詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

海埜今日子『セボネキコウ』(2)

2010-01-24 00:00:00 | 詩集
海埜今日子『セボネキコウ』(2)(砂子屋書房、2010年01月10日発行)

 ことばは何と出会うのか。--きのう書いたことは、もうすっかり忘れて、また海埜今日子『セボネキコウ』を読みながら、ふと、そんなことばがわいて出てくる。ことばが発せられるとき、ことばは「もの」と出会っているのか、「意味」と出会っているのか。ことばは、ことばと出会っているのかもしれない。ことばはことばと出会いたくて動いていくのかもしれない。
 「まつよいまちぐさ」。このタイトル。「まつよいぐさ」「よいまちぐさ」。ふたつのことばが出会っている。それは「待宵草」「宵待草」かもしれない。そのふたつがどう違うかわからない。同じものなのか。それとも似ているだけのものなのか。同じものなら、なぜ、違った呼び方をするのか……。たとえ同じであっても、違ったふうに呼んでみたい--そういう欲望がことばを生み出すのか。でも、なぜ、違ったふうに呼んでみたいのだろう。
 わからないけれど、なぜか、その違ったふうに呼んでみたいという欲望と、詩の欲望は似ていると思う。人間が体験することは、どれもこれもというか、だれもかれも似ている。似ているけれど、それを「同じ」にはしたくない。「同じ」ものにしないためには、違った「名前」が必要だ。その「名前」のようなものが詩なのか。
 だが、まったく新しいことばでは、同じだけれど違うということにはならない。どうやって、同じだけれど違う、違うけれど同じという世界へ入っていけるだろうか。
 海埜は、ことばとことばを出会わせること、その出会いのなかの、なにか「自分を忘れてしまう瞬間」のようなものをつかみとって、そこからことばを動かしている。そういう印象がある。
 「自分を忘れてしまう瞬間」と書いたけれど、これは、つまり……。たとえば、あなたが誰かと出会う。その瞬間、「私は誰それである」という意識が一瞬消えて、「あれ、あれは誰?」と思う瞬間のようなものである。意識が「他者」に集中する。その瞬間、「私は誰それである」という思いは、すこし引き下がっている。そして、それが誰であるかわかったとき、「私」が「私の奥」から新しく生まれてくる。特に、それが恋が生まれる瞬間には。知らない相手--知らないのだが、その知らない相手に対して、いままでの私が一瞬、消え、この人が好きという気持ちをもって新しく生まれてくる。
 そういう「忘我(ちょっと大げさかもしれないけれど)」と「私の誕生」--そういうものが、海埜のことばのなかにはある。海埜の詩のなかでは、ことばがことばと出会い、そこからことばの恋愛がはじまり、ことばの「肉体関係」がひろがり、新しいことばを生み出しもする。

よるをうってはきりきりと
ひろげたむねのかんじょうから
ああ あなたです
となりのようなまちをふきこむ
げきついされた たしょうのえん
いわをもとめるずれのまにまに
あたしたち ひきとめようとしていたという
あしたのやくそくはここでこぼれた

 海埜の意識がどうであれ、海埜のことばを読むと、私のなかで一瞬「忘我」のときが生じる、と言いなおせば正確になるのか。
 ととえばいま引用した部分の、「いわをもとめるずれのまにまに」は「違和を求めずれの間に間に」ということかもしれない。「ずれ」は「間」があってはじめて生まれるものであるということ、そしてその「ずれ」というのは「違和感」に通じることを思うと、そんなふうに理解すべきなのかもしれないが、私の意識というか、ことばはいま書いたことがらへ直線的につながらない。そのまえに「げきついされた(撃墜された?)」ということばがあるせいだろう。「岩を求める」と読んでしまう。さらには「岩を求めずれる間に間に」と読んでしまう。「いわ」ということばが、「違和」と「岩」を出会わせる。「いわ」という音のなかで「違和」と「岩」が出会い「求めるずれ」が「求めずれる」と動いていく。
 そして。
 ここから先に書くことは、きっと海埜には予想外のことだろうと思うのだが。
 「違和」が「岩」にかわり、「求めるずれ」が「求めずれる」、その「間に間に」とことばが動いていくとき、私の「肉体」は「岩」を「男根」と読み替えて、これらの行をセックス描写として味わおうとするのだ。
 2行目の「ひろげたむね」が「肉体の交合」、セックスを感じさせ、それが「いわ」を「違和」であると同時に「岩(巨大な、固い、男根)」にしてしまう。
 「撃墜された」のは「あなた(男)」なのか「わたし(女)」なのか、それとも両方なのか--それは、まあ、あとからどうとでも説明がつく。恋というものは、どうとでも説明できるものである。「たしょうのえん」は「他生の縁」であり「多少の縁」でもある。少ない縁なら、より多くの縁にしようと、ひとは一回かぎりの「縁」をセックスによって濃密に、そして繰り返される縁にしようとするのかもしれない。
 セックス(あるいは恋愛)というものは「ずれ」からはじまる。最初から完全に重なり合うわけではない。「男」「女」という差異があって、「ずれ」があって、出会うということ--合致の瞬間があり、その出会いがさらに、いままで意識してこなかった「ずれ」をみつめさせることになる。「ずれ」の増幅。そして、その「ずれ」のなかで、あれこれ動き回り、何かを一致させる。「肉体」をというより「快感」を。自分から出てしまって、まったく別人に生まれ変わる--そのエクスタシーを一致させようとする。
 
 --こんなことを、海埜は考えていないかもしれない。しかし、作者が考えていないことを考えさせる、感じさせてしまうものが、詩なのである。(あるいは文学なのである。)余分なことを考えさせる、感じさせるものが詩なのである。
 だいたい、詩の出発というか、詩を書くというのも、現実の「必要」からはみ出すものがあってのことである。現実にはなんの役にも立たないこと、感じなくていいこと、考えなくていいことを、感じ、考えてしまった--だから、それをことばにする。それが詩である。それを読めば、読者の方だって、余分なことを考える。余分なことというのは、どうしたって、きわめて個人的なことである。
 為政者(権力者?)が文学とかセックスとかを制限しようとするのは、ひとりひとりが、余分なことを考え、感じることに夢中になると、全体の収拾がつかなくなるからだね。--まあ、これは余分なことだけれど。

ふさいだ ひらいた さいくるです
そでのふれあうおわりをひもとき
あたしたち はじまりをもとめてよるをおう
きょうのかんじょうはここでもがく
いわをもくだく ひとよかぎりのあいかたです
ああ あなた あなたがさきます
くさびたち じかんをとおしてかいわをまつ
ひとこともふれられないぶん かぜをかぐ
ひとりでにおちないぶんだけ もっけいですから
いわかんをぎりぎりまでといつめたかった
まつよいぐさ いちめんでけよこたえて
よいまちがお あわててなんどもふりかえって 

 ここに書かれていることは何だろう。セックスの描写だろうか。私はそう思って読んでしまうが、そのとき、ことばは人間の行動というか、肉体の動き、感情の動きを正確に(?)描写しようとしているのだろうか。いや、海埜は、正確に描写しようとする意図をもって、ことばを動かしているのだろうか。別な言い方をすると、海埜のことばは、ここでは「もの」(もの、といっても、男女の肉体、男女の感情のことだけれど)と重なろうとしているのだろうか。海埜のことばは「もの」とセックスしているのだろうか。
 私には、そんなふうには感じられない。
 ことばはことばと出会いたがって動いている。ことばは、そこに描かれる対象としてのセックス行為とセックスしようとしていない。ことばは、まだ、ここに存在しないことばとセックスしたがっている。そして、そのために男と女にセックスをさせている。男女のセックスがあり、それがことばで描写されるのではなく、ことばがことばとセックスしたくて、人間の肉体を、その出会いのために(その描写のために)利用している。
 そんなことはありえない。現実にはありえない。現実に、ことばがことばを欲情し、そのために肉体を従事させるというようなことはありえない。ことばのために、人間が、そのことばに合うようにセックスするなんてことはありえない--といえばありえないことなのだけれど、そういうありえないことが、ここでは起きている。
 詩の世界では、そういうことが起きるのだ。
 ことばが現実を整える--ということが起きるのだ。ことばが肉体をととのえるということが、起きうるのだ。

 ことばはことばを求めて、かってに動いていく。そのことを、私は特に、

ひとりでにおちないぶんだけ もっけいですから

 という行に感じた。
 何、これ? 「もっけい」で何? 何かの誤植?
 わかります?
 私はまったくわからず、久々に辞書までひっぱりだしてしまった。知らないことばに出会ったとき、私は、まあ、読んでいるうちにきっとわかる。大事なことばなら、きっとそれは何度か別なことばに言いなおされるはずだから、そのときわかればいい--そう考えて、辞書などひかない。辞書は、もっています、というだけのためにしかおいていない。その辞書を引いてみた。
「黙契」。
 どうやら、このことばらしい。
 私はこのことばをはじめて知ったが、海埜は(あるいは海埜のことばは)、「もっけい」を知っていた。そして、そのことばと出会いたくて蠢いて蠢いて、まさぐってまさぐってまさぐって、そのことばを詩のなかに引き出したのだ。
 そうとしか考えられない。なぜなら--ねえ、セックスの最中に「肉体」が「黙契」なんてことばを思いつく? 思いつかないよ。「あ、」とか「う、」とか、ことば以前の「こえ」でせいいっぱいで、そんなややこしいことばをいう暇などない。
 でも、ことばは、そういことばを求めるのだ。まるで、新しい体位を試みるように、その新しい体位によって、何か、今まで以上のことが起きるかもしれないなんて思いながら。
 ことばに「思い」なんてない、というかもしれないけれど、ほら確か、北川透はことばにも肉体があり、セックスもする。ことばは人間がする、あるいは人間だけがしないあらゆることをする、と書いていた。

ひとばんまじかにさきほこり ふるえるばめん
ああ かきけしたくない あなた あな
ますますかんじょう いわってやまないくさでした

 「さきほこり」は「咲き誇り」なら「花」、「裂き(割き)誇り」なら「男根」。「あなた あな」の「あな」は「あな(た)」と言おうとしたのか、それとも「穴」なのか。「いわ」は「違和」から「岩」に、そして最後は「祝って」と祝福にかわる。祝祭にかわる。

 きのう、たしか「船酔い」ということばをつかったが、海埜のことばを旅すると「船酔い」はいつのまにか、「ことば酔い」にかわる。それは、強烈である。だからついつい酔っぱらって、大酒飲みのように、私は「本性」をさらけだしてしまう。
 「見苦しい」感想かもしれないけれど--酔ってしまったら、まあ、酔いにまかせて書いてしまうしかない。嘔吐してしまうしかない。

共振―海埜今日子第一詩集
海埜 今日子
ダブリュネット

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マーク・ウェブ監督「(500)日のサマー」(★★)

2010-01-23 12:18:49 | 映画
監督 マーク・ウェブ 出演 ジョセフ・ゴードン=レヴィット、ズーイー・デシャネル
 「ボーイ・ミーツ・ガール」。ただし、ボーイはすでにボーイではない。若くはない。「卒業」のダスティン・ホフマンのように大学を卒業してしまっている。いまどき、「卒業」のラストシーンを思い出したりしている。若いのに。若い--というのは、「卒業」なんて知らない、で通じる年齢なのに、という意味である。でも、まあ、年齢は関係がないかもしれない。男女の仲には。
 男の仕事は「カード会社」でカードのことば、コピー(?)を考えること。この、ちょっと映画の舞台にはならなかったような会社(仕事)を題材にしているところが、おもしろいといえば、おもしろいのかな。でも、あ、ここがおもしろい、といえるほどの特徴的なおもしろさがない。
 万人向け(?)のことばをひねり出しつづける。けれど、自分自身のことばはもっていない。--というところまでつきつめて描くと、おもしろくなるけれど、そこまではつきつめない。「脳内ニューヨーク」のように、哲学的(?)にもなれない。
 中途半端。
 年齢も仕事もそうだが、この中途半端というか、この見落としてしまうそうな「すきま」に目を向けているのが、この映画の一番いいところなのかもあれない。主役の二人にしても同じだ。美人・美男子ではない。役者になるくらいだから「中の上」「上の下」くらいの感じではあるのだけれど、トップスターのもっている輝かしいものはない。かといって、醜いわけではない。その中途半端な二人が、中途半端な恋をする。
 そういう時期というのは、確かにあるなあ。

