詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

廿楽順治「叢日叢行抄」(2)、大橋政人「水仙」

2011-03-18 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
廿楽順治「叢日叢行抄」(2)、大橋政人「水仙」(「ガーネット」63、2011年03月01日)

 廿楽順治「叢日叢行抄」の「わたしたちは/やがて【地平】として売り飛ばされるだろう」は、臨終のことを描いているのだと思う。ひとは死ぬ。そのとき、そのひとのまわりにひとは集まってくる。死んで行く行くひとと、そのまわりに集まっているひと。
 その、「間」。
 そこに何がある? 何が動く。
 廿楽は、「声」を中心にして「間」をとらえる。「声」は「音」。「音」は聞くもの。「耳」と「声」が「間」をつくっている。
 (引用は今回も行頭をそろえる形にした。)

この世には耳がさいごまでのこる
だから
集まったみなさん
かたりかけるこちら側の声をきたえるひつようがある

 臨終のとき、というか、臨終寸前のとき、集まってきたひとたちは死んで行くひとに語りかける。死ぬな、と呼び掛けもする。まるで、「この世には耳がさいごまでのこる」ということを知っているかのように。それは、ほんとう? たしかに目は見えていないようでも、呼び掛けると手を握り返してきたりするから、目よりも耳の方が「いきのこっている」のかも知れない。けれど、その耳よりも、手を握り返してきた手の方がもっと生きているかもしれない。ことばを発しないのでわからないだけかもしれない--と考えはじめると面倒だから、そこまでは考えない。
 そうか、最後の声をとどけるのには、生きている側が声を鍛えなければならないのか。うそか、ほんとうかわからないけれど、まあ、納得してしまうなあ。

いつも
こちら側(あちら側?)の
声の準備はまにあったためしがない

 おかしいねえ。「真理」というのは、いつだっておかしいものを含んでいる。それは、簡単に言うと「はみ出してくる力」である、「真理」とは。そして、「はみ出す力」で、「はみ出すものを押さえようとするのも」を破り、破った勢いで、「押さえようとする力」を洗い流す。
 そういうことを知っているから、廿楽は、「はみ出したもの」(はみ出す力をもったことば)に耳を傾け、それをていねいに定着させる。

げんきになって
ラーメンたべようね
声のラーメンのさいごだ
とんこつ
しお
どっちにしようか
きかされても耳だからこたえられない

 おかしいけれど、笑いながら悲しくなるねえ。「だれにでも想像できてしまう他人事」が、はみ出しているねえ。
 --これが、廿楽の「構図」だ。



 大橋政人「水仙」。

外白中黄
外白中橙
外黄中橙
外黄中黄
外白中白

水仙の
花弁と
中のラッパの色には
いろいろな組み合わせがあって
楽しいことだが

どの水仙も
首のところで
ほぼ九十度
ガクっと曲がっているのには
驚いた
裏から見て気づいた

 書き出しの5行が、私は好きである。この5行を書かなければ、大橋のことばは動かなかった。そこにあることを、まず正確に全部ことばにしてみる。そうすると、ことばが正直になる。自分で動いていく。その動きは、まあ、色のいろいろな組み合わせであるという事実をとおり、もうそのことについて書かなくてよくなったので、それではほかのことを言ってみようくらいの動きなのだが、その「軽い」飛躍が、むりがなくていい。
 水仙は、首のところで九十度に折れている。っ、そんなことも知らなかったの、と驚いてしまうようなことだが、これはほんとうに大橋が知らなかったのか、とりあえずそこへことばを動かしてみただけのことなのかよくわからないが、ともかく、ことばを動くがままにまかせる。
 そうすると、

花が重たいので
自然に曲がったのだろうか

 ここも、まあ、ありきたり。想像がつくね。書いていることがすぐにりかいできる。
 ところが、ふいにことばが加速する。「事実」から、ことばが離陸したがっている。そして、

擬人法を使うと
小学生みたいになるが

ヒョットコみたいで
ごめんなさい

初めから
反省のカタチで
咲き出したみたいだ

 「擬人法」。比喩。それはいずれも、そこにないものを、そこに出現させる。ひとではないものをひととして表現するのが「擬人法」。大橋は、正直なので、離陸する瞬間に「離陸します」と言ってしまうのだ。
 いいなあ、この正直さ。
 廿楽のことばが「構図」でみせるとすれば、大橋のことばは「軌跡」で読ませる。
 「ヒョットコみたいで/ごめんなさい」は「水仙」のことばというよりも、そんなことばにたどりついてしまって「ごめんなさい」と大橋が言っているようにも聞こえる。正確に、正直に、水仙を描写しているうちに、大橋は「水仙」を描写しているという事実から離脱して、「水仙」そのものになって、そこに咲き出したのである。


十秒間の友だち―大橋政人詩集 (詩を読もう!)
大橋 政人
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フィリップ・リオレ監督「君を想って海をゆく」(★★★)

2011-03-18 02:06:41 | 映画
監督 フィリップ・リオレ 出演 ヴァンサン・ランドン、フィラ・エヴェルディ、オドレイ・ダナ

 人はどこに住むことができるか。なぜ、住みたいところに住めないのか。なぜ、自分の行きたいところに行けないのか。この問題は難しい。そして、その問題がどんなに難しいものを含んでいても、どこかへ行きたいという気持ちはどうすることもできない。その気持ちを実行に移すことを拒むことはできない。
 イラクからフランス北部の町まで歩いてやってきた少年がいる。クルド族の難民である。ほんとうの目的地は恋人の住むロンドン。トラックに隠れて密入国(密出国)を図るがみつかってしまう。その少年が、海の向こうにイギリスが見えるのに気が付き、泳いで渡ろうと決意する。その決意に気がついたプールのインストラクターと少年の交流を描いている。
 細部が丁寧である。特に、決して揺れ動かない少年の決意に対比して描かれるフランス人の男の描写が丁寧である。
 男は、妻との離婚問題を抱えている。愛しているのに、必要としているのに、女を引きとめることができない。それに反して、少年は遠く離れた恋人に会うだけのために命をかけている。その懸命さに、男は、夢を見るのである。自分には実現できない夢を。
 その夢が図式的にならないのは、男の現実を丁寧に描くからである。男と女は離婚を決意しているのだが、スーパーで出会ったときは「こっちのレジに来て、並ばなくて済むから」というような、きわめて日常的なこころ配りをする。女は、男が少年をかくまっている(世話をしている)ことを知ると「違法行為がみつかったら逮捕される。やめて」と注意したりする。離婚は決意しているが、相手がどうなってもいい、とは思っていない。気になるのだ。自然に気遣いをしてしまうのだ。
 そういう気遣いを受ける男は、少年の夢に対しても、それに似た気遣いをしてしまう。
 そうなのだ。この映画は「気遣い」を描いているのだ。人が一緒に生きるときに必要なのは、きっと「気遣い」なのだ。少しの「気遣い」さえあれば、人は生きてゆける。もっと生きやすくなる。
 周囲をみれば、他者への配慮を欠いた人がたくさんいる。クルド難民を、自分たちの生活を乱すもの、迷惑な存在と見て、排除しようとする。難民に救いの手を差し伸べる人をも排除しようとする。治安の維持という目的で。それは、こころが狭量だからなのだ。
 男が直接かかわるシーンではないが、少年が取り調べを受けるシーン。係員が少年の財布から恋人の写真をみつけからかう。写真の取り合いになり、恋人の写真が破れる描写は、人間のこころの冷酷さを端的にあらわしている。からかった係員は、単にからかってみただけ、悪意はなかったというだろう。たしかに悪意はないかもしれない。けれど、その悪意のなさ、無意識の行動に深い問題がある。無意識だからこそ、制御がきかない。積み重なって、暴走することもあるのだ。
 こころの狭量に対する怒り、気遣いをどう実現していいかわからない現実――男は揺れながら、自分の行動を修正する。金メダルを盗まれたことを許す。少年の夢のためにウェットスーツを貸す(与える)、貴重な指輪をプレゼントする。それがほんとうに少年を助けることになるのか。わからない。わからないけれど、そうするしかない。その悲しみが、静かに残る。

 少年を阻むドーバーの冬の海。その、暗い色。硬質な波。それは人間の思いとは関係なくそこに存在する。それは過酷である。けれど、少年を取り調べた係員のように、無意識な悪意を持ってはいない。少年を阻むのは、自然ではなく、いつも人間なのだ。人間が決めた「なにごと」かなのだ。
 原題の「WELCOME 」が強烈である。男の隣人が、男が少年をかくまっていると密告した。その隣人が、男が怒りをぶつけることを予想して、玄関に「WELCOME 」と書かれたマットを引いて挑発する。「来るなら来るがいい、はねつけてやる」。それが現在のフランスの「難民政策」である、と監督は怒っている。
                         (03月15日、KBCシネマ2)
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廿楽順治「叢日叢行抄」

