鶴見忠良『つぶやくプリズム』(2)(沖積舎、2009年03月10日発行)
きのうの「日記」に書いた鶴見の「桜」の「黄金の雫」。それを味わいたくて、公園へ桜を見に行った。今年の桜はもう満開をすぎていた。桜には申し訳ないが、花びらをちぎってなめてみた。食べてみた。
私の肉体はぼんくらで、なまけもので、桜の花びらから感じることができたのは、かすかな甘さである。そして、その甘さは、木の低い方のことろの花びらよりも、高いところの方がすこし甘味が強い。ちらちらと梢から落ちてくる花びらは、さらに甘かった。
「黄金の雫」は感じられないけれど、いや、「黄金の雫」を自分の肉体で感じられなかったがゆえに、鶴見のことばが私にとっては「黄金の雫」である。いっそう、美しく、貴重なものになった。
*
「闇の花火」にも、鶴見の「肉眼」の強靱さがあらわれている。全行。
鶴見が失明していることは、きのう書いた。そして、その失明している「肉眼」が「闇の花火が/あるのではないか」という時、それは、私に対して「闇の花火が見えますか」と問いかけているのにひとしい。「見たことがありますか? 私は失明しているので見えないけれど、それを実感できる。教えてください。闇の花火はどんな形をしていますか?」鶴見に、そう質問されたような気持ちになった。私はそれに対して答えることができない。私の目は甘ったれていて、「闇の花火」を見て来なかった。
夏、夏の終わりに花火大会がある。そのときは見に行こうと思う。「闇の花火」が見えるか、鶴見に答えることができるものを私は見ることができる。見に行かなければ、と思う。
それにしても、(それにしても、というのは変な表現であるけれど)、「闇には/闇の腹腸から絞り出す」とは、なんと強いことばだろうか。「闇の花火」も強いことばだが「闇の腹腸から絞り出す」も強い。
このことばは、それに先だつ「闇の襞をひき裂いて/血に濡れながら/私達子供は/生まれて来たのではないか」と向き合っている。母は子を生む。「はらわた」から「子」を「絞り出す」。きっと、そうである。私たちは、その「絞り出す」力をかりながら、「闇をひき裂いて」生まれてきたのである。そこには「血」があふれている。
このなまなましい誕生のドラマ。
きのうの「桜」のなかにも「嬰児」がいたが、鶴見の詩は、人間の再生、新しい誕生を描いている。鶴見が生まれ変わった瞬間を、なまなましく伝えることばをもっている。
花火大会に行く。そこで鶴見の「肉眼」は花火と闇の戦いを見る。いや、「闇の花火」が炸裂し輝くのを見る。そして、生まれ変わる。赤ん坊となって、母親の胎内からこの世界に飛び出してきたときのように、「血」に濡れて、最初の空気に触れたときのように、力のかぎりに叫ぶ。
ああ、すごいなあ。間抜けなのは「大砲」ではなく、遠くであがる「歓声」かもしれない。
作品のなかで生まれ変わる鶴見。ことばは、鶴見にとって「肉眼」そのものである。その誕生、あたらしい「いのち」の叫びと向き合えるよろこびほど、うれしいものはない。
きのうの「日記」に書いた鶴見の「桜」の「黄金の雫」。それを味わいたくて、公園へ桜を見に行った。今年の桜はもう満開をすぎていた。桜には申し訳ないが、花びらをちぎってなめてみた。食べてみた。
私の肉体はぼんくらで、なまけもので、桜の花びらから感じることができたのは、かすかな甘さである。そして、その甘さは、木の低い方のことろの花びらよりも、高いところの方がすこし甘味が強い。ちらちらと梢から落ちてくる花びらは、さらに甘かった。
「黄金の雫」は感じられないけれど、いや、「黄金の雫」を自分の肉体で感じられなかったがゆえに、鶴見のことばが私にとっては「黄金の雫」である。いっそう、美しく、貴重なものになった。
*
「闇の花火」にも、鶴見の「肉眼」の強靱さがあらわれている。全行。
花火は
闇に甘えている
闇は
性懲りもなく
花火を掴みそこねている
闇と花火
どちらが奴隷だ
闇の襞をひき裂いて
血に濡れながら
私達子供は
生まれて来たのではないか
遠く歓声があがる
まぬけな大砲が鳴っている
闇には
闇の腹腸(はらわた)から絞り出す
闇の花火が
あるのではないか
鶴見が失明していることは、きのう書いた。そして、その失明している「肉眼」が「闇の花火が/あるのではないか」という時、それは、私に対して「闇の花火が見えますか」と問いかけているのにひとしい。「見たことがありますか? 私は失明しているので見えないけれど、それを実感できる。教えてください。闇の花火はどんな形をしていますか?」鶴見に、そう質問されたような気持ちになった。私はそれに対して答えることができない。私の目は甘ったれていて、「闇の花火」を見て来なかった。
夏、夏の終わりに花火大会がある。そのときは見に行こうと思う。「闇の花火」が見えるか、鶴見に答えることができるものを私は見ることができる。見に行かなければ、と思う。
それにしても、(それにしても、というのは変な表現であるけれど)、「闇には/闇の腹腸から絞り出す」とは、なんと強いことばだろうか。「闇の花火」も強いことばだが「闇の腹腸から絞り出す」も強い。
このことばは、それに先だつ「闇の襞をひき裂いて/血に濡れながら/私達子供は/生まれて来たのではないか」と向き合っている。母は子を生む。「はらわた」から「子」を「絞り出す」。きっと、そうである。私たちは、その「絞り出す」力をかりながら、「闇をひき裂いて」生まれてきたのである。そこには「血」があふれている。
このなまなましい誕生のドラマ。
きのうの「桜」のなかにも「嬰児」がいたが、鶴見の詩は、人間の再生、新しい誕生を描いている。鶴見が生まれ変わった瞬間を、なまなましく伝えることばをもっている。
花火大会に行く。そこで鶴見の「肉眼」は花火と闇の戦いを見る。いや、「闇の花火」が炸裂し輝くのを見る。そして、生まれ変わる。赤ん坊となって、母親の胎内からこの世界に飛び出してきたときのように、「血」に濡れて、最初の空気に触れたときのように、力のかぎりに叫ぶ。
ああ、すごいなあ。間抜けなのは「大砲」ではなく、遠くであがる「歓声」かもしれない。
作品のなかで生まれ変わる鶴見。ことばは、鶴見にとって「肉眼」そのものである。その誕生、あたらしい「いのち」の叫びと向き合えるよろこびほど、うれしいものはない。