 ジョセフ・ゴードン=レヴィットの半分眠たいような、やる気のなさというか、覇気にかける肉体と動きは、この映画にぴったりあっていて、それを楽しむ映画といえば、そうなるかもしれない。--たぶん、その肉体論というか、役者の特権論から書きはじめれば、少しはおもしろい感想になったかなあ。
 でも、もう遅いね。
 いっそうのこと、「卒業」とこの映画とどこが違うか--を考えてもよかったかもしれない。ダスティン・ホフマンも、背は低いし、眠たいような、ぴりっとしない肉体の役者である。中途半端な役者である。その中途半端な役者が、この映画と同じように、中途半端な生活をしている。でも、ひとつだけ違った点がある。「卒業」にはミセス・ロビンソンとの恋というか、情事があった。乗り越えるべき「障害」があった。「大人」の壁があった。この映画には、それがない。
 「大人の壁」がない。
 仕事に行き詰まったときも、大人である上司はボーイを攻めたりはしない。あたたかく見守る。ボーイは何とも戦わない。--これは、不戦の映画なのだ。そして、大きな壁と戦わないということが、中途半端をいっそう「ずるずる」とした感じでただよわせる。
 そして、「大人の壁」がないかわりに、とてもこましゃくれた「子供」が登場する。中学生(小学生?)の女の子が、ボーイの恋の悩みを聞いて、冷静に、何をすべきかを教えるのだ。諭すのだ。
 その教えは、体験というよりは、一種の「耳年増」の知恵という感じなのだが、それがこの映画の一番楽しいところかなあ。へんに笑えるところかなあ。
 
 でも、まあ、見なくていいよ。(笑い)

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海埜今日子『セボネキコウ』

2010-01-23 00:00:00 | 詩集
海埜今日子『セボネキコウ』(砂子屋書房、2010年01月10日発行)

 海埜今日子『セボネキコウ』。私はカタカナ難読症だから、詩集のタイトルで、あ、困った、と思った。けれど、詩集そのものの中身、作品はカタカナではなくひらがなが中心である。これなら大丈夫--と思ったが、それは早とちりだった。あ、ひらがな難読症まで出てきてしまった、と一瞬、思ってしまった。
 海埜は、ひらがなを意識的につかって世界をゆさぶっている。その揺さぶりのなかで、一種の船酔いのような感じになってしまう。
 --と書いて、はた、と私は考え込んでしまった。なぜ「車酔い」ではなく「船酔い」と書いたのだろう。なぜ「酔っぱらった」(あるいは二日酔い)ではなく、「船酔い」などと書いたのだろう。私は船に乗ったのがいつか思い出せないけれど、なぜ、そんな記憶にないようなことを思い出したのだろうか。
 思うに、海埜のことばが私にもたらす「酔い」(揺れの不安定な気持ち)は、たぶん、いつでも体験できるものではなく、何か特別な乗り物に乗ったときにだけ起きるような「酔い」なのだ。ことばのスピードがバスとか電車、飛行機ではなく、めったにつかわないけれど、あるときつかった記憶がある乗り物のスピードかなにかのように、とおい記憶に残っている感じ、肉体の奥に潜んでいる感じを引き出してくる動きなのだ。だから「船酔い」と感じたのだ。(もし、私が日常的に船で動き回る人間だったら、きっと「船酔い」ということばはつかわなかっただろう。)
 海埜のことばの、どこが、私に「船酔い」を引き起こすのか。たとえば「門街」。

たびはそこからつづけようとおもった。やわらかな足さきが、みちしるべのようにたおれこむ。ふたまたに腰をおろし、いつでもさんさろはゆくてになまえをつらねている。くびれた予感をたずさえ、おもいくちをのみこみ、石をたべたしょっかんをたもっていた。そこからしゅっぱつがながめられるのがふさわしいのだから、と街はひとしれずおわりをやどしていたのだろう。

 この「たび」は「足」ということばや「石」ということばから見ると「陸路」の旅である。それも歩行の旅である。「おもいくちをのみこみ」ということばは私の「肉体」のなかでは「重い陸奥をのみこみ」にかわっている。(ひらがな難読症は、こんなふうにしてあらわれる。)そして、「重い陸奥」ということばが、それに先行する「足さき」「みちしるべ」「たおれこむ」を芭蕉の旅に誘い込む。「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」ということばが浮かんできたりする。思い浮かぶのは、陸路、荒れた野原。「街」ということばにもかかわらず、「街」の外の荒野。--それなのに、なぜ、「船酔い」か。

くびれた予感をたずさえ

 このことばを私は「くたびれた予感をたずさえ」と読んでしまった。「くたびれて宿かるころや藤の花」。そして「くたびれた」のなかにある「たび」という音のつながりが「旅」にかさなり、なんだか、歩いて旅をする芭蕉の疲れがそのまま私の「肉体」をつつみこんでしまうかな……と思った瞬間、それが、ふっと消えてしまう。
 あれっ。
 何が起きたんだろう。何かが違う。私の「肉体」はどうなってしまったんだろう、ととても気持ち悪くなるのである。
 「おもいくちをのみこみ」ということばは私の「肉体」のなかでは「重い陸奥をのみこみ」にかわったときとは違う不思議な感じ、不思議な違和感、感じたことのない「ゆれ」が「肉体」に残っている。
 「くびれた予感をたずさえ」を「くたびれた予感をたずさえ」と読み間違えた瞬間、あ、何か読み間違えているという印象が非常に強いのである。「おもいくちをのみこみ」が「重い陸奥をのみこみ」と「誤読」したときとは「音楽」が違う--「肉体」が、そうつげるのである。
 そこで読み返す。 

くびれた予感をたずさえ

 「くびれた」が「くたびれた」になるには、「予感」をはさんで、その向こうから(?)「たずさえ」の「た」を運んでこなくてはならない。「おもいくちをのみこみ」「おもいみちのくをのみこみ」は音を前後に動かしてできる「音楽」だが、「くびれたよかんをたずさえ」と「くたびれたよかんをたずさえ」には音の前後とはいえないものがある。間にはさまった「漢字」をとおりこしての音の移動がある。
 それがなんともいえず、気持ち悪い。

 --気持ち悪いと書いたが、あ、これは海埜のせいではなく、私がそう感じ取る「体質」ということである。

 私は海埜の詩を、詩集で読み返すまでは、ひらがなに特徴があると思っていた。ひらがなのもっている「音」を有効につかって世界を揺さぶっていると思っていた。たしかにそれはそうなのだが、私は海埜のひらがなにゆさぶられながら、他方で漢字につつかれていた。そのふたつのせめぎ合いで、なんだか、いままで感じたことのないような、いや、感じたことはあるのだが、日常的には感じることができないものを感じたような気持ちになって、ふと「船酔い」ということばが「肉体」の奥から出てきたのだ。
 ひらがなに揺さぶられる。けれど、その揺さぶりは、ひらがなだけで書かれていれば、きっと違うものになる。海埜はひらがなの詩人であるけれど、どこかで漢字の詩人でもある。
 速度というか、音楽の連続性が、 2種類あるのだ。
 あ、船旅と言うのは、確かに2種類の音楽の速度をもっている。ひとつはもちろん「船」そのもののスピード。もうひとつは「海」のスピード。海の、波の、うねり、潮流のスピード。そのふたつがいつもぶつかっている。
 車の旅、列車の旅は、車と列車そのもののスピードが世界を支配する。飛行機には偏西風など「風」の影響があるにはあるが、海のうねりとは違うような気がする。(パイロットや船長ではないので断言できないが。)
 船と海(波)がもっているふたつのスピードのぶつかりあいによる音楽、ゆさぶり……。
 私が感じた例をもうひとつ。「紙宿」。「けっきょく文面のなかで会うことにきめたのだった。」ということばが最初の方に出てくる。「恋文」(あ、美しいことばだねえ)について書いたものだと想像しながら私は読みはじめたのだが……。

そうあのひとはあやまってくれたんです。

 この1文に、私は、立ち止まってしまう。「おもいくちをのみこみ」を「重い陸奥をのみこみ」と「誤読」したとき、あるいは「くびれた予感」を「くたびれた予感」と「誤読」したときのように、「音」が私の「肉体」のなかでいれかわり、別の音楽になるわけではない。「音」は正確にそのまま……。
 でも、これはなんて読むの?

そうあの人は謝ってくれたんです。

そうあのひとは誤って(手紙を)呉れたんです。

 どっち? わからない。
 
 「そうあの人は謝ってくれたんです。」と「そうあのひとは誤って(手紙を)呉れたんです。」は音楽でいうと(音痴の私がいうことだから、きっと間違っているんだろうけれど)、これは突然「移調」したというか、突然「キー」がかわってしまったような感じ。「ドレミ……」とたどれば「ドレミ……」のままだけれど、ほんとうは違う音。
 岩崎宏美の「思秋期」の最後の方、同じメロディーが半音ずつあがって別の音になるような感じ。同じだけれど違う。違うけれど同じ。--こんな言い方しか、私にはできないけれど……。
 そして、そのあと。そのつづき。

そうあのひとはあやまってくれたんです。うでのたわむれがぬるんだので、ゆわえた箇所が感覚だけをこばむようで、どうにもやりきなかったのに。反故のもつれる恋だったとつたわりました。

 「うでのたわむれがぬるんだ」は「腕の戯れがぬるんだ」なのかもしれないが、私はこの部分は「重い陸奥をのみこみ」のように、「腕の撓む(……)が(濡れ?)潤んだ」などとわけのわからない「音」のまま「誤読」し、「つたわりました」は「伝わりました。」ではなく「偽りました。」と読んでしまうのだが、そういう「誤読」を「箇所」という漢字の強い刺戟、「感覚」という漢字のもつ「意味」が突き刺す。そして、その刺戟、突き差しが、不思議な具合に意識を揺さぶる。--その揺さぶり方は、同じことの繰り返しになってしまうが、どうも違ったスピードのぶつかりあい、ふたつの音楽のぶつかりあいによるもので、私には一種の「船酔い」に似ている、としかいいようがない。

 船に酔ったら甲板に出て風に当たる。風が運んでくるものが「漢字」なのか、あるいは「ひらがな」なのか。私には、まだ区別がつかない。船が「ひらがな」で「波」が「漢字」なのか、私に区別がつかないのと同じである。船が常にゆれる波に接しているように、「ひらがな」と「漢字」は常に接触しながら、そこで特別なスピードをつくりだしている。リズムをつくりだしている。音楽をつくりだしている。それに揺さぶられるとき、私の「肉体」のなかで、何かがめざめる。私はとりあえずそれを「船酔い」と書いたけれど、それはほんとうは「快感」と呼ぶべきものかもしれない。私がそれを快感として表現する方法を知らないだけで、ほんとうは極上の快感かもしれない。豪華客船で世界を回る夢のようなぜいたくな時間であるかもしれない。--ほんとうはそんなふうに紹介した方がいいのだろうけれど、私の「肉体」は海埜のことばの旅をそんなふうに紹介できるほど強くはない。きっと誰かが豪華客船の旅として紹介してくれるに違いない、そのぜいたくさを紹介してくれるはず、と誰かに期待したい。私にできるのは、海埜の音楽は、ふたつのものからできているという指摘だけである。





