詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マノエル・デ・オリヴェイラ監督「ブロンド少女は過激に美しく」(★★★★)

2010-11-24 16:33:32 | 映画
監督・脚本 マノエル・デ・オリヴェイラ 出演 リカルド・トレパ、カタリナ・ヴァレンシュタイン、ディオゴ・ドリア、レオノール・シルヴェイラ、ルイス=ミゲル・シントラ

 オリヴェイラの映像は相変わらず剛直で美しい。カメラで語るのではなく、カメラはただ存在を切り取り、切り取られた存在がカメラのなかで語り出すのを待つ。その忍耐力のようなものが映像を剛直にしている。
 冒頭の列車のシーンにまず驚かされる。車掌が改札をしている。列車のなかほどから映し出されているが、車掌がその列車を出てゆくまで延々と続く。途中に省略というものがない。車掌が出て行って、客は何もすることがなくなる。そのとき、列車で旅をしたものなら誰でもが感じる手持無沙汰な時間がやってくる。そういうとき、どうします? 映画の主人公は、隣の席の見知らぬ女性に語りかける。映像は、その語りかけるまでの「時間」そのものを映し出す。「時間」を映し出すというより、「時間」を動かしてしまう人間(主人公)を映し出す。別な言い方をすると、主人公が動き始めるまで、カメラはただ待っている。そして、そのときの「待つ」カメラの、どっしりした位置がとても美しい。カメラは動かず、動かないことによって、動いてしまう人間の「本質」を暴くのである。
 このカメラの前では役者は大変である。「人間」のすべてが出てしまう。
 これにつづくシーンも非常におもしろい。主人公の話を聞く女性は、とても変な眼をする。話を聞いているのか、聞きながらも、その話にのめり込まないようにしているのか、男を見ない。中途半端な空間を見つめている。男が自分をさらけ出すのに対し、けっして自分を見せない、という姿勢をとる。この二人の違いを、カメラは何の演技もせず、ただ役者に語らせる。クローズアップで目の動きを追ったりはしないのである。
 この動かないカメラの映画のなかで、一番美しいのは、ブロンドの少女がカーテン越しに立っているシーンである。開いた窓の向こうに、カーテンがあり、その向こうに少女がいる。彼女の姿は明確ではない。その明確ではない少女の姿が、「あ、美しい」と観客が(そしてそれを見つめる主人公が)思うまで、ただただ待っている。なぜ美しんだろう。かすかに動くカーテンの光の変化、空気の変化そのものが美しいからだ。いま、少女の美しさは、光と空気の美しさそのものなのだ。主人公ではなくても少女に恋をしてしまいそうになる。
 この少女が、しかし、「美しさ」を自分で壊してゆく。その映像が、また、とてもおもしろい。
 少女が主人公とキスをする(たぶん)シーンがある。このとき少女の片足が跳ね上がる。それまで、この手のシーンがないだけに、「あれっ」と感じる。今のシーンは何? 何のためのシーン? まあ、キスを暗示するためといえばそれまでだが、なぜここで突然足が演技をするのだろう。それも、「美しい」という印象ではない。何か、こびたような、どちらかというと「醜い」印象である。この「醜い」は、先に書いたカーテン越しのシルエットの「美しい」とは対照的なものである。つまり、その跳ね上げた片足には「空気」がないのである。むきだしなのである。とても不思議な気持ちになる。ずーっと、跳ね上げた片足の印象が残り続ける。
 それが最後でまた驚くような足と結びつく。少女には盗癖がある。「手癖が悪い」のである。(ポルトガルに同じ表現があるかどうか知らない。)その盗癖が発覚し、主人公との恋が破たんする。
 そのあと。
 少女が椅子に深々と座るシーン。大股を開き、だらしない姿勢である。とても「醜い」。私は、少女がそのまま小水でも漏らすのかと思ったくらい、なんとも不気味にだらしなく、醜い姿勢である。少女の本質を、オリヴェイラは足で暴いているのである。「演出」らしい演出は、ふたつの足のシーンだけなのだが、思わず、うーんと唸ってしまう。
 オリヴェイラの映像はただただ剛直で美しいという印象が私にはあったのだが、一方で、こんなに醜い映像もしっかり見ていたのだ。醜さを認識できるからこそ、美をより強靭なものとして描くことができるのかもしれないと思った。



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粕谷栄市『遠い川』(8)

2010-11-23 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い川』(8)(思潮社、2010年10月30日発行)

 「夢」は「日常を超えてやってくる、特別の時間」である。そういうとき、「日常」とは何か。「日常」ということばはよくつかうが、定義は難しい。あまりにも「日常」にからみつきすぎていて、「定義」しようとする意識が持てない。
 その定義が不能な「日常」と「夢」についてあれこれ思っていると「丙午」という詩に出会う。

 若し、おれが、その丙午の歳、午の日、午の刻に生ま
れていたら、おれは、太鼓の午の皮を張る職人になる。
 水飲み百姓の子沢山の家に生まれたおれは、十二歳か
ら、太鼓作りの親方について、撥棒で打たれながら、何
年もそのやり方を習う。二十四歳で、やっと一人前の太
鼓作り、それも、専ら太鼓の皮を張る職人になる。
 それからは、毎日、そのことばかりに明け暮れる。つ
まり、おれは、殺された午の皮を剥いでは、板に釘で打
ちつけ、干して、鞣して、さらに、それを裁って、太鼓
に張る仕事を、朝から晩まで、やるわけだ。

 ここには「日常」が出てくる。定義されている。「毎日、そのことばかりに明け暮れる。」つまり、日々繰り返されることが「日常」である。しかして、その日々繰り返されることが「日常」である、という定義には、とても変なところがある。
 いま引用した部分だけでははっきりしないというか、読み落としてしまうかもしれないが、次の部分に逆照射(?)されるようにして読み返すと、引用部分の「日常」がとても変であることがわかる。
 そして、この逆照射することばのなかに「夢」も出てくる。
 --ここから、「日常」と「夢」と、「日常の超越」との関係が少し見えてくるかもしれない。

 しかし、おれは、その丙午の歳、午の日、午の刻に生
まれなかった。だから、おれは、午の皮の太鼓とは、全
く、縁のない歳月を生きている。
 代わりに、色町の顔色の悪い女ばかりに関わる年月を
過ごすようになっただけだ。あげくに、おれはその一人
を殺し、薄ら寒い春の夜明け、薄ら寒い刑房で、幾度と
なく、午の皮を剥いでいる自分の夢を見ている。

 繰り返されるものが「日常」という定義を、太鼓の皮張り職人の暮らしから引き出したが、その「日常」は現実の「日常」ではなかった。「若し、おれが、」という書き出しを注意深く読んでいれば、太鼓の皮張り職人の生活は「仮定」のものであることがわかるといえばわかるのだが、そういう「仮定」のものであっても、そこに「日常」はあり得る--ある、と錯覚できる。論理として。実際に繰り返されていなくても、繰り返されていると仮定すれば、その仮定が「日常」になる。
 もし、日常が、仮定であってもかまわないとしたら、では、その「日常を超えてやってくる、特別な時間」とは何だろう。何を超えてやってくるのだろうか。
 どんな日常も、そのこととは全く関係ない時間を生きながら日常として定義できるということは、どういうことだろう。しかも、その定義となった日常が「夢」で見られたものだとしたら、その日常と夢との関係は?

