監督・脚本 マノエル・デ・オリヴェイラ 出演 リカルド・トレパ、カタリナ・ヴァレンシュタイン、ディオゴ・ドリア、レオノール・シルヴェイラ、ルイス=ミゲル・シントラ
オリヴェイラの映像は相変わらず剛直で美しい。カメラで語るのではなく、カメラはただ存在を切り取り、切り取られた存在がカメラのなかで語り出すのを待つ。その忍耐力のようなものが映像を剛直にしている。
冒頭の列車のシーンにまず驚かされる。車掌が改札をしている。列車のなかほどから映し出されているが、車掌がその列車を出てゆくまで延々と続く。途中に省略というものがない。車掌が出て行って、客は何もすることがなくなる。そのとき、列車で旅をしたものなら誰でもが感じる手持無沙汰な時間がやってくる。そういうとき、どうします? 映画の主人公は、隣の席の見知らぬ女性に語りかける。映像は、その語りかけるまでの「時間」そのものを映し出す。「時間」を映し出すというより、「時間」を動かしてしまう人間(主人公)を映し出す。別な言い方をすると、主人公が動き始めるまで、カメラはただ待っている。そして、そのときの「待つ」カメラの、どっしりした位置がとても美しい。カメラは動かず、動かないことによって、動いてしまう人間の「本質」を暴くのである。
このカメラの前では役者は大変である。「人間」のすべてが出てしまう。
これにつづくシーンも非常におもしろい。主人公の話を聞く女性は、とても変な眼をする。話を聞いているのか、聞きながらも、その話にのめり込まないようにしているのか、男を見ない。中途半端な空間を見つめている。男が自分をさらけ出すのに対し、けっして自分を見せない、という姿勢をとる。この二人の違いを、カメラは何の演技もせず、ただ役者に語らせる。クローズアップで目の動きを追ったりはしないのである。
この動かないカメラの映画のなかで、一番美しいのは、ブロンドの少女がカーテン越しに立っているシーンである。開いた窓の向こうに、カーテンがあり、その向こうに少女がいる。彼女の姿は明確ではない。その明確ではない少女の姿が、「あ、美しい」と観客が(そしてそれを見つめる主人公が)思うまで、ただただ待っている。なぜ美しんだろう。かすかに動くカーテンの光の変化、空気の変化そのものが美しいからだ。いま、少女の美しさは、光と空気の美しさそのものなのだ。主人公ではなくても少女に恋をしてしまいそうになる。
この少女が、しかし、「美しさ」を自分で壊してゆく。その映像が、また、とてもおもしろい。
少女が主人公とキスをする(たぶん)シーンがある。このとき少女の片足が跳ね上がる。それまで、この手のシーンがないだけに、「あれっ」と感じる。今のシーンは何? 何のためのシーン? まあ、キスを暗示するためといえばそれまでだが、なぜここで突然足が演技をするのだろう。それも、「美しい」という印象ではない。何か、こびたような、どちらかというと「醜い」印象である。この「醜い」は、先に書いたカーテン越しのシルエットの「美しい」とは対照的なものである。つまり、その跳ね上げた片足には「空気」がないのである。むきだしなのである。とても不思議な気持ちになる。ずーっと、跳ね上げた片足の印象が残り続ける。
それが最後でまた驚くような足と結びつく。少女には盗癖がある。「手癖が悪い」のである。(ポルトガルに同じ表現があるかどうか知らない。)その盗癖が発覚し、主人公との恋が破たんする。
そのあと。
少女が椅子に深々と座るシーン。大股を開き、だらしない姿勢である。とても「醜い」。私は、少女がそのまま小水でも漏らすのかと思ったくらい、なんとも不気味にだらしなく、醜い姿勢である。少女の本質を、オリヴェイラは足で暴いているのである。「演出」らしい演出は、ふたつの足のシーンだけなのだが、思わず、うーんと唸ってしまう。
オリヴェイラの映像はただただ剛直で美しいという印象が私にはあったのだが、一方で、こんなに醜い映像もしっかり見ていたのだ。醜さを認識できるからこそ、美をより強靭なものとして描くことができるのかもしれないと思った。