隣睦
海埜 今日子
思潮社

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吉野恵『雫』

2010-01-22 00:00:00 | 詩集
吉野恵『雫』(弘前詩塾叢書3、2009年12月15日発行)

 吉野恵『雫』の「素直」にはとても美しい行がある。

人は、脆いのだ

感情を抱くとき
人は古都の甘い砂糖菓子みたいに
水分を吸いこみ角からぼろぼろ零れ
感情はざらざらねっとりした感覚で
頭の裏側を舐め
残って消えない痕になる

 「感情」「頭」という概念のことばがあるが、それを概念からすくいだす「肉体感覚」、「肉体」がつかんできた「比喩」がある。「砂糖菓子」の変化を、ていねいにたどっていくことばが、そのていねいな動きだけが持つ美しさに輝いている。「裏側」「舐め(る)」「消えない」「……になる」とゆっくり動いていく動きがいい。「ぼろぼろ」「ざらざら」「ねっとり」は、ことばの速度をしっかり落ち着かせている。
 「甘い砂糖菓子」の「甘い」はわかりきったことで(苦い砂糖菓子、辛い砂糖菓子というものはないことはないかもしれないが、特別なものだ)、ふつうは「不要」なことばかもしれない。けれど、それは単に「砂糖」を修飾するだけではなく、全体をつつみこむ「味」なのである。

不謹慎なくらい野放しの心
それを嫉妬だと認めたくない
嫉妬のつけた痕こそが生きてきた証
傷とも誇りとも言えるその醜さが
自分の居場所であると誰かに指さされたい
誰にも知られたくない焦げついた部分を
本当は指さされたい

 知られたくないけれど、知られたい。この「矛盾」。そして、この「矛盾」をつつみこむのが「甘い」味なのだ。甘くて、ねっとりと、「肉体」全部をつつみこんでしまう。知られたくないけれど、知られたい、という矛盾そのものが「甘い」味がするのだ。
 その「甘い」味のなかで、「私」は甘えたい。つまり、許されたい。「私」がいるということを受け止めてもらいたい。

 きのう読んだ城戸朱理の詩には、次の行があった。

言葉は粒子のように波立ち
人間はその海のなかで
          “収縮”したり
“弛緩”したりする

 「収縮」と「弛緩」は厳密には「矛盾」ではないが、いわば逆向きの動きとして書かれているだが、城戸のことばは「肉体」ではなく「頭」のなかで動くだけである。
 けれど、吉野のことばは「頭」のなかではなく「肉体」のなかで動き、肉体を突き破って、感情になる。感情と言うのは、あるいは欲望と言ってもいいかもしれないけれど、そういうものはいつでも「矛盾」したものがからみあって動くのだ。
 嫉妬は知られたくない。けれど嫉妬せずにはいられないほど激しく恋していることは知ってほしい。ひとを憎んではいけないこと、恨んではいけないことは「頭」ではわかっているけれど、憎まずにはいられない恨まずにはいられない。そうしないと、こころが砕けちってしまう。でも、そんなことは許されない。そして、許されないからこそ、ひとに知られ、ひとに罰せられたい。批判されたい。批判されれば何かがかわるわけではないが、なんというのだろう、その批判のなかに、どうにもならない感情の「位置」ができる。批判されも、「私」の受け皿になる。「私」というより、「嫉妬」の受け皿になる--ということかもしれないけれど。
 「世間」が「私」を受け止め、「嫉妬」をうけとめる。その動きのなかで、「私」はおちつく。「認められる」わけではないが、「許される」。
 ひとに知られることで、「私」の嫉妬は、私のものであるけれど、同時にひとのものになる。「世間」のものになる。城戸は「人類」ということばをつかっていたが、「人類」などといのうは「頭」のことばである。「肉体」のことばでは、それを「世間」と言うのである。
 ひとりひとりの「肉体」「感情」というのは独立したものである。それはけっして融合しない。けれど、ひとはなぜかわからないけれど、他人を見れば、その「肉体」のなかで動いていることがら、「感情」のなかで動いていることがらが、だいたいわかる。「世間」は何でも知っている--のは、そのためである。「世間」というのは、ひとが触れ合ったときにできあがる「肉体」なのだ。
 不思議なもので、ひととひとのの触れ合い、「世間」というのは、自然に「間」をかえることで全体を調整する。吉野が書いている「嫉妬に狂う女」(と勝手に仮定するけれど)がいれば、そっと近づいてみたり、そっと離れたりする。まきこまれたくない、やつあたりされたくないと思い、しばらくそのままにしておいて、落ち着いたころ、「そうだよねえ、わかるよ、その苦しみ」なんてなぐさめたりする。そうやって「嫉妬に狂う女」との「距離」(間合い)を調整する。これは「頭」で考えてすることではなく、一種の「肉体反応」のようなものだ。

 あ、何か、余分なことを書いてしまったなあ。

 吉野の詩にもどろう。この詩には「感情」「感覚」という概念や、「不謹慎」「嫉妬」「傷」「誇り」「醜さ」など具体的ではないものがたくさん書かれている。「傷」や「焦げついた部分」というのは「比喩」である。そういうものは、本当はなんのことかわからない。わからないものであるけれど、わかる。--矛盾になるけれど、わからなけれど、わかる。そして、その「わかる」というふうに感じさせる(?)のが「甘い砂糖菓子」と一緒に動くことば、その運動の確かさなのだ。
 その描写には「肉体」のなかにある感覚が連携している。「水分を吸いこみ」という様子は「視覚」がとらえる。「角から」というのも視覚でとらえる。「ぼろぼろ」「ざらざら」「ねっとり」は触覚である。ひとつのものが触覚のなかで変化していく。「舐める」という動詞で、それをていねいに追う。
 「残って消えない痕になる」の「なる」。変化。動き。「なる」ということばのなかで、「水分を含み」からのひとつづきの動きが完結する。緊密につながる。
 それは、大げさに言えば、新しい世界そのものの創造でもある。新しい世界をつくっていくのは「頭」ではなく「肉体」である。「頭」は計画を立てることができても、計画を実行はできない。「肉体」のみが計画を実行することができる。--これは、ことばの世界でも同じことだと思う。「肉体」が動かしたことば、ことばがその動きをとおして「肉体になったことば」を私はいつも美しいと感じる。


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城戸朱理「「世界-海」からの三篇」

2010-01-21 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
城戸朱理「「世界-海」からの三篇」(「現代詩手帖」2010年01月号)

 きのう読んだ高貝の作品、そのことばから私は「音楽」と、ことばの「肉体」を感じる。そういうものを感じたとき、私は感想書きたくなる。
 一方、「音楽」をまったく感じることができない作品も多く流通している。そういう作品は私はとても苦手である。読んでいて楽しくなれないのである。たとえば、城戸朱理の作品。その、ことば。そこには「肉体」がなく、「頭」だけがある、というふうに私には感じられる。
 城戸はきっと「頭」のいい詩人なのだろう。その「頭」のよさに私はついていけない。ただそれだけのことなのかもしれないけれど、少しだ書いておきたい。
 3篇のうちの「動かぬ太陽」。その書き出し。

ぶら下がるアケビのツルに似た、
イスラームのような夜明け
“核爆弾”の閃光から
          液晶ディスプレイの明滅まで
さまざまな光を経験していると
人類はつい“太陽”を忘れがちになる

 ここに書いてある文字を私は「誤読」することはない。(と、思う。)カタカナ難読症の私はカタカナを引用することも苦手だが、アケビ、ツルはもちろんだが、イスラームやディスプレイもなんとか正確に引用できていると思う。間違いなく引用できているとしても、私は、この部分を正確に読んでいるという「自信」のようなものをまったくもてない。
 たとえばきのう書いた高貝の作品に対する感想、あるいはその前に書いた目黒裕佳子の作品、谷川俊太郎の作品に対する感想は、だれかが(あるいは詩人本人が)「それは誤読だ、そんなことは書いていない」と批判したとしても、その批判に対して私は反論できる。そういう自信というと変だけれど、思い込みの「愛着」がある。誰がなんといおうと、私はそういうふうに読むことが好き。詩は書いた瞬間から読者のもの、作者がなんて思うおうと知ったことじゃない、と開き直れる「自信」のようなものがある。
 けれど、城戸の作品は「誤読」をさせてくれない。とても窮屈なのだ。

 1行目は、私にはよくわかる。アケビも、アケビのツルも知っている。どの山のどのアケビが一番先に熟れるかも知っている。私の「肉体」はそういうものを、一緒に野山で遊んだ友達の「肉体」と一緒に抱え込んでいる。
 けれど2行目の「イスラーム」はもうわからない。イスラームに私の「肉体」は触れたことがない。いくらかの知識は「頭」のなかにあるけれど、それは私の知っている「夜明け」とはつながらないし、アケビのツルにもつながらない。3行目の「“核爆弾”の閃光」になると完全にわからない。テレビや映画でそれらしいものを見た記憶はあるが、それが「ほんもの」であるかどうか私の「肉体」は判断しない。判断できない。だから、実際に核爆弾の閃光を肉体で受け止めたとは思えないひとが、城戸が、そういうものを自分のことばとして書き記したとしても、そのことばをそのまま信じることができない。それは、いったい誰のことば?という疑問が残るだけである。
 城戸に言わせれば、それは「人類」のことばになるのだろう。
 でも、「人類」とは何なのだろう。私はその「意味」を一応「頭」では知っている。けれど「肉体」としては知らない。
 私はたとえばあったことのない目黒裕佳子、谷川俊太郎、高貝弘也の「肉体」さえ、そのことばをとおして「知っている」と言えるけれど、「人類」となると知らないとしかいえない。「人類」などというものに親近感を感じない。あくまで、ひとりの人間、そしてその人間とつながっている具体的なだれかとの関係性--そういうものにしか親近感を感じられない。親近感を感じられないものに「名前」をつけて語ることなどできない。
 「人類」は「名前」ではない--と城戸は反論するかもしれない。もちろん「人類」は「名前」ではない。だからこそ、問題なのだ。詩とは、すべての存在に対して「名前」をつけることである。詩人が独自に、世界に対して「名前」をつける。詩とは、詩人それぞれの「外国語」なのだ。目黒裕佳子の詩、谷川俊太郎の詩、高貝弘也の詩が「日本語」に書かれているように見えても、それは「日本語」ではなく、それぞれの「外国語」である。だからこそ、読者は「誤読」を積み重ねながら、その「誤読」のはてに、あ、こういうことだったのか、やがて「肉体」で受け入れるしかないものである。「頭」で翻訳しつづけるものではない。大学の受験のように「答え」をもとめて「翻訳」するものではないのだ。
 「イスラーム」にも「核爆弾の閃光」にも、私はその「名前」をつけた城戸の「肉体」を感じることができない。城戸はそういうものに「頭」で「名前」をつけている、と私は感じる。
 それが極端な形であらわになったのが「人類」である。