 たぶん冷静な読者ろら、私のような、こんなばかげた混乱に陥らないだろう。冷静な読者なら、ここに書かれている「日常」とは色町のいざこざで人を殺してしまって刑房にいるという暮らし、何もすることがない(?)男の暮らしが「日常」である。そして、「おれ」が太鼓の皮張り職人になっている、そして午の皮を剥いでいるという「夢」を見ているのである、と言うだろう。

 たしかにそれはそうなのだが、でも、そのとき、その「夢」のなかでの「日常」とはいったい何? 「日常を超えてやってくる、特別の時間」をやってくる「特別な時間」がまた「日常」という枠をもってしまうのはなぜ? 刑房のなかでの日常を超えてやってくる、特別な時間が、太鼓の皮張り職人という主語をもっているにしても、そこにまた同じように日々の繰り返しという日常があらわれるのはなぜ? 特別な時間の「特別」というのは、いったい、どこにある? 「特別」の定義は? 「特別」を支える根拠は?
 何か、わからなくなるなあ。
 それに「若し、おれが、」という書き出しで始まっているけれど、この「若し」が仮定の仮定だとしたら? つまり、ほんとうに太鼓の皮張り職人なのだけれど、仮定として「人殺し」の「おれ」を想定し、その「仮定のおれ」が「もし、おれが、」と仮定してことばを動かしているのだとしたら?
 太鼓の皮張り職人の方が「現実」であり、「人殺しのおれ」が一種の「夢」だとしたら?
 どちらが「日常」で、どちらが「夢」と、どうやって区別できるだろうか。
 かろうじての「根拠」というものは、次の部分にあるのかもしれない。

(この世に、午などという生きものが、その皮を張った太鼓
などというものが、本当に存在するのだろうか。)

 「午」は「馬」ではない。「午」は干支であり、方角であり、時刻である。それが「生きもの」ではないことはたしかである。「午の皮」というものが現実にないとすれば、太鼓張り職人の方が非現実、つまり「夢」ということになる。
 けれども、それでいいのかな?
 「非現実」は「日常」ではないだろう。しかし、非現実が「夢」とはいえるのかな?

 そんなことを思いながら読むと、最後の部分がとても不思議なことばに見える。そこから広がるイメージが--うーん、ことばを超えて動いていく。

 どこかで、でたらめな賽ころが転がって、その丙午の
歳、午の日、午の刻、結局、おれは、この世から消され
るのだと、そのとき、淋しく考えているのだ。

 「そのとき」というのは「午の皮を剥いでいる自分の夢を見ている」ときである。一方で、午の皮を剥いでいる自分の「夢」を見て、他方でこの世から消されるのだと「考え」ている。
 「夢」と「考え」は、どう違う?
 あ、そんなややこしいことは考えずに、簡単に書いてしまうと、私はこの最後の部分で、この世から消されるとき、「おれ」は「午」になっているのではないか、と思ってしまうのだ。想像してしまうのだ。「午」がある日、殺される。その午は皮を剥がれ、太鼓の皮になる。その午の皮を太鼓に張っているのが「おれ」だ。いや、おれは、おれが死んで「太鼓の皮になる午」そのものになることを夢見ているのだ……。「午」として殺される「おれ」をほんとうは「考えている」。
 こんなことは書いてないのだが、私は感じてしまう。考えてしまう。

 そのとき、思うのだ。「夢」は「日常を超えてやってくる、特別の時間」ならば、いま、こうして粕谷の詩を読むという「日常」を超えてやってくる、特別な時間、特別な「誤読」--それこそ、「夢」かもしれない。
 「日常を超えてやってくる、特別の時間」というものはないのかもしれない。あるのは、日常を超えてやってこさせる、特別の時間(誤読)なのかもしれない。人は何か「いま」「ここ」にないもを「やってこさせる」ことができる。呼び込むことができる。つくりだすことができる。
 ただし、その「やってこさせる」には何か人間の「意思」を超えたものが働く瞬間があり、そのために「やってくる」としか言えないのかもしれない。
 いや、それは「やってくる」ものに違いないのだけれど、ただ待っていても「やってくる」ということはない。「やってこさせよう」として何かをするときはじめて「やってくる」ものなのだ。そこには何かしらの「呼びかけあい」があるのだ。
 「丙午」に書かれているのは、その「呼びかけあい」かもしれない。



 この詩には一か所、「誤植」がある。詩の11行目(28ページ)。

 そう言ってしまえば、簡単だが、例えば、どんな牛の
皮を、どんな日に、どこに向けて干せばよいか。どんな
太鼓を、どんな鋲で止めるか、いろいろ苦労がある。

 「牛(うし)」とここだけ「午(うま)」ではない。だが、ほんとうに誤植? この一文字の「牛」のせいで「午」が実在の動物に--牛に見える、というのではなく、なんといえばいいのだろう、この詩自体が大いなる「誤植」のように見えてくる。
 ただし、ここで言う「誤植」は我田引水になるけれど、私がいつもいう「誤植」。
 わざとする「誤植」。「午」を実在させるために「牛」をまぎれこませるのだ。あえて、間違えることで、その間違いの先にある何かをつかみたいのだ。
 そういう無意識が、ここには隠れていないだろうか。



続・粕谷栄市詩集 (現代詩文庫)
粕谷 栄市
思潮社


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ナボコフ『賜物』(20)

2010-11-23 13:47:28 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(20)

 ことば、その「音楽」へのこだわりは次の部分にも見ることができる。

  散水の燦々たる滑降台にのぼり……

 (スロープに撒くための水を入れたバケツを持って登っていくとき、水がこぼれ、滑降台の階段が燦々たる水の表面に覆われるということなのだが、毒にも薬にもならない子音反復(アリタレーション)ではそれがうまく説明できなかった)

 原文はわからないが、「散水」と「燦々たる」のことばのなかに子音反復があるのだろう。「さんすい」と「さんさん」。沼野は苦労して日本語でも子音反復(さ行、S音の繰り返し)を試みている。小説の主人公が「毒にも薬にもならない子音反復」と書いているが、まるで沼野の訳を見込んでのような感じがして、それがおかしい。
 きのう読んだ部分ではアクセントが問題になっていたが、アクセントは母音にかかわる。アクセントのある母音は長音になるのだろう。子音反復は文字通り、子音にかかわる音楽である。
 ナボコフは、どちらに対してもこだわりを持っていたということになる。

 しかし、そういう作家のことばを訳すはたいへんな作業に違いない。ロシア語を知らずに、沼野の訳に文句を言っても、とんちんかんな批判になってしまうが、こういう「音楽」の部分では、さらに的外れになってしまうだろう。
 ナボコフは音楽に、音にこだわりを持っていた--ということをどこかで意識しながら、しかし、ことばの音楽とは別な部分に焦点をしぼって、この小説を読まなければならないのかもしれない。




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世界の文学〈8〉ナボコフ (1977年)
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志賀直哉(17)

2010-11-23 10:56:11 | 志賀直哉
「朝の試写会」(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)

 映画「パルムの僧院」の試写会を見た(見させられた)ことを書いているのだが、映画の感想なのか、飼っている犬の話なのかわからないような、不思議な身辺雑記である。それでも、ついつい読み進み、最後には笑ってしまう。

 田岡君が、司会者で、第一問で、
 「『パルムの僧院』は如何(いかが)でした」といふのに対し、「寒かつたね」と私は答へてゐるが、全く寒い試写会だつた。

 ここでこの小説が終わると、落語というか「落とし話」というか、そんなものになるのだが、この「笑い」のおさえ方がとてもおもしろい。「寒かつたね」と同じようにおかしくて、笑えるのだが、「わはっはっは」という笑いとは違う。その「笑い」の殺し方がおもしろい。