2011-03-17 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
廿楽順治「叢日叢行抄」(「ガーネット」63、2011年03月01日)


 廿楽順治「叢日叢行抄」は何が書いてあるんだろうなあ。詩、だから、「内容(意味)」は、私はあまり気にならない。「【長谷川●二郎展】で/りんじろうのおかずについて沈思していると」(●はサンズイに、隣のツクリをくっつけたもの)は、書き出しがおもしろい。
 廿楽の詩は、行末がページの下でそろうようになっているのだが、引用では行頭をそろえて転写した。

さんまは死んで
くりかえし
遠くのみぎにしずんでゆく
そのくりかえしは
わたしたちの会話の構図にそっくりおさまるだろうか

 食卓のサンマ。右下の方に書かれている。その構図を見ながら、会話の構図を考えている。で、その会話の構図って何? 組み立て方かな? はっきり定義はできないのだが、絵に構図があるなら、ことばで成り立っているものにも構図はあるだろう。「小説」なんかは、仕組み(仕掛け?)がしっかりしているから「構図」を思い浮かべやすい。詩は、ぐにゃぐにゃしているから、ちょっと構図を思い浮かべるのはつらいかな? まあ、どうでもいいのだが、この「構図」ということばがとてもおもしろい。

さんまは死んで
くりかえし
遠くのみぎにしずんでゆく

 というのは、食卓のサンマは、もちろん死んでいる、という意味であり、そのサンマは絵では右下の方に描かれている。下だから「しずんでゆく」、上だったら「うかんでゆく」になるのかな?
 そういう絵の「構図」を私は、長谷川の絵を見たことがないのだけれど、ちょっと想像した。その絵の構造のように、絵の感想を語り合うとき、何かがサンマのように中心からずれて、どこかへ沈んで行く--そういう「構図」がありうるかな?
 きっとある。
 実際、廿楽は、その「構図」にあわせるようにして、会話を抜き出してみる。会話のことばを配置し直している。

しかられて
長谷川家の
りんじろうは泣いただろうか、りんじろうのおかずは

 とか、

思い出し方によって水深はかわる
死に際をしらないうちにくらべているのである

 とか、

設問の酔いが
まだぐずぐずとおかずの周辺に沈んだまま
みそ汁のなかに親しくもぐっている
ああ
切られた身がへんにあたたかい
たしかそこから表へあるいてきたのだ
さんまの
みぎにすこしかたむくあるきかただ

 とか、部分部分をリアルにことばにして、へんにすきまを大きくする。ことばとことばのすきま--脈絡のなさ、は、まあ、空間になるのかな? 絵で言いなおせば、ものとものとの隔たり、空間。空間があって、もの(凝縮した何か)がある。そのバランスが絵の「構図」であるなら、ことばもまた、あるところではことばが凝縮して「もの」になり、あるところではことばがまばらになって脈絡をなくし、ただ「空間」だけがある。そういう感じが、廿楽の詩にはあるなあ。
 これは小説とはちがう「構図」だねえ。
 小説にもいろいろあるから一概には言えないのだけれど、小説のことばは、いわば「結末」へ向かって動いていくという「構図」をもっているが、廿楽の詩には「結論」がない。もし、「結論」(書きたいことがら)があるとすれば、それはきっと、そこに書いてある「ことば」ではなく、そうやって「ことば」を並べるときにできる、へんてこりなん「間」だね。「構図」をつくりだしている「間、空間」。(へんてこりんな--と書いたが、廿楽には「変」ではないだろうなあ。私はそれの「間」を正確につかみきれないから、へんてこりんと呼んでいるだけである。)

 ことばとことばの関係--というよりも、ことばとことばの「間」。脈絡のなさ。そういうもののなかに、詩がある--と廿楽は考えているのかもしれない
 だから、詩を書くときも、行の頭をそろえて書くのではなく、最初から「間」を書く。でこぼこの、ふぞろいの「間」。それをことばを並べ直すことで、その最後の方(行末)をそろえて、「はい、ことばはこんな具合に立っています」と言うのである。
 そして、その立地点は、ことばの脈絡を、そんなもの関係ないと吹き払って、ただ延々とつづいていく「暮らし」というものかもしれない。「ことば」は「ことば」の配置の「構図」はなかなかみつからないのだが、その「ことば」を立たせている力(廿楽のことばはページの下を大地のようにして立っている。--絵画的に言いなおせば)が「暮らし」であることがなんとなく感じられる。
 ことばには脈絡がない。ただ「間」がある。しかし、その「間」には、何か「暮らし」のにおいがはみだしている。


とは要するに手元をひらくことであった
干したものは身がすくない
結婚したばかりのころ
かれらは数えるまでもなく
ふたり
であった
苦悩するできごとは他にあるはずもない
生きながら
焼かれてしまうひとのことをかんがえてしまった
たいやき、みたいだ
ふきんしんだが
それはだれにでも想像できてしまう他人事であった
そのまま
食卓も
わたしたちのきぶんもしずかに沈みきった

 「暮らし」とは「だれにでも想像できてしまう他人事」である。「他人事」なのに、きょうつうしてしまう何かである。「肉体」のようなものだ。
 だれかが道端で倒れ、呻いている。自分の「肉体」ではないもの、他人の肉体なのに、その痛みがわかってしまう。「他人事」なのにわかってしまう。
 そういうものが「間」のなかにある。--というのが、廿楽の、ことばの「構図」かもしれない。

こんなたあいない構図だって
なん十年かすれば
きっとひとつの器になるのがおぞましい
りんじろうの眼はおかずを前にして
どうしようもなくひらかれていったのだ
そこには結婚したばかりの多くの他人がたっていた
みんな
ふしぎなことに
絵となってわらっている
だが
しっぽから少ないあんこがはみでていることにも気づかない

 長谷川の絵を見て、若い夫婦のつましい暮らしを思う。他人事だけれど、自分のことのように思う。感じる。そのとき、その感じのなかに、そのひとの「暮らし」がはみ出ている。もちろん、はみ出ていることに、だれも気がつかない。

 と、ここまで書いて……。
 では、そんなふうにして書いてる廿楽の「暮らし」は? はみ出ていないの? この詩に廿楽の暮らしははみ出ていないの?
 はみ出ていません。
 はみ出ているのではなく、はみ出させている。ことばのすべてに「暮らし」をはみ出させている。はみ出しっぱなしなので、何がはみ出ているかわからないくらいになっている。わけがわからないけれど、その「間」に暮らしがにおっている--そういうふうに廿楽はことばを動かしていきたいのだ。





すみだがわ
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高木敏次「朝」「帰り道」

2011-03-16 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
高木敏次「朝」「帰り道」(「ガーネット」63、2011年03月01日)

 高木敏次「朝」は、ことばをていねいに動かしている。そして、ことばが動くことで何かをみつけだすまで、根気よくあとをおいかけている。その感じがおもしろい。

図書館で見た立像は
昨日から
動いていない
この前バスで
どこへ行くのか
私の隣にすわっている人のように
人前で
何も話さないと
もっと見ていたいと思った
いつも
私をうながすようにうなずきながら
朝の市場にいる人
とはちがい
机で寝ている生徒の前でする
話ともちがう
時計が正しく刻む音
が聞こえるように思う

 3行目と4行目のあいだには、高木の、あることばが省略されている。その省略されたことばが、高木の思想である。
 書き出しの3行は、少し変である。何が変化といえば、「動いていない」ということばが変である。「立像」だから動くはずがない。その動くはずがないものを「動いていない」とことばにすること--それが変である。
 こういう変なところには、思想が隠れている。高木にはわかりすぎているために書くことのできなかったことばが隠れている。
 それは「思う」である。
 そして、もし、そこで「思う」ということばを書いてしまうと、実は、高木のことばは動いてかない。わかりすぎていることというのは、実はわからないことでもあるのだ。わかっているか、わかっていないか、区別できないことでもあるのだ。
 立像は動かない。それを、動いていない、と思う。ことばにしてみる。そうすると、そのなぜ、そんなわかりきったことを書いてしまったのか、それを書かせる「こころ」(意識)は、いったい何を知りたくて、そのことばになったのか、ということが気になる。
 書かなかったこと、隠していること(書かなかったとも、隠しているとも意識できないくらい高木の肉体にぴったり重なってしまっているもの)の、その奥で動いている力を知りたくて、ことばは動くのである。高木を裏切りながら、ことばのなかの力が動くのである。
 立像は動いていない--と思うだけでは、ことばは満足できずに、もっとほかのことばになろうとする。
 バスの中でいっしょに居合わせた人、市場の人、生徒と、ことばはむだに(?)つかわれる。いや、それは、たぶん、そういうむだなことばを捨てるために必要な「径路」なのである。余分なことを思うのは、その余分を捨てるためである。
 ことばを捨てて、捨てて、捨てて、捨て去ったとき、