 だいたい「人類」が何かを忘れるということは絶対にない。核爆弾の閃光に関してだけ考えてみてもわかる。実際にその閃光の犠牲になった人は一日だってそれを忘れはしない。何かの拍子で笑いころげたとしても、その瞬間も、それを忘れているのではない。人間はふたつのことを同時にできないから、たまたま笑いころげているだけであって、悲劇の閃光はいつでも「肉体」のなかに生きていて、いつでも思い出すことができる。忘れることができない。そして、そのひとからその体験、その「肉体」としてのことばを聞いた人は、そのことばを自分自身の「肉体」とする。それは永遠につづく。どんなことでも必ずひとはそれを語る。語れば、それを聞くひとがいる。その積み重ねでことばは動いている。その積み重ねのなかには「誤読」が一杯つまっている。すべてが「誤読」かもしれない。そうであっても、それは「忘れる」ということではない。
 少なくとも、私の「肉体」は、そんなふうに主張している。

言葉は粒子のように波立ち
人間はその海のなかで
          “収縮”したり
“弛緩”したりする

 わからないねえ。「収縮」も「弛緩」もことばとしての「意味」は知っているけれど、人間がことばの海のなかで収縮したり弛緩したりすると書かれても、どんな具合に収縮するのか、あるいは弛緩するのか書いてなければ、それはすべて「頭」の世界。「肉体」には無縁の、空虚な世界。
 収縮、弛緩を具体的に--とは。
 たとえば、きのう読んだ詩では、高貝は、あるときは「腹白い魚」(たぶん、さかな、と読ませる)と書いたかと思うと、別のところでは「魚(うお)」と書く。魚が「さかな」になったり「うお」になったりする。その変化のなかに高貝の収縮か、弛緩か、あるいはまた別の名前で呼ばれるなかにであるのかわからないけれど、動き、変化がある。「裏返す」「うら反っている」も同じ。なぜ、違う文字? なぜ、違う読み方? わからない。そんなことは高貝の「肉体」だってはっきりとは理解していない。理解していないけれど「肉体」はそんなふうに動く。そして、そんなふうに動く「肉体」は「頭」と違って「核爆弾の閃光」を発するようなことはしない。

 私はばかだから、そんなふうに考える。そして、ばかだと自覚しているからこそ、「頭」には騙されたくないとも思う。「肉体」にできることはせいぜいげんこつで殴ることくらいである。私は、そういうものを信じている。
 「頭」はげんこつでは自分の「肉体」が痛いので、それは困る、棒で殴ろう、いや近くであばれると反撃されるおそれがあるから遠くからピストルで撃ってしまえ、ということになる。その行き着く果てが核爆弾かもしれない。(もっと果てがあるかもしれないが。)

 あ、「頭」で書かれた詩は嫌い--とひとこと書けばよかっただけなのかもしれないけれど……。


戦後詩を滅ぼすために
城戸 朱理
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高貝弘也「かたかげ」

2010-01-20 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
高貝弘也「かたかげ」(「現代詩手帖」2010年01月号)

 私はときどき「文字」が読めなくなる。カタカナ難読症については何度か書いたが、それとは違った「難読症」がある。そこに書かれている文字は文字としてわかるのだけれど、それが違った文字に見えてしまうのだ。違った音が聞こえてくる。いや、これは正確ではない。「音」そのものは同じだが、その「音」が別なものに聞こえる。私はカタカナ難読症と同じ程度に(それ以上かもしれないが)、音痴である。音痴の私がこんなことを書くと変かもしれないが、同じ「音」が別の「音楽」に聞こえてしまう。その瞬間、あ、文字が読めなくなった--と感じる。文字ははっきり認識できるけれど、その認識を裏切って、「肉体」が別の「音楽」を聞こうとしている--そんなふうに感じることがある。
 18日、19日に読んだ目黒裕佳子、谷川俊太郎の作品でもそういうことが起きたが、高貝弘也「かたかげ」でも、そういうことが起きる。

行方しれぬ子が露地で。浅く たち●(こ)める雨。
あなたを愛撫している。


腹白い魚が、露地うらで鳴いている。--きゅ、きゅ
体育座りした子が、何度も裏返すので

濃(こま)やかな、愛撫にふれる。塊(かた)まって、憎しみをさし翳(かざ)す


はしの詰(つめ) 灰墨の縁(よし)
それは、うすいしるし


あの、やさしい言葉の はかなさ。薄っぺらな、
うすっぺらな。けれど死にそうなほどに、真剣な


もう訪れることのない、かたかげ。
うら反っている 死児の魚(うお)


とても やみがたい生きもの
かなしい性の あてどなさよ
             (谷内注・1行目の●は「四」の下に「卓」という漢字)

 何が書いてあるのか。その「意味」(内容)を私は私のことばで言いなおすことができない。要約できない。高貝の書いていることが、私にはわからない。それはこの詩に限らず、どの詩をとってもみても同じである。高貝の詩をわかったことは私には一度もない。
 けれど、不思議にひかれるものがある。
 それは高貝のことばのどこからか響いてくる「音楽」にひかれるということだ。
 高貝の詩を読んでいるとき、私は「文字」を読んでいるが、「肉体」は「文字」を追いかけてはいない。「肉体」は「音楽」を追いかけている。「音楽」にひっぱられて、「意識」をなくし、ぼーっと陶酔している。
 この詩から聞こえてくる「音楽」。それは「死」である。「死にそうな」「死児」と2回「死」という文字がつかわれているが、文字通り「死」という「意味」で私につたわってくるのは「死にそうな」というだけである。そして、その「死」のつかい方は、ちょっとどう説明していいかわからないけれど、私には「音楽」としての「死」には聞こえない。そこには「意味」はあるけれど、「音楽」はない。

 別な書き方をしよう。

 「死」の「音楽」、「音楽」としての「死」は冒頭の「行方しれぬ子」の「しれぬ」のなかにすでに聞こえはじめている。これがもし「知れぬ」と書かれていたら「死」の「音楽」は聞こえてこなかったかもしれない。目が「知」という「文字」を読んで認識(意識、頭?)を固定させてしまう。それが「しれぬ」とひらがなであるために、「頭」をはなれてことばが勝手に動いていく。「頭」で正常に(?)判断するならば、けっして考えてはいけないことを「肉体」が勝手に聞きとってしまう。「行方しれぬ子」は「どこかで死んでいるのだ」と。そして、その「音楽」にあわせて情景が勝手に動きはじめる。ダンスしはじめる。死んだ子供を雨がそっとつつんでいる。「たち●める」の「こめる」という文字のなかにある「四」さえ、「し」→「死」をひきよせるのだ。「あなたを愛撫している」ということばの「している」の「し」さえ、「死」につながる「音楽」として響いてくる。
 その「音楽」が影響して、「腹白い」の「白い」さえ、私は「しろい」と読んでしまう。「はらじろい」という「音」を「死」の音楽が拒絶するのだ。何か、ことばの「意味」「音」とは別の「音楽」が、高貝のことばを動かしている--と私は感じてしまうのだ。
 「憎しみ」「さし翳す」「はし」「縁(よし)」「しるし」「やさしい」「かなしい」。そのことばの、その「音」のなかの「し」がすべて「死」をゆさぶる。「縁」は「よし」というルビがなければ何と読むだろう。「えん」か「えにし」か。「えにし」のなかには「し」があるけれど、音が多くなった分だけ印象が薄れるし、直前の「はし」「よし」という響きあいにもつながらない--だから「よし」というルビを高貝は打ったのだろう。それによって「し」が「死」という「音楽」に自然に変わっていく。
 「真剣」のなかにも「しんけん」と「し」の音があるが、それは漢字が読みが「腹白い」と違って「オン読み」のせいか、「死」へとは「音楽」ではつながらずに、「視覚」をとおして「死」を少しだけ連想させる。「剣」が「死」という漢字を「視覚」として運んでくる。(「けれども死にそうなほどに、真剣な」という部分だけ、私の「肉体」のなかでは「音楽」ではなくなっている。--この部分だけ、大嫌い、聞きたくない、と私の「肉体」は叫んでいる。)

 そして、高貝の書いていることば(文字)の「音」「意味」と「音楽」の乖離は、そのまま現実の「世界」と高貝のとらえる「世界(高貝ワールド)」を静に引き剥がしているようにも感じる。私は「現実」ではなく高貝の音楽が作り上げる「高貝ワールド」という別のもののなかにいると感じる。
 その乖離と関係があるかないか、よくわからないけれど。
 詩を読んでいくと、ところどころ不思議な部分がある。たとえば、「うら」。最初は「露地うらで」とひらがな。「裏返す」は漢字。「うら反っている」は「うら」がひらがなで、「かえす」は「返す」と「反す」と別の漢字で表記される。その一種のちぐはぐさが、「現実世界」と「高貝ワールド」の違いを静に浮かび上がらせる。

 同じ「死」という文字でも「死にそうな」は「視覚」をひっぱるのに対して「死児」は「音楽」として響く--というのは、奇妙なことかもしれない。私だけがそう感じるのか、ほかのひとも同じであるのか、それはわからない。私には、なぜ「死児」は「音楽」なのか……。
 これも奇妙な説明になってしまうが、「死児」ということばは、「死」という抽象的なものではなく、もっと「肉体」に迫ってくるからである。同じ「視覚」に影響するとしても「死にそうな」というも文字と「死児」では違うのだ。「死児」という文字(ことば)を読んだとき、私の「視覚」は「死」という文字を正確にとらえているが、「肉眼」は違う。「肉眼」は「死児の魚」ということばをそのままつかみ取って、白い腹を表に出して、水に浮かんでいる「死んだ魚」を見ている。においを嗅いでいる。聞こえない水の、たゆたい、あるいは澱んで流れない音を聞いている。「死にそうな」では、そういうことは起きない。そこでは「肉眼」は動かない。「肉体」は動かない。反応しない。
 「意味」を超えて、「肉体」をゆさぶるもの--それが「音楽」なのかもしれない。

 また「死児の魚(うお)」という書き方にも、私は影響を受けているかもしれない。
 2連目には「腹白い魚」という表記がある。そこには「うお」というルビはない。「さかな」と読ませるのだろう。ところが「死児の魚」は「さかな」ではなく「うお」。「さかな」と「うお」はどう違うか。
 「さかな」には「さ行」の音があり、「し」を引き出す効果があるのではないか、なぜ「さかな」ではないのか--と考えるとしたら、これはやはり「頭」の影響だろう。「さかな」の「さ」と、「し」は同じ「さ行」ではあるけれど、子音はほんとうは違っている。「さ」は「SA」、「し」はSを縦に引き延ばしたような形で表記される子音+A。「さ行」とは別に「し行」というものが「発音」的にはあるのだ。
 そして、「さかな」は「うら反っている」とは乖離した「音」だが、「うお」なら「うら反っている」と「頭韻」を踏む。自然に「音楽」を感じさせる。
 こういう「音楽」の操作は、後天的におこなえるものではなく(学習でつかみとれるものではなく)、たぶん生まれながらにして身についているものだと思う。なぜ2連目が「腹白い魚」で、あとの方が「死児の魚(うお)」か、ルビを打つなら初出のとき打つべきだ--などと、学校教科書の法則をあてはめて批判しても、え、それはどういうこと?という反応しかかえってこないだろう。高貝は困惑するだけだろう。それくらい「音楽」は高貝にしみついているのだ。

 「死」の「音楽」は最終行の「かなしい性」ということばのなかにも不思議な形で存在する。私の「肉体」は「性」のなかにどうしても「死」を感じてしまう。それが「死」であることを感じながらも、それにひきずられ、それこそ「あてどなく」さまよってしまうのだが。
 そして、その感覚は、たぶん高貝にもあるのだと思う。だからこそ、最終行の1行があるのだと思う。
 でも、まあ、これは別の機会に書けたら書きたいと思う。


子葉声韻
高貝 弘也
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現代詩手帖 2010年 01月号 [雑誌]