私は矢張りその為め、風邪をひき、寝込むほどではなかつたが、咳がどうしても去(と)れず、二十日程、それで苦しんだ。

 これはある意味では、「寒かつたね」というような、とんでもない感想口にしたことの「自己弁護」かもしれない。これがおもしろい理由は、ただひとつ。志賀直哉が正直だからである。
 途中にコーヒーをのみ逃げ(?)したくだりもあるが、書かなくていいようなことを正直に書く。そこに不思議な人間的な魅力が出てくる。試写会のために風邪を引き、苦しんだ--というようなことは、書かなくていいというか、そんなことを書かれたら試写会をしたひとだって困るのだろうけれど、そういうひとの書かないことを書く正直さが、不思議と文章を落ち着かせている。

 正直を別なことばで言えば、きっと「気持ちの事実」を書くということなのだと思う。「ものの事実」を書くように、志賀直哉は「気持ちの事実」を書く。
 「気持ち」は志賀直哉のキーワードかもしれない。
 「朝の試写会」で印象に残った次の部分に「気持」ということばがある。そこでも志賀直哉は「気持ちの事実」を書いている。強盗、殺人、詐欺、暴力といった新聞記事は読まないようにしている、と書いた後、こんなふうにつづけている。

昔、内村鑑三先生が、一日中で一番頭のいい朝にさういふ新聞記事を読んで、折角の頭を穢(けが)すのはつまらぬ事だと云つてゐられたが、私自身も近頃、さういふ気持ちになつた来た。

志賀直哉全集 (第1巻)
志賀 直哉
岩波書店

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粕谷栄市『遠い川』(7)

2010-11-22 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い川』(7)(思潮社、2010年10月30日発行)

 「砂丘」は、また別な読み方ができる。

 静かな朝、紺碧の天の下で、白髪の老人が踊っている
のを見るのは、いいものだ。それも、誰もいない砂丘で、
ひそかに、ただ独り、踊っているのを見るのは。

 この書き出しをことばどおりに読むと、白髪の老人が砂丘で踊っているのを、「私(たとえば粕谷)」が見ている。そして、感想を言っているということになる。
 だが、そうではない読み方ができる。
 踊っているのは、「私」である。私は白髪で、場所は砂丘。そしてそこには誰もいない。「独り」で踊っている。そして、老人は、誰かが「私」を見ている、と感じる。感じながら踊っている。見ている誰かは、その光景を「いいものだ」と感じている--そう思い描きながら。老人は、誰かに、老人が踊っている姿を見てもらいたい、と願っている。そのことを間接的に語っているのだ。
 老人の踊りは、老人の「肉体」にしみついたけっして消えない記憶、ひととともに生きた記憶なのである。

 それは、彼の故郷の町で祭りの日に、人々が、輪にな
って踊るものである。踊りには似合わない普段の服のま
ま、ただ独り、彼は、その踊りを踊っている。
 彼が、故郷を離れてから、長い歳月が流れている。遠
い日、彼は、人々とともに、それを踊ったことがあるの
だろう。

 ここには、粕谷のこれまでの詩篇にはなかったことばがある。「長い歳月」。これまでの詩では「永いこと」と書かれていた。主観的に見れば「永いこと」。けれど、ここでは誰かに見られていることを想定している(想像している)。誰かから見れば、「永いこと」は「長い歳月」である。「それを踊ったことがあるのだろう」という想像(仮定)のことばが書かれるのも、誰かが老人を見ていて、その老人を誰かが描写していると考えると、「学校教科書文法」どおりの、きちんとした説明のなかで完結する。
 しかし、これは、やはり誰かが老人を見ているのではない。
 老人の踊りが、「彼の故郷の町で祭りの日に、人々が、輪になって踊るものである」ということを知っているのは、老人か、老人といっしょに踊ったことのある人だけである。第三者というか、老人の故郷とは無縁の人は、それがどんな踊りであるかはけっして知ることのできないものである。
 この詩では、「白髪の老人・踊る老人」と、彼を「見る」ひととの視線が不思議な形で融合している。

 既に、この世を去って久しいはずの彼が、そこでそう
しているのを見ることのできる者は、限られている。生
涯のどこかで、彼と会い、親しく、ことばを交わしたこ
とのある者である。

 これは、老人が自分自身の死を想定し、死後、誰かが老人を思い出す、そして思い出すことができるのは「彼と会い、親しく、ことばを交わしたことのある者である。」語ることで、老人自身は死後もきっと「彼と会い、親しく、ことばを交わしたことのある者」のことを思い出すと語っているのである。
 このとき、老人は「独り」であるけれど、「独り」ではない。「一人」になっている。これは「一人」への夢なのだ。
 あ、私は希望、祈り、願いというかわりに「夢」と書いたが、この「夢」は次に出てくる「夢」を先取りする形で、粕谷のことばに影響されたものかもしれない。

 その後、歳月を経て、思いがけなく、その彼を見るこ
とがあるのだ。つまり、人々が夢と呼ぶ、日常を超えて
やってくる、特別の時間のなかでのことである。
 
 夢を粕谷は「日常を超えてやってくる、特別の時間」と呼んでいる。この「夢」は一義的には夜見る夢を指しているかもしれない。けれども、夢は夜、眠っているときだけ見るものではない。目覚めているときにも見る。眠っているときにみる夢と区別するために、目覚めながらみる夢を希望、祈り、願いというふうに言い換えることがあるけれど、希望、祈り、願いではとらえきれない「夢」を目覚めながらみることもあるのだ。
 生きていながら、死後を思い描く。それも「あの世」というのではなく、この世のことを。この詩のように、誰かが自分を思い出す、自分が踊っている姿をみる--という夢。
 しかし、こういうことを書くとき、粕谷がほんとうに書きたかったのは何だろうか。「夢」というよりも、「日常を超えてやってくる、特別の時間」の「特別の時間」ではなく、もしかすると「日常を超えてやってくる」、その「超越」と「やってくる」ではないだろうか。

 わたしは、ふと20日に見た(聞いた)武満徹の「海へ」(ギター鈴木大介、フルート岩佐和弘)を思い出している。その曲ではフルートとギターが、この詩の「老人」と「それを見るひと」のように不思議に融合する。一瞬、フルートの音ではないもの、ギターの音ではないものを感じる。それはもちろん聞こえない。聞こえないのだけれど、そんな音がどこかにあって、それが「いま」「ここ」にやってきている。
 同じように、この詩の、老人の夢なのか、それとも老人を見ているひとの夢なのか、どちらの夢を語ったことばなのか、ふいにわからなくなった瞬間に、何か、粕谷が「いま」「ここ」に書いていることばいがいのものが、どこかから、何かを超えてやってきていると感じる。
 何を超えて、そして、どんなふうにやってきているのか--それは書けない。書けないので、ああでもない、こうでもない、ああ考えた、こう考えた、いやそれは間違いでこう考えるべきだった……と繰り返し繰り返し私は書いているのだが。

