「悲しきサムのための酒場」。この詩のなかで、「場」は大きく変わる。1連目の書き出し。
もう十年以上になる
ホノルルのシナ人の町を歩いていたら
酔っぱらった水兵たちが
三階建ての淫売屋から出てきた
ウイスキーをラッパ飲みしながら
女たちにキスをしてさ
そこから
生殖そのものは商品にならないが
生殖器だけは商品になる
というようなことを考え、歩いているうちに「悲しきサムのための酒場」というバーを見つける。だが、そのバーはしまっている。
そういうことを書いたあと、連がかわって、酒場は日本の「未来」という店になる。「場」が変わっていく。そこでは田村は階段を二度転げ落ちた友人のことを書いている。そして、そのあと「風雅」にいて書き、定家の『明月記』を見よ、と書いて、もう一度「場」が変化する。
昨夜 夕刊の文化欄のコラムを読んだら
ポール・ヴァレリイ晩年の未発表の書簡が約千点 モンテカルロで競売された
スイスのベルン大学バルツェル教授が確認したというヴァレリイ書簡の四分の三は
ジャンヌ・ロヴィトン夫人宛のもので
フランス国立図書館とヴァレリイの生れ故郷
地中海にのぞむセートの市立図書館が落札したという
この変化が、突然、ヴァレリイが出てくる変化が、私はとても好きである。
それまでの各連には「酒」あるいは「酒場」という共通項がある。「場」は変化しているが、そこには「共通」するものがある。ウィスキー。酔うしかない人間の肉体と精神の拮抗がある。肉体と精神は、もしかすると田村のなかでは、矛盾→止揚→発展という運動ではなく、解体・和解という運動の補助線のようなものなのかもしれない。
世界があり、現実があり、そこに肉体がある。そして、そのとき動く精神が、肉体とうまく和解しない。肉体と精神をわけているものが(対立、矛盾させているものが)なんなのかわからないが、その対立を解体するものとしてウィスキーがある。ウィスキーによって、田村は肉体も精神も蕩尽させる。その瞬間に、場が融通無碍に動き、ベクトルだけが残る。
その蕩尽の果て、ウイスキーが消え、突然、ヴァレリイが登場する。
このとき、蕩尽したのは、「肉体」であろうか。「精神」であろうか。
ヴァレリイに引きつけられると「精神」という「答え」(?)に落ち着きたくなる。田村は、ヴァレリイを描写して、あるいはヴァレリイの書いた『テスト氏との一夜』を批評して、
自意識の純結晶
知性の極北
という行も書いている。
人間のことばの運動のあとには純粋な精神が残るのだ。精神こそがベクトルのエネルギーである、という結論をひきだしたくなる。
でも、ほんとうなのだろうか。
落札された書簡はラブレターだったと紹介したあと、詩は、もう一度突然、変化する。突然、マラルメのことばが引用される。
ヴァレリイの悪魔の師マラルメは歌った--
「肉体は悲しい」
この、唐突の飛躍と、中断。(詩は、ここで終わる)。
「肉体は精神に捨てられる」から「悲しい」と、マラルメは言ったのか。--いや、マラルメがどういったかではなく、田村が、そのことばをどうつかみ取っているのか、それが問題なのだ。
「肉体は悲しい」。それは精神に捨てられるからか。あるいは、精神を捨てても捨てても、精神は生き残りつづける。だから、いつまで経っても肉体と精神の矛盾、対立、解体・破壊しながら「いのち」へ逆流する運動は終わらない。だから、「悲しい」と言ったのか。
後者である。
精神は蕩尽しつくせない。「肉体」は純粋に「肉体」そのものにはなれない。その悲しみ。いつも精神に汚染されるしかない「肉体」の悲しみ。田村の詩をつらぬくものは、その悲しみである。「肉眼」になりたいと渇望するが、「肉眼」にはなりきれない。かならず、そこに「精神」が入り込む。
その「精神」を捨てるために、田村はことばを書いている。詩を書いている。私には、そんなふうに思える。
あたかも風のごとく―田村隆一対談集 (1976年)田村 隆一風濤社このアイテムの詳細を見る |