詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「若葉頃」ほか

2011-10-18 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「若葉頃」ほか(「投壜通信」02、2011年09月10日発行)

 池井昌樹「若葉頃」は不思議なをかかえてことばが動いていく。

ちょっとでかけてくるよといって
あなたはこどものてをひいて
それっきりもどってこないのです
わかばのきれいなあさのこと
はちまんさまのいしだんで
あなたはこどもをあそばせながら
めをしばたいておりました
こどもはなにかみつけては
あなたのもとへかけれどり
なにかしきりにおはなししては
あなたをはなれてゆきました
もうもどらないあのこども
あなたはいまもまちながら
わかばのきなれいあさのこと
つとめへむかうばすのまどから
あのいしだんがゆきすぎて
はちまんさまのけいだいが
あとへあとへとゆきすぎて
ものみなははやゆきすぎて
もうもどらないあのふたり
まちわびているとおいいえ
わかばのきれいなあさのこと
とおいいえにはひがあたり
おやすみのひのごちそうの
したくもすったりととのって

 「あなたはこどものてをひいて/それっきりもどってこないのです」「あなたをはなれてゆきました/もうもどらないあのこども/あなたはいまもまちながら」「もうもどらないあのふたり」と「もどらない」ひとが変化してゆく。
 もどらなかったのは、だれ? 「あなた」と「こども」の二人? たしかに「あなたはこどものてをひいて/それっきりもどってこないのです」とある書き出しは、「あなた」と「こども」の二人がもどってこなかい、と読むことができる。
 でも、そうなら、「あなたをはなれてゆきました/もうもどらないあのこども」と書けるのだろうか。なぜ、「こども」が「あなた」を「はなれてゆきました」ということを書けるのだろう。だれから聞いたのだろう。どうして知ったのだろう。二人はいっしょにどこかへ行ったのではないのか。なぜ「あなたはいまもまちながら」なのだろう。「いま」、「あなた」が「こども」を待っているのなら、「あなた」は「いる」、「もどってこない」ではなく「もどってきた」。そして、「いま」「あなた」は「こども」を「まっている」ということになる。
 「もどらないあのふたり」が「事実」だとした、「いまも」「あなた」が「こども」を待っているというのは、どうして?

 おかしいでしょ? 矛盾してるでしょ?

 でも、矛盾していないのだ。
 いや、これは変な言い方だね。
 矛盾している。けれど、その矛盾をとかしてまう「視点」がある。

 「いま」ということばを池井はつかっているが、その「いま」は、たとえば2011年10月18日ではないのだ。この詩は「若葉頃」というタイトルがついているから、2011年5月5かと仮定してみてもいいけれど、その日常の暦で特定づけられる「日にち」をもった「いま」ではないのだ。
 「時間」を超えている。
 あらゆる「時間」の「いま」、「いま」思い起こすときの「いま」。「いま」と思うときの「いま」なのだ。そしてそれは「あのとき」と重なっている。「こども」が「だんだんはなれていったきり/もうもどらない」という「あのとき」。そう「知ったとき」。
 池井の書く「とき」には、「知った」とか「わかった」とかのことばを重ねてみるとわかりやすくなる。「知った」とか「わかった」ということばとともにある「とき」は、実は「とき」ではない。「知った」「わかった」というこころの動きがそこにあるだけで、それは「いつでも」、それを思い起こす瞬間に重なり、一つになるのだ。

 あるとき、あなたはこどもの手を引いて出て行った。戻って来ない。それを「いま」思い起こすとき、「あのとき」と「いま」が重なり、その「重なり」のなかでこころが動く。
 あなたが帰らないこどもを「いまも」待っているというときの「いま」は「あのとき」である。「あのとき」待っていたのだ。けれど、それを「いま」と書いてしまうのは、帰ってこないこどもを待つときの「気持ち」そのものになってしまっているからだ。何かとこころから一体になってしまうとき、そこには「時間」がきえる。「時間」を超えてしまう。どんなに遠い過去であろうと、まざまざとその瞬間を思い起こすとき、その思い起こされたものは、思い起こしたひとにとっては「いま」なのだ。
 「あのと」を「いま」と同じように、感じる。その「感じる」こころのなかで「いま」と「あのとき」は重なる。重なりうるから、こころが動く。
 「もうもどらないあのふたり」というとき、ひとが思い起こすのは「いま」のふたりではない。「いま」のふたりは「あのとき」のふたりではなく、もう年をとっているだろう。けれど、「いまも」「あのとき」のままのふたりをひとは思い出す。思い起こすとき、「いま」は消えさり、「あのとき」が「いま」になる。そうして、「いま」が「あのとき」にもなる。「いま」と「あのとき」は区別ができる(別々のことばでいうことができる)けれど、その区別を超えてしまう何かがあり、超えながら動くこころというものがある。
 池井の書いている「いま」は、そういう形をしている。そういう「運動」そのものである。

 そのとき。

 「あなた」と「こども」はどうだろうか。
 私にはやはり重なり合って見える。「あなた」はたしかに「こども」ではないのだが、「あなた」と「こども」の二人を思い起こすとき、「いま」と「あのとき」が重なるようにして、そこに「あなた」自身が「こども」であったときも重なる。「あなた」が「こども」であったときのことを思い起こす。
 そこに、「わたし」も加わってくる。この詩には「わたし」ということばは出てこないが、それは「あなた」とも「こども」とも重なっている。
 もどってたないのは、こどもの手をひいてでていった「あなた」であると同時に、「あなた」の父に手を引かれて出て行った「こども」としての「あなた」なのだ。父と子。その二人がいっしょに出て行って、ひかれていた手を離し、それぞれに動きはじめる。そういうことは、いつの時代も、「あのとき」も、それこそ2011年10月18日の「いま」も、そして2011年5月の「ある日」にも起きている。すべてが「いま」であり、そのときの父と子はすべての「あなた」と「こども」であり、また「私」でもある。

 すべてのものが「区別」されながら、同時に「区別」をなくして、一体になってあらわれる瞬間--その一体を呼び起こすのは「放心」なのだが、そういう時間を、池井は「いま」ということばでつかみとるのだ。

あなたはいまもまちながら
わかばのきなれいあさのこと

 あ、この2行の音はきれいだなあ。美しいなあ、と私はうっとりしてしまう。
 こういう2行に対して、あれこれつけくわえるのは余分なことなのだろうけれど、すでにその「いま」に対して私は余分なことを書いてきたのだから、もう少しつけくわえたい。
 「いま」と書かれた「時間」が、「あさのこと」と「こと」で引き継がれている。「いま」は「あさ」という「時間」ではなく「こと」なのだ。
 ここに池井の思想・肉体・哲学がある。
 池井は「放心」しながら「こと」を見ている。
 父と子が手を引いていっしょに出ていく「こと」。そのときの二人をつなぐ「手」というよりこころの動き、悦びをみている。
 また、父がもどってこないこどもを待っている「こと」をみている。つまり、その石段に座っている父の姿ではなく、そのときのこころの動きをみている。また、もどってこなかったこどもの「こと」を見ている。こどものこころのう動きを見ている。
 そして。
 そういう二人のこころの動きとは別な場所では、二人が帰ってくるのを待っている「こと」がある。二人を待ちながら動くこころ、こころにあわせ整えられる「暮らし」がある。

わかばのきれいなあさのこと
とおいいえにはひがあたり
おやすみのひのごちそうの
したくもすったりととのって

 それは、実は、もうそこへもどることができない「あなた」「こども」同時に「わたし」が思い起こす「あのとき」ではなく、「いま」なのだ。「いま」それを思い起こしている。

ものみなははやゆきすぎて

 と池井は書いているが、「ゆきすぎる」だけではない。いつでも思い起こすとき、それはあらわれてくる。「あのとき」は過ぎ去らず「いま」のなかに甦り、存在する。

 「上の空」に書かれている「矛盾」はこうしたことを語りなおしたものである。

こんなあさにはこしおろし
こうしてあしをくみながら
こころたのしいうわのそら
なにかくるのをまっている
なにがくるのかこないのか
それさえみんなわすれはて
みんなおんなじかぜのなか
あのはなもゆれくさもゆれ
くもがどんどんゆきすぎて
なにかとっくにゆきすぎて
けれどこうしていつまでも
いつまでもまだうわのそら

 「おんなじ」「いつまでも」「まだ」。時間は消える。「いま」があらわれる。



池井昌樹詩集 (現代詩文庫)
池井 昌樹
思潮社
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野村喜和夫「眩暈原論(その6)」ほか

2011-10-17 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
野村喜和夫「眩暈原論(その6)」ほか(「hotel  第2章」28、2011年09月01日発行)

 野村喜和夫「眩暈原論(その6)」は「視力」とは違った力でことばで動く。「眩暈原論」の「めまい」を「眩暈」と書くとき--視力はたしかに強く動いている気はするが。その漢字のなかに「目」はきちんと含まれてはいるけれど。

虹の不意打ちから遠く、陶酔の朝の人称からも遠く、不意に、待つことがわたくしとなる、われわれのわたくしとなる。

 「不意打ち」「不意」、「遠く」「遠く」、「わたくし」「われわれのわたくし」。この繰り返しをどうとらえるか。
 とらえ方はいくつもある。
 (1)野村のことばが「視力」で動いているから、同じ音の繰り返しに無頓着である。
 (2)野村のことばは「視力」で動いているから、同じ「表記」を繰り返すことで、ことばの存在を印象づける。
 (3)野村のことばは「視力」では動いていない。だから「表記」の繰り返しを見逃す。
 (4)野村のことばは「視力」ではなく「聴力」で動いている。同じ音を繰り返すことで、ことばを加速させる。
 どんな仮説も成り立つ。仮説か成り立つということは、ことばの運動の場合、それはすべて証明されたに等しい。つまり、それは、どっちでもいいことになる。
 とはいえ。
 あるいは、だから、なのか。

 私は、野村のこの詩は「聴力」で書かれている、というとらえ方から見ていく。読んでいきたい。
 野村は同じ音を重ねることで、ことばから「意味」を消していく。そして「音」だけにする。
 声に出して読めば(私は実際には声に出さず、黙読しながら、そのとき私の肉体のなかで動く音を聴いているのだが)、「不意(うち)」「遠く」「わたくし」以外にも、音が響きあっているのがわかる。
 「虹(にじ)」と「人称(にんしょう)」。「遠く(とおく)」と「陶酔(とうすい)。「とおく」「とうすい」は表記の仕方を変えて「とーく」「とーすい」としてみれば、「音」が呼びあっているのが明確になる。
 書きはじめの一瞬、「意味」が野村の頭をよぎったかもしれない。けれど書き終えた瞬間、「意味」は消え、「音」の響きあいが、野村の「肉体」を包んでいるはずである。--まあ、これは野村にしかわからないことだから、私は勝手に書くのだが……。