 紺碧の天の下で、老人は、片手を反らせ、月見草の花
を額に翳して、いつまでも、踊りをつづけている。自分
がそこにいる限り、それが終わることはないのである。

 この老人を「詩」と思ってみることもできるだろう。それは誰かの書いた詩ではなく、まだことばになっていない詩。未生の詩。それが生まれようとしている。その生まれようとする果てしない力は、詩を読むひとがいるかぎり終わらない。消えない。--ということかもしれない。
 「未生の詩」を「死んでしまった老人」が象徴するというのは不思議な逆説であるかもしれない。しかし、「死んだ老人」を「日常を超越した老人」と考えると、何かを超えるということでは、未生も死後も同じなのだ。詩のなかで未生と死が交錯し、いのちになるのかもしれない。いのちのなかには未生のものと死が「ひとつ」になって動いている。「未生も死も「独り」だけれど、それが融合したときのいのちは「一人」ということになるかもしれない。



悪霊―詩集
粕谷 栄市
思潮社

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ナボコフ『賜物』(19)

2010-11-22 11:41:35 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(19)

 イメージ(もの)が動くとき(動かすとき)、作家は何を頼りに「動き」を制御するのだろう。私はいつも「音」を頼りにしている、と感じる。私は、ことばのなかに「音」がある作家が好きだ、というだけのことかもしれないけれど。
 毛皮の襟をつけてもらうときのことをナボコフは描写している。

音響の変化はなんと楽しかったことだろう。襟を立てると、聞こえてくる物音に深みが増したのだ。さて、もう耳のところまで来た以上は、帽子の耳当ての紐を結んでもらうときの(さえ、顎を上げて)、ぴんと張った絹のあの忘れがたい音楽について触れなければならない。
                                 (32ページ)

 「音」には2種類ある。実際に「もの」が立てる音。ここに描かれているのは、現実の音である。音の変化である。それにしても、最後の、耳当ての紐を結ぶときの、絹の布の張り具合の変化を「音楽」と呼ぶこの感受性の美しさ、その音楽の美しさは、なんともいえず、息をのんでしまう。絹の動くときの、結ばれるときの、なまめかしい、やわらかい音。
 こうした「音楽」に敏感だから、次の部分、次のこだわりが生まれてくる。

 凍てついた日に外を駆け回るのは、子供たちにはたのしいこと。雪に覆われた(「覆われた(アスネージエンヌイ)」は第二音節にアクセントを置くこと)庭園の入り口には、風船売りが姿をあらわし、ちょっとした見物になる。
                                 (32ページ)

 「アスネージエンヌイ」ということば。沼野の注釈によれば、このロシア語のアクセントには2種類あるという。第二音節にアクセントを置く場合と、第三音節にアクセントを置いて「アスネジョーインヌ」。
 このアクセントへのこだわりは、ことばそのものの「音」へのこだわりである。そして、こういうこだわりをもっている作家を私は信頼している。
 信頼しながら、そこには、一種の変な感覚もある。
 小説をどんなふうにして読むか。私は声に出さない。つまり音読しない。ナボコフはどうなのだろう。やはり音読はしないのではないかと思う。
 音読はしなくても、「音」に対するこだわりがある。これは変なことだろう。
 変なこと--と書いたけれど、私は、実は変とは感じていない。「音」を聞かないと、書けない。私はいつでも音を聞きながら書いている。声には出さないが、喉を動かしながら書いている。言えないことばは書けない。読めないことばは書けない。
 ナボコフと私を結びつけるのは、まあ、私の傲慢になってしまうのかもしれないけれど、ナボコフもそういうひとなのだと思う。喉を動かさないことには書けない作家である。喉を動かさないと書けない--喉を動かしながら書いているからこそ、あることばのアクセントをどこに置くか、ついつい書いてしまう。
 これは「肉体」にしみついた「音楽」に対するこだわりである。
 沼野の翻訳がどれくらいナボコフの「音楽」を反映しているかわからないが、このアクセントのこだわりにはナボコフの「音楽」があらわれていると思う。





ロシア文学講義
ウラジーミル ナボコフ
阪急コミュニケーションズ

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粕谷栄市『遠い川』(6)

2010-11-21 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い川』(6)(思潮社、2010年10月30日発行)

 「死」は、今回の詩集に何度も登場する。しかしその「死」は「生」と断絶した死ではなく、連続した死である。
 「砂丘」。

 静かな朝、紺碧の天の下で、白髪の老人が踊っている
のをみるのは、いいものだ。それも、誰もいない砂丘で、
ひそかに、ただ独り、踊っているのを見るのは。

 この詩では、「遠い川れで「一人」という存在が登場したのに、また「独り」にもどっている。これは、かなり不思議なことである。特に、この白髪の老人は、次の部分を読むと、既に死んでいる。「遠い川」をわたっている。そこでは、人は「独り」ではなく「一人」であるはずだ。

 既に、この世を去って久しいはずの彼が、そこでそう
しているのを見ることのできる者は、限られている。生
涯のどこかで、彼と会い、親しく、ことばを交わしたこ
とのある者である。

 だが、白髪の老人、「彼」は「独り」ではない。踊っているのは「独り」だが、それを見る「人(私)」がいる。「独り」は「私」によって見られることで「独り」でありながら「一人」になる。なぜなら、もう「一人」、私がいるのだから。
 ここに「連続」がある。
 いや、何人ひとがいても「独り」ということがある--ということが立つかもしれない。しかし、その彼を見ることができるものが「親しい」間からであるとき、それは「独り」ではなく、どうしたって「一人」だろう。そこには「見られるひと」「見るひと」という「二人」が存在する。
 「二人」とは「一人」と「一人」の「連続」によって成り立つ。
 「二人」が存在するとき、「一人」と「一人」の「連続」は「間」としてとらえることができる。なにかしらの違いがあるから「連続」するのであって、まったく同一なら「連続」ではなく「合致」になってしまう。あるいは「重複」、あるいは「一体」になってしまう。
 この「間」が、何だか不思議なのである。「間」のなかで、何かが動く。「時間」が変な具合に動くのである。
 ここから、私の論理(?)はずいぶん飛躍するのだが……。

 いま、「独りの彼」を「私」が見る。そのとき彼は「独り」ではなく「一人」になるのだが、「そのとき」の「とき」とは何なのか。
 死んでしまった「彼」を見る「とき」、死んでしまったと彼の「とき」と、「彼」をみつめる「私」」の「とき」。もし、「とき」を人間のように数えるとしたら、それは「独り」、それとも「一人」?
 死んでしまった彼の「とき」は、その時点で終わっている。どこともつながらない。「独り」である。そういう「とき」を「過去」と呼ぶべきなのかもしれない。ほんとうの意味での「過去」。「いま」とは無関係な、孤立した「とき」。
 けれど、もし、その死んでしまった彼の「生きているとき」を「いま」「ここ」に見るとき、「彼のとき」はどうなるか。「孤立」しない。死んではいない。死んだ姿として「いま」「ここ」にあるのではない。「独り」が見られることで「一人」になり、生き返る。「生きている」。動いている。
 「彼」を思い出すとき--思い描き、その姿を見るとき、そのとき「生きている」のは「彼」だけではなく、「とき」もまた「生きている」。「とき」が生きて、動きはじめる。「とき」が動けば、「いま」がかわっていく。
 そういう「間」があるのだ。そういう「いま」がかわっていく、不思議な動きが粕谷の詩にはある。
 そういう「間」が「夢」なのだ。不思議な動きが「夢」なのだ。「間」はある意味では「魔」なのだ。「魔」は「日常を超えてやってくる」ものなのだ。

 「彼」が生きている、動いている、踊っているのではなく、「とき」が生きて、動いているである。そしてそれこそ「いま」起きていること、「いま」を動かしていることなのである。
 それは「私のとき」と「彼のとき」がつながるとき、そのつながりのなかに「いま」そのものとして動きはじめる。「彼のとき」と「私のとき」が一緒になって、「いま」が動きはじめる。
 「独りのとき」は、動かない。「いま」ではない。

