詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『田村隆一全詩集』を読む(50)

2009-04-10 01:08:54 | 田村隆一


 「悲しきサムのための酒場」。この詩のなかで、「場」は大きく変わる。1連目の書き出し。

もう十年以上になる
ホノルルのシナ人の町を歩いていたら
酔っぱらった水兵たちが
三階建ての淫売屋から出てきた
ウイスキーをラッパ飲みしながら
女たちにキスをしてさ

 そこから

生殖そのものは商品にならないが
生殖器だけは商品になる

 というようなことを考え、歩いているうちに「悲しきサムのための酒場」というバーを見つける。だが、そのバーはしまっている。
 そういうことを書いたあと、連がかわって、酒場は日本の「未来」という店になる。「場」が変わっていく。そこでは田村は階段を二度転げ落ちた友人のことを書いている。そして、そのあと「風雅」にいて書き、定家の『明月記』を見よ、と書いて、もう一度「場」が変化する。

昨夜 夕刊の文化欄のコラムを読んだら
ポール・ヴァレリイ晩年の未発表の書簡が約千点 モンテカルロで競売された
スイスのベルン大学バルツェル教授が確認したというヴァレリイ書簡の四分の三は
ジャンヌ・ロヴィトン夫人宛のもので
フランス国立図書館とヴァレリイの生れ故郷
地中海にのぞむセートの市立図書館が落札したという

 この変化が、突然、ヴァレリイが出てくる変化が、私はとても好きである。
 それまでの各連には「酒」あるいは「酒場」という共通項がある。「場」は変化しているが、そこには「共通」するものがある。ウィスキー。酔うしかない人間の肉体と精神の拮抗がある。肉体と精神は、もしかすると田村のなかでは、矛盾→止揚→発展という運動ではなく、解体・和解という運動の補助線のようなものなのかもしれない。
 世界があり、現実があり、そこに肉体がある。そして、そのとき動く精神が、肉体とうまく和解しない。肉体と精神をわけているものが(対立、矛盾させているものが)なんなのかわからないが、その対立を解体するものとしてウィスキーがある。ウィスキーによって、田村は肉体も精神も蕩尽させる。その瞬間に、場が融通無碍に動き、ベクトルだけが残る。
 その蕩尽の果て、ウイスキーが消え、突然、ヴァレリイが登場する。
 このとき、蕩尽したのは、「肉体」であろうか。「精神」であろうか。
 ヴァレリイに引きつけられると「精神」という「答え」(?)に落ち着きたくなる。田村は、ヴァレリイを描写して、あるいはヴァレリイの書いた『テスト氏との一夜』を批評して、

自意識の純結晶
知性の極北

 という行も書いている。
 人間のことばの運動のあとには純粋な精神が残るのだ。精神こそがベクトルのエネルギーである、という結論をひきだしたくなる。
 でも、ほんとうなのだろうか。
 落札された書簡はラブレターだったと紹介したあと、詩は、もう一度突然、変化する。突然、マラルメのことばが引用される。

ヴァレリイの悪魔の師マラルメは歌った--
「肉体は悲しい」

 この、唐突の飛躍と、中断。(詩は、ここで終わる)。
 「肉体は精神に捨てられる」から「悲しい」と、マラルメは言ったのか。--いや、マラルメがどういったかではなく、田村が、そのことばをどうつかみ取っているのか、それが問題なのだ。
 「肉体は悲しい」。それは精神に捨てられるからか。あるいは、精神を捨てても捨てても、精神は生き残りつづける。だから、いつまで経っても肉体と精神の矛盾、対立、解体・破壊しながら「いのち」へ逆流する運動は終わらない。だから、「悲しい」と言ったのか。
 後者である。
 精神は蕩尽しつくせない。「肉体」は純粋に「肉体」そのものにはなれない。その悲しみ。いつも精神に汚染されるしかない「肉体」の悲しみ。田村の詩をつらぬくものは、その悲しみである。「肉眼」になりたいと渇望するが、「肉眼」にはなりきれない。かならず、そこに「精神」が入り込む。
 その「精神」を捨てるために、田村はことばを書いている。詩を書いている。私には、そんなふうに思える。



あたかも風のごとく―田村隆一対談集 (1976年)
田村 隆一
風濤社

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岩佐なを「「狩り」がえし」、小長谷清実「廃墟を見た日」

2009-04-09 10:40:05 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「「狩り」がえし」、小長谷清実「廃墟を見た日」(「交野が原」66、2009年05月01日発行) 

 私は、突然、岩佐なをの詩が好きになってしまった。「気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い」と書きつづけてきたのだが、「気持ち悪い」って、ほんとうは「気持ちいい」ことなのか、と思うくらいの劇的変化である。私がかわったのか、岩佐がかわったのか。岩佐がかわったのだ、と思い込みたいのだが、違うかもしれない。
 岩佐なを「「狩り」がえし」は「拳狩り」と「平手狩り」というふたつのことがらが書かれている。「拳」で殴る。それは「禁止」。「平手」で殴る。それも「禁止」。いわば、「暴力」の「禁止」だね。封じこめられた「怒り」の鬱屈のようなものを書いているのだと思う。
 その、「意味」ではなく、「文体」が、いまは、とても好きである。
 前半。

「拳狩り」があって
はずされたこぶしは首ケ淵に
みんな放りこまれた
虐げられたこぶしはそれぞれ底で
グッと握ったりパッと開いたり
ゆびをわなわなさせたりしている
クヤシイのさ。
ハズサレてさ。
いつかときが満ちこぶしが解かれて
てのひらになったとき
つぎつぎと握手をもとめあって
そこにまたてのひらがかぶさりかぶさり
うりゃりゃ
どでかいこぶしの団子と化して
淵からとびだしていくのさ。
さんじょう、岩石入道っ。

 5行目、6行目。「グッと握ったりパッと開いたり/ゆびをわなわなさせたりしている」の口語の感覚。岩佐のことばではあるけれど、どこかその辺にころがっている(?)、ごくふつうの口語。それが「文語」ではとらえきれない「ことばにならない」感覚を拾い上げる。文学というのは磨き上げられた「ことば」(鍛練されたことばという意味で、私は「文語」と呼ぶ--古典でいう「文語」とは別の意味で、私は「文語」ということばをつかっている)で書かれるものだとすれば、これは文学ではない。たとえていえば「芸能」である。「落語」のような、暮らしのなかにもぐりこんで、その内部をときほぐす口語である。
 いつのころからかわからないけれど(もしかしたら最初のころからなのかもしれないけれど)、岩佐は、この「口語」の領域が突然ひろがり、そのひろがり、その余裕がとても私には気持ちよく感じられるようになった。
 「グッと握ったりパッと開いたり/ゆびをわなわなさせたりしている」という慣用句の口語のあと、口語そのままの会話、「クヤシイのさ。/ハズサレてさ。」という素早さ。倒置法。それから、ぐいっと力をこめて、「意識の文体」がやってくる。「いつかときが満ちこぶしが解かれて」。あ、この「解かれて」という「文語」。「こぶしが解かれて」なんて、「口語」では、けっして言わない。そこには、何か、「あらたまった気持ち」がある。そのあらたまった気持ちにあわせて、「拳」の「次元」が違ってくる。
 拳がてのひらになり、握手し(にぎりしめ)、その力で再び拳になる。
 この変化が、口語、文語、口語という形と響きあう。
 それは、私には人間の怒りが封じこめられ、無力化されたものが、意識の力で怒りを再構築し、よみがえるという運動の形式に重なって感じられる。岩佐は、こういうこと、わたしのつかったような面倒くさいことばでいわずに、口語と、その鍛えられた文体の力で動かしていく。口語にも文体があるのだ、と教えられる。