 次の部分では、音は、もっと呼応しあう。

ほらほら、われわれのわたしくは骨が霧散だ、だらけた無のなかで、無のだらけた網のなかで、網の無のだらけた眩暈のなかで、眩暈の無のだらけた網の睡りのなかで。

 ことばが次々に順序を変えて、そして変えることによって、あたかもそこに「意味」があるかのように装う。(私が最初に書いた、1、2、3、4の例は、実は野村のこの方法を前借りして書いたものだ。)
 どんなことばでもそうだが、同じことを少しずつ順序を変えて動かすと、そのとき生まれる「差異」のなかに、なんらかの「意味」があるように見えてくる。適当にことばを動かし順序を入れ換えているだけなのに、そんなふうに入れ替えが可能であるということが、何かしら、そこに「論理」めいたものがあると勘違いさせるのである。
 こういう勘違いを「眩暈」と呼ぶこともできるが、まあ、それはどうでもいい。
 私よりももっと頭のいいひとが、そこから「哲学」(現代思想?)を引っぱりだしてくれることだろう。
 私は、ただ、音を追いたい。
 「論理」を偽装したことばの運動のなかで、「音」は崩れずに、むしろ明確になっていく。「論理(意味)」は、そのことばの「内容」がどう違うのか識別しようとして、だんだん崩れていく--私の場合は、崩れていく--のだが、それに反して、「音」だけはくっきりしてくる。
 「無」しかなかった音が和音を引き寄せるようにして「網」「眩暈」「睡り」を引き寄せる。--ではない。なぜなら、そこには共通の「音」がない。「音」が呼応していない。
 でもね、もう一度、声に出してみる。黙読しながら、声を出すときに動かす肉体を動かし、それを耳で聞き取ってみる。そうすると、野村の書いていることば、「無」「網」「眩暈」「睡り」のまわりから「だらけた」という「音」が浮かび上がってくる。

 「だらけた」だらけだ。
 論理がだらけ、「だらけた」だらけになっている。
 のではなく、そこに「論理」をというか、何がしかの「構造」があるようにみせかけながら、野村は「音」を楽しんでいるのだ。
 そして、その「音」は「だらけた」というひとつながりの「音」ではなく、「だ」の繰り返しに力点がある。
 「われわれのわたくしの骨が霧散だ」の「だ」。これが「しりとり」のように「だらけた」の「だ」を呼び出し--いや、「だ」のしりとりをすることで、そこから「だらけた」ということばが浮かび上がり、ついでに暴走するのである。
 「だらけた」ではなく「だ」という「音」が、「身分(?)」、いや「存在」か--それを隠すようにして動いている。その動きは「無意味」である。つまり「論理」から逸脱している。
 だからおもしろい--と、いつも私は書くのだが、ひとつつけくわえておく。だから、そこに「思想」がある。「現代思想」とかなんとかではなく、「肉体」そのものとしての「思想」がある。野村自身の「譲れない好み」が生きている。

 「だ」の「音」によってつくりだされるのは「意味」ではなく、ことばが動くときのリズム、疾走感である。それを引き継いで、ことばはさらに動いていく。

同じことだが、生白くて脂ぎった脳髄のなかには、パツンパツンと、物語批判のように膨らんでははじけてゆく気泡があって、異泡があって、それはたとえば、こんなにも心優しいので、おれよりひとり前で、釣り広告でのように世界が終わりそうだ、とか、こんなにも恐れおののいたのに、隕石ひとつ天空から降りてこない、とか、それでもなお、落下のさなかの休息のように、血をおきのように保ち、ただ待つということ、そこに塔は立つか。
             (谷内注・「おき」は原文は漢字。「火」へんに「奥」)

 ここに「意味」を探しても始まらない。「意味」はあるかもしれないが、あったところでその「意味」を読者が気に入るかどうか、わからない。私は「意味」を無視する。そうして、まあ、いろいろあるのだけれど、最後の、

血をおきのように保ち、ただ待つということ、そこに塔は立つか。

 を、とても気持ちよく感じた、と書いておきたい。
 「保ち(たもつ)」から「待つ」へ、さらには「立つ」へと音が動いている。「ま行」の揺らぎと、それをおさえる「つ」。
 「目」ではなく、「音」が「めまい」をおこすのである。



 広瀬大志「ギロチン」。

しかも仰向け
にその垂直さを
見上げるならばだ
夜の高みは刃を吊るすだろう沈黙の徴(しるし)を、その一番奥に。

 これは、ギロチンが上からすとんと落ちてくる感じをそのまま視覚でもわかるように行変えに工夫をこらした作品なのかもしれない。
 それはそれでおもしろいとは思うけれど。
 私には最初の3行のリズムが4行目で変わってしまうのが残念。


ZOLO
野村 喜和夫
思潮社
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根本明「寂しい遊具」

2011-10-16 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
根本明「寂しい遊具」(「hote 第2章」28、2011年09月01日発行)

 根本明「寂しい遊具」はことばの「距離感」がおもしろい。

埋立地を低く雨雲が陰らせ
視界の先にボートタワーは水けむりに咽ぶ者のように
白く白濁して揺れている
五月十二日午前、
京葉線のガードを潜り
海までの真直ぐの道を郵便局、美術館をよぎるが
これは私が記憶する光景ではない

 街の描写がつづき、唐突に「これは私が記憶する光景ではない」という行があらわれる。だが、不思議なことに違和感がない。それまでの描写に「熱」がないからである。冷めている。この「熱」は「情熱(こころ)」の問題ではない。「体温」(肉体の温度)、体が自然に発する「熱」である。ある--かもしれないが、冷えている。「埋立地」という人工の場所、「雨雲」「陰らせ(る)」ということばからはじまり、「視界の先」の「先」が「ここ」ではない「遠く」を感じさせることが影響している。
 いいかえると、ことばが響きあっている。
 そうして、その響きのなかに、この「視界の先」ということばが象徴している「私」と「対象」の「距離」がある。「間」がある。
 「体温」というのは「間近」なら感じることができるが、遠く離れるとわからない。そして、そこに「間」があるということは、そこに「私」以外のものも存在しうることを意味する。
 ここから「これは私が記憶する光景ではない」ということばが「寂しさ」としてあらわれる。
 「私」の「体温」が反映されない風景--というのは、また「他人の体温」も反映されない風景ということになる。街の風景--そのことばは響きあうが、そこには響きあう「体温」がない。そして、これには「視線の先」ということばのなかにある「視線」、つまり視力が強く関係している。
 根本は「目」でことばを動かすのである。「目」で対象と出会うのである。「対象」はある距離(離れた位置)で、対象と出会い、その「間」をことばが動く。

建物はどれも縁をかすませ
陰りによって膨張し、あるいは削れている
道は平らであるように見えて
バウンドしうねる波を重ねている
地揺れによってぶれた輪郭が
物それぞれのかさぶたのように貼りついているのか
埋立地、ここでは強固であるはずの物の意味が崩れ
時間も烈しく歪んでいる

 根本のことばが「視力」で動くのは、「見えて」に直接的にあらわれている。
 おもしろいのは、「地揺れによってぶれた輪郭が」という1行である。「地揺れ」は視力で捉えることができないわけではないが、(私は地震のとき、実際に地面が波うって動くのを見た経験がある)、基本的には「目」よりも体全体で感じるものである。だから、目をつぶっていても、眠っていても感じることができる。この「地揺れ」を「視力詩人」である根本は、「ぶれた輪郭」ということばへ引き継いでゆく。「ぶれた」を判断するのは一義的に「視力」である。(手で触っても確かめることができるが。)
 ここには、根本独特の「論理/思想」(肉体)がある。
 こういう「肉体」がことばを奥深いところから揺さぶると、ことばは軋む。ことばは自分自身を復元しようとして、変な具合に動く。
 「物それぞれのかさぶたのように貼りついているのか」という疑念をくぐったあと、

埋立地、ここでは強固であるはずの物の意味が崩れ
時間も烈しく歪んでいる

 街が、その風景が突然消えて、「見えないもの」があらわれる。「観念」で動くことばがあらわれる。--「思想」のことばというか、「哲学」のことばというか、「意味」だの「時間」だのという「抽象的」なことば、目には見えないことばが、「私」を代弁する。

これは私(根本)の意識以外のなにものでもない

 という1行を、「これは私の記憶する光景ではない」という1行に対抗する形で、私は、かっこに入れて、読む。

 さて。
 「視力詩人」の根本は、この「観念」(抽象)から、どうやって「光景」へ戻っていくか。詩のことばを復元させるか。
 2連目である。

犬とすれ違う、男が引きずられている
その目の奥で白い飛沫が波うつのが見える
男にもわたしが伸びあがっては大きく息を吸い込むのが見えるだろう
もうわたしたちはこのようにしか歩行できない
薄いガラス板としてめぐらされ
ときに透き通って潮が流れるのが見えるここでは

 「目」「見える」「見えるだろう」「見える」。
 「視力詩人」は「観念」から現実へもどるとき、「視力」に頼るしかない。--というか、まず「視力」が動く、ということが、ここに端的にあらわれている。
 根本の「視力」は彼自身を「視力詩人」にすのるは当然としても、ここでは、それを逸脱して、他者さえも「視力人間」につくりえかてしまう。

男にもわたしが伸びあがっては大きく息を吸い込むのが見えるだろう

 「男」から「わたし(1連目では私だったが、2連目から急にひらがなにかわっている--「意味」とか「時間」ということばを書いたしまったために、人格が別次元になった証拠がここにある)」がどう「見える」かということは、「わたし」の問題ではない。男は「大きく息を吸い込む」ときの「わたし」の「息」を「聴いた」かもしれない。あるいは、「伸びあがっ」たときに動き空気の動きを肌で感じたかもしれない。触覚で感じたかもしれない。もしかしたら、そのひとは目が見えないかもしれない--ということは、根本は考えない。
 他者を「視力人間」と無意識に断定し、その断定から「見えるだろう」と推測する。
 根本の思想と肉体の関係が、特徴的にあらわれた部分である。

 この1行から、「これらは私が記憶する光景ではない」という1行にもどると、何が「見えてくるか」(根本ふうに、視力から、ことばを動かしてみる)。
 「この光景」は、では「だれの記憶」なのか。
 ここに住んでいる(住んでいた)ひとたちが「見ただろう」光景である。「私」以外のひとたち--そのなかに「私(わたし)」は「光景」の一部としてくみこまれていく--「そのひとたちの記憶の光景」ということにならないか。
 「わたし」を含むそのひとたちの記憶・光景を、「わたし」は犬に引きずられて歩いている男と「わたし」との隔たり、距離、間のなかに見るのである。男と「わたし」の距離、間のなかで生きる--間だけが、そこに存在する。
 この感じが「寂しい」につながる。

 3連目は、確認した「寂しい」という「こころ」で見つめなおした埋立地(遊園地?)の光景である。「記憶」ではなく、いま、「わたし(根本)」が「見る」光景である。
 ことばが1、2連目に比べるとちょっとぎくしゃくする。
 「思想」をくぐり、「薄いガラス板としてめぐらされ/ときに透き通って潮が流れる」というような「比喩(目に見えないもの)」を通過したために、ことばが喘いでいる。--これは、悪いという意味ではなく、その変化がおもしろい、そういう変化を見てとれるということなのだが……。

タワーに昇り埋立地を見はるかしたい
市原の焼け焦げた石油タンクや足萎えたクレーンを数えたい
けれどタワーは制震装置の故障のため動かない
動物公園で沈黙する観覧車の前の子供たちと同様に
わたしはこのあやうい地に押し付けられたまま
低い雨雲のあいまに
ケシ科の雑草の花群れが不意に広がるのを
そのそぐわない桃色をいぶかった