 いつでも「いま」だけがある。「独り」ではない「とき」と「とき」が結びついて「いま」となって動く。

 その後、歳月を経て、思いがけなく、その彼を見るこ
とがあるのだ。つまり、人々が夢と呼ぶ、日常を超えて
やってくる、特別の時間のなかでのことである。

 「独り」とつながることで「特別な時間」が動きだす。それを粕谷は「夢」と書いているが、それは「夢」ではなく、現実である。唯一の「現実」である。

 紺碧の天の下で、老人は、片手を反らせ、月見草の花
を額に翳して、いつまでも、踊りをつづけている。自分
がそこにいる限り、それが終わることはないのである。

 「自分がそこにいる限り、それが終わることはないのである。」それは自分がそこにいるかぎり、常に「過去」(独りの時間)は「いま」につながり動く。どんな時間も「いま」になる。「いま」は「一人」の時間である。それは「終わることはない」。
 なぜなら。
 それは「自分(私)」が「いま」を動かしているだけではなく、「彼」もまた「いま」を 動かしているからである。「いま」は彼によって動かされている。それは「いま」と連続した「死」によって、世界が動いているということである。
 「自分がそこにいる限り、それが終わることはないのである。」というのは、「彼の踊りが続いている限り、自分がここいなければならない、いや、ここに存在させられてしまう、こうやって生かされてしまう。」というのに等しいのである。

 死は、いまを動かす命そのものである。


悪霊―詩集
粕谷 栄市
思潮社


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ナボコフ『賜物』(18)

2010-11-21 15:32:01 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(18)

 ナボコフの小説では人間が物語(ストーリー、時間)を動かすのと同様に(いや、それ以上に)、「もの」がことばを動かしていく。
 29ページから30ページにかけて。「思い出」「記憶」の不思議さ(思い出は蝋細工のようになり、どうしてイコンの智天使は顔の周りを覆う飾り枠が黒ずんでいくにしたかって帰って美しくなるのだろう)を書いたあと、ステレオスコープをのぞきこむときの恐怖が語られ、そして、

この光学的な遊びの後で見る夢に、ぼくはシャーマンの呪術の話以上に苦しめられたものだった。この装置はアメリカ人のローソンという歯医者の待合室に置いてあった。彼と同棲する女性はマダム・デュキャンという怪鳥ハルピュイア(がみがみばあさん)で、ローソン医院特性の血のように赤い口腔洗浄液(エリキシル)のガラス小瓶に囲まれてデスクに向かい、唇を噛みしめ髪を掻きむしりながら、ぼくとターニャの予約をどこに入れたものか決めかねてかりかりしていたが、とうとう、力をこめてきいきい音を立てながら、末尾にインクの染みがついた侯爵夫人(プランセス)トゥマノフと彼の頭にインクの染みがついたムッシュー・ダンザスの間に、唾を吐き散らすようにボテルペンを押し込んだ。

 スレオスコープという一般的な「もの」が、歯科医院にあった具体的な「もの」にかわり、その「もの」を起点にして、歯科医院でのできごとが語られはじめる。
 このとき話者は基本的には「ぼく」であるけれど、それは「ステレオスコープ」というものが「ぼく」に語らせる物語である。ステレオスコープという装置が登場した後、「ぼく」が語るのは、異様に歪み、誇張された世界である。予約ノートに書かれているのは「文字」に過ぎないはずなのに、私たちは「文字」以上のものを見てしまう。ステレオスコープに映し出された歪んだ世界を見てしまう。侯爵夫人トゥマノフとムッシュー・ダンザスの間に挟まれて、恐怖におののきながら治療を待っている「ぼく」を見てしまう。また、「ぼく」をはさむ夫人とムッシューを見てしまう。
 「文字」が「文字」であることをやめて動きだす。--これは、すべて「ステレオスコープ」という「もの」が物語を動かしているからである。

 あることば、ある意識が、何かにぶつかり、それを起点にして別な方向へ動いていく--ということを「意識の流れ」という具合にいうことができるかもしれないが、そういうときの「意識」とは人間の「頭」のなかにある抽象的なものではなく、常に、「頭」の外にある「具体的なもの」である。意識ではなく、「もの」が流動していく。まるで洪水の川を流れる巨大な樹、家、ピアノ、車のように、「もの」が輪郭を持ったままというか、ふつうに存在しているときは持たなかった輪郭(強烈な印象)をもって流れていく。
 「もの」はさらに「もの」とぶつかり、激しい音を立て、また別な方向へ動いていく。その動きを、ナボコフは、なんといえばいいのだろうか、「もの」の数、「もの」の量で圧倒して、「方向転換」を感じさせない。


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魅惑者
ウラジーミル ナボコフ
河出書房新社
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「谷川俊太郎 詩と朗読と音楽--武満徹をうたう」

2010-11-21 00:22:18 | その他(音楽、小説etc)
「谷川俊太郎 詩と朗読と音楽--武満徹をうたう」(2010年11月20日、福岡市・都久志会館)

詩朗読 谷川俊太郎 ピアノ 谷川賢作 ギター 鈴木大介 フルート 岩佐和弘 ギター&ヴォーカル 小室等

 「谷川俊太郎 詩と朗読と音楽--武満徹をうたう」は音楽のふたつの面を楽しむことができる催しだった。
 プログラムは2部構成。1部は「エア」「フェリオス」「海へ」など武満の、いわゆる「現代音楽」の紹介。2部は、「死んだ男の残したものは」など歌詞つきのポピュラーソング。1部では、枠をこわしてどこまでも広がっていく音楽の力、2部ではいっしょにいる空間を親和力のある世界に変えていく力を感じた。

 1部。「海へ」は私は非常に好きな曲である。
 「海へ」というタイトルであるが、私はこの曲を聴くといつも「波」を思う。波が岸へ押し寄せてくる。そのうねり。波--水が盛り上がり、水が崩れる。フルートの音の動きに、私は水の盛り上がり、内部から高まってくる力のようなもの感じる。ギターの音の輝きには、盛り上がった水が高みからくずれるときにできる水の「腹」の部分の暗いきらめきを感じる。いま、私は水がくずれる--と書いたのだが、このくずれるは表面的に見た水の動きかもしれない。くずれるのではなく、盛り上がろうとする力に拮抗するように、それを引き止めようとする力があって、その綱引きの過程で、波が盛り上がり、くずれるということが起きるのかもしれない。そのどうすることもできない緊張感--どうすることもできない、というのは、水自身の意思ではどうすることもできない、という意味である。もし、水に意思というものがあると仮定してのことだけれど。
 そのどうすることもできない何かを感じたと思った瞬間、音が一瞬、消える。私は、フルートの音を聞いているのかな? それとも、ギターの音を聞いているのかな?わからなくなるのである。実際に演奏されているのはフルートであり、ギターなのだが、そこには演奏されていない「楽器」があるのかもしれない。
 そして、その「演奏されていない楽器」は、演奏開場(ホール)を破壊してしまう。演奏会で音楽を聴いているという感じを叩きこわしてしまう。実際にフルートの音を聞き、ギターの音を聞いているにもかかわらず、私は別な場所にいる。ホールからほうりだされて、何だかわけのわからないことを考えてしまっている。
 最初に「枠をこわしてどこまでも広がっていく音楽の力」と書いたのは、そういうことである。演奏会の開場にいることも、実際にフルートの音を聞いていることも、ギターの音を聞いていることも、実感ではなくなる。
 谷川俊太郎は、「音楽は過去を持たない、ただ、いまを未来へ運んでいくだけだ」というような意味合いの詩を朗読したが、そのことばを思い出すとき、たしかにそうなのだけれど、未来へ動くという動きのなかに、過去を超越した世界とつながる何かを感じる、とでもいえばいいのだろうか。谷川のことばがあったから、私は、たぶんそう感じるのだが、フルートもギターもそれぞれの「音」とは別の「音」、固有の音を超越した音とつながって、そのいま、ここにない「音」を未来へ届けようとして動いていると感じる。フルートとギターの音を「いま」と言い直し、聴衆を「未来」と言いなおせば、谷川の言ったことばにもどることができるかもしれない。