 後半は「平手狩り」。全部引用したいけれど、「交野が原」を買って読んでもらいたいので、後半の引用は少しだけ。

てやゆびは強くたくましく育って
ついには泥をぬぐってとびだして
御代官や御大尽の(初版では*「御××や御××の」)
クビをグシグシ絞めたものだったぎゃあ

 「初版では」のふいの「注釈」がおかしい。
 「拳狩り」や「平手狩り」の「拳」「平手」は一種の「伏せ字」なのだ。「御××や御××の」と同じように、わかるひとにはわかる。わからないひとにはわからなくてもかまわない、という「伏せ字」。
 岩佐にとって詩とは、この「伏せ字」の共有のことである。
 何かいいたいことがある。でも、それをそのままいうのではない。「わざと」隠していう。別のことばでいいながら、その別のことばでいっていることを「共有」する。隠語だね。そして、くすくす笑う。
 この「笑い」の強さ。--私が最近の岩佐に感じるのは、この「笑い」の強さである。口語で語られる笑い、文字にしたりしないので、すーっと消えていくようだが、逆に文字にはしないという「知恵」によって、するっと逃げ延びながら生きていく人間の力、その共有。
 そのときの、人間の強さを感じる。



 小長谷清実「廃墟を見た日」は、岩佐が「隠語」で語ることを、「比喩」(象徴)にしてしまう。「比喩」「象徴」を共有する時、見えてくるものを提示する。

廃墟のある地域に
旅をしてくる、
そう言って、ずっと前に
別れた男に
時どき出会う

 「廃墟」も「旅」も比喩である。「男」すらも「比喩」であり、「象徴」かもしれない。小長谷のことばを読む時、私は「口語」ではなく、「文語」を共有する--「文語」を共有しないと、小長谷のことばは動いて見えない。
 小長谷のことばは、岩佐のことばより、はるかに音楽的に感じられることがあるが、その音楽は、たとえていえば岩佐の音楽がカラオケで鍛えられた声だとすると、小長谷の音楽はピアノで正確にみがかれた声である。鍛えた声、みがいた声--これは、あまりに比喩的すぎる言い方かもしれないが……。


岩佐なを詩集 (現代詩文庫)
岩佐 なを
思潮社

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わが友、泥ん人
小長谷 清実
書肆山田

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『田村隆一全詩集』を読む(49)

2009-04-09 01:17:09 | 田村隆一

 「千の眼」。これは、逆説である。ヘイリー・ミラーのことばを田村は引用している。そのなかに「千の眼」ということばがでてくる。

子宮の天国と友情の天国との相違は、子宮のなかではひとは盲目だということである。
友だちはきみに、インダラ女神のように、
千の眼を与えてくれる
友だちを通して、無数の人生を経験する。
違った次元を見る。

 「千」は「無数の人生」の「無数」と同じである。「無数の人生」の「無数」はまた「違った次元」と同じ意味である。
 だが、その「千」「無数」はまた「ひとつ」でもある。「千」「無数」は出会いながら、そのひとつひとつを消していくのである。
 田村が、あるいはヘイリー・ミラーが「友だち」にあう。そのとき、田村は田村でなくなる。ヘイリー・ミラーはヘイリー・ミラーではなくなる。田村が消される。ヘイリー・ミラーが消える。いいかえると、「友だち」を通して、生まれ変わる。「友だち」に出会うたびに、田村は、ヘイリー・ミラーは生まれ変わりつづける。生まれ変わるから「別の人生」を、「違った次元」を見ることができる。見ているのは同じ「肉眼」である。
 「友だち」(他人)は、「目」を否定し、破壊し、「肉眼」をめざめさせる。「目」は盲目である。その「盲目」の「目」が叩き壊され、「肉眼」として生まれ変わりつづけるとき、その「ベクトル」としての運動は、ジグザグか一直線か、あるいは複雑な曲線化もしれないけれど、「ひとつ」である。「ひとつ」であるから「ジグザグ」「一直線」「曲線」と名付けることができる。

 それは、つながっている。

 矛盾しているようにだが、田村は、ヘイリー・ミラーは、次々に否定され、破壊され、生まれ変わることで、「千」と「無数」、「違った次元」とつながるのである。それはしかし、矛盾→止揚→発展という軌跡としての「ひとつ」ではない。拡大していく軌跡ではない。むしろ、縮小していく軌跡である。ゼロになっていく軌跡である。
 ゼロになったとき、「ひとつ」になる。
 --私には、矛盾した言語でしか語れないが、そういうものがあるのだ。
 この「ゼロ」を田村は、芭蕉と西脇順三郎を例に、「乞食」ということばで語ってもいる。

松尾芭蕉も西脇順三郎も
詩人になるためには乞食にならなければならないと本気で考え
日夜研鑽したヒーローだった
乞食になるために彼等がどれほど苦労したかわからなかったというエピソードを読むと
乞食が詩人になれるわけがないことがよく分かる

 「乞食」が詩人なのではなく、「乞食」ではなかったものが「乞食」になると詩人なのである。自己否定し、破壊し、「ゼロ」になる。その限りなく「ゼロ」に近い「場」をもとに生まれ変わるとき、それは「千」の「眼」の「肉眼」になって、世界をとらえ直す。その「肉眼」を通ったことばが詩である。
 この「ゼロ」を「無」と言い換えると、東洋哲学に近づきすぎるだろうか。

 だが、どんな哲学も、似た形態をとるのだろう。それをあらわすことばが、それぞれに違うけれど、どこかで共通するのだろう。



泉を求めて―田村隆一対話集 (1974年)
田村 隆一
毎日新聞社

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一色真理「句読点」、松岡政則「平渓線老街散歩」

2009-04-08 11:44:23 | 詩(雑誌・同人誌)
一色真理「句読点」、松岡政則「平渓線老街散歩」(「交野が原」66、2009年05月01日発行)

 一色真理「句読点」に出てくる「弱く」(弱い)ということばを読みながら、「弱い」と書ける「強さ」を思った。

ぼくは体が弱くて
学校を休んでばかりいた
句読点のいっぱいある作文みたいに、

 「弱く」は1行目に出てくる。これは文字通り弱い、病弱、体力が弱いという意味だろう。その「弱さ」を「句読点」と一色は名付けている。
 息継ぎ、そして中断。それは、別の言い方をすると、呼吸をととのえるということかもしれない。「句読点」とは、そういう「中断」の比喩である。比喩であるかぎり、それは「わざと」書かれたものである。そこには、そうした「呼吸」「息のととのえ」「中断」というものが意識的におこなわれていることを意味する。
 自分は、いま、ここで、「わざと」休んでいる。そういう「意識」は「世界」をやはり「比喩」にかえて行く。現実が、一色自身の「わざと」に影響されて、「比喩」へとずれてゆく。
 この過程がおもしろい。
 2連目以降は、次の展開になる。

襖の向こうでは家族がにぎやかに
夕ご飯を食べている

蒲団をかぶってネタふりをしながら
作文を書いていると
枕元をごきぶりが
触覚をふりながら通りすぎた

真っ黒なつるつるした顔のごきぶり
よく見ると眼鏡をかけている

「バガ!」と叫んで
ぼくは書きかけの作文から
句読点をひとつつかんで
投げてやってた

ゴキブリの脚がもげた

句読点をもうひとつぶつけると
下腹がぱっくり裂けて
白いあぶらがいっぱい出た

ぼくはとても気持ちよくなり
満足して朝まで眠った

 「眼鏡をかけている」ゴキブリは、もちろん「比喩」である。「家族」という「文体」を、「句読点」となって、眺め直している一色。そのとき「家族」がゴキブリに見える。「家族」の「句読点」と一色の「句読点」が一致しているなら、そういう「ずれ」というか、「家族」がゴキブリに見えるということもないのだが、呼吸がずれているので、一色と「家族」は「異質」な生き物としてぶつかりあう。
 一色は、自分ではどうすることもできない「弱さ」を訴える。「句読点」をぶつける。こういう「文体」の違いに抵抗する方法は、一色を見守る家族にはない。異質の「句読点」を受け止めるだけである。異質の「句読点」を受け止めることが、たとえ、自分自身にとって不都合であっても。--それが、「親」というものだからである。
 こどもは、自分の、どうしようもない「呼吸」をぶつければ、それで満足する。そして、眠る。
 そういうことをしてきた、と、いま、思い出している。--この「強さ」は、たぶん、一色が「こども」ではなく「親」になった、いま、「親」であるということと関係しているのだと思う。
 こどもがこどもではなく、親になる--というのは自然なことだけれど、そういう自然を、ちょっと悲しいような(なつかしいような)感じで思い出している。そういう人間の自然な「強さ」がある。