オリヴェイラの映像は相変わらず剛直で美しい。カメラで語るのではなく、カメラはただ存在を切り取り、切り取られた存在がカメラのなかで語り出すのを待つ。その忍耐力のようなものが映像を剛直にしている。
冒頭の列車のシーンにまず驚かされる。車掌が改札をしている。列車のなかほどから映し出されているが、車掌がその列車を出てゆくまで延々と続く。途中に省略というものがない。車掌が出て行って、客は何もすることがなくなる。そのとき、列車で旅をしたものなら誰でもが感じる手持無沙汰な時間がやってくる。そういうとき、どうします? 映画の主人公は、隣の席の見知らぬ女性に語りかける。映像は、その語りかけるまでの「時間」そのものを映し出す。「時間」を映し出すというより、「時間」を動かしてしまう人間(主人公)を映し出す。別な言い方をすると、主人公が動き始めるまで、カメラはただ待っている。そして、そのときの「待つ」カメラの、どっしりした位置がとても美しい。カメラは動かず、動かないことによって、動いてしまう人間の「本質」を暴くのである。
このカメラの前では役者は大変である。「人間」のすべてが出てしまう。
これにつづくシーンも非常におもしろい。主人公の話を聞く女性は、とても変な眼をする。話を聞いているのか、聞きながらも、その話にのめり込まないようにしているのか、男を見ない。中途半端な空間を見つめている。男が自分をさらけ出すのに対し、けっして自分を見せない、という姿勢をとる。この二人の違いを、カメラは何の演技もせず、ただ役者に語らせる。クローズアップで目の動きを追ったりはしないのである。
この動かないカメラの映画のなかで、一番美しいのは、ブロンドの少女がカーテン越しに立っているシーンである。開いた窓の向こうに、カーテンがあり、その向こうに少女がいる。彼女の姿は明確ではない。その明確ではない少女の姿が、「あ、美しい」と観客が(そしてそれを見つめる主人公が)思うまで、ただただ待っている。なぜ美しんだろう。かすかに動くカーテンの光の変化、空気の変化そのものが美しいからだ。いま、少女の美しさは、光と空気の美しさそのものなのだ。主人公ではなくても少女に恋をしてしまいそうになる。
この少女が、しかし、「美しさ」を自分で壊してゆく。その映像が、また、とてもおもしろい。
少女が主人公とキスをする(たぶん)シーンがある。このとき少女の片足が跳ね上がる。それまで、この手のシーンがないだけに、「あれっ」と感じる。今のシーンは何? 何のためのシーン? まあ、キスを暗示するためといえばそれまでだが、なぜここで突然足が演技をするのだろう。それも、「美しい」という印象ではない。何か、こびたような、どちらかというと「醜い」印象である。この「醜い」は、先に書いたカーテン越しのシルエットの「美しい」とは対照的なものである。つまり、その跳ね上げた片足には「空気」がないのである。むきだしなのである。とても不思議な気持ちになる。ずーっと、跳ね上げた片足の印象が残り続ける。
それが最後でまた驚くような足と結びつく。少女には盗癖がある。「手癖が悪い」のである。(ポルトガルに同じ表現があるかどうか知らない。)その盗癖が発覚し、主人公との恋が破たんする。
そのあと。
少女が椅子に深々と座るシーン。大股を開き、だらしない姿勢である。とても「醜い」。私は、少女がそのまま小水でも漏らすのかと思ったくらい、なんとも不気味にだらしなく、醜い姿勢である。少女の本質を、オリヴェイラは足で暴いているのである。「演出」らしい演出は、ふたつの足のシーンだけなのだが、思わず、うーんと唸ってしまう。
オリヴェイラの映像はただただ剛直で美しいという印象が私にはあったのだが、一方で、こんなに醜い映像もしっかり見ていたのだ。醜さを認識できるからこそ、美をより強靭なものとして描くことができるのかもしれないと思った。
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