タケイ・リエ「湿潤」(「Aa」4、2011年09月発行)
タケイ・リエ「湿潤」は何を書いているのかよくわからないのだが、ふいに、ことばに引き込まれてしまう瞬間がある。
「ひとが眠っているあいだ」と書き出されているから、これは夢を描いているのかもしれない。実際、夢でみる世界のように、視点が形を失くすように流動していく。そのために1行1行はわかったような気持ちにはなるけれど、何がわかったのか、よくわからない。
それでも、まず「からだ」の全体と「波音」がとけあっているのがわかる。そして、そこからまず視点が「顔」に動いていくこともわかる。次に視点は「足」へと動いていくのだが、「主語」が「からだ」→「顔」→「足」と動いたとき、
ふいに、何かがねじれる。「足をさがす」? 足は探さないとないものなのか。そんなことはない。「からだ」の一部として、確実に存在している。ある。それでも、それを探すのは、実は「足」を探すというよりも「出ていく」ということといっしょにある「足」のあり方を探しているのだ。
「出ていく」ためには「足」が必要なのだ。
「砕ける」海。その「波音」を聞きながら、タケイ(と仮に呼んでおく)は眠っている。眠りのなかで、タケイはまるで浴槽にいるかのように「波音」という「水」にからだをひたしている。そして、その「水」に「顔」が映っているのを見る。その「顔」は、もうすでに溜まりすぎている。
だから。
たぶん、だから、その溜まり過ぎた「顔」から出ていくことが必要になってくる。
出ていくためには「足」が必要だ。そして、出入り口として「窓」が必要だ。なぜドアではないかというと、ドアは出たり入ったりするものだから、出ていったとしても戻って来なくてはならない。それでは「出ていく」意味がない。出て行って、二度と戻って来ないために、出入り口ではない「場」を利用しなければならない。
それが、窓。
わざと「窓」を選んで出ていくのである。
これは2連目である。
ふいに「足」から「手」へ肉体が移行する。
そうすると、そこに、まったく別のひとがあらわれてくる。「波むこうに暮らしているひと」。
それはタケイが夢見た誰かなのか、それとも1連目がその誰かが見たタケイの夢なのか--突然、わからなくなる。
「主語」が交代して、そのことによって「肉体」もかわってしまう。
これは「手が枝のようになった」ということだろうか。だが、それは自然に「なる」のではない。「する(した)」。企んで、そうしたのである。
「窓から出ていくための足」を探したあと、タケイは「手を枝にする」。
この「肉体」に対する負荷というか、かかわり方が、とてもおもしろい。「肉体」でありながら「肉体」ではない。そして、「肉体」でないことによって、いっそう「肉体」の感じが強くなる。
こんな譬えが通用するのかどうかわからないが(つまり、タケイを含めほかのひとにわかってもらえるかどうかわからないが)、私は、そこに書かれている「肉体」を、不思議な共感で見つめてしまった。ちょうど、道にうずくまって、うめいている肉体を見たとき、あ、この人は腹が痛くて苦しんでいると感じてしまうように、「足を探す」「手を枝にする」に反応してしまったのである。
自分から「出ていく」、そして、そのくせ「手を枝にし」て動かない。--これでは「矛盾」なのだが、その矛盾が、肉体を逆に目覚めさせる。
その目覚めた肉体は、もう「タケイの肉体」ではない。「波のむこうに暮らしている」ひとの「肉体」に共感し、ふいに、また主語が変わるのだ。
路上にうずくまっている人を見た瞬間、「私」が「私」であることを忘れ、まったくの他人の「肉体」が「私」のなかに生まれるように、その「肉体」に共感するように。
「手を枝にした」はずなのに、「カーディガンが熟れて」いるのを「手」を通して感じてしまう。その「手」はそのとき「枝」ではなく、「生白い腕」になっている。「枝」としての「手」ではなく、「生白い腕」に生まれ変わって、「カーディガンが熟れて」いると感じてしまう。
私の書いていることは「時間」の流れを無視しているかもしれない。
だが、時間などというものは、「肉体」にとっては、「流れ」など存在しない。「肉体」が感じる「時間」は流れない。過去も未来もない。「いま」だけがあり、その「いま」のなかに過去も未来も瞬間的にあらわれるだけである。
あ、タケイの詩から、離れすぎてしまったかもしれない。タケイのことばを無視して、私は私の考えていることを勝手に書いているのかもしれない。
でも、そうでもないかもしれない。
この、「肉体」の変な(?)表現、そしてそこに「時間」ということばが出てくること--これをていねいに語りなおせば、私は勝手なことを書いているのではないということを「証明」できるかもしれない。でも、きっと、それは強引な「誤読」になってしまうなあ。
もったタケイのほかの作品を読んでから、あらためて考えみたい。
タケイ・リエ「湿潤」は何を書いているのかよくわからないのだが、ふいに、ことばに引き込まれてしまう瞬間がある。
ひとが眠っているあいだしろい波はいつまでも砕けた
波音にからだをひたし揺らした水面に顔がうつりこんで