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谷川俊太郎「うつろとからっぽ」

2010-01-19 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「うつろとからっぽ」(「朝日新聞」2010年01月16日夕刊)

 目黒裕佳子「よる」を読んだあと、谷川俊太郎「うつろとからっぽ」を読んだ。そして、「あ、読めない!」と叫んでしまった。漢字が読めないのである。カタカナ難読症は私の場合、ほんとうに深刻で、もう完全にあきらめきっているが、漢字が読めなくなったのは初めてなので、びっくりしてしまった。
 目黒の書いた「ばら蒔く」を私は「薔薇まく」と読んでしまったが、その後遺症なのかもしれない。
 詩の全行。

心がうつろなとき
心の中は空き家です
埃(ほこり)だらけのクモの巣だらけ
捨てられた包丁が錆(さ)びている

心がからっぽなとき
心の中は草原です
抜けるような青空の下
はるばると地平線まで見渡せて

うつろとからっぽ
似ているようで違います
心という入れものは伸縮自在
空虚だったり空だったり
無だったり無限だったり

 おわりから2行目「空虚だったり空だったり」の、あとの方に出てくる「空」が読めない。「そら」なのか「くう」なのか。わからないのだ。2連目に「青空」(あおぞら)ということばが出てくる。そのことばが意識の奥で動き回っていて、「くう」とは読まさせてくれない。
 えっ。何が起きたの? わからない。
 驚いて、詩を読み返す。すると1連目には「空」が「空き家」ということばのなかにつかわれている。「空」は「そら」ではなく「あ(き)」かもしれない。
 そして、

空虚だったり空だったり
無だったり無限だったり

 という2行は、作品の構造的には、「空虚だったり空だったり」が1連目を言いなおしたもの、「無だったり無限だったり」は2連目を言いなおしたものと分析(?)できそうなので、問題はいっそうややこしくなる。

 「空虚だったり空だったり」が1連目の言い直し--というのは、「空き家」は「空虚」である、そこには何かがある(たとえば錆びた包丁がある)けれど、それは他の存在と有機的につながっていない。関係をもっていない。「空虚」というのは、ものは存在しても、関係が成立していない、そこに「人間」が動いていないということかもしれない。
 「無だったり無限だったり」は2連目を言いなおし--というのは、何もない(無)の草原、青空のもとの広がりは、実はどこまでもつづく広がり、無限につながる。永遠につながるからである。

 でもねえ。
 そんなこざかしい分析(?)を、何かがひっくりかえしてしまう。
 「空」は「くう」でいいの? 「そら」ではだめなの? ひょっとしたら「あ(き)」かもしれないのに……。
 というだけではなく。

 漢字ではなく「ひらがな」で書かれたことば。「うつろ」と「からっぽ」。もし漢字で書いたらどうなる? 「虚ろ」「空っぽ」。「虚ろ」は「空ろ」とも書いてしまう。書けてしまう。(私のつかっているワープロソフトでは、簡単にそういう漢字が出てくる。)そうすると、ますます「空」の読み方がわからなくなる。
 なんて読む? 「埃」とか「錆」にルビを打つのではなく、こういう漢字にこそルビを打ってくださいね。朝日新聞さん。(あるいは、谷川さん?)
 もうルビを打ったのが朝日新聞ではなく谷川なら、この「いじわる」は根性がすわっている。--と、思わず、私は書いてしまう。

空虚だったり空だったり
無だったり無限だったり

 この2行の、それぞれ単独でつかわれている「空」と「無」。その定義は? 谷川は、どう定義しているのか。この2行だけではわからないが、私の感覚ではそのふたつはとても似ている。
 「空」は「色即是空」の「空」。そしてそれは私のあさはかな哲学では「無」と通い合う。「もの」(いのち)は存在しているが、「もの」(いのち)相互のまだ関係(?)が成立していない状態が無。そこには渾沌だけがある。それが何かの拍子(あ、いいかげんなことばでごめんなさい)、--何かの拍子で動き回り、関係ができると、「もの」(いのち)としか言えないようなエネルギーが「名前」のあるものとなってあらわれてくる。そして、その運動は一回かぎりではなく、何度も何度も次々に起きる。「無限」に起きる。「色即是空」の「色」は次々に生まれてくる。そして「世界」になる。
 「空」と「無」は、ほんとうは違うものかもしれないけれど、私はそれを区別できない。あるときどきで、つかいやすいことばをつかうだけであって、厳密な定義でつかいわけない。--これはもちろん私だけのことであって、谷川が、あるいは「世間」のひとが厳密につかいわけていない、という意味ではないのだけれど。
 
 「空」はどう読んでいいか、わからない。そのわからないものを、わからないままほうりだして、「好きなふうに読んでね」というのは、ね、意地悪じゃない? 読み方によって、「あ、そう、あなたはそういう読み方をする人間なんだね」とみつめられているような感じがしてくるのだ。--と書くと、まあ、書きすぎなんだろうけれど。

 「空」をなんと読むのかわからない。わからないけれど、私は最初の直感(?)どおり、「そら」と読みたいの。「そら」と読むとき、それはどこまでも限りなく広がる「あおぞら」とつながり、そこに気持ちのいい「無限」が見えてくる。
 「無限」にもいろいろ種類があるだろう。できるなら、私は、明るい希望にみちた無限を感じていたい。その明るい希望というものが、うつろでからっぽだったとしても。





空の青さをみつめていると―谷川俊太郎詩集 1 (角川文庫 (2559))
谷川 俊太郎
角川書店

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二つの扉
目黒 裕佳子
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目黒裕佳子「よる」

2010-01-18 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
目黒裕佳子「よる」(「朝日新聞」2010年01月16日夕刊)

 目黒裕佳子「よる」は、ひらがながとても印象的な詩である。きれいである。そして、旧かなづかいも効果的だ。きれいだ。二回、「きれい」ということばをつかってしまったが、「きれい」という印象が、ともかく前面に出てくる。漢字、現代かなづかいなら、違った印象になるかもしれない。読み過ごしてしまうかもしれない。

 さはやかなしたで くつがへす
 よる

列車はけむり しづかにはしつてゆく
乗客はだまつてゐる
むねに手を 手に
世界をおいて
(ああ ひかるうなばらはきれい)
(静脈のばらいろはきれい)

ものおとたてず
乗客はまなざしの束をほどき ふと
ずぶぬれのまなこ
ばら蒔いた
(ごらんなさい
 かたことゆれてゐるのはほしです)

この闇に
はなやてあしも しずかにひかり
(どちらさまも ひえますな)
(零下らしい)
じつに きれいなよるなのです

 私は旧かなづかいでは文字が書けない。かろうじて読めるにすぎない。だから、旧かなづかいのことばを読むときは、読む速度も遅くなる。ひらがなは、やはり苦手である。カタカナほどの難読症ではないが、やはり読み間違えが多い。漢字とひらがなが適度にまじっていないと文字が読めない。
 目黒の今回の作品は、私にとっては、読むことができるぎりぎりの文字で書かれている。これ以上ひらがなが多くなると、完全に読み違える。読み違えが少ないのは、(ほんとうは読み違えをしているかもしれないが)、旧かなづかいが読む速度にブレーキをかけるからである。
 書き出しの「さはやか」を、私は、即座には理解できない。「さはやか」という文字を「さわやか」という音にかえることで、やっとその「意味」を理解する。ゆっくり読むしかないのだが、そして、その「ゆっくり」のなかで、ことばが静に熟成してくる。「さはやか」が「さわやか」に変わる。それは「わからないもの」が「わかるもの」に変わるような、不思議な感じである。それが楽しい。
 --と、書いたあとでこんなことを書くと矛盾しているかもしれないが。
 旧かなづかいで書かれたものを読むのは私は大好きである。とても速く読むことができる。現代かなづかいに比べてことばが速く動く。
 ゆっくりなのだけれど、速い。
 矛盾した言い方になるが、ひとつひとつはゆっくりなのだけれど、そのゆっくりのなかでことばが発酵して、熟成し、読んでいる意識のなかで「酔い」のようなものが生まれ、その「酔い」の速度が速くなる。「酔い」というのは、まあ、勘違いの源のようなものだから、ゆっくりだけど速いという感覚自体が勘違いかもしれないけれど、とても気持ちよく、ことばのスピードに乗ることができる。
 「さはやか」が「さわやか」にかわり、「くつがへす」が「くつがえす」にかわるとき、何か、不思議なスピード感が私をとらえる。
 それは「した」が「舌」にかわるときも同じである。「した」という音が「舌」というもじにかわって、私の体のなかで結晶する。そのときの速度が、旧かなの文字が現代の(?)音にかわるときのスピードと交錯して、とても不思議な印象になる。
 この詩は「夜汽車」を舞台にしている。(思わず「夜汽車」と書いてしまったが、そういう古い感じ、が色濃く漂う。)その「夜汽車」に乗って、その速度でことばに運ばれて、その速度のことばに運ばれて、「いま」「ここ」ではない不思議な旅をしている感じになる。
 これが実に楽しい。

 そして。

 ああ、書くべきなのか、書かない方がいいのか。自分だけの楽しみに隠しておきたい気持ちにかられながら、でも、みんなに知ってもらいたいとも思うのだが……。
 とても変なことが起きる。

ばら蒔いたとき

 この1行の「ばら」が「薔薇」になって私を襲うのである。そしてそれは、前の行にさかのぼって「うなばら」を「海原」ではなく「海薔薇」にしてしまう。
 たぶん、「静脈のばらいろ」が影響しているのだ。「静脈のばらいろ」は「静脈の薔薇色」なのだが、その「ばら」という文字、音が、「薔薇」という文字にかわって、その変化が、詩のなかの、別の行の「ばら」を「薔薇」に変えてしまう。
 ああ、きれいだ。ほんとうにきれいだ。いままでに見た、どんなバラよりもきれいだ。ため息が漏れてしまう。
 その影響だろう。「はなやてあし」ということばも「花やてあし」として読んでしまうし、そこには「華やか」も紛れ込んでくる。

 あ、もう、だめ。
 私はカタカナは完全に難読症で一度として正確に読めたことはないが、それ以外の文字も正確に読んだことは一度としてないことがわかってしまう。
 この詩のなかには「さはやかなした」「しずかに」「はしつて」「まなざし」「てあし」ということば(文字?、音?)が響きあっているが、その音の(文字の)なかの「し」が「ほし」の「し」と重なって、夜空に輝いている青い光に見えてくる。うーん、「ばらいろ」から「青」だけがしぼりとられたような輝き--なんて、いってはいけないのかなあ。
 こんな冬の夜の、晴れ渡った空の星。

 何を読んだか、もう忘れてしまう。ただただ「きれい」な夜が私をつつんでいる。

 「誤読」だよね。かってな妄想だよね。そう感じながらも、そういう「誤読」、妄想を引き出してくれることばの力に、なぜだかうっとりしてしまう。とても幸福な気持ちになれる。






二つの扉
目黒 裕佳子
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橋場仁奈『ブレス/朝、私は花のように』

2010-01-17 00:00:00 | 詩集
橋場仁奈『ブレス/朝、私は花のように』(荊冠社、2009年10月16日発行)

 橋場仁奈『ブレス/朝、私は花のように』は2冊組みの詩集である。『朝、私は花のように』に「10体の仏像」という作品がある。

ほんとうは1人なのに
いつのまにか10人に分かれてしまう(どうしても、
10人は15、23と分かれてしまう

 この感覚が2冊の詩集を必要としたということだろう。

 私がおもしろいと思ったのは、『ブレス』におさめられている「ボール」。草むらに落ちていた(転がってた)ボールを見つけた。そこから、ことばが動いていく。

黒と黄色の
小さい、まるい、縞々の、
ひろうと掌のなかで
ふむふむと蠢く(息、息をする、
草むらの、草むらで、
ゆうこ、と書かれている(黒いマジックで、
ゆうこ、とゆうこが書いたのかゆうこの母が
ゆうこ、と書いたのかいえいえ母はそんなことするはずもなく
ゆうこはゆうこ、とじぶんでじぶんに書いて
転がっている、
草むら、の

