詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

タケイ・リエ「湿潤」

2011-09-24 09:13:04 | 詩(雑誌・同人誌)
タケイ・リエ「湿潤」(「Aa」4、2011年09月発行)

 タケイ・リエ「湿潤」は何を書いているのかよくわからないのだが、ふいに、ことばに引き込まれてしまう瞬間がある。

ひとが眠っているあいだしろい波はいつまでも砕けた
波音にからだをひたし揺らした水面に顔がうつりこんで
いくつものいくつもの顔が溜まってあかるく
月に照らされて窓からでてゆくための足を探す

 「ひとが眠っているあいだ」と書き出されているから、これは夢を描いているのかもしれない。実際、夢でみる世界のように、視点が形を失くすように流動していく。そのために1行1行はわかったような気持ちにはなるけれど、何がわかったのか、よくわからない。
 それでも、まず「からだ」の全体と「波音」がとけあっているのがわかる。そして、そこからまず視点が「顔」に動いていくこともわかる。次に視点は「足」へと動いていくのだが、「主語」が「からだ」→「顔」→「足」と動いたとき、

窓からでてゆくための足を探す

 ふいに、何かがねじれる。「足をさがす」? 足は探さないとないものなのか。そんなことはない。「からだ」の一部として、確実に存在している。ある。それでも、それを探すのは、実は「足」を探すというよりも「出ていく」ということといっしょにある「足」のあり方を探しているのだ。
 「出ていく」ためには「足」が必要なのだ。
 「砕ける」海。その「波音」を聞きながら、タケイ(と仮に呼んでおく)は眠っている。眠りのなかで、タケイはまるで浴槽にいるかのように「波音」という「水」にからだをひたしている。そして、その「水」に「顔」が映っているのを見る。その「顔」は、もうすでに溜まりすぎている。
 だから。
 たぶん、だから、その溜まり過ぎた「顔」から出ていくことが必要になってくる。
 出ていくためには「足」が必要だ。そして、出入り口として「窓」が必要だ。なぜドアではないかというと、ドアは出たり入ったりするものだから、出ていったとしても戻って来なくてはならない。それでは「出ていく」意味がない。出て行って、二度と戻って来ないために、出入り口ではない「場」を利用しなければならない。
 それが、窓。
 わざと「窓」を選んで出ていくのである。

暗やみをのぞきこんだあとは手を枝にした
波むこうに暮らしているひとのカーディガンは熟れて
袖が油のように膨らんで生白い腕を通している
電車に乗りこむとき少しずつ焼けてゆく

 これは2連目である。
 ふいに「足」から「手」へ肉体が移行する。
 そうすると、そこに、まったく別のひとがあらわれてくる。「波むこうに暮らしているひと」。
 それはタケイが夢見た誰かなのか、それとも1連目がその誰かが見たタケイの夢なのか--突然、わからなくなる。
 「主語」が交代して、そのことによって「肉体」もかわってしまう。

手を枝にした

 これは「手が枝のようになった」ということだろうか。だが、それは自然に「なる」のではない。「する(した)」。企んで、そうしたのである。
 「窓から出ていくための足」を探したあと、タケイは「手を枝にする」。
 この「肉体」に対する負荷というか、かかわり方が、とてもおもしろい。「肉体」でありながら「肉体」ではない。そして、「肉体」でないことによって、いっそう「肉体」の感じが強くなる。
 こんな譬えが通用するのかどうかわからないが(つまり、タケイを含めほかのひとにわかってもらえるかどうかわからないが)、私は、そこに書かれている「肉体」を、不思議な共感で見つめてしまった。ちょうど、道にうずくまって、うめいている肉体を見たとき、あ、この人は腹が痛くて苦しんでいると感じてしまうように、「足を探す」「手を枝にする」に反応してしまったのである。

 自分から「出ていく」、そして、そのくせ「手を枝にし」て動かない。--これでは「矛盾」なのだが、その矛盾が、肉体を逆に目覚めさせる。
 その目覚めた肉体は、もう「タケイの肉体」ではない。「波のむこうに暮らしている」ひとの「肉体」に共感し、ふいに、また主語が変わるのだ。
 路上にうずくまっている人を見た瞬間、「私」が「私」であることを忘れ、まったくの他人の「肉体」が「私」のなかに生まれるように、その「肉体」に共感するように。
 「手を枝にした」はずなのに、「カーディガンが熟れて」いるのを「手」を通して感じてしまう。その「手」はそのとき「枝」ではなく、「生白い腕」になっている。「枝」としての「手」ではなく、「生白い腕」に生まれ変わって、「カーディガンが熟れて」いると感じてしまう。
 私の書いていることは「時間」の流れを無視しているかもしれない。
 だが、時間などというものは、「肉体」にとっては、「流れ」など存在しない。「肉体」が感じる「時間」は流れない。過去も未来もない。「いま」だけがあり、その「いま」のなかに過去も未来も瞬間的にあらわれるだけである。

 あ、タケイの詩から、離れすぎてしまったかもしれない。タケイのことばを無視して、私は私の考えていることを勝手に書いているのかもしれない。
 でも、そうでもないかもしれない。

舌を忘れた顔で耳をたてていた

こしからあしのつまさきまでとても長かった
わたしの窪みが飼われる時間 いまだに慣れない

 この、「肉体」の変な(?)表現、そしてそこに「時間」ということばが出てくること--これをていねいに語りなおせば、私は勝手なことを書いているのではないということを「証明」できるかもしれない。でも、きっと、それは強引な「誤読」になってしまうなあ。
 もったタケイのほかの作品を読んでから、あらためて考えみたい。
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江夏名枝『海は近い』(4)

2011-09-23 23:59:59 | 詩集
江夏名枝『海は近い』(4)(思潮社、2011年08月31日発行)

 私は江夏のことばに「深入り」しすぎているかもしれない。と、思いながらも、そこから引き返すのではなく、さらに深入りしたい気持ちでいっぱいになる。
 少し視点を変えてみる。
 「4」の部分。

 誰かが立ち去ってしまった空席にまだ体温が残る、泥濘んだ時間を乗り換えて、部屋へ戻る。

 この1行の、「複製」の連鎖がとてもおもしろい。
 「空席」が「まだ体温が残る」と描写されているのだが、このとき「描写」は「複製」である。「空席(椅子)」が形(視覚)で描写されるのではなく「触覚(体温)」で「複製」される。「空席」という「もの(存在)」は「視覚」によって定義されるのだが、それが「触覚」で「複製」されると、その「場(ここ)」に「残る」という運動が侵入してくる。
 この「残る」とは、なんだろう。
 それだけでは、わからない。けれど、「残る」が「泥濘んだ」と「複製」されると、「動く-動かない」、「ゆっくり動く」というような、「遅滞」に属することがらが「複製」され、そこから「時間」がさらに「複製」される。
 「残る」のなかには「時間」がある。
 そう気づいた瞬間、ことばは、最初に引き戻されてしまう。

 誰かが立ち去ってしまった

 その「過去形」。「過去形」というのは「時間」とともにある。
 あ、「空席」というのは、それ自体がすでに「複製」であったのか。
 「立ち去った」という「時間」の「複製」が「空席」である。「空席」が「体温が残る」と複製され、「体温が残る」が「泥濘んだ時間」と「複製」される。「時間」ということばに変えることでひとつの「円環」になる。
 「複製」は「円環」なのである。「円環」をまわりつづける「時間」でもある。「円環(場、ここ)」と「時間」は重なり、閉じられていくのである。
 と書いて……。
 あ、これは「4」の書き出しではないか。

 生きているものの内にしかない隙間をなぞっては、何も明らかにならない円環にとじられていく。

 これはまた、「くちびるの声がくちびるを濡らし」というときの「くちびる」の繰り返し、その「円環」運動そのものでもある。
 どこまで行っても、ただ「戻る」のである。

 ここで、とてもおもしろいのは、

 誰かが立ち去ってしまった空席にまだ体温が残る、泥濘んだ時間を乗り換えて、部屋へ戻る。

 この行の「乗り換えて」である。
 「複製」しつづけるとき、江夏はただ「複製」するだけではないのだ。「複製」しながら、同時に「複製」を超えるために、意識して、そこに「移動」を持ち込む。
 これは「円環」を「螺旋」運動に変える方法かもしれない。
 「海は近い」という詩は「1」「2」「3」「4」……とそれぞれの断章に番号がふられているが、この番号が「乗り換え」という操作かもしれない。
 これはしかし、江夏の「意識」の問題である。江夏は「乗り換える」のだが、読んでいる私にはその「乗り換え」は、やはり「複製」に見えてしまう。

 この「4」の部分には、次の魅力的なことばもある。

 なにも変わらない。軽い疲労が降ってくることにも親しみを感じ、読みさしの本をひらいた。
 記述された言葉を辿って本をとじた瞬間へと戻ってゆく、その時間の軸を確かめると、にぶい振動にも似た不安が砕ける。

 「にぶい振動にも似た不安が砕ける。」は性急なことばで、ちょっと江夏らしくないと思うのだが、「なにも変わらない」というのは、その通りだと思う。変わりようがないのだ。本のなかの「時間の軸」のように、変わりようがないのだが……。
 (私は、ここで、ちょっと飛躍しようと思う。)

記述された言葉を辿って本をとじた瞬間へと戻ってゆく、その時間の軸を確かめると、

 これが、おもしろい。この文がおもしろい。
 「戻ってゆく」の「主語」は何? だれ? 「確かめる」の「主語」は何? だれ?
 「私」が「主語」なのか。もし、「戻ってゆく」と「確かめる」の「主語」が同じならば--たとえば「私(江夏)」ならば、そのとき「戻ってゆく」は「戻ってゆき」となるのが普通ではないだろうか。
 でも江夏は「戻ってゆく」と書いている。
 「戻ってゆく」は「終止形」? それとも「連体形」? 句点「。」ではなく読点「、」でつながっているのだから「連体形」だろう。基本的には「連体形」のあとの「、」はいらない。というか、「、」があると「連体形」であるかどうかわからない。というか、何か、ごっちゃになってしまうのだが……。
 「連体形」であると、「戻ってゆく」のは「その時間(の軸)」になる。読みかけの本を読むとき、「私(江夏)」がその本のなかの時間(の軸)にもどると同時に、本のなかの「時間」(江夏とともに、どこかへ「乗り換えて」行っていた時間)もまた、もどるのだ。
 「主語」は「私(江夏)」であると同時に、「本」の「時間(の軸)」でもある。
 「本」というのは「言葉」が集まっている「場」である。
 なにやら、「私(江夏)」「言葉」「時間」が、「戻る」という行為のなかで「複製」されて、「主語」を入れ換えても同じように見える。
 「乗り換え」もまた「複製」なのである。「円環」なのである。読点「、」は「乗り換え」の瞬間の、列車の(駅の)ホームのような「場」である。


海は近い
江夏 名枝
思潮社
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江夏名枝『海は近い』(3)

2011-09-22 23:59:59 | 詩集
江夏名枝『海は近い』(3)(思潮社、2011年08月31日発行)

 「2」の前半。

 聴くでもなく聴く。

 濡れた砂の上で取り交わされた、声にならない閉ざされた言葉と言葉。水際に漂うのは、高まりを見せて、やがて静かになり離れてゆく、誰かの捨てた風景のかけらであったのかも知れない。その風景に見捨てられた、誰かの言葉であったのかも知れない。

 「聴くでもなく聴く」というのは、意識を集中しないでぼんやりと聴く状態をさすのが一般的だが、江夏は、少しちがった意味でつかっているよう感じられる。「ぼんやり」という意識の「場」の状態をあらわすことよりも、「なく」(ない)という「否定」によって同じことばを繰り返すことの方に、書きたいことが動いているように感じられる。
 最初の「聴く」が「なく(ない)」によって否定され、もうひとつの「聴く」を誘い出す。ことばとしては、そっくりの「聴く」なのに、そこには違いがある。その違いを強調するために「なく(ない)」という否定がある。--「否定」によってつくりだされた、もうひとつの「聴く」。
 何かを否定し、それを「複製」すれば、そこに「ほんもの」と「複製」の、「複製」をつくりあげたもの(江夏)にしかわからない「差」が生まれる。その「差」をのありかを江夏は「1」では「ここ」と呼んでいたのだが、これはいつでも存在する「場」ではない。それは、「ほんもの」と「複製」があると意識する瞬間にだけ「現れる」(このことばも「1」に出てきた)のである。「意識する瞬間だけ」と限定せざるを得ないのは、ことばにおいて「ほんもの」と「複製」の違いはないからである。
 いいかえると、

 聴くでもなく聴く。

 ということばの「聴く」に、とりえあず識別のために、

 聴く(1)でもなく聴く(2)。

 と番号を降ってみて、それを、

 聴く(2)でもなく聴く(1)。

 と、入れ換えてみる。この(1)(2)はほんらい存在しないものだから、次に、その番号を消して見る。そうすると、

 聴くでもなく聴く。

 オリジナルとまったく同じものができあがってしまう。いま、私がやってみたことなど、何の痕跡も残らない。ただ、やってみた「私(谷内)」が、違いを意識できるだけである。
 そういうことがおきる「場」としての「ここ」がある。「ほんもの」と「複製」を意識するときにだけ生まれる「ここ」がある。

 こんなことは、いくら書いても堂々巡りのような、いっこうに生産性のないことなのだが、生産性とは無縁なところにあるのが、詩、なのかもしれない。
 --というような乱暴なことは言わずに、江夏は、ていねいにていねいに、「ほんもの」と「複製」を出会わせることで、「ここ」という「場」の哲学を追いかける。