この黄昏のあやかしに
根本 明
ミッドナイトプレス
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岡井隆「旧師についての私信風の呟き」(補足)

2011-10-15 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
岡井隆「旧師についての私信風の呟き」(補足)(「現代詩手帖」2011年10月号)

 岡井隆の「旧師についての私信風の呟き」は、あっちへ行ったりこっちへ来たりという感じでことばが動いてゆく。この詩は「朔太郎特集」の内の一篇で、当然、朔太郎のことも出てくる。真っ正面から朔太郎をこう思うというようなことは書いていないのだが、岡井が、朔太郎の「指向していたもの」にいつも触れている感じがする。そして、その触れている感じは、朔太郎から離れたときの方が「輪郭」が見えるように思える。接近すると朔太郎の磁場にのみこまれる。接近するにしても、たとえばこの詩の場合でいえば清岡卓行の詩を引用している部分があるが、そういふうに他人を媒介にして接近すると、ただ接近するだけでは見えなかった「輪郭」が見えるような……。

 私は、何か明確な結論や主張があって書いているわけではない。「日記」なので、どうしてもメモという形でほうりだしてしまうことになるのだが、たとえばこの詩の最終段落。

昨夜は石井辰彦の歌集『詩を弃て去つて』をめぐつて八人の歌人が論じ合ふといふ歌の宴につらなりました。むかし朔太郎の「竹」のなかの「繊毛」といふ詩語の<訓み>についてセンモウとよむのかワタゲとよむのかただそれだけのことを--これこそ師のいはれる詩語のコンコーダンス(索引)に属するのかと思ふが、荒木亨、菅谷規矩雄、那珂太郎、北川透たちが集まつて来て喧喧諤諤の議論になつたのを想起しました といふのはわたしたちの今の世の批評会はまことにしづかに進行して

 征(ゆ)きなさい!詩人なら…………太陽の箭(ヤ)の降り注ぐ地へ。詩を弃(す)て去つて
                              (石井辰彦)
といふ歌の中の記号についてまたルビの仮名の書き分けについて「弃」「箭」などの漢字の選びについてあれこれ言ひ出すこともなく 「征きなさい」といふすすめの含む挑発の前にただ黙つて あるいは微笑しながら立ち尽くむほかなかつたのでした あの巨大な朔太郎的主題は本当に今も生きてゐるのだろうかと疑ひはふかまるばかりです

 ことばをどこへ向けて放つか、詩をどこへ向けて放つか。
 それは「テーマ/題材」に深くかかわることだろうけれど、そのとき私が気になるのはことばの音である。あるいは音のための「表記」である。
 岡井が実際に考えていることは、私の感じていることとは違うかもしれないが、たとえば「繊毛」を「センモウ」と音にするか(声にするか)、「ワタゲ」と音にするか(声にするか)では、「肉体」の反応が違う。
 そしてこの「肉体」の反応は、そのとき喉とか耳だけではなく、目にも跳ね返ってきて「繊毛」という漢字そのものを揺さぶる。そこに複雑さがある。「繊毛」という表記が「センモウ」と読んだり「ワタゲ」と声にするとき、目の前から消えてくれれば問題は違ってくるが、どんなふうに音にしても、そこに存在し、それがもう一度「肉体」のなかへもぐりこもうとする。
 このときの、「肉体」の軋み--それは「肉体」であると同時に、「国語の伝統(?)」というか、「文化」の問題にもなる。
 そのことを、どうことばにすれば対話になるのか。議論になるのか。あるいは議論を決裂させる闘いになるのか。
 そういうことが、詩の場合、もっと問題にされていいのではないだろうか、と岡井は石井の短歌を読みながら感じたのだと思う。けれど選考会では、そういうことが起きなかった。これは、どうしてなのか--と岡井は自問する。
 その自問の先に、岡井は、朔太郎の存在を見ている。

 今書いたことと、きのう書いた「旧かな」、五十音図による文法の強化(修正?)は別の問題かもしれないが、私の「肉体」のなかではつながっている。つまり、未整理のまま、ごちゃごちゃのままうごめいている。
 だから--だから、というのは、変かもしれないけれど。
 岡井のことばの強さ、いま、ここにあるものをまるでつかんでは放り投げるという感じのきままなしなやかさがうらやましい。そこにはことばというよりも、ことばと向き合って対峙している岡井の「肉体」がある。鍛えぬかれた骨・筋肉があり、響きのよい声帯があり、不思議な共鳴装置をもった耳があり、文字にまどわされない視力がある。
 そのオーラ(?)を感じ取り、ことばがおのずと、岡井に従って動きはじめるという、ことばの「自立(自律)性」も感じる。岡井に動かされるふりをしながら、ことばはことばの望む運動をかってきままにしており、岡井がそれを追認しているという感じもする。ことばがいろいろな束縛をとかれ自由になり、動いていくとき、そこに詩があり、それを追認するとき、ひとは詩人になる。--そういう幸福を感じる。
 「いや、私は苦労して書いています」と岡井は言うかもしれないけれど、その岡井の「苦労(?)が私には巨大な「自然」に見える。



現代詩手帖 2011年 10月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
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スタンリー・ドーネン監督「シャレード」(★★★)

2011-10-15 19:14:51 | 午前十時の映画祭
監督 スタンリー・ドーネン 出演 オードリー・ヘップバーン、ケーリー・グラント、ウォルター・マッソー、 ジェームズ・コバーン

 オードリー・ヘップバーンのおもしろさは現実感のなさである。この映画でも、その魅力が発揮されている。どれだけ食べても太らない――という非現実的な人物造形からそうだけれど、それより。
 「ケーリー・グラントってハンサム、結婚したいわ」
 と、どんな状況の時でも思ってしまう軽薄(?)な感じが、とてもいい。どうせ映画なんだもの。
 情況というか、ストリートは無関係に、ケーリー・グラントの顎えくぼを指でさわって「ここも髭そるの?」なんて、好きだなあ。そうか、顎えくぼはセクシーの象徴か。マイケル・ジャクソンは成形して、わざわざつくっていたなあ。(私はつくらなくても、あります――と、突然宣伝。)
 リンゴリレーもいいけれど、ジェームズ・コバーンが、マッチに火をつけてオードリー・ヘップバーンをいじめる(?)ところも好きだなあ。子供っぽいというか、逆に大人っぽいというべきか。ばかばかしいから、うれしくなる。こういう困った時の顔が不思議と色っぽい。
 ウォルター・マッソーと話していて、たばこを吸う。そのときフィルターを嫌って必ずたばこを半分に折るのも、なかなかおもしろい。ヘップバーン以外の女優がやったら「意味」になってしまう。「肉体」が出てきてしまう。
 ヘップバーンに「肉体」が欠如(欠落?)しているためだろうか、私はときどき、ヘップバーンの「動き」を真似してみたくなる。このたばこのシーンが、この映画では、その代表例かな。あ、私は医者に禁じられているので、たばこは一度も吸ったことがないのだけれど。
 ヘップバーンの動き(肉体)を真似してみたいと思うのは、まあ、私だけではないかもしれない。映画のなかでは、オチのようにして、ケーリー・グラントがヘップバーンの目を顔の真ん中にあつめて口を開く表情をコピーしているね。
 ケーリー・グラントといえば。あのシャワーのシーンがおかまっぽくておかしい。そのあとバスロブで、しっかり体を隠してでてくるところなんかも傑作だなあ。

 映画はストーリーではありません――の代表作だね。
 ヒチコックが撮ると、もっと「肉体」が濃厚に出てきて、その「肉体」にひきつけれれるんだろうけれど、その場合、ヘップバーンじゃ無理な感じがする。
 まあ、ヘップバーンあっての映画だね。




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岡井隆「旧師についての私信風の呟き」

2011-10-14 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
岡井隆「旧師についての私信風の呟き」(「現代詩手帖」2011年10月号)

 岡井隆の詩に、私はなぜ夢中になってしまうのか。

今年は夢の中を歩いて高崎、そして前橋まで参りました 新幹線の中で同じ朔太郎賞の選考委員である詩人と話し、高崎からは市役所の車の中でもう一人の詩人と話しました(これから選考会に入る前ですから皆候補作については触れないやうにしてゐます)わたしは幼年のころや少年のころを思ひ出して「自分がなぜ嫌はれつ子 いぢめられつ子だつたのか」について愉しさうに語つたのです そしてもう一人の詩人とは「このごろの食事はすつかり薬餌となつた家妻の厳重な管理下にあつてジューサーにかけた濃厚な野菜の汁液をのみそして昼に獣肉なら夜は魚肉」 「それはいいぢやないですか」と相手は薬餌を礼
賛し「国文学 解釈と鑑賞」も休刊になり国文学のとりでが亡くなつたことに話題を移しました わたしはといえば此のごろ《うろうろと生き甲斐なんか探すより亡びゆくものをふかく味はへ》という心境 かといつて《とはいえどなにかを信じてをればこそ此の会合に花さげてゆく》とも思ふのでその花をのちに受賞した詩人とその詩集に捧げたのでしたが

 これは作品の書き出し。
 朔太郎賞の選考に行くときの様子をただ書いている。何かの結論をめざしてことばがうごくわけではなく、そのときの会話そのままに、話題があっちへ行き、こっちへ行き、ふらふらとする。
 これが詩?
 正面きってそう問われたら、ちょっと私は返事のしようがない。
 でも、私は、このふらふらが好き。--というのは、実は、みせかけの(?)現象だなあ。ふらふら動く話題の、そのふらふらが好きなのではなく、ふらふら動きながらも「文体」が崩れない--その強さが好きなのだ。
 自在である。
 いじめられっ子、嫌われっ子と厳しい食事管理(?)に何か関係があるわけではない。それが二つとも岡井の提出した話題であってもいいし、一方が相手が出してきた話題でもかまわない。食事療法に対して「いいぢやないですか」といったのが岡井でもかまわない。
 いや、そんなことはない、というかも知れないけれど……。
 どっちでもいいと、私が感じるのは、その相手が違いながらも、そのことばの奥に流れている強さに変わりがないからだ。
 なぜだろう。
 ひとつは「旧かなづかい」がある。旧かなづかいのことばは「文法(本居宣長が発見した--いや、きっと発明といった方がいいな)」に従っているからだ。「骨」があるのだ。「文法」に統一され、文法をまもって動く。そのとき、話題(テーマ)がどこへ行こうと、ことばは同じ間合いで動ける。
 本居宣長が完成させたのは五十音図と動詞の活用の問題なのかもしれないけれど、それをいつも踏まえて動くためにある「旧かな」--その力が岡井の「肉体」にまでなっている。そう感じるのだ。
 これは「動詞」と活用だけの問題を、しらずしらずに越境する。
 岡井にはそういう意識はないかもしれないが、旧かなを知らず、自分勝手にことばを動かしている人間には1行目の「参りました」が「話しました」と同じ次元で動いているのはもちろんだが、「やうにしてゐます」ともっと強く呼応しているように感じられる。
 「参りました-ようにしています」では、岡井のことばの強さ、不思議な修辞学(統辞法)が狂ってしまう。「意味」でも「音」でもない何か--ことばを「音」とは違う視点でしっかり把握する力が、何気ないことばからあふれていくのだ。
 それをこの詩の中で探すと、たとえば