 「音楽」は「いま」「ここ」にある「音」で語りながら、「いま」「ここ」にない「音」を伝えようとしている。あるいは、それを生み出そうとしている。
 そうすると、それは詩と同じものになるのかな?
 詩は、「いま」「ここ」にあることばで語りながら、「いま」「ここ」にない何かを伝えようとする。生み出そうとする。
 「いま」「ここ」にないもののために、「いま」「ここ」にあるものが動く。「いま」「ここ」を破壊しながら。
 「いま」「ここ」にない何か--それをたとえば「沈黙の音」とか、「宇宙との一体感」と言いなおせば、武満の音楽、谷川の詩を語るときの「標準語」になるのかもしれない。
 武満と谷川は、そういう「はるかな」場でつながっているのかもしれない。その「はるかな」場と、私たち聴衆(読者)は直接対面する。そのとき、私たちは武満とも谷川ともつながっていない。武満を超越して動く音楽、谷川を超越して動く詩、そういうものと「孤独」のままつながる。「私」というものが完全に「孤独」になる。そういう震えるような怖さと快感(?)につつまれる。

 2部は、1部でこわしてしまった演奏開場(ホール)を、きちんと取り戻す。音楽は、そしてその音楽と音楽のあいまに語られる語りは、この開場に来た観客を親密にさせる。1部の音楽では、私は「孤独」になり、その「孤独」をとおして、誰でもない何かとつながってしまうが、2部では違う。
 ここにいる人はみんな同じ音楽を聞いている。そして、その音楽にかかわる人はみんな自分と同じ。演奏の順番を間違えたり、冗談を言ったり、お祝いに何かをあげたり、怒ったり。そして、音楽は、そういうつながりをなめらかにする潤滑剤のような感じである。ギターとピアノの音は拮抗しない。「海へ」のフルートとギターの音のように、何かここにない「音」をめぐって動くということはない。「いま」「ここ」にある「音」にこの「音」を組み合わせると、ほら、あったかい。ほら、悲しい。ほら、楽しい。そんなふうに感情がなじみやすくなる。誰もがみんな「生きている」という感じになる。
 2部では武満と谷川の家族ぐるみのつきあいが何度か語られた。小室等との家族的なつきあいも語られた。「家族」が何度も話題になったが、2部は、いわば「家族」になるための音楽なのだ。音の違った楽器でも(音が違った楽器だからこそ)、違ったものが出会って、距離をうまいぐあいに保って動くと、そこに親密な空間ができる。そういうことを教えてくれる。
 私は音痴だし、音楽に触れる機会もほとんどなく、小室等というアーチストを「出発の歌」くらいしか知らなくて、その「出発の歌」も上条恒彦の声で覚えているので、どんな声をしているか、わからなかった。今回聞くのがはじめての「声」といっていいのだけれど、やわらかくて「家族」をつつみこむという感じにぴったりだった。だからこそ、2部を聞きながら「家族」ということを思ったのかもしれない。

 (実は、谷川さんの写真を撮らせにもらいに楽屋へ行ったとき、谷川さんが小室さんを紹介してくれた。「小室です」と小室さんは言うのだけれど、私はプログラムで事前に小室等さんが出ることを知っていたのに、かなりとまどってしまった。私のことなど小室さんは知るはずがないから、どうあいさつしていいかもわからなかった。白髪にもびっくりしてしまった。そのために、とっても変なことを言ってしまった。ごめんなさい。そんな具合だったのだ、2部が終わったあとで、あ、しまった、小室さんの写真も撮らせてもらえばよかった、サインももらえばよかったなあと思った。--というわけで、強引に楽屋に押しかけて行ったのに、とった写真は谷川俊太郎さんと谷川賢作さんのみ。許可をとって掲載していますが、転載はしないでください。)


カトレーンII~武満徹:室内楽曲集
オムニバス(クラシック)
BMG JAPAN
はだか―谷川俊太郎詩集
谷川 俊太郎
筑摩書房

ここから風が~ディスク・ヒストリー’71-’92
クリエーター情報なし
フォーライフ ミュージックエンタテイメント
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粕谷栄市『遠い川』(5)

2010-11-20 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い川』(5)(思潮社、2010年10月30日発行)

 「遠い川」は「三途の川」を思わせる。そこへ向かって歩いている老人。「永さ」は「死」によって封印される。そのとき「いま」は消える。消えるもののなかに「永遠」があることになる。無のなかにある「永遠」。これはまたまた矛盾である。だが、どうして人は矛盾を考えるのだろう。

 それは不思議なことだ。気がつくと、かつて考えたこ
ともないことを、自分はしている。それでいて、自分の
行く先が、その遠い川であることを知っているのだ。
 老人は、それが、自分の生まれる前らか決まっていた
ことなのだと思う。どんな生涯を送っても、誰もが、こ
の道を歩くことになるのだ、と。

 「知っている」(知る)とは何だろうか。おもしろいのは、ここで「知る」の対象となっているものが「生まれる前から決まっていたこと」と書かれていることである。新しいものを知るのではない。すでにあるもの、けっしてかわらないものを人は「知る」。それ以外は、たぶん知らなくてもいいものなのかもしれない。
 「生まれる前から決まっていたこと(決まっていること)」とは、「永遠」でもある。
 「永遠」は自分で決めることではなく、最初から決まっている。人ができるのは、その「決まっている」ことを自分でやりとごること。自分で「終わらせる」ことなのだ。
 「死」はやってくるものではなく、自分で選んで「生」を終わらせることではじめて生まれる。「生まれる前から決まっている」ことなのだけれど、その「決まっていること」は、待っていてはやってこない。

 老人が、独り、そこへむかって歩いている。人間が死
ぬのは、当然のことだが、おそらく、その前に、誰もが、
このことをするのだ。

 「生まれる前から決まっていたこと」、「永遠」は、ここでは「当然のこと」と言い換えられている。
 この「当然のこと」ということばに出会うまで、私は見過ごしてきたのだが、粕谷が問題にしているのは「こと」なのだ。生まれる前から決まっていた「こと」。誰も知らない「こと」。不思議な「こと」。考えた「こと」もない「こと」。川である「こと」。この道をあるく「こと」。この「こと」。
 いろいろつかわれているが、一番重要な「こと」のつかい方は、最後の「このことをするのだ」のというつかい方にある。
 「こと」は「する」と緊密なつながりがある。「する」によって「こと」が生まれる。「する」によって「こと」になる。「する」によって「こと」が「当然」という「本質」を獲得する。
 「する」が「永遠」をつくりだすのである。
 人間と「永遠」は、「する」という動詞によって結びつく。