 濡れた砂の上で取り交わされた、声にならない閉ざされた言葉と言葉。

 この文の、後半部分はとてもおもしろい。「声にならない閉ざされた言葉と言葉」。これは、このまま、わかるはわかるが、というか、わかったような気がするが、ほんとうにわかっているかと問われると、私には、どうも「あやしい」。
 こういう言い方をする?
 私なら、「言葉にならない声と声」と言う。「声」を出すのだが、それは「明瞭な言葉」にはならい。「あー、うー」という「音」だけがもれる。舌が動かない。喉が動かない。夢でうなされて、あげてしまう声のようなものだ。これは、私は何度も経験したことがある。だから、わかる。
 ところが江夏の書いているのは、「言葉にならない声」ではない。
 「声にならない言葉」とはどういうものだろうか。意識のなかには「言葉」があるが、それが「声」(肉体)にならない、つまり「肉体」の奥にありつづけるということだろうか。そこでは、「意識」は目覚めている。そして、その意識は「肉体」に働きかけることを放棄している。
 「意識」は「肉体」を必要としていない。

 「意識」は「肉体」を必要としていない。--ここから、江夏の書いている「ここ」というのは「現実」の「場」(つまり「肉体のある場」)ではなく、あくまで「意識」のなかに現われてくる「場」である、ということができるだろう。
 (と、とりあえず、書いておく。)

 「ここ」が「意識の場」であるから、そこにおける「複製」もまた「意識」に属することがらである。「肉体」には属さない。

声にならない閉ざされた言葉と言葉。

 これは、とても象徴的な「言い方」である。「声」が「言葉」という単語で「複製」されている。「声」は「肉体」をとおって出てくる。だから、「声」というのは、どんなにたくみに「複製」しても、どことなく「違っている」。「肉体」の刻印が残る。だが、「言葉」はあくまで「意識」であるから、それを複製しても、そこには意識の刻印は残らない。いや、複製した本人の意識には刻印は残るだろうが、他人には刻印がわからない。「ほんもの」と「複製」を入れ換えても、区別がつかない。
 その「区別のつかない」ことがらのなかに、ほんとうは区別があるのだ、あらゆる「諧調」というか、連続しながら違っている何かがあるのだ、ということを、江夏は違った表現で、具体的に再現して見せる。

水際に漂うのは、高まりを見せて、やがて静かになり離れてゆく、誰かの捨てた風景のかけらであったのかも知れない。その風景に見捨てられた、誰かの言葉であったのかも知れない。

 かりに「誰かの捨てた風景のかけら」を「ほんもの」としてみるとき、その「複製」は「風景に見捨てられた、誰かの言葉」になる。「風景のかけら」が「言葉」によって複製される。
 「声」が「言葉」によって、意識の内部で「複製」されるように。
 「声」「言葉」という「単語」だけで「複製」を問題にしているときは、「ほんもの」と「複製」の「違い(ずれ)、刻印」というものは見えにくいが、「文章」にしてことばを組み合わせると、違いが浮かび上がる。複数のことばのなかを動く意識--その意識の軌道(?)の違いのようなものがどうしてもそこに刻印されるからである。
 ことばのなかを動く意識の運動--その動きをていねいに再現することで、江夏は「ほんもの」と「複製」の「ずれ」と、その「ずれ」が現われる「ここ」を明示する。
 より具体的に言うと……。
 「誰かの捨てた風景」「風景に見捨てられた、誰かのことば」ということばの運動のなかでは、「捨てた」「(見)捨てられた」と動詞の動きが違ってくる。「主語」(というべきか、主題というべきか……)が違ってくると、動詞が違ってくる。「主語」を「複製」するとき、たとえば「声」を「言葉」という具合に「形」を変えて「複製」すれば、それにしたがって「動詞」の「複製」も形を変える。
 その変化が「ほんもの」と「複製」の違い、というか、刻印・痕跡である。
 それは、意識の運動する「ここ」に、意識が運動する「とき」だけ、あらわれる。
 江夏の書いている「ここ」は「場」であると同時に、「時間」でもある。

 このことは、ここで考えるのをやめると、そのまますっきりと落ち着くことなのかもしれないが……。
 私はさらに考えてしまうのである。

 「風景のかけら」。これは、特別めずらしい表現ではないけれど--それって、「現実」? 違うでしょう? 風景はたしかにある。しかし、それは「かけら」ではない。「かけら」はあくまで「意識」が処理した結果である。「風景のかけら」はすでに「言葉」なのだ。すでに「複製」されたものなのだ。
 「ほんもの」は最初からないのだ。

 そうすると、どうなるだろう。
 「1」にもどってみると、どうなるだろう。

 くちびるの声がくちびるを濡らし、青はまた鮮やかになる。

 書き出しの「くちびる」は「ほんもの」? 最初から「複製」ではないのか。
 だいたい江夏は「くちびる」と書いていない。「くちびるの声」と書いている。「くちびる」と「声」が「の」ということばでつなぎ合わされた瞬間から、もう、「複製」だけの世界になっているのである。
 「波打ち際」も「波打ち際」という「現実」ではなく、「波打ち際」と「言葉」で「複製」されたものなのである。

 波打ち際に辿りついて、ここに現れるのは、あらゆる心の複製である。

 この1行は、

 複製に辿りついて、ここに現れるのは、あらゆる心の複製である。

 ということになる。




海は近い
江夏 名枝
思潮社
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江夏名枝『海は近い』(2)

2011-09-21 23:59:59 | 詩集
江夏名枝『海は近い』(2)(思潮社、2011年08月31日発行)

 「1」の部分で書き漏らしたことがある。

 くちびるの声がくちびるを濡らし、青はまた鮮やかになる。
 波打ち際に辿りついて。

 波打ち際に辿りついて、ここに現れるものは、あらゆる心の複製である。

 最後の行の「ここ」。「ここ」とは「どこ」か。
 ことばをそのまま読めば「波打ち際」である。「辿りつい」た場所である。
 だが、「波打ち際」が「心の複製」が「あらわれる」「場」ではない。「波打ち際」に「あらゆる」とわざわざ書かれている「心の複製」があらわれるわけではない。
 では、どこか。
 「くちびるの声がくちびるを濡らし」というときの「くちびる」と「くちびる」のあいだが「ここ」である。最初の「くちびる」の複製が、2度目の「くちびる」である。最初の「くちびる」を複製し、「複製のくちびる」が、「新しい主題」になる。その「移行の場」が「ここ」である。ことばの運動、意識のなかにだけ出現する「場」が「ここ」である。
 最初の「青」があり、それが「また」ということばで複製され、「複製された青」のなかで、「青」が「鮮やかになる」。これは、最初の(本物の?)存在よりも、複製の方が(つまり、ことばによって言いなおされたものの方が)、より「鮮やかになる」ということである。
 そういう運動が起きている「場」が「ここ」。
 「もの(存在)」がことばによって「複製」され、その「複製」をさらにことばによって「複製」していくとき、その運動のなかから「複製」という概念が無効になる。増幅する「複製」のなかでは、どれがどの「複製」かわからない。1番目と2番目の「複製」には区別がない。そして、その「区別」がないことが、ことばの運動を純粋化する。「もの(存在)」とは無関係な「純粋運動」を浮かび上がらせる。この「純粋化」が「鮮やかになる」ということである。
 それは「もの(存在)」と「複製」の「あいだ」から生まれ、さらに「複製」と「複製の複製」の「あいだ」へと動いていく。最初の「あいだ」と次の「あいだ」の区別も、また、なくなってしまう。
 それが「ここ」と呼ばれている「場」である。

 同じことばばかりを繰り返しているので、何が何かわからない--と、言われてしまいそうだが、そう言うしかないのである。
 「ことば」は「デジタル」であるか「アナログ」であるか、よくわからないが、ある意味で「デジタル」である。つまり、「複製」によって「劣化」しない。
 だから、ややこしいことがおきる。
 冒頭の1行にもどってみるとよくわかる。

 くちびるの声がくちびるを濡らし、

 最初の「くちびる」と2回目の「くちびる」には、まったく違いが認められない。見かけは、完璧に同じである。その完璧に同じもの(デジタルの差異が存在しない状態)の一方が「ほんもの(の存在)」であり、他方が「ことば(という複製)」であるということを証明(?)するには、それを「分離」してはならない。あくまで、

 くちびるの声がくちびるを濡らし、

 という形で存在させなければならない。
 そうやって「文章」にしたときに生まれる、最初の「くちびる」と次の「くちびる」の「あいだ」--それが「ここ」になるのだが、その「ここ」は、この文では「声」に乗っ取られ、「濡らし」という具合に動いていく。
 「あいだ」のなかには、「くちびる」とは別の「もの(そして、ことば)」と「運動」がある。そして、そこに「もの」、そして「ことば」があるかぎり、そこではさらに「複製」がおこなわれることになる。
 その結果「あらゆる」ということが起きてしまう。
 このことは、詩の構造自体が、一種の「複製」になっていることからも、証明(?)できる。

 くちびるの声がくちびるを濡らし、青はまた鮮やかになる。
 波打ち際に辿りついて。

 波打ち際に辿りついて、ここに現れるものは、あらゆる心の複製である。

 2行目の「波打ち際に辿りついて」が、1行空きのあと「波打ち際に辿りついて」と複製される。
 この詩の場合、ふたつの「波打ち際に辿りついて」の「あいだ」には、眼で見える「1行空き」という「あいだ」がある。その「あいだ」のなかで、あらゆることがおきる。
 それが「ここ」なのだ。

 私の「ここ」をめぐることばは、ちっとも先へ進まないが、これは仕方がない。私は江夏のことばを「複製」しながら書いているのだが、そのとき「江夏のことば」が一方にあり、もう一方に「私が複製したことば」があり、その「私が複製したことば」を「また」「私のことばが複製する」からだ。
 --ここにあるのは、はしょって言ってしまうと、ことばを書くということがあるだけである。
 ことばを書く--そこが、「ここ」。そして、「ここ」では「心の複製」が生まれつづけるということである。

 (あすこそは、「2」の部分に進みたい。)


海は近い
江夏 名枝
思潮社
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江夏名枝『海は近い』

2011-09-20 23:59:59 | 詩集
江夏名枝『海は近い』(思潮社、2011年08月31日発行)

 書き出しの1行から、あ、詩だ、と感じることばがある。最初のページをめくった瞬間から、あ、いい詩集だと感じる本がある。
 江夏名枝『海は近い』は、そういう詩集である。
 「海は近い」は長い詩である。その冒頭。「1」。

 くちびるの声がくちびるを濡らし、青はまた鮮やかになる。
 波打ち際に辿りついて。

 波打ち際に辿りついて、ここに現れるものは、あらゆる心の複製である。

 私は、実は、このページ、この3行(行空きを含めて4行というべきか)しか読んでいない。そして、感想を書きはじめている。
 どのことばが、私を誘っているのか。

 くちびるの声がくちびるを濡らし、青はまた鮮やかになる。

 「くちびる」の繰り返しが、読んだ瞬間から、詩を感じさせるのである。最初の「くちびる」は、まあ、実際の「肉体」のくちびるだろう。その声が「くちびる」を濡らすというとき、2回目に書かれている「くちびる」はどこにあるのか。
 「肉体」ではないところにある、と感じる。
 では、どこ?
 「くちびる」という「ことば」、あるいは「概念」といえばいいのか。あるものを名付ける行為のなかで動いている何かである。

 こういうことは、書いていくのが、とても面倒である。
 もっと先まで読み進んで、書きたいことがはっきりしてから書き直せば、もっとわかりやすく書けることなのかもしれない。けれど、整理してから書くのではなく、ことばに出会ったときの驚きのままに、江夏のことばについていってみたい--そういう気持ちに駆り立てられて、こうやって書いている。

 冒頭の「くちびる」と2回目の「くちびる」は同じものではない。そこに、何か違いがある。その違いを、私は2回目の「くちびる」は「ことば」だと書いた。つまり、江夏の(と、とりあえず、書いておく)「肉体」ではなく、「肉体」ではないもの、と考えた(感じた)。
 肉体の「くちびる」と、ことばの「くちびる」は、本来、「いっしょ」である。つまり肉体の「眼」を「くちびる」ということばで呼ぶということはしない。あくまで「くちびる」を「くちびる」と呼ぶ、という意味で、それは「イコール」でなくてはならないはずである。
 けれど、江夏の詩を読むと、そこには「イコール」以外のものがある。
 というか、「イコール」ではないということを考えないと、書き出しの1行はとても変である。変ではないとしたら、「へたくそ」である。「声がくちびるを濡らし」と書けばすむはずである。わざわざ繰り返す必要はない。
 なぜ、繰り返したのか。
 わからない。
 わからないから、私は、わからないことについて考えてみる。

 「声が」というのが「主語」になる。「くちびる」が「主語」だと思っていたら、そこに突然「声」という主語が割り込み、「くちびる」を補語にして、「濡らし」という「動詞」が「述語」になり、「声が-濡らした」という世界を作り上げる。
 「くちびる」はあらわれながら、消えていく。あらわれたと思ったら、消えていく。その瞬間的な、生起の変化が、おっ、詩だ、と感じさせるのだ。
 詩は、つかまえにくい。あらわれたと思ったら、消えている。ことばにしようとしたら消えてしまっていて、どこにもない--そういう感じととても似ている。

 くちびるの声がくちびるを濡らし、

 このことばのなかに、そういうものが象徴的に書かれている。
 それにつづくことばも、またまた不思議で、そして美しい。

 青はまた鮮やかになる。

 「青」って何? 「くちびる」の色? くちびるは、ふつうは「青」ではない。けれど、私には、なぜか「声」にぬれて(唾にぬれてではない)、青くなったくちびるが見える--ではなく、くちびるは見えず、ただ「青」という色が見える。
 わからないまま、「青」に吸い込まれてしまう。それも「鮮やかにな」った「青」である。いや、「鮮やかになる」という、その「なる」の、不思議な運動である。
 その「主語」は(主語というと、説明がめんどうくさくなるが、主語である)、「また」が指し示している何かである。「くちびる」が1行目の「仮の主語」であったように、別の主語があり、もうひとつ「また」で繰り返される主語がある。それが「鮮やかになる」という「述語」で閉じられる。「くちびる」という仮の主語が「声が-濡らす」と閉じられたように……。
 そんな具合にして「また」に含まれている「主語」は、どこかへ何の抵抗もなく、つまりどんな痕跡というか、傷跡もなく消えていく。
 (「あおはまたあざやかになる」という音のなかにある「あ」の音のゆらぎに誘われて、私は、ことばの「意味」も考えずに、ただ、ああ、これはいいなあ、いい音だなあと感じている。--書き忘れそうになるので、書いておく。)
 このときは、もう「また」「くちびる」は、どこかへ消えている。

 波打ち際にたどりついて。

 あ、これは、倒置法の文なのか。「くちびるの声がくちびるを濡らし、波打ち際にたどりついて、青はまた鮮やかになる」。「くちびるがの声がくちびるを濡らした。波打ち際にたどりついたら、海の青はまた鮮やかな青になる」ということなのか。
 あ、意味はどうでもいいのだ。
 ここでも私が感じるのは、あることばがあらわれ、あらわれたと思ったら、ふっと消えていくその運動のあり方に強く引きつけられるのである。
 「青はまた鮮やかになる。」ということばは「波打ち際にたどりついて。」ということばが書かれた瞬間、どこかに消えてしまう。「海」、あるいは「海の青」ということばがその消えていったことばを追いかけるようにして動くけれど、まるで光か潮風のように、とらえどころがない。「ある」といえば「ある」が、それを「肉体」でつかまえることができない。

 これは、いったい、何?