いくつものいくつもの顔が溜まってあかるく
月に照らされて窓からでてゆくための足を探す
「ひとが眠っているあいだ」と書き出されているから、これは夢を描いているのかもしれない。実際、夢でみる世界のように、視点が形を失くすように流動していく。そのために1行1行はわかったような気持ちにはなるけれど、何がわかったのか、よくわからない。
それでも、まず「からだ」の全体と「波音」がとけあっているのがわかる。そして、そこからまず視点が「顔」に動いていくこともわかる。次に視点は「足」へと動いていくのだが、「主語」が「からだ」→「顔」→「足」と動いたとき、
窓からでてゆくための足を探す
ふいに、何かがねじれる。「足をさがす」? 足は探さないとないものなのか。そんなことはない。「からだ」の一部として、確実に存在している。ある。それでも、それを探すのは、実は「足」を探すというよりも「出ていく」ということといっしょにある「足」のあり方を探しているのだ。
「出ていく」ためには「足」が必要なのだ。
「砕ける」海。その「波音」を聞きながら、タケイ(と仮に呼んでおく)は眠っている。眠りのなかで、タケイはまるで浴槽にいるかのように「波音」という「水」にからだをひたしている。そして、その「水」に「顔」が映っているのを見る。その「顔」は、もうすでに溜まりすぎている。
だから。
たぶん、だから、その溜まり過ぎた「顔」から出ていくことが必要になってくる。
出ていくためには「足」が必要だ。そして、出入り口として「窓」が必要だ。なぜドアではないかというと、ドアは出たり入ったりするものだから、出ていったとしても戻って来なくてはならない。それでは「出ていく」意味がない。出て行って、二度と戻って来ないために、出入り口ではない「場」を利用しなければならない。
それが、窓。
わざと「窓」を選んで出ていくのである。
暗やみをのぞきこんだあとは手を枝にした
波むこうに暮らしているひとのカーディガンは熟れて
袖が油のように膨らんで生白い腕を通している
電車に乗りこむとき少しずつ焼けてゆく
これは2連目である。
ふいに「足」から「手」へ肉体が移行する。
そうすると、そこに、まったく別のひとがあらわれてくる。「波むこうに暮らしているひと」。
それはタケイが夢見た誰かなのか、それとも1連目がその誰かが見たタケイの夢なのか--突然、わからなくなる。
「主語」が交代して、そのことによって「肉体」もかわってしまう。
手を枝にした
これは「手が枝のようになった」ということだろうか。だが、それは自然に「なる」のではない。「する(した)」。企んで、そうしたのである。
「窓から出ていくための足」を探したあと、タケイは「手を枝にする」。
この「肉体」に対する負荷というか、かかわり方が、とてもおもしろい。「肉体」でありながら「肉体」ではない。そして、「肉体」でないことによって、いっそう「肉体」の感じが強くなる。
こんな譬えが通用するのかどうかわからないが(つまり、タケイを含めほかのひとにわかってもらえるかどうかわからないが)、私は、そこに書かれている「肉体」を、不思議な共感で見つめてしまった。ちょうど、道にうずくまって、うめいている肉体を見たとき、あ、この人は腹が痛くて苦しんでいると感じてしまうように、「足を探す」「手を枝にする」に反応してしまったのである。
自分から「出ていく」、そして、そのくせ「手を枝にし」て動かない。--これでは「矛盾」なのだが、その矛盾が、肉体を逆に目覚めさせる。
その目覚めた肉体は、もう「タケイの肉体」ではない。「波のむこうに暮らしている」ひとの「肉体」に共感し、ふいに、また主語が変わるのだ。
路上にうずくまっている人を見た瞬間、「私」が「私」であることを忘れ、まったくの他人の「肉体」が「私」のなかに生まれるように、その「肉体」に共感するように。
「手を枝にした」はずなのに、「カーディガンが熟れて」いるのを「手」を通して感じてしまう。その「手」はそのとき「枝」ではなく、「生白い腕」になっている。「枝」としての「手」ではなく、「生白い腕」に生まれ変わって、「カーディガンが熟れて」いると感じてしまう。
私の書いていることは「時間」の流れを無視しているかもしれない。
だが、時間などというものは、「肉体」にとっては、「流れ」など存在しない。「肉体」が感じる「時間」は流れない。過去も未来もない。「いま」だけがあり、その「いま」のなかに過去も未来も瞬間的にあらわれるだけである。
あ、タケイの詩から、離れすぎてしまったかもしれない。タケイのことばを無視して、私は私の考えていることを勝手に書いているのかもしれない。
でも、そうでもないかもしれない。
舌を忘れた顔で耳をたてていた
こしからあしのつまさきまでとても長かった
わたしの窪みが飼われる時間 いまだに慣れない
この、「肉体」の変な(?)表現、そしてそこに「時間」ということばが出てくること--これをていねいに語りなおせば、私は勝手なことを書いているのではないということを「証明」できるかもしれない。でも、きっと、それは強引な「誤読」になってしまうなあ。
もったタケイのほかの作品を読んでから、あらためて考えみたい。