 暗い夜明け、一歩ずつ、歩いていると、それが分かる。
そうなのだ。その日がきて、数多くの老人が、それぞれ
の道を、遠い川にむかって歩いている。

 「それぞれの道」の「それぞれ」が重要である。「道」は一つではない。ひとりひとりに、それぞれある。「永遠」はひとつだが「する」は無数にある。その「無数」が「永さ」、つまり数えきれないもの、何かで計測できる「長さ」ではないことのあかしである。「それぞれ」あり、数えきれない「充実」として「永遠」が、そのなかに生きている。

 彼らは、全て、遠い昔の婚礼の日の身支度をしている。
自分もその一人だ。固く唇を結んで、私は思う。あの木
の舟のことろまで、自分も早く行かなければ、と。

 「一人」。突然出てきたこの表記に、私は、強烈な光を感じた。その文字が、はじめてみる文字のようにページを突き破って、光っている。
 『遠い川』の作品群では、粕谷はこれまで「独り」という表記を使っている。「遠い川」の書き出しにも、「暗い夜明け、老人が、独り、遠い川にむかってあるいている。」という表現がある。
 その「独り」ではなく、「一人」。
 ここでまた矛盾に出会うのだが、「一人」はほんとうはひとりではない。孤独ではない。「それぞれの道」を歩くそれぞれの人間のうちの「一人」。「無数」のうちの「一人」。「独り」と書いているとき、粕谷は「無数」の人間とは触れ合っていない。重なり合わない。けれど、「遠い川へむかって道を歩く」という「こと」を「する・こと」で、「こと」のなかで触れ合うのだ。「独り」で「する・こと」を無数の人が「する」とき、「独り」は「一人」にかわり、「こと」が共有される。
 共有された「こと」が「永遠」である。共有されることで、「した・こと」が「永遠」になる。
 「一人」の発見によって、粕谷は、「人間」になるのだと思う。「人間」になったのだと思う。
 この発見に、「婚礼の日の身支度」(婚礼の衣装)が関わっているのはとてもおもしろい。「婚礼」は「独り」ではできない。それは必ず「相手」を必要とする。「独り」から「一人」になる最小の組み合わせが「婚礼」である。

 「婚礼」を「出会い」と言い換えるとどうなるだろう。
 「出会い」によって「独り」が「終わり」、「一人」が誕生する。「一人」が誕生するとき、人間は、他者と共有する「永遠」に触れる。変わらぬもの、生まれる前から決まっていたことに触れる。
 その「出会い」が「人」ではなく、たとえば「もの」なら、その「婚礼」は詩を生み出すのかもしれない。その「婚礼」は、詩になるのだ、と言えるかもしれない。
 詩のなかには、自ら選びとった「死」(終わり)と、死によって封じこめられ「新しいもの」としてあらわされた「永遠」が固く結びついている。




化体
粕谷 栄市
思潮社

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ナボコフ『賜物』(17)

2010-11-20 12:51:33 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(17)

ぼくはベッドの暗闇の中で旅をした。シーツと毛布を丸天井のように引っかぶって、洞窟のようにしたのだ。洞窟の遠い、遠い出口のあたりでは脇から青みがかった光がさしこんでいたが、その光は、部屋とも、ネヴァ河畔の夜とも、黒っぽいカーテンのふんわりした半透明の縁飾りとも、何の関わりもなかった。
                                 (28ページ)
  
 想像力とはものを歪めてみる力だといったのはバシュラールだと思うが、この「歪める力」が、「洞窟のようにした」の「した」に隠れている。シーツ、毛布を被ったとき、それが洞窟のように「なった」のではない。主人公は、それを自分の思いで、そのように「した」のである。歪めたのである。
 そして、そのとき「洞窟」は洞窟に「した」のだからもちろん、部屋の光やその他その近くにあるものと「関わり」がないのは当然のことだが、この「関わりのなさ」も主人公が「した」ことなのだ。必然ではなく、作為なのである。
 だから、それに続く、

そのうち、ようやくうとうとすると、ぼくは十本もの手にひっくり返され、誰かが絹を引き裂くような恐ろしい音ともにぼくを上から下まで切り裂いて、それから敏捷な手がぼくのなかに入り込み、心臓をぎゅっと締め付けた。

 この恐怖も、実は、「ぼく」が自分で「した」ことなのだ。そうなるように自分から「夢」を見たのである。それは一種の冒険である。楽しいだけが冒険ではなく、恐怖を味わうことこそ、官能的な冒険である。
 どこかで、主人公は生きている限り味わえない「死」に触れる喜びを知りたくて、あえて、そうしているのである。
 私は先走りしすぎているのかもしれないが、「洞窟のようにした」の「した」にそんなことを感じた。


ヨーロッパ文学講義
ウラジーミル ナボコフ
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粕谷栄市『遠い川』(4)

2010-11-19 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い川』(4)(思潮社、2010年10月30日発行)

 粕谷の時間観(?--こんなことば、あるかなあ)には「いま」しかない。けれども、その詩には「永い」ということばが頻繁に登場する。「いま」は一瞬である。その一瞬が「永い」というと矛盾になる。
 だが、ほんとうか。
 粕谷は「永い」と書いているが「長い」とは書いていない。「永い」と「長い」は違うのだ、きっと。

 永いこと、この世に生きて、自分が、ここにいるのも、
そろそろ、終わりにする頃だと分かったら、静かな春の
その日、私は、独り、盥の舟に乗って海に漕ぎ出す。

 「盥の舟」の冒頭である。「永い」という時間を区切るものはひとつだけある。「おわり」である。「長い、短い」は測ることができるが、「永い」ははかることができず、ただ「終わり」によって「永い」が存在しなくなる。
 粕谷の時間には「いま」しかないから、「いま」が終わったら、「永い」も終わる。でも、「いま」が終わるというのは、どういうことだろう。
 「終わりにする頃だと分かったら、静かな春のその日、私は、独り、盥の舟に乗って海に漕ぎ出す。」と粕谷は書くのだけれど、「終わり」がなぜ「静かな春のその日」なのだろう。秋かもしれない、冬かもしれない、夏かもしれない。なぜ、春?
 あ、「終わり」は決めることができるのだ。人間が決めることができるのが「終わり」なのだ。それは逆に言えば、決めない限り「終わり」はなく、「永い」だけがある。「いま」だけがあるということになる。

 死んでしまえば、もう、必要なものなどないから、持
っていくものといえば、梅ぼしの甕くらいだ。臆病な私
でも、櫂を手にしたとたん、気が大きくなって、怖いも
のは、何一つなくなる。
 盥の舟は、沖に出たら、青い海にぽつんと浮いている
だけだ。ゆらゆら、波に揺れて、私は、何もしない。一
切は、成り行きに任せる。

 「終わり」はではどうやって決めるのか。何もしない。これはまたまた矛盾である。何もしない。そこには何もない。何もないが「終わり」である。おかしなことに(?)、この「ない」は「ない」ではない。「必要なものなどない」「怖いものは、何一つなくなる」(ない)。それは、別なことばで言えば「満たされている」状態である。「満たされている」状態につながる何かがあるのが「終わり」なのである。
 そして、またまた矛盾になってしまうのだが、この「満たされている」状態、「満ちた状態」というのは「永い」と重ならないだろうか。
 「永いこと、この世に生きて」というときの「永い」を埋めるのは「空白」ではない。「満ち足りた」何かがあって「永い」になっている。「永いこと、生きて」というのは「満ち足りたので」ということと同じである。もう満ち足りたからか、もう「終わり」にするだ。