ぼくが書いた一番最初の詩の題名がそれだ
「父を殺した小学生」

 そんなふうに思い出すことのできる「強さ」。自然さ。途中にはじめてのセックスのことがちらりと出てくる。この「句読点」にも、人生の、自然の「強さ」を感じる。



 松岡政則「平渓線老街散歩」の詩には「弱い」ではなく、「強い」が出てくる。

商店街の店先で、男がおもちゃのお札を燃やしていた。身ぶり手ぶ
りでたずねると、身ぶり手ぶりで神様へのおそなえものだという。
強い朝。どこからか臭豆腐を揚げる臭いがする。

臺北車站(台北駅)から瑞芳車站まで特急に乗る。指定席をみつけ
ると、もう誰かすわって目をつむっていた。行商風の老女だった。
床に置かれた荷物も膝に抱えた荷物も、どちらも善良だった。

(略)

終点は菁桐車站の改札口を抜ける。何かをあきらめたような、この
薄いひかりならよく知っている。どことはなしに近しい喉も感じる。
土の道もあった。濃い共同体のあることがわかった。

 「強い朝」。この対極にあるのが「薄いひかり」である。
 「強い」は個人的な強さ、ひとりひとりの強さ、競争社会(都会)を生き抜く強さが寄り集まったものだろう。2連目の、行商風の老女に通じる強さである。松岡は台北では、「強い」個人に出会っている。「強い文体」をもった人に出会っている。
 「薄いひかり」は「弱い」に通じる。個人が弱い。そのかわり「濃い共同体」がある。台北では身ぶり手ぶりで個人と対話するが、菁桐では写真を撮らせてくれと頼めば、手ぶりで拒まれ、そこで対話はおわる。個人ではなく、共同体が「強さ」として立ちふさがる。個人ではなく、「共同体」が文体をもっている。
 そういうものと向き合いながら、松岡は、松岡自身の「句読点」を探している。文体(思想)を探している。そして、最終行に、

暮れがたは鐡路の犬の舌もさみしい。

という美しいかなしみにたどりつく。
 旅行とは、さまざまな文体に出会い、自分の文体をあらいなおすことなのだと気づかされる。

 「文体探し」が、この作品では、形の上にもあらわれている。
 「強い朝」。この短いことばのなかにある「漢文体」。大胆な省略と凝縮。それによって、つぎのことばへの飛躍。森鴎外を思い出してしまう。いま、こういう素早い文体を書く詩人を私は知らない。台湾旅行、台湾という漢文の空気が影響して、たまたまこういう文体になったのかどうかわからないが、日本での暮らしも、この漢文体で書いてもらいたいなあ、どうなるかなあ、とふと思った。

詩集 元型
一色 真理
土曜美術社出版販売

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草の人
松岡 政則
思潮社

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トム・ティクヴァ監督「ザ・バンク-堕ちた巨像-」(★)

2009-04-08 10:41:44 | 映画
監督 トム・ティクヴァ 出演 クライヴ・オーウェン、ナオミ・ワッツ、アーミン・ミューラー=スタール

 巨大銀行の悪を暴く、というストーリーだが、ストーリーの消化に追われていて、一人一人の人間がぜんぜん変化しない。悩み、闘い、そのなかで成長する、というのがどんなストーリーにも不可欠なものだけれど、この映画には、それがない。唯一、アーミン・ミューラー=スタールが変化といえば変化するのだけれど、あくまで脇役だし、その変化も微妙。観客を納得させるというようなものではない。やはり、主役のクライヴ・オーウェンか、ナオミ・ワッツが変化しないと……。
 唯一の見せ場は、ゲッケンハイム美術館の銃撃戦。
 展示内容がモニターをつかった映像作品ということで、モニターが壁面、吹き抜けにいくつも展示してあり、それが鏡の役割をする。しかし、それが鏡の役割をする(してしまう)ということに気づく時の映像が間延びして、そこでいったん映画のテンポがずれる。その後の銃撃戦の前の一呼吸といえばいえるけれど、こういう間のもたせかたは私はどうも納得できない。この呼吸をぐいとつめれば、尾行→発覚→銃撃戦→銃撃の急拡大という動きがとてもよくなるのに。銃撃戦がゲッケンハイム美術館の螺旋形の構造をいかしていて、とてもおもしろかっただけに、とても残念。     
 このゲッケンハイム美術館には、すこし付録(?)があって、ニューヨーク市警が手帖を見せて、「警官だ、銃を持ち込んでいいか」と受け付けで聞くシーンや、銃撃戦で逃げそびれた市民が、壁の陰で暗殺グループと直面し「逃げ後れて、じゃましちゃって、ごめんなさい」と謝るという映画ならではのおもしろいシーンがある。
 いかにも「いま」という感じのシーンでは、ナオミ・ワッツが暗殺された被害者の妻と、携帯電話のショートメールで応答するという「小技」も見られる。電話が盗聴されているので、声では応答しないのである。テレビだと見づらいかもしれないが、映画のスクリーンでなら、その短いメールのやりとりはくっきり見れる。(読む、というより「見る」という感じが、映画的でとてもいい。)
 主役の2人のキャスティングにも問題があったかもしれない。クライヴ・オーウェンはどうみてもスケベな感じがするし、ナオミ・ワッツは童顔である。巨大な銀行組織の悪に頭脳と体力で向き合っていくという感じがしない。
パフューム スタンダード・エディション [DVD]

ギャガ・コミュニケーションズ

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『田村隆一全詩集』を読む(48)

2009-04-08 00:00:10 | 田村隆一
 「「つるべ落し」注釈」という作品がある。

「七里が浜より夕陽を見る」という
短詩を鎌倉のタウン誌に書いたことがある


 という2行ではじまる。長い詩である。そして、肝心の(?)「つるべ落し」は出てこない。
 2行のあと、ことばは夏にもどる。


夏には
諸生物の性の歓声で渚は満たされているばかり
おれは
足音をしのばせて古い民家の路地裏ばかりを歩いたものさ


 途中省略して、2連目の書き出し。

人間の精神はおれが生まれた一九二〇年代で崩壊しはじめている
小動物や海鳥や魚たちに歴史がないのは神のイロニイかもしれない
進化だけあって歴史がない
ということは
ダンテの「地獄篇」だけしか読まない青年にとって
すばらしい倦怠かもしれない。


 これが、「注釈」? 「つるべ落とし」となんの関係がある。ことばは方々動き回って、居酒屋で「ぼく」は老医師と出会う。


ふるえる手で安ウイスキーを飲んでいたっけ
あれでは静脈注射だって打てないだろう

 という感慨にまでたどりついて、そのあと、とつぜん「つるべ落し」が出てくる。そして、最後は、

つるべ落し
鎌倉には十二世紀以来の
十井があるけれど
どの井戸にも もう
つるべなんかはありはしない

ぼくは深い井戸をこわごわと覗くように
人間の魂の在りかに
触れてみたい
そこに
どんな夕陽が 赤光が
どんな炎が 沈黙が

つるべ落し 

 どこが「注釈」? 井戸が10ある、ということが?