「自分がなぜ嫌はれつ子 いぢめられつ子だつたのか」について愉しさうに語つた

 ということばの「愉しさうに」である。なぜ、それが「うれしい」? これは、まあ、説明できない。説明できないけれど、わかるでしょ? 自分の「欠点」をみせびらかすときの悦びのようなものなのだけれど、説明しようとするとできない、説明しなくても「肉体」のなかに、それが動きはじめる。
 --この感覚。これが「旧かな」と「動詞活用の五十音図」の関係のように、私には見える。「五十音図」がない時代から動詞の活用はそのままだったのだけれど、五十音図に組み込んだらすっきり整った--というような関係。無意識でもかまわない。無意識でも間違えない。けれど、それを意識化すると、何が正しいかわかる--というような、うーん、うまくいえないけれど、そういう関係。

濃厚な野菜の汁液をのみそして昼に獣肉なら夜は魚肉

 このことばとの「そして」にも、私は、そういう力を感じる。あ、「そして」というのはこういうときにつかうと正確で強い力を発揮するのだ、と教えられたように思うのだ。
 「国文学のとりでが亡くなつたことに話題を移しました」の「亡くなつた」は岡井の誤記か、編集部の校正ミスかわからないが、わからないまま、

うろうろと生き甲斐なんか探すより亡びゆくものをふかく味はへ

 という歌の中でふいに甦るとき--うーん、不思議。
 「ふかく味はへ」は「深く味わえ」と書いてしまうと、「肉体」を刺激する「音」が消えるけれど(私にとって、ということだけれど)、「ふかく味はへ」は非常に刺激的だ。文字を裏切って音が動く--そのとき、「肉体」の奥で、聞こえない「音」がなる。それは「亡くなった音」かもしれない。整理され、消えていった音かもしれない。
 消えていった「音」を呼び戻す--といっても「声」にではなく、「耳の奥」(肉体の内部)に取り戻す方法があり、その「力」をくぐりぬけてことばが動くとき、それがどんなことばであっても、「肉体」に強く統治され、正しく動くのだ。

 あ、私は、でたらめを書いています?
 そうかもしれないなあ。

 ひらがなを発明したとき、万葉の音が消えた、そして「意味」が生まれた--という突飛な感じと同じように、私はとんでもない空想を書いているだけなのかもしれない。
 どうせ、「論理」を無視して感想を書いているのだから書いてしまうと、
 岡井のことばを潜り抜けると、「肉体」のなかに未生のことばが動きはじめる感じがするのだ。本居宣長の五十音図をくぐると、その先に、ことばが文法に統治されない混沌としたままの力があって、それが動きだしてくる感じがするのだ。
 --この感じは「矛盾」しているのだけれど、五十音図をくぐると整理されるというのは本居宣長以前のひとのこと、五十音図をくぐりぬけると過去(歴史以前)へ行けるというのは私たち「現代人」(宣長以降のひと)という「分岐点」が「旧かな」のなかにある、と、これまた、突飛な突飛な突飛な空想なのだけれど。
 岡井の自在なことばを読むと、そういうことを感じるのである。




注解する者―岡井隆詩集
岡井 隆
思潮社
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伊藤悠子『ろうそく町』(3)

2011-10-13 23:59:59 | 詩集
伊藤悠子『ろうそく町』(3)(思潮社、2011年09月30日発行)

 「あなたにあうためには」という作品については一度書いたことがある。この詩は音がとても美しい。

アウローラ、あかつきのひかりよ
あなたにあうためには
はるばるといきてこねばならなかったのだろう
たどたどしくならねばならなかったのだろう

 「ア」ウローラ、「あ」かつき、「あ」なたに「あ」うために--とつながっていく「あ」の音の開かれた音が気持ちがいい。アウロー「ラ」、あ「か」つき、ひ「か」りの「ラ」「か」のなかにも母音の「あ」がある。
 たしか、前に感想を書いたとき、そういうことを書いたと思う。
 その「あ」の透明な美しさとは別に、3、4行目の濁音の音の豊かさも気持ちがいい。「いきてこねばならなかった」「ならねばならなかった」という音のかなの、濁音になるための強い「母音」の響き--肉を、肉体全体を響かせるような音の豊かさが、私は好きだ。
 こういう行を読むと、ああ、濁音のある国語でよかったと思う。
 「いきここねばならなかった」「ならねばならなかった」ということばのなかにある、ことばとことばの複合の感じもおもしろい。「いきてこねばならなかった」は「生きる+くる+ねばならない+かった」と四つの用言から成り立っている。(正しい? 文法など意識しないで書いている、読んでいる、というのが私のありようなので、まあ、書いていることがいいかげんかもしれない。)この用言が四つあるということと、濁音の組み合わせが、なんとも強い感じがするのである。
 この濁音の強い響きに呼応して、濁音がつづいていく。

まだ見えない目には
まなざしがあり
ほのかにふかいまなざしは
しらせをきいて
おとずれたものをなでた
やがて目がみえるようになれば
そのまなざしは
あなたのたましいのふところにしだいにしまわれ
あなたじしんをてらすのだろうか
それとも
ときおりこぼしてくれるのだろうか

 「ときおりこぼしてくれるのだろうか」というのは、なんのことかわからないのだが、わからないからこそ、繰り返し読みたくなる。
 くりかえされる濁音の豊かさと、きっと何かがつながっている、と思うのだ。
 私は、辞書で引いて調べる「意味」よりも、耳で感じる何かの方を信じている。つまり、息が声帯をふるわせ、母音になり、その母音が口のなか(で、いいかな?)のいろいろな器官の摩擦がつくりだす子音といっしょになって、声が音になる。そのとき、何かが肉体の奥へはねかえってくる。そのはねかえりの「感覚」の方が、「意味」よりも正確だと私は思っている。
 私は音痴だし、子ども時代にしみこんだ方言のアクセントがぬけないから、私の感じている「音」というのは、「正確」ではない--というか、他人と共有できないものなのかもしれないけれど、まあ、他人は関係ないのである。
 私自身の問題なのだ。

 伊藤のこの詩を読んでいると、明るい音がある。透明な音がある。その一方で濁音の複雑な音がある。そうして私には濁音の方がなんとも生命力があるように感じられる。この詩には美しいものと、強いものが交錯している。
 きっと、その美しさと強さがしっかりからみあったものが「アウローラ」という人(?)なのだと思うが、その人はあるときは「美しさ」あるいは「明るさ」(ひかりに代表される何か)でひとを引きつけ、また別のときは「豊かさ」「強さ」でひとを引きつける。その「豊かさ」「強さ」は「濁音」の、その「よごれ?」をぎゅっと結晶させるくらいの深い「闇」のようなものだ。
 ひとは明るく透明なものだけでは生きてはいけない。また暗く濁ったものだけでも生きてはいけない。それは出会いながら、他方を確かめ、自分自身を鍛える。なにか、そういう印象がある。
 こんな抽象的なことを書いても詩の感想にはならないのかもしれないけれど、私が感じるのは、そういうことである。
 明るさと暗さ、透明と濁り(不透明」が出会うとき、その瞬間、何かが、

こぼれる

 そんなことを書いていないのだとは思うのだけれど、私はそんなふうに読みたいのだ。
 私は私の耳に気持ちかいい音には寛容だが、不愉快な音、あるいは聞き取れない音には不寛容である--と少し反省もするのだけれど。



詩集 道を小道を
伊藤 悠子
ふらんす堂
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フランク・キャプラ監督「素晴らしき哉、人生!」(★★★★)

2011-10-13 10:53:04 | 映画
監督 フランク・キャプラ 出演 ジェームズ・スチュアート、 ドナ・リード、ライオネル・バリモア、トーマス・ミッチェル、ヘンリー・トラヴァース

 情けは人のためならず――という諺はアメリカにもあるのだろうか。思い出してしまうね。
 この映画のどこが好きか、というと。
 最初の神様の会話。そして、クラレンスの天使。つまり、嘘ってわかるところ。現実ではなく「お話です」というスタイルを守っているところ。この映画がつくられた当時、上様や天使をほんとうに信じていた人がどれくらいいるかわからなけれど、まあ、いないよね。いないとわかっていて、それでもその「お話」に乗る――だまされる。
 なぜだろう。
 誰だって夢を信じたいということだね。真実を通り越して、こうあってほしいと願うこと――その願いが、「お話」を借りることでさらに純粋になる。浄化される。これが「現実」として表現されたら、どうしたって「嘘にきまっている」と思ってしまう。「お話」だと、「嘘だろう、嘘にきまっている」と言えないよね。
 ジェームズ・スチュアートも、なんというのだろう、実直、正直という感じを具現化したような役者だね。美男子じゃない。クラーク・ゲーブルみたいな美男子が演じると、嘘丸出しになる。美男子じゃないから、顔にまどわされず、行動を見てしまう。
 それから、とってもおもしろいのが、もしジェームズ・スチュアートがいなかったら・・・という世界が、絶対的な「悪徳」の世界ではない点。マフィアが街を支配しているとか、みんなが貧困で苦しんでいるとか、ではない。なんとなくすさんだ世界という点。だれでもはまり込んでしまう世界。酔っ払いや売春婦がいる――ちょっと堕落した(?)感じ。
 それが「世界」の現実だとしても、まあ、近づかなければ幸せに生きていくひとはいるよね。(それに、映画製作当時はどうかわからないが、いまは、その堕落した世界がそっくりそのまま現実だから、余計にそう思うのかもしれないけれど。)
 描かれる「幸せ」がつましいのも、いいね。妻がいて、子どもがいて、みんなが「いい人」と尊敬してくれる。大金持ちでもない。金さえあれば何でも手に入るではなく、信頼されれば金さえ手に入る――この、まさに庶民の夢が、きちんと「お話」で語られる。
 これは、いいなあ。



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粒来哲蔵『蛾を吐く』(12)

2011-10-12 23:59:59 | 詩集
粒来哲蔵『蛾を吐く』(12)(思潮社、2011年10月01日発行)

 「壁 Ⅰ」という作品には「独立美術協会会員小久保裕氏に」というサブタイトルがついている。私は小久保裕の絵を知らないが、粒来が書いている作品を読むと、キャンバスに黒い一点を描いているようだ。蜘蛛、らしい。--でも、ほんとうは蜘蛛ではなく、壁そのものを描くのが小久保の狙いらしい。蜘蛛は、「極小の一点」に過ぎず、いわば壁を描くことに夢中の画家からは見すごされている。けれど、描かれる。--ここには、何か粒来の詩と同じような矛盾がある。いや、粒来が小久保の絵を見ると、そしてそれをことばにすると、そういう矛盾が浮かび上がってくる、ということかもしれない。
 この矛盾から「寓話」(寓意)が始まる。平行し、重なり合う二つの世界が、微妙に動き、ずれる瞬間に、ひとつだけでは見えない何かが見える。
 でもね、ほんとうはどうでもいいのだ。そういうことは。「寓話」(寓意)は読みとりたい人間が読みとればそれでいい。ほんとうは「寓話(寓意)」を借りて、そこに現実では描けない「リアル」をことばにした欲望があるだけである。ストーリーなんて、どうでもいい。細部を克明に描きたいから、その細部を描くためにストーリーを拝借している、いや捏造しているだけなのだ。
 あれっ、--これって、もしかすると、そのまま小久保の描く壁と蜘蛛の関係? どっちを描きたい? 壁? 蜘蛛? 蜘蛛を描きたいから壁を描く。壁を描きたいから蜘蛛を描く。
 いやだなあ。「寓話」はだから、始末におえない。何か書こうとすると、知らずに、「寓話」に先回りされてしまう。書こうとしたことを閉じこめられてしまう。

 でも、それを振り切って……。

 「壁 Ⅰ」で魅力的なのは、「寓話」のなかの細部である。

               赤黒い埃のような彼は、はじめは
丸薬のかけらと見えたが、時間の推移と共に、丸い胴体から八方に
脚が出ており、その脚は大雑把にいえば一つの関節によって上肢と
下肢の二分に分たれ、上肢の集約された部位に、つまり中心に胴と
頭がのっていることが確認された。

 蜘蛛の携帯描写である。こういう書き方ができる。こういうことばのつかい方で蜘蛛を描くことができる。それが楽しい。だから、書いてしまう。ことばを「つかう」よろこびである。ことばにしたがって、細部が目に見えるように浮かび上がる。ことばが形になる。
 そして、そこに「つまり」というような、一種独特の、粒来用語をまぎれこませることもできる。この「つまり」は実は「いいかえると」である。ね、粒来っぽいでしょ? すべて「言い換えたい」のである。言い換えたいという「欲望」が粒来の本能である。
 「寓話」(寓意)も、ここから来ている--つまり(あ、粒来用語に感染してしまった)、ある世界を別な世界で言い換える。
 あ、また粒来の「寓話(寓意)」に先回りされてしまって、道をふさがれてしまったのかなあ……。
 まあ、仕方がないなあ。
 で、この「言い換え欲望/言い換え本能」は、さらにつづく。

                しかもよく見ると、関節によっ
て上肢と下肢はさながらバネのように弾みまた撓んで、胴体は常時
上下動している。

 「しかもよく見ると」によって、世界が「言い換えられる」。「見る」ことから出発して「よく見る」へ進むことは、「現実」から「寓話」へ進むのによく似ている。「よく見る」とはいままで見えなかったものを見るということであり、そこにあるものがいままでと違って見えてくるということは、そこから「寓話」が始まるということである。
 「蛾を吐く」について書いたとき、粒来は「視覚人間」がと書いたが、ここにもその特徴がとてもよく出ている。「よく聞くと」ではなく「よく見ると」、そこには違う世界が始まる手がかりがある。だから、それを利用する
 その「よく見る」という運動へつきすすむ跳躍台に、また「つまり」がつかわれる。つまり「いいえると」がつかわれる。

        つまり蜘蛛は壁面を這っているのではない。

 ここにも「粒来語」がある。「つまり……ではない」。つまり(いいかえると)、いま見ている「現実」は、よく見ると「現実ではない」。否定。「現実」を否定して、「寓話」へと飛躍する。「現実」を否定し、「言い換えること」--これが「寓話」の手法である。
 あ、私はまるで蜘蛛の巣にかかった虫だね。どこまで行っても「寓話」に先回りされてしまう。

                            這う
という語感のもつある引きずった感触はない。彼はむしろ跳ぶとい
ってもよい軽快な、八個のバネによって生じる跳躍とその後の静止
への余韻を含んで、ただ動いている。

 ここに登場する「跳躍」。それが「寓話」への跳躍であることは、私がさっき書いたことに通じるのだが、このことを書きはじめるとなんだか「寓話」の重力にのみこまれてしまいそうだから省略。
 いま引用した部分では「語感」が「粒来語」だ。
 粒来は、「意味」ではなく「語感」でことばを動かす。あることばを別なことばで「言い換える」とい「語感」を重視する。
 では、「語感」とは何? 粒来にとって「語感」とは何?
 これがちょっとややこしい。
 私は「語感」というとき、「音」を感じてしまうが、どうも粒来はことばを選ぶとき「音」ではないものを選んでいる。音ではないものに従っているように感じられる。
 視覚、目--つまり漢字によって、ことばを動かしているように思える。

 これから書くことは、私の空想の類である。私の感じたことを「証明」するようなものは何もない。粒来自身にも、それは「無意識」のことだと思う。その「無意識」を私がかってに「意識」と呼ぶのだから、まあ、一種の乱暴な行為、暴力による粒来語への侵略のようなことなのだが……。

 粒来の書く蜘蛛の「寓話」を動かしている「漢字」は何か。「八」という漢字である。いまさっき引用した部分に「八個のバネ」ということばが出てきた。その「八」。これは、さらにまえに、「丸い胴体から八方に脚が出ており」という形でつかわれている。
 「はちこ」「はっぽう」--音が違うが「八」という同じ漢字がつかわれている。それを同じにしているのは「音」ではなく形。視覚がとらえたもの。
 実際に蜘蛛の足は八本あり、それを「よく見る」ことから粒来のことばは動くのだが、そのとき、変でしょ? 変なことが起きない?
 蜘蛛の足は八本。でも、それを文字にすると「八」は実は「二本」棒。「八方に拡がらず」「二方に拡がる」。これは視覚を生きる人間にとって、なんだかむずがゆいような、変ないらいら感が肉体のなかに残る文字である。
 で、「八」なのに「二」ということろから、「上肢と下部の二部に分かたれ」の「二」部ということばが動く。「二」は「一つの関節によって」という「一」をも含む。そうして「一」が意識され、位置の両端に「二つ」が意識されるのだけれど、ちょっと「八」には遠い。いや、ちょっとどころかとても遠い。だから「よく見ると」という具合に言い換えて、「一」「二」からのがれるように、「バネのように弾みまた撓んで」という強引なことばの動きになる。「また」によって、「一つ」の動きを複数化するの。一つなんだけれど「二つ」に分かれ、それが「弾む」と「撓む」の二つに結合されながら分類される。一種の掛け算かな? 1×2=2。それが2×2=4。
 まだ足りないねえ。
 で、「胴体は常時上下動している」。「上」と「下」の2。これが掛け算に加わると、

 4×2=8。

 やったね。やっと「八」にたどりついた。だから、安心して(?)、「その後の静止への余韻を含んで」、ただ動いている。

                 --その時画家が身じろぎし
たのは、私の瞳がものを捉え得た悦びが、もしかすると眼光に何か
の陰影を与えたせいかも知れなかった。

 これは蜘蛛の描写のあとのことばだけれど、蜘蛛から画家へ、「悦び」が共有される。これは「八」の問題が詩人によって解決されたことが影響している--と読むのは、深読み? 誤読? どちらでもいい。私は、この蜘蛛の描写が大好き。そして、粒来がこの詩を書いたのは、きっとこの蜘蛛の部分を書きたかったからだと思う。「意識的」には違うことを書きたかったのかもしれないけれど、粒来の「本能」はこれを書きたがったのだ、と私は思う。



粒来哲蔵詩集 (1978年) (現代詩文庫〈72〉)
粒来 哲蔵
思潮社
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砂田麻美監督「エンディングノート」(★★★★★)

2011-10-12 10:56:59 | 映画
砂田麻美監督「エンディングノート」(★★★★★)

監督 砂田麻美 出演 砂田知昭

 癌を告知された「日本のお父さん(企業戦士の営業マン)」が死ぬまでを、営業マンらしくスケジュールどおりに生きていく姿をとらえている。すべて計画を立て、そのひとつひとつを実行していく。その結果として死がある。
 --というストーリーがどうでもいいというわけではないが。
 いやあ、映画というのは「編集」がいのちだねえ。私は映画をつくっているわけではないのだが、感激してしまった。たとえば銀杏並木があって、その映像が無音のまましばらくつづく。そこへ遅れて音楽がかぶさる。なんでもないシーンなのだが、そうだよなあ、ある風景に出会って感動して、その瞬間に音楽が肉体の内部から鳴り響くということはないなあ。美しい風景に肉体がどう反応していいかわからない。しばらくして、やっと肉体が追いつく--そして音楽が聴こえてくる。
 すべてがそういうものだと思う。
 どんな感動的なシーンでも、瞬間的に肉体が反応するわけではない。次に何が起きるかわかっていても、すぐに肉体が反応するわけではない。わかっていればわかっているほど肉体は反応するまいとかまえる。たとえば、お父さんがお母さんに最期のわかれを言う。お母さんが「いっしょに行きたい」と言う。予告編でも何度も見たシーン。どうなるか、わかっている。そしてわかっているから、私の肉体は身構える。涙を流すまい、泣くまい、とする。その肉体をこじ開けるようにして感情がやっぱり動いてしまう。そして、その頑固な肉体をこじ開け、感情が新しい肉体になるまでの時間--その間合い。遅れてくる真実。こういう時間の動き、肉体の動きを、この映画はとても自然な呼吸、自然なリズムで再現している。
 間がいいのだ。そして、この間は編集によってつくりだされるのだ。
 古いホームビデオのなかに残っていたお父さんとお母さんの夫婦喧嘩のシーンはその典型だ。「おれは会社で一生懸命働いているんだ。酒ぐらい呑んで帰るさ」というような典型的な夫婦喧嘩。そのときお父さんの膝の上に犬がいる。まったく動かない。ぬいぐるみの置物のようだが、これがほんものの犬--というのは、そのあとでわかることなのだけれど、カメラがお父さんの顔から犬の顔に移っていく。そして止まる。それに「おれの見方はは犬だけだ」というような独白が重なり、犬が死んで、その葬儀のシーンというときのリズムが、なんとも温かい。ほんとうはもっとたくさんのことばがあるのだけれど、99パーセントのことばを削りこんで、ひとつだけ、遅れてやってくることば。
 孫について語ったシーンも同じだ。孫がかわいいという気持ちは「じいじ」になった「お父さん」に共通のものだろうけれど、孫といっしょのシーンに遅れて「あごでつかわれる感じがたまらなくうれしい」という実感がおいかけるようにやってくる。実際の「お父さん」の声ではなく、全編、娘が「お父さん」の気持ちを「声」にしているのだが、この「ずれ」というか、やっぱり「映像」に遅れてやってくる「声」がとてもいい。
 「映像」を観客の肉体が理解して、その理解をそっと後押しするように「声」(ことば)がやってくる。あるいは音楽がやってくる。ことばや音楽が肉体をひっぱるのではなく、後押しする。そのリズムが、こんなふうにいっていいのかどうか、ちょっとわからないのだけれど、これから死んでいくひとの人生をそっと後ろからささえる呼吸に似ている感じもするのだ。あ、愛するというのは、こういうふうにひとが生きたいと思っていることを、そっと後押しすることかなあ、とも思うのだ。
 感動的なシーンはいろいろある。そのクライマックスがお父さんとお母さんの別れのことばのシーンだけれど、それとは別に、あ、これはいいなあ、と感じたシーンがある。主人公の「お父さん」が「砂田知昭」という「営業マン」にかえる瞬間、つまり「砂田知昭」しかいえないような「ことば」に出会い、あ、すごい--と実感するシーンがある。生身との「砂田知昭」に会っている感じがするシーンがある。
 予告編にもあったが、息子が父に対し、葬儀の打ち合わせをするシーン。息子が「近親者だけで、というから」と言うと、それを父が訂正する。「近親者だけで葬儀を行ないます、だな」。意味は変わらないのだが、きちんと「葬儀を行ないます」と言えというのだ。(これは、入院してすぐとか、ではなく、ほんとうに死ぬ2日前の会話なのだ。)わかっているから言わないのではなく、わかっていることはすべてことばできちんと説明する。言い漏らさない。--すごいなあ。この「ことばをきちんと最後まで言う」という生き方、姿勢が、砂田知昭という人間をつくってきたのだ。エンディングノートをつくり、それをひとつひとつ消化していく。ことばにして、それをひとつひとつ実行していく。「有言実行」という生き方だね。そのために、「段取り」をする。「段取り」というのは、「有言実行」のための準備なのだ。
 このことばがきちんと息子に引き継がれ、父の死後、息子が電話をかけるシーンがあるが、そこでは「近親者だけで葬儀を行ないます」と成文化して言っている。このシーンがこの映画では、私はいちばん好きだ。「お父さん」はたしかに「息子」のなかで生きている。新しく生きはじめている。いのちは、こういう形で具体的に引き継がれていくのだと実感できる。お父さんとお母さんの別れのシーンのように涙が流れてとまらないというのではないが、胸の底に静かに水面が拡がる感じ、広い広い大地が拡がっていく感じが生まれる。
 この「引き継ぎ」にも、とても自然な「間合い」がある。その「間合い」がこの映画をすばらしく自然なものにしている。人の死をそのまま映像にするというたいへんな仕事をしているのに、それを普通に昇華させている。
 今年見るべき映画の1本である。
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粒来哲蔵『蛾を吐く』(11)

2011-10-11 23:59:59 | 詩集
粒来哲蔵『蛾を吐く』(11)(思潮社、2011年10月01日発行)

 「寓話」(寓意)とは何か。それは一種の「意地悪」である、と思うときがある。たとえ話というか、現実と平行した領域での「物語」が含んでいる「意味」を読者に探させるのは、一種の「謎かけ」である。「謎」などかけずに、いいたいことがあるなら、もっとわかりやすいことばで言ってしまえばいい。それをしないのは「意地悪」である。
 --ということを考えたのは、私か、あるいは粒来か。「笞(むち)」を読みながら、ふと、そう思った。
 粒来が書いているのは古代インカに行なわれた笞打ちの刑の話である。「高貴な婦女子に流し目を送った男やその逆に婦女子からの流し目を受取りかねて狼狽し、あわてふためいて己れ自身を失った者に付与される少しも痛くはない刑罰」をめぐる詩である。なぜ痛くないかといえば、その笞は「罪人」の身を外してふりおろされるからである。
 このとき「笞打ちの刑」そのものが「寓意(寓話)」であるといっていい。
 そして、「寓話(寓意)」とは、そこで語られている「何か」ではなく、そこに登場する「誰か」と「自己同一」するときに、鮮明に動きだす。
 笞打ちの刑のありよう、ぜったいに「罪人」を傷つけないと書いた後、粒来は、物語を続けると同時に物語の内部へ侵入し、そこで「罪人」の視点から刑を見つめなおす。つまり、笞打ちの刑の「謎解き」をさせる。

   罪ある者の誰もが、もしも笞の当たり処が数センチずれ込ん
だら死が招来されることを知らされる。今は幸いそれを免かれてい
るのは、単なる偶然に過ぎないのだ。もしかするとそれは笞打つ人
の温情かお目こぼしによるのかも知れない。従って笞打つ人の虫の
居処が悪ければ、笞は罪人の頭上に振り下されるのだ。罪人は今在
る偶然の生のはかなさに気付く。恐怖の下で、笞の呻りの下で、偶
然性にすがりつきながら震えている哀れな生の情けなさに気付く。
 途端に罪人は己れの屈辱に腹が立つ。蝟集する者の笑顔や歓声が
実は彼への侮蔑でしかないこと。花飾りのついた髪も美服もこれは
まだ死なないでいられる己れの偶然性への依存をあざける人々の、
死の催促でしかないことに気付く。
 ここで初めて罪人は刑の真の意味を知り、その意義に叶うべく身
を処することになる。即ち彼は笞の飛んでくる方向を見定めて頭を
出す。胸を出し顔を差し出す。笞の振り下される地点を誰よりも早
く予知して、自ら打たれ死んでいく。

 「気付く」から「知る」への変化。そこに「真の意味」が浮き彫りになる。
 粒来は、罪人になりすまし、罪人に気付かせ、悟られているのだが--ここになんとも知れぬ「意地悪」がある。気付かない者は、気付かないまま、生き続ける。「真の意味」に気付いた者だけが「死ぬ」。
 ひとは誰でも生きている。生きていいたと思う。死にたくない、と思う。--はずなのだが、そう思っている限り、この作品では「真の意味」は浮かび上がらない。
 変でしょ?
 死ぬために「真の意味」を知る。そして、その「真の意味」に身を任せる。
 変でしょ?

 「真の意味」は粒来の書いた罪人の「認識」どおりかもしれない。けれど、それが「真の意味」だとしても、なぜ、人は「真の意味」を生きて、その結果として死ななければならないのか。その問題が、ここでは放置される。
 それが「真の意味」だと知って、それはそれでいいじゃないか、知らないふりをして生き続けてやるという行動もあっていいはずだが、この詩の罪人はなぜそうしなかったのか。
 あるいは、なぜ粒来は、知っていて、なお生き延びるという罪人の「寓話」へとストーリーを動かさなかったのか。

 ほんとうの「寓話」というか、「寓意」は、ここから始まるかもしれない。
 ストーリーが終わったところから始まるかもしれない。「寓話」で語られたストーリーを裏返して点検し直すことから始まるかもしれない。
 そうして、このストーリーの裏返し--終わったところから始めるというのは、実は、この詩の罪人の生き方と重なる。
 笞はけっして当たらない。そこでストーリーは終わる。けれど、罪人はそこからストーリーを考えはじめる。笞が当たらないのは、罪人を許しているからではない。罪人が偶然に身を任せて生きていることをあざ笑うためである。嘲笑されるとき、その人は、死んでいるのだ。
 --といっても、それは精神的な意味での死になるが。
 そして、その精神的な死こそ、人間にとって「真の死」である。
 「真の意味」と「真の死」の「真」がここで重なる。

 「寓話」とは、現実のストーリーと精神のストーリーが重なり合って、その重なりのなかで「真」(真の意味)を浮かび上がらせる「謎解き」の一種である。

 えっ、そうなの?

 で、そのことは誰が考えたの? 私が考えたことば? それとも粒来が詩のなかに隠していたことば? 罪人が「真の意味」を探り当てたように、私はただ単に粒来の詩の「真の意味」を「知って」みせただけ?

 あ、いやだなあ。こんな袋小路に入りたくないなあ。
 だいたい「真の意味」なんて、なにか、存在価値があるものなのだろうか。単なる「自己満足」に過ぎないかもしれない。「真の意味」を知る方が幸せなのか、知らない方が幸せなのか--幸せを「基準」にすると、もう、何がなんだかわからなくなるね。幸せなんて、あくまでひとりひとりが感じるものであって、そこに「共通項」はないからねえ--なんていうのも「真実」?

 群衆の去った広場に骸が一つ、満足しきった顔で置かれている。
誰かが投げたインカの朱い花がきつく匂う。蒼い空に禿鷹がゆっく
りと輪を描き始める。

 「満足」か。そうか、ひとは「満足」を生きるのか。--ということなど、まったく無視して、空は「蒼い」、そうして「禿鷹」は舞う。人情と自然は出会うけれど、融合しない。融合しない(意味でつながらない)ところに「非情」の美しさがある。さっぱりした美しさがある。
 「真の意味」を発見させながら、「真の意味」とは無縁の美しさを提示して閉じられる詩--この粒来の詩の「真の意味」は?  

 繰り返しになってしまうね。「寓話」は繰り返し、反復を迫る「構造」なのかもしれない。
 もし「真の意味」があるとしたら、たとえばこの詩の罪人がたどりついた「結論」ではなく、ただ繰り返すこと、反復することにあるのかもしれない。
 粒来は、繰り返し繰り返し「寓話」の形をとった詩を書く。反復する。その反復という行為だけが「残る」--生き続けるのかもしれない。

 --ということを考えたのは、私か、あるいは粒来か。




粒来哲蔵詩集 (現代詩文庫 第 1期72)
粒来 哲蔵
思潮社
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粒来哲蔵『蛾を吐く』(10)

2011-10-10 23:59:59 | 詩集
粒来哲蔵『蛾を吐く』(10)(思潮社、2011年10月01日発行)

 「寓話」「寓意」というものについて考えるとき、「牛」という作品には、その「寓話」「寓意」というものが見つからない。あるのかもしれないが、私の考えている「寓話」「寓意」とは完全に違っている。
 だからこそ(?)、ここに粒来の大事なものが書かれている--と私は思う。つまり、私にはとうてい考えられないこと、粒来だけの「世界」が書かれている。あまりに「粒来」的すぎて、「たとえ」が「たとえ」にならず、ことばが粒来のなかへ吸収されて行って、外へ出てこないのだ。(と、私は思った。)

 某社の通販カタログで「座敷牛」を見た。おとなしく飼い易いと
ある。注文したら段ボール函に詰めて送られてきた。牛は函を開け
る前から消え入りそうな声で鳴きながら、函を揺さぶる気配だった。
開けてやって掌に載せ、こわごわ畳の上に置いた。すると函の底か
ら靄が立ちのぼり、辺り一面干草の匂いがした。牛は私の沓下を文
机の下に引きずり込んで、それを敷いて寝た。

 「座敷牛」は「座敷犬」のようである。「牛」と書いているのだから「犬」ではないのだが、はじめて家に来た犬のように、靴下をくわえこみ、なにかの下へもぐりこんで寝る(穴蔵のように安全な場所を探して寝る)というのは、犬に似ている--と犬を飼っている私は思う。
 というようなことは、どうでもよくて。
 ようするに、書き出しからは「座敷牛」が私には何の「たとえ」、どんな「寓話」につながっていく存在なのかさっぱりわからない。その「わからない」ということだけを、私は書いておきたい。
 これが「蛾を吐く」だったら、「寓意」はともかく、「蛾」が「血の固まり」であること、喀血されたものであること、と「比喩」(たとえ)とてしはっきりわかる。そして「血」を「蛾」という「たとえ」として書いたときから、「血」が「蛾」のように動き回ること、その「蛾」と「私(粒来--と仮定しておく)」が戦うということが予想できる。そこに「寓話」が成り立つだろうということも、まあ、わかる。私の勘違いにしろ、わかる。(「わかる」というのは、読者にとっては、作者を無視してそこに勝手な「物語」を投影できるということである。だから、間違っていても、ぜんぜん問題はないのだ。--と、私はかってに考えている。)
 この、まったくわからない「座敷牛」が突然変化する。まず、「一匹(一頭?)」だった牛が「二つ」(と、粒来は書いている)になる。母と子牛である。そして、その「二つ」が「某日」、「連れ立って文机の下から這い出して屋外に消えた。」

 後には空の段ボール函が残った。それを傾けて縁先にさし込む日
に曝すと、またしても函の底で動くものの気配があった。牛か--
と思い小躍りしたが、はいはい、ごめんなんしょと小声で呟きなが
ら出て来たのは、しなびた老女だった。最前の牛程の大きさで、物
腰が母と似ていたが母ではなかった。老女は縁側にちょこんと坐っ
て、巾着から極小の急須と湯呑みを取り出し、器用に茶を淹れて飲
みながら庭木の揺れに目をやった。くすんだ銀ぶちの眼鏡の奥で、
細い目がいっそう細くなった。

 「母と似ていたが母ではなかった」と粒来は書いている。これは、とてもおもしろい表現だと思う。そのあとには、きっと「母を思い出した。」ということばが省略されている。「母と似ていたが母ではなかった。だから、(だけれど、)母を思い出した。」この「母」を思い出すために(思い出させるために)、さっきの「座敷牛」がいる。「座敷牛」が子どもを産み、親子になるという関係がある。
 その牛の「親子」が消えたとき、粒来の書いている「私」は、「母」を思い出す。

 思い出した「母」を書くために、粒来は「座敷牛」を書いている。そして、その「座敷牛」から子どもが生まれる(生まれた)と書くのだ。その牛の「親子」はどこかへ消える。そのとき「母」が強く意識される。
 牛の親子が消えたとき、粒来の書く「私」は、牛の子どもを少しも思い浮かべていない。
 これが、この詩の大切なところだと思う。
 思い浮かべるのは「母」につながることがらだけなのだ。
 なぜ、子どもを思い浮かべないかというと、子どもは「私(粒来)」の「寓意」だからである。子どもが何かを思い浮かべるとき、そこに「女」があらわれ、「女」は「母」になる。
 粒来は「母」を書いておきたかったのだ。

 この詩集には何度も「母」が登場する。私は粒来のことを知らないし、粒来と粒来の母の関係も知らない。
 「泡川 Ⅱ」に登場した「母」は川のなかへ消えている。その母の消えたことを、「私」は「手の温みが去って冷気が私の衿をかすめ、袖をかすめた」という記憶と共にもっている。「消える」ことによって、記憶が残っている。
 「消える」と「残る」の矛盾が、そのとき、出会っている。
 その矛盾の延長にあるのだと思うが、この「牛」では、「消えた母」が「母ではない」ということわりつきのなかで、甦っている。

 カタログを仔細に見ると、座敷牛と老女はセットで送られて来た
ものだったが、今になればそんなことはどうでもよかった。牛を載
せた掌に老女を坐らせる日が続いた。老女はこまめに働いて寧日な
かった。老女は私の掌の上でたまに居眠りをした。眼鏡がずり落ち
そうになると、家人がそっと外して巾着に収い入れた。老女の寝息
は牛に似ていた。

 粒来は、ただ、母を書きたかったのだと思った。「寓話」ではなく、「寓話」にはならない「母」、「寓意」をもたない「母」を描きたかったのだと感じた。
 「老女の寝息は牛に似ていた。」というのは、私には、想像がつかないが--いや、これは嘘だ。私が子どものとき、私の家には牛がいたから、想像がつくつかないではなく、肉体でわかってしまって、想像する必要がないのだが、
 あ、こんなにも粒来はいま母を思っているのだと感じると、この作品の「寓意(寓話)」からの逸脱がなんだか胸を熱くする。



粒来 哲蔵
書肆山田
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チャン・イーモウ監督「女と銃と荒野の麺屋」(★★★★)

2011-10-10 22:37:46 | 映画
監督 チャン・イーモウ 出演 ヤン・ニー、ニー・ダーホン、スン・ホンレイ、シャオ・シェンヤン、チェン・イエ

 コーエン兄弟の「ブラッド・シンプル」のリメイク--ということなんだけれど、これ、何? びっくりしてしまうなあ。中国のどこかなのだけれど、とっても変な風景。岩山に赤い模様が入っている。血の色? 荒涼としている。とても人が住んでいないような山の中なのに麺屋があって、どうも商売がなりたっている。(らしい。)道がなぜか広い。--ということは、どうでもよくて。
 いや、岩山の赤い色は、どうでもよくないなあ。見逃したくない。空の色も、空気の色も。
 自然(ロケーション?)は別にしても、おもしろいシーンがいっぱいある。
 警察(騎馬隊)がやってくるとき、パトカーのサイレンのように音が鳴る。旗(?)のところに風車がついていて、それが音を出すのである。道を開けろ、ということらしいけれど、誰もいないじゃないか。必要あるの? わざわざ警察がこれから行くぞ、と「宣伝」している感じだねえ。
 ラーメン(?)をつくるときの生地を皿回しのように回す「名人芸」。この「芸」、いったいストーリーに関係ある? ないですねえ。騎馬隊のサイレンと同じように、何の意味もない。でもね、こういう無意味が映画のいちばんおもしろいところだねえ。皿回し(?)でできた麺、それに熱いスープをかけて、一丁あがり--なんだかわからないけれどおいしそう。
 いいなあ。
 ストーリーというか、全体の話の流れは「観客」だけが知っていて、登場人物はいったい何が起きているかわからないままクライマックスへ突き進んで行くというストーリーの展開と、映画の細部の無意味さが、不思議なくらいにぴったりする。「息が合っている」。まあ、コーエン兄弟の「脚本」が下敷きだから、そうなるのかもしれないけれど。
 悪徳警官が、「現場維持」に目配せするところも、バカみたいでおもしろい。証拠を残したくないというのが「理由」だけれど、くそ丁寧で笑えるねえ。
 紙芝居(?)の登場人物の顔をくりぬいて、そこに人間の顔をあてはめ、芝居をするばかばかしい「夫婦喧嘩」は、びっくりするなあ。だれでも「現実」を「芝居」で確認したいんだねえ--なんて、哲学的(?)なことを考えてしまうなあ、私って、哲学好きかなあ、なんちゃって。
 殺され、死んでいるはずの麺屋の主人が、ご都合主義的に半分生き返ったり、それを利用してユウレイ(幻想)になったり、まあ、なんでもあり、ですね。
 金庫の暗証番号(?)がそろばんになっているのもうれしいねえ。アメリカじゃありえない。
 何もかもが「でたらめ」なんだけれど、映像として完璧。--この矛盾した感じが、ねえ、映画以外の何物でもない。
 あらゆるシーンが、映画、映画、映画、映画、映画という感じ。
 ラストのラスト。
 コーエン兄弟のスタイリッシュな暴力描写が中国の古い時代のもろもののもののなかで「リメイク」される瞬間--いやあ、うれしくなるなあ。吊るした革袋からこぼれる酒(水?)、落ちて砕ける陶器・食器の美しさ。
 これで、
 ここに豪華な音楽が重なれば最高だね。パトカーのサイレンを再現するくらいなのだから、なんとか工夫してほしかったなあ。それがあれば 100点つけてもいいなあ、と思った。


コーエン・ブラザーズ スペシャルBOX [DVD]
クリエーター情報なし
東芝デジタルフロンティア
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粒来哲蔵『蛾を吐く』(9)

2011-10-09 23:59:59 | 詩集
粒来哲蔵『蛾を吐く』(9)(思潮社、2011年10月01日発行)

 「泡川 Ⅱ」には興味深いことばが次々に登場する。

 泡川に落ちる夕陽を見ていると、時折背景が陽と共にずり落ちて
川面に消え失せることがある。勿論その時風景の一部はむしり取ら
れて空白になるが、直ぐ様まるで共通の落度を補うかのようにして、
陽を囲集する風景が慌しく動いて背景を埋め直す。

 1行目の「共に」、3行目の「共通の」。私は、このことばに粒来の「思想」(肉体)を感じた。それはほんとうは書きたくないことば(いつもなら書かずにすませることば)だと思う。しかし、今回はそのことばを書かないことにはことばが動いていかない。しかたなく、しかし、無意識に書いたことばが「共に」と「共通の」である。
 「共(に)」と「共通(の)」は、同じことばである。そして、このことばが動くとき、そこには「共(共通)」を挟んで「ふたつ」のものが存在する。その「ふたつ」が「ひとつ」と「なる」ときが「共(共通)」ということばが動くときである。
 「共(共通)」というのは、「ふたつ」が「ひとつ」になり、「ひとつ」として動く「場」なのである。あるいは「時間」なのである。
 「夕陽」が一方にあり、他方に「背景」がある。それが「共」に「ずり落ちる」という運動をする。その「場」が、ここでは「泡川」と名づけられている。「泡川」の「川面」と呼ばれている。
 ここには、ひとつ、どうすることもできない「矛盾」がある。なぜ「泡川」(その川面)は、「背景」ではないのか。「川面」は夕陽が落ちるときの「背景」にはなりえないのか。
 粒来は、無意識のうちに「泡川」とその「川面」を「夕陽」の「背景」から除外している。それは、このことばが動く瞬間、「私」が除外されていることと、たぶん関係している。

 あるいは、そのとき「私」とは「ことば」そのものであり、「ことば」こそが「ことば」であるという意識から除外されている--ということばが私のなかで瞬間的にひらめくが、ここでは「メモ」の形に留めておくだけにする。

 「共(共通)」に戻る。
 「背景がずり落ちる」を粒来は「背景の一部」が「むしり取られ」「空白」になると書いている。「むしり取られ」は「むしり取る」力と「ひとつ」になってしまうことである。そういう力が働くとき、その力の側から反作用のように動くものがある。「陽を囲集する風景が慌しく動いて」と粒来は書いているが、それは私には「陽」が陽自信のなかから「背景」を吐き出して、という感じに見える。一方で、「陽」そのものへ背景を吸収し、他方で「陽」から背景を吐き出す。そうして、「空白」を埋める。
 「空白」をつくる力が「陽」にあるのなら、「空白」を埋める力も「陽」にある。「二つ」の力は「ひとつ」である。
 --何かしら、そこに書かれていることばを言いなおしてみると(つまり、私なりに考え直そうとすると)、そこには「矛盾」が噴出する。反対の(反作用としての)ことばが動き、度の強い眼鏡を無理矢理かけさせられて見る風景のように、細部がくっきり見えすぎで全体がばらばらになるような、一種の「悪夢」にのみこまれたような感じに襲われる。

 私が見ている(読んでいる)のは、いったい何?