 それだけで、ほかに何もすることがなくて、私は眠く
なる。そうだ、それから、うつらうつら、私は、永い自
分の一生を夢にみるのだ。

 これは、「満ち足りた」(永い)自分の一生を「いま」(夢のなかで)思い返すということになる。「長い」ではなく「満ち足りたもの(永さ)」なので「いま」という一瞬に重なることができるのである。
 そして、この「永さ」と「いま」という一瞬が重なるとき、それは「永遠」になる。「永遠」は「永さ」を終わらせ、「いま」にとじこめるとき、その「いま」が「永遠」なにるのだ。「永遠」は「遥か」とも呼ばれる。「いま」「ここ」にある「遥か」なるものが「永遠」である。

 そして、気がつくと、静かな春のその日、私は、独り、
盥の舟に乗っている。いや、観音さまのような赤い腰巻
の女の幻と、しっかり、そこで抱きあっている。
 耄碌した人間が、みんな、そうであるように、そうな
ったら、もう怖いものなど、何一つない。独り笑いなが
ら、私は、ゆらゆら、梅ぼしの甕のなかの遥かな補陀落
の里に行くのだ。


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鏡と街
粕谷 栄市
思潮社
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ドミニク・アベル監督「ルンバ!/アイスバーグ!」(★★★★)

2010-11-19 12:57:44 | 映画
監督・脚本 ドミニク・アベル、フィオナ・ゴードン、ブルーノ・ロミ 出演 フィオナ・ゴードン、ドミニク・アベル

 なぜか昔懐かしい「2 本立て」上映である。「アイスバーグ」から上映された。メインは「ルンバ!」ということになるのだろう。
 しかし初めて見る監督の作品はやはり最初に見た作品の印象が強い。
 「アイスバーグ!」はサイレントといっていい作品である。事故で(?)冷凍庫に閉じ込められた女性が一夜を生き延び、ふいに「氷点下の世界」に目覚める、というような変なストーリーである。何としても北極へ行くんだ、という決意をもって、それを実行に移す。「タイタニック」という小さな船で。この「タイタニック」という名前が端的に表しているのだが、これはナンセンスなお遊びの映画である。
 だから、楽しむのはナンセンスである。
 この映画は徹底的にクールである。冷めている。
 主役の女性が冷凍庫に閉じ込められるところから映画はスタートするが、閉じ込められてもあわてない。死んでしまうかもしれないのだけれど、何ができるか考え、それを冷静に実行する。冷凍庫のなかの商品の段ボールを壊して段ボールハウスをつくるとか、ビニール袋で体を保温するとか。
 画面の色彩計画もクールだ。主役の女性の赤いマフラー、寝室の赤い色と、その対極にある白の対比。余分なものがない。
 このなにもない感じが、感情をさっぱりさせる。倦怠期の夫婦の関係、さらにはそれが伝染(?)したような、母の不在をなんとも感じない子供たち。深刻ということもできるが、深刻にならずにさっぱりし、それがおかしい。
 妻が去って初めて妻の存在を取り戻そうとする夫の悪戦苦闘。今度は妻が、夫がそばにいてもいないかのようにふるまってしまう冷酷(?)な人間関係のおかしさ。浮気相手(?)の船長の何も気にしない感じ。このどたばたが面白い。
 タイタニックが氷山にぶつかり沈む。女性は氷山に乗って漂流するが、その氷山が割れて沈んで、女性も沈んでゆくなんて、とてもいい。どたばたしないのである。

 「ルンバ!」も似た感じ。ルンバで優勝した2 人が、帰り、自殺志願の男を避けようとして大けが、記憶喪失、さらに失業と最悪の人生を歩むのだが、ぜんぜんめげない。愛はかわらず、日常がクールに描かれる。
 ふたつの作品が成功しているのは、ひとつには台詞がない、ということがあるかもしれない。ことばは不必要な「意味」を抱え込んでいまう。不必要な「意味」を排除すると、肉体の強さだけが生きてくる。それを強調するような、2 人の肉体がいい。シンプルでむだがない。すべてがルンバではないが「ダンス」に見えてくるのである。
 あ、そうなんだ。「ダンス」と書いて分かったが、この映画は「文学」でいえば「詩」なのだ。「ストーリー」はない。そこでは「肉体」が踊り続ける。どこにもいかず、一点をまもる肉体――その美しさが輝いているのだ。





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広瀬弓『水を撒くティルル』

2010-11-19 12:29:33 | 詩集
広瀬弓『水を撒くティルル』(思潮社、2010年10月31日発行)

 広瀬弓『水を撒くティルル』には広島を書いた詩がある。「ときわ園」が私には一番印象に残った。
 原爆の火を防いだイチョウの木について書いている。

「あの樹よ、あのいちょうがおったけぇ、火が止まったんじゃ。対岸は火の海、なんものうなるまで舐め尽くされとった。恐ろしい勢いで迫って来る火の高波に、もう仕舞いじゃ思うて家を捨ててみんな逃げよった。火は川を越えそこまで来た。それがどうした訳か、あの樹のところでぴたり止まったんよ、不思議じゃろう?」
原爆の火と戦ったいちょうが思い切り広げた腕、焼け焦がされようと踏み止まった胴体。それを思うと温かい水が湧いて来て上気する、誇らしげなおじいさんの顔。この地に生えて来たことで備わった単純な何かに、わたしたちはつながっていた。

 「誇らしげな」ということばに胸が熱くなる。生まれてきたこと、生きてきたこと。それは何よりも誇らしいことなのだ。誰に対しても誇ることができることなのだ。木は「この地に生えて来た」、そして人間は「この地に生まれてきた」。それは私は生きている、と誇るためにである。
 誰に対して?
 一緒に生きている人に対して、である。

 その「誇り」に対して、原爆は何を言うことができるだろうか。広瀬は、それを問うている。


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ナボコフ『賜物』(16)

2010-11-19 11:09:18 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(16)

 眠れない夜、主人公が姉と謎々をする場面がある。主人公が独自の奇抜な謎々を出すのに対して、姉の方は「古典的な手本に従って」謎々を出した。たとえば

 私の最初の音節は貴金属
 二番目の音節は天の住人
 全部合わせると美味しい果物
                                (27ページ)

 この部分には訳者・沼野充義の注がついている。その注が非常におもしろい。

フランス語の原文だけが掲載されており、訳も謎解きもついていない。答えは、or「金(=貴金属)」+ange「天使(天の住人)」で、orange「オレンジ」となる。なお、この謎はよく知られているもので、ナボコフによる創作ではない。

 私がおもしろいと感じたのは「ナボコフの創作によるものではない」という部分である。
 小説にかぎらず、あらゆる「芸術」は作家の創作である--というのが基本だが、だが、創作など言語においては存在しない。どの言語もかならず誰かが語ったことばであり、なおかつ共有されたものである。そうでないと、ことばはつうじない。ことばが通じる、他人に理解されるというのは、それがオリジナル「創作」ではないからだ。
 創作とは、それでは何になるか。
 既存のものの「組み合わせ方」である。
 姉の謎々が「古典的な手本に従っていた」とことわって、ナボコフは、すでに知られた謎々をそのまま引用している。引用を姉の行為に結びつけ(自分自身ではないところが絶妙である)、そこにひとりの人間を造形している。
 ナボコフのことばが魔術的なのは、それが創作されたことばではなく、創作された組み合わせだからである。

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ウラジーミル ナボコフ
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