時計が正しく刻む音

 と、人とは無関係なことばが、ことばの奥から浮いてくる。こころの奥から、肉体の奥から浮いてくる。
 図書館の立像は動いていない。けれど、それは外見的なこと。その立像の内部で「時計を正しく刻む音」が動いている。そして、その「正しい」は高木のすべてである。
 「時計が正しく刻む音」ということばにまで、高木のことばが動いて行ったとき、高木は高木ではない。図書館の前の立像そのものになっている。
 思うことは、私を超越することだ。ことばを動かすことは私を超越することだ。

朝から
私ではない

 私を超越するということは、「私ではない」存在になることである。
 「思う」こと。「思う」ことを、ことばにすること。そして、そのことばが「正しい」何かにふれた時、「私は私ではない」。
 そして、「私ではない」からこそ、「私」なのである。
 「帰り道」は「朝」とは反対の方向から(?)書かれている作品である。

予定表に書き込んだ
一日がそれを忘れさせてくれる
執着はしない
鏡に映っているものははがせない
風景は重ねられる
だから帰り続ける
私を置き去りにしてまで
近道は使わない
廊下のような
脇道こそが正しい

 ここに書かれている「脇道」は、「朝」では、たとえばバスに乗り合わせた人、市場の人、生徒である。それらは「立像」ではない。「立像」ではないからこそ、高木のことばは、そういう人たちを通ることで、「私」を置き去りにせず、ゆっくり動くのである。
 ゆっくり動きながら、「私」を脱いでいく。私を「置き去り」にするのではなく、「私」を脱ぎ、そして捨てる。そんなふうに、私を脱ぎ捨てることこそが「正しい」ことなのだ。
 「思う」、「思うこと」(思い)をことばにして、自分を脱ぎ捨てることが、自分を超越することなのだ。「私」は「外部」にあるのではなく、「内部」にある。そして、その「内部」は「私」を脱ぎ捨てることき、おのずと「外部」にかわる。

記憶されねばならないのは
朝、目を覚ましたこと
今日も
ひとりの私をしさえすればよい

 「ひとりの私をしさえすればよい」というのは、変なことばだねえ。変だからこそ、しかし、そこに「思想」がある。高木によってしかことばにできない何かがある。
 「私をする」というのは「私である」ということではない。「私である」から「私になる」ことである。同じ「私」ということばが繰り返されるので、どれが、どんな「私」であるか、区別するのは面倒くさくなる。わかっているのだけれど、わからないのと同じような状態になる。
 最後の3行。

鏡を見れば
帰り道をさがしている
私がいる

 どこに? 鏡の中に?
 そうではなく、「私を置き去りにしてまで/近道はつかわない」という行為の中に。「廊下のような」「正しい」「脇道」を歩いている行為の中に。余分なことをしながら、余分を捨てるという行為の中に。
 行為の中に「いる」ということは、「行為」をすることで、私に「なる」ということと同じである。


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片岡修『高岡修句集』

2011-03-15 23:59:59 | 詩集
片岡修『高岡修句集』(ジャプラン、2010年11月25日発行)

 俳句について私が知っていることはとても少ない。五七五という韻律。季語。切れ字。この三つである。五七五--計17音、というのは、実に短い。
 はずである。
 けれど、高岡修にかかると、これがとても長い。17音という音の数自体は変わらないはずなのだが、ことばをとてもたくさん読んだ気持ちになる。ことばが多い、ことばがうるさい、という気持ちになる。

拐わかされきたるや春の雲ひとつ

きさらぎという鳥の血をまぶしめり

山ざくら風は黄泉より吹き起こる

 「拐わかされ」「血」「黄泉」。そのことばが、まがまがしい。自己主張しすぎる。そこに書かれている「こと」と向き合う前に、その「ことば」が前面に出てきて、「こと」を隠してしまう。「こと」と「ことば」の一体感がない、というといいすぎになるが、そこに書かれている「拐わかされ」「血」「黄泉」ということばと他のことばのバランスが均一ではない。「拐わかされ」「血」「黄泉」の重さが重すぎる。占める領域が広過ぎる。

蝶の羽化意味がことばを脱ぐように

 この句には「意味」というなまなましいことばが出でくるが、高岡の句のうるさい感じ、ことばが多い感じは、そのことばが「意味」をもち過ぎるからである。
 「拐わかされ」「血」「黄泉」ということばの「意味」をくぐらないと、その句の世界と向き合えない。「蝶の」の句の場合は、「意味」ということばの「意味」をくぐらないと、その句と向き合えない。
 そのときの「意味」をくぐる--という意識の動きを、私はどうも、納得できない。「意味」をくぐるから、そこに「意味」の軌跡(?)ができ、その「意味の軌跡」(ことばの論理構造)が目について、あ、うるさいなあ、と感じるのである。
 「意味」をくぐることを高岡は詩と感じているのかもしれないが(高岡「現代詩」の場合も同じであるが)、私は詩は「意味」をくぐったところ、「意味」をくぐって「意味」の向こうへいくことに詩があるのではなく、「意味」を拒絶する、「意味」を排除したところに詩があるのだと思う。
 「意味」ではないもの、「意味」にならないものが詩なのだと思う。
 
春愁に呼ばれて睡い斧ひとつ

 「呼ばれて/睡い」ことに気がつく。--それは「世界」と「私」の一体感というよりは、「世界」と「私」の分離、断絶の発見である。そして、その「断絶」の象徴が「斧」であり、発見(意識の動き)の強調が「ひとつ」である。
 ここにあるのは「意味」だらけである。
 なぜ、こんなにも「意味」だらけなのか。

山ざくら光を<かげ>と読むこころ

 「意味」とは、ある存在をどのように「読む」(把握する)か、そのときの「こころ」のあり方だからである。「意味」は高岡には「こころ」なのである。
 「こころ」をつたえるために、高岡は「意味」をつかうのである。「こころ」をつたえることは「意味」をつたえること--それが高岡の詩学である。
 比喩、象徴--その「意味」は、高岡にとっては「こころ」なのである。
 それはそれでいいのかもしれないけれど、こんなに「こころ」(意味)があふれていては、ちょっと閉口してしまう。
 「こころ」というものがもしあるとすれば、隠しても隠してもあらわれてしまうものが「こころ」ではないだろうか。「意味」もおなじように、拒絶しても拒絶しても、「もの」や「こと」の奥から自然とあらわれてくるもの、自然とあらわれるのだけれど、けっしてことばにならないものが「意味」ではないだろうか。ひとが、自分の力ではもちきれない「もの」が「こころ」であり、「意味」ではないだろうか。
 そして、その隠しても隠してもあらわれる「こころ」、拒んでも拒んでも形作られる「意味」が、詩、なのではないだろうか。

折り鶴をほどき一羽の死をほどく

白木蓮の息をあつめて暗くなる

 こういう句は、句集の中ではなく、単独で読んだならば、そのことばの運動の精密な軌跡に感動するかもしれない。けれど「意味」を強調する句にしばられて句集におさまると、高岡詩学の構造だけが露骨に浮き彫りになり、句を読んでいる感じがしなくなる。
 繊細な感性、精密な比喩の論理--それもたしかに詩なのだろうけれど、それが「目的」になってはつまらない。それが「手段」になってもつまらない。適当な表現がみつからないけれど、そう思うのだ。



 批判ばかり書いたので、気に入った句を少しあげておく。

しののめの鳥類図鑑にある羽音

鳥を飼う雲のかたちの美容室

桃むけば宇宙を零れ落ちる水

犀と会う流砂激しい部屋にいて

 「しののめの」は「鳥類図鑑」と「羽音」のつながりに、それこそ「意味」があるのだが、「しののめの」という古いことばがその「意味」をおしつぶし、「無意味」を自己主張している。「しののめ」にもちろん「意味」はあるが、いまはそんなことばはだれもつかわないという視点からみると、「しののめ」は「無意味」なのだ。
 「鳥を飼う」は「飼う/雲のかたちの」の音の響きが美しい。「桃」「犀」は「宇宙」「犀」ということばの非日常性がいい。




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池田順子「月」「借りた」

2011-03-14 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
池田順子「月」「借りた」(「ガーネット」63、2011年03月01日)

 池田順子「月」は不思議な作品である。といっても、私がこれから書くことは、実は「誤読」である。ほんとうは池田は違うことを書いているのだが、私は、あえて池田の書いていることを無視して感想を書いておきたい。

つないだ手と手のなかで
ほっこり
月が浮かびあがる
ゆれる
手のなか
ほっこり
月がかたむく

おばあちゃんはいつ生まれたの?