 「注釈」の「意味」が違うのである。広辞苑では「注釈」を「注を入れて本文の意義を解きあかすこと」と解説しているが、田村にとって「注釈」とはそういうものではない。本文の意義を解きあかすというよりも、本文に近づかないまま、本文を解体することが注釈なのである。「意義」を解きあかすことではなく、「意義」を拒絶し、逸脱していくことが注釈なのである。
 「つるべ落し」から、いったいどれだけ遠くまでことばを動かすことができる。
 完全に離れししまったとき、それは実は「つるべ落し」の背後から、その内部を突き破っているということがあるかもしれない。田村は、そういう運動を狙っている。

悪はエロチックで肉感的だった
善はダイナミックで非実在だった

という箴言や、

ぼくらの世紀末には
精神も肉体も病むことを知らない
病めの花が「悪の華」という珍奇な題に訳されたのも
そのせいだ

 という感想が書かれる。
 「つるべ落し」とどれだけ「無関係」なことを、無関係なまま、ことばの運動として存在させることができるか。そのときの破壊の力、それが「注釈」である。「注釈」とは破壊する力のことなのである。
 あらゆることばとって、それが何を注釈するかはどうでもいいことである。何かを注釈すれば、ことばに意味が出てくるのではない。ことばは何かに従事してはいけない。従事することを拒絶し、それ自体で動いていかなければならない。
 じっさい、田村のこの作品のことばがおもしろいのは、それが「つるべ落し」を注釈しているからではなく、それとは無関係であるからだ。どこへ動いているのか、そのベクトルの方向さえわからない。けれども、そのエネルギーの炸裂の力自体は、どの行も非常に強い。この混沌とした矛盾--それが、田村の詩なのである。

あたかも風のごとく―田村隆一対談集 (1976年)
田村 隆一
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中本道代「帰郷者」、財部鳥子「航海日誌 某月某日」

2009-04-07 08:31:27 | 詩(雑誌・同人誌)
中本道代「帰郷者」、財部鳥子「航海日誌 某月某日」(「鶺鴒通信」春、2009年03月30日発行)

 中本道代「帰郷者」にイノシシが出てくる。
 最近は、自然破壊が進み、山の中ではイノシシも生きていけなくなって、街に出てくる。近くにある動物園の裏山の公園を犬を散歩させていたら、イノシシが山を駆け抜け、周り中の犬が急に色めきだった(?)ときがあった。
 中本の書くイノシシはそれとは、ずいぶん違う。

山すその傾斜地はきちんと区分けされていたのに
田畑の境界があいまいに崩れ
崖の道は尖りを失い
なだれ始めている
夜には猪が押し寄せてくる

猪たちの棲みかは見たことがない
山の奥の人知れぬところ
猪の家族は睦みあうのか

 ここに描かれているのは「猪」でありながら「人間」である。猪と人間が共存している。共存しているからこそ、「睦みあう」姿を猪は人間には見せない。見せないことによって、互いに、暗黙の領域を守るのである。共存とは、そういう不可侵の領域を互いに認め合うことだろう。
 現代の、たとえば私が動物園の裏山の公園で見たイノシシは、そういう不可侵の領域を失っている。したがって、そのとき、人間とイノシシは共存はしていない。ただ、同時に、そこに立ち会っているだけである。
 不可侵の領域を互いにもつとき、そこには不思議な「いのち」の交流がうまれる。

吊り橋の下を谷川が流れ
水音が夕暮れを呼び続けている
冷えていく血族の魔
空ばかり明るい夕暮れの下で
追いかけてくる人の瞳が
猪の色をしている
振り向いたこちらの眼は
猿の色をしているだろうか

ぶどうの果汁を叔父と
風の吹く野原で飲んだ

遠い日
谷川の石の下に埋めたノートから
小さな秘密の文字の群れは流れ果てていったか

 不可侵の領域。そこは「睦み合う」領域、セックスの場である。時間である。人間も動物も、その瞬間、自分でありながら自分ではなくなる。(イノシシではないから、イノシシ猪がどう感じるかは、私にははっきりとはわからないが、きっとそうだと思う。)それは、自分ではない何かを呼ぶ、呼びせるということでもある。それが「血」の「魔」というものだろう。
 そういうものを抒情で言い換えれば「秘密」になるかもしれない。人間の、人間的な、あまりにも人間的なことばで言い換えれば、きっと「秘密」になるだろう。
 そういう領域が、たしかに、かつてはあったのだ。人間の暮らしに。中本は「帰郷者」となって、その「領域」へ帰っていく。帰っていこうとしている。
 不思議な、「いのち」の透明さを感じた。



 財部鳥子「航海日誌 某月某日」に、大型客船で旅行している「雪子さん」が登場する。その雪子さんが、おもしろい。こころにひっかかる。コーヒーを飲む時、クッキーをいっしょに注文する。

まず口のなかに唾液を誘い出さなければコーヒーは飲めないと雪子さんは頑固に信じているのだった。

 「唾液を誘い出す」--このことばが、なぜか、中本の書いている「猪」に私には見えるのだ。
 人間には不可侵の領域がある。自分自身の肉体のなかにも不可侵のものがある。いのちがかってに動いている部分がある。そこから、いのちのうごめきのようなものをひっぱりだす。自分がそのなかへ入っていくのではなく、不可侵のものが、その境界線を破ってでてきてくれるのをまって、その力を借りて、何かをする。
 中本が猪に期待(?)しているのも、きっとそういうものだろう。猪が睦み合う、セックスする(中本は、セックスとは別のむつまじさを書いているかもしれないけれど)、そのときのいのちの力、それを遠くに感じながら人間は生きる。猪の力が、夜、猪としてではなく、そのセックスする力として人間の暮らしに押し寄せてくる--そういう交流のあった世界を中本は描いているように、私には思えた。
 唾液は、たぶん雪子さんにとって、そういう力なのだ。肉体のなかにある、自分でも触れることのできない不可侵のもの、その力が、不思議な形で人間を、雪子さんを励ましにでてきてくれる--そういう至福。
 似たような部分が、もう一箇所ある。

足萎えの老女といえども風の強い十一階の甲板を横切って十二階に聳えているガラス箱のようなバーによじ登り、大きな窓から少し酔いながら眺める海のほうがいい。そこでは潮流と船のエンジンの震えが合奏しているような音楽的な揺れを見せてくれる。これは自分に深い関係があるのだ。いつも雪子さんは心のなかを探してしまう。

 潮とエンジンの合奏、その音楽--それを自分の関係でとらえる。「心のなか」をさがす。何を? その音楽の秘密を。それは、やはりこころの不可侵の領域にあるのだ。自分のこころのなかにも不可侵のものがある。
 この自覚は美しい。
 それは一匹の「猪」かもしれない。「猪」の睦み合う領域かもしれない。
 私は、そう思って読んだ。

花と死王
中本 道代
思潮社

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天府 冥府
財部 鳥子
講談社

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『田村隆一全詩集』を読む(47)

2009-04-07 00:00:05 | 田村隆一
 
 『陽気な世紀末』(1983年)を読む。
 田村のことばは何かを目指さない。何度か書いてきたが、田村のことばは弁証法のような矛盾→止揚→発展という運動の軌跡を描かない。矛盾そのものを破壊する。矛盾というのは、それぞれにあるベクトルを持っているからこそ矛盾する。矛盾を破壊するとは、言い換えれば、存在をきまった方向のベクトルから解放することである。
 「個室113」には「個室113は鎌倉御成町の佐藤病院の部屋」という注釈がある。入院した時の田村の自画像が書かれている。

花は植物の生殖器である
蜂蜜が飛んでくるのはそのせいだ
ときには
黒い揚羽蝶がゆっくりと生殖器のまわりを旋回する
おれは植物ではない
かろうじて地の上に立っている小動物にすぎない
おれの願望は
蜜蜂になること
黒い揚羽蝶になることだ 

おれは
花の蜜のかわりに
トマト・ジュースを飲み
日が暮れるとギネスを飲む

 この書き出し。1連目と2連目。その連を区切る1行空きに、私は、田村の詩を感じる。その断絶に詩を感じる。
 1連目では、花の生殖のことが書かれている。蜜蜂や黒い揚羽蝶は花の生殖を媒介している。自然の摂理を「生殖器」ということばをつかって書くというのは、そんなに風変わりなことではない。1連目は、いわば「流通言語」ともいうべきものだ。この、いっしゅの安定した世界を田村は2連目で破壊する。
 「蜂蜜」は「花」と「生殖器」をひきずっている。「蜂蜜」から「トマト・ジュース」への動きも、なんとなく自然に感じる。蜜蜂や揚羽蝶が蜂蜜を飲むのに対して、田村はトマト・ジュースを飲む。朝の、病室の、ごくありふれた患者の生活である。
 そこへ、突然「日暮れになるとギネスを飲む」ということどはがやってくる。「ギネス」とはもちろんビールである。病院に入院している患者がビールを飲んではいけないということもないのかもしれないが、田村が病人ではないと仮定しても、このトマト・ジュースからギネスへのことばの動きはかなりかわっている。
 何かがいっきに逸脱する。

 書き直そう。
 1連目。
 花→生殖器、蜜蜂(黒揚羽蝶)→蜂蜜、生殖。この関係は、いわば、花と昆虫は互いに矛盾するもの(一方は蜂蜜をあたえ、他方は蜂蜜をもらう、という逆向きをベクトルで表現できる運動)である。その矛盾が出会い、止揚して、そこに「生殖」というものが誕生する。いわば弁証法の運動である。
 2連目は、その花とトマト・ジュースを下敷きにして、さらに自然の「生殖」に関する世界を描写するかというと、そうではなく、「生殖」に関することから一気に離れてしまう。花と昆虫の弁証法を書いてことなど忘れてしまったかのように、違うことを書きはじめる。
 こういう脱線というか、逸脱は、「科学」とは無縁である。そういう逸脱をした瞬間に、ことばの運動は「科学」から逸脱する。また、「散文」の運動からも逸脱する。つまり、詩になってしまう。
 ことばが描きはじめた弁証法を破壊するために、田村のことばを動きはじめる。
 詩は、つづく。

小動物のなかでも
おれくらい不器用なものはあるまい
ビールの栓はぬけるがワインのコルクは苦手だ
果物はバナナとミカン
これだったら不器用な手でも間に合う

 もう、「生殖」のことは、どこにも出てこない。しかし、田村が「生殖」のことを忘れてしまっているかというと、そうではない。
 2連目の最後の3行。

南半球へ逃げ込んだって
カトリックとイスラムの国が多いから
ヌードの写真にはお目にかかれないだろう

 生殖器は、生殖という機能(?)、弁証法的発展から解放されて、「ヌード」という性にかわっている。
 「生殖器」を「性」に解体してしまう、「いのち」の無軌道な放蕩、蕩尽へまで解体してしまう。その解体の過程にこそ、詩がある。そして、それは2連目の直前の「空白」という断絶、「ギネス」という田村特有の逸脱からはじまっているのである。
 だから、この逸脱は、意識的な逸脱であって、無意識な脱線ではない。

 2連目を、全部引用しよう。

おれは
花の蜜のかわりに
トマト・ジュースを飲み
日が暮れるとギネスを飲む
小動物のなかでも
おれくらい不器用なものはあるまい
ビールの栓はぬけるがワインのコルクは苦手だ
果物はバナナとミカン
これだったら不器用な手でも間に合う
小鳥だって不器用なのがいるのだから
おれだけを非難するのにはあたらない
おれの部屋に棲んでいる尾長のタケは悪夢にでもうなされたのか
小枝からころげ落ちて
あわてて這いあがったのを
この目でみた
この目は
世界の崩壊も見てきたはずだ
マルクスとケインズと
フロイトとキルケゴールと
この観念連合でどうにか崩壊のカルテを描いてきたが
この近代的な対処療法も
行きつくところは戦争と革命と反革命にすぎない
北半球も二十世紀末でロボットの焼畠農業に逆行するかもしれない
南半球へ逃げ込んだって
カトリックとイスラムの国が多いから
ヌードの写真にはお目にかかれないだろう

 ここで展開されるのは、いわゆる論理ではない。1行目を2行目が踏まえ、3行目に進む。3行目は、1行目と2行目を止揚→発展させたものではない。むしろ、そういう止揚→発展という運動の形を破壊して行くだけである。
 その破壊の過程に、どんなものを出してくるか。なんの力で止揚→発展という弁償を破壊するか。飼っている尾長鶏(?)、マルクス、フロイト、戦争、革命、ロボット、焼畠農業--まるで一貫性がない。田村という「肉体」のなからか、そういうことばがでてきたということ以外は、何の一貫性もない。そして、そこに「田村の肉体」という「個性」だけがある。
 「個性」によって、弁証法を破壊する--それが田村の詩である。

 「生殖器」から「性」の解放。この運動は、「個室」(3連目)や「浅草」「美しく汚れた町」(4連目)をとおって、次のようにおわる。

花は植物の生殖器だ
おれは小動物の観念形態だ
それで
蜜蜂も黒い揚羽蝶もやってきてくれないのだ
ブランデイと白い薬を飲んで冬の夜明けまで
固い木の寝台で獣のように眠ろう
性的な夢がおれの痩せた肉体に襲いかかってこないともかぎらない

木の寝台から突き出されているのは
二本の足 

 「生殖」から解放された「性」が「いのち」の蕩尽であるように、弁証法的発展(?)から解放されたことばも「いのち」の蕩尽であり、蕩尽しながら、なお、つきることなく存在するものが詩なのである。



砂上の会話―田村隆一対談 (1978年)
田村 隆一
実業之日本社

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朝日歌壇

2009-04-06 15:22:43 | その他(音楽、小説etc)
朝日歌壇(「朝日新聞」2009年4月06日朝刊)

 俳句・短歌はよくわからない。自分でつくることもないので気ままに読んでいるだけだが、ときどき、あ、これは面白いなあと感じることがある。きょう面白いと感じたのは、短歌そのものではなく、選評。永田和宏の選。

歌集読み体言止めに倦みしころ真夜のベランダを転がるバケツ    東   洋
券売機のつり銭ほのかに温かし法隆寺駅までを一枚         太田千鶴子

東氏、上句と下句の間に因果関係がないところが面白い。体言止めが多すぎると単調になる。太田さん、結句「までを」の「を」に注目。

 ちょっと驚いた。結句「までを」の「を」に注目、か。とても繊細だ。31文字と限られているから感覚が千歳になるのではなく、ことばに対して繊細な感覚をもっているから31文字の世界でも、微妙な表現ができるのだろう。そして、その微妙さにきづき、きちんと評価するのだろう。
 東の歌とは関係ないのだが、つまり「法隆寺まで」であったとしてもそれは体言止めではないのだけれど、「を」のひとことが、「単調さ」を緩和している。いや、緩和をとおりこして、なんだか人間性さえも感じさせる。
 「法隆寺駅まで一枚」「法隆寺駅までを一枚」。意味はかわりない。太田はもしかしたら結句を「7字」にするために「を」を使ったのかもしれないが、その「を」によって「法隆寺駅まで」という気持ちを念押ししているように感じる。その、念押しの感覚、時間の一呼吸おいた感じに、不思議な落ち着き、人間の生き方の丁寧さを感じる。
 永田がなぜ「を」に「注目」と書いたのかわからないが、ちょっと楽しい気持ちになった。

後の日々―永田和宏歌集 (角川短歌叢書 塔21世紀叢書 第 100篇)
永田 和宏
角川書店

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鶴見忠良『つぶやくプリズム』

2009-04-06 11:57:47 | 詩集
鶴見忠良『つぶやくプリズム』(4)(沖積舎、2009年03月10日発行)

 「風」が登場する作品をもうひとつ紹介しよう。「別れのバラード」。

夕焼け空に
銀の馬車がとまっている
どの馬も
ひんまがった釘のよう
御者も街も みんな
とうに消えはて
馬車の中では
老いてしわくちゃな赤ん坊が
目をあけたまま
眠っている
風が遠くを
とうとうと流れている
この確かな深い沈黙だけが
なによりの贈物だ
夕焼けの空に
銀の馬車がとまっている
    (谷内注、9行目「あけたまま」の最後の「ま」は原文はをどり文字)

 不思議な静けさと温かさ。ふと、池井昌樹の詩を思い出した。ここには、池井の詩に通じる「放心」のようなものがある。世界に対して無防備である。世界と一体となって、世界を呼吸している。

老いてしわくちゃな赤ん坊が
目をあけたまま
眠っている

 という3行は「流通言語」では矛盾である。老いていれば赤ん坊ではない。目をあけていれば眠ってはいない。けれど、鶴見はそれを矛盾としてではなく、自然なことととして描いている。
 鶴見が書いている矛盾が矛盾でなくなるのは、人間が、時間を「長さ」で考えなくなる時である。どういうことも同時に起きてもいい。じっさい、こころのなかでは、いろんなことが一瞬のうちに、同時におきるではないか。こころの「枠」もとりはらって、ただ世界を呼吸する。(「放心」とは、こころの「枠」をとりはらうことである。)すると、その呼吸のなかへ、世界は一瞬のうちに入ってきて、世界そのものが鶴見になる。
 だから、何が起きてもいい。

 この瞬間も、鶴見は「風」を感じている。その「風」は「遠く」を流れている。けれど、その「遠く」を鶴見は「遠く」ではなく、間近に感じている。放心した瞬間、「時間」ガ消えるのはすでに書いたが、「空間」、その距離も消える。
 「放心」とは、あらゆる「距離」を消してしまうことなのである。
 どこまでが自分、どこまでが世界--そういう「区別」、区切りがなくなる。ただ「いのち」になる。

 この「別れのバラード」は「死」を連想させる。最後の別れの想像させる。けれど、死がこんなふうにして赤ん坊に戻り、世界をみつめたまま、銀色の馬車の中で静かに眠ることなら、死は、少しもこわくはない。

 巻末の「枇杷の花」もとても美しい詩だ。その1部の連だけを引用しておく。ぜひ、詩集を手にとって、全編を読んでください。

生命(いのち)には
なつかしい匂いがある
仄暗い光に似てはいないか
その綾なす糸
かなしみの方が 勝っている

詩集 つぶやくプリズム
〓見 忠良
沖積舎

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『田村隆一全詩集』を読む(46)

2009-04-06 00:38:53 | 田村隆一
 『5分前』の詩集の後半の作品は、私は、どの作品も好きだ。ことばが何かを書くということに従事していない。従属していない。書きたいことが最初からきまっていて、その結論に向かってことばが動いていくというのとはまったく違った動きがある。動きながら、動きそのものを探している。
 --というのは、あまりにも印象的な、印象だけを頼りにした感想だろうか。そうかもしれない。私もまた、何か、このことが書きたいと書きはじめることはない。何を書いていいかわからない。そのわからないものを探しながら書く。私の態度がそういう態度だから、田村のことばがそう見えるだけなのかもしれない。

 「画廊にて」の1連目。


悪夢を見た
その夢にうなされて
木のベッドからぼくは暗い空間に投げ出される

口笛を吹きながら
悪夢を追体験する愉しみに
濃いコーヒーをつくって飲んだ
悪夢は刻一刻と形をかえて
色彩だけが
あとに残った

 「悪夢」から書きはじめて、色彩にたどりつく。そのあと、田村のことばは「藤色」「緑」「赤」というような色をへて「色彩の渦動」のドラクロワの絵について語りはじめる。「シャッロゼーの遠望」というタイトルの絵。その絵のなかで、田村は、田村特有の「矛盾」を発見している。

「遠望」はまさに無言歌そのものの
劇的な存在 人間も 動物も その影はまったく見えない
ながらかな丘陵 その前景には五、六本のありふれた灌木と草原がひろがるばかり
空には
鉛色の雲が鈍重に動いている
たぶん
ドラクロワはその瞬間
アルジェのハーレムに閉じ込められている女たちを
英雄的に描いていたのだ

 手は「遠望」を描く。それを裏切って、「肉眼」は「アルジェの女」を描いている。この関係は、田村のことばの運動そのものである。田村のことばがそんなふうに動くから、ドラクロワの絵もそんなふうに動くのだ。ことばの動きにあわせて、ドラクロワの絵は、ドラクロワの絵であることを超越して、「遠望」から「女」への強烈なベクトルになる。
 そしてベクトルとは、実は、運動というよりも、閉じ込められた運動--閉じ込められた女のような存在、とじこめられた人間の内部のことでもある。運動は存在するのではなく、運動の意思が存在するのだ。
 それは「肉眼」にしか見えない「意思」である。「肉眼」にしか見えないエネルギーである。

 ドラクロワの絵を見ながら、田村はムンクを思い出している。そこには「肉眼」が見た「エネルギー」が次のように語られる。

「芸術は自然と対立するものである。
 芸術作品はただ人間の内側からだけ生まれる。
 芸術は、人間の神経--心臓--頭脳--眼を通して形づくられた形象の姿」
と語ったのは北欧の画家ムンクだが
彼のテーマは「自画像」であって
病気 孤独 嫉妬 不安 病気による死 欲望 恐怖
白夜 氷の国の海と森とが
「自画像」を構成する--
病的な生があるわけではない
生そのものが病気なのだ

 この「病気」とは、田村が用いる「逆説」である。あるいは「矛盾」である。何かしらの不都合なものを人間は人間の内部に発見する。その「何か」が自画像のすべてである。それは人間の肉体のあらゆるものが結ばれる一点にある。それはブラックホールのようにすべてをのみこみ、すべてを「いま」「ここ」ではないどこか、つまり「いま」「ここ」そのもののなかへ吐き出す。吸収し、同時に吐き出す。その矛盾したベクトル、動きの意思、可能性--どう呼んでみても正確にはいえない何かになる。
 矛盾のなかに、すべてがある。
 たむらは、「生そのものが病気なのだ」と書いたあと、一転して、美しい行を書いている。

秋がはじまって
あらゆるものが透明になるとき
ぼくは
画廊のなかにいる
ぼくは
画廊のなかにいない

 ドラクロワを、あるいはムンクを見る。そのとき田村は現象としては「画廊」のなかにいる。しかし、そのとき、田村の動き回ることばは「画廊」を飛び出して、別のところにいる。「シャンロゼーの遠望」を見ながらも、実は見ていない。ほんとうは「アルジェの女たち」を見ている。いや、その絵も見ないで、「肉眼」は実はムンクの「ことば」を追っている。
 そして、そこにいないからこそ、そこにしかいない。
 「レインコート」の不在証明の証明、アリバイの証明の、不思議な答え(?)が、ここにある。



陽気な世紀末―田村隆一詩集 (1983年)
田村 隆一
河出書房新社

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鶴見忠良『つぶやくプリズム』(3)

2009-04-05 15:14:18 | 詩集
鶴見忠良『つぶやくプリズム』(3)(沖積舎、2009年03月10日発行)

 鶴見はことばのなかで生まれ変わる。新しい「いのち」になる。それはどんな形をしているか。「みかんの花」。その全行。

なんというすがすがしさ
なんどでもいおう
みかんの花の石鹸
これはもう
神様の石鹸です

さきみだれる花つぶたちのざわめき
洪水になって
夜空を越えてゆきます

いたるところでみかんの花がかおる
命がかおる
いい目ざめだ
二度とない深い目ざめ
青々とした命のしぶきが
ふりかかる

もうわたしのすがたは
だれにもみえない

 みかんの花の匂いがする石鹸。それをつかうと、みかんの花のにおいがどこまでもひろがっていく。その匂いを浴びて、なにかが鶴見のなかでめざめる。「目ざめ」とだけかかれているなにかが。
 石鹸ではなく、現実の花でもいい。みかんが咲いている。その匂いのシャワーを浴びる。そして生まれ変わった気持ちになる。
 「目ざめ」とは、生まれ変わりのことである。
 そのとき。

もうわたしのすがたは
だれにもみえない

 ほんとうに、そうだと思う。
 たとえば、この詩を読んでいるとき、私は鶴見の姿を思い浮かべない。鶴見が見えない。ただみかんの花の匂いがする。その匂いに洗われるときの新鮮な感じだけが、目の前にある。鶴見は、生まれ変わって、みかんの花の匂いになっているのだ。そこにはたしかに「人間」の姿はない。だから、見えない。
 生まれ変わる、新しいいのちとして誕生する。そのとき、鶴見は「人間」ではない。「人間」に固定されていない。「人間」ではなく、ほかのものになっている。生まれ変わるということは、なにかに「なる」ということなのだ。「人間」にこだわり、「人間」を探しているかぎり、その姿は見えない。 

 鶴見は「人間」という「枠」を超えるだけではない。「風」という作品。

風は
息づかいです
いまも生きようとしている言葉です
そよいでは吹きつのり
さわることで
うれしく
あるいはかなしくうたいながら
いのちのありかを
やさしくたしかめているのです
あー万物が風に共鳴している
この世もあの世も入りみだれて
吹きぬける吹きぬける
いずれはみな風になるのだ
つかれて重くなるばかりの日々
耳の奥の風のうた
光でもなく闇でもない……
ふと
風は眠る
ぼくの塒(ねぐら)で

 鶴見の「いのち」の理想形は「風」である。「風」は「息」である。「息」は「肉体」をとおるとき「声」になる。ことばになる。そのとき、ことばは、たとえ「うれしい」であっても「かなしい」であり、「かなしい」であっても「うれしい」である。等価である。なぜなら、それは「いのち」がどこにあるかを、そのありかを伝えるものだからである。「うれしい」も「かなしい」も、その他の感情も、すべて「いのち」の「共鳴」なのである。
 「共鳴」するとき、「人間」は「人間」ではなく、ひとつの「音楽」になる。いっしょに鳴り響く「音楽」そのものになる。「人間」は消え、見えなくなり、視力を超えた存在そのものになる。
 次の1行がすごい。

この世もあの世も入りみだれ

 私は絶句してしまう。
 私が思い描いていたのは、あくまで「この世」のことである。鶴見が「風」になるとき、「みかんの花の匂い」になるとき、それはあくまで現実の、「この世」の存在であった。
 ところが、鶴見は「この世」という枠を超越している。
 そんなことろまで、鶴見は「風」になって吹いていってしまうのである。
 そして、この行によって、私ははじめて「あの世」があるということが実感できた。
 それは遠いことろではない。「いま」「ここ」と共鳴している「場」であり、それは「いま」「ここ」といっしょに存在する。接しているのではない。重なっているのではない。いっしょになって、区別がつかないのである。
 
 あらゆるものに「区別」をつけるものが科学だとするなら、あらゆるものに「違い」を発見し、それぞれに固有の定義をするのが科学だとするなら、鶴見の「思想」は科学とはまったく別のところにある。
 鶴見は区別を取り除く。そしてほんらい区別すべきものとの区別そもののをなくし、「他者」といったい「なる」。

ふと
風は眠る
ぼくの塒で

 このとき「風」は「風」ではない。「ぼく」は「ぼく」ではない。そして、「風」は「風」であり、「ぼく」は「ぼく」でもある。矛盾しているだろうけれど、その矛盾。区別がなくなり、いったいになったものが「いのち」である。
 風がぼくの塒で眠るとき、ぼくは風の塒でおなじように眠り、おなじひとつの夢を見るのだ。


詩集 つぶやくプリズム
〓見 忠良
沖積舎

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谷川俊太郎「悲しみについて」

2009-04-05 02:48:15 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「悲しみについて」(「朝日新聞」2009年04月04日夕刊)

 谷川俊太郎「悲しみについて」は最終連がおもしろい。全行。

舞台で涙を流しているとき
役者は決して悲しんではいない
観客の心を奪うために
彼は心を砕いているのだ

悲しみを書こうとするとき
作家は決して悲しんではいない
読者の心を掴(つか)むために
彼女は心を傾けているのだ

悲しげに犬が遠吠(とおぼ)えするとき
犬は決して悲しんではいない
なんのせいかも分からずに
彼は心を痛めているだけだ

 人間は「わざと」悲しみを作りだす。それも自分の感情ではなく、他人の悲しみを作りだす。そしてその、人口の悲しみが悲しみとして時間できるとき、それを観客(読者)は芸術として堪能する。
 犬の場合は、どうだろう。
 谷川は「なんのせいかも分からずに/彼は心を痛めているだけだ」と書いているが、これは真実だろうか。なんのせいか分からないのは谷川であって、犬にはその理由が分かっているかもしれない。
 そして、いま、私が書いたことはもちろん谷川には分かっている。分かっていて「わざと」犬は分からずに遠吠えをしていると書く。そのとき、分からないものがあるという事実が静かに浮かび上がってくる。分からないものがある、ということが、たぶん私たちの人生でいちばん重要なことなのだ。分からないものがあって、それを自分で受け止めて生きる――悲しみというものがあるとすれば、確かに、分からないものを分からないまま受け止めるしかない、対処のしようがない。
 そういう状態になったとき。
 ふいに、やはり「分からないもの」が近しい存在として、そばにあらわれる。犬。犬が「わけの分からないもの」もののために「心を痛めている」。そんなふうにしても、生きていける。不思議な安心感。
 同情されずに、ただ、いま、いっしょにここにいる不思議さと安心感。この「悲しみ」はなぜか「愛しい」につながる。谷川のことばは、そんなことを教えてくれる。


谷川俊太郎詩選集 1 (集英社文庫)
谷川 俊太郎
集英社

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『田村隆一全詩集』を読む(45)

2009-04-05 01:54:19 | 田村隆一
 「レインコート」という詩。レインコートは「肉体」ではないが、その詩に私は「肉体」を感じる。 

真夏だというのに
レインコートは壁にぶらさがったまま凍りついている。
枯葉色の皺だらけの

なにもしないくせに
袖口だけは擦り切れていて
糸が二、三本垂れさがっていて

ポケットには
ウイスキーの小瓶を入れた形がまだ残っていて
どこを探したって小銭も出てこない

タバコの吸い殻が曲った釘みたいに
ポケットの底にへばりついているだけ

 レインコートの描写が、そのコートを着ていた人間の「くせ」を残しているからだろうか。そして、その人間の「くせ」、たとえば、ポケットにウイスキーの小瓶を入れている、タバコの吸殻を入れているという「くせ」を残しているから、それが人間に見えるのか。あるいは、そのコートを着ていた人間を覚えているから、かれの「くせ」がコートにのこっているように見えるのか。
 いったん、コートをそんなふうに描写したあと、ことばは少し動く。

それに
レインコートの持ち主だって分からない
ただ壁にぶらさがっていて
顔もなければ足もない

肉体はとっくに消滅して
心だけが枯葉色になって
真夏の部屋のなかでふるえている

 この微妙な変化の前にそっと挿入された「それに」とはいったい何だろうか。「それに/レインコートの持ち主だって分からない」と田村は書いているが、「それに」が指し示すはずの、先行する「わからない」ものが、そこにはない。
 書かれていない。
 書かれていないものを受けて、「それに/レインコートの持ち主だって分からない」と田村は書く。
 「それに」が指し示すもの、それは「分からない」ではないのだ。
 「レインコート」はすでに「レインコート」ではなくなっている、と田村は書いているのである。そこにあるのは「外形」は「レインコート」であるけれど、「肉眼」で見れば「レインコート」ではない。「レインコート」は「消滅」してしまっている。消滅してしまっているけれど、「目」にはそれが見える。
 その不思議さを、田村は書いている。
 「レインコート」は「レインコート」であることをやめてしまっている。それを着る人間も、どこかへ消滅してしまっていて、「持ち主」などというものは存在しない。そこには、不在を証明する残像だけがある。

 世界には、目に見えるものと、「肉眼」に見えるものとがある。
 田村のことばは、つねに、そのふたつの間を行き来する。そして、その間は、いつもはっきりと論理的に区別されているわけではない。両方の「間」(ま)で、ベクトルとなって動くだけである。
 そのベクトルがどこへ行くかは重要ではなく、それを実感できるかどうかが、重要だ。どこへ行くということがきまっていて(わかっていて)、ことばは動くのではないのだから。