 最初の2行を、江夏は、繰り返している。言いなおしている。

 波打ち際に辿りついて、ここに現れるものは、あらゆる心の複製である。

 「ここに現れるもの」とは、1行目の、2度目の「くちびる」であり、「また鮮やかになる」の「また」に含まれている「仮の主語」である。あるいは、「仮の主語」というより、何かを名前で呼ぶという行為そのものかもしれない。
 何か、ここに「もの(存在)」がある。それを名づける。名前で呼ぶ。名前で読んだ瞬間、そこには「もの」と「ことば」が同時に存在するのだが、それは何かの運動のなかに組み込むと、消えてしまう。何も残らない。

 いや、そうではなく。

 残っている。--たとえば、この詩を読みながら、私は、江夏の「ことば」を読んだということをおぼえている。
 その「おぼえていること」、それを江夏は「心の複製である」と言っているのか。
 あるいは、2度目の「くちびる」、2度目の何か(また、で繰り返された「主語」)を「心の複製である」と言っているのか。
 わからないが--つまり、断定はできないが、私は、そう考えはじめている。
 そして、「心の複製」を「心がつくりがした複製」というよりも、「心」そのものの「複製」ではないか、と感じはじめている。

 --そんなことは、どこにも書いていない。
 かもしれない。
 でも、そう感じてしまうのだ。

 「海は近い」というタイトルを手がかりに、そうして「波打ち際にたどりついて」ということばを手がかりに考えると、江夏は、海へ向かいながら(海へ向けて肉体を動かしていきながら)、そのとき感じた何かをことばにする--そうして、そのとき動いたことばを「心の複製」と感じているということなのか……。
 「2」以下は、「心の複製」が繰り返される世界なのか、と私は想像するのである。


海は近い江夏 名枝思潮社
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橘上『YES(or YES)』

2011-09-19 23:59:59 | 詩集
橘上『YES(or YES)』(思潮社、2011年07月15日発行)

 まったくの「空想論」の類に属してしまうのだが、私は、ひそかに感じていることがある。日本語は「ひらがな」の発明によって音が変わってしまった。『万葉集』の時代には、日本語は音しかなかった。その音を記録するために中国から漢字を借りてきた。この時代の音は、なんともいえず、肉体の奥を刺激する。えっ、日本語というのはこんな深いところから生まれてくるのか、という驚きである。何か聞こえない音があって、それが肉体を突き破ってくる衝動のようなものがある。--これは、まあ、私の「感覚」なので、これ以上説明のしようがない。
 この衝動のようなものが、「ひらがな」の発明されたあとの『古今集』などの音にはない。直感的な言い方しかできないけれど、『万葉』の音が喉から下を含めた肉体から出てくるのに対して、『古今』の音は喉から上、もっといえば「頭」から出てくる音という感じがする。まず「意味」がある、という感じがする。

 --こんなことを書いたのは、ただ単に、橘上『YES(or YES)』には「ひらがな」の詩が多かったからである。そして、その「音」が、私には「古今」以後の音に聞こえるからである。
 「この先の方法」の最初の方。

くびをしめるとてあかがつくから それがきょうのめじるしです てきせつなじかんにひびのてあかをてきかくに てきとうなきぎからてきとうなきぎへ もうまよえない

 「てき」せつなじかんに「て」あかを「てき」かくに 「てき」とうなきぎから「てき」とうなきぎへ。
 「てき」というの音の動きが、あまりにも整然としている。「てき」の音が分裂して「きて」という組み合わせになったり「○て○○き」になったりしない。「て・あか」ではなく「○て○」や「○○て」なら、そこに音楽が生まれるけれど、「てきせつ」「てきかく」「てきとう」では頭韻がうるさい感じがしないでもない。
 「頭」でさがしてきた「音」という感じがする。--この「頭でさがした音」を洗練された音ととらえれば、また別の感想が生まれるのだろうけれど……。
 「か」の音の動き、「きぎ」というときの濁音のありかたも、私には「音」というよりも、なぜか「文字」の運動に感じられてならない。なんとか音を取り戻そうとする試みなのだろうけれど、私には「文字」から離れられないもがきのように感じられてしまう。

「すべてがうそですがしんじてください」 かみくずにかかれたかみじみたかみが かみなでごえでぼくにいう 

 「かみなでごえ」というのは橘上の「発明」だろう。それはそれで「意味」を超えるのでおもしろいけれど、うーん、「か」と「み」の音が分裂し、衝突し、そこから聞こえない音が聞こえる--という音楽の方が、私は聞きたい。

 で、私の音の感覚、音楽の感覚から言うと(私は音痴なので、まあ、私の言っていることが間違っているのだろうけれど、しばらく我慢して聞いてみてください)。
 「THIS IS THIS」の、次の部分がおもしろい。

とけいをやめた もととけい きざむそくどはぼくのもの ときでもあったぼくきもの ときどきとけいとめをあわせ そういうことかとふきだして そしてじかんをにくにする


も「と」「と」けい、「と」き「ど」き「と」けい「と」めをあわせ、

この「と」の動き、とくに

 も「と」とけい、ときどきとけい「と」めをあわせ

 の「と」がおもしろい。
 さらにいえば、

ときどきとけい「と」め「を」あわせ 

 この「と」と「を」がとてもいい。「と」のなかにある「お」、「を」のなかに「お」。その母音の「弱音」の感じが、ほかの部分の「と」の繰り返しとは違ったひびきを感じさせる。
 不思議な「半音」のひびきがある。揺らぎがある。ことば全体をゆさぶる力がある。
 美しいなあ、と思う。
 こういう部分に、私は『万葉』につながる音を感じる。



YES(or YES)
橘 上
思潮社
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ロバート・ワイズ監督「サウンド・オブ・ミュージック」(★★★★)

2011-09-19 19:58:11 | 午前十時の映画祭
監督 ロバート・ワイズ 出演 ジュリー・アンドリュース、クリストファー・プラマー

私はオーストリア国民ではないのだが、クライマックスで大佐が「エーデルワイス」を歌いながら、感情がこみあげてきて、歌えなくなる一瞬に、いつも涙がこみあげてくる。何度見ても素晴らしい。事情を知らない(うすうす感じている)聴衆が共感し、大合唱にかわっていくのをみると「歌の力」を強く感じる。
 このシーンに限らず、歌が歌として歌われるというより、歌の力をアピールしているのが面白い。「ドレミの歌」もそうだけれど、「和音」さえわかれば歌ができるというのも。そして、歌を歌う前はまるで軍隊(軍人)のようだった子供たちがのびやかにかわり、その変化が大佐に影響するところも。音楽は、かたくななこころを和らげる――「教科書的」なメッセージだけれど。
 昔は気がつかなかったけれど。
 恋愛も丁寧に描いている。伯爵夫人がジュリー・アンドリュースと大佐の愛に気がついて、ジュリー・アンドリュースを追い出す(?)シーン。そして、大佐と別れるしかないとさとったときの台詞。「私は自分になびいてくれる人が必要だ。たとえ、それが私の金であっても」云々。あ、さすが「おとな」だねえ。こんなシーンがあるなんて、すっかり忘れていた。というより、若い時には見ても気がつかないシーンだが、こういうシーンがあるから、映画に「深み」が出る。そのとき伯爵夫人が大佐を「あなたは自尊心(自立心)が強い」云々と批評するけれど、それが批判ではなく、ナチスに抵抗して生きた大佐の生き方そのものを明確に浮かび上がらせているのも、なかなか丁寧な脚本だと思った。
 修道女見習いの若い女性が、子供たちに歌を教え、大佐と結婚し、スイスへ脱出する――と要約してしまうと、なんだか「絵そらごと」になってしまう。複雑な「おとな」の感情、やせがまんがあって、おもしろくなる。
 最後の方の、大佐の執事が「密告」したと暗示させるシーンや、長女の恋人のこころの揺れなども、短いシーンだけれど、脚本の丁寧さを感じる。
(「午前十時の映画祭」青シリーズ33本目。天神東宝3)



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清岳こう『マグニチュード9・0』(4)

2011-09-18 23:59:59 | 詩集
清岳こう『マグニチュード9・0』(4)(思潮社、2011年08月25日発行)

 「女たち」という詩は、この詩集に収録されていなかったとしたら(別の場所で読んだとしたら)、読み落としたかもしれない。

男湯はまず五十名
女湯はまず三十名
男たちはつぎつぎと上気した頬で
さっぱりした顔でタオルなんぞ首に巻いて
女たちはずいぶんたって
赤ん坊を抱いたりよちよち歩きの手をひいたりして出てくる
女たちの体にぴったりはりつき片時も離れない子どももいる

男湯は広々として露天風呂にもたっぷりの湯
女湯は内風呂にわずかの湯をわけあって
温泉無料開放とはいえ
女性解放とはいかなくて

 男女差に目が届き、ことばがそれをきちんと動くようになったのだ。
 ここまでことばが動くようになるのに、どれくらいの時間がかかったのか、日付がないのでわからないが、ともかくここまで来たのだ。
 「わずかの湯をわけあって」。おなじように、わずかな「ことば」をわけあって、--ことばは「わけあって」も減らない。逆に「わけあう」ことで増えていく。
 いま、ことばをわけあい、増やすときに来たのだ。
 「女たちの体にぴったりはりつき片時も離れない子どももいる」ように、女たちは「ことば」を「わけあい」、そうすることで「体」をぴったりはりつかせあわせている。

 「お化粧」という作品も、何気ない(といっていいかどうかわからないけれど--大震災から遠く離れている私には、何気ないということばしか浮かばない)ところに、強さがある。

風呂からあがり
ていねいに下地クリームをぬり
くっきりと目ばりをいれ
きりりと眉をかき

今から誰に会うのか
どこへ出かけるのか
会うひとはいないのかもしれない
停電の自宅にもどるだけかもしれない

自分で自分をはげますように
口紅を濃く濃くひく人

 大震災のあとでなくても、つまり大震災がなくても、女たちは同じように生きているかもしれない。「会う人がいない」。でも、「くっきりと目ばりをいれ/きりりと眉をかき」、化粧を仕上げる。「くっきり」「きりり」という常套句は、生活をととのえる方法なのである。常套句(誰のものでもあることば)によって、いくつもの「女のいのち」とつながる。そのとき、「女」は「たったひとりの女」になるために化粧をするのだろうけれど、その「たったひとりの女になる」ということも、また、女たちに「共有」されている生き方かもしれない。
 女ではないので、私にはほんとうのところはわからない。
 けれど、「自分で自分をはげますように/口紅を濃く濃くひく人」と書くとき、清岳は誰のことを書いているのか。目にした女のことか。あるいは自分のことか。誰でもなく、すべての女のことを書いているのだと私は感じるのだ。
 「自分で自分をはげますように」他人をはげましている。自分をはげますことで、他人とはげましあっている。
 「化粧」という「時間」を共有している。わけあっている。その「化粧の時間」というのは、さっきわけあったわずかな湯のようなものである。つながっている、というか、「ひとつ」のところにある。それを「わけあう」のだ。「わけあう」ことで、ここでも、清岳は増やしている。
 「生き方」を。「生きる」という力を。ふつうに生きるということを。

 「いきる」。そのことを「わけあう」ことを繰り返して、清岳は「お月さま」の世界にたどりつく。

今夜 一艘の小舟のお月さま
その たおやかな体で
しっかりと運んでください
二度とくりかえされない
朝夕の母と娘のあいさつ

今夜 一艘の小舟のお月さま
その 金のくっきりとした光で
こちらからあちらへと届けてください
しぶきをたて空から落ちてきた波に
根こそぎえぐられ引きたおされた
子供会のお花見
町内会の芋煮会

 月の光、その金色の輝きを「たおやかな体」と呼んでいる。清岳はいつでも「体」を見ている。それも「たおやか」という修飾語があらわしているように「女」の体である。「女」のいのちである。
 「たおやかさ」だけでは解決しない。けれど「たおやかさ」で、「わけあう」何かがあるのだ。「たおやかさ」とともに「届ける」ものがあるのだ。届けなければならないものがあるのだ。
 そういうものをしっかりみつめ、ことばにしている。そのことを感じ、なにかしら、こころが震えるのだ。
 大震災の被災者が「ありがとう」ということばを言ったのを聞いたときのように。

 詩集の最後の作品「揺れる」は、とても静かだ。

雀がとまり
小枝から雪がまう

風がふき
電線から雪がまう

こんな優しい揺れ方もあって

 この詩でも「雪」が大切である。「雪」がなかったら、この詩は成立しない。--と、書いても、誰につたわるのかわからない。
 「雪」と「美しいもの/美しさ」を清岳は「わけあっている」。「とまる」「まう」「ふく」「まう」と、清岳はひらがなでことばをつないでいる。
 「漢字」で書かれるものを(表現されるものを)、ゆるりと解き放し、ほどかれたいのちそのものを「わけあう」感じがする。その「ほどかれた」ものが、「いま/ここ」で揺れている優しさを生きている。