 ひとつひとつことばを追って行っても、たぶん、混乱するだけである。
 だから、私は一気に途中を省略して、次に立ち止まったところまで動いてしまう。「泡川」では夕陽が落ちるのを見ると、それにまきこまれてその人も川に落ちる。二人連れがこの災難に遭って、ひとりが取り残され泣いている--というような「ストーリー」というか「物語」の構造をつくりあげたあとで、粒来は、次のように「ストーリー」を展開する。

 私が戒めを破って陽の入りを見たのは母の懇願によってだった。
母は町の出だから、夕陽と背景のずれはとくと承知していた。

 そして、母と私はどうなるか--ということに、私は実は関心がない。いま引用した部分の2行目の「ずれ」には傍点が打ってある。この傍点を打って強調している「ずれ」。それが最初に見た「共(共通)」に通じることばである。
 「共(共通)」は「同じ」(いっしょ)ということである。ところが「ずれ」は「いっしょではない」ということである。共通ではなく、違い(差異)が「ずれ」である。
 しかし、その差異(ずれ)というものは「共通」があってはじめて存在するものである。「共通」を意識できない人には「ずれ」も意識できない。

 ここから大胆に飛躍すると、「私」と「母」とは別個の存在である。しかし、そのふたりにはふたりを結ぶ「何か」があって、それは「共通」のものである。「共通」するものがふたりを結ぶ。そして、同時にふたりを結んだ瞬間に、そこに「ずれ」を浮かびあがらせる。
 そのとき浮かび上がる「ずれ」というのは、うまくことばにすることができない「矛盾」である。ことばにすると「ずれ」だけが増えつづける「矛盾」である。この「矛盾」を「共通のずれ」と呼ぶことができるし、またその「ずれ」を「矛盾」を「補いあうもの」と呼ぶこともできるかもしれない。

 私がきょう書いている感想は、飛躍が大きくて論理になっていないかもしれないが、まあ、詩の感想だから、こういう一種の「でたらめ」もあっていいのだ。

 この「共/共通」「ずれ」「補う」ということばをひきつれながら動く「物語(ストーリー)」をなんというか。「寓話」という。

 川からさしずめ私が感得したのは、すさまじいまでの寓意であった。

 これは「*」を挟んで続く詩の書き出しの部分だが、「寓意」とは「寓話」のなかの「意味」ということだろう。
 ほんとうは別個の存在が、互いに「共通」のものをみつけ、その「共通」のなかで動くとき、「ずれ」が浮かび上がり、またその「ずれ」を「補い」、修復しながら、世界はどうなるのか。

       私にはその声、が生に先立つ死を予感しつつなおも
両者を超えて執拗に湧出を繰り返す水泡の、泡川の、愚かしくも尊
大な夢の倍音となって聴こえてきた。

 「生」と「死」を結ぶ「共通」は何か。そこにある「ずれ(差異)」は何を誘うか。何で「補え」と誘うのか。--あ、それは、「補う」のではなく、「超越する」(超える)のだ。「倍音」とは「現実」と「寓話」の「和音」の関係である。二つが中央で出会うのではなく、「場」を超越する。出会いを超越する。

 この詩には、あまりにも多くの粒来の思想が同居しているので、どこから整理していっていいかわからない。




粒来 哲蔵
書肆山田
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伊藤悠子『ろうそく町』(2)

2011-10-09 11:07:02 | 詩集
伊藤悠子『ろうそく町』(2)(思潮社、2011年09月30日発行)

 伊藤悠子の作品は、私はある程度こまめに同人誌(雑誌)で読んでいる。この『ろうそくの町』に収められている作品もたいてい読んでいる。--はずである。そして、これは読んだことがあると思いながら読むのだが、どうも昔読んだときの印象と違っている。ただ違うといっても「推敲」によって変わったという感じはしないのである。あるいは私の読み方が変わってしまった、という感じでもない。
 詩集という形になることで、ことばが自由になっている。伸びやかになっている。そう感じるのだ。同人誌(雑誌)に掲載されているときは他人のことばのなかにやっと伊藤の領域を確保しているという感じでことばが動いている。余白にも余裕がない。ところが詩集になると、ことばはひとつの作品のなかで完結するのではなく、なにか未完成なものをたの作品へ譲り渡すという感じでことばが動いていることがわかる。いま、ここで完結しなくてもいい、ことばはいずれ完成するということを伊藤は知っているのかもしれない。
 「貝殻の丘」は縄文人の骨の展示を見たときのことを書いている。

大きな人だ
欠けたところの少ない顎骨が笑っている
かつて人の表情に見たことがある
酷薄と見たものが放心であり
あるいは困惑であったかもしれない
ただの

 人の表情から私たちは何かを読みとる。それは「ただの」勘違いかもしれない。そう語るときの伊藤の「ただの」はぽつんと1行の形でほうりだされている。どこへ帰るべきか--文法的には、私が先に書いたように「酷薄と見たものが放心であり/あるいは困惑であったかもしれない」に帰り、

酷薄と見たものが「ただの」か放心であり
あるいは「ただの」困惑であったかもしれない

 なのかもしれないが、私は、もうひとつ前の「欠けたところの少ない顎骨が笑っている」にまで戻るように思える。その1行には「ただの」が入る位置がない。
 だからこそ。
 というのは論理にはならないのだが、だからこそ、その1行に「ただの」を戻したいのである。返したいのである。
 縄文人の骨、顎の骨が笑っている--ということは、もちろんわからない。人は骨では笑わない。笑いはあくまでも「表情」で笑う。表情に笑いが起きる。「骨が笑っている」というのは「間違い」である。「間違い」であるけれど、そこに「真実」がある。伊藤の「気持ち」がある。「笑っている」と見たい気持ちが無意識に動き、「笑っている」ということばになる。
 その「笑い」はどんな笑い?
 「ただの」笑いである。「意味」はない。
 「ただの放心」「ただの困惑」には「意味」がある。それは「酷薄ではなく」という「意味」である。
 だが、伊藤が見た縄文人の骨の「笑い」は「意味」がない。
 この「無意味」はいいなあ。
 そして、そう思いながら、

酷薄と見たものが放心であり
あるいは困惑であったかもしれない

 にも、「意味」がなければどんなにいいだろう、とも思う。それが「ただの」--つまり、自分とはまったく関係ないものであればどんなにいいだろう、と思う。
 人の顔に見るものは「ただの放心」「ただの困惑」、そして「ただの酷薄」ではありえない。どうしても「私」を含んだ世界とつながっている。切断されていない。つながっている。そのつながり方、「距離感」が、「酷薄」「放心」「困惑」とゆらぐようにして動いて見える。動いて見えるものを見ながら、伊藤も動くわけである。
 もし、それが伊藤と「無距離」(無関係)であったら、無関係(無距離)でありながら、「距離」を超越して、それを理解することができたら、どんなに世界は美しくなるだろう。

縄文の人と私は
窓枠が互いに似かようように似ている

 すべての「距離」は「似ている」ということばのなかに吸収されていく。「窓枠」と書いているのは、展示棚のガラスケースの「枠」のことだろう。展示「棚」を「窓」と思うのは、ガラス越しに伊藤と縄文人の骨が向き合うからだろう。「窓」から外を見るように、伊藤は骨を見ている。そのとき骨はやはり「窓」から外を見るように伊藤を見ていることになる。
 「窓」の外--それは、「私」とは「無関係」の世界である。「無関係」の世界であるけれど、人はそれを「無関係」のままには終わらせない。
 どうしても「交渉」してしまう。そうすると、そこに「ただの」ではない酷薄、放心、困惑があらわれる。 

 「ただの」はどこにもない。
 どこにもないから、伊藤は「ただの」を求めてしまう。そして、あ、あった--「ただの」は「縄文人の骨」にあった。その骨は笑っている。「ただの」笑いを笑っている。伊藤とは無関係な「笑い」を「笑っている」。
 「無関係」なのだけれど--「笑う」という何か基本的な「いのち」の形とはつながっている。純粋に、それぞれが「いきる」、その「いのち」とつながっている。縄文人には縄文人の「笑い」がある。伊藤には伊藤の「笑い」がある。そういうふうに、それぞれが独立していることが「ただの」かもしれない。

 「ただの」は最終連で、とても美しい形であらわれる。

貝塚跡地の丘を登れば
一面貝殻のような
スミレ
タンポポ

 ここには「ただの」は書かれていない。書かれていないのは、それがもう伊藤の「肉体(思想)」になってしまっていて、わざわざ書く必要がないからだ。伊藤にとっては自明のことだからだ。
 私は伊藤ではないので、伊藤の感じていることに近づくために、「ただの」を補って、次のように読むのである。

貝塚跡地の丘を登れば
一面貝殻のような
「ただの」スミレ
「ただの」タンポポ

 スミレ、タンポポは伊藤の思いとは無関係に、無距離に、つまり「絶対・距離」というような感じで、そこに存在する。伊藤の「気持ち(感情・情)」とは無関係に存在する。「情」に配慮しない形で存在する。これを「非情」という。
 伊藤のことばの美しさは、「非情」を知っている、「非情」を「肉体」としてわかっているところにあるのだと思う。

 この「非情」という感覚は、「肉体」としてわかっていても、いつもいつも「自覚」できるものではない。それは、ある瞬間、「唐突」に思い出すものなのである。
 「貝殻の丘」では縄文人の骨を見たとき、それが「唐突」にやってきた。
 この「唐突」ということばをつかった作品に「暗い夜のうちを」がある。

ここは湯のある穴
湯に浸かって外を見上げた
空もまた細く暗い空洞であった
大量の水が目の前の崖を落ちているが
湯とは岩で仕切られていた
滝を模し渓底を模し
岩にやはり景観として植えられている羊歯(しだ)
唐突に
久しいという思いがする
なにかに背負われて
羊歯の生える崖をするすると降りそっと湯に浸かったような
ずいぶんそっとのことであったことがおかしいような

 「唐突」というのは「論理的脈絡もなく」ということである。「論理的脈絡」というのは「頭」が整理することがらである。そして「頭」の整理機能では整えることのできないなにかというものはどこかにあり、それは「わけがわからないまま」、「肉体」が抱え込んでいる。「肉体」で受け止めている。「肉体」はそのことを「覚えている」。
 「頭」ではなく「肉体」が「覚えている」。そのことが「唐突」に思い出される。覚えているから、思い出すことができる。
 「笑う」ということを伊藤の「肉体」は覚えている。だから縄文人の骨を見て「笑い」を思い出す。唐突に。そして、それを「ただの」笑いとしてなつかしく感じる。
 「肉体」が「思い出す」ものは、いつでも、「久しい」という感じといっしょにあらわれる。「久しい」とは、かつてそれを「肉体」が体験したということとつながる。「肉体」が覚えている。「肉体」が覚えていることなので、「頭」で数えられる「時間」では整理できない。縄文人の骨といまの伊藤の骨が呼応するとき、そこに時間はあって、時間はない。計測できる時間はない。「ただの時間」、つまり「考え方」としての時間しかない。それは「過去」と「いま」を切断すると同時に接続する。矛盾を一気に実現する「時間」である。
 「暗い夜のうちを」では、伊藤は「いま」を忘れ(失い)、「久しい」昔に同じように湯に浸ったということを「唐突」に思い出している。その思い出を「肉体」は「覚えている」。でも、「頭」では整理できない。

不思議だ
あと三日したら新幹線あさまに乗って家に帰る
それも不思議に思える
水に打たれる羊歯を湯に浸かり見つめていると
それら一連のことが
そうしていつか
忘れてしまうのだろう
そうしてある日
唐突に
姿を見かけなくなって久しいものが
遠く影を傾け
なつかしさとさびしさの飛沫を浴びせるのだろう

 「肉体」は覚えていて、思い出す。「頭」は、そうすることができない。--それが「不思議」。
 あらゆることが「一連」であると「肉体」は知っている。覚えている。けれど「頭」はそれを「忘れてしまう」。思い出すことができない。けれど、「肉体」は、「ある日/唐突」に思い出す。そうして「なつかしさとさびしさ」を感じるのだ。

 伊藤のことばの底には、「頭」で急いでことばを処理するのではなく、じーっと「肉体」の奥でことばが醗酵(?)してくるのを待っていた人だけがつかみとることができる「なつかしさ/さびしさ」がある。




詩集 道を小道を
伊藤 悠子
ふらんす堂
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