湖のような眼が見上げている
少女の
あかるい問いかけに
歩調がみだれてしまった

おばあちゃんがいつ生まれたのか なんて
知らない

いつだったのだろう

 「おばあちゃんはいつ生まれたの?」と聞かれ、「○年前だよ」と答えればふつうの会話である。
 「○年前だよ」
 「すっごい。私は5年前だよ」
 「そう、○○ちゃんは、5年前に生まれたの」
 「そうだよ、5年前に生まれたから5歳なんだよ」
 「そうなんだ、5年前に生まれたから5歳なんだね。おばあちゃんは○年前に生まれたから、○歳だね」
 子どもは自分の年齢と、何年前に生まれたということが5という数字の中で一致することを発見し、それを知ってもらいたくて、池田にそう問いかけただけなのである。
 でも、池田は、そんなふうに子どもと会話することができなかった。
 ふいに、自分はいったいいつ生まれたのか、言ってしまうことに疑問を感じたのだ。生まれたときのことなど、覚えていない。○年前は知識として知っているだけであり、実感がない。問いかけた子どものように、その「知識」に対する喜び(これを、池田は「あかるい」ということばであらわしている)もない。
 あ、そうなんだ。
 生まれたこと--生まれて生きていること、そのことと「いま」を結びつけるときに何かを「知る」。その「喜び」がない。「あかるい」何かがない。
 と、思ってみるが、いやいや、「あかるい」ものはあるぞ。
 子どもとつないだ手のなかにある「月」。それはあかるいだけではなく、「ほっこり」している。その「ほっこり」を、池田は発見している。子どもが、5年前に生まれたことと、5歳であることが一致するのを発見したように、だれかと手をつなぐとき、その手をつなぐという行為の中に「あかるさ」がうまれる。「ほっこり」という感覚がうまれる。
 「○年前」に生まれた、○歳である、--ということではつたえられないことがら、「月(あかるさ)」と「ほっこり」をことばにしてみたいのだ。
 でも、すぐには、そのことばは思い浮かばない。それで、「歩調がみだれる」のだ。

 (このあと、池田は、別なことばで「歩調のみだれ」を説明している。それはちょっと「月」と「ほっこり」にはそぐわないように私には思える。だから、その部分をあえて省略して、私は、「誤読」というより、「捏造」を書いたのである。)

 歩調はみだれる。それを、どうやって立て直すか。手をつなぎなおすと、それだけで歩調は持ち直す。

並んであるく


ふたつの
月が動く

 月夜の晩のことなのだろうけれど、池田が幼い子どもと歩いてその姿が浮かぶ。つないだ手のなかに、池田があかるさと、あたたかさ(ほっこり)を感じているのが、とても気持ちよく伝わってくる。

 「借りた」には、その「月」の「あかるさ」と「ほっこり」した感じにつながる、ひととひとの触れ合いがある。人間が肉体をもっていることの、不思議なあかるさと信頼がある。

泣きそうになった わたしに
あなたは
いちまいの 胸を
差し出した

おさえていたものはこみあげてくる
ものをこらえて
聲を殺そう

わたしは
胸を
借りた

殺すことで
頭がふるえ
肩がふるえ
ことばより先に
借りた胸が
ふんわり
あたたかい

をたてて
つつんでくれる

吸ってくれる
聲を
あなたは
いちまいの 胸を
置いたまま
帰ってしまった

濡らしても
すぐに乾く
いちまいの 胸
開いては
畳んでみる
畳んでみても
小さくなることはない
何度使っても
古びることはない

ひっぱりだし
たまに話かけてみる

あたたかい

のするばかり

 この作品をどう読むか。池田はだれかの胸の中で泣いた記憶がある。これは、まあ、間違っていないだろう。それから先を私は、やはり「誤読」したい。池田が書いている「事実」とは違うかもしれないことを承知で、私は私の読みたいように読む。
 池田は男の胸で泣いた。シャツが涙で汚れた。それで、池田は「洗って返します」とシャツを預かった。そのシャツをまだ持っている。忘れることのできない記憶のように大事に持っている。ときどき取り出して、畳んだシャツに顔をうずめてみる。そうすると、あのときと同じように、そのシャツの下にある心臓のどくんどくんという音が池田をつつんでくれる。
 それはあたたかくて、(ほっこりしていて)、あかるい。
 ひとは「肉体」でつながって生きている。
 「肉体」と「肉体」が相手をしっかり実感するとき、ひとは、強くなれる。ひとを強くするのは、いま、そこにある「肉体」である。
 池田はシャツを(胸を)貸してくれたひととは、いまはいっしょではないかもしれない。それでも、その記憶が、「肉体」の記憶が、池田を強くしていることがわかる。
 いいなあ、と思う。ほんとうに、あたたくていいなあ。

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誰も書かなかった西脇順三郎(195 )

2011-03-14 11:44:57 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「田楽」の最後の方にとてもおもしろい展開がある。

「まよ中におれが考えたことを
あの女にきかせるよりは死ん
だ方がましだ」
(そげなことを思いながら)

 西脇の詩には不自然な改行、ことばの「行わたり」が頻繁にみられるけれど、「死ん/だ方がましだ」は、とりわけかわっている。「死んだ/方がましだ」なら、まだ「死んだ」でいったん「意味」が完結し、それが次の行で破壊される(と、いうか、方向転換される)ので、強引な感じはしない。「死ん/だ方がましだ」は、どうみても強引である。
 でも、なぜ、強引に感じるんだろう。「意味」を追うからだろう。しかし、その「意味」とはなんだろう。「頭」で追いかける「意味」だ。
 「肉体」は、ほんとうはそんなふうにことばを追いかけないかもしれない。
 思わず「死」ということばを口にして、そこでいったん立ち止まる。勢いで「死ん」まで言ってしまうが、言いながら、いまのことばでよかったかな? 言っちゃいけないんじゃないかな? ふと、迷う。その迷いの瞬間を乗り越えて、急遽、ことばを別な方向に動かす。そういうことがある。
 そのリズムを、西脇のことの行のわたりは具体的に再現している。
 「意味」ではなく、呼吸。息。息がここにある。

(そげなことを思いながら)

 これは、いまの会話口語で言いなおすなら、「なんちゃって」ということになるだろうか。
 勢いで動いていくことば、肉体が自然に発してしまうことば--それを、状況の変化(まわりの反応)をみて、急に方向転換する。そういうとき、「論理的」なことばの運動ではだめである。「論理的」ではなく、脱論理--肉体の無意味さで、それ以前のことばをたたき壊すような乱暴さ(乱暴のやさしさ)が必要である。

 ことばにとって(日常のことばにとって)、「意味」は重要ではない。対話にとって重要なのは、呼吸、息。息が合えば、なんとかなるのだ。
 西脇のことばは、いろんな「出典」を抱え込んでいる。(そういう分析を熱心にしているひともいる。)「出典」を明確にすることで「意味」がわかることがある。けれど、「出典」では絶対にわからないものがある。なぜ、そこにその「出典」が、という根拠である。
 あらゆることば--西脇のことばにかぎらず、だれのことばでも、そのことばが発せられるとき、そこには独自の呼吸(息)がある。リズムと音楽がある。「意味」ではなく、私は、そういう音楽、呼吸にいつも誘い込まれる。





西脇順三郎と小千谷―折口信夫への序章
太田 昌孝
風媒社



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浦歌無子「K」、藤維夫「破鏡」

2011-03-13 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
浦歌無子「K」、藤維夫「破鏡」(「SEED」25、2011年03月05日発行)

 浦歌無子「K」について、書き残したことがある。書き出しの1行。

絡んだコードを無理にいつも引っぱるから片耳聞こえなくなったイヤホンで

 ここには「絡んだコードを無理にいつも引っぱるから」と正確に書かれているにもかかわらず、その直後に「片耳」ということばがでてきた瞬間、私はコードを忘れてしまう。片方の耳が引っ張られと読み違えてしまう。「誤読」してしまう。
 きのう書いたことだが、コードを引っ張った結果として聞こえなくなったのは「片耳」ではない。耳は聞こえている。耳が聞こえなくなったのではなく、イヤホンから音がでなくなったのだが、浦はそうしたことを

絡んだコードを無理にいつも引っぱるから片方音の出なくなったイヤホンで

 と書かない。「もの」と「肉体」を別個の存在として正確に(客観的に?)書くのではなく、「もの」の状態を「肉体」の状態に引きつけて書く。「肉体」を「もの」に滑り込ませ、「肉体」のことばとしてそこに存在させる。
 その力に引きずられ、「もの」ではなく「肉体」の方がみえてしまうのである。迫ってくるのである。絡んだコードを無理やりひっぱるのは、イヤホンを耳につける前のことかもしれない。けれど、「絡んだコードを無理にいつも引っぱるから片耳聞こえなくなったイヤホンで」と書かれると、耳にイヤホンをさしたままコードを引っ張り、その結果耳もひっ張られて、そのついでに(?)、なんだか耳の奥--脳の中まで引っ張りだされる感じがするのである。
 コードがなければ、耳が引っ張られても脳の中は出てこない。耳の中にイヤホンがあり、それにコードがつながっているから、コードを引っ張ると耳が引っ張られ、その延長線上へと引っ張る力は伸びて行き、脳の中まで引っ張りださせる。
 この詩は、1行目に「音が出なくなった」ではなく「片耳聞こえなくなった」と書くことで、一気に、不思議な世界を納得させるのである。
 脳の中まで引っ張りだされれば、脳の中は狂ってしまう。狂ってしまえば、そこで見る世界はいままでと違っていて当然なのである。

絡んだコードを無理にいつも引っぱるから片耳聞こえなくなったイヤホンで
オンガクを聴いている地下鉄車内(デイ トゥ デイ
と聞こえてきたところでK駅で降りそこなったことに気がついた

 しかし、そこで簡単に浦は「答え」を出さない。「片耳」と書いたことの理由を説明しない。「片耳」を引きずって、つまり「肉体」と「もの」との距離を、「肉体」からとらえ直しつづける。
 その結果、

Kの名前が出てこないかたちにならない
口を開けたまま息苦しくなって激しく咳き込むガタンゴトンと電車は走り続ける
ない
降りる駅がない
名前も忘れた形も色も手触りも匂いももう忘れた
なくなった駅ひとつぶんの闇は全身の皮膚を覆うのにぴったりだったから
ぴったりを全身に被せるくまなく密着させるD駅で降りる

 という濃密な浦ワールドが出現する。
 「Kの名前が出てこないかたちにならない/口を開けたまま息苦しくなって」は、「Kの名前が」脳から「出てこない」、脳からでてきてKという「かたちにならない」という意味であると同時に、口がKという音を出すかたちにならない、その結果、Kという名前が出てこないなのである。
 片耳を引っ張られ、脳の中が引っ張りだされ、そのために起きている「異変」を、浦は脳の問題(肉体の見えない部分の問題)ではなく、身近な「口」の問題に重ねて言語化するのだ。
 口は開いている。開いているのに、出そうとする音が喉につっかかって、あるいは舌が息を塞いで、苦しくなる--あ、まるで、夢のなかのできごとのようだ。
 肉体--しかも、あくまで手で触れることができ部分、目で見ることができる部分にこだわって、つまり、肉体を肉体で描写するのだ。
 この結果、ことばは変質する。その変質が、詩、なのだ。



 藤維夫「破鏡」の1連目。

待ちくたびれて庭を戻り
これから渡る橋が近くに見える
思いが深く 透明な思考の差ははなれる
犬も猫とともに恭順されたさみしい時間
どんな道順もわからないままの捨てられた道
いつもまたという繰り返しの瀬音が聞こえる

 「どんな道順もわからないままの捨てられた道」という1行が非常に美しい。まあ、こんな「道」は、世界にはない。これは、言い換えれば、藤が絶対に通らないであろう道のことである。道順がわからないから捨てられたのではなく、ほかの道順を知っているからその道を利用しないだけのことである。ここでの「捨てられた」は「意識」(思考)から捨てられた(除外された)ということになる。
 藤は、浦とは違って「精神(思考)」を基準にして世界をみつめるのである。
 2行目「これから渡る橋が近くに見える」には「見える(見る)」という肉体(目)と深く結びついたことばがある。「肉体」を除外して叙述すれば、2行目は「これから渡る橋が近くにある」になるはずである。そういう叙述が可能であるにもかかわらず、藤が「見える」ということばを選んだのは1行目の「戻り(戻る)」という動詞の影響があるからだ。「戻り」の主語(藤)が「見る」の主語でもある。そして、とても巧妙(?)なことに、藤は「肉体」と関係する「見る」を、「肉体」と切り離したかたち、「見える」と活用させている。「見える」は藤には「見える」であると同時に、藤以外の人間もその場に立てば「見える」--つまり客観的な事実として叙述することで、橋の存在を「ある」という「肉体」から離れた存在に近づけるのである。
 藤は「肉体」を描いても、それを引きずらない。浦のように「肉体」でことばを動かしてはいかない。「見る」を「見える」にかえるように、「肉体」を「思考」にかえるのである。

思いが深く 透明な思考の差ははなれる

 これは、「肉体」ではなく、思考の独立宣言のようなものである。そして、その思考にとって重要なことは「深く」あること。「深い」ことである。どこまで思考を深めることができるか。思考の深さが、藤の「肉体」なのである。深くなれば、それこそそこに不要なものも出てくるかもしれない。「どんな思考かもわからないまま捨てられてしまったことば」というものが出てくるかもしれない。しかし、藤は、「捨てられててしまったさことば」があることを思考としてつかみとっている。それが「捨てらられた道」という具体的な比喩になってあらわれてきている。
 比喩は、藤にとっては、ことばの肉体である。比喩によって、ことばを結晶化させ、思考がつかみとれる「もの」にかえるのだ。





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ウィリアム・ワイラー監督「大いなる西部」(★★★★)

2011-03-13 01:15:54 | 午前十時の映画祭
監督 ウィリアム・ワイラー 出演 グレゴリー・ペック、ジーン・シモンズ、キャロル・ベイカー、バール・アイヴス

 題材は西部劇だが、内容は西部劇じゃないなあ。何度か繰り返されるグレゴリー・ペックの台詞「自分の居場所はわかる(知っている)」が象徴的だが、まあ、なんというか説教臭い映画である。
 ウィリアム・ワイラーとしては異色の西部劇をつくってみたかったということなんだろうなあ。だから、主人公は東部の船乗り(船長)という「大いなる西部」とはまったく異質なものを狂言回しにしている。異質なものが西部にまぎれこむことで、西部の「本質」を浮かび上がらせているのだ。
 で、この狙いというか、意図を具現化しているのがバール・アイヴス。ヘネシー。ブロンコ谷の野蛮な一家の父親。太っていて醜く、たぶん教養もない、という設定。けれど、この親父は人の本質を見抜く。真実を生きている人間を見抜く。「正義」を見抜く。
 ひとは見かけで判断してはいけないんだねえ。
 彼が信じているのは、卑怯なことはしない。正々堂々と向き合い、真剣に勝負するのが男であるという思想である。それが、親父の「正義」である。彼は「正義」を実行している。いつでも、「正義」だけを実行する。
 この愚直なまでの「正義」のこころは、ときに悲劇を呼ぶ。
 卑劣な行為をする人間がいれば、それが自分の息子であろうと殺す。もちろん、殺したあと、親父は悲しむのだが、その悲しみはギリシャ悲劇のように感動的であり、同時に官能的である。正義の悲しみが、とても美しい。
 最後の少佐との決闘も、劇の結末をぐいと引き寄せ、結晶させる。そこにも「正義」の力がある。
 バール・アイヴスの演技をみていると、ウィリアム・ワイラーは、無法者を保安官が倒すという「正義」ではなく、カウボーイの「正義」、西部を開拓して生きる男の「正義」を描きたかったのだということがわかる。バール・アイヴスはウィリアム・ワイラーの思想を肉体で具体化している。
 この映画のもうひとつの見物は広大な風景である。
 ブロンコ谷(白い谷)の岩の美しさ。砂漠といっていいような荒地と、うねるような大地の起伏、そのどこかにある水。そして、光。その広大な世界を生きていくには、バール・アイヴスの「正義」が絶対必要なのだと感じさせてくれる。
 あるいは逆に言うべきなのか。
 「正義」によって、広大な土地が絶対的な美しさに変わっていく。バール・アイヴスの存在が、この西部劇の舞台そのものを完璧な美しい土地に変えてしまう。
              (「午前十時の映画祭」青シリーズ6本目、天神東宝)


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浦歌無子「K」

2011-03-12 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
浦歌無子「K」(「SEED」25、2011年03月05日発行)

 浦歌無子「K」は地下鉄N駅から出発し、Kで下りるはずがDまできてしまった。逆戻りするが、今度はあっと言う間にNについてしまう。K駅がなくなっている--という不条理(?)を描いている。
 どうなっているのだろう? 事情を隣のひとに聞こうとするが……。

Kの名前が出てこないかたちにならない
口を開けたまま息苦しくなって激しく咳き込むガタンゴトンと電車は走り続ける
ない
降りる駅がない
名前も忘れた形も色も手触りも匂いももう忘れた
なくなった駅ひとつぶんの闇は全身の皮膚を覆うのにぴったりだったから
ぴったりを全身に被せるくまなく密着させるD駅で降りる

どこに行く?

 ほんとうに駅がなくなったのか、それとも「記憶」から駅が消えてしまったのか、というのは一種の不条理である。そのことをどう受け止めるか。ここからが浦のことばの真骨頂である。もし駅が消えるとしたら、それはどこへ行ったのか。それはどんな影響を与えるのか。

なくなった駅ひとつぶんの闇は全身の皮膚を覆うのにぴったりだったから

 ということばを手がかりにすれば、駅がどこへいったかはわからない。わかるのは浦が(と、とりあえず書き手を「主人公=主語」にしておく)、大切な闇をはぎ取られ、剥き出しになっているということである。
 そして、その「闇」というのは「名前」「形」「色」「手触り」「匂い」と重なり合うものである。「名前」は、まあ、「意識」(頭)で記憶するものだが、形、色、手触り、匂いというのは肉体の器官、目、皮膚、鼻が覚えるものである。肉体で覚えるものだからこそ「全身の皮膚を覆うのにぴったり」ということばとも呼応するのである。
 Kとは、つまり、浦にとって「肉体」そのものだったのである。「肉体」が記憶している、ことばそのものだったのである。浦は大げさに言えば浦を覆っている「肉体」を一個なくしてしまったのである。
 そして、D駅に降りる。

ぴったりを全身に被せるくまなく密着させるD駅で降りる

 この行は、奇妙にねじれているので、少しときほぐしたい。「ぴったりを全身に被せるくまなく密着させる」は意味的には(論理的には?)その前の行「なくなった駅ひとつぶんの闇は全身の皮膚を覆うのにぴったりだったから」につながる。改行があるために、なんとなくわかりにくいが、「なくなった駅ひとつぶんの闇は全身の皮膚を覆うのにぴったりだったから、(その)ぴったり(そのものの感じ)を全身に被せる(、そして全身に)くまなく密着させる、(はずだったのに、それができずに)D駅で降りる。」その結果、浦は全身を覆うものを失って、剥き出し、闇一枚分剥き出しになっている。
 「ぴったりを全身に被せるくまなく密着させ」と「D駅で降りる」のあいだにはほんとうは断絶があり、論理構造からいうとつづけて書いてはいけないのだが、剥き出しになっているという感覚が、その断絶に入り込み、つないではいけないものをくっつけてしまうのである。ぺろりと皮膚がむけて、剥き出しになった筋肉についてはいけない汚れが直接はりつくような感じである。
 剥き出しになってD駅に降りる--と書いたのは、そういう意味(私の読み方、誤読の仕方)である。
 でも、それは浦だけのことではないのかもしれない。

こっちの耳さっきから聞こえない方のイヤホンからパサパサ音が聞こえるんだ
ホームにいる人と同じ数だけの白いビニール袋が
いっせいに舞い上がりモンシロチョウのようにひらひら羽ばたいている
「   」
一頭の白いビニール袋に導かれてふらふらと歩き出す

 それは浦だけのことではないかもしれないし、肉体的は変化を起こした浦だけにみえることかもしれない。詩だから、これはもう、どっちでもいい。いいかげんにしておいていい。
 闇一枚をなくした肉体は、白いビニール袋と同じである。白いビニール袋には闇はない。だから白いビニール袋は比喩でもあるのだが、ことばが動き出すと現実にもなってしまう。なぜなら、ビニール袋のあとに出てくるモンシロチョウが白いビニール袋の比喩だからである。--ちょっとはしょりすぎたが、ことばが動いて行って、それが比喩を生み出し、生み出された比喩が現実となり、次の比喩を生み出す。そこからことばの運動が飛躍する--そういう運動が浦の特徴でもあるのだ。
 先の、

なくなった駅ひとつぶんの闇は全身の皮膚を覆うのにぴったりだったから
ぴったりを全身に被せるくまなく密着させるD駅で降りる

 という2行の、ことばの論理的な構造と、それとは別の見せ掛けの構造との「ズレ」も、その一種である。比喩を書いてしまうと比喩が現実になり、そこから別の比喩を生み出していくその加速度に押されて、つながってはいけない「ぴったりを全身に被せるくまなく密着させる」と「D駅で降りる」が密着してしまう。
 この加速度を増す肉体の変化--あるいは現実をあくまでも肉体の変化としてことばにする浦の作品。その基本にあるのは、肉体をきちんとことばにするという浦の姿勢である。以前、浦は「骨」にこだわったとてもおもしろい詩を書いた。肉体にこだわり、こだわることでみえてくる肉体にさらにこだわっていく--そこからことばが独自に動き出す。浦はそういうことをやっていると思う。



 ちょっと後半、いそぎすぎて書いたので(私は目が悪く、一回に書く時間、ワープロに向かう時間を40分程度と決めているので)、いろいろ書き漏らしたこともある。ことばのなかに、いつも肉体が深く生きている。それは、この詩の書き出しの1行からだけでもわかる。(ほんとうは、このことだけを書けばすっきりと浦に接近できたかもしれない。)

絡んだコードを無理にいつも引っぱるから片耳聞こえなくなったイヤホンで

 だれでもがつかう言い回しであるけれど、この行のなかの「片耳/聞こえなくなったイヤホン」はほんとうは、「片方が聞こえなくなったイヤホン」である。片方の耳が聞こえなくなったのではなく、耳はきちんと聞こえる。あくまでイヤホンが聞こえなくなったのだけれど、これも正確には「聞こえなくなった」ではなく「音を出せなくなった(音がでなくなった)」である。
 イヤホンから音がでないということと、片耳が聞こえないということは別のことだけれど、「肉体」はそんなことを気にしないのである。片方のイヤホンから音が出ないなら、片耳が聞こえないと同じなのである。肉体は、現象的には別個なことを、肉体という現場で「ひとつ」にする。この現象を(あるいは世界を)肉体で「ひとつ」にするということに関して、浦は敏感な感覚でことばにしていくのだ。
 「肉体」でしかつかみとれない「ひとつ」。それを言語で再現する。しかも、それをある瞬間の状態ではなく、運動として動かしていく。


詩集 耳のなかの湖
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ふらんす堂
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フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督「ツーリスト」(★★)

2011-03-12 00:38:06 | 映画
監督 フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク 出演 アンジェリーナ・ジョリー、ジョニー・デップ

 大どんでん返しのストーリーである。こういうどんでん返しは小説なら有効かもしれないが、映画では興醒めしてしまう。小説と映画の一番の違いは、そこに「肉体」があるかどうかである。小説では「肉体」は見えない。描写があるにはあるのだが、それは想像力を働かせないと見えて来ない肉体である。ところが映画では、そこに役者の肉体がある。どんな説明も抜きにして、肉体が何事かを語る。語ってしまう。そして、その肉体が語ったことがらをとおして観客はストーリーに接近していく。だから、よっぽど巧妙にストーリーを展開し、役者が肉体で語ってしまうことを防がなければならない。肉体はそこにあるが、その肉体は何も語らない--「役」ではなく、俳優の人生そのものを見せるという具合でないと、どんでん返しは「嘘」になる。
 この映画で、そういう問題点を指摘すると……。
 最初の方、ジョニー・デップが殺し屋に襲われる。このときのジョニー・デップは単純にツーリストの顔をしている。肉体は何がなんだかわからない状況に追い込まれてあたふたするツーリストを演じている。観客は、そんなふうにしてジョニー・デップを見る。
 これは、この段階ではそれでいいのだが、大どんでん返しから振り返ると変だよ。
 ジョニー・デップは殺し屋がどんなものかを知っている。どんなふうに逃げなければならないかを知っている。それがホテルのフロントに助けを求める? ホテルから屋根づたいに逃げる? いや、逃げてもいいのだけれど、そのときの表情はツーリストでいいわけ? 変だよねえ。そこでツーリストを演じる必要がどこにある? むしろ、ツーリストの仮面を脱ぎ捨てて必死で逃げる必要がある。必死で逃げてしまうのが「現実」というものだろう。でも、そんなときもジョニー・デップの肉体(顔やからだの動かし方)はツーリストでありつづける。こんなふうに、観客をだましてはいけない。
 ジョニー・デップがイタリアの警察につかまり、そこでツーリストを演じるのはいい。そこにはジョニー・デップをみつめる相手がいるからである。ツーリストであると嘘をつき、警察に守ってもらわなければならない理由がある。
 でも、ホテルから屋根づたいで逃げるときは、これとはまったく違う。殺し屋に対してツーリストを演じる必要はない。
 敵をだます。あるいは味方であるはずのアンジェリーナ・ジョリーをだますというのはわかる。ストーリーとして必要だからである。けれど観客をだましてはいけない。その点をこの映画は踏み外している。「伏線」というものが、ない。「伏線」であるべき部分が観客をだますためだけにつかわれている。こういう映画は嫌いだなあ。
 エドワート・ノートン、リチャード・ギアが主演の「真実の行方」という作品がある。この映画も大どんでん返しなのだが、最後の、ほんのちょっとだけ手前で、エドワート・ノートンが絶妙の演技を見せる。それまでエドワート・ノートンは吃っているのだが、一回だけ吃らない。「あ、いま、吃らなかった」と観客にわからせる。それが大どんでん返しにつながっていく。肉体できちんと大どんでん返しの伏線を(あるいは補助線を)描いている。
 そういう映像が、「ツーリスト」にはない。いや、最後の方の手錠をピンで外してしまうところに伏線が--と言えるかもしれないけれど、でも、それはアンジェリーナ・ジョリーが教えた方法である。もちろん教えられたことを完璧にこなせるのはそういう素質があるからだ、と強引にいうことはできるが、これではおもしろくない。
 あのホテルからの逃走劇のシーンでは、最初は別人の顔(肉体)で逃走し、アンジェリーナ・ジョリーに目撃されているとわかって、そこからもう一度ツーリストに戻る演技をしないといけない。これはジョニー・デップの問題かもしれないが、それ以上に演出、監督の責任だなあ。ホテルからの逃走劇に「ほんとうの顔」と「ツーリスト」をつかいわける演技を要求し、それを映像にするというのは無理。あそこで観客をだましてしまったことが、この映画の大失敗である。
 とても「善き人のためのソナタ」の監督の作品とは思えない。
                         (03月11日、福岡天神東宝)



