田村 隆一
河出書房新社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする