詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(201 )

2011-03-25 12:49:32 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「野原の夢」のつづき。

これは確かに
すべての音だ
私は私ではないものに
私を発見する音だ
これは秋の音だ
ヴィオロンの音だ
ガラスの空しい思いの
多摩の石の音だ

これはまたケヤキの木の音だ
マラルメの音だ
私の中に水が流れる音だ
アエキロスのカエルの音だ
これはまた衣を洗う音だ
冠を洗う音だ
カーテンの後の音だ
ああ あの毛髪のきらめきの音だ

 ここには、ヴェルレーヌ(ヴィオロンの音)が出てくる。マラルメも出てくる。アエキロスそれぞれに「音」ということばがついている。それは、たとえばヴェルレーぬが「ヴィオロン」のなかに「私」を見つけたということだ。そして、ヴィオロンになったということだ。
 「音」は「私」と「もの」を結びつけるものである。「連結」そのものである。

 視覚ではない。色でも形でも線でもない。「音」によって「私」は「私以外のもの」と連結し、「他者」になる。
 西脇の夢はここにある。

これからが大変に難しくなる
音が人間の音になる
すべての音は人間が恐れる音だ
殺人の音だ
こおろぎの音だ
ああ 音が去つていく
ただ一つ女の音が残る
ナデシコの静けさ

 前の連の「カーテンの後の音」「殺人」「こおろぎ」とつながれば、どうしてもそこにシェークスピアが思い浮かんでしまうが--それは無視しよう。マラルメもヴェルレーヌも無視しよう。そこには確かにマラルメもヴェルレーヌもシェークスピアもいるのだが、それを貫いて「音」がある。詩人が「音」を自分の「肉体」の中に取り込み、それをはきだす。
 そのとき「音」は他者(もの)のものか「私」のものか。「秋の日のヴィオロンの/ためいきの」というとき、それは「ヴィオロン」なのかヴェルレーヌなのか、上田敏なのか。区別がつかない。「音」が動くと、そこからヴィオロンが生まれ、ため息が生まれ、ヴェルレーヌが生まれ、上田敏が生まれてくる。
 そこに動いているのは「人間」という「音」なのだ。

 「人間」は「音」なのだ。

 この「音」を人間は、どうやって発見するのだろうか。これは難しい。人間の発する「音」は、どうやって生み出されるのだろうか。

 私の書いていることは、たぶん、この文章を読んでいるひとにはわからないと思う。なぜなら、私にも、何を書いているかわからないからだ。
 私にわかるのは、「音」が私の肉体のなかに入ってくるとき、うまくなじめるものとなじめないものがあるということだ。どうしても「好み」があるということだ。「好み」の「音」を通って、私のことばは動いていく。「事実」ではなく、「音」の好みに導かれて「音」がことばになる。
 「私は私ではないものに/私を発見する」といっても、そのとき「音」が自分の「好み」どおりに響かないと、私は私以外のものに私を発見することもできないのである。
 私が何かに(私以外のものに)私を発見するのではなく--「音」が私の代わりに私を発見してくるのである。私のなかに、知らず知らずにたまった「音」が。私のなかにたまった「音」と何かが響きあう--そのとき、ことばが動きだす。

 そのことばの動きは「誤読」である。

 そして「誤読」であることを承知で書くのだが、私は西脇の「音」に触れると、そこに私の肉体のなかにある「音」が瞬間的にととのえられ、音楽になるのを感じる。
 --ということを、「野原の夢」の「音」をめぐる行から書きたいと思うのだが、どうにも書けないなあ……。





西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店



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中川佐和子「海辺の鳥の嘴を知って」、鳴海宥「匙と皿」

2011-03-24 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
中川佐和子「海辺の鳥の嘴を知って」、鳴海宥「匙と皿」(「カラ」10、2011年03月01日発行)

 中川佐和子「海辺の鳥の嘴を知って」は、詩のような前書きがついている短歌である。その前書きは、私には少しうるさく感じられた。だから、ここでは省略する。

停まるたび駅名読みて坐りおり電車の席が森ならいいのに

 これは上の「五七五」がおもしろい。季語が詠み込めれば俳句になるのかな? 「読みて」と「坐りおり」と動詞がふたつあるのを整理してくれると、気持ちがいい句になるだろうと思った。
 でも、中川は、その上の句ではなく、下の句の「森ならいいのに」の方を読者にとどけたいのかもしれない。電車の座席は森ではない、だからこそ森を思い描く--そのときの森はどこにあるのだろう。
 いま、ここには、ない。
 そのいま、ここにはないものを思い描くというこころが、なんとなく、なつかしい気持ちを呼び起こす。青春の悲しみを思い起こさせる。
 でも、これでは「意味」に引っ張られすぎているかもしれない。

冬海と富士を見てきて帰りたり海辺の鳥の嘴を知って

 冬海、富士という大きなものと鳥の嘴が意識のなかで拮抗する--その瞬間をおもしろいと思う。しかし、これもまた「意味」に引っ張られた読み方かもしれないなあ。
 一瞬、この歌はいいなあ、と思うのだが、どうしていいのかなあ、と思いはじめたときから、何か違った方向に意識が動いて行ってしまう。そういう変な体験をしてしまう。
 この歌も、「見てきて」と「帰りたり」「知って」と動詞が多いのが気になる。
 動詞にひっぱりまわされて、「鳥の嘴」が見えなくなってしまうのかもしれない。ことばを捨て去れば、きっとおもしろい短歌になるのだと思う。

夕暮れは冬も素足のままにきて海と陸との境を暗くす

 うーん。ここでも、私は、「意味」が多すぎるような気持ちになる。ことばが多すぎると思う。それは、何といえばいいのだろう、「説明」が多すぎるということかもしれない。
 「夕暮れは冬も素足のままにきて」というのは、「現代詩」だなあ、と思う。「境を暗くす(る)」の「境」にこだわるのも「現代詩」だと思う。
 「境を暗くす(る)」を「ひとつのことば」でいいきることができれば「素足」がとても生きてくると思う。ことばが多すぎて、素足が素足ではなくなってしまうような気がする。

 ほんとうは、ここに感心した、ここかおもしろい、とだけ書くつもりだったのだが、書いているうちに否定的なことばかり書いてしまったなあ。



 鳴海宥「匙と皿」は、音が非常におもしろい。

匙と皿さらなる悲運さしのぼる月にし浮かぶ食卓のうへ

 「さ」「し」「ら」「る」「の」「く」という音が入り乱れる。それは同じ音が繰り返されるわけだから、音の数そのものは減るということになるはずだが、不思議なことに、繰り返されることで音が増える、響きあう感じがして、あ、音が多い--と思うのである。音が溶け合わずに、ぶつかりあう。にぎやかである。
 歌の「意味」(情景?)は夜の食卓のむこうに月が昇ってきたくらいのことなのだろうけれど、その情景を忘れてしまうね。その情景など、きっとどうでもいい。その情景は、ここに書かれている音を定着させるためのものにすぎない。音の響きあい、にぎやかな交響曲--それを覚えやすくするための「道具」にすぎない。

目のなかにうつつを崩す雲ありき戒名はその背後に響き

 この歌も音が多い。「匙と皿」のように、同じ音が何度もでてくるわけではない。そういう意味ではほんとうに「音」の数(種類)が多いのかもしれない。--まあ、そういうことは、どうでもよくて……。
 その音が、この一首の「意味」を破壊して、動き回る。その結果、ことばの、その音の強さがとても印象に残る。私は音読をするわけではないのだが、あ、音がひとつひとつ粒立っていると感じる。それをおもしろいと思う。
 いいたとえではないかもしれないが、強烈な声をもった歌手の歌を聞いている感じである。歌にはもちろん「意味」はなるだろうけれど、歌を聞くとき、私は「意味」なんかどうでもいい感じで聞いている。「声」そのものを聞いている。「肉体」を聞いている。次はどんな「声」が出てくるのだろうと思う。その「声」に自分の肉体が反応するのを感じている。「意味」ではなく、「声」の強さに反応するのである。

フィブリノーゲンA1cのかなしさよおのが穿刺ののちなる博徒

 この歌では、私は「A1c」を読むことができない。「穿刺」も私の知らないことばだ。だから、「音」が聞こえない。そして、ふつうは、聞こえない音にであったとき私はそういうことばが嫌いなのだが、なぜか鳴海のこの歌の場合、えっ、これ、どういう音? 聞きたい、と思ってしまうのだ。
 ほかの歌の影響である。
 どの歌も、それぞれに強い音をもっている。強い音が「意味」をたたき壊しながら五七五七七を駆け抜ける。
 これはおもしろいなあ。正調か乱調か、見当もつかない。

だから道が、枝が、腐つた格言の海をただよふ皿また月を

少年の扉閉じられあるゆふべあな気丈なりその反抗期

 このことば、音の強さは、最近の「現代詩」ではみかけなくなったものだ。




中川佐和子歌集 (現代短歌文庫)
中川 佐和子
砂子屋書房
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誰も書かなかった西脇順三郎(200 )

2011-03-24 12:31:42 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「野原の夢」のつづき。

もうわからなくなつた
あのせせらぎのせせらぎの
そのせせらぎの
あの絃琴のせせらぎ!
ああまたわからなくなつた
オオ パ パイ
ああ あのすべては
すべてでなくなつた

 「もうわからなくなつた」。この1行がおもしろい。何かを感じる。感じるけれど、ことばにするとわからなくなる。わからなくなったと書くことで、「音」を隠してしまう「ことば」を取り払おうとしているように私には感じられる。
 「音」はことばになる。けれど「ことば」になってしまうと、「音」のほんとうの何か--「音」が「音」として生まれてくるときの動きが見えなくなる。「音」そのものが、どこか遠くへいってしまう。
 遠くへいってしまうことで「すべて」である「音」は「すべて」ではなくなる。単なることばになる。
 
ああ すべては流れている
またすべては流れている
ああ また生垣の後に
女の音がする
人間の苦しみの音がする
クルベの女が夢をみている
ああ また音がする
それはすべての音だ

これは確かに
すべての音だ
私は私でないものに
私を発見する音だ

 「音」、その最高のものを、「私は私でないものに/私を発見する音だ」と西脇は定義している。
 「音」のなかには「私」以前があるのだ。「私」が生まれてくる「場」があるのだ。「音」を通って、「私」は生まれてくる。しかも、それは「私」ではないことによって「私」になる。「私を発見する」。
 色でも形でも線でもない。「音」なのだ。それも女の「音」なのだ。

 そして、この「音」は、まだ「音楽」にはなっていない。「音楽」になっていないことによって、「音楽」を超えている。それは「音」がことばになっていないことによってことばを超越しているのに似ている--と、独断で書いておく。
 その「理由」「根拠」をつかみ取りたいけれど、私には、それができない。直感として、そう思うだけである。そういう直感を呼び覚ましてくれたのが、西脇順三郎の詩なのである。だから、私は西脇の詩について、ああでもない、こうでもないと、わけのわからないことを書いているのである。

 あ、何かを書き間違えた気がする。

私は私でないものに
私を発見する音だ

 この2行の不思議さは、「音」を消してみるとわかる。

私は私でないものに
私を発見する

 こう書いてしまうと、それは詩の「哲学」になる。「詩学」になる。詩はいつでも私が私ではないものに私を発見すること。他者(もの)のなかに私を発見し、私が他者(もの)になってしまうことである。
 その過程を、西脇は「音」ということばであらわしている。「音」という余分なことばをつけくわえることで書こうとしている。この「余分」、書かずにはいられないことばのなかに西脇が存在するのだ。
 ひとには、どうしても書かなければ気が済まないことばがある。
 また、自分には密着しすぎていて書き忘れてしまうことばがある。
 詩は、そういうことばのなかにある。




西脇順三郎コレクション〈第6巻〉随筆集
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会



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竹内敏喜「木々の」(22日の日記の書き直し)

2011-03-23 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
竹内敏喜「木々の」(22日の日記の書き直し)(「ムーンドロップ」14、2011年02月04日)

 竹内敏喜「木々の」は無造作に書かれたような詩である。美しい音、思わず立ち止まり、耳をすまし聞き入る音というものはない。繰り返し読んで、そのとき舌や喉や口蓋が、音を出す喜びに打ち震えるというものでもない。それとはまったく逆。読みたいという気持ちを起こさない詩であるとさえいえるかもしれない。
 じゃあ、何がいいのか。何が好きで、私はこの作品についてもう一度書いているか。
 竹内のことばには、声を出すときとはまったく違った喜びがある。聞く喜びだ。耳の喜びだ。

隣接する歩道からは数メートルさきも見通せず
生い茂る木々のむこうに神秘さえ
感じていたが

数十年も放ってあった病院まえの雑木林に
業者が入ると
そこへ、さっぱりした遊歩道ができた

整備されると、なんのことはない
奥行き四〇メートル
道を歩けば一周一〇〇メートルほどで足りてしまう土地だ

みえないということは
いかにも人間の想像力を刺激するのだろうと
しみじみ、理解する仕儀となった

失われたものを惜しみ嘆く立場でもないから
休日の午後、妻が料理するあいだ
一歳児を抱いて遊歩道を進むたのしさ

風いろになった木々に吸い込まれて

 聞く喜び--と書いたが、それは自分では思いもつかなかった新しいことばを聞く喜びとは違う。ごく普通の、いつも聞いていることばを聞き、そのいつものことばであることの安心感の喜びである。しかも、ちょっと複雑なのは、その「いつも」のなかに、たたいても壊れない(?)不思議な間合いがあることの安心感の喜びなのだ。
 具体的には指摘にはならないことを承知で書くのだが--それは、森繁久弥のせりふの言い回しを聞いている感じ、なつかしい漫才を聞いている感じ、に似ている。聞き慣れている。聞き慣れていることしか言わない。一種の「マンネリ」に通じる何か--マンネリというと、ことばは悪いのだが、繰り返すことで肉体にしみ込んだ呼吸、間合いの、不思議な美しさがある。
 1連目の「生い茂る木々のむこうに神秘さえ/感じていたが」は「学校教科書文法」の文節構造では「生い茂る木々のむこうに/神秘さえ感じていたが」という具合になるのだろうけれど、竹内は「生い茂る木々のむこうに神秘さえ」と言ったあと、しばらく考えて(改行の「間」をおいて)、「感じていたが」とつづける。「感じていた」と言い切らずに「感じていたが」とつづける。そこに「神秘」ということば、「神秘さえ」ということばに対する少しの抵抗感がある。「神秘」と言ってしまったのだが、そのことばを自分自身でうまく納得できなくて、違和感を感じながら、それを引き受ける。その「間合い」の瞬間に、ふいに、竹内の肉体が潜り抜けてきた「時間」というものが見える気がするのである。
 私は竹内というの人間を知らないのだが、不思議な「時間」の蓄積、落ち着きがある。最後の方に出てくる「一歳児を抱いて」ということばをそのまま信じるなら、竹内は20代後半から40代前半までの年齢のようだが、私には、どうもそんなふうに若く感じられない。もっと年上、ひなびた感じのする年代の「見切り」のようなものを感じる。竹内がもし30代を中心とする年齢の人間だとしても、彼がことばを交わしてきたひとはひとたちは彼よりはるかに上の年代のような感じがする。ことばのなかに「間合い」を大切にする「時間」が蓄積されている。ことばに「意味」などない。ことばの「意味」は「間合い」でできていると感じ、そのことを「肉体」で実践してきたひとの、温かい味がする。
 森繁久弥のことを何となく書いてしまったので、森繁久弥から感じることを補足として書いておけば、森繁のことばは少し遅れて出てくる。ふつうの役者のことばより、ワンテンポ遅れる。ことばより先に肉体が動いて、その肉体をことばが追いかけてくる感じがする。森繁が死んだとき、だれだったか(たぶん朝日新聞の歌壇に載っていた歌だと思うのだが)、最初は音痴で始まった「知床旅情」が最後には音程があっていると言っていたが、その感じ。最初は何か「ずれ」を感じるのだが、その「ずれ」がことばのなかで自然に調整されて最後はきちんと響く感じ--間が整っていく感じ、それを予感させる運動。森繁の肉体のなかに「間」をきちんとととのえる力があり、それが安心感を誘うのである。それに似ている。
 2連目の「そこへ、さっぱりした遊歩道ができた」というのとき、「さっぱり」ということばの出てくる瞬間の間合い、直前の読点「、」の不思議。その間合いが「さっぱり」ということばに与える「肉体」の感覚がおもしろい。
 これは、2連目から「そこへ、さっぱりした」ということばを省略してみるとよくわかるかもしれない。「そこへ、さっぱり」ということばはなくても「意味」は通じる。病院前の雑木林のなかに遊歩道ができたという「事実」に何の変化もない。
 だから。
 だから、というのも変な言い方になるが、竹内の書きたいのは、実は病院の前の雑木林に遊歩道ができたということではないのだ。そのことなら、だれでもが書ける。その遊歩道を見ていない私にだって、竹内の家の近くにある病院の前の雑木林に遊歩道ができた、と「事実」を説明することができる。でも、そういう書き方では「竹内」が見えて来ない。竹内がそのことばを書かなければならない理由というものがない。
 竹内が書きたいのは、「そこへ、さっぱり」ということばの動きのなかにあるものだ。そのことばを経由しないと「遊歩道ができた」という「事実」を書けないということだ。「そこへ、さっぱり」は、森繁の芝居にもどって言いなおすと、せりふの前に動く「肉体」である。せりふを濁してしまう何か--森繁の肉体の匂いである。
 それが「そこへ、さっぱり」のなかにある。特に、読点「、」のなかにある。
 3連目の「整備されると、なんのことはない」という1行も同じである。この1行はなくても、雑木林の広さが変わるわけではない。整備した業者、遊歩道をつくることを依頼した病院(?)にとっても、そこを歩く人にとっても、何かがかわるわけではない。ただ竹内の「肉体」にとってだけ「意味」がかわる何かなのである。そこには竹内の「肉体」がある。
 「肉体」はだれにでもあるものである。というか、「肉体」がないと、その人はその人ではいられないこれは明白なことなのだけれど、ことばのなかに「肉体」を持ち込み、それを自然な形で動かせる人は、実は、とても少ない。
 ことばは「意味」をつたえてしまうからである。「意味」さえつたわれば、ほとんど用事がすんでしまうからである。だから「意味」を「思想」と勘違いするということも起きるのである。
 しかし、ことばは「意味」ではないし、「思想」も「意味」ではない。それは、同じ台本で演じられる芝居や漫才が、演じる役者、芸人によってまったく違って聞こえることを考えればわかる。私たちは芝居や演芸を「意味」を知るために見たり聞いたりするのではない。「意味」ではなく、そのことばを動かすときの肉体、その間合いのなかに、「人間」を感じるために、芝居や演芸を見たり聞いたりするのだ。「人間」の、そのことばのなかにある「間」(間合い)を呼吸するために、芝居を見たり、聞いたりする。
 そこにあるのは「聞く」ことをとおして感じる喜びである。竹内の書いていることばを借りて言えば「たのしさ」である。
 4連目の「いかにも」ということばのゆったりした響きがおかしい。「しみじみ、理解する仕儀となった」の「しみじみ」のあとのひと呼吸、「仕儀」という変な(?)かしこまった(?)ことばの出てくる瞬間の呼吸、間合いも、おっ、竹内というのはこんな人間なのか(どんな人間?、といわれそうだが、「こんな」としか言いようがない)と感じる。それを感じる喜びがある。
 そして、竹内は「こんな」人間なんだ、こういう呼吸、こういう間合いを生きる人間なんだとわかり、その呼吸、その間合いに自分自身の「肉体」を重ねてみるとき、(竹内のことばを追いかけて、その呼吸をまねしてみるとき)、

風いろになった木々に吸いこまれて

 あ、美しいなあ。「風いろになった木々に吸いこまれて」と竹内は書くのだけれど、吸い込まれながら(吸い込まれることをとおして、はじめて)、さっぱりした木々を吸い込んで、自分自身が風になったような気持ちになる。竹内は「風いろになった木々に吸いこまれて」と書いているのに、そう書いていることが理解できるのに、逆に、世界を吸い込んでいるような感覚になる。
 竹内の書いていることを「誤読」してしまう。

 こういう不思議な「誤読」へと誘ってくれることばが、私にとっては、詩である。


翰―竹内敏喜詩集
竹内 敏喜
彼方社



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誰も書かなかった西脇順三郎(199 )

2011-03-23 11:39:58 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「野原の夢」のつづき。
 「連結」は、次のようになる。

ああ苦しみのケヤキの
クヌギのトゲトゲの葉の
カミングズのリス
エリオットの暗闇の荒地を
エラズのイタリの門を
くぐるダンテのフロレンスの
地獄のパンの笛の
ヘナヘナヘナヘナの音の

 カミングズ、エリオット、ダンテ--そのことば(名前)が呼び覚ますものはさまざまにあるが、それを「意味」にしても無意味である。西脇は「意味」を正確に書こうとはしていない。西脇は「意味」を「連結」しようとはしていない。「意味」を無視して、音を「連結」しようとしている。イタリ→ダンテ→フロレンス→地獄、とことばが動けば「神曲」という「意味」が浮かぶけれど、そういうものを西脇は否定する。「ヘナヘナヘナヘナの音の」という無意味が、「神曲」という「意味」を笑い飛ばす。「意味」は、「意味」をほしがる人間が(読者が)かってにつけくわえればいい。しかし、西脇は「意味」を必要としていないのだ。

 では、なぜ西脇は、イタリ→ダンテ→フロレンス→地獄とことばを動かしたのか。
 あ、これが問題だねえ。
 これから私が書くことは、ほんとうに私が書きたいことなのだが、どれだけ書いてもきちんと説明できないことがらである。
 ひとはことばを選ぶ。そのとき、なぜ、そのことばを選ぶのか。音のなかにある何かにひかれるのである。音は(声は)、人間の本能のとても深いところと関係している。
 机の上に林檎があるとする。それを絵に描けば、何国人であろうと林檎の絵になる。赤い(ときには青いけれど)、丸い形、イタロ・カルビーノの表現をかりればアルファベットのQの形になる。けれど、それをことばにすると、林檎になったり、アップルになったりする。絵だと似通ったものになるのに、ことば(音)にするとずいぶん違ったものになる。なぜ? 人間がひとりの(一匹の)猿から出発したとして、絵を描くときにはそんなに差がないのに、ことばにするとさまざまに分かれてしまったのはなぜ? 音の方が、音の力の方が人間の奥深いところを揺さぶるのだ。視覚よりも、耳と口をとおして(ふたつの器官を融合させて)動かすものの方が、人間の奥底に影響するのだ。人間の感覚は、便宜上「五感」に分類されるけれど、どこかで融合している。そして、その融合、未分化のものの方が、本質、本能なのだ。
 ことば、声に比較すると、視覚的表現である「絵」は、はるかにあとから生まれてきた、一種の「嘘」なのである。「芸術」なのである。それに対して「音」は嘘ではない。つまり「芸術」以前なのだ。その「芸術以前」のところをことばがくぐるとき、人間は無意識にある音を選んでしまう。ある音を好んでしまう。そして、ことばは、いくつもの外国語に分かれていったのである。--というのは、私の大胆な仮説。
 そして、それと同じように、何かを書こうとするとき(これから書くことは、さっき書いたことと矛盾するのだけれど)、つまりなんらかの、まだ「意味」になっていない「意味」を書こうとするとき、西脇の耳は、カミングズだのエリオットだのエラズだのダンテだのの音のなかをさまようのである。(その名前ではなく、彼らの書いた音、つまりことばの運動をふくめてのことであるけれど。)音はいくつもに分裂しながら、まだ、ここに存在しない音をめざしている。それは、そして遠い遠い昔--西脇が生まれる以前に西脇が聞いた根源的な音なのである。
 いつでも西脇は「根源的な音」(音の根源)を探している。そこに、「人間」が存在するからだ。
 そして、西脇が「根源」というとき、そこには「男」ではなく「女」が登場する。すべての「人間」は女から生まれるからである--というのも、西脇の考えではなく、私の大胆な仮説かもしれない。西脇は、そう考えているというのは、私のかってな「誤読」かもしれないが……。

やがてミヨンの幽霊が出る
竹藪にすばらしい会話が
聞えてくる
今日もまた聞こえてくる
この栄華の悲しみに
今日の夕を過している
ああまたあの音が聞える
あの女の音が聞える

 「女の声」ではなく、「女の音」。それは、ことば以前の「音」、「肉体」を動いている何かのことである。視覚かもしれない。嗅覚かもしれない。触覚かもしれない。そうではなく、それらを統合して、何かになろうとする力、何かを、まるで子どもを産みだすように生み出そうとする蠢きかもしれない。





西脇順三郎と小千谷―折口信夫への序章
太田 昌孝
風媒社
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杉本徹「橇と籠」、竹内敏喜「木々の」

2011-03-22 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
杉本徹「橇と籠」、竹内敏喜「木々の」(「ムーンドロップ」14、2011年02月04日)

 杉本徹「橇と籠」はタイトルに違和感を感じて読みはじめた。どんな違和感かというと、音があわない、という違和感である。--これは、説明がとてもむずかしいのだが、「そりとかご」と音で聞いたとき、私はそれが何をあらわしているかわからないに違いないと思うということだ。音を聞いてもわからないことば、そのことばのつながり--そういうものに私は違和感を感じる。「そりとかご」。えっ、何と何? つながらないのだ。
 私は音痴のくせに(あるいは音痴だからなのか)、音にいつもつまずいてしまう。そうすると、妙に気持ちがいらだつのである。そのいらだちが違和感である。

あけがたの夢に載るだけの光の縞を登記した、事務机から林道へ--きのうの
雨に濡れて押し黙る樹皮と踊場は、一通のジョウビタキの飛来のために。陽を
縫えば極寒の海の色で空き缶もころがり、何度も試された口づての吃音を、見
上げれば過ぎる。日付変更線を追う枝鳴りの暗さが、その先のしたたりを秘密
の羽に、……颯と、消印として。

 この書き出しには、タイトルと同じような違和感がある。
 「雨に濡れて押し黙る樹皮」「陽を縫えば極寒の海の色」「何度も試された口づての吃音」は、とても美しい。先に書いたことと矛盾するかもしれないけれど、その音を聞いたとき、たぶん私はそれが何を言っているかわからないと思う。しかし、わからないはずのその音に酔ってしまう。わからなくていい、と感じてしまう。いつか、あるとき、きっとそれが瞬間的にわかるときがやってくる。それまで、それはその音であればいいと思うのだ。それは、そこにある音が、きっと美しいイメージにつながるという予感に満ちている。繰り返しているうちに、だんだんそのことばが描写するものが見えてくる。そして、見えてくるのだけれど、私は、それを見ない。見るのではなく、その音へ帰りたいと、激しく思うのだ。見えるもの、イメージなど、どうでもいい。それは音の付録である。
 「日付変更線を追う枝」(鳴り、は含まない)「したたりを秘密の」「消印として」も、それに近い。
 一方、「夢に載るだけの光の縞」「事務机から林道へ」「一通のジョウビタキの飛来のために」「空き缶もころがり」には、音がない。音がないというと、杉本にしかられるかもしれないが、私には音が聞こえない。ノイズでもない。こういう音の組み合わせを私は私の肉体をとおして聞いたことがない、発したことがない、と反発してしまうのである。「空き缶もころがり」くらいは、どこかで聞いているはずの音かもしれないが、「も」ではなく「が」、「空き缶がころがり」だったら、聞き逃したかもしれない。「も」であるために、私はつまずいたのである。
 こういうことは、杉本の責任(?)ではなく、私の肉体の問題なのだが、きのう書いたこととのつながりで書いておきたいと思ったのである。
 音が呼びあって、肉体のなかでつくる「意味」がある。その一方で、音が反発しあって、音が離れあって(?)--音が互いに遠ざかって行って、「意味」にならないことがある。「そりとかご」というタイトルはその「典型」である。「そり」という音と「かご」という音が、ふたつを結びつけるはずの「と」という音を中心にして、ぱっと離れてしまう。そして、そこに「文字」は残るのだが、音はまったく聞こえなくなる。そういうことが、私には起きるのだ。そして、その瞬間、私は難読症になった恐怖心に襲われる。

 だったら、書かなければいいのに……。

 そうだよね。書かなければいいのかもしれない。でも、書きたい。というのも、どうにも私には聞き取れない音がある一方、杉本のことばには不思議な美しさが同時に輝いている。何度が繰り返される「水脈(みお)、のち曇り、……」は、音になっていない「……」さえもが私の肉体に響いてくる。不思議な「無音」を呼び覚ます。
 とくに、次の3行が好きだ。

……それから道半ばを覆う黒い樹に眼をつむり、眼をひらき、わずかな陽の移
りに巧緻な歴史を読む。測候所の守衛が鷲であった日と問えば、彼の、眺め下
ろした雪の世がまぶしい。あれは風を孕む背嚢、辞書の一片など底で翻る。

 「眼をつむり、眼をひらき、わずかな陽の移り」の「わずかな」はだれもがつかう平凡な(?)ことばかもしれないが、ここではこの世で一回かぎりのような美しさだ。「わずかな」がいったいどれくらいの量、どれくらいの明るさなのか、何もわからない。けれど、そのわからない量、明るさが、とても静かに肉体のなかへ入ってきて、「わずかな」なのに、それが全体になる。それは、私の肉体のすみずみにまで広がっていくのか、あるいはまったく逆にその光にむかって私の肉体が収縮していくのかわからないが--きっと、それは同じことだろう--、うっとりしてしまうのだ。
 「わずかな」ということば、その音のなかで、私はどこまでも広がる光と、どこまでも収縮していく肉体という「矛盾」を体験する。それは、俳句のことばで言えば「遠心・求心」が結合したような「矛盾」である。そういう瞬間をくぐりぬけると、そのあとにつづくことば、その音は、どこまでも自由になる。「矛盾」は「矛盾」ではなく、「自由」と同義になる。

 --私の書いていることは、論理的ではない。だから、きょう私が書いていることは「批評」ではない。「批評」になっていない。
 それは、つまり、私が杉本の書いていることばを理解していないという意味でもある。たしかに私は「橇と籠」という作品のことばのほとんどを理解していない。理解していないけれど、その理解できないところに魅力を感じている。
 いつか、私が魅力を感じている部分について、私以外のだれかにわかる形で、きちんと書いてみたいと思う。書ける日がくるのではないかな、とも思っている。そのことを書く日のために、私は「意味」にならないことば、「批評」にならないことばをメモとして残しておくのである。



 竹内敏喜「木々の」は、杉本の音に比べると繊細な印象を欠いている。しかし、それは悪いことではない。不思議な強さがある。繊細には繊細の強さがあるが、そういうものとは完全に違ったゆったりした強さがある。

数十年も放ってあった病院まえの雑木林に
業者が入ると
そこへ、さっぱりした遊歩道ができた

 この「さっぱり」の、それこそさっぱりした強さ。何か、ひとの生き方(竹内の生き方)を感じさせる。あ、私は竹内という人間をまったく知らないのだけれど。そして、その「さっぱり」の前にある「そこへ、」の読点「、」の呼吸。その呼吸がもっている不思議な音、間、としての音が、竹内の強さなのだと思う。
 竹内のことば、その音は、間を持っている。それは杉本の「……」の無音とは違う。「無」を超越してそこにある。「無」を肉体で押さえつけているような感じである。(と、また、無責任に、私は感覚的なことばを並べるしかないのだが……)
 この読点「、」の不思議な間、間を越えてことばが音として動いていく感じは、そのあともつづく。

整備されると、なんのことはない
奥行き四〇メートル
道を歩けば一周一〇〇メートルほどで足りてしまう土地だ

みえないということは
いかにも人間の想像力を刺激するのだろうと
しみじみ、理解する仕儀となった

失われたものを惜しみ嘆く立場でもないから
休日の午後、妻が料理するあいだ
一歳児を抱いて遊歩道を進むたのしさ

風いろになった木々に吸い込まれて

 いいなあ、この音の大雑把な(?)余裕。何が起きようと肉体があって、その肉体がすべてを解決する。木々に吸い込まれるのさえ、肉体の呼吸、ことばとことば、音と音の間のひとつである。

 あ、これは、ちょっと失敗したなあ。書き方を間違えたなあ。あした、また、竹内の詩について書いてみたい。



ステーション・エデン
クリエーター情報なし
思潮社



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ウニー・ルコント監督「冬の小鳥」(★★★★)

2011-03-22 22:50:25 | 映画
監督 ウニー・ルコント 出演 キム・セロン、コ・アソン

 主役のキム・セロンがとてもすばらしい。父親に見捨てられ、それでも父親を愛している。自分を探しにきてくれると、祈りつづけている。そのために周囲にとけこまない。それだけのことを繰り返し描いているのだが、どの映像にも「演技」というか、わざとというものがない。ことばを拒絶し、自分にとじこもる。けれども、いま、ここで起きていることはしっかりとみつめる。その強い視線に圧倒される。
 普通なら(?)、涙、涙、涙……という展開になるのかもしれないが、涙を拒絶して、じつにさっぱりしている。見終わったあと、なぜ涙が流れないんだろう、なぜ悲しくないんだろう、と、それが不思議になる映画である。私は、映画ではめったに泣かないのだが、この映画は、安易な涙というものを完全に拒絶している。
 それが、まったく新しい。
 ストーリーとしては何度も映画になったような物語だが、どのシーンも涙を誘わない。少女の悲しみは痛いほどわかるのに、なぜか、泣けない。同情の涙を流すことを、少女が許してくれないのだ。少女の悲しみは、彼女自身のものなのだ。だれのものでもない悲しみ。悲しみをだれにも渡さないという覚悟で少女は生きている。そのことが伝わってくる。
 プレゼントの人形を壊し、自分のものだけではなく友達のものを壊すその絶望。「むしゃくしゃすることがあるなら布団をたたけ」と言われて、布団をたたきながら少女が泣くときも、その悲しみは、私の感情よりはるかに遠くにある。スクリーンにあるのではなく、そのむこうにある。少女の肉体のなかにある。そこからあふれては来ないのだ。
 クライマックス(?)の、小さなショベルで自分の墓を掘って自殺未遂をするシーンは、びっくりしてしまう。少女がやっていることはわかるのだが、その気持ちに追いついていかない。完全な孤独のなかで、少女はたったひとりで行動している。自分で自分の顔に土を被せ、苦しくなって、泥をはねのける。死ねなかったという事実を少女がみつめるとき、あ、少女が助かってよかったと思うよりも前に、すごい、この少女は「いきる」ということ、「死ぬ」ということの意味、それは個人がひとりでひきうけなければならないものなのだという哲学を理解したのだとわかり、打ちのめされる。ほっとするのでも、あ、よかったと思うのでもない。私は、打ちのめされて、ただただスクリーンをみつめるしかないのである。
 泥をはらいのける。そして、その泥のしたからあらわれる顔--その肌の色の、何にも汚れない美しさ。その黒い目の強い力。これには驚愕の映像である。いや、映像などとはいってはいけない。人間の、いのちの力そのものである。
 ひとはよく、その気持ち、よくわかる、というけれど、少女に言わせれば、「わかってたまるか」なのだろう。個人の感情というのは、絶対的なものなのだ。人とは触れあわないものなのだ。そして、その感情というのは、いつも肉体とともにあるのだ。少女は、彼女自身の感情を自分で守ると同時に、自分の肉体をも発見している。いのちをも発見している。そういうものを発見してしまう力に圧倒される。
 この発見のあと、少女は、やっと「甘える」というか、人に「頼る」ということを思い出す。捨てられるとも知らず、自転車の後ろで父の背中にしがみつていたときの、温かい感じ。それを、もう一度だれかにもとめてもいいのだと気がつく。そして、見知らぬ人、遠いフランスの会ったこともないひとの養子になることを決意する。
 この映画は監督の「自伝」ということだが、自己をきっちりとみつめる視線が、まことにすばらしい。どの映像も感情的にならず、つまり正直なものになっている。正直な力が、少女を少しずつ少しずつ丁寧におしていく。そうして、少女が少女が自然に動いていく。まるで森鴎外の文体を映像にしたような、正確ということばしか思い浮かばない、完璧な作品である。 



 福岡・KBCシネマでやっている「キネ旬ベスト10アンコール上映」の企画で見ることができた。こういう企画を、いろいろな映画館でやってもらえると助かる。
                              (KBCシネマ1)

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誰も書かなかった西脇順三郎(198 )

2011-03-22 10:38:28 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「野原の夢」。
 音のことばかり書いているので、ときには「意味」のことも。「意味」になるかたどうか、わからないけれど。

すべては亡びるために
できているということは
永遠の悲しみの悲しみだ
秋の日に野原を走るこの
悲しみの悲しみの悲しみの
すべての連結の喜びの
よろこびの苦しみになる
かも知れないまたの悲しみのかなしみ

 「悲しみ」ということばの繰り返しの途中に「喜び・よろこび」ということばが出てくる。これは「悲しみ」とは相いれないことばである。もうひとつ「苦しみ」も出てくるが、苦しくと悲しいは近いことばである。苦しくて悲しいという表現は一般的に成り立つ。喜びで悲しい(うれしくて悲しい)は、いっしょの次元ではなく(併存ではなく)、喜びの一方で悲しい気持ち、うれしいけれど悲しいという対立した(矛盾した)感じのときにかぎられる。
 けれど、西脇は、ここに「喜び」ということばを持ってくる。
 そのとき「連結」ということばをつかっている。「連結」は「併存」でも「対立(矛盾)」でもない。併存も対立も、そこに接点はあるだろうけれど、それは結び合ってはいない。

 詩を定義して、いままで存在しなかったものの出会い、かけはなれた「もの」の出会いという言い方があるが、西脇はその「出会い」を「連結」という状態にしてしまう。しっかり結びつけてしまう。
 ここに西脇のおもしろさがある。そして「日本語」のおもしろさがある。外国語を知らないから、私の感想は間違っているかもしれないが、日本語というのはなんでも「連結」してしまう。どんな外国語も、そのまま取り入れて、「併存」させるというより、日本語そのものに結びつけてしまう。
 日本語のなかにおいてでも、西脇は、この詩の「悲しみの悲しみの悲しみの」と「の」をつかうことで、どんどんことばを「連結」させてしまう。
 そうすると、そこから「喜び・よろこび」が生まれてくる--これが西脇の「哲学」なのだ。そして、その「喜び・よろこび」を、私の場合は「音」のおもしろさ、たのしさ、「音楽」として感じる、ということになるのかもしれない。

 ことばを「連結」するのが「喜び・よろこび」なら、いま、ここに、ふつうにあることばを「ほどく」(連結から解除する、結び目を解体する)というのも「喜び・よろこび」である。
 ことばがほどかれたとき、そのほどけめは乱れる。そこに乱調の美がある。
 しっかり結びつけられた結び目、その独特の形も美しいが、硬く結びつけられていたものが(がんじがらめにこんがらがっていたものが)、解きほぐされたとき--これもまたうれしくて、笑いだしたくなるねえ。

すつぱいソースを飲みにそれは
ザクロの実とセリとニラを
つきまぜた地獄の秋の香りがする
アベベが曲つたところから
左へ曲つて
花や実をつけたニシキギや
マサキのまがきをめぐつて
われわれは悲しみつづけた

 「アベベ」はエチオピアのマラソン選手だろう。東京オリンピックでアベベが走った道。そこを曲がる。ふいに、そこにはいないアベベを「連結」するとき、いまという「とき」がほどかれる。時間が自由になり、その解放感のなかでことばが自由になる。
 「連結」は「解体」(解放)でもあるのだ。





詩人たちの世紀―西脇順三郎とエズラ・パウンド (大人の本棚)
新倉 俊一
みすず書房



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池井昌樹「星工」(追加)、黒岩隆「水仙忌」

2011-03-21 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「星工」(追加)、黒岩隆「水仙忌」(「歴程」573 、2011年02月20日発行)

 池井昌樹「星工」について、書き漏らしたことがある。書こうとして書けなかったこと、がある。
  生きている過程で「知らないこと」「知れないこと」というのはたくさんある。そしてその「知らないこと」「知れないこと」は、それ自体はわからないのに、何か別なもののなかで生きていて、それももちろん「知らないこと」「知れないこと」なのに、何かがわかる--そう感じることがある。
 あ、これでは抽象的過ぎるね。

ふるさとのしおたのうらのとまやには
だれがすもうていたかしらない
だれがすもうていたのかしれない
とんてんかんてんとんてんかん
ふるさとのしおたのうらのとまやでは
なにがなされていたかしらない
なにがなされていたのかしれない
とんてんかんてんとんてんかん
 
 この詩の書き出し。ふるさとのしおたのとまやに、だれが住んでいるのか、何がおこなわれていたのか、それは「知らない」(知れない)。そのとまやでわかることといえば、「とんてんかんてんとんてんかん」という音なのだ。とまやは、そのとき建物であると同時に音なのだ。その音がいったい何によるものか、だれが住み、何をすることによって起きる音なのかは「知らない」(知れない)が、その音だけははっきりと耳を通って肉体のなかに入ってくる。もちろん、そのときとまやの何かは目を通って、やはり肉体のなかに入っているのだけれど、池井はそのことを書いていない。ただ、「音」を書いている。
 そして、このとき「音」というのは不思議な働きをする。「音」にあわせて、肉体の何かが動く。「音」を聞くとき、肉体は動くのだ。
 あ、これも、たぶんもっと丁寧な説明がいることかもしれない。もちろん肉体の反応というのは個人差があるだろうから、これは私だけのことかもしれない。したがって、池井とは無関係なことなのかもしれないが……。
 何かを見る--見たものが肉体のなかに入ってくる。そのとき、私の肉体は動かない。ある風景を見る。そのとき、私はただそれを見る。もし、それを再現しようとするならば紙が必要になり、筆が必要になる。筆をつかうとき、私の肉体は(腕は)動くだろうが、紙も筆もないとき、私はただ、それを見つめているだけである。あとで絵に描いてみようと思って、じーっと見続けるということはあるかもしれない。
 ところが聞くということは、見るということとまったく違う。聞く。そして、その音が肉体に入ってくる。それを私は喉や口をつかって声に出してみることができる。そして、その声に出した音を耳でもう一度聞く。それはもちろんそっくりそのままの音ではない。正確な音ではない。けれど、とりあえず、声、音として「記憶」することができる。また、人につたえることができる。
 記憶する、つたえるということなら、見たものも「どこそこの浦の東側、友達の家の近くに塩田があって、その広さは……」と言うことができるかもしれない。けれど、それは「見る」ではなく、いったん「ことば」にしている。「音」にしている。視覚をそのまま肉体で再現し、それを自分の記憶にすることはできないし、その視覚を他人につたえることはできない。
 音--聴覚(同時に、発声)というのは、視覚とは違った力を持っているのである。
 音は肉体のなかにはいり、それから声として出ていくとき(そして、その声を音として聞き直すとき)、肉体に「意味」の傷跡を残していくのである。「意味」がわからなくても、その「音」から肉体は「意味」を感じ取ってしまうのである。肉体のなかに、「音」が「意味」を知らず知らずに蓄積するのである。
 視覚にもし、その音に重なるものがあるとすれば「色」がそうかもしれない。「色」が「肉体」に「意味」を残すのである。
 このときの「音」(色)には、もちろん個人的な体験だけではなく、その「音」(色)をつかう人々の共通の感覚が反映され、そこから「意味」が出てくるのだけれど……。
 寄り道が長くなったけれど……。
 とまやにだれが住んでいるのか、何をしているか知らない。けれど「とんてんかんてんとんてんかん」という音がしていることは知っている。そして、そこから聞こえる音を「とんてんかんてんとんてんかん」ということばにした瞬間、肉体のなかに何かが刻印されるのである。その音に「意味」(頭で定義し直すことのできることがら)はないのだけれど、肉体は感じるのだ。あ、これは、あのときの音だと。聞いたことがある、と、わかってしまうのだ。
 わかるといっても、もちろん、正確ではない。ぼんやりである。しかし、そのぼんやりが繰り返されると、だんだんぼんやりではなくなる。たしかなことになる。
 耳は、見えないことを知ってしまうのである。
 音のなかには、見えないものが動いている。

 池井は、この詩のなかで何度も「とんてんかんてんとんてんかん」を繰り返している。繰り返すことで、肉体の奥へ奥へとさかのぼっている。肉体の「ふるさと」へ帰っていく。
 「とんてんかんてんとんてんかん」という「音」は、その弾むような響きだけで独立しているわけではない。「とんてんかんてんとんてんかん」のまわりには、次のような音もある。

うしろゆびさしこえひそめ
おしえてくれたそのちちも
みまかりてはやときはゆき
とんてんかんてんとんてんかん
ふるさとのしおたのうらのしらさびた
とまやはいまもゆねのうち
だれがすもうているのやら
なにがなされているのやら

 う「し」ろゆびさ「し」こえひそめ、ふるさとの「し」おたのうらの「し」らさびた、ふるさとのしおたのう「ら」のし「ら」さびた--という具合に繰り返される音。「しらさびた」ということばのなかで交錯する母音「あ・い」、前後する「さ行」。それが「ひそめ」という音とも響きあう。呼びあう。
 それは、私に、何かしら、悲しいもの、悲しいけれど避けることのできない何かとして、肉体に影を落とす。
 音は音自体で「意味」を持つのだ。

 その「意味」を突き抜けて(突き抜けるところまで、耳を澄まして)、池井の声は「ほしづくり」という「宇宙」に飛び出していく。
 「とんてんかんてんとんてんかん」から「ほしづくり」への飛躍、飛翔。それを、池井は、具体的には説明していない。どうして「とんてんかんてんとんてんかん」が「ほしづくり」か、何も書かない。--それは、書けないのだ。池井の肉体だけが知っている「企業秘密」なのだ。

ふるさとのしおたのうらのとまやには
だれがすもうていたかしらない
だれがすもうていたのかしれない

という音の微妙な連続感じ。それとは対照的な

とんてんかんてんとんてんかん

 という音。それを繰り返し繰り返し肉体のなかにいれながら、池井は「ほしづくり」へと動いていく。なぜ、そうなのか、わからない。けれど、「ほしづくり」と聞くと、ああ、そうなのだと納得してしまう。
 この納得を、私は、ほんとうは書かなければならないのかもしれないが、どうにも書けない。あ、そうなのだ、と思うことしかできない。そして、あ、そうなのだ、と思い、思った瞬間、この飛躍のなかに、池井の詩のすべてがあると感じ、池井の詩が好きになる。
 あ、また、書こうとして書けなかったことが、さらに書けなかったのかもしれない。しかたがない。
 ちょっと別な形で補足する。補足にならないかもしれないけれど。



 黒岩隆「水仙忌」。その1連目。

浅い夢のうしろで
空き缶の転がる音がする
風もないのに
遠くに
近くに
暗くて寒い夜明けだ

 「夢のうしろ」というから、黒岩はそれを半分目覚めながら聞いているのだろう。それは遠くであるようにも聞こえるし、近くであるようにも聞こえる。遠くと近くはまったくちがったものだけれど、それが区別できない。
 そして。
 その区別できないものが、「暗くて」ということばのなかで、一体になる。
 このとき「遠く」「近く」「暗く」という音のなかにある「く」の存在が、その一体感を堅固なものにする。「遠く」と「近く」が「暗く」のなかで、さらに距離をなくしてしまう。
 私は音読はしない。黙読しかしないのだが、「遠く」「近く」「暗く」ということばを読むとき、無意識に喉や口蓋が動いていて、その動きのなかで、三つのことばが一つになっていき、「意味」をつくりだしていることを感じてしまうのだ。
 黒岩の詩のことばは、このあと「静かにわらっているひと」へと動いていくのだが、そのひとは「遠く」、そして「近く」にいつもいる。いつもいるのだけれど、その「遠く」と「近く」の距離は「暗く」あるのだ。悲しい距離があるのだ。この悲しい距離は「遠く」「近く」「暗く」という音がつれてきたものである。




星の家
黒岩 隆
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ルネ・クレマン監督「禁じられた遊び」(★★)

2011-03-21 16:24:02 | 午前十時の映画祭
監督 ルネ・クレマン 出演 ブリジット・フォッセー、ジョルジュ・プージュリー

 私はこの映画がそんなに好きではない。子供の描き方が気に食わない。無垢と無知は違ったものだが、この映画ではそれが混同されているように思う。
 幼い少女は「死」について無知である。そこから「無垢」な「遊び」が始まる。この前提が私には奇妙なものに思える。死について何も知らなくても、実際に体験するとそこからなにごとかを感じてしまう本能が人間にある。両親が死んだとき、ポレットは母の頬に手を触れ、自分の頬の感じと違うことを知る。(そんなに早く、体温が奪われているとは思わないけれど。)この、肉体を通して知った「事実」というものは重いものである。それがこの映画の中では丁寧に取り扱われていない。
 少女は死んだ犬のことを気にしているが、その前に母の頬に触り、その異変を知っているのだから、母を置き去りにして犬を気にするというのはあまりにも変である。その直前の、犬を追い掛けるシーンは、まだ母が生きているからありうるが、母に異変があったと知って、それも肉体で確かめた後、それでも母を見捨て犬を追い掛けるとしたら、これは「無知」というより感じる力をなくしている。
人間の感覚を狂わせてしまうのが戦争であるという見方もあるだろうけれど、そうならそうで、感覚の狂いをもっと丁寧に描くべきだろう。あまりにもご都合主義的な展開である。
この映画では、ポレットとミシェルの「泣かせるストーリー」よりも、ミシェルの家と隣の家のいがみ合いがとてもおもしろい。戦争の最中に、隣人同士がいがみあっている。そのくせ、その家の娘と息子は恋愛関係にあり、フランスだから(?)もちろんセックスもする。この日常感覚が、あ、やっぱりフランス、あくまで「個人のわがまま」を最優先する、というのがいいなあ。両家に、脱走兵がいる、というのも人間っぽくていい。わがままでいい。ミシェルの兄が馬に蹴られて、それが原因で死ぬという「日常」もいいなあ。田舎の「日常」がくっきり描かれているのが、とてもいい。
こういう丁寧な日常を描くくせして、ポレットとミシェルだけが「メルヘン」の残酷さと美しさを生きるというのは、あまりにも変だねえ。
最後の駅のシーン。悲しいというより、フランスの「個人主義」がくっきり出ていて、それもいいんだけれどねえ。



最近「白いリボン」をみた影響かもしれない。厳しい評価になった。
(「午前10時の映画祭」青シリーズ7本目、天神東宝、03月19日)


禁じられた遊び [DVD] FRT-098
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誰も書かなかった西脇順三郎(197 )

2011-03-21 09:46:39 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「禮記」には、きのう読んだ「田園の憂鬱(哀歌)」の音(音楽)とはまた違った音楽がある。

このまなこのくらがりにつくつく
ぼうしのなくこの
歴史のせんりつが
セメントをうつ雨のように
きこえる

 ここには互いに反発して輝く音ではなく、深いところで手をつなぎ合う音がある。「このまなこのくらがりにつくつく/ぼうしのなくこの」という2行のなかに「この」が3回繰り返される。ただし、そのうちの1回は「まな・この」だから、その前後の「この」とは「意味」が違う。「意味」が違うけれど同じ音であるために、何か「意味」を越えて、しっかりと結びついてしまう。そして、その結びつきが「まなこ」ということばの「意味」を遠ざけてしまう。「まなこ」が「まなこ」でなくなってしまう。
 その影響だろうか。「つくつくぼうし」は「つくつく」と「ぼうし」に切り離され、やはり「意味」を失う。ただし--あ、このただし、が変だなあ。ただし、「意味」を切り離されながらも、その「切り離された」という感覚が、不思議と、「意味」を呼び戻すのである。「つくつく/ぼうし」は「つくつくぼうし」と書かれていないけれど「つくつくぼうし」のことなんだ、と意識させる。
 変だよねえ。
 「まなこの」は「まな/この」に切り離され、「つくつく/ぼうし」は切り離されているはずなのに「つくつくぼうし」とくっつけられてしまう。
 「音」は書かれていることばとは違った運動をしてしまうのである。「音」(声)は、書かれたことばの「意味」を越えてしまうのである。「意味」を越えて、遊んでしまう。遊びながら、音と音が手をとりあってしまう。
 これは、いったいなんなのだろう。
 私は書きながら、さっぱりわからない。
 たとえば「つくつくぼうし」ということばは、「つくつく/ぼうし」という具合にばらばらにされてしまう。そうすると、そのばらばらな感じは、くっついているはずの「つくつく」さえも「つ/く/つ/く」という音にしてしまう。そこから、「なく」の「く」が手を結び合うきっかけが生まれ、それは音をさかのぼって「くらがり」の「く」とも結びつく。音というのは一瞬一瞬消えてしまい、そこには同時に存在しないのだが、繰り返されることで同時に存在しないはずのものが、その瞬間に存在してしまう。いま、ここにないものが、音のなかで、なぜか存在し--いや、存在を越えて、どこかへ強く引っ張られていく。
 「いま」が「ここ」から消えていく。
 「つ/く/つ/く」の「つ」は、「歴史のせんりつ」の「つ」になる。「旋律/戦慄」と書いてしまうと「つ」は消えてしまうから、西脇は、あえて「せんりつ」と書くのだ。そして「セメントをうつ雨」の「つ」にもなる。
 同時に「せんりつ」と「セメント」が「せ」「ん」の繰り返しのなかで重なる。「戦慄/戦慄(せんりつ)」と「セメント」は無関係なものであるけれど、音のなかではとても近いものになる。その瞬間に「せんりつ」の「意味」も、「セメント」の「意味」もたたき壊されてしまう。
 「意味」がたたき壊されてしまうから、何を読んでいるのかわからなくなる。
 わかるのは、そこに消えてはあらわれる「音」があるということだけ。あらわれる「音」は不思議なことに、未来へも過去へも自在によびかける。ひとつの音から、それ以前のことばのなかの音が思い出される。また、ひとつの音から、いまとは無関係な別なことばが噴出してくる。
 いま、ここにある音のなかで、過去と未来が出会ってしまう。

 でも、それは「歴史」とは違うなあ。西脇が「歴史」ということばを書いているので、私は、そんなことをふいに考えてしまう。
 それは一般に言う「歴史」とは違う。しかし、どこかで「歴史」以上のものを感じさせる。ひとはなぜ、いくつかの音を出すのか。その音をなぜ、それぞれ聞き分けることができるのか--そのときの、人間の、「歴史」を越えた、不思議な力を思い出させてくれる。感じさせてくれる。
 



西脇順三郎詩集 新装版 (青春の詩集 日本篇 15)
西脇 順三郎
白凰社



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池井昌樹「星工」

2011-03-20 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「星工」(「歴程」573 、2011年02月20日発行)

 池井昌樹「星工」は、いつのことを書いているのだろう。

ふるさとのしおたのうらのとまやには
だれがすもうていたかしらない
だれがすもうていたのかしれない
とんてんかんてんとんてんかん
ふるさとのしおたのうらのとまやでは
なにがなされていたかしらない
なにがなされていたのかしれない
とんてんかんてんとんてんかん
ふるさとのしおたのうらのあれはてた
とまやいづればもうただのひと
おもてへでればもうただのかお

 1行目を漢字まじりで書けば「ふるさとの塩田の浦の苫屋には」になるのかもしれない。私は「塩田」も「苫屋」も見たことがない。だから、それを想像する(思い描く)こともできないのだが、具体的な風景を思い描く前に、「意味」が見えてきて、肝心の風景が見えなくなる。
 これは、つまらないなあ。
 ところが、ひらがなだけの詩にもどると、その印象ががらりとかわる。「ぼんやり」する。「しおた」って何? 「とまや」って何? 聞いたことがある。どこかで聞いたことがある。そういうものが「記憶」の奥に残っている。「記憶」といっても、はっきりしたものではなく、何といえばいいのだろう、「肉体」の奥に残っている「傷」のような感じである。ぼんやりしているのだが、あ、それはあったかもしれない、と思うような何かである。
 「塩田」「苫屋」ではなく「しおた」「とまや」であるときの、ぼんやりした何か--それが「意味」を洗い流す。
 ここには「意味」はない。--では、何があるのか。

 「ふるさとのしおたのうらのとまやには」には、「ふるさとの塩田の浦の苫屋には」では聞こえてこない音がある。「お」の音が、ゆらぎながら動いている。そして、

だれがすもうていたかしらない
だれがすもうていたのかしれない

 この2行で繰り返される「すもうて」のなかにも「お」の音がある。「だれが住んでいたかしらない」「だれが住んでいたのかしれない」ではなく、「すもうて」というとき、「お」の深い音のなかに、肉体がすーっと引きこまれていく。
 「すもうて」のなかにあるのは「お」だけではないのだが、「お」のゆらぎが、とても気持ちがいいのだ。
 音のゆらぎ--という点では「しらない」「しれない」にもある。
 そして、ここにはもうひとつ不思議なことが書かれている。「しらない」の主語は「私」。「しれない」の「だれにも」である。「私」と「だれにも(不特定多数)」が、この瞬間にすれ違う。「ら」と「れ」の音の違いの中で、「私」と「すべてのひと」が交錯する。すれ違いながら、溶け合ってしまう。
 ふるさと--とは、そういう「場」かもしれない。

 こういう印象のあとに、

とんてんかんてんとんてんかん

 という音が来る。
 これは、何の音?
 私には、風の音に聞こえる。風といっても、ただ風が吹いているのではない。「とまや」の扉が風に吹かれている。開いたり、閉じたり。そのたびに木がぶつかり「とんてんかんてんとんてんかん」。それは木のぶつかる音であり、風の音である。音の中で風と木が一体になっている。
 あるいは、風ではない何かの動きのために、「とまや」がゆらぎ、それが音を立てている。でも、たとえば池井が「あれは何の音?」と聞いたとき、父は「あれは風がとまやを揺する音」といったのかもしれない。その音の「意味」を池井はそんなふうに聞いたのかもしれない。
 このすれ違いと、そこから始まる「物語」。それは「しらない」「しれない」という音の中で「私」と「だれ(に)も」が出会い、一体になっているのに似ている。

 音の中で、ことばの中で、「私」と「私以外の人(私のまわりにいる人)」が出会い、溶け合い、一体になる。

だれがすもうといるのやら
なにがなされているのやら
とんてんかんてんとんてんかん
かぜたつよわもいやますやみも
うしろゆびさしさげすむこえも
しらぬかお もうただのゆめ
とんてんかんてんとんてんかん
おやすみのあさ ゆにつかり
めをつむり まためをつむり
しおたのうらにまだひとり
とんてんかんてんとんてんかん
ほしづくり やよ ほしづくり

 「しらない」「しれない」--そういう音のゆらぎのなかを通って、池井は「ふるさと」よりももっともっと遠いところへ帰っていく。
 「とんてんかんてんとんてんかん」という音を繰り返すたびに、「物語」は進みながら、「物語」以前へ帰っていく。「私」と「私以外の人」は一体になりながら、「私」でも「私以外の人」でもないものになっていく。出会うことが、別れになり、その遠くに、全体的な「孤独の人」が、ふいにあらわれる。

とんてんかんてんとんてんかん

 あれは、星をつくっている音。風の音でも、苫屋のゆらぐ音でもない。「めをつむり まためをつむり」--その繰り返しの果てに、ふいにあらわれる「神話」。
 この「ほしづくり」の「宇宙」は、たとえば谷川俊太郎の「宇宙」とはまったく違うなあ。谷川俊太郎は最初からひとり。最初から孤独の透明な音楽を響かせる。その響きが宇宙と向き合う。それにこたえて宇宙も音楽を奏でる。
 けれど、池井は、だれかとつながって、つながりつづけて(たとえば、ふるさと、たとえば父母とつながりつづけて)、つながりの中で「ひとり」になって、「孤独」になって、絶対的な孤独の人が「宇宙」でつくりつづけている音楽を聞き取る。
 池井は「声」の人間であるよりも、「耳」の人間、「耳」の詩人なんだなあ、と、きょうふいに気がついた。

母家
池井 昌樹
思潮社
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誰も書かなかった西脇順三郎(196 )

2011-03-20 14:45:10 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「田園の憂鬱(哀歌)」の次の部分がとても好きだ。

もう春も秋もやつて来ない
でも地球には秋が来るとまた
路ばたにマンダラゲが咲く
法隆寺へいく路に春が来ると
ゲンゲ天人唐草(てんにんからくさ)スミレが咲く
ああ長江の宿も
熊野の海に吹く鯨のしおも
バルコンもコスモスもライターも
秋刀魚も「ツァラトゥストラ」も
すべて追憶は去つてしまつた

 秋、路ばたにマンダラゲが咲く、春、法隆寺へ行く路にゲンゲ、天人唐草、スミレが咲く。そのことがなぜ、詩、になるのか。そこには、いったい何が書かれているのか。秋の花、春の花の名前が語るのは何なのか--という問いは正しくない。正しくないというか、私の書きたいことからずれてしまう。私がこの部分がなぜ好きなのか。そこに「意味」を感じているからではない。その自然の花の美しさを感じているからではない。私はそこに「音」があること、その「音」が一種類ではないことに、喜びを感じるのだ。
 いろんな音が炸裂している。咲き競っている。
 そのなかでも、私がいちばん驚くのは「天人唐草(てんにんからくさ)」である。西脇はわざわざルビを振っている。そう「読ませたい」のだ。「意味」だけなら、ルビはひつようとはしないだろう。ゲンゲ・てんにんからくさ・スミレ。その音の響き具合を聞いてほしいと願っているのだ。ゲンゲとスミレに挟まれて「てんにんからくさ」は、とてもなめらかな響きで輝く。
 これが、もし「いぬふぐり」であったら、どうだろう。「いぬふぐり」は「天人唐草」の別称である。「意味」は同じである。でも、ゲンゲ・いぬふぐり・スミレ、では、音がまったく違ってしまう。
 さらに「ゲンゲ」ではなく「れんげ」「れんげ草(そう)」の場合も音が違ってくる。おもしろみが減ってしまう。        

 詩は「意味」のなかにあるのではないのだ。

 「熊野の海に吹く鯨のしおも」も、とてもおかしい。ごくふつうに「意味」をつたえるなら「熊野の海に(海で)、鯨の吹くしおも」だろう。(意味は少し違うが、熊野の海に、潮を吹く鯨も、という言い方もあるだろう。)「吹く鯨のしお」というのでは、「吹く」の主語を一瞬見失ってしまう。「鯨がしおを吹く」という基本的な「事実」が、どこかへ消えてしまう。そして、そこに音が残される。
 すべての追憶は去ってしまって、音が残される。「意味」を欠いた音が残される。そうしてみると、追憶とは「意味」かもしれないなあ。
 ほら。

 秋刀魚も「ツァラトゥストラ」も

 この1行で思い出すのは何? ふと、「作者」(筆者)を思い出さない?
 でも、我慢しよう。「作者」を思い出し、その名前を口にすれば、そこに「意味」が生まれる。西脇は、その「意味」を拒絶して、秋刀魚も「ツァラトゥストラ」もというときの肉体のなかに広がる音を楽しんでいるのだ。





西脇順三郎コレクション〈第6巻〉随筆集
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会



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季村敏夫『ノミトビヒヨシマルの独言』(7)

2011-03-19 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
季村敏夫『ノミトビヒヨシマルの独言』(7)(書肆山田、2011年01月17日発行)

 季村敏夫『ノミトビヒヨシマルの独言』には書かれていることと書かれていないことがある。ことばなのだから、それはだれの詩、だれの文学作品でもそうなのだが、そのことを感じさせることばは意外と少ない。つまり、あ、ここには書かれていないことがある、それを感じよ、という声がはっきりと聞こえる作品は少ない。季村の詩からは、その「書かれていないことを感じよ」という強い声がする。
 「骨片の月」の書き出し。

二度目の没落へ。かつて喝破された茶番の始まりとして。弛緩し、
ふやけてしまった皮膚が、これほどまでにあらわになったことは、
かつて一度たりともなかった。

 二度目の没落--と書いてあるが、一度目は何か。それは書いていない。二度目と「茶番の始まり」はたぶん重複する。同じ「意味」であると想像できる。けれども、それはどういうことなのか、この書き出しだけではわからない。わからないように、書いているのである。季村は。
 なぜか。
 書き出しの「二度」がキーワードである。あらゆることは、二度起きる。最低、二度起きる。一度目は、実際の「事件」(できごと)として。二度目は、それを語ること--ことばによって。
 季村は『日々の、すみか』(書肆山田)で「ことばはおくれてやってくる」と書いた。阪神大震災のことを書いた詩集だが、たしかにことばは遅れてやってくる。今度の東日本巨大地震でも、被災者の女性が「ことばにならない。初めてのことだもの」というようなことを言っていたが、ことばはたしかにすぐにはことばにならない。どう言っていいのかわからないことがある。わかるまで、ひとは、それを自分の肉体の中にしまいこんでおくしかない。
 二度目。それは、ことばによって始まるのだ。
 そういうことを、季村は書こうとしている。

一(イー)、二(アル)、三(サン)、四(スウ)、
ひい、ふう、みい、よう、

今しがた臀部を受け入れていた便器のなかにも、銀河は潜んでいる
のだろうか。起床。整頓。朝食。清掃。やがて屈伸運動を繰り返す
頭上、寝ぼけた明烏(あけがらす)。

 「一、二、三、四/ひい、ふう、みい、よう、」がなんの数なのかわからない。あとで季村はわかるように書いているが、最初は、わからないように書いている。これは、それがなんの掛け声なのか、なぜ中国語と日本語(それも、あえて、ひい、ふう、みい、よう、)なのか。
 それは、季村にはわかっている。わかっているけれど、わかりたくないことばでもあるのだ。わかりたくない声でもあるのだ。わからない、知らない、ということで、ことばを遠ざけたい。「二度目」であることばを遠ざけることで、「一度目」の「事件(できごと)」を拒みたいのだ。
 そして季村が、聞き取ってもらいたいのは、「一度目」の「できごと」でもなければ、「二度目」のことば、声でもない--「二度目」を拒絶したい、「二度目」を拒絶することで「一度目」を遠ざけない、ないものにしたい、という強い願いである。
 それはかなわぬ願いである。起きたことは必ずことばになる。一度目は必ず二度目になる。かなむぬ願いであっても、それを願わずにはいられない。
 そういうとき、ことばは、大きく変化する。

今しがた臀部を受け入れていた便器のなかにも、銀河は潜んでいる
のだろうか。

 「臀部」「便器」という人間の「肉体」に深く関係していることがら、それも「汚いもの」と、「銀河」が突然対比させられる。「銀河」は「臀部」「便器」とは対極にあるものである。汚れていない。あくまでも純粋に、そして非情に輝いている。
 人間は、どんなことでもする。してしまう。そのとき、その人間の行為、行動の奥にも「銀河」の法則、宇宙の真理は動いているのか。
 そう自分自身に問いかけてみるとき(季村は、ことばを書きながら、まず自分に問いかけている。その問いが、同時に読者への問いにもなる)、季村の見ているのは「銀河」のことばである。「一度」起き、「二度目」に繰り返され、さらには何度でも繰り返されて動いていくことばではなく、「一度」起きたら、それが「永遠」であるような、つまり何度ことばをかえて言いなおしてみても、「一度」自体は絶対にかわならい輝きとしてのことばである。そのことばで「一度目」を洗い流すと、次のようなことばが、断片として残される。

     起床。整頓。朝食。清掃。やがて屈伸運動を繰り返す
頭上、寝ぼけた明烏。

 動詞(述語)を取り払った「名詞」。
 ことばが、そんなふうに洗い流されるとき、たしかに「銀河」は存在するのだと思う。向き合うべきことばがあるのだと思う。ことばに向き合い、自分をととのえ、鍛え直していくための何かがあるのだと思う。
 「銀河」は非情である。人間に何もしてくれない。けれど、何もしてくれないものも、それ自体は何もしないわけではなく、ちゃんと動いている。自分の「法則」にしたがって動いている。その「法則」に向き合えることばを探さなければならないのだ。
 「一度目」は「事件(できごと)」として生まれる。「二度目」は、その「事件」を目撃したものの「ことば」として起きる。そして、その「目撃証言」が「他人」のことばであるとき、当事者はそれを拒絶することができる。自分のことばで、他人の「二度目」のことばを拒絶し、自分自身で「二度目」のことばで「事件」をととのえることができるし、そうしなければならないのだ。
 この「事件」をととのえるというのは、しかし、過酷なことである。自分の都合のいいようにことばを組み立てれば、それは「自己弁護」になってしまって、「事実」から遠ざかる。「銀河」から遠ざかる。事件を洗い流し、「もの」そのものにしなければならない。

イー、アル、サン、スウ、
ひい、ふう、みい、よう、

 と、中国語と日本語で、違っていてはいけないのだ。違う表現が成り立つとき、それは「事件」を「誤記」していることになる。
 「誤記」には、いくつもの種類がある。そして、そのうちの「濁った誤記」という「二度目」によって、何かが「没落」させられる。--その没落から、立ち上がるために、真の「二度目」のことばが必要になる。
 季村は、それを探しながら書いている。

 季村の詩には、書かれていることと書かれていないことがある。そして、その書かれていないことは、探しながら書く、書きながら探すしかないものなのである。季村は、書かれないもの(まだ書くことのできないもの)を探しながら書く--そのときの、声にならない声に耳を澄ませよ、そんなふうにしてことばと向き合え、と私たちを静かに叱責している。書かれていないこと、こそが、詩、なのである。「声」をもとめる「声」にこそ、「銀河」なのである。私たちを、宇宙へ導いてくれる力なのである。

日々の、すみか
季村 敏夫
書肆山田
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ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン監督「トゥルー・グリッド」(★★★★★

2011-03-19 23:44:39 | 映画
監督 ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン 出演 ヘイリー・スタインフェルド、ジェフ・ブリッジス、マット・デイモン

 ジョエル・コーエン、イーサン・コーエンは映像の魔術師である。父親を殺された少女が保安官を雇って殺人者を追いかける--という、いわば荒唐無稽のストーリーを、リアルではなく、お話の枠をもったメルヘンにしてしまう。これから始まるのは、(メルヘンだから)ほんとうのお話です、という前置きまでつけて、その枠のなかに映像をはめ込んでいく。
 (メルヘンだから)活躍するのは少女、というのはあたりまえ。その少女が、賢くて、強くて、少年みたいというのもあたりまえなのだけれど、
 あ、目がいいなあ。
 ヘイリー・スタインフェルドの、何もかもまっすぐに見る目がいい。この目のなかでは、世界はこんなふうにすっきりとした構図をもっているんだなあ。凝っていない。基本はあくまでもまっすぐ。水平か、垂直か。
 少女の三つ編みのお下げさえ、まっすぐな垂直線に見えてしまう。
 と、書いて気がつくんだけれど、この三つ編みがまた実にいい感じだねえ。まっすぐなだけではなく、束ねることで「芯」が生まれ、乱れがなくなる。まっすぐであることが、強調される。コーエン兄弟の今回の映画の映像を象徴しているのが、きっとこの少女の三つ編みである。
 髪を編んで束ね、まっすぐにするように、少女は自分の意思を束ね、まっすぐにして、そのまっすぐな視線で世界を見つめる。父を殺した男は許せない。父を殺した罪で罰せられなければならない。そのことだけを見つめる。
 その視点からだけ、世界を見つめる。
 最初の方に出てくる絞首刑のシーン。3人いっしょに絞首刑になるが、その処刑の瞬間、水平の板がぱかっと開いて、ロープがぴーんと張ってまっすぐになる。それを直視する映像。何か、美しいよなあ。目を逸らさないから、どんな残酷なものでも、美の瞬間をもって、そこに存在する。
 悪を罰する--それ以外のことは、まあ、見つめない。見つめない、というより、見えないのだ。真実しか、見えない--そういう目である。
 葬儀屋で何人もの死体といっしょに寝ることなど、ちっとも怖くないのだ。
 さらに、このまっすぐな映像に、少女のまっすぐなことばが重なるからおもしろい。14歳の少女がこんなふうに弁舌に巧みであるということは、現実にはないだろうけれど、(メルヘンなのだから、まあ、いいのだ)、その弁舌の特徴は、むだがないということ。余分なことは言わない。言いよどまない。頭の中ですっきりとした「文章」になって、それから声になって出てくる。そのまっすぐにととのえられたことばが、ほかの大人たちのことばを洗い流す。
 街をでて、犯人を追いかけはじめてからのシーンも、とてもいい。西部劇だから、景色が広大なのはあたりまえかもしれないが、その空間の広さに透明感がある。それも、なんといえばいいのだろう、無垢の自然の透明感というよりは、一種都会的な透明感がある。自然そのままの視線がとらえた透明感ではなく、まっすぐに移動するときに見えてくる透明感がある。止まっている透明感ではなく、動いていくことで透明になる空気がある。
 その象徴的な映像といえばいいのだろうか。
 最後のシーンが、とても美しい。大好きだなあ。(最後の直前、だけれど。)
 少女がへびにかまれる。少女をのせて、ジェフ・ブリッジスが馬を走らせる。そのとき、少女が幻を見る。ゲーテの「魔王」だねえ。空には星が燦然と輝いている。二人を乗せた馬は走りつづけて苦しく、息絶えてしまう。馬の肌の汗で光る色。まるで星空が馬の肌におりてきたみたい。壮絶だ。悲しいシーンなのだけれど、非常に美しい。これが現実だったらやりきれないけれど、メルヘンですから。
 ほんとうのラストも美しいなあ。
 ジェフ・ブリッジスの遺体を引き取り、家族の墓と一緒にする。その墓から歩いて帰るシーン。丘の少しだけ丸みをおびた線が、それまでの厳しい直線を強調した映像とは少し違う。けれど、その水平線の向こうへ歩いていく女の足どりは、やっぱりまっすぐ。いいなあ。
                           (03月19日、天神東宝)

*

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