 同じことばが何度か繰り返される。それはたぶん橋場がことばを探しながら書いているからだろう。ことばが動くのを待ちながら書いているからだろう。書きたいことを決めて、それを「結論」のようにして書くのではなく、現実(世界)と向き合いながら、ことばが動いていくのにまかせている。
 この感覚が私は好きだ。
 ことばは動いているうちに「ボール」から「ゆうこ」にかわっていく。「ゆうこ、はどこにいるのか/ゆうこ、はどこへいったのか//ゆうこはゆうこをさがす」。けれど見つからない。そのうちに……

ゆうこは
きっともう大人になった、(ふむふむ、と
白いスーツを着て、
昼休みには小さな鏡に向かってニキビをつぶしている
プツプツ、穴があく
穴の向こうに転がっている、(ふむふむ、と
彼女の手を放れて
転がっている(ふむふむ、ふくらんで
まだ転がりつづけるのか草むらの夢を見ているのか草むらの、
ふむふむふむとふくらんで
縞々の(ゆうこ、
ゆうこは私の足もとにふいにあらわれて
イテ、テテテテテ、ともいわずに(踏まれて弾けて、
転がる、転がって

ゆうこ、はどこかにいきたくて
ゆうこ、はもっととおおおおおおおーいどこかにいきたくて
ゆうこ、はまだ遊んでいたくて日暮れてもなお遊んでいたい!
のうこ、はかえりなくないゆうこがかえってもゆうこはまだかえらない!
ゆうこ、は泥だらけ草むらで夜露にぬれて犬に吠えられ
ゆうこ、は踏まれても蹴られてもそれはそれでよくって、よ
ゆうこ、は転がっている(ふむふむ、転がってふむふむ、ふふ
ゆうこ、はきっと私だからどこまでも転がっていくよ

 ボールのゆうこは途中からボールではなくなる。人間になる。それは橋場がボールを人間に「する」のだ。ボールが人間に「なる」のではなく、人間に「する」。橋場が、と書いたが、正確には「ことば」が、と言い換えた方がいいだろう。現実の世界ではボールはいつまでもボール。ことばのなかでボールから人間への変化が起きるのだ。それはことばの運動の問題である。
 そこには確かに橋場という作者が関係している。橋場ぬきには、この変化はありえない。橋場がことばに関与して、ことばをそう動くように仕向けるのである。「私」が登場するのはこのためである。
 ことばの世界へ「私」が登場し、ことばをとおして、何かを別のものに「する」。その何にするかということのなかに、「私」があらわれる。この「あらわれる」は単に登場するというだけの意味ではなく、いや、単に「私」という表面的な存在(?)としてあらわれるという意味ではなくて、そこに「人間性」そのものがあらわれるということである。「思想」が「肉体」としてあらわれるという意味である。

 詩の意味は、そこにある。

 ことばの運動のなかに、そのひと自身が「肉体」として、「ことば」として、「思想」としてあらわれる。
 ボールに書かれた「ゆうこ」という文字を見て、それから「ゆうこ」という少女を想像し、その少女が大人になったと想像する。その想像をことばで結晶化させていくとき、そこには橋場がいつも考えていること(思想)がくっきりと反映される。大人になった少女、女性、はどんなふうに暮らしを生きているか。何を思い出すか。ボールのように、踏まれて、蹴られて、草むらに転がって、置き忘れられて--それでも、どこかへ生きたいと思っている。
 これは空想ではなく、思想であり、肉体だ。暮らしに密着し、いつでも考えを支配する思い、それこそが「思想」というものである。
 そういうことばを書きながら、橋場は、橋場自身が、ひとりの人間になる。「思想」をもった人間になる。ことばは、橋場を、「思想」をもった人間に「する」のである。

ゆうこ、はきっと私だから

 この「私」ということばの重さを大切にしたい。大切にしてもらいたい。そのことばの運動のなかにある「する」を大切に育ててほしい。

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北川透「『海の古文書』序章の試み」

2010-01-16 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「『海の古文書』序章の試み」(「現代詩手帖」2010年01月号)

 きのう読んだ柏木勇一の詩集は「ことば」が「流通言語」で構成されていた。詩のことばもあるのだけれど、それは「比喩」である。「比喩」というのは、いま、ここにあるものを、いま、ここにないもので言い表すことである。ふたつの存在の間をことばというか、意識が行き来する。そのとき、その運動のなかでしか見えないもの(まあ、電車で旅するときの、動く風景の、その動きのようなもの)が見える。
 --この、運動のなかでしか見えないもの、それを「比喩」から解放して、純粋にことばの運動そのもののなかで展開するとどうなる。
 たとえば、北川透「『海の古文書』序章の試み」。
 ここに書かれていることばから「意味」を引き出そうとすれば、まあ、できるかもしれない。でも、そんなことをしても「窮屈」になるだけだろう。ことばはどうしたって、私たちの知っている何かと結びつき、あれこれのことを思い起こさせるから、そこから「意味」を見つけ出そうとすれば見つけだせるかもしれないけれど、それはとても面倒くさい。北川が、何か「意味」をこめているのだとしても、面倒くさくて、私はそれを取り出したいとは思わない。(北川さん、ごめんなさいね。)
 では、何を読むのか。
 ことばのスピードと、そのスピードによっても狂わないことばの強度、そのスピードに乗ってどこへでも行ってしまえることばの、その力そのものを読む。いや、読む、というのは正確ではないなあ。私は、読んではいない。あ、かっこいい、と思うだけである。
 うまくいえないが……。街で、とんでもない格好をした人に出会う。(服装、ファッションのことですよ。)そういう格好は、まあ、できない。なんといっても、ひと目があるからねえ。でも、ああいう格好ができたら楽しいかな、と思う。いつも見ている街の風景だって違って見えるかもしれない。変な格好の中には、何か特別のエネルギーがある。変な格好というのは、そのエネルギーを受け止め、それが「形」(目に見えるもの)に仕立てたもの。
 ことばにも、そういう動きがあるのだ。
 なんだかわからないけれど、既成のことばの運動(流通言語)では明らかにできないものがあるのだ。
 そしてそれは、私には適当なことばがみつからないのだが、その「何か」は、たとえば北川自身が持っているものではなく、ことばそのものが持っているものなのだ。
 奇抜な格好、ファッションも、そんな格好をする人が、あふれだすエネルギーを持っているだけではなく、ファッションというもの、そのもののなかにこそ、何か既成のものでは収まり切れないエネルギーがあって、それが噴出してきている--というのがほんとうのことかもしれない。私はファッションというものを、そんなに見てきているわけではないので、そこまでは感じることができないけれど……。
 しかし、私は私なりに、ことばというものをかなり読んできている(見てきているので)、ことばに関して言えば、ことばにはことば自身のエネルギーというものがあって、それは書き手の思惑(意味の押しつけ?)を超えて、勝手に動いていくことができる、と、(いささか乱暴だけれど)断言できる。断言したい。

 わたしが語ろうとするのは、またしても三人の男の行方です。

 北川がそう書き出したとき、北川には何かいうべきこと(意味)があったかもしれない。あったかもしれないけれど、その1行を読んだ瞬間から、私は北川が何を言おうとしているか、まったく気にならなくなる。どんな思いで北川がそのことばを書いているか--それはどうでもいい。(またまた、ごめんなさいね、北川さん。)
 三人はほんとうに三人か。もしかしたらひとりであって、それがたまたま三人にみえるだけかもしれない。あるいは百人いるのだけれど、三人にしか分節できないのかもしれない。(あ、分節、ってこんなふうに使っていいですか? 「現代思想」に詳しいひとがいたら教えてね。)
 私が興味があるのは、そんなふうに書きはじめたことばがどこまで動いていけるか。その動きなのかで、いったい、ことば自身の力のどの部分が新しく目覚めるか、ということだけである。

 たぶん--というのは、間違っているかもしれないけれど、間違っていたとしてもその間違いは間違いを通り越して別なものに触れる--いわば、方針転換(?、閑話休題?)することで、何かほんとうのことになる--ということを期待して書いているのだけれど。(あ、意味のわからないことばだなあ。--でも、どう書き直していいか、わからないから、このままにしておく。)
 たぶん。
 たぶん、北川にも、何を書くかということは決まっていない。北川はただことばを動かしたいだけなのだ。自分の知っていることばを動かして、破壊して、既成のことばではなく、まだことばにならないことばのエネルギーを引き出したいのだ。

 わたしが語ろうとするのは、またしても三人の男の行方です。ひとりは狂死、ひとりはアルコール中毒死、もう一人は行方知れず。狂死の男も、中毒死の男も、生死不明の男も、みんなどこかで生きています。

 死んだ、と書いたと思ったら、生きている、と書く。
 これは、何を書くか決まっていないから、こんな具合になるのだ。「事実」と「ことば」が一致しているなら、「ことば」が「事実」にそくして動くものなら、ここに書かれていることは「矛盾」であり、北川は、いわばでたらめを書いていることになる。
 北川は、「事実」ではなく、ことばを動かし、そのことばが、いったい私たちの何を縛っていているかを探る。探りながら、ことばそのものを「ことば=事実」という関係から解き放ち、自由にしたいのだと思う。
 もし北川に「思想」があるとすれば、いや、私は「ある」と信じているけれど、それは1行目の「語ろうとする」の「する」こそが北川の「思想」であり、「肉体」なのだ。
 北川は何かを「語る」のではなく、語ろうと「する」。
 「わたしが語ろうとするのは」と「わたしが語るのは」は、ぱっと読んだだけでは同じかもしれない。「する」があろうがなかろうが、そのあとにつづくことば(意味・内容)がかわるわけではないかもしれない。
 けれど、違うのだ。
 「する」には、意識の「念押し」のようなものがある。「決意」がある。「語る」をさらに押し進めていく--それが「語ろうとする」である。
 そして、ことばは、その「語ろうとする」の「する」を引き受けて、勝手に(?)というか、北川をおしのけて動きはじめる。ことばがことば自身で、語ろうと「する」のだ。
 2連目。

 このあたりで、語り手を引き受けているわたしの正体を明かさなければならないでしょう。気障なことを言えば、わたしはこの世に居場所のない五位鷺、詩のことばです。ことばにも肉体があり、性別があるなんて不思議ね。仕事もセックスもしますよ。旅行だって、人殺しだって、魚釣りだって、逆立ちだって、ことばは人間がする、あるいは人間だけはしないあらゆることをします。

 「わたし」は動きはじめたことばに「乗っ取られて」、「ことば」になってしまう。「詩のことば」になってしまう。それは「わたし」を超越する。筆者、語り手とは関係がない。(--とはいえ、それも北川の書いたことではないか、という指摘がありそうだけれど、無視しますね。とりあえず、あるいは永遠に。)
 だって、ことばは「人間がする」ことだけではなく、「人間だけはしない」ことさえできるというのだから、それは、もう北川の意識とは関係がないね。
 私は根が素直な人間なので、あらゆることばを、ことばそのままに受け止めるのです。人の言うことより、ことばそのものが語ること、語ろうとすること、それを優先する。誰が言ったかではなく、そのことばが言おうとすることを優先する。「誰」をとおりこして、そのことばのなかには、そのことばでしかたどりつけないものがある。

 もし、そういう自由な、わがままなことばの何かに北川が関与しているとするならば。--それは、北川がこれまでに鍛え上げてきた「文体」の力である。ことばは北川が鍛えてきた文体に乗ることで、日本語として読むことができる文章になる。そして、そういう文章になりながら、ことばは、その文体を突き破って別なものになろうとする。
 ここにはとんでもない「矛盾」がある。
 そして、この「矛盾」こそ北川の「思想」であり、「肉体」である。ことばを自在に動かすには、ことばのエネルギーを受け止めるだけの強靱な「文体」が必要であり、その強靱な「文体」だけが、あらゆる「文体」を破壊してしまう「ことばの自由」、「自由なことば」を引き出すことができる。
 あれっ。でも……。
 強靱な文体によって表現された自由なことば--それって、結局、強靱な文体のなかに存在するの? それともその文体さえも破壊して、文体が成り立たなくなるの?
 あ、変ですねえ。何を言っているか、わからないでしょ? 「矛盾」について書こうとすれば、どうしたって、変になる。正しい日本語(?)では書けなくなる。変なものは変なまま、書いてしまう。無理には整えない。--これが私の主義(?)なので、このままつづけることにする。

 北川の言い分(?)か、ことばの自己主張か。どっちでもいいけれど、私は「ことばの自己主張」という側に立って、そのことばに耳を傾ける。
 強靱な文体を突き破って、新しくことばになろうとすることばの思いに耳を傾ける。そうすると「現代詩」がいったい何をしようとしているのか、そのことばが何を語ろうと「する」のか、その「意思」のようなものが見えてくる。
 その「意思」、「する」という運動の側に立ちたい、と思う。

わたしの身体を編んでいる文法の糸が、ぐちゃぐちゃ絡みだし、その中を流れている古代からの血が奔騰し、濁りはじめる。

 いいじゃないか、どこまでも濁っていけば。濁った果てに結晶化するのか、あるいはビッグバンのように破裂して跡形もなくなるのか、跡形もないはずなのにそれが誕生ということになるのか、どっちにしたって動いてしまうのがことばである。ひとに受け入れられ、また拒まれる。その二通りを生きるのがことばのいのちじゃないか。がんばれ、がんばれ、と声援までおくってしまうなあ、私は。

 狂死した男、《絶滅の王》が誰に対しても許せなかったのは、行為とことばの不一致でした。しかし、中毒死した男の認識は、心情を過激化させ、眠り込ませる行為と、それを覚醒させることばの関係の本質は、必ずずれる、不一致にあるということでした。

 不一致。かっこいいじゃないか。一致してたまるか。不一致のなかに、誰も知らない「美」があり、それは「不一致」ということばを書いた瞬間に「美」にかわってしまうものだけれど、だからこそさらなる不一致をつくりつづけなければならない。ね、「矛盾」。かっこいいじゃないか。がんばれ、がんばれ、がんばれ、ことば。またまた声援をおくってしまう。


現代詩手帖 2010年 01月号 [雑誌]

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窯変論―アフォリズムの稽古
北川 透
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アリ・フォルマン監督「戦場でワルツを」(★★★★★)

2010-01-15 20:24:02 | 映画

監督・脚本・音楽・声の出演 アリ・フォルマン

 アニメとは知らなかった。最初は、いつになったら実写になるのだろうと思いながら見ていた。ドキュメンタリーであるとも知らなかったので、見ているうちに、ドキュメンタリーならではの「事実」の力に引き込まれて行った。
 でも、まあ、この映画の最大の魅力は独特のアニメだろう。その映像だろう。まるで実写映像のコントラストを大きくして、影と光で表現しなおしたような絵。あるいは、版画のような、といってもいいかもしれない。線の描写が強い。そのリアルさは、3Dアニメやコンピューターグラフィックスのリアルさとはまったく別。夢--いや、悪夢のリアルさである。そして、その悪夢を印象づけるのが、光と影に二分割されたような映像のなかにあって、目だけがまるで実写のように生々しいのである。
 映画の内容は、映像そのままに「悪夢」である。
 映画監督である主人公が、自分の体験したはずのベイルートの住民虐殺の記憶を、友人を訪ね歩きながら取り戻す。住民虐殺という「輪郭」(アニメで言うと、黒い線の部分だね)ははっきりしているが、その「内部」が空白である。(アニメの、黒い輪郭に囲まれた、たとえば、主人公の顔--それには「起伏」がない。「肌」のつながりがない。輪郭の内側は、文字通り白い「空白」なのである。)主人公は、その「空白」を埋めたいと思っている。それは言い換えると、顔の「空白」を表情で埋めるということかもしれない。表情というのは、ただ単に顔の表面にあるのではなく、人間の「内部」から生まれてくる。体験、記憶、というものがあって、はじめて顔が顔になる。
 記憶を取り戻す--という監督のこころみは、彼自身の「表情」を取り戻すというこころみでもあるのだ。映画の最後が虐殺された少女の「表情」のアップで終わるのは、この「表情」を取り戻すというこころみと関係があるのだ。虐殺に関係した監督の「表情」は虐殺された少女の「表情」を手にいれることで、はじめて光と影で二分割されたアニメの顔からほんものの顔になるのだ。--記憶を取り戻すとは、自分自身が関係した虐殺の犠牲者の「顔」のすべてを自分の顔・表情として、自分の「顔」として受け入れること、虐殺の犠牲者の「顔」を生きることなのだ。
 監督に最初に相談に訪れる友人が、ベイルートで殺した26匹の犬の顔をすべて覚えているというが、虐殺に関係した監督は、虐殺された人々の顔をひとりも覚えていなかった。他人のいのちを奪ったのに、そのひとの顔の記録さえない。ひとには名前があり、また同時に顔がある。顔によって、ひとはひとになる。そのことを思うとき、このアニメの「絵」そのものが、ひとつの「思想」であることがわかる。
 実写をなぞったようなアニメ。実写を光と影のコントラスト、輪郭と空白にしてしまった登場人物(おそらく実在の人物)--彼らもまた「顔・表情」を失った不完全な存在である。不完全、というのは「実写・実物」に対して不完全という意味である。重要な「顔」「表情」をなくしている、という意味である。
 監督は、登場人物を、そういう不完全なアニメの映像にすることで、登場人物(彼自身を含めて)を告発しているのである。ベイルート虐殺に関係するすべての人間を告発しているのである。彼らはすべて「表情」をうしなった人間である、と。「表情」を取り戻すためには、虐殺された人々の顔・表情を「アニメ」ではなく、実写としてリアルに思い出し、それを自分自身の「肉体」にしなくてはならない、と。

 アニメであることが、この映画の場合、思想そのものなのだ。告発そのものなのだ。

 アニメだけに限らず、表現とは何か、ということを問いかける映画でもある。私たちの、ことば、記憶、感情--それはいったい何なのか、という問いを含んだ強烈な映画である。表現の表層と、表現の内容の関係はどうあるべきなのか、という問いを含んだ映画でもある。
 自分で何かを表現したいと思う人は必ず見るべき映画である。

(キネマ旬報のベスト10に入っていた映画である。福岡では、いま、ようやく上映されている。)

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柏木勇一『たとえば苦悶する牡蠣のように』

2010-01-15 00:00:00 | 詩集
柏木勇一『たとえば苦悶する牡蠣のように』(書肆青樹社、2009年12月20日発行)

 柏木勇一『たとえば苦悶する牡蠣のように』の巻頭の作品「ここにはむかし樹木があった」は印象的な書き出しである。

だれでもそう語ることができる
ここにむかし樹木があった
だれもが樹木への思い出があるから
ここにむかし「私の」一本の樹木があった

僕はこうも語れる
ここにむかし柿の木が一本あった

 これは「ひとり」であることの宣言である。「だれでも」は不特定多数のあらわすが、人間はけっして不特定多数ではない。それぞれ「ひとり」である。「だれでも」であるからこそ「ひとり」である。そして「ひとり」にはそれぞれ「一本の木」があるように、それぞれ「ひとつ」のものがある。
 柏木が問題にしている「ひとつ」は「一本の柿の木」、あるいは何か別の「ひとつ」ではなく、実は「ひとり」である。戦死した父--たったひとりの父、父という「ひとり」の人間。戦争は「ひとり」を「ひとり」として見ない。だからこそ、生き残っている「ひとり」の人間として、戦争で死んでしまった「ひとり」の父のことを書く。
 巻頭の詩は、次のように書くことも(書き直すことも)できるのだ。

だれでもそう語ることができる
ここにむかし父がいた
だれもが父への思い出があるから
ここにむかし「私の」たったひとりの父がいた

僕はこうも語れる
ここにむかし僕の父「○○」がいた
                     (○○には、父の「名前」が入る)

 権力は(あるいは国家は)、「ひとりひとり」を「だれも」という不特定多数にしてしまうが、「だれも」という存在はいない。ひとりひとりに「名前」がある。「名前」があって、「ひとりひとり」である。
 「そこに眠りについたもの」には、次のことばがある。

例えば
葬りさられた夥しい死者たちの
その夥しい数ではない
ひとりひとりの
空に向けられた涙の来歴を

(略)

すべてはそこに眠りついて
いまなお存在しているもの
わたくしであり あなたでもあり あの人かもしれない

 「ひとりひとり」とは「わたくし」であり「あなた」であり「あの人」である。それはひとまとめにはできない。かならず「ひとり」なのである。
 この「ひとり」の感覚は、人間だけではなく、あらゆる存在に向けられる。

枯葉に紛れて質問状が届く
奇跡と悪夢の違いについて述べよ

意味を反芻する わたくしは牛
大地にひれ伏して考えた
大地の底から聞こえてくる奇跡の心音
大地が振動してくる悪夢の予感

瞬間
大地を蹴り上げる わたくしは馬
大空へ逃亡する わたくしは鳥
地層の歪みに身をまかせる わたくしは蛇

振り向けば一本の木
すべての葉を落として立つ
何もなかった大地に一本の裸木が空間を作った
消滅という悪夢を追いはらった一本の木の奇跡

枝と枝の間を行き来しながら緑のざわめきを約束する
わたくしは虫
わたしくは蕾
わたくしは蝶

 「人間」だけが存在するのではない。「いのち」が存在する。牛、馬、鳥、蛇、虫、蕾、蝶。すべては「ひとり」なのである。この、「人間」という「枠」を超越して「いのち」そのものに結びつく力が柏木の思想である。「肉体」である。
 この詩には、そういう思想と深く関係する美しい1行がある。

何もなかった大地に一本の裸木が空間を作った

 一本の木が「空間を作った」。「空間」は関係でもある。関係というのは「ひとり」(ひとつ)では存在し得ない。かならず相手(他者)が必要である。他者と出会い、それぞれが「ひとり」のまま生きる。そのとき、その「ひとり」と「ひとり」の間に「ひろがり」が生まれる。それが「空間」。そして、その「空間」のなかへ「わたくし」はあるときは牛になり、あるときは馬になり、蛇になり、虫になり、出て行く。「いのち」の生々しい形としてあふれていく。--そうやって、世界はできあがっている。その世界の「証人」になる、と宣言しているのが、この詩である。
 そして、その「証人」が告発しようとしているのは「戦争」である。たった「ひとり」の「父」から「父の名」を剥奪し「だれでも」という不特定多数として不当な扱いをする「戦争」である。
 「わたしは幸せな男だ」の「幸せ」は、もちろん反語である。

わたしの中にはいつも戦争があり
わたしの中にはいつも死者がいるから
わたしはいつも忙しい
こうしている間にも私の爪の先から羽虫が湧き出し
わたしの中の死者が目覚めようとしているから