マグニチュード9.0
清岳 こう
思潮社
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清岳こう『マグニチュード9・0』(3)

2011-09-17 23:59:59 | 詩集
清岳こう『マグニチュード9・0』(3)(思潮社、2011年08月25日発行)

 大きな衝撃の後で、私たちはことばを失う。その失ったことばを、もう一度、どうやって取り戻すか。
 「潮の遠鳴り数へては」は与謝野晶子の「海恋し潮の遠鳴り数へては少女となりし父母の家」という短歌を授業で取り上げたときのことを思い出しながら書かれたものである。

教室の一番前の席
深くうなずいていたショートカット
私の家も波のほとり と

乙女とならぬまま海に抱きとめられてしまって

 与謝野晶子の歌は、ちょっと複雑な歌である。「海恋し」だから、思い出しているのだろう。「父母の家(生まれ、育った家)」では海の音が聞こえた。その音を聞きながら、晶子は、幼い子供から「少女」になった。思春期になって、海の潮の遠鳴りを数えることをおぼえた、ということかもしれない。あるいは、おとなになって、「父母の家」にもどると、その瞬間から晶子は「少女」にもどって潮の遠鳴りを数えるということかもしれない。--私は、国語の教師でも、与謝野晶子の研究家でもないので、こういうことはいいかげんにしたまま歌を読むのだが、それでも、そのとき少女の「肉体」と海の遠鳴りが呼応しているのを感じる。
 清岳の教え子(生徒)は、どう感じたのだろう。ほんとうに感じたことはことばにはならない。いや、ことばになるまでには時間がかかる。「肉体」をとおってくるので、どうしてもことばは遅れてしまう。
 まず、うなずく--という「肉体」の反応がある。自然に動いてしまうのだ。それから「私の家も波のほとり」とぽつりと声がもれる。この「声」は「感想」にはなっていない。「批評」にはなっていない--とは、言えない。この「声」は「感想」であり、いちばんすぐれた「批評」なのである。晶子の歌に反応して、しっかりと「海」を思い出している。「家」を思い出している。自分が潮の遠鳴りを聞いたことを「肉体」で思い出している。「少女」であることを思い出している。「うなずき」を、ことばが追いかけて、そして口からもれた。その「正直」な動きがここにある。
 そのことを、清岳は思い出した。清岳の「肉体」がおぼえているのだ。そのとき、生徒は生徒であって、また与謝野晶子であって、同時に清岳でもある。
 詩からは、その少女が、津波にさらわれたことが感じられる。
 その少女を思うとき、清岳は、清岳自身の「肉体」もまた、津波にさらわれたと感じている。どこかで少女の肉体と清岳の肉体が重なっている。そう感じる。
 ひとの命を奪う津波と、晶子の書いている潮の遠鳴りはいっしょのものではない。いっしょのものではないからこそ、清岳は、少女に「潮の遠鳴り」をおぼえておいてほしいと祈っているのかもしれない。憎い「津波」なのだが、海を愛したこと、海を愛し、海に愛され、いっしょに生きたことを清岳は少女におぼえておいてほしいと祈っている。
 それは、清岳自身の、絶対的な「祈り」かもしれない。
 いまは、美しい潮の遠鳴りなどを思い出す「とき」ではないのかもしれないが、そういう「現実」をくぐりぬけて、潮の遠鳴りにも生き続けてほしいと思う。潮の遠鳴りとともにある「生き方」も生き抜いてほしいと祈っている。
 なにかしら、深い「愛」がある。

乙女とならぬまま海に抱きとめられてしまって

 この1行の「とられてしまって」には清岳の無念さがあらわれているけれど、「抱き」には違う思いがある。そこに「愛」がある。「奪い取られてしまって」と書くことも可能だけれど、清岳はそういうことばを選ばなかった。あくまで「抱く」ということばを書く。そこに「かなしさ」がある。
 この「かなしさ」は与謝野晶子が歌にこめた「かなしさ」かもしれない。
 「かなしい」は「悲しい」とも書くが「哀しい」とも「愛しい」とも書く。ひとことでは定義できないものを含んでいる。その「かなしい」という「ことばの肉体」と、清岳自身の「肉体」を重ねる。そのなかで、晶子の歌が動き、少女の「うなづく」肉体が動く。
 ことば--「文学」の時を超えることばが、清岳の「肉体」をはげまし、そこから、ことばが動きはじめる。ことばが動いて、少女が動きはじめる。
 「美しい」といってはいけないのかもしれないが、美しい詩である。

 「行列」は、スーパーで買い物をするときのことを書いている。品物が足りず、何時間も並んで、限られたものを買う。限られたものを買うために並ぶしかなかったときのことを書いている。その「事実」の最後。最終連。

なんでもいい
とにかく並ぶことが大事
放射線を浴びながらでも
並べば何かが手に入る
並ばなければ何も始まらない

風にふかれ
雪にふられ
雨になぶられ
どうでもよくなる

戦線離脱
ぼたん雪っていいなあと歩きはじめる

 「ぼたん雪っていいなあ」などと、のんびりしたことを言っている場合ではないかもしれない。けれど、そう思ってしまう。そう思える「こころ」がどこか遠くからやってくる。それは潮の遠鳴りのように、清岳の肉体の遠くから聴こえてくる清岳の「いのち」の声かもしれない。
 どんなときにも、「肉体」には、「いま/ここ」を超えてしまう力がある。それが「自然」と結びつき、その「世界」を呼吸する。不思議なことに、そういうときに「いま/ここ」に生きているということを、意識しないまま、感じる。--その感じが、清岳のことばから、とても静かな形であふれてくる。

 「夕焼け」も不思議な詩である。

こんな日でも
律儀にロマンチックに
みず色にあかね色のぼかし

空がひろげてくれた
テーブルクロスの前にすわり
カップラーメン
炊きだしのおにぎり
それぞれの幸運をかみしめる

 「律儀」ということば、それをおぼえている「肉体」、そしてそのことばを「いま/ここ」に呼び出す「肉体」。同じことが、「ロマンチック」にも「みず色」にも「あかね色」にも「ぼかし」にも言える。
 なぜ、「いま/ここ」でこのことばなのか。
 「肉体」が求めているのだ。
 「肉体」が、そのことばを手放したくないのだ。
 手放したくないものが、遅れてやってくる。ことばは、いつでも遅れてやってくる。

 季村敏夫は阪神大震災のあと、『日々の、すみか』(書肆山田)という詩集を出している。そのなかに「出来事は遅れてあらわれた。」と書いている。
 「出来事」は「出来事」であって、「出来事」ではない。
 ことばだ。
 何かを語ることば。そのことばを頼りに「出来事」がやってくる。その出来事を受け止めるためには、いくつものことばが必要だ。
 「律儀」「みず色」「あかね色」「ぼかし(す)」ということばは、「いま/ここ」に起きた「大震災」を語るためには不必要に見えるかもしれない。けれど、その「大きな出来事」を語るとき、その「大きなことを語ることば」のまわりに、無数のことばが必要なのだ。すそ野のように広がりつづけていることばがあって、そのなかで「出来事を語ることば」も動けるのだ。
 
 どんなことばも、「いま/ここ」から逃げていかないように、ふいにあらわれた遠いことばをしっかりと「肉体」につなぎとめるために、清岳は詩を書いている。ことばを書くたびに、「肉体」が復活してくるのだ。力を取り戻すのだ。
 --変なたとえになるが、この「夕焼け」を書いたとき、もう清岳は「おしっこ」をもらしつづける「肉体」を乗り越えている。そういう「肉体」のたしかさを、私は感じる。




マグニチュード9.0
清岳 こう
思潮社
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清岳こう『マグニチュード9・0』(2)

2011-09-16 23:59:59 | 詩集
清岳こう『マグニチュード9・0』(2)(思潮社、2011年08月25日発行)

 「闇の中で」という作品にも引きつけられた。

重装備のまま寝ていると
背中からむずむずとさすられ
布団ごと潮にさらわれる

懐中電灯・運動靴を枕に寝ていると
背中の方から持ち上げられ
布団ごと波にたたきつけられる

夜ごと日ごと
安眠をゆさぶりゆすられ
命が太平洋沖百三十キロの海底につながっていたと知る

私の漂流は始まったばかり

 この詩には、清岳が清岳自身で確かめたものではないことが書かれている。「太平洋沖百三十キロの海底」、震源の「知識」。
 清岳は、やっと「できごと」それ自体が語る声ではなく、人間が人間自身の力(知識)でつかみとったことがら(事実)を語ることば、それを論理的に説明することばと向き合えるところまで到達したのだと言える。
 清岳に感心するのは、その「知」を知識のまま、安定させる(?)のではなく、あくまでも清岳の「肉体」に結びつけてつかみとることである。
 震源の声さえも、清岳の「肉体」をくぐらせて、まるで震源が清岳の肉体にすがって、自己証明(アイデンティティ)を確立しているような感じだ。

命が太平洋沖百三十キロの海底につながっていたと知る

 清岳は海底と、震源とつながる。
 そんなものとつながるのではなく、切り離すことが「安心・安全」というものかもしれないが、そんなことはできない。つながってしまうのだ。
 にれやねむや電柱や街灯とつながってしまったように、そして山を越え沼へ向かう白鳥とつながってしまったように、清岳は海底の震源とつながり、その百三十キロを「肉体」として生きるのだ。
 「知る」。百三十キロ先の海底が震源であるというのは清岳以外の人間が教えてくれた「知識」であるが、それを知った瞬間から、それは清岳の肉体となって、清岳を拡大してしまうのだ。
 この「拡大」は始まったばかり。
 この「拡大」を清岳は「漂流」と呼んでいる。
 たしかに「知」と向き合って、「知」をとりこまないといけない。そうしないと生きていけない。
 「自己」というものを「いま/ここ」に置いたまま、「知」のあるところなら、どこへでも「自己拡大」していくというのは、むずかしいかもしれない。「肉体」の大きさは限られている。「肉体」の大きさをまもったまま生きるなら、その「肉体」の動きは、どうしたって「漂流」のようになるだろう。
 清岳は「肉体」の限界も知っているのだ。わかっているのだ。おぼえているのだ。
 車のなかで、おしっこが我慢できなくなる。車をおりて林のなかでおしっこをすればいい。けれど、そんなことをしていたら、いま走っている車の列からはみ出し、もどれなくなる。だから、清岳は車の中にあったバスタオルを利用して、そこにおしっこをしみこませるのだが……。

すっきりした後も ちびりちびりと漏れる 十分たっても二十分たっても 下着の中にしきこんだタオルに ちびりちびりとしたたる おしっこ問題は完全解決 円満解決したというのに 愛車プロミネントはけっこうがんばっているというのに 心より 頭より 体が恐怖にたえられないらしい こんなにも肝っ玉が小さかったのか 私 笑っちゃうよ
                               (「おしっこ」)

 この「おしっこ」という詩を書いたとき、清岳は「震源が百三十キロの海底」とは知らない。知らないけれど、「肉体」は感じている。「肉体」そのものが「震源」とつながっていて、そのために震えるのだ。反応するのだ。
 「知識」はその意識できない連絡を「百三十キロ」と数字にすることで切り離すが、それは「見かけ」のことに過ぎない。
 「命」はつながったままである。
 にれもねむも電柱も街灯も生きていたように、この地球も、そして太平洋プレートもまた生きている。「命」そのものである。これは、こういう言い方は不謹慎になるのかもしれないけれど、おしっこを洩らしてしまうというどうすることもできない「無力」の実感によってさらに強くなっいてるように思う。
 おしっこがとまらないと書く「肉体」に触れたからこそ、私は「命が太平洋沖百三十キロの海底につながっていたと知る」という行がわかった。「おしっこ」の詩を読んでいなければ、「命」の1行は、最後の「知る」ということばそのままに、「知識」がつくりあげたものだと思って読んだかもしれない。

 清岳の書いていることは「知識」ではない。
 清岳の書いていることは、清岳が書いているのではなく、「いま/ここ」にあるものが、できごとが、清岳の肉体を信じて、そこで「声」になっているのだ。





風ふけば風―清岳こう詩集
清岳 こう
砂子屋書房
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清岳こう『マグニチュード9・0』

2011-09-15 23:59:59 | 詩集
清岳こう『マグニチュード9・0』(思潮社、2011年08月25日発行)

 清岳こう『マグニチュード9・0』は 3月11日の東日本大震災を題材にしている。ことばは、なかなかことばにならない。書きたいことがまとまらない。短いことばにすがるようにして生きている。
 冒頭の詩は「雪がふる」

しずまれ
しずまれ
しずまれ
しずまれ

静まれ
静まれ
鎮まれ
鎮まれ



 地震に対して「しずまれ」と言っている。いいながらも、最初は何を言っているのかわからないのだと思う。だれに対して言っているのかもわからないのだと思う。いま、こうやってこの詩を読むと、清岳は地震に対して「鎮まれ」と言っていることがわかるが、最初からそのことばにたどりついたわけではない。「しずまれ」とともかく言ってみる。それは、清岳自身に対して「しずまれ(おちつけ)」と言い聞かせているように聞こえる。まず、自分に言い聞かせる。それから地震に対して「静まれ」と言ってみる。まだ、この段階では清岳地震に言い聞かせていることばがまじっているかもしれない。「冷静になれ、落ち着け」と言い聞かせているのだと思う。それから、やっと「鎮まれ(鎮静化せよ)」と自分ではないもの、「地震(で、いいのかどうか、はっきりしない)」に対して言っている。「鎮まれ」というのは「地震」に対して言うのだろうか、それとも「大地」に対して言うのだろうか。
 よくわからない。よくわからないけれど、ようやく自分自身に対して「しずまれ(静まれ、冷静になれ)」と言い聞かせ終わったとき、ほんとうに呼びかけるべき相手がいることに気がつく。でも、その「相手」はやはりわからない。
 わからないまま、「鎮まれ」と言ってみるとき、その声が清岳以外のものの「声」として聞こえる。
 雪が言っている。雪が、「しずまれ」と言っている。清岳に、そして、いま起きている「地震」に対して、あるいは「大地」に対して。空が、この地球に、そう呼びかけている。地球に呼びかけるようにして、清岳にも言っている。
 このとき、清岳と雪は「一体」である。また「地震」というか、まだそれが何であるかわからない「ことがら」と「一体」である。いま起きたことが「大地震」であったことがわかるのは、まだ先の話だ。
 たしかに揺れは体験した。でも、それが「大地震」(大震災)であると「わかる」までには時間がかかる。いま、清岳に「見える」もの、「聞こえる」ものは、自分のまわりにあるものだけである。
 ほんとうに「見える」もの、「聞こえる」ものは「雪」である。「雪」が見え、「雪」の声が聞こえる。清岳にとって、「現実」は、この瞬間「雪」だけである。

 この感覚--「わかる」というと、言い過ぎになるかもしれないが、とても納得がゆく。雪といっしょに育ったことがある人間に共通する感覚かもしれないが、雪なら信じることができるのだ。長い冬のあいだ、雪といっしょにいる。そうすると、人間は雪になるのだ。雪は「同胞」になるのだ。ほかのことはわからないが、雪の言っていることはわかる。雪は雪でありつづけ、人間を裏切らない。雪に閉じ込められるのは楽しいことではないが、雪に閉じ込められ、ただじっとしているしかない日々--そのなかで雪と交わすことばがあるのだ。
 雪は、雪とともに育った人間には「友達」なのだ。
 海とともに育った人間にとって、何がおきようと海が「ふるさと」であるように。

 雪の声を聞くとき、清岳は清岳ではなく、雪そのものである。
 その雪になって、大地に降ることができたなら、空と大地と人間をそうやって結びつけることができたらどんなにいいだろう。
 --と清岳が書いているわけではないが、そう書いているように感じるのだ。その声が聞こえるのだ。

 詩集の最初の方の作品には、清岳の声はない。いや、それは清岳の声には違いないが、そこには清岳以外の声が、まるで清岳にすがるように集まってきているのがわかる。感じる。清岳とともに、いま「ある」ものが、「できごと」を語るために、清岳の声を利用しているのだ。清岳をのっとっているのだ。
 憑依。
 あらゆるものが、清岳の肉体ををとおって、声を上げている。

にれの樹
ねむの樹
大木たちは全身でふるえた
脚と脚をからませ大地にふんばり

電柱
街灯
暮らしの柱たちも根元からゆれた
腕と腕をつなぎ空につかまり

私たちも
壁をつたい
フェンスにしがみつき
手と手をとりあい
                                (「その時」)

 「その時」、にれもねむも電柱も街灯も私たち(人間)も区別はない。することは同じである。
 「空につかまり」が痛切である。
 手を差し伸べてくれたのは「空」なのだ。そのつかんでもつかみきれないものをつかんで、ひとは立つのだ。

 「津波が来ます!」(タイトルの「!」は2本あるのだけれど、私のワープロはそれを表記できない)も、とても好きな詩である。
 大災害のことを書いている詩に対して「好き」ということばが適当であるかどうかわからないが、そこにある声の美しさに、なんといえばいいのだろう。生きているたしかさがある。

見あげれば
白鳥たち

リーダーに連れられ
サブリーダーに後方を守られ
美しいかぎ型で

すきとおった声で
たがいに鳴きかわし

暗い空を
山の方へ
沼の方へ

 こういうときにも、「美しい」のが存在するのだ。白鳥の隊列。それは懸命に生きる白鳥の姿なのだが、懸命に生きるとき、それは「美しい」ものになる。
 清岳は、そこに、清岳自身の、人間の生き方をみている。人間だけではなく、先の詩にでてきた、にれやねむや、電柱や街灯の「生き方」も見ている。
 どんなときも「存在(いのちあるもの)」は美しくなれるのだ。美しいのだ。
 「連れられ」「守られ」「すきとおった声」「たがい」「かわす」。
 「美しいもの」よりも、もっとしなければならないことがあるかもしれない。けれど、「美しい」と感じることも、「いま」必要なのだ。

見あげれば
白鳥たち

リーダーに連れられ
サブリーダーに後方を守られ
美しいかぎ型で

 この1連目から2連目への1行空きの、「呼吸」がいい。
 「白鳥たち」から、何を「見る」ことができるか。そこから、どんな「声」を聞き出すことができるか。
 2連目以降は、別の形のことばもありえる。
 けれど、清岳が見たもの、聞いたものは「美しい」つながりである。
 「美しいもの」へつながっていこうとする清岳が、自然に呼び寄せたものである。
 いや、「白鳥」が清岳の肉体をとおって、いま、美しいものとなって、まるで初めてのように、「世界」のなかで生まれているのだ。



マグニチュード9.0
清岳 こう
思潮社
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田村隆一試論(3の補足)

2011-09-14 23:59:59 | 田村隆一
田村隆一試論(3の補足)(「現代詩講座」2011年09月12日)

                --「講座」で話したことの補足。あるいは整理。
 
帰途

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界を生きていたら
どんなによかったか

あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ

あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ち止まる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

 1連目と2連目は、ことばの省略の仕方が違っている。1連目は2連目のように書くと、

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界を生きていたら
どんなによかったか
意味が意味にならない世界を生きていたら
どんなによかったか

 このことから、「言葉のない世界」と「意味が意味にならない世界」が田村にとって同じものであることがわかる。そして、「言葉のない世界」と「意味が意味にならない世界」を「生きていたらどんなによかったか」といっていることから判断すると、1連目は、私たちは実は「言葉のある世界」「意味が意味になる世界」を生きていることをあらわしている。
 「言葉のある世界」。これは、わかりやすいですね。実際に、私たちはいま、こうやって「言葉」をつかっている。これが「言葉のある」世界。
 田村は、そうじゃない方がよかったのではないか、といっている。

 2連目は、

あなたが美しい言葉に復讐されても
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつは ぼくとは無関係だ

 このことから「あなたが美しい言葉に復讐され」るということと、「きみが静かな意味に血を流」すということが同じものであることがわかる。

受講生「あなたは恋人(女性)で、きみは同士(男性)ではないのですか?」

 「あなた」と「きみ」は「ひと」が違うが、それは1連目の「言葉」と「意味」の違いのようなもので、田村の意識が問題にしているのは、「あなた」「きみ」以下の部分、つまり「美しい言葉に復讐され」る、「静かな意味に血を流」すということだと思う。
 「美しい言葉=静かな意味」「復讐される=血を流す」という具合に、田村は言い換えている。
 「(美しい)言葉=(静かな)意味」から「言葉=意味」という関係が浮かび上がる。これは1連目の「言葉のない世界=意味が意味にならない世界」の言い換えになる。

 1連目の「主語」は書かれていないが「ぼく」。「ぼく」が「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」と思っている。
 2連目で「復讐される」「血を流す」のは「あなた、きみ」であり、「ぼく」ではない。「ぼく」はそれとは「無関係」だといっている。わざわざ「無関係」というのは、「美しい言葉」「静かな意味」と「ぼく」が関係があるからだ。
 「ぼく」は「言葉をおぼえ」、「美しい言葉」を書き、そこから「静かな意味」が生まれた。その結果、「あなた(きみ)」が復讐され、血を流した--ということが起きたけれど、それは「ぼく」とは無関係だといっている。
 原因(美しい言葉、静かな意味)に「ぼく」が関与しているのに、「無関係」を主張する。
 それは、なぜか。
 「意味」というものはどういうものか、ということに関係している。
 1連目で、田村は「意味が意味にならない世界」と書いていた。「意味が意味になる」ということがあって、反対に「意味が意味にならない」がある。
 「言葉のない世界」に生きているわけではなく、「言葉のある世界」を生きている。同じように、「意味が意味になる世界」を私たちは生きている。

 この「意味になる」というのは、わかりにくい表現である。「意味」という言葉が出てくる別な行、

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか

 ここでは「意味がある」という表現がつかわれている。
 意味に「なる」、意味が「ある」。
 「なる」と「ある」を田村は明確に区別している。
 「美しい言葉」のなかには「静かな意味」が「ある」。けれど、そこに「ある」意味が、別の「意味」になって、「あなた」や「きみ」に「復讐してきて」、「あなた」や「きみ」は血を流すことになる。
 このとき「美しい言葉」が「乱暴な意味、ひとを侮辱する意味」に「なって」ではなく、「静かな意味」になって、復讐する、血を流させるといっていることが重要。
 「美しい」と「静か」はそっくり同じではないけれど、似通っている。似通っているけれど、違っている。「美しい」を「静か」と言い換えたとき、田村は「美しい」を「美しい」よりもさらに深いもの、美しいものに何か別なものがプラスアルファされた状態に「なっている」といいたいのだと思う。単なる「美しい」ではなく、「美しい」+アルファ。
 「ぼく」の言葉を、「あなた」や「きみ」は「美しい」以上のものとして受け止めた。「美しい」+「静か」な「意味」と「なった」ものとして受け止めた。
 「復讐される」というのは、予想しなかったことに襲われるということになるかもしれない。

 2連目の、「あなたが美しい言葉に復讐されても」と「きみが静かな意味に血を流したところで」の「復讐」された状態、「血を流した」状態は、3連目の次の2行の形で言いなおされている。

あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦

 そっくりそのままイコールで結べる関係ではないけれど、「あなたのやさしい眼のなかにある涙」は、「あなたが美しい言葉に復讐されて、あなたは涙を流す」という具合に読むことができる。
 「きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦」は「きみが静かな意味に血を流し、その痛苦こらえて沈黙している」という具合に読むことができる。「舌からおちてくる痛苦」は「舌からおちてくる血」、「痛苦=血」だと思う。「涙が流れる」「血が流れる」と同じように「涙がおちる」「血が(滴り)おちる」という言い方がある。
 「涙」と「血」は、この詩のなかでは、「言葉」と「意味」のように、似通ったものとして書かれている。
 声を上げない--つまり沈黙しているとき、血は涙のように肉体の外へ流れるのではなく、からだの内側におちていく。それが「痛苦」。そのとき感じているのが「痛苦」。
 「涙」と「痛苦」は、涙は外に流れて見える、痛苦は内部に隠れていて見えないということになる。ひとの痛みには「見えるもの」と「見えないもの」がある。
 言葉や意味は、一種、「見えないもの」だけれど、それは人間に「見える」変化もおこさせるし、「見えない」変化もおこさせる。

 「涙」と「血」は、次の連でまた出てくる。

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

 1連目、2連目を書き換えて読み直したときのように、この連を書き直すと、

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れのほどの意味があるか

 になると思う。
 「夕暮れの意味」というのは、あまりにも抽象的すぎてわかりにくい。「果実の核」が具体的なもの、見えるものなのに「夕暮れの意味」はわからない。だから、そこでもう一度「夕暮れの意味」を田村は言い換えている。

ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

 これも抽象的だけれど、「夕暮れの意味」よりは、何かを感じさせる。夕焼けは赤い。それは血の色に似ている。夕暮れ、夕焼けというのはなんとなくさびしい。そして、静かだ。その静かな夕焼けのなかに、音楽のようなもの、聞こえないのだけれど、ひとをいっそうさびしくさせるような何かを感じる--それを感じさせるものが、「意味」ということになる。
 これは、また逆な言い方もできる。
 「あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか」というときの、「意味」とは何?
 やはり具体的にはわからない。果実の中心とか、果実のいのちを支えているものとか、言い換えることができるけれど、それを「意味」といいきるには、ちょっとむずかしい。果実の核はあくまで果実の核であって、「意味」というものではない。

 1連目で「言葉」と「意味」が似通っていることを確認した。2連目では「美しい言葉」と「静かな意味」が似ていることを確かめた。「復讐(される)」と「血を流す」も似ていた。そして「涙」と「血」「痛苦」も似たものであった。
 この似ている、似通っている--というのは厳密な論理ではない。なんとなく感じるもの。感覚の世界。哲学のような厳密な論理ではなく、あいまいな「なんとなく」の世界。まあ、これが「文学の言葉の運動」。

 そして、この似通った「涙」「血」という言葉をつかって、田村は、もう一度「説明」し直している。田村がいいたいことをもう一回繰り返している。

ぼくはあなたの涙のなかに立ち止まる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

 「あなたの涙」は「あなたが美しい言葉に復讐されて流したもの」、「きみの血」は「きみが静かな意味に(傷ついて)、そこから流れた血」、あるいは「きみの沈黙の舌から(血のように、きみのからだのなかに、滴り)おちてくる痛苦」。
 その「涙」や「血」、「言葉」と「意味」によって傷ついた(感動した)もののなかへ帰ってくる。その「涙」や「血」と「一体」になる。

 このことは、しかし、田村の言葉を読んだ「あなた」や「きみ」と「一体」になる--というだけではない。
 言葉を読み、意味を感じ、そして感動するということは、田村自身も体験することだと思う。誰かの言葉を読む。日本の作家、詩人もあれば、外国の作家、詩人のことばもある。そういう言葉を読み、感動すること--。
 それを思い出している。
 「あなた」「きみ」は田村自身でもある。
 たとえば「あなた」がドストエフスキー、「きみ」がエリオットかもしれない。その人たちの言葉のなかには、言葉がもっている意味、ドストエフスキーやエリオットがつくりだした「意味」のなかには、やはり人間の「涙」や「血」が流れている。
 その中へ、田村は「帰っていく」。
 「帰っていく」というのは、それがはじめて知る「涙」や「血」であっても、人間全員に共通しているものだからだ。いわば、「涙」や「血」ということばであらわされているのは、人間の感情の「ふるさと」。
 そこへ帰っていく。そうして、田村はドストエフスキーになる、エリオットになる。
 言葉はそういうことをするためにある。

 で、そういうことをする言葉--それをおぼえるんじゃなかった、というとき、これは田村独特の反語というか、逆説になる。
 言葉を知れば知るほど、読めば読むほど、人間の感情はきりがなく増えていく。知らなかった哀しみを知る。自分の哀しみではない哀しみに涙を流し、自分の痛苦ではない痛苦にこころの血を流す--どこまでも哀しみ、どこまでも苦しまなくてはならない。
 これは、つらい。
 でも、このつらさが、文学の楽しみだね。