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季村敏夫『ノミトビヒヨシマルの独言』(7)

2011-03-11 23:59:59 | 詩集
季村敏夫『ノミトビヒヨシマルの独言』(7)(書肆山田、2011年01月17日発行)

 谷川俊太郎の短い詩を読んだあとなので、季村の短い詩を。「黄禍」。

「国都での会談は丸腰で臨む所存」
「国も民も、敗れて目覚めねばならぬ。わが骸(むくろ)を踏み越え、」
陸軍卿山縣有朋、軍馬局の季村平治に打電する暁

「二発のね熱球でイエローモンキーにとどめを」
「ならば国境線突破を早めましょう」
元帥の指令がウスリー河を越える八月、陸軍主計少尉季村淳一、霊
峰キナバルを仰ぎ見る

 カヴァフィス(中井久夫訳)のローマ史を題材にした作品を思い出した。歴史の瞬間、ひとの精神がどう動いたか。それは、過去をひきずったままだと、神話(?)にならない。過去を吹っ切り、「覚醒」して(悟って)、新しい時間へと踏み出すとき、強烈な存在となって、その一瞬を神話にする。

「国も民も、敗れて目覚めねばならぬ。

 このときの「敗れる」が過去を断ち切る精神である。過去を断ち切るからこそ、目覚めるのである。
 こうした精神の凝縮した世界には、「漢文体」が似合う。漢文のなかには、精神の凝縮と解放が--つまり矛盾したものが結合している。
 季村のこの詩では、その漢文体のかわりに、肩書と固有名詞がつかわれている。
 「陸軍卿山縣有朋」「軍馬局の季村平治」「陸軍主計少尉季村淳」。肩書は個人をはぎとり、個人を何ものかに従属させる。(アンデンティファイさせる。)一方、ひとりひとりの名前は、そのアイデンティティを「所属」から切り離す。名前は所属する「団体」ではなく、彼自身の「血」に結びつける。「肩書」と「名前」はいわば「矛盾」した運動をする。
 そして、この矛盾が、この詩に緊張感をもたらす。この詩を「神話」にする。つまり、無名のだれもが自分自身の精神をそのことばのなかに投げ込み、自己を超越した一回かぎりの精神を生きる--そういうことができる構造を作り上げる。
 「打電する暁」「霊峰キナバルを仰ぎ見る」。動詞は、それぞれ人間を超越した自然(宇宙)--超越したというより、人間にはなんの配慮もしない「非情」の存在と結びつくことで、そこに噴出した「悟り」をさらに屹立させる。
 「悟り」は人間のものである。けれど、「悟り」に人間はふれてはならない--というのは変な言い方だが、「悟り」とはそれに接近して触ってみて、自分にあうかどうか調べてみるようなことができないものである。たとえばマルクスの思想、ゲーテの思想--なんでもいいが、だれそれの思想にはさまざまなアプローチの仕方があり、この考え方は自分の考えを支えてくれるかなあ、と動かしてみることができるが、「悟り」に対しては人間はそんなことはできない。
 ただ、それと「一体」になるかどうかだけである。
 「悟り」と一体になったとき、そこには過去はない。「暁」や「霊峰」のような絶対的な超越としての世界があるだけである。





たまや―詩歌、俳句、写真、批評…etc. (04)
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誰も書かなかった西脇順三郎(194 )

2011-03-11 11:25:19 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。
 だれにでも起きることなのか、それともカタカナ難読症の私にだけ起きるのかわからないが、私にはときどき変なことが起きる。そこに書かれていることばが、そのことばの「意味=辞書の定義」とはまったく違ったものとして感じられることがある。
 「カミングズ」。

魚が
とけるときは
麦の中を行く
人間のへその
ひらめきの
海のきらめきを
弾く
コバルトの指は

 この最後の「コバルト」というのは「色」、日本語でいうと青という「意味」であるはずなのだが、私の意識は「コバルト」が「青」(色)にはすぐにたどりつけない。それだけではなく、「青」とわかったあとでも、「青」が目に浮かんで来ないのである。
 では、この詩から、その最後の行、「コバルト」から何を感じるかといえば、音なのである。ふいに湧き出てくる音楽の音符の錯乱のようなものを感じるのである。
 この詩が、具体的に何を書いているか、正確には言いなおせない。私は私の感じたままに、何を感じたかを書くと、西脇は麦畑を歩いている。麦秋。さわやかな五月だ。金色の麦の向こうには青い海がある。その海は若い女性の裸のようにつややかだ。海が和解女ならば、ちょっといたずら(?)をしてへそを弾いてみたい。からだの中心は、へそか性器か、難しい問題だが、へそを弾く方が性器にふれるよりも(クリトリスを弾くよりも)、婉曲的なだけエロチックである。
 そうすると、どうなるだろう。
 私のかってな解釈(誤読、--夢としてのあり方)では、女は笑う。男の幼稚さ(女に比べればいつでも男は幼稚である)を、明るく、五月の光そのもののような、軽やかな声で笑う。その笑い声の響きが「コバルト」というメロディーであり、リズムなのだ。(モーツァルトならきっと「ドレミ」で「コバルト」を軽やかな音階にしてみせるだろうと思う。)
 その音楽に色をつければ「コバルト」かというと--うーん。私は、やはりそうは思えないのである。「コバルト」に色はない。あるのは、「ひらめき」「きらめき」である。つまり、色を拒絶して反射する「純粋な光」である。

ひらめきの
海のきらめきを

 この2行で繰り返される「らめき」という音のなかにある光。それが、さらに純化されて、「コバルト」という音になる。
 「弾く」という動詞が出てくるが、「ひらめき」と「きらめき」を「弾く」と、そのふたつのことばのなかの違い「ひ」「き」という音がぶつかりあって、それまでそこに存在しなかった音、「○+らめき」ではなく、「コバルト」という音に変わる。
 なんでもいいけれど、弾くと、そのものから音が飛び出してくる。それと同じように「ひらめき」「きらめき」を弾くと「コバルト」という音が飛び出る。

 でも……。
 きっと、反論(?)が読者のなかに残ると思う。「ひらめき」「きらめき」を弾いて飛び出してくる音楽が「コバルト」というのは勝手だが、その「コバルト」は「コバルトの指は」と「指」を修飾している。「弾く」の主語が「コバルトの指」なのであって、弾かれて出てきたものが「コバルトの指」ではない。私の読み方では「主語」が無視されている、という指摘があると思う。
 そうなんだよなあ、そこが問題なんだよなあ。
 でもねえ。「弾く」という動作、そこから生まれる「音」というのは、では、弾かれた「もの」のもの? たしかにある「もの」が弾かれ、そこから音が出てくるとき、音は「もの」に帰属するようにみえるかもしれない。「もの」がないかぎり音は誕生しなかったのだから。けれど、音の誕生そのものについて言えば、「もの」だけでは音は誕生しない。弾かれることによって音が誕生する。そうすると、その音は、音を誕生させた「指」に帰属するとも言える。いま、この詩では「指」が弾いているが、何によって弾くかによって生まれる音が違うことを考えると、音は単純に弾かれた「もの」に帰属するとは言えない。弾かれる「もの」、弾く「もの」の両方に帰属する。
 で、私は、この詩の「コバルト」は、「指」そのものの「音」のように感じてしまうのだ。「コバルト」という音をもった指が弾くから、「へその/ひらめきの/海のきらめき」から「コバルト」という音が弾き出されるのだ。
 「指」は指であって指ではない。それは西脇(この詩の「麦畑を歩く人」)の指であって、指ではない。それは、世界を、この8行に結晶させる「中心」であり、同時にそれがたどりつくことのできるはるかな「永遠(遠心)」でもあるのだ。


西脇順三郎コレクション〈第6巻〉随筆集
クリエーター情報なし
慶應義塾大学出版会



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谷川俊太郎「まどろみ」

2011-03-10 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「まどろみ」(「朝日新聞」2011年03月07日夕刊)

 谷川俊太郎「まどろみ」は短い詩である。「誤読」しようもない、とてもわかりやすい詩である。老人がまどろんでいて、それから目覚める。目覚めるといっても、まどろみからの目覚めなので、何かが大きく変わるというものではないはずなのだが……。