ぼくはベッドに横たわったまま
ぶらさがっているレインコートの運命を考えてみることだってある
たぶん

痩せた男
安タバコを吸いつづけてきた細い指
肋骨の数をかぞえたほうが早い薄い胸のなかに
どんな思想がやどっていたというのか

 田村(ぼく)が想像しているのは「レインコートの運命」なのか、それとも「レインコートを着ていた男の運命」なのか。区別がつかない。いや、区別をつけないのだ。「区別がない」というのは「未分化」と同義である。
 「肉体」は、そういう「区別のない領域」にいつも存在する。「肉」はいつでも「未分化」の領域に根をおろしているのだ。
 「肉眼」はからだの奥、たとえば、手や指や舌や鼻が「未分化」の領域を通るとき「肉眼」そのものになるように、男は「レインコート」をきて、「世界」の「未分化」の領域で「肉体」となる。
 それは、単純にことばにできない。「流通している言語」ではとらえられない世界である。つまり、詩の世界である。
 
 途中の引用は省略する。
 この詩の最後の部分。「ぼく」は「レインコート」を「きみ」と呼び、告げている。

傘も持たず帽子もかぶらない
きみの犯罪の成功を祈るよ
どんなことがあってもぼくはきみの
アリバイを証明しないからね

変な言葉だ
不在証明の証明
さよなら レインコート

 アリバイ、不在証明は、そこにいなかったことを証明するということだが、その証明はいつでも「そこにいなかった」という形ではなく、「別のところにいた」という形でしか証明できない。「別のところにいた、したがって、ここにはいなかった」。それは「不在証明」というよりも、単なる「論理」の証明である。そういう「論理」があるということの証明にすぎないかもしれない。
 田村は、本能的に、そういう証明を拒絶している。「別のところにいた、したがって、ここにはいなかった」という「頭脳」の証明を拒絶している。そうではなく「肉体」の証明を探している。
 それは「ぼくはここにいる、したがって、ここにはいない」という矛盾した証明のことである。「ここ」で「ここ」を超越する。「ぼく」は「ぼく」であることを拒絶し、「ぼく」ではないものになる。だからこそ「ぼく」は存在する。
 そういう存在のあり方を、「レインコート」と「ぼく」との関係で書こうとしている。




毒杯―田村隆一詩集
田村 隆一
河出書房新社

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ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督「ロルナの祈り」(★★★★)

2009-04-04 09:24:25 | 映画
監督 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ 出演 アルタ・ドブロシ、ジェレミー・レニエ、ファブリツィオ・ロンジョーネ

 偽装結婚をすることでベルギー国籍を取得する女性。そして、その偽装結婚の相手の男を殺し、新たな偽装結婚でビジネスを展開しようとする組織……。実際にそういう「事件」が起きているのだと思うけれど、そうしたヨーロッパの内部をていねいに描写した映画である。
 1か所、とても印象に残るシーンがある。主役のアルタ・ドブロシが一瞬だけ、とても美しい笑顔を見せる。自転車を買って、街中へこぎだす男に、「またね」というために追いかけるときの一瞬の笑顔だ。
 この前日の夜、女と男ははじめてのセックスをしている。女の偽装結婚相手は薬物中毒である。彼が病院から退院したその日、再び薬物に手を出そうとする。それを文字通り肉体をつかって阻止するアルタ・ドブロシ。薬物への関心をセックスでまぎらわせる。その翌日、二人は合鍵屋へ行く。そこで男は自転車を買う。「乗り回していれば、薬物中毒の苦しみを忘れられるから」と。そして、女は仕事場へ、男は街中へ。その別れ際の短い時間。女が、自転車の男を追いかけ、それに気づき男がペダルをこぐをのやめるほんの一瞬のできごとである。
 その瞬間、ふっと、あれっ、これは偽装結婚の暗い話ではなかったのか、とストーリーを忘れる。偽装結婚ビジネスの暗部を描いた作品ではなかったのか。偽装結婚の、偽装を乗り越えて、愛をつかむ話だったのか……と錯覚する。
 錯覚は、しかし、私だけのことではないのだ。
 この映画の主人公、アルタ・ドブロシも「愛」と錯覚する。あるいは、その瞬間、そこに愛があったというべきなのか。
 このあと、映画は一転する。
 薬物中毒の男は殺される。女はロシア人を相手に偽装結婚話を進める。そして大金を手に入れる。アルバニアから夫を呼び寄せ、いっしょに開くはずの店、空き家を買いに行く。そして、空き家の内部を電話で夫に報告しながら、歩き回る。「ここにカウンターをおいて、ここにテーブルをおいて」。そして「3階はきっと寝室」といいながら階段を上ろうとして、ふいに体調の変化に気がつく。崩れるように、階段に座り込む。
 妊娠している。父親は、殺された男、最初の偽装結婚の相手、あの薬物中毒の男。一晩かぎりの、あのセックスのときの証……。
 この妊娠は、この映画では真実なのか、錯覚なのか、明確にはされていない。最初の検診はきちんと受けていない。2度目、偽装結婚ビジネスの首謀者の男に連れられていった病院では「妊娠していない」という。それは真実なのか。女は、男が仕組んで、そう言わせているのだと思う。偽装結婚ビジネスの相手であるロシア人との関係は破綻する。違約金をとられる。買ったはずの店も手放した。女は、自分が殺されるのだと思う。薬物中毒の男が殺されたように、女は殺されるのだ。胎内の赤ん坊といっしょに殺されるのだと思う。
 女は、車で移動中、運転している組織の男を石でなく殴り殺して森の中へ逃げる。そして、新しいいのちは絶対に殺させない。生き延びよう、と決意する。そこで映画はおわる。いのちに目覚めて、そこで映画はおわるのである。
 そして、このとき、やはりあの別れ際の笑顔、あれは本物の笑顔だったのだと気づく。女は、偽装で結婚した相手、単に国籍を手に入れるために結婚を装った男を、あの晩、愛してしまった。自分に助けを求めてくる男、その必死の叫びを聞いて、受け入れたとき、そこに愛があったと、ふいに気がつく。女の妊娠は錯覚かもしれない。それはしかし、錯覚したいほどの、真実の愛がそこにあったということだろう。女が買った空き家で体調の変化に気がつくのも、寝室を見に行こうとする階段で、である。寝室は、彼女にとって、特別な意味を持っているのだ。相手が殺されたいま、殺すことに加担してしまったいま、女は偽装ではない愛にたどりついたのである。

 人間は何でもできる。その凶暴さ。そして、その凶暴さの一瞬でさえ、人間のいのちは、その当人をも裏切ってあたらしく生き延びることがある。その不思議さ。そういうものを、この映画は、まっすぐに投げかけてくる。
 最後の森のシーン、女が独り言を、声に出していう。その、わざわざ声に出していう部分は、映画そのものとしては不自然であるけれど、映画が投げかけているものをくっきりと浮かびあがらせるためには必要なものだったかもしれない。



 この映画は、ドキュメンタリーのようなタッチの映像でつくられている。その細部もなかなかていねいである。とくにアルバニアからベルギーにでてきた女、主役の身につけているブラジャーやパンティー、服装の安っぽい感じがリアルで、ぐいと引きつけられる。ブラジャーやパンティーが「柄物」なのである。その布が、肌触りのいいものではなく、ただ形だけのものであることが、スクリーンからもわかる。そして、その女の肉体もまたおどろくほど貧弱である。腰はどっしりと大きく、ももも太い。頑丈な女、という感じだが、乳房が小さい。しかも垂れている。あ、肉体というのも、また制度のなかで、社会のなかでつくられるのだと気がつく。現実に、こういう腰と胸(乳房)の組み合わせをした女性は、アメリカにも日本にも、たぶんいない。暮らしのなか「美意識」が肉体そのものにも作用する。どんな下着を身につけるかということをとおして肉体そのものも変わるのだと思った。
 --これは、女の妊娠と同じように、誤解かもしれない。私の錯覚かもしれない。アルバニアの女性もハリウッドの女優のように形のいい乳房と、肉体訓練で引き締まった腰をしているかもしれない。
 しかし、そういう誤解、錯覚を、それが「事実」であると思わせるほどの、不思議な力に満ちた映画だった。

 
コメント
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