「現代詩講座」は受講生を募集しています。
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田村隆一全集 4 (田村隆一全集【全6巻】)
田村 隆一
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田村隆一試論(3-1)

2011-09-13 23:59:59 | 現代詩講座
田村隆一試論(3)(「現代詩講座」2011年09月12日)

 きょうは「帰途」を読みます。
 
帰途

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界を生きていたら
どんなによかったか

あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ

あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる苦痛
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ち止まる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

 いままで、感想、第一印象を最初に聞いていたのだけれど、今回は聞きません。感想はことばにしないで、胸にしまっておいてください。いくつか質問をしながら読んでいきます。

質問 どのことばが印象に残りましたか? 1行(文)ではなく、単語だけでこたえてください。
「言葉」「果実の核」「涙と血」「帰途」

 みなさんは、「名詞」を印象に残ったと言ったんですが、私は実は、名詞ではなく1行目の「おぼえる」ということばにとても興味を持ちました。「おぼえる」ということばのなかに田村の「思想」が籠もっていると思いました。
 前回、その前の回、河邉由紀恵の『桃の湯』まで遡ることができるけれど、「知る(知っている)」と「わかる(わかっている)」を区別しながら詩に近づいていきました。今回は、それに「おぼえる」をつけくわえたい。「知る」「わかる」「おぼえる」--このみっつの違いを区別してみると、この詩が鮮明に見えてくると思います。
 このことは、あとで説明します。みなさんの「第一印象(感想)」とおなじように、ぐっと、心のなかにしまいこんで、ゆっくり遠回りしながら詩に近づいてきたいと思います。

 いま、単語だけ、と限定して質問したのには理由があります。この詩につかわれていることばは、とても少ない。
 名詞でいうと「言葉」「世界」「意味」「復讐」「無関係」「血」「眼」「涙」「沈黙」「舌」「苦痛」「果実」「核」「夕暮れ」「夕焼け」「ひびき」「日本語」「外国語」、それに「あなた」「きみ」「ぼく」もありますね。
 形容詞(形容動詞)は「美しい」「静かな」「やさしい」。
 形容詞は「用言」なので、活用して、動詞と同じように動いているものもあります。「よかった」。これは「よい」が変化したものですね。
 動詞は「おぼえる」「なかった(ない)」「なる(ならない)」「生きる」「復讐する」「流す」「だ(である)」「流す」「おちてくる」「眺める」「立ち去る」「立ち止まる」「帰る(帰ってくる)。
 そして、この少ないが何度も何度もつかわれる。「言葉」という単語は書き出しにつかわれているだけではなく、5回も出てくる。4連目以外には必ず出てくる。
 「言葉」という表現ではないけれど、やはり「言葉」をあらわすものがある。

質問 「言葉」という表現をつかわずに、「言葉」をあらわした単語に、何がありますか。
「日本語」「外国語」

 そうですね。最終連の「日本語」「外国語」。これは「日本の言葉」「外国の言葉」ですね。田村は「言葉」という表現を言い換えています。
 私は何度か、ひとは大切なことは繰り返していうということ指摘してきました。この詩でも田村は何度も大切なこと(いいたいこと)を繰り返して言いなおしているのだと思います。
 「言葉」を「日本語」「外国語」というふうに言い換えているように。
 そういう部分をていねいに読んでいくと、田村の考えていることに少しずつ近づいていけると思います。
 もひとつ、「意味」も繰り返し出てくる。4回出てくる。「世界」も4回。「血」は3回。「涙」も3回。
 こんな短い詩のなかで「言葉」5回、「意味」が4回。「世界」が4回。これは、ちょっと「異常」なことだと思う。「言葉」と「意味」と「世界」について、田村が何かをいいたくて仕方がないということが、ここからわかると思う。

 これから、ほんとうにゆっくり詩を読んでいきます。
 1連目。

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界を生きていたら
どんなによかったか

 2行目の「言葉のない世界」。このあとに「を生きていたら/どんなによかったか」ということばが省略されています。田村は、そう言ってしまいたかったのだけれど、それではわかりにくいと思い、言いなおしています。「言葉のない世界を生きていたら/どんなによかったか」を、「意味が意味にならない世界を生きていたら/どんなによかったか」と言いなおしています。
 「言葉のない世界」と「意味が意味にならない世界」は田村にとって「同じ」ことですね。
 言いなおすときに「言葉」が「意味」ということばにかわっている。
 「言葉」を「意味」という表現に変えたために、そのあとにつづく表現が少し違ってくる。
 言葉の「ない」世界が、意味が意味に「ならない」世界に変わっている。
 ここがとても重要です。
 言葉が「ない」ということと、意味が意味に「ならない」ということが同じである。ひとつのことを言うとき「主語」というか、テーマが変わると、それと一緒に動く「動詞(述語)」も変わる。
 変わるけれども、それは同じこと。

 ちょっとややこしくなってきましたね。
 すこしもどって考え直してみます。

 この1連目を読んでいると、「言葉」と「意味」が何かとても近い関係にあることがわかる。近いけれども、どこか違っていることがわかる。
 ふつう、私たちが「ことば」と言ったり「意味」と言ったりするとき、どんなふうにそれを考えているだろうか。

 「言葉」には「意味」がありますね。
 「意味」の定義はむずかしいけれど、わからない言葉に出会ったとき、「その意味は?」と聞きますね。そのとき「意味」というのは、その言葉をいいなおしたものですね。知っている言葉、わかっている言葉で言いなおす。「意味」というのは「知っていること」「わかっていること」ですね。「知っていること」「わかっていること」が「意味」であり、「わからないこと」は「意味ではない」。だから「わからない」とき、「それはどういう意味?」と聞きますね。
 「知っている言葉」でも、自分の知らないようなつかい方をされると、やっぱり「どういう意味?」と聞きますね。
 逆に「意味」(いいたこと)があって、どう言っていいかわからないとき「なんというんだっけ?」とか聞きますね。「言葉」をたずねる。そういうこともある。
 このとき「意味」は「いいたいこと」ですね。

 言葉のなかには「意味を知っていること」「意味がわかっていること」と「意味の知らない言葉」「意味のわからない言葉」がをる。、そのうち「わかりすぎていること」というのは、言いなおすのがとてもむずかしい。河邉由紀恵の『桃の湯』のなかに出てくる「ふわーっ」とか「ざらっ」とか「ねっとり」とか……。みんな、わかっていますね。わかっているから、説明する必要がない。
 「言葉に意味がある」というのも、みんなわかっている。だから、「言葉」と「意味」の関係を、たとえば小学生に説明するとしたら、とてもむずかしい。どう説明していいかわからない。わかっているから、わからない--ということがあると思います。
 ちょっと遠回りしすぎたけれど。
 私たちは、いま、言葉と意味について考えている。

 「言葉に意味がある」--と私は簡単に言ってしまったけれど、ここにもとても重要な問題がある。「……に……がある」という言い方は、机の上にコップがある。あるいはコップのなかに水がある、というようなつかい方をする。「……に」は「場所」をあらわし、そこに「……」がある。
 そうすると「言葉に意味がある」というのは、その「に」と一緒にある場所を示すことばをつかって言うとどうなるだろう。
 言葉の上に意味がある。
 言葉の下に意味がある。
 言葉の横に意味がある。
 言葉の中に意味がある。
 言葉の外に意味がある。
 言葉に意味があるというのは、どうも「言葉の中に意味がある」というのがいちばん落ち着くように思える。「言葉の奥に意味がある」「言葉の内に意味がある」というのは、これに近いですね。「言葉の外に意味がある」というのは「言外に意味がある」とか、「行間に意味がある」ということに通じると思うけれど、それを考えると、「意味」は「言葉」の「なか」か「外」か、まあ、どちらかにあると考えるのが一般的だと思う。

 で、詩にもどります。
 田村は、「言葉のない世界を生きていたら/どんなによかったか」と書いている。でも、「意味のない世界を生きていたら/どんなによかったか」とは書いていない。
 「意味」の「ある」「ない」を問題にしていない。
 「意味」が「ある」ということが無条件に前提にされている。--これは、ちょっと先走りしすぎた解説なので、わきにおいておきます。

 「意味にならない」が大事。「なる」「ならない」について、田村は書きたいのだと思います。
 田村にとって、「意味」は最初からそこに「ある」(存在する)ものではなく、「なる」ものなんですね。「意味になる」とこによって、そこに「意味がある」という状態がうまれる。
 「なる」というのは、変化ですね。
 ○○さん、結婚してからいっそう美人になったねえ、というときの「なった」(なる)のは「変化」ですね。

 では、「意味」はどうやったら「意味」に「なる」のだろう。
 「意味」が「意味」になる、というのは、「意味」が「意味」として通じる、通用するということもしれないけれど、田村の書いていることは、それとは少し違う。
 あくまで「意味が意味になる(ならない)」。
 で、最初にいった「言葉」と「意味」という単語がこの詩には何度も繰り返され、その区別がちょっとつきにくいところもあるのだけれど、ここで強引に「言葉」という単語をつかって言いなおしてみると。
 「意味が意味にならない」というのは、「言葉が意味にならない」ということになる。
 「言葉」はふつう、「意味」に「なる」。いつでも、「意味」になってしまう。
 「比喩」のことを何回か話しましたが、たとえば「○○さんは花のようだ」といえば、その「花のようだ」という言葉(表現)は「美しい」という「意味」になる。言葉が「意味になる」というのはそういうことだと思う。「言葉が何かを伝える」ということが「意味になる」ということかもしれません。
 どんな言葉も意味になってしまう。
 最近、こんなことがありましたね。鉢呂経産相が「福島は死の街だ」と言った。鉢呂は「人が住んでいない」ということを言ったのかもしれないけれど、それは「福島には人が住めない」という「意味」になり、福島のひとを傷つけることになる。帰りたいと思っている人々を絶望させてしまう。望みを奪ってしまう。
 鉢呂は違った「意味」で言ったつもりでも、「意味」はいつでも言ったひとの思いとは関係なく変化してしまう。
 佐賀知事の発言もそうですね。「真意とは違う」というけれど、「意味」は言った人だけが決めるものではないのです。
 言った人にも「いいたいこと」があるのだろうけれど、「意味」は一人立ちして動いてしまうものですね。

 脱線しました。詩にもどります。
 こんなふうに考えてなおしてみましょう。
 「意味が意味にならない世界」--これを「言葉」という単語だけをつかい、「意味」という単語をつかわずに言いなおすとどういうことになるだろうか。
 「言葉が通じない世界」ということになるかもしれない。「声」は聴こえる。けれど、それが何を指しているかわからない。「意味」というのは「指し示す内容」のことかもしれませんね。言葉が通じなかったら、どうするか。言葉のかわりに、身振り手振りで「意味」を探るということもあるのだけれど--まあ、それは直接、誰かと出会ったときの場合ですね。ふつうは、ほっておきます。なかったことにします。たとえば「アラビア語」で書かれた本。そこには「言葉」がつまっている。「意味」もつまっている。でも、わからない。私にとってはアラビア語の本は「言葉が通じない世界」「意味が意味になってつたわってこない世界」です。そういうとき、そこにどんなことが書かれていても関係ない。知らない。大事な予言が書かれていたって知らない。あとの方に出でくることばを先取りしていうと「無関係」。無関係というのは、田村が書いているように「よい」ものです。たとえばアラビア語でテロの予告が書かれている。もし、アラビア語を知っていて読むことができれば、「意味」がわかれば、それをそのままにしておくことはできない。どこかに知らせなければいけない。書いてある内容を知られたとわかったらテロリストに殺されるかもしれない。「責任」というものが出てくる。これはたいへんです。--これは、極端な例を言ったのだけれど、「意味」を知るというのは「無責任」(無関係)ではいられなくなる、ということだと思います。
 ここから「意味」というのは「関係」というものにかかわっているということがなんとなく推測できると思います。言葉というのは、たとえば「水」を「水」と呼ぶとき、それが「水」であるとわかる人間と「関係」することでもあります。「水をください」という言葉、その「意味」が伝わるのは、そのものを「水」と呼ぶひとのあいだだけです。「水」を「水」と呼ぶとき、こんなことはいちいち考えてはいないのだけれど、誰かと「水」ということばをとおして「関係」ができる可能性があるということですね。「関係」を成立させるものとして「言葉」がある。「言葉」をつかって、人間は「意味(いいたいこと)」を伝えようとしている。
 これは、逆に見ていくと(逆説、というのは田村が好んでつかう手法です)、「言葉」を言うとき、そこには「意味」がある、ということですね。
 1連目を、その視点から読み直すと、

言葉に意味があることをおぼえてしまった
言葉で意味を伝えあう世界
言葉の意味が意味としてきちんと伝わり、そこに関係ができる

 という具合になるかもしれません。「関係ができる」というのは「世界」ができるということ。「関係」と「世界」は似通ったものです。
 さらに、これを、「ある」ではなく「なる」という表現をつかって言いなおしてみる。「意味がある」ではなく、「意味になる」という表現をつかってもう一度読み直してみる。言い換えてみる。そうすると、どうなるか。

言葉が意味になることをおぼえてしまった
言葉で意味を伝えあう世界
言葉の意味が、相手との関係によって別の意味になることがある

 そういうことになるかもしれません。
 こういうことを田村は「そうでなかったら/どんなによかったか」と逆説で書いている。この「逆説」の部分は重要なのだけれど、いまは、とりあえず、「逆説」の部分はおいておいて、言葉と意味と関係と世界ということばで田村があらわしているのも確認しておきます。

 言葉のなかに意味がある。
 言葉の中の意味は相手によって違った意味にもなる。
 言葉を言った人と、言葉を聞いた人の関係によって、同じ言葉でも違った意味になることがある。
 同じ言葉であっても、違う意味として伝わってしまう。
 そういう人と人との「関係」、言葉の意味に影響を与えてしまうの関係そのものが「世界」である。

 1連目では、そういうことが言われていると思います。


*

 田村隆一試論の3回目は長いので3分割してアップしています。
 下欄に3-2、3-3という形でアップしました。
 つづけて読んでください。




田村隆一全集 2 (田村隆一全集【全6巻】)
田村 隆一
河出書房新社
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田村隆一試論(3-2)

2011-09-13 23:58:59 | 現代詩講座
 「言葉には意味がある」、けれどその「意味」はいつも一定ではなく、相手との関係によって変わる、別の意味になることがある。それは同じ言葉をつかって別の意味を伝えることができるということかもしれない。
 さっき言った「比喩」、「○○さんは花のようだ」といえば「花」という言葉で「美しい」という意味を伝えることですね。

 で、2連目。

あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ

 「あなたが美しい言葉に復讐されても」。これは、かっこいい1行ですね。なんとなく、あ、ここに詩があると感じます。--でも、意味はよくわからない。わからないというと、ちょっと違うかなあ。河邉由紀江の『桃の湯』で「ふわーっ」という言葉を自分のことばで言いなおすとどうなるか、とういことを言ったけれど、それによく似ている。直感的にはわかるけれど、自分のことばでは言いなおそうとすると面倒くさい。きちんと言い表せないようなものがある。考えると、自分がじれったく感じる。そういう感じですね。
 この1行がかっこよく見えるのはなぜだろう?

質問 なぜ、かっこよくみえるのかな?
「復讐」という言葉が、ふつうのつかい方と違う。ふつうは、汚い言葉なら復讐されるがわかるけれど、「美しい言葉」との組み合わせがふつうと違う。

 そうですね。ふつうつかっていることばとは違うからですね。「復讐」が独特ですね。「復讐」は、またまたわきにおいておいて……。(こんなふうにしていったんわきおくと、何をわきに置いたのか忘れてしまってだんだん話がずれて言ってしまうことがあるんですが……。)
 まず、「美しいことば」。たとえば「オレンジの薔薇のなかに沈んでゆく午後の倦怠感」というような言葉(これは、ちょっとでまかせだから、美しくないかもしれないけれど)、それは「復讐」なんかしませんね。「復讐され」ということは起きないですね。
 田村が「美しい言葉」は書いているものが具体的には何を指すかはわからないけれど、美しい言葉は一般的に「復讐」などしない。ところが田村は「復讐される」と書いている。とてもかわっている。
 こういうとき、「美しい言葉」のなかで何が起きているのか。あるいは「復讐」という言葉のなかで何が起きているんだろう。

 いま、私は美しい言葉の「なか」でと言ったのだけれど、この「なか」で何か思い出しませんか? 「なか」ということばにこだわって考えたことがありましたね。なんでしたか?
 「言葉のなかには意味がある」。私たちは、そう考えました。
 そうすると、「美しい言葉のなかにある意味」が「復讐」したんですね。「意味」に復讐されたんですね。
 「美しい言葉の中の意味」が、「美しい」というだけの「意味」を超えて、別の「意味になった」。その別の意味になったものが復讐したんだと思います。「美しい」と信じていたのに、「美しい」だけではない何かが、復讐してきたんですね。
 もしかするとそれは「美しい」を超越した美しさかもしれない。想像できない美しさ。想像しなかった美しさ。
 想像を超えてしまっているので、そのとき起きたことがなにかわからず、わからないままに「復讐された」と感じたのかもしれませんね。

 1連目で、田村は「意味が意味にならない世界を生きていたら/どんなによかったか」と書いていたけれど、ここでは逆のことが起きている。「意味が意味になる世界」を「あなた」と「ぼく」が生きている。「美しい言葉」が「美しい言葉」のまま「ある」のではなく、「復讐」の言葉になる。「美しい意味」が「復讐」の「意味」に「なる」。
 3行目の「きみが静かな意味に血を流したところで」というのは、「あなたが美しい言葉に復讐されても」と同じようなことを言おうとして繰り返されたものですね。その2行は「ぼくとは無関係だ」「無関係だ」という述語で統一されていますから。
 この連は1連目のようなスタイルで書くと、

あなたが美しい言葉に復讐されても
きみが静かな意味に復讐されて
そいつは ぼくとは無関係だ

 ということになります。
 1連目では「言葉」と「意味」を強調たかったので、それを繰り返し、2連目では「無関係」を強調したいので「無関係」を繰り返していることになります。
 こんてふうに書き換えてみると、「美しい言葉」は「静かな意味」、「復讐される」は「血を流す」が同じことをいおうとしていることがわかります。
 いいたいことを、ひとは何度も繰り返し書くものです。うまく書けないというか、何かいい足りないと感じたら、何度でも繰り返す。だから繰り返し書かれていることがらをていねいに読んでいくと、そのひとのいいたいことがわかるようになります。
 で、この2行を重ね合わせると、美しい言葉のなかにある静かな意味に復讐されて血を流しても、ということになる。2連全体で田村がいいたいのは、「美しい言葉のなかにある静かな意味に復讐されて血を流しても」、それは「ぼくとは無関係だ(ぼくには責任がない)」ということになります。
 ここで「血を流す」という表現が出てくるけれど、これは実際の「血」ではないですね。「比喩」ですね。「傷つく」ということだと思います。「傷つく」といっても、これもまた「比喩」ですね。どんな言葉にも、肉体を傷つけ、血を流させるようなことはできない。

質問 では、血を流すのは、どこ? 人間のからだのなかの、何が血を流す?
「感情、かな」

 そうですね。「感情」が血を流すのだと思います。「からだ」との対比と、とりあえず、その「感情」を「こころ」と読んでみましょう。「こころ」が血を流す、仮定しましょう。
 で、少しもどります。
 「意味が意味になる」、あるいは「言葉が意味になる」。そういうことを考えたとき、その「意味」が「なる」場所は、どこ? 場所はどこ、というのは変な質問だけれど、どこで言葉は意味になるのだろう。ある言葉の意味が別の意味になるのだろう。
 「頭」のなか。あるいは「心」のなか。
 いま、私たちは、美しいことばに復讐されて血を流すのは「こころ」だと考えました。だから、言葉が、その意味が、別の意味になるのは「頭」のなかではなく「こころ」のなかで別の言葉になるんですね。そう考えることができると思います。
 ということは、田村がここで言っているのは、「美しい言葉のなかにある静かな意味が、別の意味になり、その意味が復讐してきて、あなたのこころが血を流しても、ぼくには無関係だ」ということになる。

 こころが血を流す--にもどります。

 質問 こころが血を流す--これは、どういうことだろう。どういう状態の「比喩」なのだろう。どういうときに、こんなことが起きるだろう。どういうとき、こころは血を流しますか?
 「衝撃をうけたとき」

 そうですね。私も、衝撃を受けたときだと思います。衝撃にはいろいろな種類があるけれど、哀しい時、苦しい時と考えると、血を流すがわかりやすいですね。
 涙が流れる、も哀しい時、苦しい時と考えるとわかりやすいですね。嬉し涙というのもあるけれど。
 反対にうれしいときにも「血」ではなく、また別なものが流れるかもしれない。
 でも、とりあえず、ここではこころが衝撃を受けた時、心がふるえる、おおきな範疇のことばで言うと、感動する。そういうときにこころが血を流すといっていると考えましょう。
 そして、そのこと、美しい言葉のなかにある静かな意味に感動しても、ぼくには無関係である--田村はそういいたいのだと思います。

 繰り返しになるけれど、このとき大事なのは、「復讐する」(こころに傷をつけるのは)「美しい言葉」「静かな意味」ということです。
 乱暴な言葉、死んでしまえとか、馬鹿野郎ではない。大嫌いでもない。乱暴な言葉、荒々しい意味がひとを(こころを)傷つけるというのはふつうのことですね。それでは詩にならない。
 美しい言葉、静かな意味が、復讐する--ということろに、詩がある。ふつうと違ったことを書いているところに詩があるということになります。詩とは、ふつうとは違ったこと--ふつうは見落としていること、その人だけが見つけた何かを書いている。そして、そのその人だけが見つけたものというのは、まだ、だれも言っていないので、どうしても不自然なことばになってしまう。この不自然さのなかに、かっこよさがある。不自然さをかっこよくすれば詩になるということですね。

 またまた繰り返しになるけれど、重要なことなので指摘しておきます。ひとはいいたいことをいうとき、なんどでも繰り返しになります。言いなおします。
 2連目の1行目「美しい言葉」を3行目で田村は「静かな意味」という表現に書き直している。「言葉」と「意味」は同じことを指している。「美しい」と「静か」も同じことを指しています。「言葉」と「意味」が同じであることを知って1連目の「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」を言いなおしてみると、

意味なんかおぼえるんじゃなかった

 になると思います。もっとていねいに言うなら

言葉に意味があるとういことをおぼえるんじゃなかった

 ということになります。
 そして、2連目の「あなたが美しい言葉に復讐されても」は、あなたが「美しい意味」に復讐されても、ということになります。「意味」というのは「言葉」のなかにあるもの、「復讐される」というのは「血を流す」「傷つく」だから、これはあなたが言葉のなかにある「美しい意味」に「傷ついても」ということになります。
 ある言葉、ある表現の、その表面的な「言葉」ではなく、言葉の奥にある「意味」を知って傷つく--これを別な表現で言うとどうなりますか?
 「衝撃」「感動」でしたね。
 衝撃、感動したというのは、言葉に関して言えば、言葉が胸につつき刺さる。胸にたとえばナイフが突き刺さると血が流れる。
 田村が「きみが静かな意味に血を流したところで」と書くときの「血」は比喩になります。感動したとしても、ということになると思います。

 3連目は、その「感動」を別な表現で繰り返しているだと思います。

あなたのやさしい眼のなかにある涙

 感動したとき、胸が「比喩」としての「血」を流すならば、目は、比喩ではなく、実際に「涙」をながします。「血」と「涙」は、ある意味で似通っています。
 でも、まあ、涙では「血」ということばを言いなおしたような感じにはなりにくい。ちょっと弱い。物足りない。感動して泣いちゃった、というのは軽い感じがしますね。
 だから田村は言いなおす。

きみの沈黙の舌からおちてくる苦痛

 この1行、かっこいいですねえ。「あなたのやさしい眼のなかにある涙」というのは「やさしい」と「涙」、「眼」と「涙」が類似語というと変だけれど、想像のつく結びつきなので、そんなにかっこいい1行とはいえないですね。田村以外でも書けそうですね。けれど、「きみの沈黙の舌からおちてくる苦痛」はかっこいい。
 かっこいい--というのは、ふつうではないことばのつかい方、でしたね。
 どこがふつうと違うか。「沈黙の舌」が違いますね。饒舌ということばはあるけれど、だまっているときは舌は動かないから、「沈黙の舌」というのは言われればわかるけれど、ふつうは思いつかない。さらに、その沈黙の舌から、「痛苦」が「おちてくる」がかわっている。饒舌、言葉から何かがおちてくる(鉢呂の失言を思い出してください)というのはあるけれど、沈黙から何かがおちてくるということは、ふつうは言わない。田村は、鉢呂が「失言」を落としたのに対して「痛苦」を落としたという。これもかわっています。かっこいいですね。痛苦は「おちない」。少なくとも、涙のように、誰かがみてわかる形、外部には落ちない。涙が「外」に落ちるのに対し、痛苦は内部に、だれも知らない「こころ」に落ちる。落ちるというより、内部に残りつづけるものです。
 こういう、考えてわかることがら、考えることで知ることができることを書いてあるから、かっこいいのかもしれませんね。ふつうは、考えないこと、言葉ではいえないことが書いてある--だから、かっこいい。
 「沈黙」というのは、感動しすぎて、言葉にならない。言いたいことがあるのだけれど、言葉にならない状態だと思います。言葉にならないというのは舌が動かないということでもある。舌を動かして言葉にしたいのに舌が動かない--その苦痛。苦しみ。そういうこともあるかもしれません。
 これは苦しみといっても、胸のなかでは、うれしいであるかもしれない。
 田村は、「逆説」をつかって、言いたいことを逆に隠す。そうすることで、その隠れているものの方へ読者が近づいてきて、そこで隠れているものを探し出す(探し出させる)というふうに言葉を動かしている。
 自分で発見した方が、強く印象に残るからですね。

 では、次の2行は何だろう。何の繰り返しだろう。

ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

 これは、説明するのがとしてもむずかしいのだけれど、こういうとき、私は説明しません。ただ、自分の考えを言います。実際に詩を書いているときの「直感」としてわかっていることを言います。
 これは1連目の言い直しです。
 3連目の前半の2行は2連目の言い直し。そこで終わっているのだけれど、それだけでは言い足りないので、もう一度1連目にもどって言いなおそうとしている。

ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら

というのは、田村は「ぼくたち」とここでは複数で書いているのだけれど(それは、「あなた」を書いてしまったから複数になっているのだけれど)、面倒なので田村に限定して言いなおしてみると、

もしぼくが言葉に意味があることを知らなかったら、意味を言葉で語ることを知らなかったなら、

 ということになる。もし、ぼくが意味を言葉で語ることを知らなかったら、「ぼくはただあなたが感動して涙を流しているのを眺めても、ただ立ち去るだろう。」それを言葉にして書くことはないだろう。言葉に意味があること、意味を言葉で語ることを「おぼえてしまった」ので、ぼくは(田村は)3連目の2行を書いてしまった。眺めて立ち去るのではなく、言葉にしてしまった。(いま、「おぼえてしまったので」と言ったのだけれど、これは、またあとでゆっくり説明します。)
 そして、ここから「反転」します。
 3連目は4行で構成されていて、その4行という構造は前の1、2連目と同じなので、見落としてしまいそうだけれど、実は3連目の3行目と4行目のあいだには、とても大きな「間」がある。ここから詩は合わせ鏡のようにして前半へもどっていく。
 大きな断絶があるけれど、そこに「行あき」(連の区別)がない--というのは、その引き返しというか、言い直しの意識が田村には当然のことでありすぎて、空きを意識できていないからです。--これは、河邉由紀恵の『桃の湯』の字数がそろった行を重ねて、突然空白をはさんで別の連へつづいていく詩の形とは反対の形式だといえます。ただ、これはきょう話したいこととは別の問題なので、きょうは省略します。
 どんなふうに言葉が「反転」していくか、引き返していくか、それを読んでいきます。
 言葉に感動している「あなた」を書いてしまった。言葉にしてしまった。だが、それはほんとうに「意味のある言葉」だったのか。「あなたのやさしい眼のなかにある涙/きみの沈黙の舌からおちてくる苦痛」というのは、いかにも「現代詩」らしい言葉の動きなのだけれど……。
 田村は、「涙」という言葉に、まずもどって行きます。もどりながら、田村は自問する。自分自身に問いかけている。

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

 この1行は、この連でいちばん大事な問題点を含んでいます。
 「意味があるか」と田村は書いている。これは、いままでの「意味」という言葉がでてきたときとは違っていますね。1連目に「意味が意味にならない」ということばがある。意味は、「なる」ものである、というのがこれまで読んできたことがらです。
 でも、田村は、ここでは「ある」をつかっている。
 ここに、注目したいと思います。

 涙はなぜ流れる?
 「あなた」が美し言葉に復讐されて血を流した。「血」は「感動」の比喩でしたね。「涙」もまた感動の印です。
 感動というのは、言葉のなかにある「意味」に気がついて、こころがおこす現象だけれど、その「涙」のなかにほんとうに「意味」はあるのか。田村は問いかけている。
 これは、まるで「あなた」の「涙」に意味があるか、と問いかけているような感じがするけれど、そうではないのだと思います。自分に問いかけている。
 田村は「涙」ということばをつかってしまったが、そこに「果実の核ほどの意味があるか」。このとき「意味」は「意味」というより「実質」てきなもの、ですね。具体的な内容と言い換えることができるかな? ほんとうに感動に値することがあったのか、問いかけている。
 さらに「血」という言葉をつかったけれど、その「内容」はどうだったのか。その「血」という「比喩」に「夕焼けのひびき」があるか--これも「比喩」になると思うけれど、それがあるか。
 「比喩」、これは、つまり「言葉」ですね、その言葉のなかに「比喩」に匹敵するほどの「意味」はあるか。
 「比喩」は「意味」をつくりだすこと、「比喩」によって、言葉は別の意味に「なる」のだけれど、その「なった」はずの「意味」のなかに、ほんとうに「内容」は「ある」のか。
 田村は、とっても面倒くさいことを、自分自身に問いかけています。自分の書いてしまった「言葉」について問いかけて強います。

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田村隆一試論(3-3)

2011-09-13 23:57:59 | 現代詩講座
 そして、最終連。
 いろいろ問いかけて、最初と同じ1行にもどります。3連目のまん中から反転するというのは、このことでわかると思います。

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ち止まる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

 最初の1行は、冒頭の1行と同じですね。1行目と2行目をちょっと短縮して、「言葉をおぼえたおかげで」という形で、3連目のつづきを話したいと思います。(括弧にくくった部分は最後に話します。)

言葉おぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ち止まる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

 これは、言葉を書くこと、言葉で「意味」を書くことをおぼえたおかげで、ぼくはあなたが涙を流している様子をことばにしてしまう。そして「意味」を考えてしまう。「意味」をつけくわえてしまう。「涙」が「哀しみ」という「意味」になるということを知ってしまって、そのことを考える。あなたの「涙」、その「涙」のなかに「ある」意味を考える。考えていることを「立ち止まる」と言っているのです。
 これは3連目の「立ち去るだろう」の反対のことばですね。言葉を書くことを知らなかったら、言葉がなかったら立ち去っていた。けれど言葉があるので立ち去らずに立ち止まる。
 ただ立ち止まるだけではなく、それは「帰ってくる」ことでもある。
 「涙」のなかに「立ち止まり」、「血」のなかへ「帰ってくる」。2連目、3連目をちょっと振りかえってください。涙と血は「感動」につながる「同じもの」でしたね。
「血」はこころの奥で流すもの。涙は「眼」から流れる。「涙」よりも「血」の方が奥が深い。(奥が深い--という表現でいいかどうかわからないけれど、もっと深刻というか重大なものですね。)
 涙が表層であるとすれば、血は深層。
 涙を血という比喩で言い換えるとき、田村は、あなたの「内部」へ(意味の内部、感動の内部、かな?)へさらに奥深く入っていく。
 このことを田村は「帰ってくる」は書いている。「入っていく」「尋ねていく」ではなく「帰ってくる」。
 これは、どういう「意味」だろう。
 もともと田村は「あなたの涙、きみの血」のなかにいた、ということですね。
 でも、へんですね。そんなはずはない。「あなた」や「きみ」が「あなた」「きみ」であるのは「ぼく」とは別人だから「あなた」「きみ」ですね。
 だから、ここに書いてあることは、「比喩」なんです。
 「比喩」というのは言葉をつかって、「いま/ここ」にないことをあるようにみせかけるものです。この詩でつかわれている表現を利用していえば、「比喩」は「いま/ここ」にないものを借りて、「意味」をつくることですね。「いま/ここ」にあるものの「意味」を、「いま/ここ」にない「意味」にかえる。「いま/ここ」が別の意味に「なる」ということです。
 あなたの「涙」「血」を書くことで、「あなた」になる。
 「ぼく」が「あなた」になるのは、まあ、比喩のなかでは「可能」だけれど、現実には不可能ですね。
 この「不可能」のことを「愛」と呼ぶことができると思います。
 「愛に不可能はない」。

 で、最後に。ここからが、私が今回ほんとうにいいたいことです。
 「おぼえる」。この言葉について考えてみたい。
 「知っている」と「わかっている」の区別は、何度か言いましたね。まあ、私の「独断」なのかもしれないけれど「知っている」と「わかる」は違う。「射殺」は言葉として知っているが、ほんとうは「わかっていない」。
 では、「おぼえる」は、どうだろう。

 「知る」「わかる」「おぼえる」はどこが違うと思いますか?
 「知る」「わかる」のとき「射殺」を例にして話しました。「射殺」は言葉として知っている。でも「肉体」はそれを知らない。ピストルを撃ったときの反動。相手が血を流すのを見たときの衝撃。死んでいくのを見るときの気持ち。目も耳も肌も、何も知らない。「わかる」というのは「知識」ではなく、「肉体」でそれを受け止めることだと思う。肉体のあらゆる部分が「知っていること」が総合されて「わかる」と言えるのだと思う。
 「おぼえる」にはやはり「肉体」が関係していると思う。
 田村は、最後に「日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで」というとても変な1行を書いている。わざわざ「外国語」という表現をつかっている。「あなたの涙/血」を書くのに「外国語」をつかっていない。ここには外国語はひとことも書いていないのに「外国語」を「おぼえたおかげ」と書いている。
 変でしょ?
 「日本語」とわざわざ書いているのも変ですね。さっき省略したように「言葉をおぼえたおかげで」で十分「意味」は通じる。それなのに「日本語」「外国語」ということばをつかっている。
 変ですね。
 その変なところは、またまたわきにおいておいて。
 「外国語」。たとえば「英語」。「This is a pen.」知らない単語はないですよね。みんなわかりますよね。
 もう知っていること、わかっていることについてこういうことを聞くととても変なのだけれど、

質問 英語をおぼえるとき、どうしました?
「書いたり、声に出して読んだりしました」

 見て、読んで、書く。このとき、「見る」は目をつかう。「読む」ときは喉や口をつかう。そして、動かす。書くときは目で見ながら、手を動かす。そこに「肉体」の動きが入ってきます。「肉体」をつかっています。
 何かを「おぼえる」というのはもちろん「頭」もつかうけれど、基本的には「肉体」(体)をつかって、「肉体」に何かを定着させることですね。

受講生「肉体で、おぼえたことって、忘れないですね。自転車にのるとか、泳ぐとか、一度おぼえたことは忘れないですね」
受講生「忘れない、というより、忘れられない、かな」

 そうですね。ほんとうに、そう思います。
 先に、みなさんの方から「答え」というか、私がいいたいことを言われてしまったので、私の説明がしにくくなるのだけれど……。

 ここで、こういう例を挙げるのはちょっとまずいのかなあとも思うけれど。「おぼえる」には、酒をおぼえる、とかセックスの快楽をおぼえるというような使い方がある。もちろん、酒の味を知っている、セックスを知っているという言い方もあるけれど、「おぼえる」は、何かもっと実践的ですね。あるいは、どっぷりつかっているといえばいいのかな? おぼれてしまう。じっさいに、肉体を動かす。「知る」は頭でコントロールするけれど「おぼえる」は肉体が反応する。自然に動く。酒やセックスをおぼえ、それににおぼれるというのは、それが忘れられないということですね。

 で、脱線しすぎたので、ちょっともどります。

質問 外国語を知っている、わかる、おぼえる。--このとき、知っている、わかる、おぼえる、の違いはなんですか?
「おぼえたことはつかえる」

 そうですね。「おぼえた」外国語は、「つかえる」ということですね。
 さっき英語を例にしたけれど、フランス語、ドイツ語、アラビア語--それは、文字を見ればある程度「わかる」部分がありますね。見て「知っている」。だから「わかる」。まあ、それを「おぼえている」のでわかる、と言えるかもしれないけれど、知っている、わかるだけでは、つかえませんね。つかえる言葉が限られている。
 ズィス・イズ・ア・ペンくらいならいつでも言える(つかえる)かもしれないけれど、ややこしいこは言えない。たとえば、私がいま話していることを私は英語では言えない。おぼえていないからです。おぼえるというのはつかえるようになることなのです。
 自由に動かせるということです。
 自転車乗りや水泳をおぼえる--その結果、自由に自転車をこげる、運転できる、自転車がつかえる。水泳なら、手足がつかえる。泳げる。

 このことから類推(?)していくと……。

 田村の書いている1行。「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」は、「言葉なんかつかえるようになるんじゃなかった」ということになるのだと思います。言葉をつかえるようになった。それは言葉で「意味」をつくる(成立させる)ことができるようになる、ということになります。
 「あなたが美しい言葉に復讐されても」というのは、変なことばですね。そういう「つかい方」は、だれもしていない。だれもしていないけれど、田村はそういうつかいかたができる。それが「おぼえる」なのです。
 言葉をそれまでつかわれていたつかい方ではなく、田村自身のつかい方で動かし、しかも、それに深い「意味」をこめることができる。いままでの言葉のつかい方では言えなかったことを言える。それが「おぼえる」なのです。

 前回、田村隆一風の詩を書いてみましたね。まねしてみましたね。
 このまねしてみるというのは、「おぼえる」ことです。外国語をおぼえるとき、まねをする。まねのつみかさねです。まねの積み重ねで「肉体」のなかに何かが溜まる。そのたまったものがエネルギーになって、動く。その動きを肉体で制御できる。それが「おぼえた」ということになります。
 「言葉なんか知るんじゃなかった」(知らなければよかった)ではなく「おぼえるんじゃなかった」と田村が書いている--その1行がいちばん印象に残ると私が言ったのは、そういう理由です。
 私は、この詩の「おぼえる」のように、「肉体」のなかを通って出てくる言葉がとても好きで、そういう言葉を書いている詩人が好きだし、そういう詩が好きです。そして、こんなふうに「肉体」と結びついて自然に動く力をもった言葉を「肉体のことば」といったり、また「ことばの肉体」という言い方で、詩を読むときの基準にしています。

 最後の連には、もうひとつ、大事な要素があります。
 2連目と比較して、何かが違います。
 2連目は「あなた」が「復讐される」、「きみ」が「血を流す」。ところが、最終連は「ぼく」が「立ち止まる」、「ぼく」が「帰ってくる」。これが、大きく違います。
 2連目では「言葉のなかにある意味」によって、「あなた(きみ)」が復讐され、血を流す。無傷の状態が、傷を負った状態に「なる」ということが書かれていました。
 いま言った「傷を負った状態になる」の「なる」は、「意味が意味になる」というときの「なる」と同じで、変化です。
 このときの「主語」というか、「なる」の変化は「あなた」「きみ」に起きています。「あなた」「きみ」が、いわば主語です。
 ところが、最終連では、「ぼく」が「なる」のです。
立ち止まる状態に「なる」、あるいは「立ち止まる」という運動をする人間に「なる」。「帰ってくる」という状態に「なる」。帰ってくるという運動をする人間に「なる」。
 それは、言葉を書くということは(ことばをつかう)ということは、別の人間に「なる」ということにつながります。

 詩を書く前と、詩を書いたあとでは違う人間に「なる」。
 詩を読む前と、詩を読んだあとでも同じですね。読んだあとでは、違う人間に「なる」。
 この詩の中の表現をつかっていえば、田村の美しい言葉を読んでしまったあと、あなたは復讐されて、こころが血を流してしまった。傷ついた人間(ことは比喩ですが)に、「なる」。
 一方、何かを「おぼえて」、実際にそれをつかいこなす。そうすると、そのときから、そのひとは「別の人」にななっている。田村は、そういうことばを書くことによって「詩人」に「なる」。なっている。
 人間には肉体があるために、その「別の人になる」という感じがなかなかわからないのだけれど、「こころ」は変わっている。別の人になる、そういうことがありますね。
 で、この「別の人になる」ということを、この詩にあてはめると……。
 2連目で、田村は「ぼくとは無関係だ」「そいつも無関係だ」と「無関係」を強調していた。けれど最終連では「無関係」ということばをつかっていない。逆に、「きみの血のなかに」ということばをつかって、「きみ」の「なか」に入っていく。「関係」ができる。「きみ」と「ぼく」は「無関係」ではなく、「きみ」の「なか」に「ぼく」がいるという関係になる。
 ここにも大きな変化がある。「ぼく」は「きみ」になる。これは一体になるということ、愛するというこ意味にもなると思います。
 言葉のこと、あるいは詩を書くことをテーマにして田村はこの詩を書いていると思うけれど、どこかロマンチックな感じがするのは、そういうことかな、と思います。



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