老いはまどろむ
記憶とともに
草木とともに
家猫のかたわらで
星辰(せいしん)を友として

老いは夢見る
一寸先の闇にひそむ
ほのかな光を
まどろみのうちに
世界の和解として

老いは目覚める
自らを忘れて
時を忘れて

 時系列に言えば「老いはまどろむ」「老いは夢見る」「老いは目覚める」とごく自然な流れである。老人がまどろんでいて、その夢の中でほのかな光をみる。それを世界の和解のように感じる。そして、その一瞬の和解ののちに目覚める。そのとき自分が自分であることを忘れていた。いまがいつなのか、一瞬わからなくなった--というようなことが書かれている。
 と、わかるのだが、私はそれだけでは満足できないのだ。
 3連目が、単なる「目覚め」とは思えないのだ。目覚めた瞬間、はっとして、自分を見失う--夢との落差に落ち込んで自分がわからなくなる、いまがいつなのかわからなくなる。夢の世界の場所、事件、時間が目覚めた世界へはみ出してきて、現実が一瞬わからなくなる--そういうことは、私も経験している。この詩は、そして、意味的にはそういうことを書いているはずなのだが……。
 あ、同じことを繰り返してしまった。

 3連目を読んだとき、私は、あ、これは単なるまどろみからの目覚めではない、と直感的に感じた。夢から現実への目覚めではなく、現実から真実への目覚め、覚醒、悟りのように感じたのである。
 3連目の「自らを忘れ」は自己への固執から解き放たれ、である。それは「忘れる」というより、無くす、に近い。「無我」である。
 「時を忘れ」は時の束縛を忘れ、である。つまり、「永遠」である。
 まどろみから目覚めた瞬間、谷川の描いている老人は「無我」「永遠」のなかに、悟りとして存在している。それは此岸であって此岸ではない。
 彼岸である。
 1連目の「星辰を友として」という超越的な時空、2連目の「一寸先の闇にひそむ/ほのかな光」というあくまでも抽象的な存在、「世界と和解」という、これも抽象的な認識--それが「現実」への目覚めではなく、悟りへの目覚めへと誘う。

 そこから、私は「まどろみ」へひきかえす。
 まどろむとき、ひとは「自らを忘れる」、そして「時を忘れる」。そして、そうやって引き返したとき、「まどろみ」と「悟り」がまったく同じものになる。
 悟り、あるいは永遠の真理は、彼岸にあるのではない。いま、ここに、ある。
 --この認識が、この作品を緊張感のあるものにしている。
 老人が縁側でうつらうつらしている。それから、はっと気がついて目覚めた--というスケッチを超えることばの運動にしている。





二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9)
谷川 俊太郎
集英社
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アレハンドロ・アメナーバル監督「アレクサンドリア」(★★★★★)

2011-03-10 21:35:26 | 映画
監督 アレハンドロ・アメナーバル 出演 レイチェル・ワイズ、マックス・ミンゲラ、オスカー・アイザック

 いわゆるコスチューム・プレイなのだが……。忘れてしまいます。4 世紀末のエジプトのアレクサンドリアであることを。宗教が対立し、図書館が破壊される。この図書館を「文明・文化」と置き換えるならば、これはそのまま「現代」。そこに繰り広げられる、宗教と哲学の対立。差別。さまざまな駆け引き。--いやあ、おもしろいですねえ。
 「現代」の問題を、アレハンドロ・アメナーバル4世紀のアレクサンドリアを舞台に借りたのは、「虚構(?)」の方が問題点をすっきりと浮き彫りにできるからなんですねえ。「アザーズ」では「死後の世界」を描くことで「見えないけれど、ある、存在するもの」として描いていたが、この映画では4世紀から「現代」を描くことで、「いまあるもの、現在」を描いていることになる。
 そして、そういう「うるさい」ことを「うるさい」感じをもたせないために、実にリアルに4世紀を再現する。これは「アザーズ」でリアルに「死後の世界」を描いたのと同じ。リアルさで、ほんとうは「現代(現実)」を描いているということを忘れさせる。簡単に言うと、「映画」の「見せ物」の世界へ、ぐいっと観客を引っ張って行ってしまう。いろいろな「現実」の問題を描きながら、あくまで「見せ物」として見せてしまう。
 立派だなあ。この職人芸。
 で、その「見せ物」として見せてしまう力として古代都市の再現があるのはもちろんなのだが、それ以上に、これはやっぱり主人公ヒュパティアにレイチェル・ワイズを起用したこと。男よりも(恋愛よりも)哲学と宇宙の真理(法則)を愛した女性。しかし、彼女はただの「学者」ではなく、魅力的。知的だが、冷たくはない。クールではあるかもしれないけれど、人間の柔らかさを感じさせる。どこかに「甘さ」を感じさせる。ヒュパティアが美貌であったか、やさしい人間であったか--それは問題ではない。アレハンドロ・アメナーバルはヒュパティアに、レイチェル・ワイズの肉体を重ねることで、ヒュパティアをとても魅力的にした。「真理(知)」により近づいている人間なら、それが「奴隷」であろうと、「学者」として対等に向き合う。学問を離れてしまうと、「奴隷」に戻されてしまうのだが、学問と接しているあいだは、ひととひととの区別をしない。宗教ももちろん、人間を区別するものとはならない。彼女にとっては、ただ「知」だけが、ある人と別のひとを区別する「基準」なのだ。
 でもね、その「基準」。とんでもないブスだったら、それが通る。けれど、その「基準」を主張する女性が、美貌で、やさしくて、どこか甘い感じがするなら……あ、男はばかだから、彼女が大切にしている「基準」をわきにおいて、男の欲望をも生きてしまう。「知」に向き合いながら、同時に自分の欲望をうまくわけることができない。この映画では「知」と「肉体」を区別できないのは、女性ではなく、男なのである。だからねえ、そこに嫉妬も入ってくる。
 とても聡明で、ヒュパティアからも一定の評価を与えられている「奴隷」も、彼女は自分を「奴隷」と呼んだ、自分のことなど結局は省みてくれない、自分の愛は彼女には届かない--と知ったときから、彼女を愛する、彼女を守るのではなく、彼女を憎んでしまう。
 ヒュパティアの教え子のひとりは、同じ生徒の男がヒュパティアに愛を打ち明けたというだけで、ヒュパティアも相手の男も憎んでしまう。尊敬することを忘れてしまう。こういうなまなましい愛憎が、宗教と入り交じりながら、時代そのものを動かしていく。
 いやあ、ほんとうにおもしろい。

 そして、この複雑な人間関係が、そのまま地球の軌道が「楕円」であることの発見と重なる。太陽が夏に近づき、冬に遠ざかるように見える。円は宇宙の完全な真理の象徴だが、地球の動きは円の軌道に乗らない。なぜ? 中心がふたつあるからだ。ふたつの中心からの距離を一定にして円を描くと楕円になる--という発見につながる。地球は楕円軌道を描いているという発見になる。
 ふたつの中心。たとえば映画では「エジプトの神」と「キリスト教」というふたつの中心が、楕円を描けずにひとつの円の主張によって、他を排斥する。「キリスト教」と「ユダヤ教」におんても同じ。うまく楕円を描くことができれば「和解」があるはずなのに、キリスト教の「中心」がユダヤ教の「中心」を消し去り、キリスト教の「円」に世界を閉じ込めてしまう。
 その最大の悲劇が「宗教」と「哲学」というふたつの中心の問題である。「宗教(キリスト教)」が「哲学」という中心を排斥する。そこに「男性」と「女性」という問題がくわわり、男の「中心」が選ばれ、女性の「中心」が抹殺される。
 ふたつある「中心」のひとつを排斥し、ひとつの「中心」だけ残し、「円」を描く。そうすることで世界を完結するという暴力。この映画は、他者を排斥することで、自己の世界を完結させることの危険性を描いているのだ。
 最後に、図書館の円の吹き抜け天井が映し出されるが、その円は円としてではなく楕円として映像化される。少し視点をずらせば、円は楕円になるからね。この映像に、アレハンドロ・アメナーバルの思想が集約されている。
 アレハンドロ・アメナーバルは世界の調和は楕円を想定することで成り立つと主張しているのである。

 ちょっと面倒なことばかり書いてしまったけれど、これはほんとうにおもしろい映画である。古代都市はどうやって撮影したのか知らないが、ほこりっぽい感じ、空気の手触りまで「古代」になっているのがすごい。多用される俯瞰のカメラ、動き回る人間の、逃げるものと襲い掛かるものの動きのリズムの違い、暴動の質感など、どの映像も「手抜き」がない。図書館が襲われ、本が焼かれるシーンなど、私は思わず中国の文化大革命を思い出してしまったが--知というものはいつでも為政者にとっては邪魔者なんだねえ。知こそが何にも変えられない「自由」そのものなんだねえ。あ、また、面倒なことを書いてしまったなあ。
 面倒なことは読まなかったことにして、古代都市と群集劇と、レイチェル・ワイズを見るだけでいいから、ぜひ、見てね。
               (福岡・中州大洋--この映画館はスクリーンが暗い)


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