擬態
柏木 勇一
思潮社

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山本まこと『不都合な旅』『鳥の日』

2010-01-14 00:00:00 | 詩集
山本まこと『不都合な旅』(書肆侃侃房、2009年10月18日発行)『鳥の日』(私家版、2009年04月12日発行)

 山本まことの作品は書き出しがどれもたいへんおもしろい。「冬の日溜まり」(『不都合な旅』)は山本のなかでは異色なものである。いつものことばの炸裂がない。けれども、その部分がとてもいい感じなので、まず、その冒頭。

冬の日溜まりには
猫がつけてきた草の実を
うつらうつらと取り除く母がいる
母はもういないのに
冬の日溜まりに許されて
また母を見る
セーターのほつれなんかはそのままに
私はまだうまれていなくていいような
生まれるものは影だけであっていいような
そんな奇妙な時間

 冬の日溜まりを見ていて、そのなかに亡くなった母の姿を思い出す。それを知っているのは山本が生まれて来たからなのだが、生まれてきたことさえ忘れてしまうような「永遠」の時間。
 「私はまだ生まれていなくていいような/生まれるものは影だけであっていいような」は山本に特有の繰り返しである。一種の反対の動き(反対のことばの動き)を利用して、ことばの「いま」を動かす。その動きの瞬間に「永遠」が見える。
 そのあとが、私はちょっと疑問に感じている。
 ことばはことば自身で動いていく。書き手の思いなんか、無視して、ことばがことばじしんの力で生まれてくる--そういうことを私は信じているのだが、山本は、その自然に生まれてくることばをちょっと無理やり動かしている。
 ええっ、ことばは、そんなふうには動かないだろう、といつも思ってしまう。「冬の日溜まり」のような、なつかしいような、とても自然な情景のときでさえ、ことばを無理に動かしている。その結果、ことばが「うるさい」感じになる。
 だから、その部分は、引用しない。
 途中を省略して、最後の2行。

いま野にあるひとの
麦を踏むうつくしい沈黙!

 「そんな奇妙な時間」のあと1行あけて、この2行を私は読みたい。引用しなかった7行を吹き飛ばして、その世界と向き合いたい。
 「私はまだ生まれていなくていいような/生まれるものは影だけであっていいような」と揺さぶられた世界から、ぽーんと飛んでしまいたいのだ。視線を解放したいのだ。7行のなかには、信じられないくらいうるさい「音」がある。そんな音に比べると、麦を踏むひとの沈黙がどれだけうつくしい音楽かがわかる。
 山本は敏感な耳をもっているのだけれど、その敏感さが「正直」を生かしきれていない、そんな感じがする。
 あいまいな表現になってしまうが、谷川の「電光掲示板のための詩」の「ああ いい うう」は「正直」の真骨頂だが、そういうところから、山本の詩は離れてしまっている。特に引用しなかった7行は。



 「鳥」(『鳥の日』)の書き出しもとても魅力的だ。

薔薇の鏡
に隠れたひとの星と霜をそそのかし
鳥がとぶ
その最果ての夢の流刑地
獰猛な犬のように
ガラスまでもが匂いはじめる

 この飛躍。2行目の「に」という絶妙なタイミング。飛躍し、すぐに粘着する。(私のこの書き方は、変な日本語だね。)
 ことば、イメージの、それ自体で飛躍していく力を、「に」という助詞がきわだたせる。「に」によって、最初の1行がそれ自体で独立し飛躍していると同時に、その飛躍があってはじめて次のことばが誘われるように、自由に飛び回ることができることがわかる。「に」は強い粘着力を持っているが、その粘着力に反発するようにことばが自由に動くのだ。粘着力がことばの自由な飛翔の誘い水になっているのだ。
 あるいは、こういうべきか。
 「に」そのものが、1行目の末尾にぶら下がることを拒絶し、2行目の冒頭に飛躍した。その飛躍に引っ張られて(なんといっても「に」には粘着力がある。西脇順三郎なら、こういうとき「に」ではなく「の」をつかう)、それまで隠れていたことばが宙を飛んでしまうのだ。
 これはいいなあ、と思う。

 しかし、冒頭の部分は、ほんとうは次のような形をしている。

薔薇の鏡
に隠れたひとの星と霜をそそのかし
鳥がとぶ
その最果ての夢の流刑地
獰猛な犬のように
ガラスまでもが匂いはじめる語の日蝕を生きて
打ち棄てられた意味の深海魚がたとえグロテスクであろうと
深くありたい
ただ深くありたいと
薔薇の鏡に隠れたひとの盲目のしんごんは
いや、高さも深さも同じことだ
いきなり空の鯨の高貴を浴びる

 ことばは飛翔しない。ずるずると粘着力にからみとられて身動きがとれなくなる。「いや、高さも深さも同じことだ」というような「いや」ということばをつかいながらも、どこにも「否定」の要素がないべたべたのことばにまみれてしまう。
 ある意味では、この詩は「に」の粘着力に打ち負かされて、ことばの粘着力を証明する詩である--と定義しなおすこともできるのだろうけれど、それでは、ねえ……。

 ことばに「意味」などない。書き手の意思など無関係に、ことばにはことばの運動がある。私はそう思っている。だから、冒頭の「薔薇の鏡/に隠れたひとの星と霜をそそのかし」にはたいへん感心するし、あ、いいなあ、このまま飛翔しつづけてほしい、自由なことばを自由なままに動かしてほしいと願うのだが、なんといえばいいのか、山本は「ことばにはことば自身の運動がある」ということさえ、「意味」と思ってしまうんだろうなあ、きっと。
 それは違うのに。

 「意味」ではなく、「音楽」なのに……。中断している西脇論を、また書きたくなった。





詩集 不都合な旅
山本 まこと
書肆侃侃房

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マイケル・ムーア監督「キャピタリズム」(★★★)

2010-01-13 12:17:37 | 映画
監督・脚本・出演 マイケル・ムーア

 ドキュメンタリーの真骨頂は、映し出されている対象が怒って「本音」をいってしまうところにある。そういう意味では「ボウリング・フォー・コロンバイン」がやはり一番おもしろかった。チャールトン・ヘストンが「本音」をもらしますからねえ。でも、もういまではマイケル・ムーアが有名人になりすぎて、だれも「本音」を語らない。あ、アメリカの経済政策に反対する議員は別ですけれどね。
 アメリカの議員が選挙を控えて右往左往し、それに乗じて金融機関を救済する法案が通った--ということをきちんと描いている点がこの映画の白眉だけれど、ここでもなんといえばいいのか、「悪人」が「本音」を語るシーンが出てこない。
 そうすると、それがどんなに「正論」であっても、あまりおもしろくない。教科書どおりの批判になってしまう。「正義」の大演説になってしまう。「正義」の主張は主張でいいのだけれど、とても残念。
 まあ、無理なんでしょうけれどね。
 マイケル・ムーアの映画で「本音」をいってしまうことは、「本心」を暴かれること--につながる。「観客」に叩かれる材料を提供するだけになるからね。それは、まずい。もう、みんなが警戒している。
 とてもがんばっている作品なのだけれど、がんばってもがんばっても、「敵」に声がとどかない。いや、声はとどいているのだけれど、その反応、「敵」の声を引き出せない。これでは、やっぱり、おもしろくない。

 これをどう破っていくか--これが大きな課題だな。映画だけではなく、資本主義批判をするときの大前提として、どうやって「巨額の富」を得た人間を庶民の「場」を引きずり出すかという工夫が必要なんだろうなあ。現実の大衆に取り囲まれないかぎり、つまり、「声」が映画でとどけられるというような間接的な状態では、金持ちは痛くも痒くもないだろうなあ。つかいきれないほどの金があるんだから。金を稼ぐ必要はないんだから。うーん。もどかしさが残る映画だなあ。




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谷川俊太郎「電光掲示板のための詩」(2)

2010-01-13 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「電光掲示板のための詩」(2)(「現代詩手帖」2010年01月号)

 きのう、谷川俊太郎「電光掲示板のための詩」の横書きの詩を取り上げて、最後に「つづく」と書いた。そのとき書こうとしたことは何だったのか。それをはっきり覚えているわけではない。私はいつでも「結論」へ向けて書いているのではない。何かを書きたいと思い、書きはじめ、それから何を書きたいのか探している--と、言い訳めいたことを書いてしまうのは、たぶん、一日時間が経ってしまって、そのあいだに気持ちがかわったからかもしれない。これから書くことが、きのうの「つづく」とほんとうにつながるかどうか、わからない。

 「電光掲示板のための詩」について、私は、不思議・不気味、と書いた。その不気味さは、横書きよりも縦書きの部分の方がもっと不気味である。谷川はどちらを先に書いたのかわからないが、読んだ印象から言うと縦書きの方があとである。縦書きの方が、横書きのものよりはるかに不気味である。
 最後が、不気味である。

ああ いい うう

 最後の「声」。
 私が感じている不気味さを、実は、どう説明していいか私はわからない。わからないが、「ああ いい うう」ということばを読んだとき、あ、ことばは「あ」から始まるということであり、そしてその「あ」はアルファベットの国でも同じだということにつながる。アルファベットの国といっても、私の知っているのは、英語、フランス語、スペイン語くらいだから、私の感想は間違っているかもしれない。私は言語学者ではないから、こうした感想そのものが間違っているかもしれないのだが、英語、フランス語、スペイン語でも、ことばというか「声」は「あ」から始まる。西欧のことばでは「あ・い・う・えお」ではなく「あ・え・い・お・う」かもしれないが、最初は「あ」。--そのこと、その「共通性」に、私は不思議な不気味さを感じたのだ。
 ことばは「声」。ことばは「あ」から始まる。そう考えると、ことばは絶対に「声」である。口を開けて、体の奥から息を吐き出す。すると、まず「あ」になってしまう。その「あ」が何かとぶつかって、別の「音」(声)を引き出す。そうやって、ことばは始まる。どんなことばでも、それは同じだ--そのことを、ふいに、谷川の詩から教えられたのだ。
 そんなことを(というと語弊があるだろうけれど)、なぜ谷川の詩から感じたのだろう。それが私には不思議であり、不気味なのだ。

 縦書きの部分は、次のように始まっている。

コトバはどこで生まれたのだろう コトバはいつ生まれたのだろう コトバが芽を出すのを見たことがありますか ことばの卵が孵るのを見たことがありますか

 私は、それを見たことがない。けれども、私は「聞いたことがある」と、いまなら言える。谷川の、この詩。「電光掲示板のための詩」という詩から、ことばが生まれ、芽を出すそのときの「音(声)」を聞いたことがある、と、いまなら言える。それは「ああ いい うう」という「声(音)」から始まった。
 「ああ いい うう」の直前には、

コトバは増殖し繁殖し循環し消え去ることがない

 とある。「ああ いい うう」は増殖し繁殖し循環し(この循環が大事かもしれない)、冒頭の「コトバはどこで生まれたのだろう」につながるのだ。増殖、繁殖の過程では、きっとヨーロッパもアジアもアフリカも横断する。そしてきっと「日本語」にもどるのだ。
 「電光掲示板」のことばは、谷川が横書きの詩で書いていたように「音」がない。「声」を失っている。けれど、それはきっと見せかけ。ことばには「声」がある。「声」から出発して、それも「あ」という「声」から出発して、いま、こうして、こんなふうに動いているのだ。
 そのことを「ああ いい うう」から、私は感じた。そして、そんなことを感じさせる「ああ いい うう」というのは「詩」を超えているとも思った。「詩」を超えているから「詩」なのだとも。--矛盾しているけれど、その矛盾のなかに、引き込まれてしまった。





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